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吉川英治に『宮本武蔵』後半のモチーフを指図した陸軍人は誰だ?

 「シナ事変が自衛戦争であった」ことを戦前の日本政府がまともに説明できなかったのは何故なんでしょうか? これは、統制好き官僚たちの秘密主義が、真の宣伝の足を引っ張り、政府として闊達な主張を打てなくしたのでしょう。日本政府の情報統制によってシナ事変は「日本の侵略」になってしまったのではないかと思います。

 スペシャリストに過ぎぬ日本の官僚はいくら秀才であろうとも「宣伝」にだけは向いていません。否むしろその有能さが途方もなく見当外れな「自虐」の方向へ発揮され、日本人の近代精神をどんどん退行させて行くことがある。その事例は、近年の各政策分野にも見られましょうし、戦前には、かの吉川英治大先生の小説『宮本武蔵』という徒花を産んでいます。

 そもそも日本政府(なかんずく外務省)と日本陸軍のエリート官僚が対外・対内宣伝の必要に目覚めたのは、第一次大戦直後です。国際連盟には常任理事国として加入した、しかし尼港事件では世界の同情が集まらない、国内では普選が実施されて民間人の代議士が軍縮を決めてしまうかもしれない……そんな大正9年に、まず陸軍省内に「新聞班」が設けられました。これは世論工作機関で、今の小泉内閣のスピンドクターの先輩です。

 昭和11年7月、内務省がそれまでずっとしてきたような「検閲」中心の消極的情報統制ではなく、もっとアクティヴな情報操作に乗り出すべく、政府は「内閣情報委員会」を設けます。
 ついで昭和12年9月、つまりシナ事変の勃発を承けまして、この組織が「内閣情報部」に改まる。
 さらにドイツの電撃戦を承け、統制官僚たちのお御輿として発足した第二次近衛内閣は、15年12月にこれを「情報局」に改組。昭和18年7月に「一県一紙」を指導したのも、この情報局です。
 けれどもこれら組織の内部で終始一貫の活躍をしていたのは、やはり陸軍省の旧新聞班の系列だと思います。

 陸軍省新聞班が、キレる人材をしっかり集めていたことは、通州事件の際のエピソードからも窺えるように思います。通州事件というのは昭和12年7月、南京からの謀略放送に対して有効な手を打っていなかった陸軍の特務機関が、陸軍の軽爆の誤爆をきっかけに、飼い犬であった「冀東防共自治政府の保安隊」に寝返られた形で、けっきょく嬰児を含む邦人223名(うち半分は半島人)が虐殺されてしまった大不祥事件です。これに狼狽した支那派遣軍司令部の大佐や中佐たちは、出張してきた陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に対して、間抜けにも、新聞に事件が載らぬようにしてくれ、と注文したといいます。松村は、すぐ近くの北京の外国人が見聞きして既に租界の無線で世界に通報されているはずだからダメだと撥ねつけ、激しい口論となりました。もちろん事件は内地の新聞で派手に報道され、国民の復仇心はかきたてられたのです。

 この、陸軍省新聞班の目立った活動は、満州事変の時から始まっているようです。一冊数十ページ(たまに数百ページ)の冊子の著述刊行でもって、国民に直接訴えようとした。たとえば古本屋のリストから拾えば、こんなタイトルが見つかるでしょう。
 『満州不安の実相』『満州事変に於ける嫩江河畔の戦闘に就て』『米国カリビアン政策と満蒙問題』『満蒙諸懸案に就て』(以上S6刊)。……アメリカもカリブ海で似たようなことやってるだろ、というパンチを繰り出したのでしょうか。
 『満州国の容相 正・続』『満蒙新建設に対する住民の意嚮』(以上S7)。
 『満州事変経過ノ概要』(S8)。
 『躍進日本と列強の重壓』(S9)。そう、この年でした。『國防の本義と其強化の提唱』という有名な「陸軍パンフレット」が日本中の図書館その他に撒かれ、統制好き官僚が文化や経済の領域にまで口を出すようになりましたのは。対国民の宣伝で、個人の「内面」をお上があからさまに指導しようとするんですから、共産党と変わりません。こんなのはまるで逆効果であろうと常識で考えられぬところに、今日までも変わり映えのせぬエリート官僚達の病弊があります。
 『満州国概観』(S10)。この頃には新聞班は、あの田河水泡に「のらくろ」の4コマ・バージョンを描かせて、兵隊向けの軍隊新聞『つわもの』に掲載していたということです。そして朝日新聞では吉川英治の新連載『宮本武蔵』が始まっています。これは「陸パン」とは大違いの顕著な効果がありましたけれども、昭和14年に完結したその効果の方向は「自虐」なのでした。
 『日露戦役の回顧と我等国民の覚悟』『支那共産軍に就いて』『陸軍軍備の充実と其の精神』『共産軍の山西侵入に就いて』(以上S11)。
 『空中国防の趨勢』(S12)。『事変と銃後』『北支経済及資源ニ関スル諸統計資料』(以上S13)。『支那事変下に再び陸軍記念日を迎へて』(S14)。
 あと新聞班の御仕事には「愛国歌」レコードのプロデュースもあります。つまらない歌を、東海林太郎や上原敏にSP版で熱唱させちゃうわけです。この国策音楽と、それから内地と満州の国策映画に関しては、どうも日本の陸軍省をはじめとする宣伝機関はパッとした仕事をしていません。とうぜんクリエイター頼みだったんですけれども、音楽界、映画界には「吉川英治」は居なかったようです。光っていたのは円谷英二の特撮だけでした。
 いや、写真本の『FRONT』(S17に第一号)などは良い仕事をしていたじゃないか──と思われる人がいるかもしれない。でも、量的に太宗を占めた報道写真はどうですか。
 わたくしは月刊『戦車マガジン』で毎月100点以上の写真をセレクトしていたことがあって、そのときあることに気付きました。シナ事変の初期の報道写真にはあまり修正の跡がありません。ところが事変が長引くことがハッキリした昭和13年から、戦車の大砲や機関銃がしばしば修正で消されてしまうようになったんです。これなど、まったく意味のない検閲です。情報の何が大事で何が大事でないかが、担当者に分かっていないと直感できました。この検閲をやっていたのも陸軍省の新聞班ですけども、組織の人数を増やしたことで却って宣伝下手になったのです。官僚化して「守り」に入ってしまったわけです。

 昭和13年7月に内閣情報部(内務省・外務省・陸軍省・海軍省から出向)は、軽薄なる日本国民が敵軍を軽くみて戦局や時局を楽観せぬよういましめること、かつまた国民には「長期持久」「堅忍不抜」の態度を植えつけていくこと、そして今のこの難局さえ突破すれば前途に光明がもたらされるんだと信じさせること、等の「新聞指導要領」をとりきめます。

 たちまちピンと来た人もいるのではないですか。これって、まるっきり吉川英治の新聞連載小説『宮本武蔵』の後半部、巌流島までのライトモチーフになってるのですよ。

 ではクロニクルを確認しましょう。
 吉川英治の『宮本武蔵』は、昭和10年8月23日から朝日新聞の夕刊の連載小説としてスタート。当初の著者の構想では全200回くらいの分量で、巌流島のラストシーンは早々に決めていたんだそうです。ところが新聞社の懇望によって、結局1013回もの大河小説になってしまう。こんな強引なリクエストに応えることのできた小説家の力量は、もう超人というしかないですよね。
 この間には休載期間が挟まっております。すなわち「風の巻」が終わった翌日の昭和12年5月21日から、「空の巻」が始まる前日の昭和12年12月31日までです。ちょうど折から、シナ事変が勃発し、蒋介石の首都南京も陥落した。しかし事変は決着しません。吉川英治は毎日新聞特派員として現地取材もさせられました。
 そして「円明の巻」の最終回が昭和14年7月11日に掲載されて、ついに大河小説は大団円になるんですけれども、なんと吉川英治は昭和13年にも「ペン部隊」として漢口作戦に従軍させられてるんです。「ペン部隊」というのはドイツのPK部隊に菊池寛がヒントを得たものでした。こうしたシナ体験が吉川版『三国志』に結実するんですね。後の話ですけど。
 ちょうどこの頃、新聞社には大きな事件がありました。昭和13年6月から「用紙統制」の脅しが始まっていたんです。それ以後、もう新聞は隅から隅まで、政府には決して盾つけなくなった。
 朝日新聞社は、昭和13年もしくは14年に、内閣情報部の陸軍人から「『宮本武蔵』の後半はこういうテイスト、展開にしなさい」と具体的詳細に指図をされ、それを小説の担当者がしかと承り、作者である吉川英治に巧みに取り次いでいたのではあるまいか。そして真面目な愛国者の吉川さんは体重を8kgも減らしつつ、それに見事に応えたのではなかったか──と、わたくしは疑います。

 ただし実際にはシナ事変はシナ側の侵略だったのですから、陸軍は事実を自由に調べさせて世界に明らかにしつつ、自衛の戦争と宣伝とをしぶとく展開していけばよかったんです。
 吉川英治氏に書かせる小説も、もっと他にふさわしい題材があった筈ですね。
 近代以前の禅に沈潜して己れ一人の決死の覚悟で局面を打開──。そんな求道的剣豪の謂わば自業自得と、近代的国際通義に立脚すべき現代の日本国を重ねられてはたまったものではないのです。この小説の直接の影響で多くの日本軍人が「政治」について思考停止しました。

 もし昭和前期にシナに関する調査や取材を陸軍が妨害・統制することがなければ、あの昭和15年の斎藤隆夫衆議院議員の寝惚けた質問演説なども、決してあり得なかったことでしょう。

『洗心』を読む

 中央乃木会がわざわざご親切から機関誌『洗心』(1、3、7月の年3回発行される)の最新号(平成17年1月刊 vol.146)を陋宅に恵与くださり、桑原嶽氏が昨年10月に逝去されていたことを迂闊にも初めて承知いたしました。謹んでお悔やみ申し上げます。
 平成2年の桑原氏の『名将 乃木希典』は、現在も第四版が中央乃木会から発行されているようです。陸士52期の桑原氏といえども、中央乃木会以外の版元からアンチ司馬遼太郎の言説を世に問うことは難しかったのですね。事情は今日なお大して違いません。
 桑原氏はその最晩年まで矍鑠として、「乃木は愚将」の俗論をただす健筆を揮われていたご様子です。NHKの「別枠大河」の出来を見届けることができなかったのはさぞお心残りでしたろう。というのはもう出版界は「ポーツマス条約百周年」の今年よりも、『坂の上の雲』の放映開始年に完全に照準を合わせて、今年以上に数多くの日露戦争モノの企画を進行させているところだと推定されるからです。
 じつはわたくしもそういった企画──ただし発売はたぶん今年中です──に一枚噛ませて貰っておりまして、その調査などで今たいへんです。桑原氏はじめ『洗心』の寄稿者の先生方には及びもつきませんけれども、ボウフラのように沸いてくる反日学徒がグラムシ浸透戦術を使って日本の歴史と日本の政治をねじまげんと策動しているのを黙って見てばかりはいられません。わたくしなりに微力を尽くそうと思っております。

 ところでたまたま同梱されてきました『洗心』138号に、佐竹義宣氏による興味深い記事を発見しました。乃木希典の若きみぎり、萩→長府間、片道18里(72km)を2日で往復(なか一泊)したというエピソードがあるんですが、これは 有り得たというのです。佐竹氏の曾祖母が幕末に「足の親指の付け根の膨らみで歩くつもりで歩けば一日歩いても疲れない」と父母から教えられたのだそうで、それに乃木大将の長靴の踵の拡大写真が添えてある。これが明らかに「水平に」磨り減っているんです。さらに、庶民も昔は「足半」という踵なし草履を用いていた、と。……いや、この踵の写真の話はずっと以前にもどこかで読んだような気もするんですが、すっかり忘れておりましたのを改めて再認識しました。
 「オシャレな乃木さんだから、靴屋に踵だけ新品に交換させていたんじゃないか」……といった突っ込みは控えておきます。高取正男氏はじめ、近世以前の日本人の歩行術について研究されている人々は、この乃木の乗馬靴の踵について何かコメントしておられるのかどうか、まずそれを承りたいものです。どなたかお詳しい方が居られましたならまたご投稿を願います。(白旗伝単についてお知らせ下すった方、どうも有難うございました。最も知りたかったことが貴男のおかげでようやく確認できました。)

 西洋の兵隊のパレードのように踵で地面をドンと踏まずに、足裏の「蹴りだし」のみを接地して長距離を歩くことは果たしてできるのでしょうか? 私見ですが、「空荷」だったらそれは可能でしょう。
 じつはわたくしは小学生高学年のとき、ある野球マンガ(もしかしてちばあきお?)の中に「大リーグの選手は脚力を鍛えるために立っている時も決して踵は地に着けない」と紹介されていたのに勝手に感動しまして、それを何年間か実践していたことがあるのです。自宅から小学校までだいたい1キロ強の道のりでしたが、その行きも帰りも爪先立ちで歩き通しました。校内でも自宅でも立っているときは爪先立ちです。その結果、中学三年くらいまで「お前は歩き方がヒョコヒョコして変」「いつも前傾姿勢で下を見て歩いているがカネでも落としたのか」と人から心配された代わりに、跳躍力はたしかに鍛えられました。走り高跳びは自分でビックリという感じです。しかし重い荷を負うての遠足や登山に、このスタイルは無理がありました。(あるいは爪先だけでなく、膝をやわらかく使えば良かったのかもしれませんが…。)
 昔のアメリカ・インディアンも名うての「遠足名人」で、尻の使い方が独特だったんだそうです。しかし何人であれ、軍隊並に重い荷物を持っていたら、やはり軍隊式の歩き方しかできないんじゃないでしょうか? つまり、近代以前の日本人の独特の連続長距離歩行は、本人が空荷に近かったときのみ、可能だったのではないかとわたくしは疑っております。
 これにつきましてはボランティアで物好きな人体実験をやる人が増えてサンプルが集積されるのを期待しましょう。

「島流し」におふざけの意味はないのです

 近頃立て続いております、反社会的な殺人事件、ならびにその裁判についてご不満のある方は、わたくしが1998年に『新潮45』の7月号に載っけておりますところの「江戸時代の島流し」再評価論文をご一読くださると、これから日本の「社会防衛」が目指すべき方向がしっかりと見えてくるだろうと思います。

 当該拙文ですが、これは単行本には収められておりません。ですから、みなさんは、お近くの大学図書館や国会図書館などで、古雑誌を検索して閲読をしてくださらなければなりますまい。
 けれども、わたくしの知る限り、社会防衛に関してこの論文を超えたものはまだ書かれていませんから、お手間を取らせるだけの価値はございます──と、ここで威張っておきましょう。

 わたくし自身、細かい論立てやテクニカルターム、列挙した歴史上の事例の数々についてはもう忘れてしまったんですが、内容の要点はこんなことです。

一、社会防衛のためには「絶対不定期の社会隔離刑」が必要である。更生などあり得ない罪人は昔からいた。また、遺族もコミュニティも二度とその罪人の地域徘徊を望まぬケースも、昔からあった。

二、ところが現代日本の司法にはそれがない。「無期懲役」がしばしば宥免されて事実上の有期刑になってしまう(裁判官の当たり外れにより、同類の罪状なのに死刑にされる犯人もいるから、著しく法の下の平等に反している憲法違反状態)。それゆえ日本で罪人を社会から永久に隔離するためには「死刑」判決しかない。「死刑」の既決囚となることで、初めて日本の罪人は「絶対不定期の社会隔離」に処されることになるのである。しかし死刑判決は気軽に出せないから、結果として 日本社会は、キチガイ犯罪者の天国になりつつある。

三、江戸時代はそうではなかった。各藩は犯人を気軽に死刑に処して治安を維持した。かたや江戸幕府は大都会の江戸市中の多くの犯罪に極刑を濫用していない。それは八丈島を代名詞とする伊豆諸島への「島流し」という、すこぶる合理的な「絶対不定期刑」が採用できたおかげであった。この刑罰のおかげで、江戸市中のコミュニティは死刑に依存せずしてキチガイから「社会防衛」されていた。

四、二十数年の年月が経過すれば、伊豆諸島の流人も赦免される場合があった。ただしそれには必須条件があった。地域コミュニティの代表や、殺された被害者の遺族からの、赦免の「嘆願書」が、奉行所に提出されていることである。これが揃わない罪人は、社会が永久に復帰を望まない者として、そのまま島で朽ち果てねばならなかった。つまり、江戸町奉行はいったん「絶対不定期刑」を申し渡すのだが、島流しに関しては、地域コミュニティもまた、量刑(刑期)を監視し、リアルタイムで左右できたのである。

 ……この論文の正確なタイトルは「一億総キチガイ時代のナイスな刑罰『島流し』」といいます。(今の編集長の中瀬ゆかりさんが考えて付けてくれたのだと思います。)
 本文中にも「キチガイ」という単語を数回使っています。当時わたくしは東京都内に暮らしていて、本当にこの町はキチガイだらけだな、と思いはじめていましたから、このタイトルには納得しています。
 ただ、このタイトルに「おふざけ」の印象がありますため、キチガイ犯罪者に関する社会防衛をまじめに考えている人たちに敬遠されてしまっているとしたら、残念なことです。
 あれから6年、日本は東京に限らずますますキチガイだらけとなりつつありますけれども、狭き門の弁護士資格の上にあぐらをかきたい法曹界の先生方は、キチガイ対策を真剣に考えてくれているんでしょうか? 「陪審制」などの前にやることがたくさんあるのではないでしょうか。

 かつて徴兵制があった頃も、じつは日本人の戸籍簿には「刑罰履歴」は記載されてはいませんでした。免許証のイメージから誤解があるかもしれませんが、「前科」は公式には戸籍に残らないんです。しかし軍隊は、かつての重罪人を兵隊にとらぬ方針ですから、村役場の戸籍係だけは、住民の誰が元重罪人であるのかを把握していなければなりませんでした。そのために戸籍とはまったく別の秘密ファイルがあって、それは村役場のみの部内資料として厳重保管されていました。
 これをデジタル方式で復活させようというのが「ミーガン法」でしょうか。
 しかし、そんなファジィな情報管理よりも、近代以前の江戸幕府による物理的な「島流し」の方が、ずっと叡智に富んでいたぞと、わたくしは現在も主張します。(江戸時代には諸藩による領民の遠島刑が別にありましたが、それはかなりムチャクチャないいかげんなものでしたので、混同しないでくださいね。)

「敵国恐怖病」のワクチンは「戯画化」なのだが……

 わたくしが小6か中1で読んだ最初の「ナチ文献」は、確か「サンケイ・第二次世界大戦ブックス」の初期シリーズに入っていた『ヒトラー』(ウロ覚え)でした。このシリーズ、後から気付いたのですが、えらい大幅な「抄訳」でした。当時は写真点数の多さで、まず多数の読書家を啓蒙していく必要があったのだろうと思います。
 先に『1960』の紹介でも触れましたように、まだ昭和40年代ですと、無知ゆえのナチス礼賛者は日本の若い人の中に少なくありませんでした。なんと90年代アニメの「ガンダム」でも、まだずいぶんナチ色豊かだったでしょう。あれとかアニメ版の「宇宙戦艦ヤマト」を制作していたオッサン世代が、要するに啓蒙され損なった最後の「無知世代」なわけです。──「な〜に結末で主人公を特攻させて殺してしまえば、その前のいろんなチープな戦争シーンも免罪され、PTAからの攻撃を免れるだろう」と腹の中で計算していた団塊の精神がよく表れていたなと思います。

 で、その抄訳『ヒトラー』なんですけども、この原作、「ヒトラーは貧乏学生時代にウィーンでユダヤ人娼婦から梅毒をうつされ、それでユダヤ人を憎み、脳みそもスピロヘータにやられていた」との新説を唱えまして、発表当時は世人の耳をそばだたしめたイギリス人の(これもウロ覚え)ノンフィクションでした。
 その著者の目的意識は、ヒトラーを要所々々で滑稽に紹介することで、それを読んでいる英国人に「悪魔的偶像」に対する気持ちの余裕を与え、現今の欧州大陸諸国に対する精神的な優位を強化せしめる、というところにあったように兵頭は思います。

 なぜそんなことをする必要があるのか? それは、英国の知的エリートの義務だからですよ。
 そういう活動を継続的にやらないでいれば、近未来の欧州大陸に「第二のヒトラー体制」が登場した暁に、英国の有権者は「恐怖」を感じてしまうでしょう。国民大衆が、対岸の強敵と敢然と抗争する気概を示すことができずに、最悪の場合、敵国に宥和的なスパイ的な首相候補を支持するようになるかもしれません。
 そういう民主主義の自殺にも等しい事態を予防していくためには、過去の恐ろしい強敵をコケにし続ける国内宣伝活動が、国家の指導者層に属する表現者としては最低限、必要なんです。
 この逆のことをやっているのが、戦後日本の原爆教育であることはいうまでもありません。

 ナチス・ドイツが、フォークランドのアルゼンチン軍のような鎧袖一触の弱敵であったのならば、なにも戦後の英国人として、馬鹿にし続ける必要などないでしょう。
 戦前のドイツは真に強敵だったし国民はヒトラーに大いに恐怖を感じたという事実があったればこそ、その歴史的なヒトラーの権威を英国の教育宣伝担当者たちはあくまでも剥ぎ取らねばならないのです。
 戦後、西ドイツの復興の勢いは驚異的なものでしたし、フランスの指導者は「反英国」を剥き出しにしていた。ソ連は中欧のどこに進出するか分かりませんでした。
 斯様な次第で、かつての敗者ドイツに対する戦後英国政府主導の「叩き」は引き続き、執拗です。
 しかしこれは何も「対ドイツ」だけに限ることではないので、「ドイツ叩き」の前には「オランダ叩き」がありました。
 英語には「ダッチ××」という、オランダ人を無闇に馬鹿にしたような俗語表現が多いのですけれども、これは、かつて英国人がオランダと互角のきわどい大戦争を戦わねばならなかった歴史の遺産だと言われます。一度はテムズ河口までオランダ艦隊に攻め寄せられながらも、かろうじて英軍は持ちこたえ、最後にやっと強敵を蹴落とした。その折の恐怖の裏返しが「ダッチ××」という軽口として今も受け継がれているわけです。
 もちろん、ナポレオンやフランス人を茶化す表現活動も、とっくに英人の伝等芸風になっています。シンガポール陥落から戦後しばらくの期間は、日本人もまた徹底的に戯画化されていました。さらにまた近隣憎悪という点では、アイルランド人を馬鹿にした小噺は、質・量ともにものすごいものです。アイルランド系のケネディが米国大統領になったときの英国人の恐怖は、いかばかりだったでしょうか。(じっさいに「スカイボルト」の米英共同開発プロジェクト破棄という大うっちゃりを、英国政府は喰らわされました。)

 ドイツを占領した米軍がドイツ人の街を見て感心したのは、そのインフラの整い方が、英国の田舎よりは米国の都市にはるかに近いぞということだったそうです。
 また、植民地に不足していた戦前のドイツからは、大量の移民が米国へ流出しています。おかげで米軍の高級将官でドイツ系の姓は珍しくありません。そして彼らは英国軍よりは余裕をもってドイツと戦い、圧勝できた。
 そのゆえか、戦後の米国政府は、英国政府とは異なり、反独宣伝をすぐにやめてしまいます。米国映画の中で「ソ連共産主義者のイメージ」をドイツ人役に担わせることは一般にありましたけれども、「ナチでないドイツ軍将校」は等身大の人間として扱われたように見えます。
 たとえば、朝鮮戦争後の反共精神が生んだと説明されている往年のテレビ映画シリーズ『コンバット』では、ドイツ兵が驚くほど格好良く描かれていました。あれを視て「ナチ軍装マニア」になった米国少年も少なくないでしょう(それがまた野放しであるのもヨーロッパとの大きな違いでしょうか)。

 外敵(独&日)との戦いのために、いまや戦友である南部人を差別するのはやめよう、という国内向けの宣伝教育が、あの大作『風とともに去りぬ』です。そして、これからはソ連との戦いだ、俺たちは西ドイツ人を守るぞ、というキャンペーンが、戦後の英米のいくつかの戦争映画には微妙に埋め込まれています(たとえば『レマゲン鉄橋』や『大脱走』におけるSS/ゲシュタポと国防軍の描き分け)。
 真に劇的な変化は80年代以降の戦争映画にあらわれ、もはや戯画化されたドイツ軍キャラの方が珍しくなってしまいました。それでも、米英合作の『遠すぎた橋』を観て、そうしたトーンの変化にあらためて感慨を抱いた人も多かったのではないでしょうか。ただし、敵が弱いと葛藤ドラマとしては弱くなりますもので、『遠すぎた橋』は戦車マニア以外には大不評。興業的に大失敗しました。

 タブーが無いように見える表現世界にも、厳然とタブーはあります。米英のどちらの映画界にも、ヒトラー個人を一人のキャラクターとして存分に描いた作品は、例外的にしか存在しないでしょう。大衆向けの映画のキャラクターとすることにより、「悪魔の偶像」が復活することを、やはり英米人は恐れているのです。

 日本でもそろそろ、シナ事変の戦争映画が制作される必要があるでしょうね。わたくしはいつでもそのシナリオを提供できます。

摘録と偶懐----太田昌克著『盟約の闇──「核の傘」と日米同盟』04-8

 この本は「チャンネル桜」の収録翌日に東京の本屋で見つけて買ってきました。本の背中の「太田昌…」という著者名から、「前の沖縄県知事(昌秀氏)がこんなものを書いてるのだ」と錯覚し、読むのが遅くなりました。
 著者は1968年富山県生まれ。早大政経で米ソ冷戦に興味を持ったが、共同通信社に入社するや、いきなり広島支局に配属されている。※つまり「再教育OJTの要あり」と思われたかな?
 巻末年表は示唆に富む。※1957-8にソ連が米本土に届くICBMに成功すると、日本に関して対ソの「核の傘」は怪しくなった。そこで米は60-7に水中発射に成功したポラリス(まだ射程1850km)を搭載したSSBNを日本に寄港させることで日本防衛とソ連包囲の意思表示をしようとする。その前準備として、61-6に訪米した池田総理に随行した小坂善太郎外相に対し、ラスク国務長官がSSN(攻撃型原潜)の寄港を打診した。
 ついで63-1にライシャワー駐日大使がSSNの寄港を正式に申し入れ。
 ところが60年安保の再来を厭うた「低姿勢」池田は、3月の国会で野党に応じて、核弾頭を装備しているポラリス原潜(この時点で射程4630km)の寄港を断る旨、表明してしまった。
 シナが核爆発させた直後の64-11-12にやっとSSN「シードラゴン」の佐世保入港が果たされる。しかし肝腎のSSBNの寄港は実現することはなかった。

 61年にナイキ・ハーキュリーズ(核弾頭装着可)を導入決定するときに日本の核アレルギー輿論が騒いで、防衛庁は手を焼いた。このような輿論のため、核ミサイルを装備しない攻撃型原潜の寄港すら難題だった。
 通常弾頭だけのナイキ・アジャックスは62年から自衛隊に供与されている。67年の閣議決定は、非核弾頭のみに改造したものを導入する、とせねばならなかった。


 ライシャワーに次ぐ大使館ナンバー2のエマーソンは、戦中は中共へ連絡員として派遣され日共の幹部とも接触していた。そしてGHQでも日共とのリエゾンをとっていた。
 シナ版ロスアラモス研である「北京核兵器研究所」は58年の第二台湾海峡危機後に設立された。
 鉄道王ハリマンの息子はWWII中に駐ソ特命全権大使で、ケネディ政権下では国務省の役人でありながら大統領に直接書簡を送ることができた民主党の重鎮。
 63-1には次官としてソ連と核実験禁止条約の交渉を進めていたが、席上ソ連側から、米ソが共同でシナの核施設を先制破壊しようじゃないかと持ちかけられ、その感触を大統領に伝達した。ケネディはこれを真剣に検討し、暗殺される直前には、蒋経国やCIAもまじえてそれを実施する計画をいろいろ検討していた。※暗殺理由はどうみても核外交絡みでしょう。

 62-3時点で日本本土には核爆弾は置かれていない。ただし三沢に関しては57〜68年の間、「コア」抜きの投下水爆が貯蔵されていたと今では判明している。
 核爆弾は、沖縄に1000発あり、これを24時間待機のC-130×11機で本土の空軍基地に輸送し、板付のF-100×26機、ヨコタのB-57×36機、三沢のF-100×25機に搭載して、大陸を攻撃する手筈になっていた。専用のC-130は「ハイギア」と名づけられていた。
 デフコン2となり、水爆積んだハイギアが嘉手納から板付まで飛ぶのに1時間50分、ヨコタまでは3時間10分、三沢までは4時間15分。プラス2時間弱で、それぞれ出撃可能になった。
 三沢の場合は、水爆全体ではなく、コアだけ運ぶわけである。他の基地もそうであったのかどうかは不明。
 54年にシナが金門島を砲撃してから、65年までの間、本土の米空軍基地にコア抜きの水爆が貯蔵されたと、今では判明している。※その基地名は不明だが、距離から言って板付(福岡)か?
 1958頃に水爆の安全装置の改良が進み、コアを分離しておかずとも、事故で核分裂が起きる可能性はゼロになった。
 米国は核兵器の所在について否定も肯定もしない:Neither Confirm Nor Deny.

 西独では議会が認める3年前の1955から米軍の核兵器搬入が実施されていた。首相は知らぬこととし、問題になったら部下閣僚のせいにするつもりであった。57-12にジュピターとソーを西独内に配備しようとNATOが話し合ったところ、西独にはまったく発射権も発射拒否権も無いものだから西独輿論は8割が反発した。しかし西独議会は58年にそれを許容する決議。
 ケネディ政権時代には射程1000kmのSSMパーシング-1が「ツー・キー」システムで配備されている。その安全装置は62年に開発されたもので電子暗号を入力する。
 また、西独の核武装を押し止めるため、米人司令官の麾下、NATOの多国籍クルーが乗り込んだポラリス原潜を共同で運用しようじゃないかとも提案したが関係国にまったく不評で、ジョンソン政権はこの案を捨てた。

 フランスがミラージュ核報復機を配備し、西独にメイス巡航ミサイルが配備され、シナも核武装にスパートをかけていた59-7に、赤城宗徳長官が北部方面隊視察のついでに「赤城構想」を発表。6年かけて防衛費を倍増させること、核弾頭装着可能な「ボマーク」を導入するなどの内容。社会党が反発して棚上げに。※廃止後のいまでも弾頭重量が公表されていない「30型ロケット」(日本版オネストジョン)とも符号しよう。オネストジョンと核ファルコンは同じ小型弾頭を用いた。
 しかし高度成長の入り口で隊員増は給与面でかなり難しいと見込まれた。また池田政権は韓国との国交正常化交渉で「植民地時代の賠償に代る巨額の対韓経済援助」を求められており、それを実施するとすれば防衛費増額の余地はさらになかった。

 シナの原爆保有が間もなく確実という62年に日本の輿論を観察した国務省極東局は驚く。池田内閣は防衛費の対GNP比を増やす気配がなく、アメリカとともにアジアの地域防衛に貢献しようというそぶりもなく、核兵器開発も、米軍の核持ち込ませも、嫌がっていたから。ケネディ政権は、日本を「最も核武装化しそうにない国」と評価する。
 ライシャワーは、池田が、シナがやるのは核実験だけで核戦力は持つまいと思い込んでいる、と本国にリポート。国防総省から衛星写真を持った高官がじかに説明に乗り込んだようだが池田は真面目に相手にしなかった。※池田には核戦争リテラシーが無かった。
 66年赴任の駐日大使ジョンソンも、日本人がシナに親近感のみ抱き、その核武装を自国への脅威と捉えていないことに呆れた。※前に紹介した沢木耕太郎氏のノンフィクションなどを読めばその当時の空気が分かる。岸-佐藤-福田ライン以外は全員、中共との国交こそが手柄になり儲けにもなると狂奔していた。もちろん野党も。
 そこでしかたなく62年から岩国沖数マイルに海兵隊のLSTが核爆弾の浮かぶ貯蔵庫として68年頃まで置かれた。しかしライシャワー大使は66年までそれを知らなかった。この経緯は81年に公になった。

 ルメーが空軍参謀長としてペンタゴンの重鎮であった1962時点でペンタゴン内には日本の核武装を進めたい理想論があった。
 ルメイはROTC? ロンドンからB17によるドイツ爆撃を指揮。ついでグァムからB29による日本爆撃を指揮。ベルリン空輸を指揮。61年に空軍参謀総長。63年にキューバ危機で強硬論。65年に退役。68年に独立党のウォラス候補の副大統領候補になる。いつも対ソ・対支の全面核戦争を考えていた。※だから日本の核武装も許せということになる。だから日本は勲章を与えた。
 しかしジョンソン政権は、64年のシナの核実験以降、核不拡散の大方針を固めてしまった。※核抜きの沖縄返還が決まった69年時点でも米軍は日本の核武装を望んでいたという人がいるが本当だろうか。対支核抑止の機会は64年10月に去ったのではないか。つまり国防方針とは近未来の脅威に間に合うように策定すべきであるのに、シナ人の政治に盲目たりし池田勇人ら当時の吉田学校の腰抜け達がこぞってそれをサボったのである。

 60年代に日本に寄港していた米空母の主任務は対シナの核爆撃であった。68-1に「エンタープライズ」が佐世保に初寄港。※67のシナ水爆実験を承けた対北京メッセージであるが愚かな大衆はそれを解せず、ベトナム反戦運動の一環として北京に使嗾されるままにこれに反対した。
 72年にニクソンが横須賀を通常動力空母「ミッドウェー」の母港にしろと要求。その理由として、これは「核の傘」だと。
 ※米支国交回復交渉は、71年春の「ピンポン外交」で急に始まったのではない。それは表向きの宣伝である。まず69年1月のニクソン政権の登場を、周恩来は「対ソ防衛」と「アジア征服」の見地から是非に利用せねばならないと考えた。シナによる70年4月の人工衛星打ち上げは、ICBMポテンシャルの強調であって、ズバリ、米国に北京との国交交渉を迫るサインであった。米支の裏交渉はおそらく70年から始まった(その経過は日本の輿論を考慮してまだ公表されていない。愚かな大衆と役人と研究者は71年以後の公表部分が歴史のすべてと思い込んでくれているが)。中曽根が70年9月に訪米し、「シナの核ミサイルは日本にとって脅威だから、日本本土に米軍の核を置き、核の傘を維持してくれ」と頼んでいたにも関わらず、71年春、ヨコタ基地の核攻撃用のF-4はすべて沖縄と米本土に移されてしまった。つまり71年実戦配備の日本向けIRBM「東風3」が東京に撃ち込まれたとき、米軍の核攻撃部隊が核攻撃されたのと同じことになり米支核戦争の引き金が自動的に引かれるという意味でいちばん堅確なスタイルの「核の傘」は、この時、撤去された。それこそがキッシンジャーの初回北京訪問の前提になる「前交渉」の焦点だった。米国はまず「手土産」を整えたのである。周恩来はこの米国の譲歩事実を示すことにより、毛沢東および人民解放軍内の強硬派を説得できたのに違いない。72年の『ミッドウェー』の寄港要求は、ペンタゴンとしてはキッシンジャー一派の対支宥和に全く反対であったことを示す。

 SIOPはICBMと有翼空軍と潜水艦ミサイルと空母攻撃機の核を統一してターゲット分配を決めたもので、陸軍の核弾頭は無関係だった。
 このSIOPの標的としてレーガン政権のピーク時には東側の16000箇所がリストにあったが、冷戦後、半減。シナは82年に対象から外されたものの99年から再び対象になっている。つまりレーガン政権が対ソ集中のために外した。

 国務省のロバート・ジョンソンは63-10に文書をまとめた。すなわち、シナの核兵器はシナ大陸への「直接攻撃に対する抑止力となる」こと。「米国の助力を求める周辺国の動きを食い止め、アジア諸国と西側諸国の分断が図れる」こと、また、シナの軍事的脅威をアジア諸国が認知すれば、アジアに核戦争をもたらすのは米国の核だとシナが宣伝することが可能になること。そこで米国としては、アイク政権のように過度に核兵器に依存すればシナ宣伝の思うツボであるから、アジアの通常戦力を削減してはならず、アジア人の目に見えない形で北京に核戦力をつきつけなければならない。具体的にはSLBM原潜をシナの核実験前に太平洋に配備せよ。そしてIRBMはアジアには配備するな。また米ソ間の部分核実験禁止条約を宣伝してシナを国際世論から孤立させることだ──と。

 64年6月の国務省のペーパーは、シナの核武装を予期しつつも、日本に対する「核の傘」は「海上型核抑止力」の日本港湾の利用によるのが望ましい、などと書いている。※つまりトリップ・ワイヤーを避けてフリーハンドを確保できればよいというもので、まさに「抑止にならぬ」勝手な関与政策である。
 さらに同ペーパーは、東大のミュー3型ロケットについて、これはミニットマンICBMと同格のものであり、今すぐミサイル転用を決意すれば69年に実用化すると見積もった。※その発展型のミュー5型は、日本政府みずからの手でいまや完全に潰された。
 ご丁寧にも詳細なコスト計算までしてくれていた(p.218)。日本がミュー型を改造した核搭載の弾道弾×100基を75年までに揃えるのに、毎年GNPの0.5%、つまり数百億円で済む、と。

 奄美大島は講和発効2年後の53-12に早々と返還されていた。トカラ列島以北は米国の信託統治の範囲に含まれなかった。※要するに奄美大島には旧海軍の泊地があって、ホワイト・フリートの横浜訪問のときもそこから邀撃する計画であったので、米海軍としてはどうしても押さえておきたかったのである。
 64年に佐藤栄作が自民党総裁になるときの公約が「沖縄本土復帰実現」だった。佐藤が首相として初めて表立って小笠原の返還を求め、それはまず68年に実現された。沖縄返還を6年以内にするという日米の基本合意は67末である。
 小笠原の潜在主権は沖縄と同様、もともとサンフランシスコ講和条約に明記されていた。そしてその前に戦時中の「大西洋憲章」が領土不拡大原則を打ち出しているので、国務省も早く返せと米軍に求めていた。米海軍の巡航ミサイル「レギュラス」は、浮上潜水艦からのみならず、空母や巡洋艦からも発射できた。この核ミサイルの貯蔵も小笠原にしていた。米海軍は父島の二見港が潜水艦基地になると考えていた。※二見港は狭いので、原潜登場により価値が下がった。海自の潜水艦はときどき立ち寄るようである。
 米空軍にとっては、グァムからシナをB52で爆撃する際に、予備滑走路を別の島に確保しておきたかった。核爆弾貯蔵も分散しておきたかった。

 三木は佐藤後の総理の地位を狙っており、そのさいに「かつて米国に核の問題で譲歩した」と政敵に攻撃されることを嫌い、「持ち込み密約」に抵抗した。密約は必ずリークされると信じていた。そのためついに佐藤は三木外相を外し、密使の若泉敬に「核抜き本土並み返還・ただし有事の持ち込みはご自由に」の線でジョンソンおよびニクソン大統領と話をつけさせた。若泉は晩年の94年にこの話をオーブンにする。
 ※米政権が、議会に対する説明責任から、密約であっても正式な交換公文とするように求めるのに対し、60年代の日本の政権は、密約は必ず誰かから漏れ、それがマスコミや野党や政敵に政権攻撃の武器を渡すことになるのだとほとんど確信しており、文書化はもちろん口約束すら回避しようとした。つまり日本の議会はおろか、内閣、首相官邸内にすら「秘密漏洩」を罰するメカニズムが存在しないのである。これでは政治のリーダーシップなどあり得ず、選挙で責任をとらない官僚が独走したくなるのは自然だ。そして80年代以降、狡猾なシナは、この官僚どもを裏からコントロールしてしまえば、選挙とは無関係に国会、内閣、官邸を操れることを悟ったのであろう。

 ウォルト・ロストウは独自の理論をもつ頭の良すぎる経済学者であった。彼のすばらしい理論によれば南ベトナムはもう少しで「離陸」でき、近代工業国の仲間入りができることになっていた。それゆえ、60年代のインドシナの共産勢力に対する最強硬の対策をジョンソン大統領に提案し続け、とうとう米軍を「泥沼」に引き込んだ。
 68末、たまたま米国民はベトナム戦争に嫌気がさしていた。そしてべトナムから撤退してくれそうな共和党のニクソンが次期大統領に当選した。※かたや日本では69年になっても国民がシナおよび社共勢力の宣伝に操縦されており、対ソ・対支の核抑止の必要をぜんぜん理解しようとはしなかった。佐藤本人も、核武装は単に通常兵備よりも安価になるから有利なのだと考えていた節がある。「抑止」を理解できる政治家ではなかったのだ。佐藤がそうだとしたら、兄の岸もそうだったのだろうか?
 ICBMとB52とポラリス原潜の核の三本柱が充実してきていたので、米国にとっての沖縄基地の重要度は60年代前半よりもずっと低下しつつあった。特に平時の核配備について然りだった。
 沖縄復帰の交渉過程でニクソン政権は、核兵器撤去のための費用500万ドルを日本政府に負担させる方針だった。p.179

 佐藤は池田と正反対にシナを信じておらず、シナの核はまさに気違いに刃物だと66年12月にラスク国務長官に語った。※岸ラインだから当然。池田は吉田ライン。
 67-2にジョンソン政権は、シナの核戦力の高度に秘密なインフォメーションを佐藤だけに説明しようとした。しかし佐藤はその話が必ず外に漏れ、政権攻撃に使われると警戒し、謝絶した。結局、閣僚に対する秘度の低いブリーフィングだけが行われた。※つまりシナのミサイル基地の衛星写真や、開発中の対日攻撃用「東風3」のスパイ写真を佐藤に見せ、日本本土や沖縄への米軍の核貯蔵を公認させようと思ったのだろう。66年以降のこの時点でジョンソン政権が日本に核武装を促していたわけではないだろう。しかし佐藤には「核抑止」はサッパリ分からなかったのだろう。また、これ以後のある時から、日本の新首相は早期にホワイトハウスを訪問し、ホワイトハウス内において、高度に秘密の「ブリーフィング」を、日本のマスコミの目を気にせずに、受けるという慣習が出来上がったのだろう。

 63-2にマクナマラはケネディに秘密メモを提出。イスラエルは兵器級プルトニウムを抽出していて、核保有国となる決意も固く、2〜3年で核武装する、と。69年に米国とイスラエルは、「Don't Ask, Don't Tell」を決めた。すなわちイスラエルは核保有宣言を決してせず、アメリカもイスラエルにNPT加盟を求めない。
 フランスがIRBMを配備し、かつまた水爆実験した直後の68-9に佐藤は語った。「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」。※そうすべきだった。官僚であった佐藤は「国民の教育」に失敗し、放っておいても返ってきた沖縄奪還の手柄に執着するあまり、NPTにサインさせられてしまった。代わりにノーベル平和賞を貰ったが、日本国民の権力はシナの核の前に丸裸となったのである。そして未だに「核抑止」が学ばれていないために、日本では核問題は「議論」以前の沙汰となっている次第だ。
 初代科技庁長官は正力松太郎。中曽根は59年に岸内閣の科技庁長官になった。※科技庁は50年代はあきらかに日本核武装の推進機関であった。
 しかし中曽根も核抑止に関する国民の教育には手をつけようとしなかった。
 70年1月に蝋山道雄ら専門家グループが政府要路に対し、外交的に核武装は得か損かという報告を提出し、外交的に安全にならぬこと、核兵備が大国の条件である時代は去った、などとネガティブな結論を出した。また同グループはそれに先立つ68-9に、ウタント報告のテキトーな数字を無批判に流用して、核武装は高くつき過ぎ、日本にそんなカネは無いと報告した。※この連中がキッシンジャー一派の意を承けた米人どものプロンプターを単に翻訳復唱していただけであることを歴史研究者として直感できなくては嘘だろう。自分たちで一から計算せず、世界公知のウタント報告の数字を使い、それでギャラを貰うとは、どういう「専門家」たちなんですか?
 75-8-6の新聞発表で日本はNPT早期批准を約束し、独自核武装の選択は封印された。
 ※ところでバンカーバスターの核弾頭版はどうなるのだろうか? 地中貫通爆弾は、現時点ではまだ浸徹量が10m未満。将来とて100mにも達することはなさそうだ。そして北鮮やシナが移動式ミサイルを隠している山岳地帯の横穴トンネルの上には、少なくとも厚さ数百mの岩盤がある。結局、トンネルのすべての出口に対するマッシブな核攻撃しか「カウンターフォース」の方法はないだろう。しかしイランの砂漠の地下工場については別な手が考えられるかもしれない。それは「十分の数キロトン」のミニ・ニュークをタンデム2連打で撃ち込む方法である。すなわち最初の一発を地表爆発させてミニ・クレーターを掘る。次にそのクレーターの底部にもう一発撃ち込むわけだ。

二、三の修正あり

 わたくしの参照したウェブ上の年表が十分でなかったようで、過去の首相の靖国参拝につき正しくないデータに基づく話をしておりました。
 遺族会と自民党の中曽根氏らがいかに靖国をねじまげてきたか(小泉氏の「8.15参拝宣言」もそもそも対遺族会の空約束だった)、また、梅原猛氏が中曽根内閣時代に「靖国懇」でアンチ靖国の立場から使った言葉を借りれば「靖国神道は、19世紀に起こった西洋諸国の国家主義によって」進化した神道であるがゆえにまさに必要かつまさに貴重なのであり、首相はとうぜん吉日に参拝しなければならないのだという点につきましては、いずれまた詳しく論じたいのですが現在、有料の原稿の仕事がありまして時間が取れません。
 以下の事実間違いだけを提示させてください。「放送形式」では過去に間違ったことを書き、あるいは書くべきことを書き漏らしたと思います。それをおわびし訂正します。
一、福田赳夫首相は靖国に四回参拝し、うち一回は8.15であった。
二、大平正芳首相は靖国に三回参拝しているが、8.15は外している。 

摘録とメモ──『花田清輝著作集 IV』1964

「近代の超克」と「もう一つの修羅」を収める。前者は有名な座談ではない。
 ホーリーローラーはくるくる教徒。
 寺田透が花田に語った。孔明はハンゼン氏病のため、劉備が再三訪問するまで、世間との交渉を絶っていたのだという説があると。花田も納得。病人だからいつも車にのって戦場にあらわれるのか。しかしおそらくは信ずるに足りない一片の浮説だろう、と。p.47 ※武田氏周辺の軍師にもその影があったろう。
 高坂彈正は「我等、元来、百姓」だから「保坂彈正、槍彈正、高坂彈正、逃げ彈正」といわれていますと『甲陽軍鑑』の冒頭で自己卑下。
「うたごえ運動」「生活綴り方運動」、どちらも遊びだ。
 トルストイは「アンナカレーニナ」の心理追求に訣別して、「コーカサスの俘虜」では行動描写だけを書いている。
 1930にドイツ映画『人間廃業』あり。
 ビリー・ワイルダー(ウィルダー)もドイツ映画出身で米に移住した。『お熱いのがお好き』は30年代にベルリンで想像していたシカゴなのである。
 ヒッチコックは四半世紀にわたり自作の剽窃ばかりしているようなものではないか。※TVシリーズがあった。
 ネヴィル・シュートの『渚にて』は、アルバニアの飛行機がナポリにウラニウム爆弾を落とすところから北半球の核総力戦になるという設定。※ノストラダムス信者だったのか。
 ケストナーいわく、原始文化は具象。文字文化は抽象。それは「第二の一対の目」だと。花田いわく、その次はTV具象になると。
 徳川夢声の『カツベン譚』いわく、むかしは映画スター以上に「映画説明者」が人気を左右したのだと。これをいやしむことばが「カツベン」。※日本の洋画TVで前後に「映画解説者」がしゃしゃり出てくるのはカツベンの伝統かと分かる。
 カツベンは講談、落語、浪曲、芝居からの転出者多かった。だから声優のマネゴトができた。活動写真の弁士。『くらがり二十年』によると無声は落語家をめざしていた。
 山路愛山は二宮尊徳のことを「並の人間に毛の生えた位のもの」と『報徳新論』で評す。p.187 二宮門下が内務&文部官僚になって、報徳講というものを推奨。バックが明治政府であった。日露戦争後の農村危機が背景。
 福田恆存は三島の脚本をベタ誉めした。小説より評価した。三島はすべてを誉められないと我慢のできない天才なのだとも言った。
 セルバンテスの『びいどろ学士』は自分の全身がガラスでできていると思い込んでいる。※つまり『コブラ』のクリスタルボーイか。
 1954封切り映画に『放射能X』『原子怪獣現る』『ゴジラ』がある。前二者は米画。これを比較すると、原子怪獣に米人たちは銃で立ち向かっているのに、日本人は国土を怪物の蹂躙にゆだねてなすすべがない。米人にとって映画の怪獣は仮想敵なのである。※ウルトラマンは日米安保だと言った評論家もいたっけな。
 福沢は勝を咸臨丸の船室から船酔いで出られなかったと誹謗する。木村芥舟は『咸臨丸舟中の勝』で、それは身分や格式に拘泥する幕府役人に対する不満からだったと弁護。
 暗殺をおそれて14年間も夜間外出しなかった福沢が痩せ我慢の説とはかたはらいたい。痩せ我慢の説が書かれたとき、徳冨蘇峰だけが勝を弁護した。
 氷川清話いわく「おれは、愚物は、とうてい、話をしてもわからず、英物はみずから悟ときがあるだろうと思って、うっちゃっておいた」
 世に意気地を除外したる聡明ほどくだらぬものはなし。聡明にして意地弱く臆病なる者は、ともすれば是れ大勢なり抗すべからずと称して事をなげうつなり。/堺利彦
 花田は橋川文三を、今日における福沢の亜流だと。橋川や吉本隆明にはただナショナリズムの観点があるだけだと。
 新井白石は源頼朝をこきおろしている。白石の理想は天皇親政であった。北畠親房は、将軍の仁政に期待をかけていた。両者は対立する。
 榎本は明治11年にシベリアを横断して帰国。『シベリヤ日記』あり。当時のコザックの子供は自分の年齢を知らなかった。そして両親も把握していなかった。特に男親は。
 この本はなぜか昭和14年9月に満鉄総裁室弘報課から発行された。※つまり関東軍は対ソ戦をすぐ始める予定だったのだ。
 真山青果の『坂本竜馬』に、竜馬が上海で手に入れた毒薬を岩倉に投げ与えるシーンあり。坂本はそこでいう。百姓を刀で殺すのはけがれだと。庄屋など細引きでくびりころせ、とその使い方を細かく伝授。
 坂本はこう書いていると。「人を殺すことを工夫すべし。刃にてはかようにして、毒類にてはかようにしてなどと工夫すべし。乞食など二三人試みておくべし。」p.300
 真山脚本は演出家が介在しない書斎読書の方が鑑賞にむいている。
 真山は正宗白鳥と同世代の自然主義小説家であった。周到な史料の科学的な研究の上で書いている。にもかかわらず調査事実にがんじがらめにされていないところがすごい。ロゴスだけでなくミュートス、たとえば政治講談に近親。
 千田是也いわく、演劇でもクローズアップは可能である。それは台詞でできると。
 柳田邦男いわく、東京男の眼のけわしさは、元来があまり人をみたがらず、はにかんでいた者が、おもいきって他人を知ろうとする気になったときだと。
 戦時中も若者は平静に話し合うことができず、喧嘩によって知り合おうとしていた。
 柳田いわく、農村においてこそ明治〜大正に景観は一変したのだと。桃、キョウチクトウ、サルスベリ林の樹花はわざと植えたもの。菜種もそう。ゲンゲソウも。
 白石は『孫子兵法択』で、作戦篇の「敵を殺すものは怒りである」を「怒りをもって敵を殺してはならない」と解釈する。
 花田は戦時中はラテン語を勉強していた。
 丈八の蛇矛といえばそれは張飛の武器。
 露伴いわく、虚言を束し来って歴史あり。※その通り。
 中谷宇吉郎いわく「語呂の論理」と。
 うち聞くより早や三枚目の安敵かとみえて……。
 花田はフィクションには敵と味方の二人の主人公が必要だという説。馬琴の脇役はリアルだが影が薄く、対立主人公になりえていないという。※だから葛藤が弱い。
 鶴女房より、浦島の鶴じじいの方がはるかに非凡だ。
 近松の書いた俊寛は、すすんで島に残ろうとする
 ラロシュフコオいわく「美徳は、たいてい、仮装した悪徳にすぎない」
 戦争中「武士道というは死ぬこととみつけたり」が「盛んに方々で引用されていた」
 花田はこれまで『葉隠』を読んだことがなかった。S28の記事。
 古川哲史が校訂者だが、古川は戦争中、葉隠は、ニーチェのツアラトゥーストラより神々しき犠牲精神だと絶賛していた。
 古川は戦後も『封建的ということ、その他』で、葉隠に武士道の本質をみようとしている。
 甲陽軍鑑によれば、陣屋で番をしているものの眠気をさますために、博打は奨励される。常朝も「おろめけ、空言いえ、ばくちうて」といっている。書き取った陣基はシャレの通じない人物にみえると。
 ※前回の沢木さんの新刊もそうなんですが、自分の生まれた時代のことがじつは一番把握しづらいもので、こうしていい歳をしてから勉強し直さなければなりません。

摘録とメモ──『沢木耕太郎ノンフィクション VII  1960』04-6

 著者は学部は経済系だがスポーツノンフィクションがキャリアの芯にある。20代で渡米経験。70年代末の、三人称で「シーン」を提示する米式ニュージャーナリズムを摂取した。
 本書は「危機の宰相」と「テロルの決算」の合冊で、ともに大幅加筆されている。前篇は1977-7の文藝春秋本誌に掲載されて以降、これまで単行本になったことがない。
 1960年モノの第三弾としては、全学連元委員長の唐牛健太郎について書こうと構想されていたが、どうやら作品にはならぬらしい。「未完の六月」というタイトルだけ決まっていた。6月とは安保条約が自然承認された1960-6を指す。

 1945年の流行語は「一億総懺悔」。47は不逞の輩。48は斜陽。50はレッド・パージ、51は逆コース、53は家庭の事情、55はノイローゼ、57はよろめき、59はカミナリ族。そして60年代は「アンポ」に明け、バイゾーに暮れた。
 1950年代の政経のテーマは「復興」。60年代は「成長」だ。
 戦争に頼らずにほぼ完全雇用が実現したのが池田時代。
 佐藤栄作の「安定成長」も、池田の「所得倍増」の末葉である。
 池田勇人は吉田学校である。福田赳夫は岸信介と行動を共にする道を選んでいる。岸は反吉田であった。だから池田と福田赳夫は敵対関係である。
 福田は池田より4年後輩だが昭電疑獄で逮捕され、無罪になったものの次官の椅子を逃し、政界に転じた。
 池田の派閥後継者が大平である。大平と福田をくっつけたのは、ブンヤから池田の秘書になった伊藤昌哉。同じく池田の秘書の田中六助も元新聞記者。※米国のように政治家のスターティングキャリアとしての弁護士は一般的でなく、しかも途中腰掛職としてのシンクタンクや大学ポストもない日本では、番記者から大臣秘書を経て国会議員というパターンが、官僚スピンアウトと並ぶ成りあがりコースなのか。
 大平は高松高商時代にクリスチャンになった。※だから大平は首相時代に靖国に参拝していないのか。
 財界浪人・矢次一夫は、岸のラインにつながる韓国・台湾ロビイストだった。

 池田の経済ブレーンの下村治には『経済大国日本の選択』という大著がある。本編の主人公で1989に没。
 下村が生まれた明治の佐賀には「尽忠報国」の気風が強かった。金儲け否定である。
 下村に「自分語り」の文章がほとんどないのは、下村が佐賀の『葉隠』士族のダンディズムを受け継いでいるからだ。p.51
 下村はシナ事変中の大蔵省で、理財局金融課長の迫水久常の下、会社活動統制の諸法令をつくった。配当、資金、設備投資、賃金、経理のすべてに網をかぶせた。
 満州事変以前の大学では、マルクスの言う「剰余価値」の源泉はなにも労働だけではないだろうと論じ、投稿。当時は「生産性」という概念が経済学にまだ無かった。
 とにかく現行の経済学はまるで役に立たないと理解して、昭和9年に入省。大蔵官僚としてケインズを独習。加うるに、ハロッドとアレン。昭和27年に経済危機が去るまで、不十分な統計をもとに、インフレなき立ち直りの方法を、待ったなしで模索し続けた。そして肺病で3年、職務を離れている。
 本人が本当に読んだと言うのは5冊。ケインズ『貨幣論』『一般理論』、ハロッドの『動態経済学序説』、ジョーン・ロビンソン『不完全競争の経済学』、エドワード・チェンバリン『独占的競争の理論』。加えておそらくマルクス『資本論』、シュンペーター『経済発展の理論』。
 明治維新から1945まで日本の年平均成長率は4.5%だった。他国に比べればはるかに高率。そして1945から1955にかけては9%であった。これがさらに維持できるとは思わなかったのが普通のエコノミスト。
 ベビーブーマーが中学卒業するのは1963だから、政府はそこから先の完全雇用を図れなければ、暴動もありえた。
 ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の中核をなすものは、「有効需要の原理」と「流動性選好の理論」。
 完全雇用が達成できるかどうかは有効需要の大きさによる。したがって失業をなくしたければ、有効需要を創出しろという。
 ところが昭和25年時点でも池田らの世代は「消費は悪、節約・貯蓄こそ美徳」としか思ってなかった。国内の消費を増大させることが完全雇用につながると理解できる者は稀少であった。
 またケインズは、投資家が幅をきかす英国ならではの着想で、利子とは、流動性を放棄することについての対価であると。
 さらにケインズは、一の投資が短期的に一以上の需要を誘発する「投資の乗数効果」を指摘。しかし、投資が生産能力を増加させる長期の「生産力効果」までは思い至らず。
 ハロッドとドーマーがこの穴を埋めた。彼らはさらに、投資による生産力増大を吸収するだけの「需要」が必要であること、それには経済が「成長」していなくてはならぬことを明らかにした。
 下村は、その投資をさらに二種類に分けた。ひとつは、超過利潤の存在を嗅ぎ付けて機会主義的に便乗せんとする投資。もうひとつは、企業家の創造的な発意による投資で、この後者こそが経済の長期的な発展の動力であると見た。前者は景気変動の主因である。
 またさらに下村は、道路や住宅や病院といった固定資本への投資は、翌年の国民総生産をそんなに増すと決まってはいない。数ある投資の中でも、主として民間の製造業の設備投資が、産業を高度化して経済の成長をもたらすと結論づけした。民間設備投資額が多いほど、経済の成長率は高くなる。
 これが当たっているとすれば、ハロッドやドーマーの数式以上に日本経済は飛躍するはずだ。なぜなら日本では1955年から民間に設備投資意欲が漲っているから。また日本の投資は貯蓄率によって制約されていない。民間設備投資は賢明な企業家が決心しており、日本の労働者には最新の生産設備を使いこなす能力もある。
 下村の文章は時論的であり独創的だが修飾が無く、実証的。そして非妥協的な立論態度で予言を的中させていった。下村いわく、面白い話にはどこか飛躍が必要である。しかし自分は順を追わないと話はできない。また役所のペーパーは、何をするのか、なぜそうするのか、そうすればどうなるのかを簡潔に書かねばならないのだと。
 下村は、経済企画庁のエース・大来佐武郎や、米国ニューレフト仕込の学者・都留重人ら著名理論家と筆鋒するどく論争する。多くのエコノミストは、日本はまだ復興期で総需要抑制が必要だと言っているなか、下村だけが55年を境に勃興期に入ったとし、供給力に需要を追いつかせればよいと主張。
 結局下村が正しかったわけだから、当時の大物たちの下村批難は、後からの下村賛辞と等価だ。
 所得倍増は不可能だ、と言っていた口舌の徒は、自らを批判することなく、こんどは高度成長の「ひずみ」論に軸を変え、相変わらず日本国民に対して無責任に生きた。都留のように「永遠の正論」に身を寄せて現実を批判する安逸を下村は選ばず。
 1960に下村いわく、計画は、計画以外の可能性を否定しがちである。常に成長率が一定であるべきだと考える役人どもの発想は日本人の経済活動をダメにすると。福田赳夫はこの役人どもに賛成の人。同じ宏池会の大平、宮沢も、高度成長論には否定的だった。それはかれらが所詮は官僚だったから。池田は偶然に大蔵事務次官になったようなもので、考え方は役人の型通りではない。
 下村は、政府の役人が経済成長を統制して決定するのではなく、政府は成長を「予測」すればいいんだという構え。
 下村いわく、マルクスの考える資本主義とは、人口の増加率と比べてみると成長が無いに等しい、Goldの存在量が制約する資本主義で、リアルじゃないと。
 後進国市場にモノを売るしか能の無い日本が自由化すれば米国商品に席捲されるだけ、つまり自由化は第二の黒船だ、と考えていた者が多かった1950年代末に下村いわく、自由化とは国際的にも国内的にも、非効率産業を再編成して高能率産業に資源を集中することである。経済成長の意味はまさに自由化であり、自由化なき経済成長こそいびつだと。
 1971に下村いわく、経済の成長は生産性の向上による。生産性の向上は技術革新による。日本と欧米の技術格差が大きく、石油価格も安定していたがゆえに、これまでは高度成長は容易だった、と。

 池田は大蔵キャリアの途中で難病の皮膚病に罹り、5年間寝たきりとなり、妻は看病疲れで死ぬ。治る前に札所をまわり、一生嘘をつかないと願をかけた。
 前尾繁三郎も病気で、大蔵省の三等の赤切符組。やがて形影相伴う人生を歩むことに。
 林房雄の『随筆池田勇人』によれば、もし戦争に負けたら、地下に潜ってゲリラになろうと、昭和20年に前尾と話し合っていたと。つまり彼らのレベルの大蔵官僚は8.15まで敗戦情報を知らず、その点では庶民と同じだった。
 前尾いわく「強制によって計画的に事をはこべば最も能率的であるかのように錯覚する」のは「本末転倒で、逆に非能率」。だが、それが「真の政治とまちがえられている」と。
 「直税部長」には酒の配給権があり、また遺産相続の税金相談を受けることがあり、選挙出馬の下準備をするには好都合であった。
 S24初当選で、第三次吉田内閣の大蔵大臣になる。※元鉄道官僚の佐藤もそうだが昔の高級役人は破格の待遇で政権に迎えられている。
 すぐにドッジ・ラインを履行。補助金、補給金を打ち切って均衡予算を達成。これは国民から見れば耐乏予算。救ったのは翌年の朝鮮戦争。
 池田内閣時代に「金鵄勲章年金」「国防省昇格」などの右派の法案要求が自民党内にあったが、池田は斥けた。※池田の軍隊嫌いと安保音痴は別に論じなければならない。

 大蔵省出身の池田は身内にカネをごまかされるのをとても嫌がる。大蔵キャリアは税務署からスタートするので自然、カネにうるさいわけ。
 宏池会(池田の後援団体)のカネを管理したのが田村敏雄。しかし田村は気分上は首相池田と対等であり続けたので宏池会内部で浮いてしまった。田村は下村より早く死ぬ。田村は池田の弔辞では「両腕」にたとえられていた。それが機関誌に印刷されたときに「片腕」に直されたのは派閥内の某小者の策動。
 池田は自分では文章を書かず、田村などがすべて代筆していた。下村のリアル理論をロマンティスト田村が通訳することで政治家池田は理解した。
 田村は大蔵入省後、満州国官僚になる。語学の達人だったが、昭和15年のドイツ派遣予定はWWIIでキャンセルとなる。夢は、満州を、病院、刑務所、兵営の必要がない天国にすること。だが敗戦で文民なのにシベリアに抑留、その間に妻の死。さらに帰国後は公職追放。なんとか大蔵省の外郭団体に。やがて池田を総理にすることでかつての理念を実現しようと考える。
 戦前、田村が若いころ、大学で経済学の名に値するのはマルクスだけであった。田村もドイツ語原書でそれに通暁。
 1963に田村は、実験できない社会科学をソ連がやってくれて、社会主義は不平等を解消しないことを立証してくれたと書く。
 田村もまた口舌の徒・都留重人を攻撃していわく、現代において均しからざるを解消しようとすれば、それは経済の成長しかないのだ。金持ちの所得をすべて奪って分配しても国民一人あたり数百円にしかならぬ、と。
 池田内閣時代は、田村は、池本喜三夫の日本農業革命論に傾倒した。すなわち、1町分区画に農地を整理し、30馬力以上のトラクターで三倍深耕すれば、日本の全農地面積が倍増したのと同じことになる。かつ、畜産との混合農業にすれば、化学肥料は買わずに済む。結果、農産物価格は半値になり、農民の一人当たり所得は7倍になる、というもの。

 昭和33年の旧一万円札は、戦前の猪の図柄の「十円札」より手の届かない感覚であった。
 宮沢喜一いわく、子供のころにジョン・スチュアート・ミルを読まされた。そこには、トレランス=寛容という言葉がよく出てくる、と。
 司馬遷は呉起をすぐれた能力は持っているものの人の信頼を得にくい人物として、また田文を自分が特別な能力をもっていないことをよく知っている人物として描いている。
 ※前篇についてのコメント。地味な文献調査に労力を注いでいること、短時間で読ませる文章にまとめていること、これをなしとげてしまった年齢、いずれも脱帽の他はありません。

 後編。
 赤尾敏はもともと左翼運動から入ったが、大正末に獄中でイタリアのファシズムに感心して国家主義に回心。反東條なので、翼賛政治会からは、中野正剛、鳩山一郎らとともに除名された。それでも戦後はS26まで追放されていた。
 昭和27年の講和は、タブーであった右翼活動を公然化させた。※旧軍肯定、旧軍擁護を出版物で堂々と語れるようになったのがS27である。ナチス・グッズもその流れ。
 この頃、ナチスのアイテムは少しもタブー視されず、右翼活動でその旗や類似した制服を持ち出す者が普通にいた。※ナチズムと日本の戦前軍国主義は根っから別物だという今日の常識はまだ誰にもなかった。
 周恩来は昭和30年から日本の右翼に注目。昭和32年の岸内閣の成立は、右翼団体をさらに元気づけた。34年には李承晩もやりたい放題だった。
 赤尾敏は、講和後、国会内に自由に出入りできる「前議員待遇」を停止された第一号。赤尾の愛国党本部には明治天皇とキリストの肖像が掲げられていた。教育勅語を指導原理としていた。また街宣では日章旗と星条旗をともに掲げ、反米右翼は右翼小児病だと言っていた。
 経団連は社会党にも献金を続けていた。

 明治末、三宅島に医師はゼロだった。戸籍で「庶子」となっていた浅沼稲次郎は、士官学校や兵学校の入試成績がよくても、入学は不可能だった。軍人も医者もいやなら慶応の理財に行って実業家になれと言われた。
 早稲田の雄弁会はおのずから最も先鋭な政治意識をもつ学生の集まりとなっていた。
 大正12年に、軍事教練の早稲田導入に反対して、壮士学生に殴られる。※WWIから10年経とうというのにまだ日本ではROTCが無く、シナ事変では帝大卒の勤め人が二等兵として前線に送られるわけである。民主主義後進国。
 戦前は、国会議員と地方議会議員を兼任することが許されていた。
 戦前は、東京帝大出身の法学士は無試験で弁護士になることができた。
 斎藤隆夫の反軍演説は、シナ事変は聖戦なのかと、否定的に質問したもの。それにより議員除名。※明白に自衛戦争である事情の説明が政府によってなされなかったのは何故なのか?
 浅沼が親とも仰いだ麻生久は、陸軍省新聞班の昭和9年の「陸パン」は資本主義精神を否定しているから賛成だと。日本での社会変革の担い手は、軍隊と無産階級の合体したものだと。麻生は満州事変には反対を唱えたが、シナ事変には賛成。
 大杉栄が殺されたとき、浅沼も近衛連隊のターゲットリストに載っていた。
 翼賛選挙に推薦されず、非推薦でも立候補しなかったことで、戦後の追放を免れ、戦後の社会党の大幹部に。
 終戦直後では、「社会民主党」という党名は、ドイツにおける裏切りというイメージをインテリに与えるものだった。
 戦後の浅沼は、結論が出てはじめて動く、大勢がほとんど決しかけたとき、はじめて口を開くという態度におちつく。
 党活動への精進ぶりは誰も真似ができないもので、そのストイシズムは、どこかで自己を罰したいという潜在的な欲求に支えられていた。
 昭和32年の訪中で浅沼を団長とする社会党訪中団は大歓迎を受けた。ところが34年の第二回目は冷淡だった。これはシナの作戦だったが社会党左派は分からない。浅沼は第一回目の感動を忘れられなかった。北朝鮮人の黄方秀が過激演説をすれば中共の態度は変わると示唆した。その結果、「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であ」るが、それが「それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のため」であるから「アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなして闘わなければならない」との池田の演説になった。この演説の全文が翌日の人民日報に掲載された。※つまり事前に原稿の内容が編集幹部に渡されていたと疑えよう。
 池田は共同通信の記者にも原稿のサワリを、本番三日前に見せている。それが載った毎日新聞のベタ記事に「米国は日中共同の敵」と要約されたフレーズあり。自民党幹事長の福田赳夫はそれを見逃さず、浅沼に抗議電報を打った。かくして要約フレーズが知れ渡り、社会党の過激性、卑屈性が世間に印象づけられた。※記事を発見したのは福田の秘書か誰かだろうが、それを効果的宣伝に結びつけたのは福田の手柄である。福田が8.15靖国参拝もやっていないのは三木より常識人の証拠である。しかし国債濫発とテロリスト釈放は大失政となった。
 浅沼には「支那事変は日本民族が飛躍するためのひとつの仕事」とおべんちゃらを述べた過去がある。そうした自己の軽薄さへの負い目から、第一回訪中と第二回訪中の間の、戦争中のことについての「反省」ぶりは誰より真剣であった。それをシナではしっかり評価していた。さらにまたシナ政府の要人は、そのような浅沼評価が公けにされれば「内政干渉」になるかもしれないとも理解をしていた。p.356
 羽田空港でシナの工人帽をかぶってタラップを降りてきた軽薄さがまた右翼の反発を買った。
 浅沼は、マッカーサー元帥感謝決議案に賛成の演説もやっていた。要するに庶民感覚と一緒。しかし彼には人並みのHomeはあったためしがない。庶子として育ち、結婚後も党務第一に暮らし、実子はいなかった。だから孤独であり、大勢の中に居ることを望んでいた。
 安保に倦んだ国民は池田の所得倍増論を歓迎していた。なのに浅沼は演説で安保のことをしきりに取り上げるので社会党議員も困っていた。

 山口二矢の精神的独立は中2から。父親がインテリで一喝主義のため、反抗期の見られない少年だった。
 当時の右翼の典型は、文学を軟弱と断じ、武道がすべて。
 玉川学園の小原国芳いわく、子供がいったん学校をやめると、再び学校をやり直すことはできない。
 韓国で学生が李承晩を倒したのが、日本の反岸運動を煽った。
 二矢によると、自民党では河野一郎と石橋湛山が容共派でゆるせんと。さらに暗殺候補リストに三笠宮祟仁まであり。
 一度は愛国党に属した山口は、口先ばかりで警察と狎[な]れ合っている右翼には左翼革命は止められないと絶望した。しかし彼にも、殺人の結果として係累にも迷惑が及ぶとの予想が、単独実行の抑止力として働いていた。ところが、昭和16年刊の谷口雅春著『天皇絶対論とその影響』を人から貸されて読んだところ、家族の迷惑を考えることは「私」であり、天皇を絶対唯一神として信仰するならば、無私の忠を実行せねばならないと確信する。
 さらに『明治天皇御製読本』を古書店で買い求め、決行までその本だけを読んでいた。「末とほくかかげさせてむ国のため命をすてし人のすがたは」などは暗誦していた。
 昭和35年に山口二矢が浅沼委員長を刺殺した凶器は、刃渡り1尺1寸、幅8分、鍔なし。短刀というより脇差サイズ。強盗対策として自宅に置かれていた古道具であった。
 山口は、刀剣では斬るのではなく刺さなければだめだという知識を、周囲の人から十分に仕入れていた。心臓ではなく腹でも死ぬという知識もあった。刀身が十分に長いために、武道のトレーニングを受けていない青年が、柄を腹に押し当てたままぶつかったとき、浅沼の巨躯は深く貫かれた。山口には刺したまま抉るという知識はなかったらしい。
 浅沼は第一撃で背骨前の大動脈が切断され、内出血ですぐ意識を失い、死亡。山口の第二撃は左胸を狙ったが、ごく浅手。※これは刃を縦にして腕だけで心臓を刺そうとして肋骨でブロックされたのだろう。
 偶然の重なりから、警備がガラ空きになった瞬間だった。しかし第三撃および自決は刑事が阻止した。
 主催者の意向に従い、私服警官だけを配したことが、テロ抑止力を薄めさせたと反省されている。すでに多くの政治家が刺されていたときに、ずいぶん寝惚けた警備をやっていた。
 警視庁からは、右翼の「面通し」ができる公安の警備課の刑事たちが応援に来ていたが、現場の丸の内署長の掌握下に入っていなかった。
 山口は17歳なので死刑にはならない。だが少年鑑別所(一種の診断センター)に移された最初の夜の8時前に首吊り自殺した。シーツを細長く裂いて80cmの紐に縒り、裸電球の金網カバーにひっかけて。
 党の顔で、象徴的まとめ役であった浅沼の死の直後から、イタリア共産党わたりの「構造改革」路線か、それとも極左暴力革命かという路線論争が社会党内で発生。「構革」は当初、日共内で研究が進み、一時は異端の烙印を押されたが、のちには「密教」として日共に採用される。
 ※本編も最近の初見でした。記憶では、「山口に続け」とか相変わらず言行不一致を恥じない様子のバカ右翼が80年代末まで棲息していました。しかし、青年山口はまるっきり異星人でそこらの乞食文盲とは生きる世界が違っていたことがよく分かるノンフィクションでしょう。児玉邸に軽飛行機が突っ込んだあたりから自称右翼団体は大衆を指導するどころか、蔑まれる者におちぶれていきました。朝鮮ヤクザとフュージョンしてしまった今では尚更でしょう。その後、狡猾な共産主義者は非暴力を装ったグラムシ戦術で日本社会の伝統破壊に成功しつつありますが、頭の悪い人の多い「2ch保守」ではとうていこの狡猾さには対抗できそうにありません。歴史からはもっと靭強な政治のロゴスが引き出されなければなりません。

まずシナを黙らせないと半島も黙らない

 ウェブの毎日新聞が1月10日の午前3時に「航空機搭載型レーザー砲」のニュースをのっけています。
 昨秋からボーイング社(今や旅客機から戦闘機まで造るようになった総合兵器メーカーです)が、自民党の防衛族議員に対して、巨費を投じているわりには開発がはかばかしく進んでいないエアボーン・レーザー砲システムに、日本も協力しないかと非公式に打診している──といった内容です。
 冷戦後、米国の軍用機メーカーは企業体力をつけるために大幅に統合され、ずいぶん数が減っています。ボーイング社はその整理の波の生き残り組として肥え太った大企業ですが、そのボーイングが、レーザー砲の底無しの開発費に音を上げた。彼らにとって事態は深刻なのでしょう。
 報道されない背景には、ペンタゴンあるいは米政府の上層が、この兵器システムの価値そのものに疑念を抱き、調達計画や支援予算面で冷淡になりつつある動きもあるのではないでしょうか。

 「航空機搭載型レーザー砲」は、地上から発射されてまず垂直に上昇する敵の弾道ミサイルが、雲を抜けて成層圏へ顔を出し、そこからさらに大気圏外に向かって、ブースターを切り離す直前にナナメの弾道コースを決めてしまうまでの間に、ミサイル燃料の詰まったブースターの筒体部分を強烈なレーザーパルスで照射して、薄い殻を破り、敵ミサイルのブーストを中途で失敗させようというコンセプトの兵器システムです。
 引力に逆らって重い弾頭を遠くに飛ばそうというロケットの筒体は、特別に軽量化する必要があり、物理的に可能なギリギリの薄い素材が用いられます。しかもそれは内部から重い燃料(固体の場合と液体の場合とあり)によって大きな圧力(膨張力)がかけられている。高空では大気圧が小さくなりますので、パンパンの状態になります。その外殻に、レーザーパルスの衝撃によってほんのわずかな破孔を開けてやることができれば、内圧によってブースターは自壊するのです。
 レーザー砲の搭載母機は、ほぼ大型旅客機の転用に近いもので、敵地近くの成層圏を、燃費を抑えてゆっくり長時間ロイタリングしています。つまり雲の無い見通し良好な高空において、水平方向に目標を捉えようというのです。標的の面積は小さなRV(再突入体)ではなくブースター付きですから、大きい(レーダーにも捉え易いしレーザーを当て易い)。かつまた、尻から派手な赤外線も放出していますので、光学照準装置でもトラッキングし易い。ますます好都合でしょう。
 敵のロケットも空気抵抗の大な大気圏内はできるだけ素早く通り抜けてしまわないとエネルギーの大損ですので、成層圏ではまだまだ垂直に上昇しています。それはぐんぐん加速中であるとはいえ、落下時に比べればまだ低速ですから、真横から照準をつけているレーザー砲の標的としてはイージーであるかもしれません。
 成層圏にある母機から横向きにレーザーを発射すれば、そのレーザービームも、雲や水蒸気による拡散・吸収の悪影響をあまり受けずに標的まで到達してくれるでしょう。

 このように理論的なフィージビリティはあると説明されてきたのですが、ボーイング社での実験はそんなにうまくいっていないようです。どこがどううまくいっていないのかは、公式説明がありません。自民党の族議員さんたちは、ミーティングでそこに突っ込めたでしょうか? やや疑問だろうと兵頭は思います。

 技術的に停滞をしているのは、やはり射距離とパワーでしょう。成層圏といっても空気はありますから、どんな波長のレーザーも距離に応じて減衰させられてしまいます。どうも、ベスト・コンディションの想定でも有効射程は300kmに達しないらしい。
 その「300km」という数値も、どこから出てきているのか疑ってみる智恵は必要でしょう。射程が300kmあれば、北朝鮮の東西の海岸線から、北朝鮮の全領土をカバーすることは可能です。しかしそれは彼らの旧式なミグ21戦闘機の行動半径内であることは勿論、沿岸から発射された長射程地対空ミサイルからも安全でない距離です。

 もっと考慮すべきことがあります。イランの内陸は沿岸もしくは国境から何kmあるか、地図で計ってみましょう。イランのどの国境線からも300km以上離れている土地が、イランには存在します。つまり、このエアボーン・レーザーが実用化されても、イランのミサイル発射を封じ込めることはできない。ましてシナには無意味です。米国政府がこのシステムに見切りをつけつつある背景には、これがありましょう。

 要するに、この「航空機搭載型レーザー砲」は、とりあえず北朝鮮に対してしか意味をもたないんです。目下、北朝鮮の弾道ミサイルは日本にとってのみ脅威らしいですから──兵頭は、V-2のロンドン攻撃の人的損害にかんがみて、V-2より弾頭の軽い北鮮のSSMは東京の真剣な脅威たりえない、また彼らは生物兵器弾頭も核弾頭も有していないと、過去にも雑誌に書きましたし、現在も思っておりますけど──、だったら日本がカネを出すべきだろ、と、ボーイング社の幹部会議では結論したんでしょう。

 技術的な突っ込みを入れておきましょう。現在のボーイング社のレーザー砲の威力では、300km先での照射は数秒間、持続しないとロケットブースターの外板を穿孔しないそうです。とすると、分散したランチ・パッドから同時一斉にSSMが発射された場合、一機の「空中レーザー砲台」では撃ち漏らしを生ずる可能性があります。いったい「砲台」は、つごう何機を常時ロイタリングさせていたら済むのでしょうか? またそれは現実的でしょうか?
 もうひとつ。長射程のSAMがSSMのデコイになり得るでしょう。長SAMとSSMを同時に多数発射されたら、「空中レーザー砲台」はまず自機を守ろうとするのではないでしょうか。
 もうひとつ。レーザーパルスを受けたとき、剥離蒸散して外殻をプロテクトするコーティング剤を、ロシアあたりが開発して「ローグ・ネイション」に売り込むでしょう。
 もうひとつ。北朝鮮の得意技にローテクの風船があります。アルミを蒸着させた風船に照明弾を吊るして、水素充填または熱気球方式で放球し、SSM発射のデコイにする可能性もあるでしょう。

 日本としてこのシステムに出資すべきではない最大の理由は、これがシナのIRBMやSLBMや巡航ミサイルに対して、意味をもたないことです。日本がシナと核バランスをとれてない、すなわち対等でないことが、北鮮や韓国を増長させている。拉致や教科書問題、靖国問題も畢竟ここに淵源するのです。およそモノには順番があります。日本の人的資源は有限です。ですから政策にも優先順位があります。「空中レーザー砲台」開発への参画は、シナとの核バランスがまず取れた後に検討されるのがふさわしいテーマでしょう。

叡智の戦いは記録から

 クリス・ヘッジズ著、伏見威蕃 tr.『本当の戦争』04-6(原2003)を読みました。田舎の貧乏暮らしでは、こういう本を半年後くらいに書店で見つけてふと購読することがあるわけです。以下、いつもの調子での摘録とコメント。
 著者はかなり自慢できる経歴の戦場ルポライター。※だが旧日本軍に関する文献調査は浅薄である。ニューヨークの大学図書館はこんなものなのか?
 ジェフリー・チョーサーはフランスで捕虜になったことがある。
 この世で最も質問したい事柄は、かえって質問されない。
 心的外傷後ストレスはベトナム戦争までは公式に認められておらず。PTSDは白人より黒人とヒスパニックがなりやすい。症状は前頭葉の働きの低下なので、嗅覚も鈍る。
 1000人以上の命が奪われる激しい紛争を戦争と定義。
 米軍の15%、20万4000人が女性。ただし潜水艦と小型艇には乗れない。
 戦死者数に対し2割6分くらいの数の、戦闘外での兵士の死亡事故や病死がある。
 WWIIの日独を併せると米兵のキルレシオは16だった。ヴェトナムでは18だった。朝鮮戦争ではシナ兵も併せ50であった。
 WWIIのアメリカの経費は3兆ドル。湾岸戦争は経費760億ドルだったが、占領後にさらに5000億ドルかかっている。
 金額の上では米国製武器が世界市場の半分を制覇。残りをロシアと英国とで争っている。※日英の武器メーカー合併は互いにメリットのあるオプションであろう。
 p.27 民間人の戦争被害について、シナの数値を挙げ得ていない。※つまりニューヨークの図書館では、信拠できるデータが不明なのだろう。
 ドレスデンでは13万5000人が2日間で死んだ。広島市は米軍調査では6万4000人なのに、独自調べで14万人と呼号している。※これはドレスデンの損害を上回らせるための数字操作の可能性があろう。
 長崎は、米軍調査で3万9000人、独自調べで7万4000人。レニングラードの3年包囲では80万人が死んだ。ユダヤ人ではない「ドイツ国家の敵」も1937〜45に500万人が殺された? スターリンの1930年代の大粛清は200万人?
 米沿岸警備隊は平時は国土安全保障省の指揮下にある。※日本もそうすべし。あるいは「国家警察」を創設してそこに統合するのがよいだろう。
 国防長官は、戦争をおこなう地域を担当する統合軍の司令官に命令を与える。
 陸軍の新兵は入営6週目にして、20ポンドの背嚢+武装で1日6マイル行軍。
 17歳未満、35歳以上は米軍に入れない。既婚者で未成年の子供が2人いるのも×。20歳で体脂肪率が24%あるのも×。顔面の入れ墨も×。
 ベトナム戦争中、4000人が徴兵逃れで刑務所に送られた。
 歩兵は他兵科に比べ死亡率10倍。歩兵として出征したら、5人のうち1人は死傷すると思え。ベトナム戦争までは、全兵種を均して死傷率は6〜8%だったが、湾岸戦争以降、これが一挙に1%未満に。
 PCS=1〜2年ごとに所属隊が変更されること。海外配置は家族に大きなストレスをかけている。
 米国では既にすべての両親の半数以上が大卒の学歴である。
 軍隊内での黒人犯罪率はシャバでの三分の一。ただし黒人の佐官昇進はあきらかに白人より低率。多くの黒人はシャバで通用する資格を取るため軍隊に入っているので、ただの歩兵にはなりたがらない。ヒスパニックは歩兵になりたがる。
 ホモは12%混じっているが、それは免職の理由になる。
 戦闘中の月給は無税。
 摂氏30度を1度上回るごとにカロリーを1%増やさねばならない。熱帯ではトレーラータンクの水は日陰で5日間は腐らない。
 髭は夜に剃る。すると朝には顔の脂が復活していて怪我をしにくい。ヒマラヤ級の高地に派遣されると鍛えられた兵士の体重が10kgも減る。
 下士卒と将校の性交渉は軍法会議行き。米軍艦がタイに帰港するのは下半身需要。
 ベトナムでドラッグが流行ったので湾岸では徹底撲滅した。
 肺は密度が小さいのでライフル弾が貫通しても他臓器のように破裂しないですむ。
 スペイン内乱でライフルに撃たれたジョージ・オーウェルによると、爆発的な音と光を電撃のように感ずるが痛みは無い。たちまち膝の力が抜けて頭を地面に激しくぶつけるがやはり痛みは感じない。感覚は鈍いが負傷したことは理解していると。
 航空機と艦艇では、負傷の太宗は火傷。痛みを鈍らせ難いので苦痛大。
 大型砲弾の破片は最大800m飛ぶ。炸薬150グラムの対人地雷でも膝上までズタズタになる。破片創より銃創の方が治りは遅い。しかし最も治りが遅いのは地雷。ナパームは1980年に禁止された。
 イスラエルvsレバノン紛争では、砲撃死傷が25%、小火器死傷が20%、RPG死傷が15%であった。しかし機械化されていなかったかつての戦争では砲撃死傷が太宗。またベトナムのジャングル戦では銃創の割合が4割を超えたが、地雷と手榴弾も多用されたので破片創を超えることはなかった。
 衛生兵の呼称が三軍で異なる。野戦手当てでは、一発目の射出口に見えるのが二発目の射入口でないかどうか、すべての傷口を見逃すな。
 鶏をBC兵器探知に使おうとする場合、二羽以上を一緒にしてはいけない。つつき合って死んでしまう。
 炭疽菌は人から人にうつらないこと、ウィルスではないので抗生物質も効くことが、攻撃軍向きだと考えられている。
 天然痘はゲノム配列が明らかにされているので、複製可能。
 初陣でアドレナリンが出すぎると視野は狭窄し、細かい筋肉制御が不可能になる。
 兵士は発砲をためらいがちである。WWIIでは半数以上、朝鮮戦争では45%の兵が一発も敵兵に向けて撃っていなかった。そこで米軍は訓練マニュアルを工夫し、ためらわず撃つ兵士を養成している。
 ベトナムで戦死した米軍将官は一人、大佐は八人だった。これは批難されている。
 ベトナムでは2000人の米軍下級士官が、部下によって殺されたか、またはそれを疑い得る状況で死んでいる。
 国際協定により、後日の戦死者個人識別が難しくなる集団埋葬は、避けなければならない。
 兵士の戦死について遺族宅へ通知に行く係には鉄則があり、いかなるかたちであろうと遺族の体に触れてはならぬ。
 国立軍人墓地に埋葬された場合、配偶者もともに埋葬できる。名誉勲章を受ければ退役後の年金がつき、アーリントンの墓地の権利を得、子供は士官学校に優先的に入れる。
 戦場では自意識の抑圧に由来する「仲間意識」が芽生える。これは平時の友情とは異なるので、戦後まで続くことはない。
 退役後、私服に勲章をつけてもよい場合がある。ただし軍服を着る場合、顎鬚は不可。
 ※こういうのを読んでも、米国の図書館には、日本の戦争の正確な記録をあつめた英語の本が無いことがよく分かります。かつて国費で主要文献を翻訳させろよという声もあったんですが、どの御役所、どの国会議員も、手を貸そうとしない。予算はとてもつかないでしょう。その間にも、シナ政府の息のかかった英語版のプロパガンダ現代史が全米図書館の本棚に充実していきます。どうしたら良いでしょうか? だれかが英文で、「抄訳インターネット文庫」を整備していくべきなのではないでしょうか。

磨り減るものは「神器」になりにくい

 浜本隆志氏著『謎解き アクセサリーが消えた日本史』(04-11)を読みました。以下は兵頭の気儘な摘録とコメントです。
 著者は1944生まれ。ヨーロッパ文化論の専門家。指輪研究から日本史の謎に気付いた。
 天平時代以降に日本文化からアクセサリーが消える。これは世界史的に稀有。
 鎌倉時代は金が豊富。室町時代には銀山が開発される。フロイスは、ピアスも指輪も首飾りも無いと報告している。復活するのは明治。
 円環形の装身具は肉体と魂の無事帰還を祈る意味あり。
 アマゾンでは豹の牙をもつ者がシャーマンとなる。
 古代日本でも動物の歯や牙は強い動物に対する畏敬の念から呪術的アクセサリーになった。※この説明ではなぜ「爪」がアクセサリーにならないかが理解できない。戦前、日本にオオカミがいた頃、オオカミの牙を「根付」にした人が馬小屋に入ったら馬が怯えて騒ぎ、犬も近寄っただけで総毛が逆立ったという。つまりオオカミの牙に関しては、単純にそれが「野獣除け」の威力を発揮したので長距離移動時の護身の実用になったのであろう。しかし嗅覚の鋭敏なイノシシを狩るときにはオオカミの臭いなどは却って邪魔なので、イノシシの牙が代用されたのだろう。
 縄文時代のヒスイの産地は新潟=富山県境の河口一帯。穴あけ加工は、竹管と研磨剤と水でも可能で、のちにメノウの刃具も発明されていた。
 シナのヒスイはミャンマーから取り寄せた軟玉で加工はしごく容易だった。
 古墳時代には出雲産の碧玉が勾玉材料に加わる。
 縄文女はピアスをしていた。石飾り。19世紀アイヌもピアスをしていた。
 渦巻きは生命力の根源を象徴すること、ケルトと一般。
 古墳中期にスキタイ風の装身具が一時渡来する。
 縄文時代にはヘビ信仰、弥生時代にはシカ信仰。
 金銀銅の腕輪を「くしろ」と称す。
 巨大古墳が造られなくなったのは「大王」の支配が確立したので権力誇示の必要が失せた。
 「ひれ」は、ヘビ、ハチ、ムカデなどを象徴し、振ると魔物を払う。※祝詞で振る電光形はやはり蛇なのか。
 大化の改新後に神社が整えられた。天武天皇は祭祀の場所を大和の三輪山から伊勢に移した。もともと本拠地であり、しかも太陽がはやく昇る土地とされ、それゆえ御神体が鏡となる。同時にアマテラスを太陽神とする『記紀』の創世神話も編纂され、天皇家の唯一絶対性が強調された。
 大化2年の薄葬令で副葬品が禁じられる。つまり宝物は天皇家の独占となる。
 三種の神器の権威化は、南北朝まで『古事記』を公開しなかったように、人目にさらさせずに伝承したからできた。天皇すら見ることはできない。天皇家は、三種の神器神話によって、宝玉信仰を封印した。
 飛鳥時代には仏舎利は塔の礎石に埋納されたが、後には相輪に移された。※もともと柱の上なのだろうという仮説は『日本の高塔』に書いた。
 正倉院を開封させた権力者に、頼朝、義満、信長、家康などがいる。秀吉も開封したが、その記録を抹殺したという。
 農耕文化=母権制=妻問婚。
 真珠は淡水からも採れる。万葉集の「白玉」。有機質なので土中で腐ってなくなる。遣唐使は砂金ではなく特産の真珠で現地の経費を弁じたろう。平安朝には全く国内のアクセサリーではなくなった。バロックは「歪んだ真珠」の意。
 日本の家紋の早いのは参内する牛車に描かれた文様。戦国時代に敵味方識別のために図柄が単純化。
 天正遣欧使節の4人は8年半後に帰ってきたが、マカオに追放されるか、殉教した。
 1613に支倉常長は仙台を出港、メキシコに上陸、大西洋まで歩き、さらに渡欧。7年後に戻ったが洗礼を受けていたので幽閉されて終わる。
 江戸幕府は水晶の発掘を禁じていた。p.144
 バビロニアとインドでは太陽神をミトラという。
 ケルト戦士は首にリングを巻いただけで全裸で出陣?
 古代ローマの主婦は左手中指に鍵つき指輪。着物にポケットがついていなかったので。また朝から入浴するので。帝国が衰亡し奴隷が解放されると呑気に入浴もできなくなり、鍵指輪もなくなった。
 婚約指輪は古代ローマに発する。
 封建時代には、主君が臣下に槍、剣、旗、手袋を下賜した。
 ルネサンス人の宝石ランキングはルビーが一位でダイヤは三位だった。
 ダイヤモンドはアーサー王伝説にも登場するが当時はインドが主産。18世紀にブラジル、19世紀に南アフリカで大鉱脈が発見された。
 欧州の痩せ地では農民も移動が求められる。逐われる商業民族もいる。嵩張らない動産を身に着けているのが安全で有利。しかし日本の気候では土地は決して捨てるものではなかった。つまり不動産こそが宝。
 水と接することが多い日本の農耕文化もアクセサリーを排除した。
 疫病が流行し、陰陽道がアニミズム(勾玉、呪術)を駆逐した。「弥生時代に魔除けとしての呪術信仰がアクセサリーから他の金属『宝器』へ移行したので、アクセサリー文化が低調になった」(p.194)と著者は考える。
 ※誰も気付かない謎に挑んだ好企画ではないでしょうか。そして明快な答えがまだ出されてはいないようなので、読者がさらに想像を付け加える余地もあると思いました。兵頭の考えはこうです。金属器をもった渡来人が、あまりに急速に土着石器人を平らげてしまった。金属器(特に武器)がその過程で神のような働きをし、「玉」は護符性を失墜した。それに次いで、金属農器をたくさん持った者と持たざる者との経済力の格差が日本では圧倒的になると分かってきた。「鎌足」という名前がそれを象徴します。少しでも財力に余裕があるのなら、宝石などを調達しているヒマに、農耕用の「鉄刃」を一個でも余計に備えた方が、日本の土地と気候から無限の富を引き出せると知られた。かくして土地こそが宝となった。鉄製農具は使えばチビていく消耗品なので、同じく消耗品の「おほみたから」同様、神性までは獲得しなかった。

再度、靖国問題の大誤解をただす

 昭和天皇は、不吉な敗戦記念日である 8.15 に、靖国神社へ御親拝あそばされたことはございません。
 以下、もし日付等が間違ってたらごめんなさい。

 昭和20年11月20日、靖国神社の臨時大招魂祭に昭和天皇が行幸せられ給う。御親拝。
 昭和27年10月16日、天皇皇后両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和29年10月19日、両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和32年4月23日、両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和34年4月8日、両陛下は靖国神社の創立90周年臨時大祭に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和40年10月19日、天皇陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和44年10月19日、天皇皇后両陛下は靖国神社の創立100年記念大祭に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和50年11月21日、両陛下は大東亜戦争終結30年に当たって靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。

 すなわち戦後の昭和天皇の御親拝はいずれも 8.15 を外してある。これがなぜ当然のことであったのかは、兵頭が過去何回も説明してきましたよね。靖国神社は「戦没者追悼の場」などでは決してないからなんです。

 昭和38年8月15日に天皇皇后両陛下は、政府主催の全国戦没者追悼式に御臨席になりました。が、これも断じて靖国神社「御親拝」とは無関係だったのであります。

 この重い歴史にぜんぜん頓着の無かった愚かな首相が三木武夫だったということは長く記憶されるべきです。後にシナに屈服した中曽根康弘氏も軽薄才子でしたが、やはり日本の総理大臣として最初に悪い前例を作ってしまった三木氏の罪がいちばん重いでしょう。ご皇室が昭和50年を最後として現在まで靖国神社に行幸・行啓し得なくなっておりますのは、この三木氏のせいでしょう。

 昭和50年、三木氏は総理大臣として戦後初めて敗戦記念日の8.15参拝をしでかしました。それだけでなく、社・共・公に問い詰められて「個人の資格」で参拝すると表明したんですね。こんな二重の過誤をやっちまった時点で、そもそも「首相の資格」無し、だと思われます。即刻辞任すべきでした。

 この三木氏のあと、大平首相は8.15参拝をしませんでしたが、次の、適切にも「暗愚の宰相」と人々から呼ばれた鈴木善幸氏が、首相在任中に三度つづけて8.15「私人」参拝をやっちまいました。この人は、正しいとか、正しくないとか、そもそも何も考えていなかったようです。
 続く中曽根康弘氏も無反省にこの悪慣行を引き継いだ。そして彼の首相としての三度目の8.15参拝のとき、肩書きに「内閣総理大臣」を用い公式に参拝したことを、社会党・公明党・社民党・共産党が、三木氏の過去の言質を楯にとって鋭く咎めました。さらに社会党はシナへ通牒します。早速シナの新聞が呼応し、紙上で中曽根攻撃を行ないました。国内に有力な金づるが乏しいのでせいぜいこれからシナ利権で稼がせて貰おうか、とでも思っていたのか、中曽根氏はこのシナからの新聞攻撃にあっさりと屈服して、その秋の例大祭にも出ないと言い出し、じっさい、二度と靖国参拝をしなかったのです。

 この事態は、昭和天皇をとても憂鬱にしました。
 「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」──これは昭和61年8月15日の御製です。

 日本では、戦死者を「追悼」するのは、戦死者それぞれの菩提寺とか、特別な公営・国営の追悼施設ですべきことです。靖国神社はそのような追悼施設ではありません。近代日本の全有権者が、戊辰戦争以降の全戦死者とともに、現今の日本国家の敵どもに対する敢闘と戦勝を誓う場なのです。
 したがって日本の敗戦に関係する日は靖国神社の記念日や祭日にはなり得ない。ましてその日に社頭で「不戦の誓い」をするなど以ての外です。

 この靖国のもつ「場の意味」が理解できているなら、シナも8.15参拝ばかりを攻撃するのは、いかにも捩れた、可笑しな話です。
 シナ人には、近代的神社の意味は理解できません。シナ人に理解できるのは「人格」です。彼らは靖国神社の中に死んだ旧軍人の人格を見て、それらの魂魄が現世人によって鞭打たれていないことが不安なんです。
 ですから、東條英機ら一部の高級軍人だけではない。全祭神が鞭打たれるようになるまでは、連中は決して靖国へのいいがかりを止めないでしょう。これに屈することがいかに国益に反するかは申すまでもありません。

 靖国神社を攻撃することがシナ政府または個々のシナ人にとって「安全・安価・有利」な政治であるうちは、彼らは靖国攻撃は止めません。
 靖国攻撃をかますことで日本人との交渉が何か少しばかり有利になる、と彼らが値踏みしているうちは、攻撃は無限に続きます。つまり、この問題でのいかなる妥協も、ますますしつこい彼らのイビリ攻撃を招くだけです。
 逆に、日本の要人が毅然として靖国公式参拝を──ただし8.15ではなく他の吉日に──続けていけば、シナ人はじきに黙るでしょう。そしてイチャモンをつける標的を他に探すでしょう。

 マルキシズムはもうひとつの宗教じゃないかと、戦前からもう言われていたんですが、シナ人はキリスト教原理主義的な「この世の終末は近づいた」=「各国のプロレタリアよ用意せよ」は、信じません。その代わり、シナの政治家はマルクスから、近代的な人民操縦法を学習して、実践しております。
 ──革命が勝利を得たとて人民の革命的興奮は直ぐ消えるものではない。その興奮をできるだけ長く保持せしめよ。そのためには、人物、公共建造物などに対し、激烈な復讐の手本を人民に示し続けよ。それを決して止めてはならない──。
 つまりシナ政府は「靖国神社叩き」という手本をシナ人民に示して、人民の復讐的興奮を永久に持続させようと図っているわけです。その政府の手本を見習い、人民も永久に「日本人叩き」をすれば良いと思っているのです。
 残念ですが、シナ人がいつの日か近代化しない限り、シナ人のクレームに対していかなる「弱み」を見せることも、現在および次代の日本人の命取りでしょう。

謎の多い文部省の「武士道」関与

 佐伯真一氏著『戦場の精神史 武士道という幻影』(04-5)は、『あたらしい武士道』を書くときに参照できなかった本のひとつです。NHKブックスなので書店で買えるだろうと思っていたのが甘かった。
 以下、おくればせながら例によって内容を兵頭が摘録し、※で私見を附していきたいと思います。
 著者は1953生まれ。平家物語の専門家。
 平曲諸本のなかで『延慶本』が最古の手掛かり。これ、今の定説。他本より詳しい部分は、源氏側の武士たちの勲功談がとりいれられたのが、比較的そのまま残ったのだろう。
 私戦にも軍使保護などの一定のルールがあったことは『今昔物語集』『奥州後三年記』等から分かる。
 文献上で堂々とだまし討ちや謀略を肯定するようになったのは、戦国時代から江戸初期。
 『常陸国風土記』によれば、ツチグモ=ヤツカハギ=山の佐伯・野の佐伯どもであった。※というところからインドネシアのサヤンではないかと昔思ったのである。
 p.44 佐原真が「現状では、縄文時代に戦争があったとみるには充分ではない」と述べているのが、現在の通説的な見解であろう。
 西嶋定生は指摘する。雄略天皇は書状をおくって、中華帝国のために夷や毛人を討つと表現していた。これが国内では、朝廷が華であり周辺民が夷であるとの構図に置き換わると。
 吉井厳によると、ヤマトタケルの物語は「相模〜甲斐」の線が東限であったと。その先には大和朝廷の支配は及んでいなかった。が、5世紀後半には雄略天皇の支配が関東平野に及んでいた。
 アテルイをとらえた田村麻呂の理想化は、清水寺にはじまり、謡曲「田村」で巨大化完成。
 『陸奥話記』は安倍貞任の敗死後の夷を同等の人間として観察している。つまり11世紀後半の東北住民は近畿の日本人とさして違和感はなかった。
 石井紫郎は考察する。暗殺によって敵を滅ぼせば、そこから無限の報復連鎖が始まる。そこで長期利益のために正々堂々とした合戦が選択されたのではないかと。
 富士川合戦のとき頼朝がつかわした軍使が平家に全員斬首されてしまった。これは『山槐記』に伝聞が載るので事実だろう。公戦すなわち叛乱征伐であるので敵とは取引しないという平家の考えであった。平曲では延慶本にだけ見える。
 『続日本紀』が伝える8世紀の内戦では、言葉争いに勝つことが敵味方の士気を決定的に変えた。のちの合戦の「名乗り」も、正義の陣営の正しい言葉の魔力がよこしまな敵に勝つという信仰ではないかと。
 後三年合戦絵詞では、斬首刑される武将は片肌を脱ぎ、髪をかきあげて前に垂らしている。
 読み本系の平曲にある有名なくだり。昔は敵将の馬など射るものではなかった。そのうち、馬の腹を射て敵をまず地面に立たせて戦うようになった。今は、いきなり馬ごとよせてすぐ組み、もろともに落下して腰刀で勝負を決めると。
 こうなった理由に諸説あり。※兵頭いわく。少数の弓の名手しか戦場に存在しないという状況ではなくなってきた。弓が高性能化して、誰が射ても遠くからよく刺さるようになった。反面、精密な狙いは超名人以外にはつけ難くなった。ただし遠くから人体を旨く射て殺してもその首は近くにいる味方に奪われてしまう。これでは損だ。そして多くの場合は、下手糞が遠くからやたらにたくさん射るので、人よりも馬に当たる。これは昔であれば腕の悪さの証明で「恥」だったが、近年誰もが下手糞であるのと、とにかく首をとれば名誉が獲得できるので、どうでもよくなった。かくして、数すくない大将首の手柄に執着する強兵は、射撃の手間などぜんぶスキップして組討ち(死体独占)を狙うようになった。
 観応の擾乱で、大見物人の中、1丈の樫棒と、4尺6寸の大太刀の、馬上一騎打ちがあった。互いの得物が折れて、引き分けになったと。※当時すでにシナ小説の影響があったか。まずガチではありえまいと思われる話。
 石山寺縁起絵巻には、なぎなたを水車のように振り回す僧徒が一人描き込まれている。
 山鹿素行以前の武士を「ごろつき」と見たのは折口信夫で昭和3年のこと。山伏など漂泊民の系譜だとした。
 p.122 シーボルトは学生時代の決闘で顔に2、3カ所の傷があった。※著者はドイツ学生の決闘遊び「メンズール」を知らぬ模様。なぜ顔だけなのかを考えたい。
 非武装のことを白装束ともいった。
 鎌倉〜室町時代、不意討ちや騙まし討ちを「スカシ」「すかす」と表現した。
 p.137 宇治川先陣の佐々木は「嘘」をついた。※然らず。本当に腹帯が弛んでいたから、梶原も締め直したわけである。この疑問は学習院院長時代の乃木大将も抱き、人に尋ねて、納得している。
 『理尽鈔』出て、智謀・謀略礼賛となる。同書は江戸初期の知識人に大きな影響を与えた。特にその秩序感覚に。ex:将がいつも約束を守るようにしているのは、いざという時に謀略を成功させるためであると。※ある武将がいつも虚言を吐かぬようにしているのは、一生に一度、敵に大嘘ついて騙してやるためであると、日本の何かの古い文典に出ていたが、いま思い出せない。
 『理尽鈔』いわく、孔子や釈迦も自分が尊敬されたいから教えを説いたのであると。利己的で愚かな民衆に秩序を守らせるために、神や仏を信じさせておけと。また寺院に次男・三男を出家させれば国の過剰人口を制御できると。※チベットのラマ教寺院の知見ではないか。
 酒井憲二いわく『甲陽軍鑑』の写本の本文は室町時代の言葉をよく残しているから、高坂彈正の口述をもともと多く含んでいただろうと。
 軍鑑のなかでは虚言は「計略」とされ、「謀臣」はシナでも悪いことではないと。腕は曲がらなくては役立たぬ。曲がったことも必要だ。
 相良亨は軍鑑を深く読み、他人に頼らず付和雷同せず身を飾ろうとせず事の真相をみきわめることができ計略にひっかからないのが真の武士で、その反対は女侍だと。
 越後流兵法は一つではなく、汎称である。
 北条氏長は「謀略」を適当な判断力のこととし、「計略」は用間のこととする。
 孫子の「兵は詭の道也」に氏長は悩まなかったが、素行は悩み迷った。室鳩巣は『駿台雑話』で素行の苦しい解説を笑って、「詭」は「詐偽」のようなBADな意味ではないとした。
 武士道の近世的継承である教訓書として力丸東山『武学啓蒙』(1802)がある。
 『葉隠』が、上方風のうわついた武道と難ずるのは、犬死にに価値を見ようとしない『理尽鈔』のことである。その中に「図に当たる」という表現が多用されている。『理尽鈔』こそ江戸初期のロングセラーで、「『葉隠』はそれに反発したつぶやきに過ぎない」p.212
 葉隠には「異端の書」という位置づけがふさわしい。その精神は伝統的潮流となって次の世代に継承されたわけではない。p.220
 ※長いコメント。S15年7月、ドイツ便乗軽薄内閣である第二次近衛内閣が、組閣するやいきなり大きな方針を打ち出しました。『葉隠』テクスト、特に「武士道とは死ぬことと…」のくだりを、戦前の三島由紀夫や小林秀雄が読むことになったのは、この大きな方針の小さな結果だったんです。まずS15-7-26の閣議で「基本国策要綱」の三の(1)として「我国内ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ、自我功利ノ思想ヲ排シ、国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス」等と決定されます。ついでS15-8-1の閣議で「基本国策要綱ニ基ク具体問題処理要綱」が決まった。そのイの一番の要目が「一、国民道徳ノ確立」で、起案庁は企画院と文部省です。ちなみに企画院というのは、近代日本をダメにした統制バカ官僚の巣窟でした。イの一番に掲げてはいますけど、もちろん教学事業なんか経済官僚にはよくわからないからすべて文部省に丸投げです。おそらく文部省はこれあるを期して早々と『葉隠』をチョイスして出版事業を進めさせていたのです。栗原荒野のフルテクスト校注の『葉隠』が刊行されたのが昭和15年2月。同じくフルテキストを和辻哲郎らが校訂する岩波文庫版の『葉隠』(上巻)が出たのも昭和15年の4月。どっちも第二次近衛内閣よりずっと早い。これは不思議なことですが想像は容易で、すでに各省の浮薄な官僚どもが1939年9月の欧州大戦勃発直後から松岡洋右らにそそのかされ、大車輪でこうした事業に先行着手していたのでしょう。この他、昭和15年には口語訳の三冊本も出ている。あのフレーズは、文部省とシナ事変以降の陸軍省が結託して人工的に「古典的名句」に仕立てたものです。
 「武士道」を嫌って「士道」を標榜した儒者も、中江藤樹以降、多い。徂徠も野蛮の武士道を難じた。
 松陰は中谷市左衛門という武士を紹介し、彼は寝首をかかれないように、熟寝中でも一呼かならず醒める、と。古川哲史は、松陰が特に『武道初心集』の影響を受けていると。
 鉄舟の『武士道』がすべてM20の口述であるかは疑問。出版年はM35である。
 新渡戸の意識では「武士道」は彼の造語。よって古来の武士道とは内容が違っていて当然。ただし米国刊行と同年に日本では三神礼次『日本武士道』が刊行されている。
 新渡戸がM4に東京に出てきたとき漢文や国語の学校はもうまったく廃れていた。だから新渡戸は和漢の古典には詳しくなれなかった。
 1898に植村正久が「基督教の武士道」を著わしている。
 「どうも新渡戸は、キリスト教文化に比べて、日本の武士の道徳は、正直という徳においてやや劣ると感じていたのではないだろうか。」p.267
 ※ただ「嘘をつかない」ことを学ぶだけで、日本人は近代に対応できた──と兵頭は思って『あたらしい武士道』を書き上げました。

ゴロリンピック

 総合格闘技で「小手返し」をきめた例はない、と昨年の小著『あたらしい武士道』に書いてしまったんですけど、04年末のPRIDEで、曙が「リストロック」をされてタップ負けしたらしいですね。わたくしはこれをウェブのニュースで読みました。
 どうやら、これまで「手首の関節攻め」は、お仲間である相手選手の身体破壊につながる危険行為であるために、総合格闘技のショーでは自粛されていたのだろうなと、推測ができるかと思います。ホイス選手としては、曙との体格差がありすぎるために、ふだんならば遠慮をする手首の破壊ワザを、敢えて仕掛けるしかなかったんでしょう。
 もちろん曙選手がたわいもなくこれにやられてしまったのは、単純にこのワザに無知だったからだろうと信じられます。柔術家だと分かっている敵が両手でわが手首や前腕を掴んできたなら、すぐ反応しなければ致命的でしょう。
 わたくしも4級で柔術をやめてしまったので偉そうな指導は誰にもできるわけもないのですが、道場で「あ、これは危険だ(そして実戦向きだ)」と思った手首と肘のキメ方があるので、ご紹介しておこうと思います。こういうのに無知だと本当にシャレでは済まないでしょう。
 まずとにかく、手首の骨の太そうなご友人に頼んで、仰向けに寝てもらってください。
 その、寝かせた敵の右脇に、じぶんは腰をかがめて立ちます。
 そして、敵の右前腕を上に伸ばしてもらいます。手先はグーにしてもらいます。
 それをわが両手で掴むのですが、このとき、わが右掌は敵の拳を真上から包み込むように掴みます。わが左手は敵の手首を素直に握ります。
 そのまま、敵の右手首を敵の右肩に押し付けていきます。わが右掌の包み込みと押し付けの力が十分にあれば、敵は手首が屈曲してしまうために存分の抵抗ができません。最後は、敵の右拳が敵の右肩を自分で殴るような感じで、くっつきます。
 この押し付けの動作と同時に、わが右足の爪先を、敵の首の右側面から首の下へこじ入れ、敵の首を、われから遠い方に脛で押しやるようにします。すなわちこれにより、敵はじぶんの首をじぶんの左肩の側へ曲げさせられます。(この所作に何の意味があるのかというと、次のキメの痛みがぜんぜん違ってくるんです。首が自由であれば、敵はあるていど我慢し続けてしまいます。なお実戦では、事情によっては、わが右足刀で敵の気管を圧する場合があり得ましょう。)
 次に、わが両手に力をこめて敵の右手首をわずかに握り直し、われから見て、徐々に9時の方向へ動かします。このとき、敵の右手首は敵の右肩からすこしづつ離れていく。と同時に、敵の手首の地面からの距離も、すこしづつ増すようにします。とうぜん、われによる「捻り」の力も全力で加えつつ、おこなうのです。
 すなわち、われの両手は、ゴルフクラブのスウィングをするように9時方向に動くのですが、そこに、自然な回転方向の捻りの力も全力で加える。
 動かし始めて1秒で、敵は「ギブ・アップ」の意思表示をするはずです。肘が伸びきるより、ずっと前にです。
 わたくしは無知ですが、おそらくそこから手加減せずに2秒進行させると、肘が伸びきり、敵の肘および手首は壊れてしまうのではないでしょうか。
 柔術では、仰向けに倒して伸ばしきった敵の右肘をわが左膝に押し当てて折るという荒ワザがあるんですが、それよりもこのキメ方の方が力もいらず、時間も短くて決着するに違いないと、素人なりに思いました。つまり、これは「一対多」にも向く瞬殺ワザです。
 ただしこのキメは総合格闘技の「ショー」にはまったく向かないでしょう。ギャラリーには、何でタップするのか分からないはずです。あまりに早く決着するので。そしてもし「勢い」がついたり、ショーのために「見得」の静止時間を設けてしまいますと、手加減が失敗し、相手選手の骨を壊してしまいかねないでしょう。
 リストロックもそうですが、相手が曙選手のような頑丈な大男であり、かける側がホイス・グレーシー選手のような熟達者であるからこそ、「ショー」としてハッキリ見ばえがして、しかも相手に永久負傷をさせずに済ますというコントロールが可能になるのだと、想像をしております。

新刊を勝手にご紹介します

 先日の上京で大盛堂で買ってきた本の中の一冊をようやく読み終わりました。松村昌廣氏著『軍事情報戦略と日米同盟』(04-12)。著者は1963生まれ。
 以下、内容摘録、および所感のメモです。※印がついているところは、まるっきり兵頭の思い込みです。他も、文責は兵頭です。

 米国の軍事情報通信システムは、core,tasking(収集情報の優先順位を決める),collection,processing,dessemination(利用者への供給)からなる。
 MASINT(Measuremant and Signature Intelligence)というのがある。※「どの通信機を使っているか」の追跡のことだろうか?
 インターネットを暗号付きで利用する方式が三軍にある。
 p.18 ペンタゴンと市ヶ谷のホームページの公開情報には雲泥の差がある。米国が公開している内容をなぜ隠すのか? ※ここに日本の「エリート」がアメリカに勝てていない原因および結果が存する。兵頭も初期の旧著でこの意味を考察せざるを得なかった。
 SSM発射炎を探知するDSPはいま静止軌道上に5基あるが、これを新型静止衛星×4と長楕円衛星×2に2006以降更新する。さらに低軌道周回のRV捜索追跡衛星を24基、回すつもり。※2007からのMDに間に合うか。
 AWACSとJSTARSの機能は将来、レーダー衛星によって代替できる。※鉄条網が風に揺れてドップラーになり強調されていた第一次湾岸戦争時のJSTARSの合成開口レーダー画像は高度200km以下をパスする衛星からなら得られるかもしれないが、衛星には赤道以外の特定上空にロイタリングできないという決定的な不利がある。これをどうするか。
 クリントンは2000-9にNMDの採用を見送ることにした。※財政健全化よりも大事だとは思えなかった。9.11以前で、抑止は十分と考えた。
 9.11後にロシアはABM条約の廃止を呑み、米国との対等の地位を公けに放棄した。
 情報RMAは「支配的機動」「精密交戦」「全次元防護」「効率的兵站」を眼目とする。ステルス技術は「精密交戦」に包含されている。
 WWI後、英の国際問題研究所と米の外交問題評議会が交流し、政策型知識人が同盟の下地を作っているような関係は、日米間には無い。
 NSAにおける、フランス、イタリア、タイの位置づけ(ドイツ、日本、韓国、トルコ、ノルウェーと同等なのかそれ以下なのか)は、不明である。
 インテルサットが701型から703型になり、南半球への電波ビームが細くなったので米英の傍受基地ではサイドロブをコレクションできなくなった。そこで80年代半ばから海外傍受基地が増やされた。
 NSAが日本に設けた衛星傍受拠点は三沢にあり、処理拠点は千歳、九州、東京にある。
 イリジウムは低軌道のため既存傍受施設ではコレクションしにくかった。※それで経営破綻させられた?
 93年と95年にNSAは日本の自動車に関して露骨な諜報を展開。※これがバレているのは、クリントン政権のやり方に反対の人がいたからだろう。
 米の衛星情報は、日本の外務省の北米局か、防衛庁防衛局の対米・安保政策責任者に渡される?
 イスラエル国内に、米軍基地および米軍のプレゼンスが無い。両国の軍隊は、共同作戦をしたことがない。
 「リンク16」のようなシステム統合技術を米国から暗号のブラックボックス付きで貰ってはいけない。まず自前のユニークなシステムで三自衛隊を統合してから、そののちに米軍と繋げるべきである。
 RMAはまだ起きていない。既成の如く報ずるのは情報操作である。
 「リンク11」は短波を使えるので電離層で反射させれば500kmの通信ができるが、単一回線を順番待ちで使っていくロールコール方式であるため、データ量が画像に対応できず、文字中心となる。「リンク16」はUHFなので水平線までの32kmの見通し交信しかできないが時分割多重接続方式なのでデータ量が画像に対応できる。しかも傍受や妨害にとても強い。
 KH-11の後継機「FIA」が2005に上がる?
 p.116 RMAの目指すところ、米国は陸戦(接近戦)を同盟国陸軍に分担させようとするだろう。米軍の近接戦闘能力は弱まるだろう。
 ※アフガン戡定作戦がイラク戦争でも再現されていたなら、そのようになっただろう。かつてパクス・ロマーナが崩れたのは、ローマ市民が、小刻みな戦争の反復と、短兵を揮っての白兵戦を厭うようになってからである。ガリアと近東の戦場を最後に制圧したのは、飛び道具ではなく、短い刀剣を手にして陣形を固く保持し抜いたローマ市民の重装歩兵の勇気および規律であった。大きな戦争を一回して勝ち、あとは平和の配当を楽しもうと市民が思うようになったら、辺境での小さな反乱は放置され、ついには破滅的な大戦争を招く。この教訓を英米指導者は知っている。イタリア人はチビなので、だんだんにこの気概を失ったが、幸か不幸か英米人はガタイが大きく、hand-to-hand の接近戦に生まれながらに自信を持っている。さらに第一次湾岸戦争以降、暗視技術の多用で、映画の「プレデター」の味もしめてきた。これに文明的優越と武芸鍛錬文化と軍隊の実戦的訓練とエリートの気迫が伴っている。
 p.119 RMAはビジネスにおける革命の軍事応用にすぎない。問題はむしろ既存の軍隊(三自衛隊)が組織としてそれを受け入れないことにある。
 ※「諸列強」と書いてあるが、列強は the great Powers の和訳でたぶん最初から複数概念だろう。
 米軍も通信の95%は民間衛星利用で、専用軍事衛星利用の通信は5%のみ。
 p.121 日本が打ち上げた偵察衛星のうちレーダー衛星は「夜間・悪天候の下でも移動物体が捕捉可能」。※これは米軍の計画中の衛星と混同した誤記か。
 p.125 「わが国憲法が集団的自衛権の行使を禁ずるとするかぎり、共同攻撃作戦を可能とする米国との高い水準のデータリンクは憲法の要請に反している。」
 ※加藤健二郎氏の名を「健二朗」と書いているのは元本の誤記なのか?
 米は仏の『シャルル・ドゴール』のために「リンク16」を供給している。E-2Cと母艦を結ぶ。
 「リンク22」は「リンク16」より劣った廉価バージョン。11と22はどちらもUHFでも使えるのだが16のような容量はない。
 UHFでグローバルに通信できるのは米軍だけ。他の国はまだ短波依存。「スーパーバード」が使えない遠洋では、海自はインマルサットなど外国の通信衛星と、リンク11の短波に依存するほかない。
 BADGEには空自独特の暗号が用いられてきた。そのためE-2Cはもともと米海軍の飛行機であるのに、海自や米海軍とは接続ができない。日本のE-2Cは空自のF-15ともデータリンクの相性が悪かった(元米海軍機と米空軍機なので)。また、空自のリンク11は海自のリンク11とのインターオペラティビティは無いだろう。
 自衛隊でリンク16が使えるのは空自のAWACSと海自のイージス艦だけ。
 海自はリンク11でもリンク16でも米海軍に完全に情報通信面でとりこまれつつあるが、空自は米空軍との情報通信共有を拒否してきたようだ。すなわち空自と米空軍は「リンク11」がつながらない。ただし近年の共同訓練に参加しているロットのF-15は謎。※AWACSだけが確実に米空軍とリンク16でつながるわけか。ということは浜松のE-767の行動に注目すると米軍の気にしていることも読めるわけか。
 巡航ミサイルやステルス対策で有効なレーダー情報の統合運用は、米英海軍間で実現している。弾道ミサイルの脅威にされされていず、イージス艦をもつ必要にない英国は、この選択にとびついたが、結果として、米軍情報なしでは行動できない海軍になるだろう。豪海軍がこれに続き、その次は海自になりそうだ。この投資が巨額と見積もられるので、海自は隻数削減を呑んだ。※米はマルチスタティックレーダーを艦隊のソフトウェア上で実現しようというのか。技本で研究中のバイスタティック/マルチスタティックレーダーは察するところ次期国産BADGEだから空自専用、本土防空専用ということか。
 p.160 自衛隊が低い水準のデータリンク能力しか持たないのであれば、自衛隊は高いレベルの対米協力活動はできず、米軍は単独で行動するだろう。
 リンク16を採用しつつ、同時に米国の暗号ブラックボックスに支配されない選択肢として、英国BAE社が今よびかけてきている日英共同開発案に乗るという手がある。
 2001から英潜水艦隊が導入したトマホークの地図情報は、軍精度GPSデータの鍵とともに、米軍が供給する。このアクセスは米はいつでも拒否できる。つまり英国は米国に相談なしではトマホークを発射できない。
 英はF-35の開発コストのうち4000億円を負担したが、米はアビオニクスを英に開示せぬ方針である。
 仏やイスラエルが米(NSA)と結んでいる暗号保全協定(GOSMIA)を日本も結んで、三自衛隊の独自データリンクをまず達成してからリンク16を導入しないと、米のリンク16の暗号ブラックボックスを日本は使うしかなくなり、その結果は日本のミサイル発射権をすっかり米に渡すに等しい。
 p.173 三自衛隊は暗号も共有していない。
 海自のMOF(基本的に文字データ)と空自のBADGEを早くリンク11で結んで共通戦術ピクチャー(陸自のオーバレイマップのCRT版のようなもの)をつくれ。
 海南島に01年に着陸したEP-3はリンク11で、その暗号の鍵はCD-ROM供給であった。※てことはCD-ROMを瞬時に破壊する保全装置が機内にあるのだろう。あるいは鋏で切って窓から投げ捨てか。あるいは「自動的に消滅するCD」か。
 リンク16の暗号鍵は48時間で切り替わる。周波数はランダムホッピングだし、元データにも暗号がかかっている。リンク11はホッピングしない。
 秘匿性が重視される軍用のデジタル交信では互いの装置をまず認識しなければならず、そのために互いの位置を正確に知っていないと通じない。リンク11で457m、リンク16では9.8mの誤差しか許されない場合がある。
 オランダ海軍はNATOのソースコードに依存している。つまりは、独自行動はしないと決めているのだ。
 C3I担当の国防次官補には三軍にああせよ、こうせよの権限がない。米三軍も相互データリンクを嫌う組織文化があった。
 2002時点で英国防省は将来常に米国の援兵として共同作戦をすると公表している。
 韓国はイージスシステムを輸入することにしたが、通信ソフトは暗号も含めてフランス製を選んだ。つまり米国と共同作戦しないことを決心している。
 最初にインド洋に派遣された日本のイージスはディエゴ・ガルシアの防空が任務だった。つまり海自として初めて米海軍の実戦の「ピクチャー」をリンク16経由で貰った。ただし第七艦隊と第二、第六艦隊とでは暗号が異なるので、当初はうまくいかなかった。
 二国以上の合同司令部の形態には三つある。WWIIの米英、あるいは戦後の米加の方式。朝鮮戦争の一国主導方式。そしてデザートストームの並立方式。日米同盟は現況ではデザートストーム型。
 空自には「単独防衛」の気概があったから、指揮通信システムはまったく自律的なものになった。海自は最初から米海軍との共同作戦しか念頭になく、ROE共有を急いできた。※おそらくF-35導入決定は海自の政治力が空自を上回ったということだろう。空自のホンネは国産がベスト、F-22が次善だがライセンスでないなら断る、というところか。外務省より防衛庁が、その防衛庁の中でも海自派が、さいきんノシてきた。その背景には米国との親密度の差があったというわけだ。
 イージスのレーダーは低空目標に対して72km有効。※どのくらいの「低空」かだが…。
 最大18目標と交戦できるが『こんごう』は終末誘導レーダーを3基しか有しないので同時に3目標にまでミサイルを発射できる。
 ミニ・イージスと呼ばれる『きりさめ』は大型航空機を200km先で捕らえるのみ。
 2004年度内に海自のイージスは全部リンク16対応となる。
 p.220-3 「悪魔は細部に宿る」ので日米同盟全体のべき論など無意味。自衛隊が指揮組織上の、また通信システム上の統合を自己実現しないうちに海自が米国製のリンク16を使い出してしまえば、もはや三自衛隊は分断され、米国の走狗となるばかりである。拙速に米軍とのシステム統合化を進めてはならない。「日本政府はインド洋へのイージス艦派遣を断念すべきであった。」
 p.229 イスラエルは米衛星から直接、早期警戒情報をダウンリンクできる体制を敷いている。
 98年時点で、米国から日本に早期警戒情報が届くまで8分かかる。北鮮のSSMは7分で落達するのだが。
 米海軍の原子力正規空母は調達コストだけで1兆円以上。ランニングコストは毎年260億円。米国はこれを12隻揃えて保持しつづける予定で、加えてハリアー空母になる海兵隊の強襲揚陸艦を12隻もつ。
 大型空母の寿命は50年。ニミッツ級は23年たったら炉心を分解して核燃料や内壁等を交換しなければならない。そのドック作業には2年半もかかる。
 正規空母はニューポートニューズのドライドックでしか作れない。同時に1艦しか船台に置けないのだ。
 2000年のジャパンハンドラーズによる「アーミテージ報告」とは何を要求したものであったか。米空母艦隊がインド洋に集まった場合、正規空母の空白となる西太平洋では、ハリアー軽空母(強襲揚陸艦)と海自の艦隊がその穴を埋めて欲しいというのだ。海自の16年計画型DDHはそれに呼応している。
 日本政府は集団的自衛権の行使が必要であることを自国民に説明せずに「事務方同盟」が続いてきた。
 わが国の輸出に占める米国市場の比率は25%あり、ドイツの8%より高い。東アジアからの迂回輸出を含めると米国市場依存はさらに高い。
 日本は経常黒字を出しながらその金融資産を自国内の金融市場でほとんど運用できぬため、米国財務省証券を購入した。
 日本が米国の走狗とならず、日米同盟を「共同体化」することもできなければ、「周辺地域に対する限定的抑止の目的で短・中距離弾道ミサイル搭載の核戦力や巡航ミサイル搭載の小型戦術核兵器などを保有する可能性は想定できよう」p.288
 ※シナ奥地に届く核ミサイルは米本土に届いてしまう。短射程の核兵器もヨコスカやカデナやハワイに届いてしまう。そしてシナ奥地に届かない核ミサイルは「抑止」になるのだろうか。抑止は1(抑止ができる)か0(抑止ができない)かしかなく、「限定」も「非限定」もなかろうと思うのだが。敵がもし核ミサイルを一発発射してきたら、その後は「抑止」の話ではなくて、「核戦争遂行」と「民間防衛」の話であろう。
 パトリオットのPAC-2はライセンス生産のため日本側ができるのは発射ボタンを押すことだけ。※そもそも空自の長射程SAMはBADGE連動だから、ナイキも有事には半自動発射のようなものであった。そして初期のBADGEは米国のシステムではなかったのか。
 横須賀に核燃料の処理施設がないので、2008以降の米空母は本国まで燃料交換に行かねばならない。
 海自の作戦艦艇54隻は英仏海軍の34隻と比べてかなり多い。予算が増えないとすれば、隻数を減らして軽空母中心に再編成し、英式の現代化をはかるしかない。本国防衛だけならその軽空母中心艦隊が計3つ、遠征艦隊も持つ気なら、つごう4つ必要だろう。※かくしてF-35というわけか。
 海自潜水艦隊は質量ともに増やす必要がある。艦齢を延長し、25隻体制にしてほしい。通常型なのに大型化しているのはおかしい。光学潜望鏡もおかしい。乗員は3割減らせるはずだ。射程110km、弾頭重量230kgのハープーンは対地攻撃用に改造できる。それに核弾頭をつけてAIP潜水艦から運用できるだろう。p.296
 ※以下、コメント。電気通信の見地から軍事・国際関係を語れる日本人が登場することを、長年待っていました。このような著作・著者が少しでも増えていくことを期待します。そして願わくは、東京の大きな書店でしか買えぬ書籍上ではなく、見易いHP上で毎日のように啓蒙を続けて欲しいと思わずにいられません。そうなれば、このような恣意的な摘録で内容紹介をするというご無礼も敢えてしなくて済むわけです。

バラけてよろしきものと、よろしからざるもの

 90年代に自民党が政権を一回、明け渡さざるを得なくなったのは、テレ朝とTBSの夜の報道番組が原因だと言われました。
 昼のワイドショーや、女性週刊誌や、タブロイド版夕刊紙を、これに加える人もいます。しかし庶民に対する「洗脳力」では、夜のプライムタイムの地上波TV放送に勝るものはなかったんでしょう。わたくしは、NHKの総合と教育も、かなり悪さをしたと思っていますが…。(「グラムシ戦術」につきましては04年の「武道通信かわら版」バックナンバーに縷述しましたので、未読の方はググってください。)

 ところが、その、敵に自分の首を絞めてもらうための「縄」を渡していたのは、他ならぬ自民党の郵政族(旧田中派)だったのでした。

 アメリカの半分の人口と経済規模がある国で、どうして首都圏の民放地上波TVチャンネルがたったの5局しかないんですか? 人気スポーツイベントでもない番組が10%以上の視聴率を取るなんてことが、そもそも日本が「メディア先進国」とは程遠い環境にある証拠なんです。

 つまり、自民党田中派が角栄いらい電波をメシの種の利権にしようとして、自由に参入が許されるべき民放局の数を極端に制限してきた。放送局と広告業界と電波行政と族議員と国会クラブの政治部記者どもは癒着結託をしてきた。
 その因果の小車がついにめぐりまして、たった一人の久米宏氏に、愚かな庶民の投票行動を左右させてしまっていたのです。庶民が愚かであり続けるのは、放送行政が近代的でないからです。日本国を実質指揮している5%の非庶民は日夜忙しくてTVなど視ていません。その反面で、95%の庶民はTVしか視ません。その庶民が国会議員の当落を左右するのが民主主義ですが、その庶民の投票行動をごく少数のTVスタッフが左右するのは、成熟した民主主義ではありません。

 いま、デジタル地上波TVの放送タワーを2007年、あるいは2011年までに首都圏のどこに建てるかという実に馬鹿な論議が進行中です。これは、日本国をどうやってメディア環境の上でも良き国にするか──とは何の関係もありません。日本国民をどうやってメディアが幸せにしていくか──とも何の関係もない、只の利権ビジネスなのです。
 TV受像機切り替えの泡沫需要を狙いたい家電業界と経産省、1つの番組に今まで通り10%以上の視聴率を維持させて広告収入を高く請求したい電博と番組制作プロダクション、観光客を集めたい巨大タワーの膝元商店街、500億円の受注をとりたい土建業界、そのキックバックを当てにする関連議員らが、己れらの全く一時的な金儲けのためだけに運動しているのに過ぎません。
 これは経済的にはミクロなバブルにしかなりません。然るにその結果、第二、第三の久米宏氏や「グラムシ戦士」たちが今後何十年もまた政局を壟断することになります。95%の庶民はますます愚かになり、日本は完全な知的階級制社会になります。これは正味では日本国民の損失でしょう。

 「新東京タワー」構想が国策上、間違っている理由として、それが近未来の核戦争をまったく想定していないこと、があります。(これを指摘する人がいないのも情け無い限りと言うしかありません。)

 ビンラディンがNYの貿易センタービルをターゲットに選んだのは、あのビルにあった通信設備が破壊されれば、米国の銀行決裁が全部止まる、……すなわち、ドルの世界支配を大混乱させてやれるだろうと考えたからです。しかしそうはならなかった。じっさいの通信は、核戦争を考えて分散されていたからです。あのアンテナは広告的象徴でしかなかったんです。

 通信や放送は、これからは分散的であるほど国民の福祉には適う筈です。ニューヨークやシカゴのように、摩天楼にデジタル地上波の送信設備を各局個別に設置するのが合理的でしょう。
 そして、大都市圏とそうでない地方とのデジタル・デバイドを解消する準天頂衛星は、前倒しで実用化すべきです。(そのための新ロケット射場の確保を含めた宇宙事業の見直しについては04年の『納税通信』紙上で提言しました。)
 政府は政府専用のチャンネルを短波ラジオとインターネットと衛星で複数確保し、NHKは分割してできるだけ多数の新民放の事業体に売却すべきです。

 バラける方がよりマシになるものとしては、放送の他に、金融機関があるでしょう。
 民主党西村議員が大蔵省に反発するのは分かるもののその余勢で「減税」政策まで唱えるのは軽忽です。日本経済の需要の不足は、日本経済が自由経済に未だなっていないことと、国がハイテク軍需を主導せず、単年度会計の土木建築や補助金バラ撒きで税金を文字通りドブ(=最下流)需要にただ流し捨ててしまっているのが主因です。
 不自由経済の元凶の西の横綱は「金融商品の不自由」です。もう米国のITバブル、「ニュー・エコノミー」の90年代から知られていたことです。残念ながらわたくしと同年齢の元エリートバンカー木村剛氏すら、いまだに「銀行は分割して小さくするほど自由経済に貢献できる」ことを認めることができないようです。
 『あたらしい武士道』にも論及したように、人間の最大の戦闘器官は頭の中にあります。その一点で日本の選ばれた人材が北鮮やシナや米国のカウンターパートに劣れば、軍事でも政治でも経済でも、日本はとめどなく後落していくしかないですね。

強者に対する卑屈さ

 あまり関心がなかった山下奉文将軍の伝記を、福田和也氏の新刊で読んだ。
 以下雑感。
 高知県の杉村の大杉とは、拙著『日本の高塔』p.87に紹介した長岡郡大豊町のものと同一のものだろう。あれを調べた99年当時、高さ68m、さしわたし7mで日本一の杉だったが、これが山下将軍とゆかりがあったとは知らなんだ。

 山下のキャリアで最も興味深いのは2.26関連ではなくて、1940年7月から航空総監となり、同年12月にドイツに調査に行って、何を感じてきたかだ。
 シナ事変での海軍航空の万能ぶりをその目で見ているはずの山下は、「海軍主導の統一日本空軍」を是としていたのだろうか? それともあくまでドイツ流に、陸軍の補助兵科としての対地直協空軍しか考えていなかったか。そこが知りたい。
 これは防研に生史料も多いはずで、しかも兵頭が『日本海軍の爆弾』や『パールハーバーの真実』を書いていた頃には防研の所員が頻繁に読んでいる痕跡があったから、きっと防研の中の若手研究家が決定版を出してくれるに違いないと思って長年待っていたが、一向にそれが出てこない。
 海軍もこの調査団にはつきあった。それは陸軍主導の空軍構想を邪魔するためであったと思える。その抵抗はあっさりと成功し、WWIIを通じて陸海競合で、あまたの駄作機が研究され量産され、戦争資源がムダ使いされた。
 後智恵では、2式戦があれば雷電は要らず、疾風があれば紫電改は要らぬ。同様、海軍の艦爆があれば陸軍の軽爆など無用で、海軍の陸攻と陸軍の双発重爆も機種統一ができた。「統一空軍」の可能性は大きかった。
 ちなみに大西瀧次郎は、海軍主導の「空軍」構想を戦前から持っていて、シナ事変の陸戦サポートで大いにその実力を見せつけてやったものの、陸海の政治力の圧倒的な差から、最上層部に一度もまじめに検討してもらえずじまいだった。
 敗北の少し前になってようやく戦争指導部が本気になり、「軍需省」を創った。これが要するに「空軍省」のプロトタイプである。そして同省のもとに陸海の航空戦力は生産が一本化されるはず……だったのであるが、陸海軍の双頭制という明治憲法の遺制はここでも合理化努力を押しつぶし、大西は軍需省のナンバー2に甘んぜねばならず(ナンバー1は陸軍人)、終に何の見るべき成果も上がらなかったのである。
 果たして統制派ではなく皇道派の山下がどんな「空軍」を考えていたのか? 残念ながら福田氏の新著でも、それは分からぬ。

 乃木の殉死と山下の刑死を対比しようとすると、話はまとまりづらくなる。
 山下は刑死必至の情勢でなぜ自決を選べなかったのか。「出世レースをかちぬいてここまできた選民中の選民が、どうして自殺などせにゃならんのか」という主役意識であろう。エリートの陸幼組にはそれがあった。大将の次は首相が狙えたのだ。まして他の主役、たとえばライバルの東條が生きている間に、意地でも死ねたものではなかった。「東條ではなくオレに仕切らせてくれていたらこの戦争は負けなかったんだ」と口には出さなくとも陸幼出身の大将はみんな確信していた。そういう病人どもである。
 その東條は一度は位人臣をきわめていたから、満足してピストルの引き金を引けた(外れたが)。参謀総長にも陸相にもなっていない山下は、とうてい人生に未だあきたらなかったと思われる。
 欧米流の古典教養はエリートに何を与えるかというと、「世界はお前を中心に回ってないよ」という諭しである。「俺は所詮ギリシャ人を超えられないのだ」と、自己および現代世間を相対化し、限界を自覚しつつ生きることができて、はじめて世界史的な大事は成るのである。
 乃木には、日露戦争勃発の段階で、死に所は「大将」「軍司令官」ぐらいしか無いと読めていた。生きながら得ても首相はおろか、陸相にも絶対になれないのだと読めていた。それが彼を、天皇だけ見つめる「忠臣」にした。安藤大尉も年は若いがこの境地であった。

 本書で面白かったエピソードの一つは、徴用員としてシンガポールにいた井伏鱒二が、山下に「欠礼」をやらかして、「…無礼者。のそのそして、その態度は何だ」等とさんざん怒鳴られ叱られた、とのくだりだ。
 「のそのそ」というところが要マークである。のそのそしている奴を、軍隊では誰も同情しない。この感覚は、創設当時のフォードやクライスラーの工場ラインでも職工同士に共有されていた。なかなか現代のヒキコモリどもには説明をしても伝わらないところである。

 もうひとつは、敗戦後に収容所で日本兵捕虜が英軍将校から虐められたという話だ。あらためてこんな話を読めば、二度の大戦でのドイツ兵捕虜との違いを、厭でも考えずにいられなくなる。
 マッカーサーが東京市民をつくづくうちながめ、「日本人は勝者におもねる12歳のこども」と評したように、日本兵捕虜たちも勝者に対しては卑屈であった。それが、収容所の看守としてその卑屈さにつきあわねばならなかった英人の側にサディズムを誘発したのである。
 これをむずかしい言葉で説明すれば、日本人に「近代的自我」が無かったからである。
 小林源文氏がさいきん劇画を描いているのかどうか知らないのだが、彼には「近代的自我」があった。彼の劇画のインパクトはそこから来たものだ。これは、ナチ物でない世界を扱った作品で、より明瞭に確かめられると信ずる。
 豪州映画の『マッド・マックス』に日本のマンガ家がインパクトを受けたのも、じゃっかん20歳そこそこのメル・ギブソンの「近代的自我」に触れたからである。
 欧米人は近代的自我を有しているから、これらを見て特にショックを受けたり、作品世界を模倣しようとも思わない。
 これらにショックを受けて模倣しようとする日本人アーティストに近代的自我がない場合は、やはりその模倣はオリジナルに迫るインパクトを与えることができないのである。

 将軍山下は交換可能な将棋の駒にすぎず、シンガポール陥落が世界史的な大事件だったとしても、それを成し遂げたのは山下のキャラクターとはほとんど因果関係が無かったであろう。

遺族年金と遺族票と国民国家

 小泉総理大臣はシナに配慮して2005年元旦の靖国参拝を欠かしました。

 靖国神社は、維新前後は長州藩の団結の霊場であり、日清戦争前後は国民国家が攘夷の勝利を祈る場となったのでしたが、日露戦争後から陸海軍の私物宣伝施設のようになり、敗戦後は近代日本懺悔の場に変質させられつつあります。

 わたくしは何年も前から、靖国神社は近代的寺院(哀悼の場)ではなく近代的神社(国家のための個人の死を誓う場)であること、日清・日露戦争中に果たしていたその「場」の意義を重視すべきであり、敗戦記念日でしかない8月15日の靖国参拝は近代自由主義国民精神として大間違いであることを数度、力説して参りました。むしろ首相は元旦にこそ参拝するのが最も正しいのであると、複数の雑誌で主張したのです。

 そして以前、小泉総理はまさにそれを実行してくれました。
 あの調子のままであったなら、去年のようにシナになめられることはなくなっていたはずですが、なぜか小泉氏はここ一、二年、フラフラしているのです。

 ところでわたくしが、古来の日本の政治権力と社寺の関係、そして靖国問題を最も長々と論じておりますのは、『武道通信』vol.19 に掲載した「武士道と宗教と靖国」という一文です。この号は2002年10月の刊行(通信販売開始)でした。そしてそれ以後、わたくしはあまり紙媒体上でこれに関連しての発言の機会がありません。本人はもう「靖国問題は語りつくした」と思っているわけです。
 しかしながら『武道通信』は何を書きましても残念なことにほとんど日本国民の目に触れることがない媒体ですので、プロの評論家の方々も含め、大半の人は、兵頭二十八の社寺論も靖国論もご存知ないのだろうと思います。
 そこで、この機会に、ごく簡略に語り直してみようと思います。なお、このお話の参考資料や、いろいろな「出典」等に興味のある方は、『武道通信』十九の巻をご覧になれば判明しましょう。

 お守りで有名な成田山「新勝寺」は、平将門の乱を平定したことを記念して造営された寺院で、したがって「神田明神」とは仇関係にあることは興味深いと思います。日本では神社もお寺も、特定の政治勢力の政治的=軍事的勝利を祈願する「場」でした。
 源頼朝が登場しますまでは、朝廷=国家でしたから、天皇および天皇派の貴族が祈る寺社が、国家勝利を祈願する場でした。
 そこに源将軍が登場します。源頼朝は天台宗の法華経の信者で、観音像と念珠を帯びて石橋山に出陣しました。そして幕府を開くや、それまでは天皇の仕事であった「鎮護国家」「敗死者の怨霊しずめ」の場の面倒を、幕府もまた対抗的に全面的に見るという先例が開かれたのです。さらに「味方の戦死者の遺族の慰め」にも大名は関心を払いました。
 南北朝時代の安国寺や利生塔、室町時代の相国寺は、不特定多数の戦死者を弔うことにより、「将軍家が日本の政治を担当して日本国の平和を実現する」との意志を広宣したものでしょう。
 幕末から明治末にかけ、攘夷と開国のどちらにも対応できる宗教として神道が注目されます。「廃仏」はすなわち倒幕運動でした。そして坊主がそれにほとんど抵抗しなかったことは、江戸時代の宗教がいかに世俗化し堕落していたかの証左です。
 明治神道は、近代天皇制の普及にも都合がよく、さらに未曾有の対外国戦争に全国民を団結させるためにも便利でした。

 東京招魂社の大祭日は、当初は勅祭日といい、伏見で戊辰戦争の第一弾が放たれた旧暦1月3日、上野の彰義隊が敗走した5月15日、会津が降伏した9月23日、函館戦争が終った5月18日と決められていました。明治2年の神祇官は、この1月3日を「御一新の基」をさだめた大祭日として特に勅使を立てるのがふさわしかろうと提言していますが、政府は年に1回では不満だったようで、同意しなかった。わたくしには、そこから靖国神社の意義上の混乱が始まったように思われます。
 明治6年2月に、太陰暦から太陽暦への切り換えがあります。このときどうやら例祭日の計算ミスをしたらしく、年内に再び「推歩改定」といって5〜12日の日程の小修正が発表されています。すなわち新暦カレンダー上では1月31日になるとしていた鳥羽伏見開戦記念日は1月27日に。6月9日としていた上野戦争勝利記念日は7月4日に。11月12日としていた会津降伏記念日(政府はこの日のみ例大祭として勅使を仰ぐことに)は11月6日に、それぞれ直されました。
 じつは、会津降伏の旧暦9月22日がちょうど明治帝の誕生日に一致していたため、神社では当初遠慮をして9月21日に例祭日をずらしたのですけれども、後に政府からの指示で旧暦9月23日にずらし直されていました。また、旧暦5月18日であった函館降伏記念祭は、明治5年の政府の達で、旧暦5月15日の彰義隊敗走の日に合併されてもいました。
 想像しますに、こういった経緯の複雑さのため、太陽暦変換するときに、いったい旧暦の何日を基準に計算するのかに関係者の間で思い違いが生じ、その計算違いが、3つの例祭日すべてに及んだのかもしれません。
 明治10年12月、大祭日がまたひとつ加わりました。西南役平定を記念する9月24日です。
 しかしこのようにして固有の戦役と大祭日を結び付けて増加していけば、おのずと1回ごとの行事はおろそかとなり、趣旨的にも混乱を呼ぶことになると予測されたため、明治12年に「東京招魂社」が靖国神社と改名されるのに合わせて、大祭は11月6日を重んじて、その他は大祭としては廃止し、さりながら、1年1回では物足りないので、ちょうど半年ずらした5月6日を新設し、年2回に整理したのです。
 ここには仏寺の「お彼岸」の発想があり、特に現行の例大祭はまるっきりそうです。わたくしは現行の例大祭は尊重しません。

 明治45年12月に、この大祭日がまたもや変更されました。ポーツマス講和の後に行なわれた、海軍凱旋観艦式(10月23日)と、陸軍凱旋観兵式(4月30日)を記念することになったのです。この決めごとが、昭和の終戦まで続きます。なお日露戦争を境に、戦死者は「英霊」と呼ばれます。
 幕末からのロシアの巨大な脅威を、武士ではなかった国民が将士となって退けた日露戦争は、「攘夷」のビッグイベントであることは疑いもありません。ですが、日本という国民国家には、未来にも大苦戦や大勝利があります。
 そう考えますれば、特定の戦役の勝利を記念した大祭日を当座に定めてしまったのは不見識でした。どうも靖国神社は、明治45年を以て、国民国家の神社から、帝国陸海軍の私物の神社に逆戻りしてしまったように、わたくしには疑われるのです。国家指導者層、特に官僚出身者の歴史観が浅薄になったのでしょう。

 わたくしには、靖国神社の大祭として永遠にふさわしくあり続けるのは、伏見開戦の日か、さもなくば正月元日だけだと思えます。

 さて、戦前は、靖国神社の「例大祭」と「臨時大祭」は、旗日でした。
 臨時大祭は、合祀の儀式です。合祀を正式にせぬ限り、戦死者の霊は遺骨のある菩提寺の墓地に居るばかりで分霊されたことにならず、招魂社(靖国神社)には顔は出せない状態に置かれている。
 明治12年に朝野に信じられたことは「もう内戦はあり得ない」でした。そこで東京招魂社は靖国神社と名が変わり、同時に「維新政府の装置」から「日本国の装置」になった。
 大正4年の第39回合祀以降は、青島戦に続きシベリア出兵が長引いたせいか、毎年4月の例大祭直前に必ず臨時大祭を行なうようになる。さらに第53回(昭和13年)合祀より以後は、4月と10月の毎年2度に増えます。これはシナ事変が泥沼化したのに対応していました。
 とはいえ戦前・戦中の合祀はあくまで招魂であって「慰霊」の意味合いは薄かったのです。昭和12年11月18日に、シナ事変に関する最初の戦没者慰霊祭が政府によって行なわれましたが、それは靖国神社が中心のイベントではありませんでした。

 靖国神社の戦後の性格をすっかりゆがめてしまったのは、軍人恩給問題です。
 1945年のGHQ覚書にもとづき、日本政府は46年、軍人恩給を停止しました。
 軍人恩給とは、旧軍人が俸給から1%づつを積み立てていた年金で、ある年数以上勤務した軍人は、退職時月給の1/3が、月々支給されたのです。
 この軍人恩給は、戦死した場合には遺族年金になりました。たとえば2等兵で戦死して、死後2階級特進して上等兵になった場合であれば、1等兵の月給を基準に、遺族に年金が支給されたのです。
 GHQは、さすがに傷夷軍人手当だけは残したのですが、この遺族年金と、退役軍人本人の年金を、軍国主義の温床であったとして、理不尽にも打ち切らせたのです。当然、多くの人が、たちまち家計に窮しました。
 ここから、現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」が始まるのです。

 ポツダム宣言、無条件降伏、東京裁判、およびマッカーサー憲法に日本国民が誰も異議を唱えないとすれば、日本近代の戦死者は全員、悪人になります(本当は、シナとソ連に関しては、向こうから侵略してきたものですから、名誉ある国民としてポツダム宣言を受け入れることなどできないのですが、国体護持を最優先したのです)。
 さすれば、新憲法下の政府には、遺族年金も恩給も支払う筋はない。しかし、一家の稼ぎ手を失った遺族と、老齢の元軍人は、戦後の食糧難とインフレの混乱期を、それでは生きていけませんから、やむなく彼等は「自分達は戦前政府の犠牲者だ」というポーズをとり、軍人恩給の復活運動を進める外になかったんです。
 靖国神社では、昭和47年くらいまでは社頭での8・15の仰々しいイベントには抵抗した痕がある。しかし日本遺族会や旧帝国在郷軍人会/戦友会の何百万もの票をあてにした政治家のマスコミ・パフォーマンスのせいで、次第に靖国と8・15とは大衆の意識上に重ねられます。
 国民の団結と国家の勝利を祈念し士気を高揚させる場だったものが、あたかも国家の「歴史反省」の場のようになっていったんです。小泉首相も靖国に絡めてシナ人に対して反省的な言辞を弄していますが、とんでもない暴言でしょう。官僚も党人も、あまりに歴史に無知なのです。

 日本遺族会の規約には「本連盟は、……平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期し、以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」と謳われています。マック憲法の枠組み内で「犠牲者」「被害者」のスタンスをとってるんですね。おそろしくもあわれなことです。
 昭和25年の参院選全国区で、遺族会は大票田ぶりを誇示しました。が、占領下であるため思うような恩給復活の法律はなかなかできなかった。
 そこで昭和26年2月には、皇居に近い一ツ橋の共立講堂で「第1回全国遺族代表者大会」を開くなどしてアピールを重ねた結果、やっと昭和27年に、遺族年金などを支給する通称“遺族援護法”が成立し、軍人恩給は7年ぶりに部分復活しました(金額が少ないため、すぐに増額運動も始まります)。しかしいくら占領下とはいえこの7年間の政府の無為は、国民感情を致命的に不健全化したのです。

 たとえば、政府主催の全国戦没者追悼式は、昭和27年5月に新宿御苑にて両陛下の御親臨を仰いだのが戦後初でしたが、遺族会は、そうしたイベントを靖国神社で開催するように希望しました(じっさい第2回の全国戦没者遺族大会は、渋る神社側を押し切って境内の大村銅像下で行なっています)。「靖国」「8・15」をマスコミを通じて国民に想起させることが、遺族への世論の同情を集め、恩給の増額や確実な生涯保障を要求する政治圧力を高める上でいちばん効果的だと学んだからです。
 昭和31年、遺族会は次のように要求しました。──靖国神社は「国事に殉じた人々」の「みたま」を祭神とし、「その遺徳を顕彰し慰霊するものであること」と。
 おそらく、昭和34年に完成予定の千鳥ガ淵墓苑(ここには無名戦没者の骨がある)を意識しているのでしょうが、このあたりから、本来、国民国家の神社であるものを、遺族が私物化しようとする意図が露骨化していきます。

 遺族会と利益を共にする「日本戦友団体連合会」(のち日本郷友連盟)も、昭和30年8月14日に、終戦時の自決烈士の顕彰慰霊祭を、また昭和31年8月14日には、殉国諸霊顕彰慰霊祭を、昭和32年8月15日には大東亞戦争殉国英霊顕彰慰霊祭を、それぞれ靖国神社内に執り行ない、昭和33年8月15日には同慰霊祭を九段会館で実施しています。(その前には、昭和27年8月16日に陸軍の終戦時自決者の慰霊祭が、また30年8月14日に陸海軍の終戦時自決者の慰霊祭が靖国神社で行なわれましたが、これは命日にちなんでの関係者だけのもの。)

 こうした運動にあおられる形で、遂に政府の全国戦没者追悼式も、昭和38年からは、日比谷公会堂や、靖国神社のすぐ隣りの武道館で、8月15日に開くことが恒例化していきました。
 けれども1975年に、遺族年金の根拠を磐石にする“靖国神社法案”が最終的に断念されたのは、軍人と遺族への国家の援護はもう十分な水準を回復したと国会議員の大方が判断したからでしょう。
 にもかかわらず遺族会とその票を頼む代議士が「8・15公式参拝」に力点を置きかえて運動を続けたのは、いったん獲得した政治家への影響力を保とうと図ったからです。三木、福田、鈴木と歴代総理はこれに乗りますが、中共が中曾根総理にそれを中止させるという「外交上の大勝利」を上げたことから、今日まで続く不毛な論争を生じています。

 日清戦争中、靖国神社では、月毎に「戦勝祈願祭」を催行していました。これが本来の靖国神社の存在意義であると兵頭は確信します。対米開戦直後の歌『進め一億火の玉だ』の二番の詞:「靖国神社のおん前に/柏手打ってぬかづけば/父子兄弟夫らが/今だ頼むと声がする」──これが靖国神社の存在意義のすべてです。

初春のおよろこびを申し上げます

 2005年からは年頭所感をこのコーナーで書けることになりました。

 いきなり年号表記のお話を致します。昭和35年生まれで記憶力が弱くなってきたわたくしには、「平成ナン年」がパッと出て来ないという悩みがございます。DATEで思わぬ間違いをすれば評論行為が成り立たぬおそれがありますので、さいきん昭和60年代以降の話は西暦で書くことが多くなって参りました。
 みずから「クリスマス」なんぞという耶蘇の土習に親しんでおられる方々が「西暦ハンタイ」を称えるのは滑稽ではないかとわたくしは思います。
 かつての「A.D.」には「基督神の支配後」の意味があり、露骨に西洋帝国主義だったでしょう。しかし、米国の歴史学系のウェブサイトをご覧になればお分かりになるかと存じますが、さいきんは毛唐の連中も、西暦を「広範普及共用暦」といった新時代的な意味に再定義して公用しているのですね。つまり基督教会とはもう無縁だと強調してるんです。それを使うのにわたくしは抵抗がないのであります。
 ただし平成生まれの若い方々には、是非「平成」の元号を使い続けられることをおすすめします。それは必ず世代の一体感を強化してくれることでしょう。そしてたぶんみなさまが44歳くらいにおなりになったとき、わたくしが「平成ナン年」が直ちに頭に浮かばないことがしばしばあると申していたこの辛さに、ご共感いただけるかもしれないと思います。

 さて今年は世界的な「近代的自由主義」と「反近代主義」の闘争から、前者のグループに属する日本国の改憲もしくは廃憲が迫られるに違いありません。
 「RMAパラドックス」によりまして、テロと反テロの「戦闘地域」は、もはや定義不能になりました。また、シナに「防空識別圏」が無いことがよく象徴していますが、反近代主義の連中には国境意識もございません。他者の権利を奪おうという欲求に、ほとんど際限がないのであります。
 他方、すでに基地や港を提供している以上、日本はアメリカのすべての軍事作戦に関して昭和27年いらいずっと後方支援国家であり、一体作戦の一翼を担っております。
 ではどうして日本列島の周辺の公海で米艦が攻撃されているというような場合にも「集団的自衛権」は行使しにくかったのか。
 これは、アメリカは選挙一発で「反近代主義」の連中(特にシナ)に軍事支援をし出すようなおそろしい民主主義国家ですのに、現行の日米安保は、日本側が友/敵を自由に選べる同盟ではなかったからです。
 要するに、アメリカが一方的に日本を保護する枠組みが戦後あり続けた。しかもそれは「5枚綴り証文」になっているので、ただ安保の内容を改定しようとしただけでは、どうにもならなかったのです。
 5枚綴り証文とは即ち、まず「ポツダム宣言」。そして同宣言に謳われたことの執行としての「東京裁判」。そして同裁判の判決を呑みますという署名としての「サンフランシスコ講和条約」。その講和条約を米ソ以外の連合国が承認する前提条件となっていた「日米安保条約」および「マック憲法」です。
 そもそも憲法とは国民と政府・君主の間の契約であって、国民が外国または世界に対して何か約束するものではあり得ません。ところが「マック憲法」の正体は、日本政府が世界に対して「軍隊も自衛の意志も持ちませんから」と約束した、「隠し条約」だったのです。これと日米安保条約が対になって、はじめて米国は旧連合国に対して「日本を米国がコントロールし、旧連合国に対する脅威には二度とさせないよ」と納得させることができたんです。旧連合国とは、現国連「P5」です。
 しかし冷戦を通じて、P5のうち2国はしょせんは「反近代主義」であって、近代的自由主義の米・英・仏とは根本から相容れそうもないのだということが米国指導者層にはだんだんと分かって参りました。この認識は、長期的に、時とともに強まるばかりだった。かたや日本は「真珠湾攻撃」という反近代的な腐れ外道な犯罪をやらかした国でしたが、占領をしてみてよく観察すると、どうもシナ人とはまるで指向が違う。契約を守れる、近代的自由主義を体現できる、ということが、その経済的復活から、否応なく理解されたのです。

 集団的自衛権を実用するためには、この「五枚綴り」全部の破棄が必要なんです。全部無効にしなければ日米同盟は機能せず、日本の安全はかなり危ういものであり続けます。このことは米国はすでに理解していて、いろいろと日本に水を向けてきてくれているんですが、逆に日本の町人政治家がこの構造を理解できないんです。いかがわしい国連などが頼りになると、まだ思ってるんですね。
 日本側がやらなきゃならないことがあります。そもそも「1937年のシナ事変は日本の侵略戦争ではなかった。蒋介石の侵略であった」と米国に認めさせる必要がある。つまり別宮暖朗説が米国に於いて普及しなければ、5枚綴り証文は破り難いでしょう。
 だから05年は、このテーマをめぐる、米国輿論をターゲットとした、日支の宣伝戦の年になります。
 そして日本国内に於いては、官僚出身にしろ党人にしろ、しょせんは町人政治家でしかない近代日本の国会議員に全員ご退場を願うため、「サラリーマン官僚ではない武士道」の探求が真剣に行なわれなくてはなりますまい。庶民から精神改造が必要なのです。
 あらためまして、そのような宣伝や探求の場を、わたくしに与えてくださっているすべての方々に、この場をお借りし、深く御礼の気持ちを申し上げ、また新たな一年のご支援をお願い申し上げ奉ります。