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清張と遼太郎

 2.26に信濃町で軍事学セミナーの一日講師を務むるべく、函館発羽田行き飛行機上の人となった「わたし」は、たまたま機内で消化するためセレクトした細谷正充著『松本清張を読む』を三分の二ほど読んでしまい、ほとんど驚愕する。
 「防衛庁が三矢研究をやっとった1963年に、松本清張は『現代官僚論』を書いていたのか…!」
 「わたし」の講演では、「なぜ司馬遼太郎は1967年に『殉死』を書き、翌年から『坂の上の雲』を書き、74年に『歴史と視点』を書き、86年から『この国のかたち』を書いたか」を、アカマル系の戦後ミリタリー関連書の出版史にフットライトを当てながら説明する予定であったのだが、松本清張という巨大なアカマルの存在はすっかり閑却していた。その清張という謎をかくも面白い摘録で知らされた「わたし」は、もはや当初の講演構想は抛擲するしかなかったのである。
 司馬遼太郎と対蹠的に貧乏であった松本清張は「敗因探求」の本は書かずに一足飛びに官僚研究に向かった。おそるべし、清張。
 そしてこれほど面白い要約の書ける著者細谷氏の前途は洋々としているではないかと思いつつ、「わたし」は、新橋のホテルで読み残しの頁を開くのであった…。

御礼。戦史研究家様。

 掲示板を拝見しました。ご教示賜りまことにありがとうございます。
 調子に乗ってもうすこし勉強させてもらっていいでしょうか。
 明治35〜36年の二等卒が最速で一等卒および上等兵になるには、何ヶ月かかったでしょうか。小生の見当では、ぴたり一年ではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。

 伍勤と兵長の相違も初耳でためになりました。
 自衛隊もはじめは「上等兵」制度を買っていたんですね。

 余談ですが大岡昇平の小説の中に、フィリピンでの噂話として、兵隊が全員上等兵からなる援軍がやってくるという話があり、その意味するところがよくわかりませんでしたが、最近ようやく話が見えてきたところです。(お粗末。)

 現在は一般二士で入隊するとだれでも半年で一等陸士になれるのですか。小生と小生の同期は、きっちり一年間、二士でした。これは入隊月によって長短を生ずるもののようで、小生は偶然にも11月中旬、つまり昔の徴兵の入隊月と同じだったのです。

 戦史研究家様、今後も宜しくご叱正を願い上げます。

のらくろフラッシュバック!

 自分がいちばん詳しいと思っていることで大間違いをしでかすのが人の常であります。
 先日はこんなことがありました。
 日露戦争に従軍したある歩兵が入営一年目、まだ開戦前で平時なのに、一等兵から上等兵になった、と自分で書いているくだりが目にとまったのです。
 「これはおかしい。著者は記憶違いをしているのではないか」と、わたくしはその書籍の編集部に注意を促しました。じつは、その書籍は日露戦争当時の日記の翻刻で、わたくしは巻頭の解説文をひきうけていたのです。
 昭和2年以前の徴兵は陸軍の場合3年満期です。そこでわたくしは思った。常識で考えて一等兵には2年目で、上等兵には3年目でなるもんだろうと。2年目で上等兵になってたまるかと。だったら平時なのに半年で一等兵かよ、と。
 これが、ぜんぶわたくしの無知誤解なのであります。自衛隊の陸士長の感覚で旧軍の上等兵を語ることはできない。旧軍の上等兵は特別だったのであります。陸士長は2年いたら誰でもなれるものであります。ありがたくない。二者は似て非なるものなんであります。

 調べるほどにこういうことが判明しまして、冷や汗をかいたわけであります。
 そして突如、あるシーンが蘇りました。
 「のらくろ二等卒」の最後に、こんなエピソードがあったんです。新兵が一斉に昇進する日です。だいたい1年目ですね。その朝、ブル連隊長がモール中佐に「のらくろは上等兵にしてやろう」と言うんです。ところがその日、のらくろだけ起床してきません。耳元で喇叭を吹きならしてもぜんぜん起きないので、連隊長は怒り、三ツ星の上等兵にするのをやめてしまって、他の新兵同様、二ツ星の一等兵の階級章をつけてやる。誰かが言います。「こいつ、星をひとつ損したぞ」……。
 わたくしはこれを読みました当時、「二等兵から上等兵にしてやるというのはあくまで猛犬聯隊の世界のつくりごとで、帝国陸軍じゃありえないことなんだろ」と思っていた。別に旧陸軍の制度に詳しいわけじゃなかったんですけどね。
 ところが、この「のらくろ」の二等卒→上等兵は、全くアリだったのです。陸軍では、中隊の中の特に優秀な二等卒(昭和7年から卒が兵と呼びかえられる)は、一等卒になると同時に上等兵に任ぜられたんです。
 嗚呼、おそるべし、猛犬聯隊。
 だってそうでしょう。のらくろは新兵時代に早くも重営倉に入れられてるんですよ。これは軍隊手牒に記録されちゃってるでしょう。八丈帰りの前科者みたいなもので。そのあとどうリカバーしたって、もう模範兵じゃあり得ないわけですよ。それが2年後であるとはいえ、ちゃんと上等兵になるんですから。
 モノホンの兵隊だったらヤケおこしてますます素行が悪くなって、師団の陸軍刑務所、果ては姫路の懲治隊送りになる可能性すらありましょう。しかし猛犬聯隊では、失敗のリカバリーが可能なんですよ。大尉ですよ、最後は。さすがに親も分からぬ捨て犬じゃ、陸大は受験できなかったでしょうけどね。

 そこでまた思うわけです。このマンガがウケたのは当然であると。戦前の日本社会は、失敗には不寛容でした。内務班の新兵ともなりゃあ、息詰るような緊張に浸りきった毎日ですよ。工場の見習いや、商店の小僧も、程度の差こそあれ、そうだったんじゃないですか。
 それが、猛犬聯隊にはないんですよ。アナザー・ワールドなんです。
 田河水泡という人は、落語の新作もなさっていた真の文人です。デッサンもプロで、その腕でデフォルメしていたから、上手いし、技巧も各所に凝らしてあるんですね。
 こういう人は、たぶん江戸時代からいたんでしょう。

 「のらくろ」の戦後バージョンには、アナザー・ワールドの魅力はもうなくなりました。なんでかというと、敗戦で、日本社会そのものが「しくじり者」となった。みんなで重営倉にぶちこまれ、釈放されて、それじゃあ、やり直しのリカバーをしようと、面の皮を厚くしていた時代になったからです。現実世界の緊張が、すっかり砕けてしまったんですね。だから逆に猛犬聯隊に戻ると息苦しくてしょうがない。昔の秩序だけはある。が、将来の大事件は何もあり得ない世界。
 「のらくろ」の戦後版は、描くべきじゃありませんでした。でも芸術家も霞を喰っては生きられないですからね。

名演技者揃いで真に羨ましく思った映画:『Ray』

 役者バカという言葉が日本にはありますけども、演技はバカに務まる職業ではありません。表現者としての素質がもともとあり、その上に頭脳と肉体を巧みに用い続けて、人に観てもらえる役者になる。その最も信任された演技者が、時の民主主義制度下の国政最高長官となっているんです。
 下手糞な芝居しかない国には、つまらない政治家しかいません。これは観客が二流なのですから、ごく自然なのです。

 さて有名な音楽家の半生をトーキー映画に仕立てたら、誰もが観て感心する映画となるでしょうか? まあ、世の中そこまで簡単なわけはないでしょう。
 音楽のドラマ性と人生のドラマ性はそもそもサイクルは合いません。というのは、一人の作曲家は一生に一曲しか作らないわけじゃないですよね。そこが、建築家や冒険家や戦争ヒーローとは違っているんです。どちらかというと、彼らは若いときに名曲をヒットさせてしまう。それも複数、立て続けに。
 それはしかし、人々が馴染んでおり期待もしているドラマの「盛り上がり曲線」には、あてはまりません。

 もし、脚本の雑駁なところをBGMで補うなら、たちまち「メロドラマ」と呼ばれる安物に仕上がってしまうでしょう。ミュージカル映画でない以上、音楽に重点を置いたら「負け」なのです。映画の作り手側としての野心が、それではほとんど満たされない。

 他方で観客の側とすれば、有名な音楽家の映画と聞いたら、やはりその音楽家のレコードを堪能したいと思うでしょう。脚本家も演出家もそれには応えてやる義務がある。もちろん役者は、本物の演奏家のように演技できなくては観客はすぐ幻滅します。要求されるものが高い。

 こうしたことから、有名な音楽家を主人公にした映画は、そうでない人が主人公の映画よりも、チャレンジングになるでしょう。博打です。そして、まず間違いなく、観客の全員をフルに満足させることはできないのです。なぜなら一人一人の聴取体験はユニークなものであり、異なっていますから。それが制作する前から分かっている勝負なのです。

 『Ray』はどういう解決法を採ったか。テレビの『ER』方式です。つまり複数のエピソードの波状連打で構成してきました。エピソード群の節目と、有名な持ち歌の1曲づつを、カプリングさせた。これはミュージシャン映画の王道ではないかと思いました。そしてこの王道には小細工が効かない。『ER』が病院のリアリズムを再現した以上に、ディテールに凝った映画になっています。しかしエンターテインメントへの凝りは、観ていて楽しいものですね。

 もし皆さんの中で、いまから1ヵ月間に映画のために投じられる予算が¥1800-しかないという人がいたら、『アレクサンダー』ではなく、『Ray』をご覧になることを兵頭は推奨します。わたくしが近年に観た、ティナ・ターナーの自伝映画(1993米公開)の1.5倍、それからエミネムの自伝映画『8 Mile』(2002米公開)の2倍ほどは堪能できる音楽映画でした。なによりも、賞嘆すべき演技者が集まっています。この多士済々の演技を脳みその隅っこに書き留めておくだけでも、一生の財産でしょう。演技ができるということは「人間が分かっている」のです。人間が分かっていなくてノー・ルールの競争に勝つことなどできません。
 わたくしは『アレクサンダー』はネットで予告編しか観ていませんが、これはイラク戦争とオーバーラップさせた、ただの国策映画だな、と感じました。こういう国策映画は少々不満足な出来でも権威あるナントカ賞はとらせてやるというしきたりに、あちらではなっていますけれども、日本人のわれわれがそれにお付き合いすることはないでしょう。『アヴィエイター』も、ブッシュ政権の「よいしょ映画」臭いですねぇ。

 ところで『Ray』の感想として「暗黒面を描いた」とか書いている批評家がいるみたいですけど、正気ですか? クインシー・ジョーンズの伝記を一冊読んだだけでも、「音楽ビジネスの現実に善人は一人も居ない」ってことは、もうオトナの常識として呑み込めなきゃいけないでしょう。
 そういう汚い、残酷で気疲れのする世界でミリオネアになった彼等が凡人たる我々より激しく快楽を求めるのは当然だとは思えないんですか? 『Ray』の描写ごとき、暗黒面でもなんでもありゃしません。
 公園の「花時計」があるでしょう。ミュージシャンから音楽をとったら、花を全部むしりとった花時計の針がぐるぐる回っている、それだけの現実です。そんなリアリズムを、誰が映画で観たいんですか? あれは、せいぜいが「青い芝生」も見せた、というレベルですよ。