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よいちばなし

 『北の発言』で連載しているわたくしの記事のための取材として昨日は余市の防備隊のOB、四名の方にインタビューして参りました。日本最後の「魚雷艇乗り」の方々です。
 なにしろこうした自衛隊「神代記」の逸話は地元の民間史家でも記録してくれませんし部隊内での引継ぎもありはしませんから、わたくしのような者が今のうちに聞き歩くしかないのです。さすがに全国までは手が回りませんけれども……。

 魚雷による戦闘法、および、壮絶な苦労話のハイライトは、ひとつ『北の発言』次号を読んでいただくとしまして、二、三、周辺的な「余話」をご紹介しましょう。

 65式長魚雷は電池式なのですが、「過酸化水素」も入っていると説明されて、わたくしはその場で混乱してしまいました。あとで調べてみると、過酸化水素は液体電池の起電を維持するために必要な素材なんですね。これをいぶかしんでいたために深い質問に進めずじまいであったのが残念です。
 水に入ると「しゃ板」が倒され、駆動がアクティブになったそうです。
 また、大湊で調整された水雷が、ふだんは××の×××××に貯蔵されていたとはまったく知りませんでした。ミグ25事件のときは、魚雷は搭載しないで出動していたんだそうです。そして40ミリは、航走中は使えるもんじゃないそうです。
 また12号艇以前と13号艇以降では魚雷のサイバネティクスが違っていたようです。後期型にはマイコンチップが入っていて、発射前のプリプログラミング入力が簡単で、したがって訓練で射った魚雷が行方不明になることはほとんどなかったが、それ以前の魚雷では行方不明になってヘリで捜索したことが一再ならずあったそうです。
 ちなみに魚雷はすべてホーミングではなく、爆発尖はインパクト・フューズのみだったということです。ミグ25事件のときはソ連が潜水艦でコマンドー部隊を函館に送り込むといわれていたんですが、ほんとうにそうなったら沖合いの魚雷艇は何もなし得なかった蓋然性があったようです。
 まあ、それよりショックだったのは、魚雷艇は冬の間は余市には居らず、大湊に引き篭もっていたという事実でしたが……。

 10号艇(英国からの輸入品)にはソナー・マンが乗っていましたが、それ以後の艇はASWとは全く無縁になりました。
 10号艇は、火薬カートリッヂでエンジンをかける「飛べフェニックス」方式でしたが、横須賀から回航するとき犬吠埼沖でエンジン1基がダメになったそうです。その部品をとりよせるのに途方も無い日数がかかったそうです。

 アメリカの魚雷艇の場合、彼らは航空機用の軽量ガスタービンの経験があったわけです。しかし戦後の日本はいきなり舶用の重いガスタービンを作って魚雷艇に搭載しました。
 それを搭載した試作艇はたいへんなスピードを出してくれましたが、あるときタービンブレードが吹っ飛び、けっきょく量産されませんでした。
 三菱のW型2サイクル・ディーゼルは要所をアルミで造ってあり、こっちは戦前からの蓄積もあったので、モノになったようです。

 最後の15号艇が除籍されるときに、なぜ海保にくれてやらなかったのかとお尋ねしましたら、海保は機関の「油さし」しかできないからだ、というお話でした。海自のような本格的な「機関科」を内部で育てていないということでしょう。
 魚雷艇は一航海ごとにアルミ構造が破損しますために、その都度、自前で熔接し直す必要があったのだそうです。これは外注頼みの海保ではできない芸当でしょう。むしろ海保は最初から自前で魚雷艇を持つべきだったんでしょう。
 頑丈なアルミ構造すら破損するとすれば、7Gの衝撃を受け続ける中の人はどうなるのか? 次回の『北の発言』でお確かめください。聞くも涙ですぜ。

 15号艇を保存したいという自治体が、ふたつあったそうです。富山の魚津と、天塩の鏡沼海浜公園(キャンプ場)です。
 そういう用途廃止後の民間保存は法律的には単純な手続きで問題はなく、最大のネックは、現地までの輸送費用なんだそうです。そのため、いずれの保存希望も、ついに実現はしませんでした。
 たとえば余市の魚雷艇は本籍が大湊ですので、大湊で除籍となるわけです。引き取る人は、そこから自腹で輸送しなければなりません。この費用を日通に見積もらせたところ、とんでもない額になったそうです。自重100トンですからね。
 あと、15号艇を払い下げてもらって自分で走らせて使いたい、と申し出てきた個人がいらしたそうです。「でも、燃料が航空燃料だったりで、取得はなんとかなっても、維持は大変ですよ」と説明したら、最後は諦めたそうです。その個人とは石原慎太郎さんだそうです。

旧軍の未解決の諸問題は比島にこそ存在する

 先の戦争は日本によるアジアの解放戦争だったと60年も経ってまだ歴史を学ばず脳内自慰している総てのバカ右翼に問いたい。
 米軍指揮下のフィリピン軍が4万人も死んでいるのは、白人の帝国主義者に強制されたものだと思うんですか、と。

 旧厚生省その他によりますと、1941年から45年まで、フィリピンで日本兵は51万8000人死んでいるそうです。うち47万人はゲリラに殺されたと言う人もいます。いや8割は餓死だった、という人もいます。とにかく51万という数字は、シナで戦死している日本兵46万人を上回る。
 そう、比島防衛戦こそは、日本陸軍史上、最低最悪の戦いだったんです。それがどういうわけか戦後日本人の意識の中ではスルーされています。

 しかも面妖にも、3万520人しか死んでいないインパール作戦などが「拙戦」「悪戦」の代表格として取り沙汰されているんです。(ビルマ全体で昭和20年8月までにトータル14万6000人死んでいるが、牟田口が第15軍司令官だったのは昭和18年3月18日から19年8月29日の間だけ。)
 それには特殊な事情があります。勅任官の師団長を3人も馘にした牟田口は、ビルマの仇を東京で、かつての部下たちにとられ、復讐されてしまったんです。つまり、牟田口に左遷された高級軍人たちは、ノモンハンの前線部隊長たちとは異なり、決して黙って泣き寝入りはしませんでした。彼らの恨みのエネルギーは敗戦を挟んで反牟田口の大宣伝となり、おかげでちっぽけなインパール作戦が、比島作戦全体よりもむしろ悪名が高くなってしまったのです。
 19世紀はじめ、ナポレオンは、スモレンスク以東に49万1000人の味方の死体を置き去りにして帰ってきています。これと同規模の体験を20世紀の日本陸軍が舐めたのは比島戦であって、ビルマ作戦ではありません。もちろん13万人が死んだニューギニア戦でもなく、94000人が死んだ沖縄戦でもない。
 ビルマでは、敵方のウィンゲートの第一回東征でも、出発時の1/3の英兵&グルカ兵はジャングルの肥やしとなっています。10万人出して7万人が戻ってきた牟田口のインパール作戦と、死亡率は同じでした。ビルマでは日英お互いにシンプルに死闘を繰り広げたのです。

 比島戦は、道義的にも最も問題の多い、日本史の汚点です。
 支那事変は、シナ人が官民合同の国家的テロ作戦を日本に仕掛けた結果始まったものでした。その結果、シナ人がたとい何十万人死のうと、それは自業自得だと言えるでしょう。
 しかるに比島戦はそうではない。現地政府の教唆に基づく反日テロなどは戦前の比島には起きてはいませんでした。そういうところに日本軍が乗り込んでいった結果、フィリピン人民はなんと111万人も殺されることになってしまったのです。
 シナ人に理由もなく土下座するのが趣味の日本人が多いようですが、そういう方たちはまずその前にフィリピンに向かって頭を垂れるのが人の道というものであろうと思います。

 こうした大掴みな戦史の理解が日本ではまだ不十分なようですので、別宮暖朗先生と先の大戦に関する評論本を一冊つくることにしました。現在、某P社の担当の人に原稿は渡っていますが、既製の解説に大いに逆らう内容ですので、審査に通るかどうかは分かりません。

 ところで、フィリピンではほとんどの日本兵が「住民」と交戦した経験があるでしょう。このため、終戦後、ジャングルから出てこられない日本兵はとてもたくさん居たと考えられます。投降すれば死刑になると自覚したのです。
 小野田少尉もおそらくは住民を射殺したことがあるために出てこられなかった。そこで厚生省では「残置諜者であった」という物語を用意しました。その物語を、当時のフィリピン人も受け入れてくれましたので、晴れて帰還が可能になったのです。
 今度の日本兵にはどんな物語が用意されるのか知りませんけれども、大事なことは、住民との交戦を水に流し、今日まで山奥で生かしておいてくれたフィリピン人すべてに感ずる心でしょう。
 外務省と法務省は、フィリピン人に認めないビザ無し日本観光の特権を、どうして生まれつきの暴徒であるシナ人などに認められるのでしょうね。これほど恩知らずで無礼な態度は、ありますまい。

トヨタは日本軍人に喧嘩を売ろうというのか

 キザですがネットでCBSの動画ニュースをみてたら、米国の南部のメーカーで量産している6輪の防爆(対路傍爆弾)装甲自動車「バッファロー」とやらが、いまイラクを何台も走り回っており、兵隊に好評であるとの話でした。「ステロイドで強化したハンヴィー」などと仇名していました。
 「これはプラモデルになるだろう」と直感しますた。

 デザインですが、前2輪を後4輪から存分に離して配し、その上にボンネット式にエンジンを載せ(たぶん非装甲)、その後方の4輪の上に全周装甲ボックスを置いて操縦室&乗員室とし、シャシの前方に、路傍まで十分に届く長さのCCDカメラ付きロボットアームを装載しています。車体底部はV型(舟形)ですが、足回りは耐爆ではなさそうで、人員だけ防爆する思想と見受けました。

 南アやイスラエルが昔からこの手の耐地雷トラック、耐地雷ジープを使用または製造しておりましたが、考えてみればそんなのはハイテクでも特許でも秘密でもないのでしょうから、各国で必要だと思い立ったら直ちに国産させられるわけです。現時点ではこの「バッファロー」が、最も重く、故に「決定版」というところでしょうか。

 イラクの市街地パトロールに限っては、車高をことさらに低くしても始まりません。それよりも、できるだけ頑丈にして重くして路傍の爆発物の衝撃から人命を守った方が良い。視察性の要請があるので、窓を小さくできないのは仕方ありません。しかし、もはやハンヴィーのサイズでは路傍爆弾を凌ぎ切れないことはハッキリしています。

 そこで「ハンヴィーもどきを自衛隊に納入してイラクでも使わせているトヨタは何をしている」という話ですよ。

 げんざい米国市場でいちばん儲けさせてもらっている世界的メーカーが、世界一のテロ後援国家にしてテロ自演国家でもあるシナに媚びて、かつてシナの官民合同テロの犠牲となった幾十万の御魂をお招きする祭場である靖国神社を誹謗するとは何事ですか? 靖国を誹謗することは万国の正規軍将兵を誹謗し、テロリストの肩を持つことと同じです。米国トヨタは、南部の無名会社がするよりも早く、防爆トラックを製造して「愛国号」「報国号」としてペンタゴンに献納するのが筋ではないのですか。
 また防衛庁はトヨタとの契約は切るべきです。これは当然でしょう。

 シナおよびガソリン絡みでもうひとつ日本国が考えておかなくちゃならないのは、中東石油を西回りで日本までもってくるタンカー・ルートを用意することです。
 つまり、クルードオイルを米国東海岸に陸揚げして、米国内で石油製品にして、それを米国西海岸から船積みして、太平洋を横断して日本までもってくる。このルートで輸入するオイルの量をだんだんに増やしていくことです。
 インド洋、マラッカ海峡、南シナ海、台湾海峡で将来何が起ころうと、西回りルートには影響しません。
 長期的な投資が必要です。しかし、やる価値はじゅうぶんにあるのです。

堂々巡り

 ……「日本人に自主防衛の気概が無い」→「アメリカ政府にとってはシナが頼もしく見え、シナに秋波を送る」→「シナは対米協力の見返りとして日本の永久非核をアメリカに誓わせる。また、日本は核をもったら何をするか知れない危ない国だと対外宣伝する」→「日本政府は先の大戦についてお詫びをし、防衛力を制限し、国民にますます自主防衛の気概がなくなる」→ …………。

 このようなエンドレス・ループに決定的に陥ったのが1970年代でしょう。
 1976年に日本は「核兵器の不拡散に関する条約」(NPT)を批准します。同年、三木首相は、防衛費は必ずGNPの1%以内にすると閣議決定しました。その理論的な合理化は、外国からの核攻撃をまったく想定しない「(旧)防衛大綱」に拠っていました。

 開き直ったと言えば格好がつきそうですが、国民の生命を守る義務のある政治家と安保関連官僚は、道徳的にはこれ以下にはなれないくらい、堕落したのです。
 安全保障の危機には、「外患」「内乱」そして「社会が共同体のモラルとモラールを破壊することによる自殺的弱体化」がありますが、当時の政治家と官僚はその三番目を演出していました。立派な国家叛逆と言って可です。

 1976年くらいまでは、米ソの核戦力の大宗はICBMで、米ソの核武力は拮抗しているので、したがって米ソ全面戦争は起こるまいと広く信じられていました。
 しかも石油ショック以来、石油の大輸出国であったソ連が軍拡の原資を潤沢に得、元気満々になってしまった。石油自給国だったシナもソ連陸軍の圧力にさらされ、石油輸入国で参っていた米国はソ連海軍のSLOC攻撃(中東からの石油搬出を遮断する)の意志を知り、いっそうシナと強く手を結ぶ気になります。

 ところがこの構図は永続はしませんでした。米国のあるテクノロジーが、何もかもガラリと変えたのです。
 そのテクノロジーとは、70年代後半から登場したナヴスター衛星群、GPSです。

 「GPSは巡航ミサイルの誘導用に開発された」と読める解説をときどき目にしますが不正確です。GPSはもともとSLBMのトライデント、およびその発射原潜のために考えられたシステムでした。

 GPSは米ソの核の均衡を覆しました。GPS利用により、米国のSLBMは、やがてソ連のICBM並の精度を持つことになるだろうと、ソ連側には予測ができました。つまり米国は海中からソ連の地上の核を丸裸にできるようにもなってしまう。ソ連にはその対抗手段が持てません。ソ連は海中での技術競争でも遅れをとっていました。
 ICBMという比較的シンプルなシステムに一点張り投資していれば、それだけで強大な米国と戦略的に拮抗できたという、ソ連にとってのとても幸せな時代は永遠に去ったのです。

 ソ連は覆えらんとするバランスを元に戻そうと、択捉島に基地を新設したり、気違いじみた軍拡を試みましたが、ついに力(財源)は尽きました。

 こうなって、米国には、中共の助けも要らなくなったのです。
 シナが、ソ連に代わる気違いアクターとして、テロ国家・北鮮を育て始めたのは合理的でしょう。
 北鮮がテロ用の核兵器を研究し続け、日本が腑抜けであり続ける限り、米国は半島問題でシナを頼りたくなるかもしれません。

 米国の「GPS+SLBMによる平和」の達成は、米国以外の国(ソ連)が米国と対等の核大国でいようとする野望の芽を摘んだのでしたが、米国本土がそれによって外国からの一発の核攻撃も被らずに済むようになったのではありませんでした。
 むしろ逆に、80年代のように一千発を越えるRV(再突入体)の落下を覚悟する必要がなくなったがため、今や、わずか数発の核爆発も米国は怖がる、厭うという、新情況が生まれたのです。

 お蔭で、米国に届く核手段をタッタ20発しか持っていないシナも、米国に対してかつてのソ連と同等の立場になろうという野望を抱くことすら可能になりました。

 また、非核の同盟国である日本は、かつて以上にシナからの核脅迫を恐れねばならないことにもなっているのです。
 「GPS+SLBMによる平和」は、米国のMAD発動をなかなか有り得なくし、日本上空の米国の核の傘を消滅させてしまったんです。日本が単独でシナからの核攻撃を被った場合、米国はシナに反撃すべきかどうか悩む筈です。

 この新たな不満足情況もテクノロジーでなんとかできるのではないかと思い付かれたのがMDです。
 が、残念ながら、MDはGPSほどは世界の核情況を変えないでしょう。日本は自力で核武装する以外に、シナの核から身を守る術はないでしょう。

 ロシアやシナなどの反近代勢力を弱めるために、日本が同じ価値観を共有する近代国家として米国を支援するのは、世界人類のためになり、道徳的に正しく、当然のことです。
 しかし独自の核武装そっちのけでMDなどに協力するのは、不健全な対米貢献となるでしょう。あたかもそれで日本国民の安全が買えるかのように政治家と官僚らが宣伝するとすれば、それは為政者として不道徳的でもあります。

 弾道弾は真上から落ちてくるという誤解がありますが、シナや北鮮から発射されたRVは、かなり斜め横から飛んで来ます。曲射砲ではなく加農。つまり野球のライナー性の当たりのような軌跡をこそ想像すべきでしょう。
 もし完全な迎撃ミサイルを配備できるとすれば、その発射機よりも東側に位置する長細い土地が、守られることになります。つまり迎撃ミサイルの射程が短くとも、それによって守られる地表面積は、やや広い。……のですけれども、肝心のMDがRVに命中する確率が、とても低いんです。

 東京都の西部の横田基地にMDの日米共同司令部を置く構想が報道されています。こうした観測気球によって、世論の反応をいろいろと見極めながら、新しい基地が決まることでしょう。
 意味するところは二つあります。一つ。独自核武装を渋る腑抜けの日本人、特に東京都民を守ってやっているというポーズをアメリカ側が示すこと。二つ。MDが当たらぬものだという見通しを知悉する日本の防衛官僚は、米空軍とMDの司令部をあくまで「東京都」内に置かせ、象徴的に両者を混然一体化させておきたい──ということです。
 すなわちシナもしくは北鮮が関東の米軍基地を攻撃すればそれはそのまま日本の首都東京を狙った攻撃と看做されるようにしておく。また、東京都を攻撃すれば、それは自動的に米軍の司令部所在地も攻撃したことになるようにしておく。こうしておいたならば、米国大統領としても、対支/対北鮮の核報復攻撃の命令が下し易いでしょう。
 ただし、その暁に米国大統領が必ずそうしてくれるという保証は、ぜんぜん無いんです。

 ここでお話は冒頭に還ります。いかにして日本国民は自主防衛の気概を持つんでしょうか? その光明は、まがいものでない武士道の研究の中にのみ、見出せることでしょう。

「東大卒二等兵」という負の遺産

 戦後の日本防衛史には二つの大きな筋があって、ひとつは核武装をめぐる佐藤栄作以前の日本の総理大臣と米国政府との間の交渉史。もうひとつはそれ以外のすべての路線の変遷史です。
 後者は大きく分けて「旧大綱」路線と「ガイドライン」路線です。この非核の二路線については、佐道明弘氏著『戦後日本の防衛と政治』(2003)が、初めて分かり易くまとめて書いてくれた。後者二つの路線は、いずれも、それを考えたのは時の首相ではなくて、官僚と政治学者たちでした。佐道氏は、従来は半匿名のように朦朧としていたその官僚と政治学者たちの役割を、解明し得る範囲で整理してくれました。

 「大綱」路線とは、すなわち「護憲」+「財政重視」です。
 「ガイドライン」路線とは、すなわち米国との攻守同盟です。
 兵頭に言わせれば、そのどちらにも「シナ(およびその国内シンパ)への遠慮」が前提として在る。だからどっちの路線だろうと、国民にモラル(西洋近代の道徳)とモラール(士気)の放棄を呼びかけたようなものでした。そんな不健全な路線を採択された上で「国民一人一人が国を守る気概を持とう」などと政府から呼びかけられても、誰も気概など持ちようがなかった。庶民のうち、自分の頭で考えられる一握りの分子は、「だったら核武装しようぜ」と思ったでしょう。

 シナに遠慮しない路線とは、すなわち核武装路線です。
 佐藤総理は核武装の放棄を米国政府(それもキッシンジャーの言うなりに中共と手を組むことに決めた米国政府)に対して約束しましたので、以後、日本には「自主防衛」路線はあり得なくなった。「非核の自主防衛」というスローガンは言語の上ではあるのですが、それは実態として、大綱路線か、ガイドライン路線か、どちらかの範疇でしかあり得ない。

 ですからかつて日本の核武装を理論的に捨てさせた高坂正尭・京大教授に学んだこともある中西輝政氏が今日、核武装に肯定的な論客となっている様子なのは、いみじく感慨深い。それは日本人のモラルとモラールの復活の兆しかもしれません。

 初期の防衛庁に自衛隊の管理官庁としての性格を付与したのは、旧内務官僚(警察)の海原治氏です。
 佐道氏の本には海原氏の経歴が載っています。その前半が興味深い。
 1917年生まれ。一高→東大。1938-10に高等文官試験行政課合格。39-4内務省に就職。40-2入営。二等兵。満州に駐屯していたが、本土へ転属。主計大尉で終戦。

 つまり陸軍に入営後に幹部候補生に志望して兵隊から将校になった。兵隊である間は他の二等兵と全く同じ扱いです。それだけでもイイトコ育ちの青年には十分なトラウマ体験になる。また、幹候に行くのだと判明した兵隊の訓練や内務指導は、他の兵よりもキツくなるのです。ぶっちゃけ、イジメ半分です。これでは海原氏、すっかり陸軍が嫌いになって復員したとしても不思議じゃありません。
 戦前・戦中の気の利いた金持ちエリートならば、陸軍に二等兵でとられる前に、海軍の短期現役に志願して、海軍士官の身分を手に入れてしまうものです。海軍は志願してきたエリートをそれなりに優遇してくれたところです。しかるに海原氏の場合、微妙な時期に満20歳になったので、その機転を利かせ損なったのでしょう。

 2.26事件で陸軍部隊に警視庁を占拠されて捕縄をかけられたことも警察の屈辱となっているのは事実ですけれども、もっと根の深い陸軍への恨みは、戦前〜戦中に、ヒラの警察官のみか内務省キャリアまでを一兵卒として徴兵したことなのです。

 しかもどういうわけか日本には、パラミリタリーの重武装警察をして陸軍の権力に国内で拮抗せしめるという、仏・独・蘇式の発想が無い。たとえば機動隊をM2カービン等で武装させて機動憲兵隊として併行的に充実させていけば、何もことさらに陸自を怖がる必要も無かったはずです。海原氏のようなエリート内務官僚で、それを発想した人が一人もいなかったらしいのも不思議なことです。よほど戦前の陸軍の徴兵システムは、非軍人エリートの意気地を破壊してしまう有害なものだったのでしょう。そのシステムがまた逆に、服部卓四郎のようなエリート参謀を万人に対して天狗にさせていた担保だったんでしょう。

 「向米」もしくは「親米」の戦後日本政府の伝統的路線について、これをイデオロギー、つまり「反共」で説明していたのは、甚大な誤りでした。

 歴史的に、社会や国家の長期連続を信じられなかった、シナ、朝鮮、ロシアの住民たちは、社会や国家への継続的な信頼感がなく、私利や血族の利便を公的契約を守ることよりも優先できる文化を染み着かせています。他者の自由を許容しない態度と、そのような文化は一致します。
 国家の継続、社会の連続を信じて生きてきたわたくしたち日本人は、彼らシナ人、朝鮮人、ロシア人たちとは、他者の自由について一致することができないでしょう。それは共産主義のせいなどではなかった。それはまさに彼らがシナ人、朝鮮人、ロシア人だからなのに他ならなかった。ですから、彼らが共産主義を捨てたと宣言しても、わたくしたちは彼らとは対等の付き合いができないんです。
 約束を守らない人とは、近代人は道徳的なビジネスはできません。それはイデオロギーとは無関係です。
 東アジアでは、日本人だけが契約を守れる近代人です。その事態は、こんご100年くらいは変わりそうにありません。

 昭和11年からの統制官僚のマクロ経済の失敗のおかげで日本国民が「貧国意識」に誘導され、そこから戦後の「小国意識」が生じてしまったのも、まことに不幸なことでした。
 核兵器などハイテク兵器の開発は、投資の乗数効果により、日本経済の国際的競争力を改善し、少ない労働者で多数の老人を守って行ける社会を可能にします。歴代日本政府が続けてきた、土建事業への公的投資のタレ流しは、そのような社会の実現を不可能にするでしょう。

コジキスタンよりハズベキスタンなスパイ

 福田康夫代議士が国会で首相に訳の分からない質問をすると、絶妙のタイミングでシナ政府が日本の内閣総理大臣を恫喝にかかる。
 なんと凄い連携プレイでしょうか。

 しかもタイミングが良いのです。月の第二週の出来事は、月刊『文藝春秋』(10日発売)には突っ込めません。
 18日発売の『新潮45』はタイミングとして短いものなら突っ込めますけれども、あそこは短いトピカルな記事を号外的に入れるテイストではないでしょう。
 そうなると、次の月の初旬発売の『正論』と『諸君!』が批判を載せるしかないんですけど、いまどき20日も経過したら、もうみんな生々しい印象は忘れてしまいますよ。この前、どこかの踏み切りで事故があったそうですねえ。ああ、そんなことがあったかもしれませんねえ。

 というわけで左巻きメジャー・メディアだけが、尻馬に乗ってワンワン吠えて、この一件は終わりです。
 うまい。巧みである。
 かくして、生々しい事実はどうでもよくなり、漠然としたイメージだけが庶民の中に蓄積される。それがシナとその内通人脈の常套とする宣伝工作です。

また一つキの字出たる皐月かな

 前から評判であった佐藤優氏著『国家の罠』は、先月は函館の書店ではみつけられませんでしたけれども、別宮先生との新しい共著本の下書きに目処がついた先日、ようやく購読することを得ました。
 これは05年の日本語出版物の収穫でしょう。誰が買って読んでも損をしない情報テンコモリです。

 一読して思い出しましたのが、1977年の『岩畔豪雄氏談話速記録』の断片です。
 旧陸軍のエリート参謀であった故・岩畔氏は、戦前に統制派の中心人物として憲兵にマークされていたことがありました。その岩畔氏が2.26事件の後で兵務局へ異動となり、そこで憲兵隊がかつて自分の身辺を嗅ぎ回って上司に上げていた報告の綴りを見たのです。
 その経験から、岩畔氏はインタビュアー達に忠告していました。警察のリポートは8割引きでお読みなさい。感心なほど系統立っているが、ウソ八百だよ──と。

 佐藤氏の誠実な述懐は、ご本人の起訴に関する限り、この岩畔証言の確認にもなっています。これが表層的な驚きですが、第二の驚きがある。
 おそらくは読者を説得しようして展開されているであろう佐藤氏の弁解から、佐藤氏の世界観が大枠で狂っているという真相も、じわじわと了知されてくるのです。

 佐藤氏は、1991年12月にソ連邦が崩壊し、以後ロシアは、自由・民主主義・市場経済という価値観を日本や西側と共有するようになっている、と信じているようです。

 また佐藤氏は、「親米」には、「日本はアメリカと価値観を共有するので常に共に進むべきである」派と、「アングロサクソンは戦争に強いので、強い者とは喧嘩してはならない」派の二種類がある(56頁)と愉快なまでに正確に分類しつつ、自分はそのどっちに近いのかを明かしません。
 しかし佐藤氏は前者の派を「イデオロギー的な親米主義」と括り、また「9.11」以後の日本の親米路線は「冷戦の論理」でポスト冷戦の世界に対処しようとするものだと仰っています(118〜9頁)。
 その路線はまた「排外主義的ナショナリズム」でもあるそうです。

 日本外務省内ではロシア・スクールを「地政学」派と呼ぶのだそうです。
 地政学派は、ロシアと地理的に一衣帯水の日本が政治的にも露国ともっと親密になることによってロシアの極東に対する発言力を強め、以て冷戦後のシナに対する地域バランスをとる、との大構想をお持ちのようです。
 橋本内閣やS.ムネオ氏や佐藤氏が一丸となって推進してきたのは、すなわち「外交における地政学的国際協調主義」なんだそうです。
 しかし佐藤氏には見えていません。核ナシの地政学など戦後日本にあるはずがない。ゲオポリティークというカッコいい言葉で幻想に浸っているだけです。

 ロシア指導者の関心を日本に向けたくば、核武装することです。簡単です。
 日本が核武装すれば、シナのミサイルのどれが東京に向いていてどれが大阪に向いているか、頼まなくとも、ロシアのほうから耳打ちしてくれます。
 逆にシナの政治家はロシア軍の情報を提供してくれます。
 働き盛りで有能な官僚のエネルギーは、日本の核武装の実現にこそ、集中投入されるべきなのです。

 エリツィン辞任のニュースを日本外務省の誰よりも早く知ったとて、それで日本国民の権力は向上したでしょうか? また、佐藤氏は、米国を筆頭とする他国の情報機関がそのニュースを佐藤氏よりも早く得ていないと本当に信じているのでしょうか。さらに、佐藤氏が本国その他に送信している諸連絡が、どこかで傍聴され解読されていないと思っているんでしょうか。
 大国である日本が核武装を避けている限り、日本外交官の仕事はすべて佐藤氏のように空しいでしょう。

 明治維新が目指した理想は、公的な約束を守りかつ守らせる、武徳に裏打ちされた西欧の近代的自由主義です。
 この理想は、シナ人、朝鮮人、ロシア人とは、残念ながら倶に奉ずることができないものなのです。
 なぜならこの三地域では、法に、連続性・継続性が無いからです。
 地理的に、脱法者の隠れ処に不足せぬこと、辺境の他民族を根絶できぬこと、歴史的に政府の方針や政体そのものが数限りなくひっくり返ってきており、そのたびに以前の法律や契約がチャラにされてきたこと……。
 必然の結果としてシナ人、朝鮮人、ロシア人は、法や契約を蔑する民となりました。この反近代的指向は、百年やそこらでは変わらないのです。
 ロシアと日本は、自由・民主主義・市場経済という価値観を共有していません。この価値観の最低の前提は、約束を守ることと、罪刑/租税法定主義です。
 法が蔑され、契約が軽んじられ、約束が反故になるような地政学的環境の下で、近代自由主義は育ちません。日本は同じ近代国家である米国、西洋とビジネスをすれば世界人類に対してもまた良いことがありますが、反近代の支朝露の三地域とビジネスをしても世界人類に対して悪い結果しか出力しません。
 日本の国益は、この三地域のいずれもが極東で大きな権力をもつようにはさせぬことです。そのオプションの一つとしてあった日米軍事同盟は、現実に有効に機能してきました。

 佐藤氏には、シナ・朝鮮・ロシア文化の異常性は分かっていません。
 佐藤氏によれば、「ロシア人はみなタフネゴシエーターで、なかなか約束をしない。しかし、一旦、約束すれば、それを守る」(114頁)のだそうです。が、どうでしょうか。1956年の日ソ共同宣言は、両国の国会で批准され、法的に国際条約に等しいものであるにもかかわらず、ロシアは1960年にそれを一方的に反故にしたのではありませんか。
 かつて日ソ中立条約を破られ侵略を受けている相手に、何度も騙されるのがプロの外交官、すぐれた政治家といえるでしょうか。
 ロシアの文化は、公的な約束を守れない文化です。日本が外国としてそれを守らせることができるようになる日がくるとしたら、それは日本が核武装した後です。話はそれからなのです。

 孤独な思考家の佐藤氏は、最初に「外務省ロシア・スクール流地政学」なる世界観の大枠を、自分の言語で咀嚼し定義し、それを固く崩さないことで、世界の中で自己を保持し、現在と折り合いをつけているキャラのようです。取調べ検事が「格好をつける」(310頁)と指摘したのはそこでしょう。この佐藤氏のキャラはたぶん今後も変わりますまい。とすると、フォン・ゼークトの箴言がわたくしの耳底に反響します。
 昔ゼークト曰く、将校のタイプとして「無能な働き者」は、指揮官にも参謀にも連絡係にも使うわけにはいかず、軍隊としては銃殺してしまうのが一番よい(それほど味方に大害悪がある)──と。
 けだし、「国益について勘違いしている有能な役人の頑張り」が、「政治家のケチな野望」と結びつくことは、無能で勤勉な将校以上に、日本国に災厄をもたらすのです。

 佐藤氏が政治家のお先棒を担いで成し遂げようとした日露修好とは、ロシアに対する日本の相対国権を低め、ロシアに今まで以上に極東問題に口を出させ、この地域の近代自由主義を阻害させる道でしかなかったでしょう。それは日本の国益に反し、世界人類の幸福にも反しました。

 「日本人の実質識字率は五パーセントだから」「ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく」という外務省幹部の発言(76頁)は適切です。
 けれども佐藤氏が「愛国者」と呼ぶS.ムネオ氏が逮捕されたのは、決して「ポピュリズム現象」による「排外主義的ナショナリズムの昂揚」のせいなどではありません。シナ人、朝鮮人、ロシア人という、公的な約束を守らぬ反近代人たちと仲良くしようと暗躍する政治家と官僚に、日本国民はチェックを入れたいと思うようになってきているのです。
 小泉氏以前の内閣の売国的な対露外交が、何者の指図によってか、あの程度で食い止められ、また小泉内閣の売国的な対北鮮外交も今のところポピュリズムの反対によって歯止めがかけられているかに見えることは、慶賀すべきことです。
 現在国民は、小泉内閣がシナに対して靖国問題や歴史問題で売国的な譲歩を裏でしているのではないかと疑っているところです。そして東京地検特捜部には、「そろそろ外務省チャイナ・スクールも何とかしようよ」との期待がかかっています。

 欲得を離れて努力すれば真実を掴める立場の知識人には「無知の罪」もあります。これは庶民は被らないし、問われもしません。「できること」と「わかること」は違うのです。

拳銃を抜いたら当てろ

 銃器に対して庶民が幻想を抱いていた時代は遠く去りました。
 もはや警察官の拳銃は「警告」の役には立たないのです。
 抜いたらまず一発、足か肩に。それでも静止しないなら、もっと致命的な部位を照準しましょう。
 自動車で突っ込んでくる容疑者は、すでに殺人の意志または未必の故意を有していますから、顔面または首を狙って射殺しましょう。
 夜間の警邏車乗務にあたる者は、これからはヘルメットを常装しましょう。(自衛隊は昼でもそうなっています。)
 戦国時代の武士の馬の手綱には、鉄鎖が入っていて、敵に切断されないようになっていました。防刃素材の肩紐を工夫しましょう。
 また警察用拳銃の握り部分に、ICチップのようなものを埋め込んだ方が良いかもしれません。

酒やカラオケが駄目ならNHKの芸能番組を視るのもまずいっしょ

 電車をひっくり返した当人でもない職員が世間をはばかって酒も飲めないとは、大阪では「隣組」が復活したんでしょうか。

 日本の首相はほんの少し前、東南アジアで戦前の日本の政策について、日本国民が頼みもしないのに勝手に謝罪をしました。

 本当にそんなオトロシイ罪の意識が小泉氏や外務省にあるのなら、矢張り彼らは今後、被害者の方々が「許したるわ」と言ってくださるその日までは、飲酒、宴会、パーティ、ゴルフ、花見、セックス、映画・オペラ観賞、休暇静養、そういう娯楽は一切断って自粛し反省する態度を満天下に示し続けねば、「言行不一致」ということで、「あまりにも公人としての意識が低く、情けない」などとの隣組の批判を浴びちゃうんじゃないでしょうか?

 先日配信された民主党西村議員のメルマガで、---会社が株主のものでいいのなら、この事故に関してはJR西日本の大株主こそが謝るべきで、大株主でもないただの経営者や従業員に謝る義理はないだろう---と指摘されていましたのは、卓論と存じました。

 「悪いことをした覚えはないが、口先で謝っときゃいいだろう」といった日本式のふしだらさが、日本国民を世界公認の悪党にしてしまう---と指摘なすった先日の遠藤浩一氏のブログの書き込みも、まことに適切だと感じ入りました。

「坂の上の雲」では分からない日本海海戦

 わたくしたちは、偶然のめぐりあわせにより、歴史認識が日々深まって、昨日までの日本史把握や外国人把握は間違っていたと刻々に悟る体験をライブで味わえる、珍奇かつ幸運な時代に暮らしております。
 まあ、元からの日本国内の歴史学や教育者や知識人が酷かったために、これほど「修正」がドラマチックになってしまうのです。

 海戦史に関する、快著が誕生しました。
 並木書房の最新ラインナップ、別宮暖朗先生のコダワリの一冊です。

 やかましいことを言えば、「この図版はなんとかして!」「間違ったルビを振ったりしないように校正は必ず社外のプロに発注すべきだと何度言えばわかってくれるのか…」と嘆きたくなる趣きもなきにしもあらず。

 しかし断言しましょう。10年後には、この本に書かれてある「主情報要素」が、海事ファンの間では「常識」になっています。
 そして、「その説のソースはどこなんだよ」と改めて自問自答されたときに、「2005年に読んだこの本だった」と思い出せる貴男は、そこからオリジナルの研究を推進するのに何のフラストレーションも感じないでしょう。

 わたくしが若い頃はGW中も毎日どこかの図書館に通っていました。そうやっていると何週間に一度かは「隠れた名著」にぶつかり瞠目します。『なぜ書評家や大先生は「この本をこそ真っ先に読め」と教えてくれなかったのか』──と悔しく感じたことは、数かぎりもない。
 そこで、この場を借り、わたくしの当座の責任を果たすこととしましょう。

 今月以降、「日本海海戦」または「東郷平八郎」または「艦隊派」または「砲術」に精通したい志のある方は、まず最初に『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦』をお読みになることを推奨します。

 メジャー雑誌の書評コーナーで大きく取り上げられないことは、その本が名著でないことや、内容の正しくないことを必ずしも意味しません。むしろ逆に内容が、既製の第一線著述家や編集部の古い常識をすっかり超絶してしまっている場合が、稀にあります。
 その確認ができる特権が今、貴男に与えられました。