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しじじゃ、ないですか・・・

 ゴールドメダリストの成田到着日まで病院に退避して謝罪会見を延期し、しかも14時45分スタートですか。夕刊紙には間に合いっこないし、17時15分以後は成田の映像が入るだろうし、夜9時前後のニュースでは尺が分散しますよね。
 一言以って之を約さば、 せ こ い …。

 高級官僚が役所を辞めて政治家等の個人商店を開業すると、仕事の打率がガックリと低下してカラ振りだらけになるようなケースがまま見られます。誰がそうだとは申しませんが、巨大な役所は、さすがに所属する個人の打率を上げさせるためのサポーティングのノウハウを揃えたシステムであったということが察せられる。もちろん役所の試合数は民間に比べて少なすぎるんですがね。

 政党に、所属代議士の情報処理を適切にサポートするシステムがないらしい。そして個々人の代議士も、独立して個人プレイができるほどの情報処理のセンスをもっていない。これでは困るじゃないですか。みんな忙しいんですからね。いい歳して勉強し直すわけにもいかない。

 いいアイディアがあります。各省庁が、独自のお抱え政党をひとつづつ創るのですよ。そして省庁OBをみんな政治家にしてしまう。いちおう念を押すと、これは冗談です。

 

同じフレーズに異なった意味が与えられることの危うさ

 R・ベネディクトが日本文の「所を得」にどうして注目したかについて、考えてみましょう。

 彼女は、日本の国内的な秩序感覚がそのまま対外政治の場にもちだされたことが日本の外交のつまづきの因であり、それはヘタクソで逆効果でしかなかった戦前・戦中の日本の対外宣伝に最も端的に表れていた、と見ています。これはまったく鋭く正しい観察なのですが、それと東條演説に頻出していた「所を得」の常套句とは、本来は、無関係なのです。
 「所を得」という表現の由来を学習しますと、日本の明治維新が「リベラル革命・近代自由主義革命」であったことと、徳冨蘇峰以降、敗戦直後までの日本がその逆方向にブレていたことなどが、よく理解できるでしょう。

 古代シナの大衆歌謡を集めた『詩経』「唐風・鴇[ほう]羽」に、「曷[いづ]れのときか其の所を有せん」とありますのは、農奴である老父母の近未来の食糧自給生活が、息子である本人の労役軍務のあおりで、はたして成り立つかどうかが危ぶまれているのです。
 やはり古代の『書経』「舜典」に「民を治めその所を得さしめる」とありますのも、「庶民が生活できるようにする」の意味で、庶民に食と住の苦しみがないことが理想の統治だとしたわけです。

 つまり、がんらい「所をえる」とは、「生活ができる」という意味でした。

 前漢の司馬遷は『史記』「儒林列伝」の中で、よく参照されるテキストを残します。
 「孔子は王路が廃れて邪道の興るをあわれんで、詩経と書経を研究し、礼楽を修起した。斉にゆきて韶を聞き、三ヶ月間、肉の味を知らなかった。さらに衛から魯にかえってきていご、ようやく楽は正しくなって、雅と頌は各おの其の所を得」たというのです。
 「雅」も「頌」も節つきの祭文のようなものです。要するに孔子が宮廷の政治儀式に用いられる歌唱をできるだけ周盛代時の古態に戻そうとした。

 この有名なテキストのために、儒教以後の漢文通用圏では、「所を得」という言い回しに、「生活ができる」の意味の他、「オーソドクスなオーダー」の意味も与えられてしまいました。
 前者を重視強調すれば自由主義、後者を重視強調すれば権威主義となるはずです。

 くだって、三国志で有名な「出師表」には、以下の文が出ます。
 「愚〔孔明のこと〕、おもえらく、営中の事は、事大小となく、悉く以てこれ〔将軍向寵のこと〕に諮らば、必ずや能く行陣し和穆し、優劣をして所を得しめんと」。

 ここでの「所を得る」は、国家の将兵を適材適所に部署することでしょう。営中というのは宮中の対概念で、変事・有事のさいの戦争指揮所のことです。
 しょせん有能な第一人者の指図を受けるべき凡将たちが謙虚にこれを読めば、「自己実現の適宜性」に思いを致すことになるでしょう。

 唐代に書かれた『貞観政要』「論慎終第四十第七章」では、太宗が「或は恐る、蒼生を撫養すること其の所を得ざらんことを」と言っています。
 ここでの「所を得」は、「庶民が生活できる」という古い意味をふまえた上で、「統治の適宜性」にも及びます。
 これに対し一賢臣が太宗に「嗜欲喜怒の情は賢愚皆同じ。賢者は能[よ]く之を節して度に過ぎしめず。愚者は之を縦[ほしいまま]にして多く所を失ふに至る」と言っていますのは、「庶民が生活できる」の古意が洗滌されてしまっており、純粋に「適宜性」の意味でしょう。

 程・朱の学、別名、宋学/理学になりますと、「所を得」るべき主体が、ただ人だけではなく、物(「一物」「万物」「天下」)にまで及ぼされます。
 聖人が世を治めれば、万物がその所を得る、あるいは、一物もその所を得ないことはない、などとわけのわからないことを言い出すのです。日本の教育勅語はこの朱子学の延長です。
 朱熹の先輩であった程子は、「ただ上下恭敬において一致せば則ち天地自ら位し、萬物自ら育つ」と言っているそうです。北方の元の脅威に直面していた当時ですから、そこにリベラリズムは不可能だった。またここでは万物とは五穀のことなのでしょう。

 ただし程朱らの宋学の語録ダイジェストである『近思録』には「伊尹は其の君が堯舜と爲らないのを恥じた。一夫も其の所を得ざれば、市にて撻[うた]るるが若し」とあって、ここでは古い意味、つまり「庶民が生活できる」が活きています。
 もし、生活ができない庶民が一人でもいたら、統治者は、あたかも自分が広場で公開百敲きの刑に処せられているかのように恥ずかしく苦悩すべきだ──というのでしょう。これは『孟子』いらいの「下々の立場になって上に要求をつきつける」、放伐スローガンの系譜に連なるでしょう。

 江戸時代の『可観小説』には、戦国武将の前田慶次の言葉として「万戸侯の封といふとも心に叶わずば……。……去るも留るも其所を得るを楽しと思ふ也。所詮立ち退くべしと……」とありますそうで、これは軍人の自己実現の意味です。

 明治元年3月14日に五ヶ条のご誓文が三条実美によって読み上げられました。

 この第三番目の箇条が「官武一途 庶民に至る迄 各おの其の志を遂げ 人心をして倦[う]まざらしめん事を要す」です。
 ここは起草者の一人、福井藩士の由利公正が、儒学教養の「所を得」を念頭して書いたことは疑いありますまい。
 由利はこのご誓文の中に、西欧自然法と国際法を、これから天皇の命令によって日本に導入するのだという大方針を、巧みに盛り込みました。

 御誓文がよみあげられた同じ3月14日(新暦では4月6日)、「国威宣布の宸翰[しんかん]」が、居並ぶ諸侯に披見されています。

 このなかに「今般朝政一新の時膺りて天下億兆一人も其所を得ざるときは皆朕が罪なれば……」とありまして、これは『貞観政要』や『近思録』の類縁のレトリックですけれども、読む側は、ご誓文の中の「庶民に至る迄 各おの其の志を遂げ」とこれを重ねることもできたのです。つまり庶民の自己実現を可能にするのが明治維新なのだと、志士たちは早々と合意していました。

 人材抜擢をしなさいというご誓文の精神を諸藩がパラフレーズした「諭告」が、明治3年までにたくさんあります。
 高知藩の諭告には、「凡そ政府は民の為めに設くる所にして、政府の為めに民を役するにあらざるなり。唯だ人民、自主自由の権を有し、各々其の所を得、其の業を遂ぐるは、政府の保護と裁判とにあるのみ。然るに其の保護裁判の宜しきを得んとすれば、官民一致、上下合議の旨を執るにあらざれば……」と出てきます。

 このようなリベラル改革がフランスのような十万人単位の死者を生ずる深刻な内戦をパスして実現され得たのは、天皇(ベネディクトが見抜くところの「超俗的な酋長」)のいるおかげです。放伐のありえない「超俗酋長」制は革命を予防します。それが大陸や西洋からの間接侵略を不可能にしてきたのです。

 昭和期の日本の知識人には皆目このことは覚れず、単にスターリン・テーゼへの反撃として皇室中心主義を唱え、日本国の満州国化に手を貸すことになります。(余談ですが草柳大蔵氏の『実録満鉄調査部』によりますと、満洲のために日本のGDPの43%が持ち出されていた時期があったそうで、要は満州国とは、エリート官僚が財源に何の心配もせず好き勝手放題をしまくるというスキームなのです。ただし科挙官僚にはシナの王陽明など特例を除くと住民を外敵に対して結集させるカリスマはゼロ。しょせん、国民とは運命共同人ではないからです。だから日本内地という財源から切断された満州国に国防はまったく成立しませんでした。また日本本土が満州国化すれば、やはり日本の国防も成立しないのです。そして日本は現在、官僚のために満州国化の道を驀進中です。)

 話を戻しましょう。

 大久保利通が、日本は英国の真似をするべきだ、と主張した「殖産興業の建白」には、「……勧業殖産の事を興起し、一夫も其の業を怠る事無く、一民も其の所を得ざる憂いなからしめ……」と出てきます。もうこの時点では新政府が藩を廃止しており、草莽の自己実現などよりも庶民の生活の安定が、国としてゆるがせにできない課題だと思われました。

 徳富蘇峰は、親英米派でしかも江戸時代型のたいへんな教養人でしたが、日露戦争後に英人キプリングの詩「白人の重荷」を読んでブチキレます。
 ──そうか、同盟者と思っていたが、奴らはこんな風に有色人を見ていたのか、可愛さ余って憎さ百倍! ……という次第。
 キプリングに悪気はなかったでしょうが、この詩が蘇峰をして昭和期の日本の反英路線を導かせてしまったと見ることが可能ですから、宣伝に比較的に直感がよく働く英国政府としては、やはり小さくない不注意があったのです。

 蘇峰は明治39年に「黄人の重荷」を発表し、日露戦争後、白皙人種の仲間以外に属する各人種は、いずれも「大和民族を以て其の希望を繋ぐ標的」としている現実があり、黄人(=日本人)は、アジア・アフリカの代表として英国人と対決せねばならん、と鼓吹します。
 石原莞爾の「日米決勝戦」の妄想も、さかのぼればこの蘇峰の論にインスパイアされています。
 また、昭和期の政府が宣伝した「大東亜共栄圏」のアイディアも、このときの蘇峰の論を借用したものに他なりません。

 「黄人の重荷」の中で蘇峰は、「吾人の目的は、偏[ひと]へに極東に於ける平和の保障にありき。……即ち世界の総[すべ]ての人類と与[とも]に、世界の経営を事とするの規模ありて、始めて漸[ようや]く自覚し、且つ自覚しつつある同胞をして、遂ひに其所を得せしむるに至る可[べ]き也」と書いています。

 この「所を得」とは何を意味するのでしょうか? 土人が白閥に搾取されずに生活できるようにしてやる──という意味でなかったのは確かではないでしょうか。

 大正8年の朝鮮総督府官制改正にさいしての勅語では、「所を得」は、半島人に内地人と差別のない生計を可能にさせる、といった意味で使われているのがお分かりでしょう。

 昭和14年1月に組閣した平沼騏一郎は、1月21日の施政方針演説の中で「旧来の陋習を破り天地の公道に基くへし」との明治天皇のご誓文を引用し、「惟[おも]ふに天地の皇道は、即ち萬物をして其の所を得しめることに帰着するのでありまして、政治の要諦茲[ここ]にあらねばならぬと考へる次第であります」とまあ、良いことを言うんですが、すぐに「此の御精神の及ぶ所は、国内政治たると国際関係たるとは問はないのでありまして、東亞の新秩序建設も亦[また]此の根本精神を基礎として、其の上に工作が進められねばならぬと信ずる次第であります」と続けた。

 ここにおいて蘇峰の怒りが「東亜新秩序」というスローガンに結実しているのです。しかもご誓文でローマ法以来の西欧流自然法精神およびグロチウス以来の国際法精神の導入を謳っていた箇所と、<日本の伝統に支えられ、日本国内でしか通用はしない秩序感覚のアジアへの押し付け>を強引に結びつけてしまった。こんな荒業が可能であったのは、「所を得る」の定義力が弱いためで、平沼のスピーチライターの革新官僚はそれを悪用したわけです。

 もっと露骨な解説は、西田幾多郎が1943年に「世界新秩序の原理」という講演の中でしてくれている。
 西田は、ウィルソン式の「各民族平等」や共産主義も非現実的だとし、「各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合する」というのが「我国の八紘為宇の理念」であり、また「畏くも万邦をしてその所を得しめると宣らせられる聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である」と陳べています。

 さて、東條英機は1942-2-16の国会で「大東亞経綸に関する帝国国策闡明に就ての演説」を為しました。
 その後段で彼は「屡々申述べましたる通り、大東亞戦争の目標と致しまする所は、……大東亞の各国家、各民族をして各々其の所を得しめ、皇国を核心として道義に基く共存共栄の新秩序を確立せんとするにあるのでありまして、米英両国の東亞に対する態度とは、全く其の本質を異[こと]にするものであります」と語ります。

 この文だけ読めば、「所を得」は「生活ができる」のようでもありますが、東亜新秩序思想がもともと徳富蘇峰から来ているという<文脈>を考慮すれば、この「所を得」は、<土人は分際を知り、メリトクラシーの日本人官僚の指導に従え>の意味であると判断したベネディクトは間違っていません。

 ちなみに余談ですがこの演説の前段で東條は「畏[かしこ]くも宣戦の大詔渙発せられまするや、……僅[わず]か二旬にして香港を、三旬にしてマニラを、而[しか]して七旬を出ずしてシンガポールを攻略し、茲[ここ]に米英両国の多年に亙[わた]る東亞侵略の三大拠点は挙げて我が占領する所となったのであります」と自画自賛しているんです。
 日本の陸大教育が、明治十年代から一貫して規範としたドイツ参謀本部流の速戦速決戦争術とは、「敵首都を陥落させる」ことをもって、全戦争プログラムのゴールとしていました(その後のことは考えていない)。
 このときの東條にとって、香港、マニラ、シンガポールは、南京と同じ「敵首都」だったのでしょう。東條は、ドイツ人に向かって「わたしはあなたがたの参謀教育が昔から理想としていた首都攻略もなしとげた」「わたしは大モルトケに並んだ」「どうだい、偉いでしょ」と、同盟通信を通じて大いに自慢したわけです。

 東條は「大東亜戦争一周年を迎えて」の声明の中では、「而して、わが占領下に在る諸地域の原住民は、久しきに亘る米英蘭の暴政より救出せられ、普[あまね]く皇恩に浴すると共に、喜び勇んで皇軍に協力し、それぞれの地位に於いて、大東亜共栄圏の建設に現に貢献しつつありますることは、世紀の一大壮観でありまして、これ偏に八紘を宇とし、各国各民族をして、各々その所を得せしめ給ふ御聖徳の賜物と、唯々恐懼感激に耐えないところであります」と言っています。
 ルース・ベネディクトはこの声明の英訳文をちゃんと読んでいたはずです。そこから、「所を得る」とは「日本に都合の良いオーダー」の意味なのだな──との理解を最初にしたのではありますまいか。

 戦時中に北原白秋は「アジヤの青雲」という小学生向けの詩の中で「……誓へよ善隣、アジヤ、アジヤ、すなはち万邦、所を得しめて、共存共栄……」と歌った。「所を得」がスローガン化していたことが分かりますね。

 「大東亜共同宜言」(1943-11-6)には「抑々[そもそも]世界各国が各其の所を得相倚[よ]り相扶[たす]けて万邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要議なり」とあります。
 ベネディクトもこれはいよいよキーワードだと察するのは自然でした。

 昭和20年6月の鈴木貫太郎首相の施政方針演説にも、キーワードは踏襲されますが、やや意味は変化をします。
 すなわち鈴木は、その演説が必ず米国政府に聞かれることを意識しながら、日本の天皇の昔からの本意は「万邦をして各々その所を得さしめ」ることだが、それは侵略と搾取をなくするという意味なんですよと強調をしています。

 「所を得」はフレーズとして戦後もよく使われました。たとえば昭和22年11月2日に国会に提出された質問主意書には、「政府は国民全体をしてその所を得せしめなければならぬ、一人にてもその所を得ざるあらば是れは政府の責任である」と見えます。
 儒学レトリックは知識層にはこのくらい共有されていたんです。

 ただし、昭和天皇は、あの人間宣言の折に五ヶ条のご誓文について特に強調し、西洋近代はすでにその時点で始まっていたと内外に分からせようと努めました。
 ですが、肝心の日本の知識人はすっかりそれを忘れている者が多く、よく思い出すことがないのです。そして彼らは、ご誓文ではなくて、バリバリ反近代朱子学の「教育勅語」に還ろうとするのですから、終わっていました。

 和辻哲郎などはまずその代表選手で、「教育勅語の本義」とは、家族、社会、国家の道徳を実践し、「万民が所を得る国家」をつくって、最後は「万邦がその所を得る」ようにすべきだと自著で説きました。
 いまだに教育勅語をもちあげる人がいますが、それでは日本は、世界から信用される国とはなれないでしょう。ご誓文の原点に立ち戻ることです。

あの『決心変更セズ』を凌ぐ巨弾がぁぁぁぁぁっ!

 現在わたくしは劇画原作の執筆を急いで進めております。
 どうも創作と評論とでは、脳みその配線をすっかり切り替える必要があります。
 朝っぱらに一本評論を書いてしまいますと、その日はもうシナリオは書けません。気がのらない。世界に入れない。
 しかし、今回の企画=書き下ろし単行本『2008年 日中開戦!!』は、版元もかなりヤル気まんまんだしボヤボヤしてるとリアル・シナ経済がクラッシュして出版の話題性がゼロになっちまう恐れもありで、ご指名を受けた身として納期迅速を心掛けないわけに参らない。という次第でこいつが完成するまで当分しばらくは、午前中は劇画だけに脳力を使うことに決めました。その余波で、午後は評論は書けない日が増えるだろうと思います。
 ところで先日、上京したんですよ。
 内閣官房の藤さんから「篤志つうじ倶楽部」や対米英文宣伝活動の民間事業についてご賛同をいただき大変ありがたいことでございました。
 ところが肝心の史料英訳会(仮称)は未だ定款も決まっておらず、口座も開けてないんです。もー何やってんだか。そこで20日に加瀬先生の事務所に茂木先生たちとお邪魔してその場で全部、決めて参りました。
 対米宣伝事業の有料スキーム(非ボランティア)の方は、会の名が「史実を世界に発信する会」となりました。これまで使ってきた「史料英訳会」という仮称は消滅します。
 会長は加瀬先生です。また、事務局長の仕事をする役員といいますか代表委員には、当初から兵頭が主張して参りましたとおり、茂木先生になって戴くことも決まりました。他にいませんから。専従できる人が。
 最初の有料翻訳の対象は、黄文雄先生の複数の著作の中から満洲事変前後の事情について良いことが書かれている箇所を「いいとこどり」でダイジェスト英訳しようという方針で、その場の立ち上げ委員全員が一致しました。
 なお、当会の続報、詳細につきましては、当会の日本語HP(これまで史料英訳会の日本語HPであったところ)をご覧ください。

 この上京ついでに「チャンネル桜」で雑談してきました。
 そこで痛感したのですが、右寄り言論人もこれからは内訌のシーズンですよ。
 百人斬り訴訟の分裂みたいに、理由の不明な派閥形成もありましょう。しかし「対支」「対米」その他で「理由のある分別」は、もう見えているんじゃないですか。

 ちょっと考えても、次のような分別が可能です。

【A】大アジア主義者……対米戦争は日本のアジア解放戦争であったと思っている。
 当然、東京裁判のA級戦犯7人は全員、無罪であったと思っている。
 また、日本はシナと結んで欧米と対決すべきであると思っている。
 シナについては正しい知識を持たず、夢想のみ。

【B】アンチ・グローバリスト……対米戦争は日本の自衛戦争であったと思っている。
 東京裁判で死刑になった7人のA級戦犯のうち、1941年の開戦以前の行動が問われた4人(板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、広田弘毅)は有罪で仕方がないが、他の3人(1941年当時陸軍大臣だった東条英機、陸軍次官であった木村兵太郎、陸軍省軍務局長であった武藤章)は無罪だと思っている。
 真珠湾攻撃は宣戦布告が先になされていれば合法であったと思っている(A級戦犯とはパリ不戦条約違反を問うたもので、古いハーグ条約は関係がないことがいまだに分かっていない)。
 アメリカの対日要求は昔も今もまったく日本のためになっていないと思っている。
 社会主義に親近で、同胞の官僚を信じ、大いに期待をする。
 シナに対する加害者意識があり、米国に対する被害者意識があるので、将来「大アジア主義」に走りそうな危さがある。

【C】反共&親米ポチ……対米戦争は日本の自衛戦争であったと思っている。
 シナ事変は共産主義者の陰謀にはめられたと思っている。
 日本は北鮮がらみで米国に守ってもらわなければならないので米国に迎合すべきだが、東京裁判は事後法で人を裁いたものだから納得はしていない。東條は無罪だ。
 日本が安全でありさえすれば米国と協調する必要はないと考える可能性がある。ゴーリズムには内心あこがれる。満州国をつくったエリート官僚の幕僚ファシズムともメンタリティは近い。

【D】近代主義者……対米開戦は日本がパリ不戦条約に違反した侵略戦争であったが、満洲事変とシナ事変は逆にシナ側がパリ不戦条約に違反していたと考える。シナに対しては日本は被害者である。米国に対しては日本は加害者である。
 したがって東京裁判で死刑になった7人のうち、板垣、土肥原、松井、広田はA級に関しては無罪、もしくは部分有罪でも片手落ち処罰に正義はなかった。逆に、東條、木村、武藤はA級に関しては有罪であったと認めなくてはならない。
 対外的に公的に誓った条約を遵守せねばならないのは近代国家として当然だ。人々が互いに約束を守る空間であってこそ近代資本主義も可能になり、中産階級の自由もあり得る。シナ・朝鮮にはこの空間はない。欧米にはある。日本は欧米と同じ近代空間に属し続けるべきなのはあたりまえである。
 このように考える近代主義者が「大アジア主義」に走ることもありえない。この近代主義者だけが、米国要路を不必要に不安にさせることがない。この近代主義者が日本の言論の主流になることが日本の核武装の捷径である。

 わたくしは「D」の主張を可及的にあらゆるところで書きまくってきましたが、誰も読んでないですね。読んだつもりでスルーなのか。それとも自分の意見と違う部分はまるっきり覚えてないのか。対面でこういう話をしますと、みなさん「エーッ?」という顔をなさいます。
 生前の宗像和広さんが、日本人は外人の書いた戦記批評のなかから都合の良い、気分の良くなる部分だけを引用して、他は切り捨てるのだと看破していらっしゃいましたが、これは国内のすべての言論についてもあたっているんじゃないですか? 『菊と刀』が理解されていないのは典型的な例です。そしてこういう狭量な性向のひとつの極北を実践してらっしゃるのが「バカ右翼」。人の話を何も聞いちゃいないんだ。

 今回の上京でアッと驚いたのが、とある若い法曹家の方でしたよ。「零戦の被撃墜シーンのフィルムを見ると、ロールがあまりに鈍い。これは300ノット超の対気速度のとき、零戦のエルロンは全く効かなかったからではないか。あるいは操縦桿やハーネスの設計に人間工学的な不都合があったからではないか」「WWII中に13ミリ級の搭乗員防弾を試みたのは日本陸軍機だけだったのか」「ガソリンタンクの液体充填部分を弾丸が貫通したときに、どうして火災が起きるのか」等の意外にハッキリしていない疑問に逢着するや、真実を求めてあらゆる入手可能な英文資料(米軍の調査報告がものすごく充実したものであるらしい)を漁っておられるのです。
 塗装の話をおっかけているマニアの人と違ってこういうオタクの方々は頼もしい。健全な疑問から健全な調査が、そして健全なアウトプットと更なる健全な懐疑の直観力が、生ずるでしょう。

米山先生、句集をありがとうございます。

 なげ捨てていのち拾える雪下ろし (二十八)

問い。なぜ西欧はブチキレているか?

問い。なぜロシアはイランの核開発への協力を凍結したか。

──テヘランからモスクワまでの距離=2466km

問い。なぜドイツの元国防相は核武装を検討汁と発言してシラクの尻を叩いたか。

──イラン東部のタブリーズからベルリンまでの距離=2994km
──タブリーズからフランクフルトまで=3246km

問い。なぜデンマークの新聞は、イラン指導者はマッドマンだと風刺したのか。

──タブリーズとコペンハーゲンの距離=3175km

問い。なぜシラクはミサイル原潜基地で演説してイランを核攻撃すると示唆したか。

──タブリーズからパリまで=3689km

問い。なぜスイスの新聞も風刺画を転載したか。

──テヘランからチューリヒまで=3751km

問い。なぜ英国の新聞は比較的に冷静か。

──タブリーズからロンドンまで=3883km
──朝満国境のやや北東寄りからグァム島まで=3650km
──平壌からグァム島の距離=3400km

■古書摘録

▼奥田二朗『北海道戦後秘史』S40年4月 ※『北の発言』で引用した箇所は割愛。
 著者は戦中派のブンヤ。「北海道米軍太平記」の改訂版。

 1945-7-24の北海道空襲で10センチ高射砲が火をふいたのは、室蘭と外にわずかだけ。
 北海道地方総監府長官の熊谷(内務省?)が大政翼賛会にいたとき国民服を発案した?(pp.15-6)。

 第七師団は、支那事変いらい終戦まで、北海道内から29万人を動員した。遺族家庭は7万世帯にのぼる。
 沖縄にも北海道人の部隊が15000人。134名が生き残った。
 広島の原爆は8月22日に国内に報道された。当時の発表では死者6万。(p.23)。

 9-23にアイケルバーガーは、日本占領は20万で十分だと。
 10-7朝に札幌の苗穂刑務所から思想犯、つまり共産党員が38人解放された。やがて道内に1万人の党員を獲得した。

 室蘭で有名な「おかわいそうに」報道事件。
 平出・海軍報道部長は、道南の今金の寺に世間を避けていた(p.33)。

 8-30に第八軍のゼームス中尉が炭坑を視察。気候がアラスカに似ている、石炭も同質だと。

 市民の印象。日本軍とちがって米軍にはこれと目立つ偉い者が分からない。
 札幌の三越も接収されたが、真駒内の突貫工事のおかげで半年で返還された。

 樋口季一郎中将は日蓮宗。北部軍解散後、朝里の山の中で耕作。のち九州小倉に転居。※やはりソ連は来ると思っていた?
 樋口は江別の紙会社に木製飛行機を3機つくらせた。20年5月に試験飛行。敗戦で2機は燃やし、1機は米軍が本国に送った。

 ライダー少将はイタリア戦線からやってきた。麾下に日系第100部隊がいたので、人種的偏見は無かった。
 横路代議士の義兄・野呂栄太郎は昭和8年に獄死。
 CICが共産党員を集めて北海道内の戦犯リストをつくった。
 朝鮮人たちは7月末あたりから敗戦を察知していた

 11月、苫小牧飛行場の塩田化の許可がおりる
 農家は供出命令に抵抗し、村の橋を落としてトラック進入を防いだ。
 道では若い復員兵たちが自発的に団体をつくって共産党に対抗した。
 11-1の道人口は352万人 それでも当時は養えず。

 藻岩山原生林には最初、進駐軍がスキー場をひらいた。そこをあとからロープウェイにした。これは大いに黒字となった。
 12-10にNHK放送劇「いまだからいえる」開始。日曜の30分。
 新聞社員の事前自己検閲はS28年から第二の天性と化してしまった。(p.70)。以後は事前に占領軍に企画のお伺いをたてる必要もなくなる。

 12月から、天孫降臨はウソだという歴史学者が登場。

 S21年2月に米国務長官は、樺太、千島のソ連領有を公認。
 二世のCICが小樽のキャバレーで身分証明書を示さなかったため巡察のMPに射殺された。
 S22年6月5日、沖縄返還に蒋介石が反対。
 S22年7月25日、武徳会関係追放基準決定。

 77Dは16000人。古参兵から帰国開始。本隊はS21年2月に帰米。
 交替で第10空挺師団10000人が来た。これが犯罪者集団。

 30年春から千歳にジェット機。
 真駒内はキャンプクロフォード。牧草地につくった。日本一の規模。最初から水洗便所。

 朝鮮戦争中の在道米軍がピークで25000人。
 千歳の女は黄色い便器とよばれた。
 千歳から朝鮮までジェットで2時間。29年の撤退で基地ブームは終わる。

 江戸時代の中間社会団体などの文化蓄積がない土地柄なので非日本的な共産党が大暴れできた。それが社会党知事を続けさせた土壌環境である。
 占領軍の脅し文句は常に、沖縄で重労働させるぞというものだった。

 21年秋からラジオ自由販売。加州米が北海道に送られてきた。
 メチルは飲んで36時間以内に発作。
 タコ部屋は北海道の名物で、21年でも全道に50ヶ所以上あり、1000名が労働中。その労働者をタコという。

 マックは21年の半ばから労働政策の転換を強いられた。本国の対ソ認識が変わったので。※これと『菊と刀』出版は同期。。
 22年10月から新聞の横見出しが左から、新仮名遣いとなる。
 22-10に札幌で鮮人と香具師の集団乱闘寸前。38式歩兵銃ももちだされた。日本で第三国人に対しヤクザが立ち上がった最初という。

 昭和新山は戦時中、検閲で報道が許可されなかった。
 帝銀事件の平澤は小樽出身。
 ゴヨウマイ水道の潮の早さは磯船ではふつう、のりきれないが、1959頃は密出国が散発。
 27年から北海道上空で米ソ航空機の銃撃戦が生じ、本州人は北海道への投資を危険視するようになった。

 1943カイロ宣言は領土不拡大と。そしてポツダム宣言にはカイロ宣言が履行されるとあった。にもかかわらずサンフランシスコ条約では千島が放棄された。
 鳩山が訪ソしたので米国は牽制イヤガラセを開始。「四島」のソ連領有を認めるな、認めるなら小笠原と沖縄も還さんぞ、と言い始めた。

 6・3制の真の狙いは、旧制高校の破壊にあった。占領軍は、東大閥官僚の特権意識(反抗心?)を取り除こうとした。その根幹が旧制高校で形成されていると見た。※確かに6・3制世代の高級官僚はもはや米国にもシナにも反抗はしない。

▼中村獏『風流交番日記』S30年11月
 現職の警察官による、何かの連載エッセイをまとめたもの。
 「銀座の方向から、服部の時計の音がはつきり聞えてくる深更」(p.195)とあるので新橋あたりの交番勤務者か?

 書かれた当時の街頭娼婦のショートタイムの相場は千~二千円。場所は旅館で。
 街歩きの狂人のことは「非檻置精神病者」という。
 当時まだ警邏車はジープ。一斉検挙は幌付きの大型トラックの荷台に収容。MPのジープは普通乗用車のスピード違反も取り締まっていた。
 占領中は女装したオカマが人通りの少ない屋敷街に立って米兵を誘っていた。護身用にナイフで武装しており、トラブルとなって刺された米兵もいる。

 制帽の顎紐は私費で購入する。
 口ひげのある老巡査もいた(p.129)。

 当時の留置場。警察署の事務所を通り抜けた一番ドンづまり。コンクリートの廊下が一間幅ばかりのガラス戸につきあたる。ガラス戸には鉄格子と大きな鍵。その前に立って呼ぶと、内部から看守係巡査が戸を開けてくれる。
 一間幅のコンクリートの廊下が続いており、両側にずらりと房。一房、二房……と番号があり、女子房、病房もある。ひとつの房には鍵は二つ。廊下にボロ椅子があって、看守はそこに座る。看守は煙草を吸えるが視線が気になる。在房者は昼間は横になれない。起床は6時。用便はいちどに二人ずつ出す。

 まえもの(前科者)が入るときは、とばれないように身体検査を厳重にする。
 したたか者であればあるだけ、看守に世話をやかせない。皮肉を言っても腹を立てないし、騒いだり泣いたりもしない。「ある種の諦めに徹してゆく速度を、過去の経験がスピーディーにしているらしい」(p.69)。
 くら=食糧。 かつ=恐喝罪。 「長い」は仲間内では禁句。
 「けんじばい」=検事が調べて釈放と決める

 雑役。公然と認められていない制度で、軽犯罪者でしかも留置場内の事情に通じている者を廊下に出して掃除や配膳をさせる。
 慣れない者も夜1時頃には寝付く。

 当時は警官も距離を里で呼ぶ。メシはコメ76匁、焼パン46匁、すいとん64匁、蒸パン51匁、生乾麺86匁、馬鈴薯140匁、乾麺90匁。これが主食。他に、煮付、味噌汁、漬物など若干。一食15円と格安。留置者は無料だが、保護人(家出人、行路病人、泥酔保護)は請求される。食後は白湯が出る。茶は無い。

 戦前は留置人の入浴はなかったが、この時点では週に1回以上、電気風呂に入ることができる。
 一房に5人くらいいるが、そのうち4人は体のどこかに刺青していることが入浴日に分かる。小桜の白粉彫りというのは一風呂浴びると浮き出してくる。
 婦女子の身体検査、入浴には医師または青年婦女子の立会いが必要。

 検察庁や裁判所からの逆送のさいにマッチや煙草などを持ち込もうとする者には、運動禁止、入浴禁止、両手錠、接見禁止などの処罰を与える。

 賭博は現行犯でつかまえるしかないので現金が出てくるまで踏み込めない。
 「犬殺し」(p.165)が街を巡回して鑑札の無い野良犬をどんどんつかまえていた。
 財布が届けられたときは、拾い主にまず中身を確認させる。警察官が一枚くすねた、と後でいわれない用心。

通信の反応が遅いので……

……だぶってしまいました。これは雪のせい?

ますます核戦争が近づいた

 昼飯をパクついていたら、TVに柏原芳恵が出ていました。TV局の嗅覚は恐ろしいものです。あるいは世紀の離婚が迫っていることも感じているのではないでしょうか?

 昔、ゲバラが自著で書いていますように、げんに選挙の行なわれている国で、反政府ゲリラが政治家にテロをしかけても、人民は誰も支持しません。そんなテロやクーデターに適宜性がないことはいかなる無教養な地下人にも分かるのです。しかし、もしも選挙で変えられない悪党たちがマスコミ舞台上に浮かび上がってきましたら、話は別になってしまう。殊にそのグループが外国から賂いを受け取って自国の君主を廃絶もしくは私物化しようと策動していたら……?

 表向きしおらしくなったと思っていた外務省がまた妙なことを続けていますね。またすべての高級官僚たちは日本の皇室の俗化を諦めません。このまま参りますと、この文明国の日本で、官僚に対するテロが起きてしまうかもしれない。それを防止する道は、スポイルズシステムの法制化しかないでしょう。しかし、立法実務を牛耳っている当のエリート官僚たちがそれに協力する筈はないと思われます。ということは、遺憾ですが、テロのショックがまた生じるだろうと予言をしておかざるを得ない。申し添えると、近代日本の特殊性は、国内が乱れても皇室が無事である限り対外的な信用は一定以下に落ちることはないことにあります。逆に皇室が無事でなくなれば、日本人の対外権力はゼロです。2.26は皇室の危機でしたから、モスクワが元気付きました。

 福地源一郎によると、戊辰戦争のとき、列強の中で英国だけが、徳川将軍に君主の呼称「ヨー・マジェスティ」を用いようというフランスの提案に反対をして、皇室を救いました。その際アメリカはフランスに賛成して、天皇は日本の君主ではなく「ヨー・ハイネス」で十分だという不見識を示したのです。このアメリカ政府の本質的な危なさは、その後も消えてはいません。
 また昭和7年から昭和20年にかけて日本陸軍は、対ソ戦の開始と同時に日本国を満州国化してしまう計画を準備していました。つまりエリート官僚は天皇を私物化・傀儡化できると考えていたのです。彼らは今でも、チャンスさえあればそうすべきなのだと考えています。
 過去の二つの危機は、選挙ではなく、国内の実力装置が防ぎました。

 激動の時代が近づいています。イランは北鮮と違って後ろ盾がありません。イスラミックではあっても不倶戴天のスンニ派である周辺諸国も、例外なくイランの滅亡を望んでいます。米国はシナに備えねばならず、ICBMの総数を過去に密約させられた20基を超えて整備するぞと脅しているシナのために半島政策を完全に麻痺させられており、またイラクでも疲れています。おそらく英・仏・イスラエル、または英・仏・露による共同先制核攻撃が、今年中にイランに対してあるのではないでしょうか。
 シナはイランにテポドン2を運び込んでいます。その射程は3600kmあるでしょう。これは鴨緑江の満洲側からグァムの米軍を核攻撃し、それを北鮮の仕業に見せかけるためのSSMです。開発の資金はイランから出ました。日本のパチンコマネーも貢献しました。3600kmは、タブリーズからパリまでの距離に当たります。コペンハーゲンにも届きます。だからデンマークの新聞にイラン指導部を狂信者として非難するイラストが05年9月に載りました。テヘランとモスクワの間は2500kmです。テヘランと北京は5600kmくらい離れており、シナだけが高みの見物をしている。真のキチガイは北京にいる。これにブッシュ氏は参ってしまっています。
 世界規模の核戦争が起きます。日本はどうするべきでしょうか? やれることがある筈です。

 日本の評論家の甘さは、閣僚級の政治家を、とつぜん気が変わり得るような庶民的パーソナリティだと思っていることではないでしょうか。政治家もまた「機関」にすぎない。インプットがあり、アウトプットがある。アウトプットのトータルはある程度予測ができるのです。そして選挙ではそのトータルの「よりマシ」を0か1かに還元して選択する他はありません。日本人は古代から、ある有力な政治家が、数ある外敵のうちどこから最も嫌われているかを、アウトプット判断の拠り所として、支持か不支持かを決めてきました。それが最も間違いが少なかったのです。今の日本のインテリにはこの智恵が無いのです。
 21世紀の日本が消耗的なテロの時代を迎えないことを祈り、わたくしは次の総選挙ができるだけ早く来てくれることを希望しています。

訂正。

 原著の初版は1951春でしょう。

古書摘録

▼ロマン・キム著、高木秀人 tr.『切腹した参謀達は生きている』1952-1

 訳者はしがきによると、著者は金呂萬という朝鮮系ロシア人らしく、慶応大学卒業。昭和10年の『中央公論』に、「向う三軒両隣り~ソヴェトから見た現代日本文学」という論文を載せたことがあると。現在モスクワ在住で、極東関係の仕事をしており、日本からモスクワを訪問する者はたいてい彼の世話になっていると。要するに有能な工作員。

 本書は、朝鮮戦争は南の北侵であるとするプロパガンダ小説。1950年春、つまり戦争が勃発した直後に、ソ連の文芸誌『ノボェ・ミル』の巻頭に掲載され、かつ書評にて「これは丹念な事実調査に基づいている」と太鼓判がおされた。
 半島の順川で発見された、死んだ南側工作員の日記の内容を紹介するというスタイル。
 その男は日本の敗戦と同時に自決したと信じられている旧日本軍の高級参謀の一人である。彼はいかにして8.15に死に遅れたか。そして数年後のあるとき、8.15に自決したものと信じきっていた同僚や先輩の高級参謀たちの多くが、実は他人の自決死体に自筆の遺書を添えて偽装をして生存をしており、日本の再軍備と次の対ソ戦に備えていたのだと知り、その仲間になって韓国に渡るというドラマ。
 しかし、かなりの抄訳。

 p.14 北鮮軍の司令官は坑夫出身ということになっており、それまで中共軍の林彪の下で働いていた。
 日本軍はWWII中の南方戦線その他で米兵捕虜の「生き肝」を食った。それを最初にやったのは辻政信大佐で、彼は「マライの虎」と呼ばれている(p.28、他)。
 それは佐賀藩の一藩士の実録、士訓『葉隠』に載っているのだと(p.64)。

 ニューギニアでは米軍は稲とサトウキビに被害を与える特殊爆弾を落とした。
 オリムピック作戦をやれば30万人の犠牲が出ると国防省は計算した(p.29)。。※ここで「ペンタゴン」と言っているのは戦時中の話として正しいか?

 繆斌が日本にいるあいだに米軍はいちども東京を爆撃しなかった(p.33)。
 1942のマドリッド公使の須磨と英国公使ホールの交渉のとき、チャーチルは北支の日本権益をみとめる和平を定義した。マレーを返還することを要件に。しかし東條が蹴った(p.33)。

 英米軍の将校捕虜は草津で良いくらしをしていた(p.35)。
 石原の北進プランと武藤の南進プランがあり、「一九四一年七月二日の御前会議で、ロシヤと戦争をはじめることがきまった」(p.37)。
 ロシアが屈服すれば、英国も降伏する。単独となった米国は、日本との戦争継続を欲しないだろうと、武藤は天皇を説得したと。

 本土決戦プラン。杉山と畑のふたりの元帥が二つの総軍を指揮する。海岸で勝てなければ、本州中心部の山岳地帯にたてこもる。その前に天皇と政府は満洲に移す。新京が臨時首都となる。その管理は関東軍が担当する(p.47)。

 1945にサンフランシスコ放送は日本にサインを送り始めた。ケープハート上院議員は、無条件降伏に固執すべきではないと声明。『ライフ』と『タイムス』誌は、もしアメリカが妥協せねば、100萬以上の軍人が犠牲になると書きたてた(pp.49-50)。

 東京若松町の石井の住宅が焼け出されてからは、バクテリア調剤の設備は新潟と北海道に移された。満洲の平房にあった調剤所が第七三一部隊、新京郊外にあったのが第一〇〇部隊だ(p.56)。
 大会社のある丸ノ内と、最高級ホテル、耐震建築の大邸宅のある市街には、一発の爆弾も落ちていないではないか(p.57)。

 石原が参本作戦課長のとき、プランをつくりかえた。沿海州に限定せず、ウラルまで攻めると。
 モスクワ駐在武官の山岡道武は毎週大本営に報告を送り、ソ連は次の週末までに抵抗を止めると予言し続けた(p.65)。

 石原プランでは対ソ戦の最初の24時間でウラジオとハバロフスクを攻略する(p.69)。
 1944-11から在支日本軍は停止したまま(p.72)。

 広島の爆弾のことをトルーマンは「ヒルダ」とよんだ(p.75)。そのウランは野球のボールよりさして大きくなかった。
 終戦の御前会議。この会議は禁煙なので蚊の襲来に参った(p.83)。

 ソ連が参戦すると、北海道と敦賀にロシアの降下部隊がくるという流言が飛んだ(p.86)。
 1945の対ソ開戦後、阿南の臨時内閣の組閣が考えられていた(p.90)。
 阿南が死んだことでこの計画も失われた。

 下駄を履いている男が喧嘩の身構えをするときは、下駄を手に持つ。
 8.15では都内いたるところに警官と憲兵が立ち、将校といえども宮城広場か上野寛永寺でしか死に所は探せなかった。自決者は名刺をそばにおき、裏に両親の宛名を書いておく。
 マッカーサーの参謀のサザランドはなぜ対ソ戦専門家の河邉次長と笠原・前関東軍参謀長を至急マニラによこせと命じてきたのか。

 降伏後、天皇は書斎にリンカーンの半身像を置いた。
 ソ連は新京を降下部隊に占領させ、焼かれる前の関特演の文書を確保した。
 閻錫山元帥が台湾に山岡陸軍少将を招き、軍事顧問にした。

 吉祥寺はぜんぜん戦災をうけなかった(p.130)。
 「関東軍特別演習」の文書は米軍司令部にうつされた(p.140)。

 西銀座の電通と隣りあわせになっている「ロマンス」クラブの建物には、中野学校を卒業した将校たちの終戦後の集会所があった(pp.143-4)。
 ハルダー将軍はアメリカのために働いている。その日本版だ(p.164)。
 中共軍は、揚子江を強行渡河して、国民政府の首都・南京を占領した(p.164)。

 「歴史研究協会」という名目でかつての中将、少将が、南朝鮮参謀部の請負仕事をしていた(p.181)。1872年の西郷の計画、1894の日清戦争の計画は、いずれも釜山と仁川に上陸して平壌と鴨緑江を目指すものだった。
 マックは日共の議員の議院資格を奪った。

「貸家時代」がきっと来る

 なんかローカル・ニュースなんですけど市内で「騒音殺人」があったようです。
 素人が急に殺意を抱いた場合、カナヅチで頭を殴るのは、ナイフで胴体を刺すよりも致死率が高いことはみなさん、よく覚えておきましょう。

 98年7月の『新潮45』に書きました「一億総キチガイ時代のナイスな刑罰『島流し』」をお読みになった方には、わたくしが近隣騒音には早くから敏感な人間であったことはご承知と存じます。すでにあの時点で20回近く、またあの後も5回はわたくしは引越しを重ねました。
 そのうち「音の環境」が引越しの動機に含まれていなかったことは合計三回ぐらいしかないでしょう。ほとんど、印税が入るたびに、その資金を引越しで使い果たすというパターンだったように回顧されます。

 世の中が静かな、あるいは十全に防音された集合住宅ばかりであったなら、流れ流れて北海道に来ることもなかったでしょうし、いまごろ貯金が数百万円はあったでしょう。しかし、悔いてはおりません。北海道で月々4.5~6.5万円と格安の一戸建て賃貸住宅に住み着くことができなかったなら、わたくしもどこかで人殺しになっていた可能性があります。(ちなみに当市では駐車場がない一戸建て物件であれば風致地区で4万円台の2階家というのもあります。築30年くらいですけど……。また郊外の端まで行けば6.8万円でほとんど「豪邸」に住めます。平屋で部屋数が5、キッチンが17畳、駐車スペースは2台分という感じで。しかも築数年です。)

 渡部昇一先生は『知的生活のすすめ』の中で、クーラーというものが無かった時代、日本では夏季の3ヶ月間は誰も読書ができなかった。が、ドイツでは通年できた、と指摘され、この差が積もり積もって近代までに学問の到達深度で懸隔が生じているのだと示唆されております。

 同じことは音の環境についても言えなくてはなりますまい。
 動物は、まぶたを閉じれば光の刺激を遮断できます。が、耳たぶを閉じて音の刺激を遮断することはできない。どうしてか? 寝ているときや、前方の何かに集中しているときにも、どこからか身に迫る危険を警報してくれる唯一のセンサーとして、聴覚だけは常にアラート状態に保たれている必要があるためです。

 逆にいえば、人間の精神活動は、騒音に全く妨害されなくなるようなことはありえない。騒音のある中で、何かに最高度に集中することは、誰にもできない、ということなのです。
 それは、摂氏30度以上の高温の中で人は読書や創作に深く集中できない(脳細胞に悪影響が出るため脳内発熱を伴う活発な思考活動は自動抑制される)のと同じことでしょう。

 静かな田舎育ちで耳の良い人には、ごく小さいノイズも気になるでしょう。環境が静かになればなったで、冷蔵庫のコンプレッサーの音が気になってくることすらあるのです。これが聴覚の特性です。まして、安普請のマンションの屋上の揚水モーターの音、幹線道路の交通騒音などには、住民は常に集中を乱されているわけです。またたとい本人は長い時間眠ったつもりでいても、その眠りは実は浅いものですから、昼間の健全な精神力まで知らずに失っているのです。
 これが蓄積されて行くと考えますと、長期の趨勢として、日本人の知的戦闘力の低下が、心配になります。杞憂でしょうか?

 一戸建ての貸家の良いところは、安普請でも誰にも迷惑がかからないことです。現に今わたくしが住んでいる平屋は日に日に屋根が雪の圧力で壊れてきていて、たぶん一ヶ月以内にたいへんなことになるのではないかと予測されるのですが(もう引越し先は決まっています)、仮りに夜中に突然に全面圧壊したとしても、隣家をまきぞえにすることはないでしょう。

 日本がデフレから遠ざかるには個人消費が必要です。また競争主体の精神活動は最高度に研ぎ澄まさなければ、すぐに外国に支配されてしまうでしょう。
 そのためには、これから高層アパートをいくらいじくっても、見込みなどありますまい。六本木に住んで、そこでどんな精神集中が可能でしょうか? 田舎の贅沢な一戸建て貸家を増やしていく。その先にこそ人々を幸せにする消費生活もあるでしょう。

 これをお読みの貴男。田舎の一戸建ての貸家に住んで、いつでも精神集中ができる環境を手に入れれば、いままではどんなに努力しても不可能であった深い思考が、そして、深い眠りの後の軽々とした全身の覚醒が、いきなり可能になるかもしれません。
 いくら不便になっても、つまらぬ人殺しとなるよりは百倍マシではないでしょうか。

あしびきの……

 麓から稜線が望遠できるからといってその山に詳しいとは言えません。みずから尾根線に立ったことのある人なら、もっとたくさんのことを体験しているはずです。また彼ならば誰よりも全体のパースペクティヴを把握できているはずですね。
 このごく限られた「知り得た」人間が、麓にうごめく、実は何も詳しくない衆生に、知ったかぶりをさせていくというのが、宣伝戦の一つの術なのです。

 シナ人が、ルース・ベネディクトの『菊と刀』を研究しているそうです。
 本当は、このことはシナ人たちは日本人には隠匿しておきたかったのでしょうが、どうしても英語圏内での研究ですから、話が漏れてしまったのです。

 しかし日本人で、ベネディクトの立った尾根線までの道、そしてそこからの眺めを知っている者はいません。知ったかぶりをしている衆生はワンサカいます。このため「シナ人が『菊と刀』を研究しているらしい」と聞いても、日本人は見当違いの感想しか抱きません。『そうか、シナ人は今の日本人の生活に憧れているのだな』なんて……ネ。彼らはそんなに暇じゃありませんよ。

 『菊と刀』は、1944年に日本軍に対する宣伝戦術を人類学の智恵を動員して考究するように米軍から依頼され、その依頼に十分に応えた碩学が、1946年になって、米国の対日占領政策の牛耳をとる政治家や官僚や新聞雑誌デスクたちのためにごく短期間でまとめた、高品質の参考書です。この内容をつぶさに研究することで、外国人が日本人をコントロールする手管を知ることができると、シナ人は正確に見切っているのです。ここに気がついたシナ人は、ここに気がつかずに麓から稜線を見ているばかりの日本人よりも、頭が良いのです。彼は稜線に立とうとしています。

 ひとつ、講談社学術文庫版の『菊と刀』(長谷川松治 tr.)より摘録しましょう。「……」は兵頭が引用を省略した箇所です。

 研究者のゴアラは1943にこう言った。シナのような大家族制の社会では「……集団の成員の一人が、他の集団の成員から非難や攻撃を受けた場合には、その集団は一致団結して保護にあたるのが常である。……襲撃を受けた場合には、全面的な支持を得られるに相違ないという確信をもって、自己の集団以外のすべての人びとに対抗することができる。ところが日本では、……自己の集団の支持を得ることができるという確信をもちうるのは、他の集団から是認が与えられている間に限られるのであって、もし外部の人びとが不可とし、非難したならば、当人が他の集団にその非難を撤回させることができるまでは、……彼の属する集団は彼に背を向け、彼に懲罰を加える。……『外部の世間』の是認ということが、おそらく他のいかなる社会においても比類を見ないほどの重要性をおびている」

 これでお分かりでしょうか? 「それはシナ様の許可を得ているんですか」といった売国質問が、いまだに日本の公人たる野党の党首の口から飛び出してくる理由が。そしてそれが日本だけの特異現象であるらしいことも。
 尾根線まで登ればこんなことが掌を指すが如くに理解できるのです。シナ人はその努力を始めました。

 訳者の長谷川さんは、「承詔必謹」という戦時中の典範類に書いてある文句をご存知なく、「必読必勝」と訳出してしています。この初訳は1960年代のようです。しかしどうも軍隊の教養には乏しい人だったのだなと見当がつきます。もしそうなら、とてもベネディクトの辿った道をトレースができなかったかもしれない懸念があります。誰かがこの本を新訳する必要があるでしょう。
 これは公刊されたことじたいが信じられないくらいの一級の価値のある宣伝資料なのです。米国の政府要路を、学術専門書ではなく一般書の文体を用いて、ある特定の政策(すなわち、日本人は針金で外部から矯正しなければならない菊のような子供ではない。その刀の錆落としを自分でできる成人である。日本で共産革命は起きない。自分で自分の始末のできる成人から後で復讐されるような下手な占領政策はするなよ)に誘導することに成功した、貴重なサンプルでもあります。対米宣伝の技法を一層磨きたい中共政府が、本書に研究価値があると目をつけるのは至当でしょう。

 ベネディクトは1944年に日本兵の捕虜尋問資料を見て、また英訳された日本の文学に触れて、日本人は東洋人の中で唯一例外的に自己暴露的なキャラクターだと知ります。
 だから「オタク」もまず日本で発生したんでしょう。戦前の強度に抑圧されたインテリの書いた暗すぎる私小説趣味とはうってかわった、極度の自由の中に突き放されて適当に自己実現を諦めている中産大衆代表の諧謔的な自己暴露が日本では歓迎されたのです。

 本書でベネディクトは、米国大衆が戦時中にマスコミによってかきたてられた素朴な怒りを鎮めるための宣伝もしてくれています。バターンの捕虜行進について。移民法について。海軍軍縮条約について、彼女はさりげなく日本の立場を弁護しています。
 国家神道は、米国内での星条旗に対する礼と同じで、他の宗教の自由とバッティングしないとも擁護します。

 ただし本書では日本人の復讐心については詳しく陳べられています。その部分をシナ人は対米宣伝の材料にそっくり引用して使っているのは間違いないでしょう。「日本を核武装させたら必ずアメリカに対して使うだろう」といった調子で。現代の日本の宣伝者が『菊と刀』に通暁しないで済ますことは許されません。

 ベネディクトは尾根線を歩きましたが山頂を極めたのではもちろんありません。
 たとえば、維新精神を闡明したキーワードの「所を得る」とは、これは「自己実現」の意味であったでしょう。このキーワードは、むしろ福沢諭吉の自由立身観に近く、教育勅語に代表される徳川時代に逆戻りの儒学的秩序感(分限をしれ)とはバッティングするものであろうと兵頭は思います。
 山縣有朋は中間小者の出身でした。徳川時代には農民や町民は領主といえども勝手に斬り殺せませんが(ベネディクトはこれを誤解していますが、それは利用した文献の筆者の知識が浅かったためです)、武家の主人は使用する足軽以下の中間小者を勝手に斬り殺してよかったのです。そんな待遇の人間がついに公爵になることを明治維新は肯定したのです。(余談ですが、桂太郎は日露戦争後、自分で自分を伯爵にしようとしましたので伊藤博文らが怒りました。身体を張った命がけの大活躍をしたわけでもない官僚的政治家が簡単に天皇に近い貴族に連なってはいけないのです。「科挙エリートは必ず皇室を俗化し脅かす」ことの初期兆候でした。)
 またベネディクトは、大の男の女役のオカマは日本にはおらず、それは少年がつとめる、と書いていますが、これは初歩的な誤解でしょう。ヤジキタ道中の片方は確か、陰間だったでしょう。

 あの教育勅語に代表される、儒教的な子供騙し、庶民騙し、外地の土人騙しは、エリート官僚(高級武士)の押し付けた意識的なタテマエにすぎません。庶民の無意識の秩序感は、日本の水稲作文化に特有の水利灌漑系共有体たる「字」から来ています。しかしパイオニアであるべネディクトは、まだそこまでは浮かび上がらせることはできませんでした。

 ベネディクトの日本人の責任感地図についての把握は恐るべきものです。けれども、このように、キーワードのあてはめは必ずしも妥当でない部分があるでしょう。が、それは小瑾です。
 ベネディクトは1946に本書を公刊したあと来日する意志はなかったようです。それはおそらく、日本国内の自称インテリはこの本で言われていることをまるで理解できていないと察していたからでしょう。

 日本語の敬語が、太平洋諸民族と共通が多いこと。そして当時シナには4億5000万人がいるが、姓は470しかないことなどの指摘も重要でした。
 シナ式文化は、放っておくと、領域内部での他姓の撲滅を目指してやまないのです。
 いっぽう大和朝廷の先祖は大陸や半島ではなく太平洋から来た。しかもその後2000年以上も、シナ式文化に染められることを拒んだのです。有史いらい36王朝が交替したシナとは全く違うのです。
 シナ人と日本人がどのように違うかを米国人に教えたテキストとして本書は金字塔です。

 ベネディクトは、明治維新はフランス革命ではなかったと見ます。通婚タブーとしてのカーストが日本には希薄で、特に商人と武士の通婚が自由であったことが、日本におけるマルクス的革命をありえなくしたと言います。日本の中産階級は、ヨーロッパとは違って、何も戦いとる必要はなかった。通婚によって権威や権力も買えたのです。

 ベネディクトの動画の鑑賞眼がまた鋭いものです。日本が戦前にシナ向けに作った宣伝映画はシナ人を憤慨させるだけの阿呆な内容ばかりだと指摘します。そう、山の上に登らないと、こんなことが分からないわけです。宣伝は麓にいる人にできる仕事じゃありません。
 日本の国内向けの戦意高揚映画にもスペクタクルシーンがない。登場人物がすべて、全霊を傾けて義務を遂行していれば、それで大衆は安心するのです。だから欧米人にはあたかも反戦映画のように見えます。

 また米国の映画人で日本向けの作品を作る人は、必ず『菊と刀』を参考にします。『カラテキッド』の続編に、盆栽を大地に移植するシーンがあるらしいですが、それは本書の278ページにヒントを得たものだと断言できます。またおそらく、『カラテキッド1』の杭の上の鍛錬は、298ページにインスパイアされたものでしょう。

 日本人は、負けて恥をかくかもしれないという近未来の懸念を強く意識しすぎるため、競争に投げ込まれると知力・体力ともに実力を発揮できなくなる、という指摘をベネディクトはしています。シナ人には見られない現象です。尤も日本人も近年の五輪出場選手には、そろそろ見られなくなりました。

 危機存亡のときにも冷静に第三者の目で自分を評価判定し続けられるのがアメリカ的な男の偉さです。しかし日本では、自己監視を意識せずとも過不足なく闊達に行動できる三昧境こそ名人達人の域なのだとされます。
 これを修行の足りない者に促す元気づけのことばが「死んだつもりでやれ」です。
 それによって目的に失敗したときの恥を憂えずに、手段に集中することができるのです。欧米にはこのような元気づけの言葉はありません。果たしてベネディクトに指摘されるまで、これに気付いた日本人はいたでしょうか。

 ベネディクトがかつて実地調査しているニューギニアやメラネシアでは、矢戦の前に悪口の応酬があるそうです。これは、日本の武士の「名乗り」のルーツかもしれません。
 武士道という名称は近代にでき、それは評論家の創作であること、また、武士道と武士階級の同一視は誤解のもとだという指摘は、たぶん、新渡戸に拠っているのでしょう。

 日本には、善悪の対立という概念はない。ただ、ニギ魂とアラ魂のそれぞれの適宜性があるのみであること。
 神の無上命令のようなものはなく、特定の行動の不適宜性だけが地図として知られること。そのような文化を、ベネディクトは劣っているシステムだとは看做しません。
 そう、これはアダム・スミスが到達しかかった近代道徳観でしょう。そして米国大衆は英国人と違って君主がいない欠落を異常なほどの教会信仰で補完していますから、英人インテリのアダム・スミスの善悪観もうけつけられないのです。ベネディクトのような超インテリにだけ、そのことが分かり、議論も通じるのです。ベネディクトは孤高です。

 「慎重と自重とを全く同一視するということの中には、他人の行動の中に看取されるあらゆる暗示に油断なく心を配ること、および他人が自分の行動を批判するということを強く意識することが含まれている」(p.271)。「各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する」(p.274)。
 これぞギルト・カルチャーだというのですが、これはスミスの『道徳感情論』と違うのでしょうか?

 「精緻を極めた相互義務を生活の中軸としている国民」にとって社会的なサンクションは苦役ではなく抑圧ではない。だから自己犠牲意識だとか自己憐憫だとかアル中だとか精神分析治療の必要などは起きない。
 そこまではベネディクトは言っていませんけれども、インテリ読者はそこからアメリカ文化への批判を引き出せたのではないでしょうか。

 針金で外部から規正強制されねばならない存在の象徴が日本の菊です。自分で錆びることを防止し、なにごともたった一人で始末をつけられることの象徴が日本刀です。日本人は、私利や不正に対して反抗はしますが、けっして革命家にはならないでしょう(p.370)。

 こう書き遺して、ベネディクトは昭和23年に死にました。まさに日本国の恩人ではなかったでしょうか。

政治家は諦めても秀才官僚群は「易姓革命」を目指す。

 いにしえの日本では、 『孟子』を積んだ船が唐土から本朝に向かうと、それは必ず難破する、と信じられていました。
 なぜなら、それはシナ古来の特有思想たる「易姓革命」を露骨に肯定するテキストであったからです。

 地理は文化を決定し、文化は歴史を決定します。
 大陸文化は科挙と易姓革命になじみますが、日本はそうではありませんでした。

 それを担保し続けるのが、過去にルース・ベネディクトだけが南太平洋島嶼文化との一致として理解ができた「神聖首長」たるわが天皇家の歴史です。これはとうぜん、紀元前何世紀にもさかのぼった文化で、その文化と不可分の政体が、朝鮮に国家らしきものができるよりも何百年も早くから日本列島内に確立していたからこそ、あとあとまで大和朝廷は大陸文化の易姓革命(間接侵略)を拒否しぬけたのです。

 武家政権は、神聖首長制度こそが、大陸からの直接/間接侵略を防止する合理的防御機能であることを直観で把握していました。
 今日、多くの保守派が、コミンテルン1927/32テーゼだけを問題としているようですが、大陸の脅威とコミュニズムは関係ないのです。そんなものは本質ではありはしない。大陸の脅威とは易姓革命と不可分の文化であり、それは地理からくるもので、マルクス以前から存在し、マルクス以後もあり続ける脅威なのです。

 この大陸の混沌から日本を防御するシステムが神聖首長の制度です。この制度があるから日本社会は混乱せずに近代化することができ、近代軍隊を持ち、社会の安全を保つことができました。天皇制がなくなれば日本はたちまち大陸と同じ永遠無限の混沌地獄にひきこまれてしまうでしょう。『平家物語』は仏僧が書きましたが、日本の天皇制だけは永久不滅であると絶叫しています。その意味は日本の国防と社会安定にこそありました。

 大陸から長期にわたり徐々にもたらされた危険な文化のひとつが、政治リーダーではなく、試験エリートによる国政をよしとする思想です。シナ式の科挙に酷似した文化が、明治以降の日本に移植されました。そして秀才官僚は無意識に神聖首長を俗化しようとします。これは文化の必然なのです。

 皇室を廃せむとする勢力…。それは、皇室制度がある限り日本に革命は起きないと見抜き、意識的に皇室廃絶を謀ったスターリンだけの話ではないのです。日本国内の秀才官僚は、無意識に、天皇の地位をうかがわずにはおれない。それが大陸に生じた科挙文化というものなのです。

 小泉氏は基本動機として官僚統制に反発をしているのでしょう。しかし、このたびの皇室典範改正さわぎでは、もののみごとに、表にはでてこない高級官僚群(こんかいは外務省)の術策にからめとられて、官僚のために働いています。彼はそのパペットです。小泉氏がいなくなっても、試験エリート官僚はいなくなりません。

どなたか…

 『軍事史学』の最新号を読んだ方はいらっしゃいませんか。中田祟さんの国民党中央宣伝部と外国人顧問に関する論文の梗概を知りたいのですが……。

妄評雑批

 現在の秋篠宮殿下のご成婚のとき、「兄君皇太子殿下を差し置いてお急ぎになるなど、お立場の御自覚が足りぬのではないか」と難ずる人たちがいました。
 当時、江藤淳は、既に巷間噂の方であった小和田雅子氏のご係累であったため、この問題に関しても、いっさい何も書かないことを自分で決めていらっしゃいましたが、東工大の研究室に出入りする出版社の担当編集者たちの誰彼には、ハッキリと腹蔵無い私見を伝えていたのです。たとえば、『月曜評論』に書かれているような批判は正しいと思う──と。このミニコミはなぜか国会図書館にございませんので見たことはありませんが、たぶん、弟君が長子たる皇太子殿下よりもお早くご結婚あそばされるのは日本のロイヤルファミリーとしては反儒学的な不たしなみであり、皇室の評判にプラスにならぬ、と心配する人たちとご同様のお考えであったのです。
 嗚呼、みずから実子を持たむとして遂に持ち得ず、いちじは養子を貰うことまで真剣に思ったほどの江藤淳にも、今日の「皇統の危機」を予見することができませんでした。平民の理性は遺憾にもこの方面では有限すぎるのです。
 宮内庁内の輔弼者たちは、さらに迂闊であったと申さねばならない。皇室の若君たち、なかんずく昭和帝の皇孫殿下には、可及的な早婚をお勧め申し上げるのが、彼らの責務であった筈なのです。責任を後代回しにする悪癖が抜けることのない平民官僚供に宮内庁を任せてはいけないことが分かったと思います。宮内庁こそいっぺん解体して再生させる必要がありませんか。

おめでとう存じ奉ります。

 現内閣の任期中、つまり秋までの皇室典範改正は、あり得なくなりましたね。

古書摘録

▼岡本功司・著『蟇将軍南喜一』(S46-3刊)
 南は1904生まれ、1970没。

 東京の大学専門学校に入学するには、三年生乙種中学卒では受験資格がない。まず「専検」に合格しなければならぬ。17歳で合格。

 農村青年が東都遊学の熱にうかされたのは日露戦争勝利で日本が大国になってから。
 大正2年4月まで親不知に鉄道が通じておらず、金沢から上京するには米原経由しかなかった。
 ヴァイオリン演歌師は辻で唄本を売る「啖呵バイ」によって収入とした。
 演歌は明治20年、自由民権思想を大衆に広める手段として始まった。
 明治末年は苦学生がそれをやった。東京住民はそれを好感を以て迎えていた。

 演歌は次第に艶歌に化した。女の客に合わせているうちに。
 M36に東京市にチンチン電車が敷設された。
 人力車には、お抱え車、俥宿、辻待ちの三種があり、それぞれ自家用車、ハイヤー、タクシーである。夜だけの人力車を「よなし」という。冬の夜は寒いので人力車の客足は減る。

 大正3年頃、月謝を4カ月滞納すると大学除籍となる。
 タレ流しが問題となっていた石鹸廃液をタダであつめて、グリセリン(WWⅠで火薬原料として高値)をとる工業を始めた。
 しかしすぐ真似られたので、特許のとれる耐アルカリ性の硬質ゴムパッキンを製造。

 WWⅠの景気で日本人労働者の収入は増えたが物価はそれ以上に騰貴した。大正7年の賃金は大正元年の1.5倍だが物価は2倍だった。
 ロシア革命後に米騒動があり、ストライキが大正8年までに急増。
 『墨東奇譚』の向島の濫觴は、大正はじめ、白髭橋開通後の「銘酒屋」=私娼窟。これが玉の井となる。

 ヴ・ナロード(人民の中へ)を合言葉に労働者の中に入っていった大7創立の帝大生「新人会」。創設者が赤松克麿ら。のちの会員に林房雄ら。
 大震災では家が崩壊すると人々は瓦をはがして救出せんとした。大火のときは真昼なのにあたりが薄暗くなる。

 朝鮮人、支那人、社会主義者、博徒が放火掠奪しているという流言のもとは、9月2日午前3時に船橋の海軍無電局から発信された各県警察部長あての内務省通達(p.62)。
 大塚火薬庫を不逞鮮人が襲撃しようとしているという大塚署長の返電あり。たまたま空地の広い公共施設に避難民が集まったもの。
 渋谷署長は、凶器をたずさえたる鮮人約200名が二子玉川の渡しを渡って市内に進行中と報告。これは川崎・鶴見の朝鮮人労働者が市内の同胞救援に動いたもので、白昼に渡しを渡って日本人が警備中の市内に破壊活動に向かうわけがない。
 2日午後5時に、戒厳司令部は市内各警察署に、朝鮮人の行動を厳重に警戒すべしと命じた。
 頭髪を長くしていた東北出身者が朝鮮人に間違えられた。

 亀戸では、自警団のある者が巡査に斬り付け、巡査は正当防衛手段として之を斬殺した。
 巡査部長は白木綿を柄に巻いた日本刀を用意していた。
 「亀戸事件」では留置場で騒擾した社会主義者らが騒ぐのをやめなかったので警察が軍隊に制止を依頼。少尉が5、6人の部下兵士に、14人を広場にひきだして銃剣で刺殺させた。その中に南の弟がいた。事件後に弁護士いわく、検挙者で騒ぐ者などいなかったと。
 大正8年=1919年に共産主義インターナショナル(コミンテルン)がモスクワに設けられた。各国の共産党はその支部に。
 コミンテルンは大正11=1922年1月にモスクワで極東民族大会を開き、執行委員の片山潜が指導的な役割をつとめた。上海経由で徳田球一らが参加した。
 この結果、堺利彦、荒畑寒村、野坂参三らにより非合法組織の日共が結成される。すなわち党規草案48箇条をコミンテルンに報告し、正式にコミンテルン支部として認められた。
 日共の存在は官憲に探知されて、大正12年6月に一斉検挙をうけた。ちなみに社会主義や労働運動は合法であった。革命が反憲法的で非合法なのである。
 社会の反発も大きく、大正13年3月に赤松克麿らの提唱で解党を決議。ところが徳田らは「ビューロー」と名づける新組織を立ち上げ、5月には機関紙『マルクス主義』を創刊。文部省留学生としてドイツでマルクス主義を学んだ福本和夫が書きまくった。大正15年12月に山梨の五色温泉旅館で日共再建大会。
 南喜一は渡辺政之輔のすすめで入党し、労働者のこれと目をつけた運動家を日共に勧誘した。

 モスクワ・コミンテルンは毎年日本から7~8名の労働者をクウトヴェ(東洋共産党大学)に推薦入学させていた。
 日共内には福本和夫と山川均の路線対立があった。昭和2年にパトロンのモスクワにその決裁をつけてもらおうとした。そのさいコミンテルンへ持参する活動報告書を渡辺が小卒(4年制)の南に書かせようとした。そのさい、党員候補者がすでに4万人いると嘘の記入をさせようとした。じっさいには党員60人、候補見込み300人、あわせて400にならなかった。
 インテリの渡辺は、どの国も万単位の報告をしていた当時、400人と報告しては援助金(党員数に比例)をモスクワからほとんど貰えないことをおそれた。南は拒否し、別の小卒(非インテリ労働者代表)がそれを書いた。
 福本、徳田、渡辺らがモスクワに潜行すると、プハーリンは、山川路線も福本路線もともに否定。7月に日共は「27年テーゼ」を与えられた。
 すなわち、4万ものレフトがいるのに地下でこそこそするな。表へ出て言論戦をやれと指令されてしまった。
 この結果『赤旗』が発刊(非合法)されることになり、工場を単位として表立った細胞組織づくりが展開された。

 大正14年に普選法が可決。昭和3年2月にその第一回の衆議院議員選挙。非合法の日共は、陰で操る労働農民党(合法)の候補の中に11人の日共党員をまぎれこませた。
 日共が選挙のたびに必ず候補者を出すのは、当選が目的ではない。選挙運動という合法活動の場を最大限に利用して、大衆に広くコミンテルンの主義主張を宣伝するチャンスとせよというモスクワの命令なのだ。候補者のポスターには堂々と「帝国主義戦争絶対反対」「天皇と結びついた資本家と地主の議会を破壊しろ」などと書かれた(p.108)。演説会場で撒くビラには堂々と共産党推薦と明記してあった。
 11人は落選したが、この選挙があったおかげで、誰が日共党員なのか、官憲にはすべて判明してしまった。
 3月15日に彼らは一斉に検挙された。特高警察は昭和7年にできる。

 党員の水野成夫は、昭和2年=1927年に漢口の武漢政府(中共と国民党左派の合作)にコミンテルン極東事務局の日本代表として渡った。そこで十数カ国の代表とともに一年暮らしたが、コミンテルンの指令のままに中共が働く様子を見て疑問を抱く。
 第二次一斉検挙で入獄した水野は昭和4年に脱党し、昭和5年に他の党員へのメッセージを公開。「コミンテルンと絶縁し、外国の指令によって動く外国の手先としての共産党ではない日本の共産党を作るべきだ。日本の民衆を共産党から離反させている『天皇制廃止』というスローガンを撤廃して、天皇制の下でのマルクス主義革命運動をやる」というもの(pp.116-7)。

 昭和4年に南も獄中で脱党。古新聞からインクを抜いて再生紙にする研究を始める。(南は薬剤師の正式免許を持っていた。)

 金融恐慌は昭和2年だが、労働争議件数の戦前ピークは昭和6年。
 ストライキがはじまれば支援カンパなどでカネが集まるのだが、ストに入る前のカネは借金して作らねばならない。南は河上肇から2000円という大金を借りられた。

 大正8年に東京一の私娼窟であった浅草観音裏は道路拡張のために取り払われることとなり、政友会の中島守利は代替地として玉の井を開発した。
 大正12年の震災直後に、浅草十二階下の私娼がどっと玉の井(いまの東武線玉ノ井駅)に移った。六区の再興だけが許されたので。
 大正15年の警察調べで玉の井の酌婦600名。これが昭和5年には860名。
 昭和5年以降から、素人が私娼として売られてくるようになった。それ以前は問題家庭の家出女やバクチの借金代わりという手合いであった。

 吉原や洲崎には公娼があった。これらは江戸時代いらいの遊郭で、客は、修正された写真を見て女を決めるしかない。
 ところが玉の井では、ちょんのまの一階のガラス窓から女を見て選べる。これがうけた。小窓は色電球で飾られていた。和服しゃぐま限定の遊郭と違い、いずれも有名な映画スターや美人歌手とそっくりにしていた。

 昭和8~9年の東北大凶作の頃、売られてくる娘の出身地は、山形、秋田、青森、福島、岩手、宮城の順に多かった。この順はその後も不変。東北6県で、玉の井の私娼の7割を占めた。
 他の有名な私娼窟としては、熱海、亀戸、名古屋の大曽根があった。

 昭和8年にヨーヨーが流行。
 当時も巡査から昇進して署長になった人がいた。

 私娼には、男の同情を引く身の上話の定番があり、これを皆使っていた。典型的なのが、女学校へ行っていたというもので、中には女子大を出て教師をしていたというものも。2~3年で、第二のアイデンティティになる。つまり自分で嘘とも思わなくなる。

 南は私娼の駆け込み救済組織をつくって、雇主に証文を破らせ実家に戻してやるという運動をしたが、女たちは根気がなくなっていて、また元の世界に戻ってきた。
 警察は有力な救済機関なのだが、それに動いてもらうには本人と親とに基礎的な知識や強い意志力と態度がなくてはならない。多くの者にはそれが無いため警察にはどうにもできない。

 クーラーの無い時代、夏は客がほとんど寄り付かなくなる。
 私娼窟の真のワルは、建物を提供している住民たち。表向きは小さな堅気の商売をしており、裏面で名義を貸して権利金を収入にしている。だから私娼が脱走すれば住民がすぐ通報する。

 日本経済は昭和8年から回復に向かうが、農村だけは取り残された。
 何年も百姓仕事から遠ざかっていた娘は二度と鍬を持てない。体力・体格が違ってしまうから。それが東北の実家に戻ってきても穀潰しの厄介者となるだけだから、けっきょくまた都会に戻り、女給・女中などを経て、私娼になる。堅気の人間の生活に歩調を合わせられない。

 南は400人を足抜けさせたが、最終的に堅気になることができたのは2人だけだった。
 しかし南の「向上」運動のおかげで玉の井の私娼の奴隷的労働環境は改善された。それを証拠だてるのが昭和12年の永井荷風の『墨東奇譚』。ここに描かれる私娼には外出の自由があり、買い物をする財力があり、芸者よりも早く借金が抜けるとの証言もされている。

 昭和13年頃は日本中の神社境内で、応召者・入営者の歓送会が見られた。

 苫小牧港のもといは「国策パルプ」勇払工場。これは南と水野成夫で創建した。昭和15年当時は湿地帯の原野のみ。陸軍の幹部(たとえば岩畔豪雄)は南が日共転向組であることを承知で、大陸の住民宣撫にあたらせたりしていた。それで統制経済下でありながら、新工場の設立が可能だった。既存パルプ業界は、南は北海道の木を狙っていると察した。商工大臣は王子製紙の藤原銀次郎だった。しかし椎名悦三郎が陸軍省の整備局長から商工省の岸信介次官に一札をいれさせると、藤原は簡単にハンコをついた。

 南は最新のスウェーデン製の抄紙機が汪政権支配下の広東省政府の倉庫にあるので、それを買うことにした。武藤軍務局長に根回しした上で、南支派遣軍の参謀副長の佐藤賢了大佐にかけあった。賢了おもえらく、パルプ不足の当時、陸軍の意のままにできる再生製紙がもてるならば、これは大新聞を操縦できる唯一の手段となる(佐藤は元陸軍報道部長)と。
 150万円で広東省政府から買い取った。

 広東の料理屋の私娼は九州女が多かった。南はその足抜け相談にものった。「軍が補助金をやってせっせと女を集めているのに」(p.239)、と反発された。

 続いて香港にいくと、米英の支蒋物資がジャンク百艘に満載されて滞貨となっていた。そのまま揚子江を遡航すれば重慶なのだが、日本軍が内陸と港外で監視している。英国はジャンクが港外に出ようとしたら日本軍の手に渡さぬように駆逐艦と砲台で撃沈する構え。
 そこで南は海賊の親分でしかもアモイの商工会議所会頭でもある某人物に70万ドルを渡した。1ヵ月近くたってその親分は蒋介石と英軍に話をつけた。メンツをたてるため30艘は揚子江を遡航させる。残りは南に売ると。約束の期日に70艘が帆をあげてそのまま室蘭に向かった。英軍は何もしなかった。
 ※航洋と大河遡航を1隻で兼用できる舟艇が対支戦では必要だった。

 台北郊外に北投温泉あり。
 三角柱は産婆の看板。

 寛政12年に武州八王子の千人同心隊の頭、原半左衛門が、同心子弟50人を率いて勇払に屯田した。樽前、恵庭の火山灰地で樹木が乏しく耕作にも向かず、5年後に撤収。30人が死んだ。
 大正8年、WWⅠが終わり、日本人も洋服を着るというので、緬羊牧場ができた。ところが事業は先細り、昭和8年頃には肉用の羊に切り替わった。それでも失敗。牧草が育たない土地だった。

 昭和7~8年の大不景気のとき、救済工事で湿地の排水溝を掘り、沼の跡地が工場用地になった。
 昭和15年でも電気がなくランプ。翌年6月にようやく電灯線が引かれた。
 職人は樺太のパルプ工場などから呼び集めた。当時は親分子分関係で、親分が電報を打つと簡単に子分が集まってきた。

 火山灰地に植樹するときは一本だけではだめで、何本も並べて植えるのがコツ。
 じゃがいもとかぼちゃだけがよく収穫できた。
 昭和20年に勇払原野に飛行場ができた。
 昭和20年7月14日に艦上機の初空襲。効果なし。そこで翌日に敵機は機銃弾に曳光焼夷弾をまぜ、ロケット弾を積んできた。

 苫小牧の王子製紙工場の消防望楼には機関銃が備えてあり、対空射撃したために、かえって狙われ、指揮官の将校と射手が戦死した。
 インフレになるとカネで買うより物々交換の方が物資が手に入り易い。
 庶民が大本営発表を信じなくなったのは昭和18年。17年の勝っているうちは東條は英雄になりかけていた。

 終戦後シナ政府は3人の係員を派遣し、南の苫小牧工場の機械類いっさいを賠償として掠奪するGHQ命令が出た。汪政権は偽政府であるから売買契約など関知しないと。広東から買った以外の機械が半分あった。

 昭和27年1月、札幌市警の白鳥警部が共産党員の手で射殺された。
 昭和27年12月に米国政府は南が元共産党員だとの理由で入国を拒否。

 英国はなぜインドとパキスタンを分離独立させたか。一大食糧源は東パキスタンにあり、これをインドから分離しておけばインドは食糧自給ができない。
 昭和27年11月、カルカッタで「排英米」の民族独立をモットーとした共産党のデモがあり、千余名の死傷者が出た。※近衛の排英論はアカの工作だったとする説は有力だ。
 インドの識字人口は18%だが、その中に共産党が多い。

 イタリーは石炭もなく、だから石灰石があってもセメント工業が成り立たない。鉄鉱がないから重工業も無理。にもかかわらず国民の魂はおちぶれていない。そして市場をみると、英独仏の商品があり、米国だけに依存していない。
 イタリアでは合法共産党と他の政党はどちらも国民を味方にするための政策論を堂々と訴えている。反共側に怠りがない。「日本のように無知で対策のないのと違って、危な気がないから[政府は]国民の信頼も得ている」(p.296)。

 ソ連の手先である伊共産党が、一昨年来、「完全なる独立、といって目標を掲げて民族運動を展開し、排英米の運動を裏にかくして、盛んに祖国を守れとか、民族を守れという言葉を宣伝する」「赤の嫌いな国粋主義者もその点では共産党と一致して来るから、非常に危険」「政府与党からすると、国粋主義者も赤も同じだ」(p.296)。

 イタリアでは口に入れた食物の総量の4割が糞になっていた。仏、英、蘭、ノルウェー、ベルギーでは25%弱だった。ドイツは18%以下だった。日本では5~6割である。ここから南は日本は遅れているという結論を出す。無駄が多いのだと。粒食ではなく粉食にしなければダメだと。
 南は米国で発見された「クロレラ」にとびついた。昭和30年に福岡から東京に進出した「ヤクルト」の代田博士と提携。
 クロレラ培養によって食が足り、戦争もストライキも絶滅すると信じた。

 ルンペンという新語は昭和6~7年に流行。ドイツ語でボロ屑のこと。

▼ジェフリー・T・リッチェルソン『世界史を動かすスパイ衛星』1994-2江畑謙介 tr.
原1990
 ディスカバラー・シリーズがスパイ衛星だったとはこの本が初めて明らかにした。

 フセインはサウジ侵攻計画をもっていなかったが、サウジは米の写真をみてそれを信じた。

 米ソは互いに条約遵守を監視する「国家技術手段」つまり偵察衛星の写真は第三国に公開しないという不文合意あり。

 イラクのスカッドは発射から着弾まで5~7分。
 スカッドの偵察写真はプリントアウトだけで数分。攻撃機が飛び立って現場につくまでに発射機はもう消えている。

 ロシアのクーデター騒ぎのあいだ、SS-25移動式ICBMはすべて基地にまとめられた。つまり制御下にあることを米衛星に示した。

 シナ軍の兵士は日記をつけない。。
 戦術情報は脊椎反射化する必要がある。つまり中枢で処理している時間はない。
 タイタンでの打ち上げは地元漁民にだけ直前に知らされる。
 ケープカナベラルは一般道路からまる見え。バンデンバーグは山に囲まれているが地元新聞が毎日見張っている。

 ホワイトクラウド海洋監視衛星は高度な秘密だった。
 アメリカも偵察衛星を実用化するまで10年の年月と十数回の失敗を要した。

 写真撮影の順序は米上空にきたとき暗号化されたプログラムで入力される。

 アイクがコロナ計画を承認した。1959実用化を期待した。
 補助ロケットを先に点火するミス。新しい指令を送る前にリセットボタンを押し忘れるミス。
 1959-4にソ連は間違ってノルウェーのスピッツベルゲン諸島に落下したディスカバラー2号を非合法に回収。

 アラスカに近いソ連のミスシュミッダ航空基地は、米偵察衛星がテストで最初に撮影する定番ポイントになった。

 空軍人はサモス計画について口にすることすら禁じられた。また事前の承認を得ることなく公的に論じることも禁じられた。
 議会の公聴会で語られた記録は削除された。

 衛星迎撃システムは1959から必要だと論じられた。
 敵衛星を調査するにはそのすこし前方の軌道に乗せてから15mまで接敵撮影。
 海での回収待機にはフロッグマン必要。

 ケネディは共和党がミサイルギャップをゆるしたと非難して大統領選挙に勝ったのだが、マクナマラはソ連のICBMがぜんぜん大したことないとの衛星知見をあきらかにしてセンセーション。

 タレント・キーホール・クリアランス。TK。U2の写真を見るにも必要。
 衛星のパラメータにアクセスするには、バイマン・BYEMAN・クリアランスが必要。これは衛星計画全体のコード。

 1958-4にシナはチンシェン(南東部)に最初のウラン鉱山を開いた。63年フル操業。
 1958-8に最初のウラン精錬工場を建設開始。この月には核実験場の選定開始。

 1958-10にモンゴルのパオトウに四フッ化ウランの工場の建設開始。1962春運開。
 1959-10 新疆ウイグル自治区のロプノールに核兵器実験基地を建設。

 1960-2、プルトニウム工場が酒泉に建設開始。
 1960-3、蘭州にガス拡散式の濃縮工場の建設開始。

 1963のサモスはフィルムが全滅。何の情報も得られなかった。

 1962に、アデナウアー、ドゴール、マクミランの三人に対しては衛星写真活動について米大統領が説明していた。

 衛星の難点はふたつあり、ひとつはカメラを動かす技術。もうひとつは、フィルムより先に軌道修正用の燃料が尽きてしまうこと。
 これらの問題はガタイをでかくすればよい。最終段から切り離さずに軌道に乗せることにして解決。

 1969に計画中止となったMOL計画。これは有人スパイ衛星であるが、これを無人化したのがビッグバード。※シナの神船はこの有人ビッグバードもどきの段階。

 フロリダとカリフォルニアとどちらから偵察衛星を上げるか。これが上院議員の関心事。
 極軌道に関しては、フロリダはバンデンバーグよりペイロードで不利になる。

 宇宙船になぜ床が必要か。飛行士が上下を識別するため。

 1.8m直径のレンズは10センチの分解能だが、これが大気のゆがみにより、実用は20センチオーバーとなる。

 有人宇宙船からは肉眼でも艦船の航跡がわかる。

 SA-1とABMはモスクワを72キロの半径で取り囲む。

 チェコ事件は痛恨のコロナ衛星故障で阻止できなかった。現像時点で侵攻おわり。
 ヒュミントも遅すぎるというのが教訓。→リアルタイム衛星開発へ。

 ソ連の対シナ戦略。まず1966-1のモンゴルとの防衛条約。
 1957いらい、モンゴルからひきあげていたソ連軍を再配備。1967-1には10万人に。
 ソ連は1966から極東に核弾頭を配備開始。

 スパイに無線送るためのリレーアンテナとして役立つので死んだ衛星もそのまま残すことあり。

 1962から1972までフェレットは専用ロケットでうちあげ。高度480kmを周回。レーダー情報のみあつめる。
 1973からはすべて「ヒッチハイカー」投入方式にきりかわった。

 フィルム回収カプセルは複数。最大で四個。
 近赤外線は昼間のみ。

 サイロの穴はまず大きく掘り、ついで埋めていく。これで直径がばれない。
 敵のサイロ建設は、二重三重のフェンスで知られる。
 カムチャッカ半島内にはダミー弾頭落下のクレーターが多数ある。

 1973にエジプトで献血のよびかけがはじまり、これが開戦の兆候だった。
 1974にアメリカは年の6/7の期間は1基の偵察衛星をまわせるようになった。

 KH-11のサイズは不明。しかしタイタン四の衛星搭載部は、12.2×4.4mである。外直径は5.1mである。
 必然的に円筒形である。長さ19.52m、直径3.05m、重さ13.62トンといわれる。

 シリコンは可視光線に反応して電流を出す。その強さを0から256の間の数字にする。
 6枚以上の3mオーバーのミラーでCCDに集めるのがKH-11。

 衛星データリレー衛星は北半球上空でふくらむ軌道。こうすればソ連上空を通過するのに9時間もかかり、好都合。
 太平洋ではグァムのアンダーセンとハワイのカエナポイントに衛星管制施設がある。
 リレー衛星にデータを送信するための電力を太陽電池で貯めるのに時間がかかる。
 過去データも必要。1988にシナがサウジにCSS-2を売ったときは、鉄道と港湾の過去の写真がチェックされた。
 これらの写真はコンピュータ管理しないとどうしようもない。ひとつひとつに秘密指定あり。その撮影時の太陽高度も重要。影は短い方が細部までわかる。
 平均からの偏差を増幅させるのがコントラスト強調処理。
 1983以来、映像の変化はCIAのコンピューターが無人で監視するようになった。

 1968-12、南アの参本長が、独自核兵器可能と発言。ついでNPT調印も拒否。
 1974のアンゴラ独立から1976のローデシア混乱までの流れの中で危機意識が高まりヴァリンダバ・ウラン濃縮工場をつくる。76-11の次期大統領カーター当選で決心。

 1976にCIAは南アの核開発を察知。77-8-6、ソ連はアメリカにコスモスがカラハリ沙漠で実験施設をみつけたと通知。※アメリカが先に撮影し、ソ連に後から確認させ、ソ連が発見したようにしたのではないか。

 1979-9、南アはプリンスエドワード島方面で実験。
 米は公開写真で苦労する。キーホール写真は見せられないのでわざわざSR-71を飛ばしてその写真を公開する。

 ソ連のスパイ担当者はアメリカの軍事施設や海外のCIA協力者について知りたがった。アメリカがソ連について知っていることには興味がなかった。

 電信柱に画鋲を押し込むという連絡合図。
 ソ連は何か具体的なモノを渡さない者にカネを与えることは決してない。

 1978にソ連はKH-11の能力に気付いているらしい地上の動きをするようになった。
 KH-11の軌道はKH-9より少し高かった。そこで米は、この衛星は既に死んでいるとのディスインフォメーションでソ連を最初だませた。

 KH-11はカメラの首振りが発達し、毎分12枚の異角度撮影が可能になった。
 弾道弾用の早期警戒レーダーは内陸に置いた方が軌道を正確に読める。
 カリフォルニア沖からのトライデントを警戒するために1983にクラスノヤルスクに東向きのABMレーダーをつくった。

 欺瞞=マスキロフカ
 1966からソ連は、米国の偵察衛星の通過について地上軍に予報するシステムを完成している。米にはその前からあり。※自衛隊には未だ無いはず。

 1980~81のポーランド危機は雲のため撮影できず。81-1にはバルト海沿いに大軍が舟艇機動して攻め込む準備ができていた。

 1985-1にディスカバリーが信号収集衛星マグナムを放出。
 チャンレンジャーは2万mから2分45秒かけて墜落。海面には時速330キロで衝突。24mの海底に沈んだ。

 4800キロのクロスレンジ着陸能力があるのは、軍事衛星を積んだままソ連領に不時着しないため。
 シャトルそのものからカメラ偵察する案が1980にあったが実現されなかった。

 タイタン34Dの爆発で、発射台修理に7ヶ月かかった。1985のこと。
 原発事故ではMil-8がまず砂袋投下で消火し、ついで鉛ペレットを大量に落とした。これは隙間に入り込んで埋めるためのもの。

 デッキエッジ型エレベーターが両舷に計3基ないような空母はオモチャ。
 ラクロスの最初の2基はシャトルでしかあげられない。

 真上からのレーダー画像をデジタル処理すると斜め写真にできる。※公表されたブラックジャックの斜め写真はこれか。
 チャレンジャーにはTDRS軍事通信リレー衛星も積まれていた。これ3基あれば地上局は1局でじゅうぶんである。
 これがないと、低軌道の衛星と地上が交信できない死時を生ずる。

 ケープカナベラルからの打ち上げだと最大軌道傾斜角は制約をうける。人口密集地帯の上を飛べないので。
 発達型ケナンが巡行ミサイルのためのデジタルマップをつくってくれた。

 ソ連の北東部はICBM基地建設すら不可能。
 シナミサイルは双城から発射され、ロプノールに落ちる。
 葫ろ島の南には、渤海湾のSLBM実験場。

 長興にはIRBM、SLBM射場。
 錦西にはICBM実験センター。
 青島には第一艦隊と第一潜水艦群の司令部。

 サウジは1986に国交のないシナに王族を派遣して射程1600キロのシナ製ミサイルを買い、シナがイランに兵器を売らない代償としてイラクに売ると公称し、その中継ぎ港としてサウジに揚げ、トラックで自領の沙漠に引き入れた。1988-1に衛星でトラックが追われてバレた。

 この本の時点では、サモスやコロナの写真はトップシークレットだった。SPOTより解像度悪いのだが。
 衛星偵察は原爆に次ぐ影響力を国際関係にもたらした。

 バイソン爆撃機が廃棄された証拠に尾部を切り離して放置。
 1979からイスラエルはアメリカの偵察写真をどの同盟国よりも広く利用できることに。
 レーダー衛星は、フラット面の突起に敏感なので、海上の小船を見張るのには最適。

 傾斜角90度以上の衛星は、西向きに打ち上げられたものである。
 1960-8 ディスカバラーの最初のカプセル回収成功。

 1963-8 有人軌道実験室MOLの開発スタート。KH-10カメラを有人で操作するというもの。※これを真似たのが初期サリュートだ。 そして米ではKH-9ビッグバードに発展した。直径3m、13.6トン。長さ12m。

▼チェ・ゲバラ『ゲリラ戦争』五十間[いそま]忠行 tr.1967 原1960? 文庫2002?

 ダントンの言葉。勇気、勇気、もひとつ勇気。
 投票によって選ばれる政府に対してはゲリラ活動はできない。平和闘争の可能性があるから。

 戦争におけるジェスイット派(策略家)になれ。
 最大の問題は弾薬だから、敵と同じ武器を選べ。

 5~6人を1単位とし、4単位で4方向から包囲しろ。
 アルジェリアの反仏ゲリラは、無線爆破地雷を多用した。

 ゲリラは自己弁護の機会をあたえずに犯罪者を処刑してはならない。それをやると道徳的に政府の上に立てない。
 M-1ガランドは弾薬を食いすぎるから腕の良い者だけに使わせる。

 自動火器の中では9ミリが、弾丸をたくさん持ち歩けるので最善。重火器は、現実的に使用不可能。
 山岳地ではラバがいちばん良い。100kgをはこぶ。
 人は25kgを連日運搬できる。

 ゲリラのジャングル工場はまず靴修理工場から。これが最も大事。
 人は一晩で50km歩ける。
 大きな粒の散弾銃は非装甲のトラック、バスや機関銃座を攻撃するのに良い。

 ゲリラの移動単位は10人を超えるべからず。15人を越えたらもはや隠れることはできない。
 バズーカの弾はひとりで3発しか運べない。
 レールをもちあげる道具が必要だ。

 商品を徴発したら借用書を渡せ。早くそれを償還せよ。
 40歳以上にゲリラは無理。ただし稀に65歳で指揮がとれる人もいる。逆に16歳以下も、艱難にたえられない。25~35歳がちょうどよい。

 とにかく体は臭くなる。一般人は近寄れないくらい。
 熱帯地で寝るにはハンモックが不可欠。
 一本の紐を貼り、ナイロンシートをかけるとテントの屋根になる。
 脂肪補給は不可欠。ラードが役に立つ。

 山地では磁石は意味がない。磁針に従えば通過困難な地形に行き当たるのみ。
 少量のガソリンがあれば濡れた材木にも火がつく。

 100~150人が最大指揮可能人数。少佐が指揮する。8~12人の分隊が基本単位。
 焚き火は長く跡が残る。必ず土で埋めよ。行軍中は無声を守る。命令は身振りで。
 前衛小隊は固定。変えない。司令部は縦隊の中間に。

 20番=16ミリ散弾銃の銃身を切断し、2脚をつけて肩あてを除き、装薬だけのカートを使い、地面に45度に固定し、壜にガソリンをつめ、壜底にゴムと木の棒をつけ、その棒を銃身にさしこみ、壜の口に火をつけたあと発射すると、100m飛ぶ。ちなみに12番は18.5ミリ。

 16ミリ散弾銃にバック弾つめてうつと、ちょうどトラックの荷台をカバーできる。
 戦闘員10人に対して2、3人の人夫が必要。

 85ミリまでの迫撃砲は木製の屋根を貫通できない。だから塹壕には必ず屋根をつける。
 四肢を撃たれると骨折することが多い。
 栄養失調からきた病気は治せない。
 テロリズムは無価値だ。

 現地民の、それも一部だけが、裸足で行動できる。
 敵を知り己を知れば……というシナの格言を知っている。
 部下への罰として武装の権利の剥奪。ヤル気のある者にはよく効く。
 やるきないやつは、縛り上げてタバコやメシ抜きの罰。
 部下に自由に手紙を書かせてはならない。

 開始時には最低30人必要。
 ゲリラの基礎能力は、連日連夜歩く能力に尽きる。
 キューバには内需をまかなうだけの石油が出る。ニッケルも出る。ドイツ人も投資していた。

 中南米には20の「共和国」が米によってつくられた。
 1960-3-4にハバナ港でゲリラ用の弾薬を積んだ船が爆発し100人死亡。
 亡命者が義勇兵(外国兵・傭兵)の助けを借りて母国に戦争を起こす方法を「スペイン方式」という。

 軍隊は制服を着た人民である。
 指導者は、味方を弱める分裂に反対し、人々を結合し統一する能力が必要。

イランが話を見えやすくしてくれた

 イランと西欧との距離は、東京とシナ奥地との距離に相当します。ようやく西欧は日本の苦境を理解しています。いまほど日本の核武装が現実的になったときはありません。イランが暴発したとき、北鮮とシナの運命も定まるでしょう。

 石油収入のあるイランは、90年代に貧窮したロシアから原発に必要な技術を買い、別な諸国からはウラン濃縮技術を買い漁り、2000年代に入ってから、いよいよ地下工場で原爆を組み立てようと努力しています。最初の1発が完成するのは早ければ2006年、つまり今年中だとイスラエルでは見ています。

 イランは80年代のイラン・イラク戦争の後半から北鮮にオイルマネーを渡してスカッド改型(射程500km)を購入し、バグダッドその他の敵都市に発射した実績は豊富です。イラ・イラ戦争では射程数百km級のSSMが600発も互いの主要都市に命中したといいます。
 イランからの巨額のマネーや日本からの総連マネーを使って北鮮は次に「ノドン」を開発しました。ノドンの射程1000~1300kmというのは、イラン内部からイスラエルまでの距離に相当します。このSSMをイランは2003年にシナ経由で買い入れ、イラン風の名を適当につけて配備したようです。

 イラン購入のこの「ノドン」と原爆が組み合わされますと、イスラエルは大弱りなのですが、それだけなら西欧はまだ高見の見物ができたでしょう。ところが、イランはやってくれました。北鮮に90年代を通じて資金を提供して射程2000kmの「テポドン1」を開発させ(98年)、さらに射程の長い「テポドン2」のパーツをロシア経由で2003年に入手したのです。これで西欧はブチキレました。

 テポドン2は、シナがちょくせつグァムの米軍基地を叩くわけにはいかないので、北鮮に代りにやらせられるようにと技術支援しているもので、北鮮とグァムの距離を測れば、その射程は3000km以上あるのは確実です。
 ざっと3000kmで、スイスとドイツの主要都市がイランからの射程圏内に入ります。
 また、3500kmで、パリが射程圏内に入ります。
 4000kmあれば、ロンドンやデンマークが射程圏内でしょう。(以上、いずれも目算です。誰か正確な大圏距離の数値を教えてください。)

 これは何を意味するでしょうか? 1988年に西ドイツ国防相にもなっているドイツ連立与党のショルツ氏は今年1月26日の新聞インタビューで、もしテロ国家が核攻撃してくるようなら、ドイツは核武装すべきだろう、と語りました。その意味は「フランスよ、俺達ドイツ人に核武装されたくないんだろ? だったら、お前たちがキッチリとイランのキチガイどもをワイプアウトするんだぞ」──です。
 シラク大統領はもちろん合点です。1月19日にわざわざSLBM原潜基地のブレストに出かけて演説し、テロ国家(つまりイラン)が大量破壊兵器(つまり核弾頭付きテポドン2)で攻撃してきたら、その首都や基地に核攻撃を加える、と表明をしました。同時に、SLBM搭載弾頭(もちろん複数個別誘導弾頭です)の数を一部、減らさせた、とも発表しましたのは、これはすなわちイランの地下化されている核関連施設を精密且つ確実に破壊するために、フランスは同時に2基~4基のSLBMをイランに向けて発射して、1つの工場に小型の水爆を2~4発づつクロス攻撃で集中させる、実戦的な準備を整え終えた(=万一の不発や外れも生じないように念を入れる)、というわけです。ただし、イランの都市に対する無差別なオーバーキルなどは考えていないよ、というメッセージでもありますので、却って迫力があるでしょう。

 ドイツやスイスやデンマークやイタリアは、イスラエルやフランスやイギリスに反近代的核武装国家の始末を依拠することが、ある程度可能です。しかし日本には、そのような頼もしい「仲間」を北東アジア地域内に見出すことはできません。
 いまや米国政府だけでなく西欧の指導者階級も、日本の立場を完全に理解しました。そして、日本はなぜ早く軍事力を発揮してテロ輸出国家の北朝鮮を亡ぼしてくれないのか、と思っています。
 いまこそ、わたしたちは核武装宣言をしなければなりません。
 早ければ今年中に、西半球で核戦争が始まるでしょう。

古書摘録

▼横井太郎『快弾餘響』M40-11
 著者は海軍軍医中監。

 フォンデルゴルツいわく、「人戦ふに決意し、若くは敵手の戦ふに決意したるを、確信するに至るときは、軍事上より考へて、利我に在るを信ずるに於ては、速に戦を開くべし、断じて政治上より考へて、自ら危疑し、道徳上より考へて、自ら踟●【足へんに厨】することある可からず。戦争の如き大事に於て、老婆深切心より、此等の過失を犯すは、弊之れより甚だしきは無し」(p.20)。

 めちやにかるまいん(メカニカルマイン=機械水雷)に船はこわされて青空高く煙にまかろふ/『朝日』の軍医長・石原純固

 3月6日にウラジオストック港を島影から間接射撃した。

 5月15日。本艦=『笠置』(8インチ砲)と『龍田』が、『初瀬』が触雷したところにかけつけた。艦尾はすでに沈んでいた。舵機も損傷。しかしガス気味なので老鉄山の砲台からは見えない。そこで我艦が徐行で近づいて鋼索で曳航せんとした。その準備中に初瀬は再び爆発した。艦首が立ち上がり、瞬時に轟沈。0時35分のこと(pp.61-62)。
 司令官などを海上から救助した。我艦には124名を拾い上げた。この爆発音を聞いて敵の駆逐艦16隻が港外に出てきた。

 M37-5-18夜、軍艦『大島』が僚艦と衝突して沈没した。

 通風管は帆布製。機関室へ涼気を送る。英語でシャークマウスという。
 対馬東水道の東に「沖島」という断崖の無人島あり、海軍はここに望楼を置いた。

▼ノウイコフ・プリボイ著、上脇進 tr.『日本海々戦』上(S8年8月)・下巻(S10年3月)、改造社刊、原題は「ツシマ」、著者は1877生まれ。訳者は『春日』の露語通訳だった。反軍的な記述の部分で伏字が多量にある。ex.「戦艦『パチヨムキン』が××を掲げつゝ黒海を通過して××階級に恐怖を能へた」

 フィンランド湾には「威嚇砲台」が点在する。
 『オリヨール』はクルップ鋼で装甲されている。7%ほど懲罰兵が乗り込んでいる。
 ウォッカは一定量が水兵にも給される。たいていは食前。

 クロンスタットでは下級兵は道の左側だけを歩かねばならない。そして公園には犬と下級兵は入れない。
 出撃前にウィルヘルム皇帝とニコライ皇帝が、軍服を互いに換えて着装し、砲撃演習を視察した。ティルピッツ海相も。カイゼルの片頬には名誉の傷跡があった。ロジェストウェンスキイは彼らの前でも部下に怒りを爆発させ、双眼鏡を海に抛り込んだ。

 連装の主砲塔内は電動式だが、水圧で動かす艦もある。砲台内には25人、砲台の真下には40名の水兵がいる。350kgの砲弾が天井レールから鉤で吊るされてくるのを装填架に載せる。ついで無煙火薬の包み(180kg×2コ)を載せる。そして装填架が砲尾と一致した瞬間に栓が開く。機械力で押し込む。内筒砲訓練もある。
 参謀将校の中に、頭をバリカンで刈上げている男がいた。
 1898以来、アメリカ、フランス、ドイツ、デンマークで建艦された新鋭軍艦が特に第一旅順口艦隊に配属された。これらの軍艦には専門技師でないと動かせない機械があり、そのために市民である彼らに将校の階級を与えて乗り組ませた。ところがもとから存在する将校団は貴族の集まりなので馬が合わない。また尉官級の技術系士官が増えて艦内の改革勢力になった。

 時計の針が右回転であるのは、日時計から進化したからだ。ただし南半球では逆になる。つまり時計は北半球の発明といえる。
 マダガスカルのセントマリイ島は「フランスの樺太」で、流刑囚が生活している。
 病院船オリョールもヘーグ万国平和会議決議を無視してマダガスカルでは燈火を消して停泊した。船長と軍医長は艦隊司令官に抗議したのだが。
 旅順艦隊はバ艦隊と違って兵員はほとんど現役ばかりだった。

 フェリケルザム少将は、マダガスカル停泊中、熱帯とて、兵員にキルクのヘルメット帽を被らせ、午前10時以降は炎天地上作業をやめさせた。が、他では兵員はボロ布を頭に載せて日中も働かされた。
 大部分の兵員は靴をはき潰して、素足になっていた。一部はロープをほぐして草履を自作していた。艦内はいたるところ石炭を踏まずには歩けない状態。
 最新戦艦の監禁室は艦底にあり、ベンチレーターがない。灼熱地獄。
 マダガスカルにも娼家があり、欧州女は士官を客にとる。兵員は土人を買う。
 インド洋横断中に、5回、石炭を搭載した。

 スマトラ沖の翼長1mほどの海鳥は飛び魚を空中で捕らえる。
 士官室の階下は艦尾水雷室で、空気穴の蓋を外すと盗聴ができた。
 夕方の祈祷時には全員脱帽。
 奉天会戦後、フランスの態度が冷淡になった(上、p.417)。
 洗濯物は盗まれるので水兵は寝床の敷布の下に敷いて体温で乾かす。

 日本はイギリスに軍艦修理用の鋼鉄鈑108枚を発注した。
 ベゾブラーゾフの3隻のウラジオ巡洋艦隊は、7月7日に津軽海峡を抜けて関東の沖で1週間遊弋し、また津軽海峡を抜けて帰投した。一度も日本の軍艦には遭わず、商船数隻を撃沈した。
 バ艦隊が日本列島の太平洋側を回ると石炭が足りなくなる心配がある。石炭船は伴っているが(上、p.489)。※はぐれたらウラジオへは到達できない。
 濃霧の期待できる宗谷海峡を目指せという意見も。

 台湾を過ぎた海域で、5月10日、最後の石炭搭載。朝鮮海峡まで2日行程。戦艦はこの日の作業前にすでに装甲舷が水没するくらい、石炭を積まれていた(pp.492-3)。そこに『スワロフ』からの命令。信号がない場合は旗艦に従い、敵の旗艦、ないしは嚮導艦に砲火を集中せよ。
 露艦は炸薬にも綿火薬を用いていた。もし弾火薬庫に火災が発生した場合は、その上層の大水槽から栓(カラン)を開けて水を雨下させる。

 朝鮮海峡侵入前の巡航速力は9ノット。5月13日昼、巡洋艦は15ノット、戦艦は12ノットに蒸気を上げた。14日は皇帝皇后即位の日で、ロジェストウェンスキイはこの日に海戦となるよう狙っていた。
 艦隊末尾の病院船、オリョールとコストローマは、条約によってきめられた燈火が煌々とかがやいており、夜間でもバレバレだった(p.519)。
 戦艦オリョールは石炭を1700トンも積みすぎている。真水も350トン余計に積んでいる(p.528)。

 クリミヤ戦争のときは艦隊からぜんぶ武器を下ろし、乗組員は要塞防備につかせた。それから空っぽの艦隊を湾口に沈めた。旅順口とそっくり(上、p.529)。
 即位記念日の午前8時、特別なアンドレーエフ旗が前後マストの中桁と斜索に掲げられた(下、p.9)。
 仮装巡洋艦ウラルの通信機は700浬の送受信が可能だった。その出力を利用したECM能力もあったので意見具申したが、司令長官はウラルに日本側の無電を妨げるなと返答。 昼食前に兵員は半杯のラム酒を飲んだ。

 日本艦はことごとく青灰色に塗装されて、海にとけこんでいた。ロシア艦は煙突が黄色で艦体は真っ黒だった。
 合戦準備の号令で火災に備えた水ポンプが働き出し、ホースから水が出て甲板を濡らした。カッターには、朝のうちから水がいっぱいに満たしてあった。
 負傷兵手術室は下甲板右舷にあった。内部は白いエナメルで塗ってあった。中央廊下に患者を寝かせることができ、舷側と天板はアーマーだった。
 砲戦中は大手術はしない。簡単な応急治療だけをし、海戦後に大手術にかかる。モルヒネ注射は用意がある。

 日本艦隊が弧を描き始めたとき、もし高速を出せる味方新鋭戦艦の5隻だけを突進させてその頭に密着していたら、そこに勝機はあっただろう(pp.35-6)。
 艦には900人が乗り組んでいた。

 日本の艦砲が水面に当たると黒褐色の煙と真紅の炎を伴う水柱がまきあがる。
 常に敵の旗艦を狙えという司令の命令に忠実なため、味方の距離が遠い艦の砲弾はその目標まで届かない。そこで艦長たちはイニシアチブを発揮して自艦に近い敵を射撃すればよかったのに、それができるようなイニシアチブはあり得ないほどロジェストウェンスキイは恐怖の統制キャラクターをもっていた。

 露艦の砲弾はAPH弾なので、距離をつめてアーマー貫通させないといけないのだが、距離がつまらず、そのために命中しても貫通力が足らず、敵艦の表面アーマーで小炸薬が炸裂してしまうこと多し。
 以前にオーロラを用いた露海軍の実験では、側面装甲を貫通したAPH弾は不発のことが多かった。

 バ艦隊の巡洋艦以下は戦艦の近くを離れることが許されなかったのでその中小火力はまったく戦闘に参加できなかった。つまり救助用として手元控置されたのだ。

 露戦艦の主砲は2分おきに斉射。砲身は後座し、コンプレッサで復座(pp.68-9)。
 主砲砲塔は密閉ではなく、水柱をかぶると隙間から海水が流れ込み、砲員は頭からずぶぬれになって小パニックを起こす。

 夜間は砲甲板は青い燈火だけ。敵に見つかり難い。
 オリヨールは8度の傾斜が限度(p.133)。
 屍体の枕元には砂桶がある。死者を海中に投げ込む前に、いちおう土に還すため(p.161)。
 『ニコライ1世』の使用する火薬は黒色火薬だった。
 まったく泳げない水兵も多くいた。
 ニコライ1世には降伏のための白旗の準備がないのでシーツを代用(p.187)。それでも砲撃が止まらないので艦尾の軍艦旗を降ろして日本の旗を掲揚した。

 巡洋艦イズムルウドの中佐艦長は合戦中は立派に指揮したが、離脱途中で恐怖にかられ、ウラジオ前を通り過ぎてセントウラジミール湾に到達。ここでも追っ手を恐れて座礁し、自爆措置。
 ニコライに白旗があがったので戦艦オリヨールもそれに倣った(p.201)。
 降伏と決まると士官も水兵も急に命が惜しくなり、いまさらキングストン弁を開くなどと言ったら誰であれ即座に海へ叩き落とされかねぬ雰囲気に。

 ある哲人いわく「人生四十までは本文であつて、四十以後はその本文に対する註解である」と(下、p.225)。
 「『一服吸はしてくれ』[オリヨールの艦長]ユングは急いで三度ほど煙草を吹かした、と見ると、震える手先きから煙草がボロリと辷り落ちた。断末魔は永くなかつた。呻き声を発して、何か否定するやうに頭を横に振つた。やがて、重くてやり切れない肩の荷物を抛り出した人によく見るあの深い溜息が胸の中から漏れた。最後に、疲れ切つた背伸びをしたと思ふと、亜麻色の顎髯の生へた顔から生色が消えて、だん\/年寄り染た、いかつい顔になつた。今まで宙を迷つてゐた瞳は、何か秘密を読み取らうとでもするやうに、凝つと白い天井の一点を凝視たまゝ動かなくなつた。」

 著者が収容された『朝日』の砲塔、遮蔽砲台には各砲ごとに測距儀が装置してあった(下、p.247)。居住には不自由だが贅沢な可燃構造物は排除し、よく防護してあった。
 「日本側は各砲塔各砲台に測距儀が装備してあつたが、わが艦隊では一艦に二個づつしか無かつた」(下、p.380)。ロシア艦の望遠鏡は旧式で数字盤は不正確だった。

 日本海軍には帆船軍艦の時代がない。いきなり蒸気。「だから諸外国の人々が愛着を持つてゐて大抵離れたがらない古い慣習や伝統は、彼等に対しては力を持つてゐなかつた」(下、p.248)。
 日本の水兵は、徴兵適齢まで沿岸航路の船に乗っていた者か、漁業従事者が多い。
 日本では砲手の優秀な者は高級を与えて極力長く軍艦に留まらせ、また全海軍から最優秀の砲手をえりすぐって戦艦に集めていた。海戦では巡洋艦より戦艦の砲撃が上手であった。同じようにわがバ艦隊も、最優秀の黒海艦隊の砲手を引き抜いて乗り組ませるべきだった。ところが新兵や予備兵に戦艦の砲手を勤めさせていたのだ(下、p.253)。

 『朝日』艦長の野本大佐はユングを知っていた。「私[著者]は、ユングが曾て日本婦人と結婚したことがあり、子供まであるといふことを士官達に聞いたが、……」(p.257)。
 対馬沖から上海に向かった駆逐艦ボードルイは、17日夜に石炭が尽き、木材を焚き、天幕を焚いた。5月20日からは罐圧ゼロで漂流状態。最寄の「シヤウエイタン」灯台から65マイルで滅多に船が通らない海。オスリヤビアから救助した人員で艦内は身動きもできず、水と食糧が足りなくなった。21日に英国商船クウコーリンが通りかかり、上海まで曳航。

 ナヒモフは浸水を防ぐために後進で朝鮮沿岸を目指そうとしたがコンパスが衝撃で狂っており、夜が明けたときは対馬が目の前だった。水雷士が綿火薬庫に爆薬を装置し、電池式の起爆線をカッターが引っ張って600m離脱。艦と運命をともにする気の艦長がブリッヂからハンカチを振るのを合図に点火せよと。航海長も残った。ナヒモフにはスチーム動力の艦載水雷艇もあったが、水兵がしがみつき過ぎてこれは転覆。総員退艦のさいに兵卒が機転で導火線を切断していたので、艦長が合図をしても不発であった。カッターに不知火が近づいたので、蓄電池は投棄され、水兵服を檣に掲げた。艦長と航海長は夕方、漂流しているところを日本漁船に救助された。

 戦艦ナワーリンの12吋砲は黒色火薬のため8000m以上は届かない。乗組員は700人(p.303)。2人の水兵があとで英国商船にすくいあげられ、天津のロシア領事館に引き渡された。
 5月15日、巡洋艦オリヨーグ、アムローラ、ジエムチユウグの3艦は石炭を倹約するために速力を10ノットに減らした。
 マニラから100海里でアウローラは日本艦隊に遭遇した。と思ったら米国艦隊(戦艦×2、巡洋艦×3)で、礼砲を交換。護衛されてマニラ湾に。米艦隊は、日本艦隊がフィリピン領海までおいかけてくる場合に備えて警戒していたのだ。

 長崎湾の北西部のイノサ村をロシアは戦前から借り受けて艇庫や工場や病院や海軍集会所を建てていた。ロシア海軍用墓地まであった。
 捕虜のロシア士官は長崎で旅費をうけとり、各自のコースで帰国。多くはインド洋回りだったが、北米経由で世界一周した者も。

 戦争の当初、旅順口で、巡洋艦ポヤーリン、機雷敷設艦エニセイが、自分の敷設した機雷に衝突して沈没した(下、p.376)。
 日本海海戦で1分間に撃ったロシア艦隊の砲撃は134発。日本艦隊は360発だった。その金属重量は露側が2万フント、日側が5万3000フント。一フントは百匁余。ロシアの12インチ砲弾には15フントの綿火薬。日本の12インチ砲弾には105フントの下瀬火薬。露側は1分間に500フントの綿火薬を飛ばし、日側は7500フントの下瀬火薬を飛ばしたことになる(pp.331-2)。
 日露戦争中に日本の商船は25隻沈んだ。5万5652トン。旅順口で鹵獲したロシア商船は59隻、13万8438トン(下、p.385)。

とりのオリンピックは分かったがひとのオリンピックはどうなったんじゃい

 発売された『諸君!』3月号の「特集 揺れる皇室」の重点は、3番目に配列されている八幡和郎さんの論稿であるとお見受けしました。内容には全然同意です。

 月刊『正論』の3月号にはNEETに関しますわたくしの別稿が載る予定でしたが、急遽、4月号回しにされております。いったいどなたの緊急原稿が突っ込まれるのかと思っておりましたら……。
 中西先生は『諸君!』と『正論』にほぼ同じ内容の寄稿をされていて、生前末期の江藤淳みたいです(ひょっとして次の『voice』にも同内容……?)。支那事変の始まりが盧溝橋だと思っているあたり、もう痛すぎる。蒋介石にイニシアチブがなくてシナ人の頭目になどなれますか? 40万人の動員と展開を8月のソ連の指示後に開始できますか?

 『別冊正論』vol.1のシナ特集に平松茂雄さんが寄稿をされておらず、代わりに編集部が宇宙関連の話をわたくしなどに依頼してきましたのは、きっと平松さんに何かご多忙の事情がおありなのだろうと推測をしていたら、こんどの『諸君!』の対談の中で単行本×2冊の公刊が近いとの予告がされていました。平松さんがかつてシナ関連の学会から干されていたとは初めて承知しました。
 ひとつだけさりげなく指摘させていただきます。これはわたくしごときがミリヲタ風のカタログ知識を自慢しようというのではなく、平松先生の過去のご著作から継続して観察し得る本質的な誤解が一点あるように信じられるからです。
 シナ軍の脅威とは、「行動の敷居の低さ」と「核武装」を除きますと、ハードウェアや補給面にはまずありますまい。宇宙関連(GPS含む)ですらそうです。
 彼らの潜水艦や航空機は、その「数」を加味しても、旧ソ連の実力には足元にも及んでいません。多数のディーゼル潜水艦で一斉に古い沈底機雷や係維機雷(これもよほどの浅海域でしか役立たないのですが、浅い海はあまり多くないことは勿論ご存知ですよね)を撒くなんて戦法は、過去にどこの国も成功させていませんし、きょうび、流行るものでもありません。ミリテク先進国では「無人潜航艇式のロボット機雷」を持とうという段階です。これは領海外から敵の港湾に向けて密かに放出することができる。また1980年代以降、着底した状態で近くを通る敵艦を自動識別してホーミング魚雷を打ち出すという「キャプター機雷」を在日米軍は航空機からいつでもばら撒ける体制ですが、シナ軍にこの同等品はまだありません。むしろ有事に各種の機雷で簡単に封鎖されてしまいそうなのはシナ沿岸の軍港の方なのです。またSu-30が実勢の数十機ではなく数百機に増えたとしても南西防衛区域の空自が翻弄されたりはしないでしょう。空中指揮システムに子供と大人の差があるからです。

 シナの軍事的脅威とは、中共の政治指導者は軍隊を手足のように使いこなし、それをみずからの宣伝言動と完璧に連動させることができるが、日本の政治家と官僚にはそのいずれの能力もゼロであること。これに尽きています。ハードウェアではない。政治的力量です。対内統制力(煽動力)です。情報操作力です(いまだに沖縄領海侵犯事件が中央の計画ではなく海軍末端の暴走だという解説にお目にかかるでしょう)。
 唯一ハードウェアで恐るに足りるのが核です。核を使えば自衛隊の指揮システムを混乱させてやることができます。
 こうなった責任は佐藤栄作にあります。彼が中共に対抗した核武装を断念してアメリカ政府からノーベル平和賞を貰い、日本の将来の安全を個人の一代限りの評判と引き換えてしまいました。その選択を見て、後継の田中角栄は、自分も未来の国民には責任を負わないモラルなき首相になれると安心したのです。また1977年に福田赳夫は、ハイジャック犯に脅されるや思考停止し、国内の刑務所から無差別爆弾テロ犯数人を出獄させ、日本政府発行のパスポートと税金16億円をも添え、日本赤軍へ送り届けました。一国の首相としてやっちまったこの決心だけで、彼のそれまでの全人生の評価はパーになり、青史には最悪の不名誉な形容詞が残るだろうと思われますが、この福田にしたって、前任者たちの伝統に無批判に倣ったまででしょう。首相によるあまりにも首相らしくない無責任な価値判断の悪伝統を断ち切れる首相が、戦後の日本国にはまだ持てていないのです。
 一人の「模範」も居ないということは、これほど困ることです。子供に学ばせる歴史の教科書には、できるだけ「模範」を取り上げて賞揚する必要があるわけです。