TOP PAGE


« 2006年02月 | メイン | 2006年04月 »

今月の古本・他。

 以下は中共系のあるHP記事を翻訳ソフトにかけた上で短く整理してみたものです。
 事実と違っているかもしれませんが、何かのご参考迄。

 1959年の9月、米国はやっと蘭州のガス拡散式ウラン濃縮プラントの写真を得た。
 偵察衛星の写真は1960年8月に得られた。
 U-2でもロプノールまでは飛びにくかった。

 米国は、シナの原子炉は1961年末に完成し、そこから1962年にプルトニウムが取り出され、そこから原爆ができると予測した。
 ケネディ政権の2年目の時点において、同政権にはシナの核武装について分析できる専門家がいなかった。

 1961年12月、コロナ偵察衛星が初めてロプノール基地を見分けたが、未来の原子爆弾試験場であるのかどうかは定かではなかった。
 1962年4月、米国の情報班は、シナの最初の原爆はプルトニウムを原料にし、最速でも、実験は1963年初めであろうと分析。

 1ヶ月後、台湾発のU-2偵察機が包頭の核工場を偵察した。しかし米国の情報班は、これがプルトニウム生産炉だと思い続けた。
 1964年、U-2と偵察衛星は、酒泉にプルトニウム生産炉が建設中であることを発見。そこから、最初の原爆はさらに数年後になるだろうと考えた?

1963年1月22日の米国の国家安全保障会議で、中共の核武装を制止するか延期させる方法についてあれこれ検討された。
 会議後、無任所大使のハリマンは、ドイツを核武装させないことについて米国はソ連に協力できる。それを代価としてソ連に中共の核施設を破壊させることができようとケネディに示唆。

 統合参謀本部(親玉はルメイ)は1963年4月に国防長官に報告書を提出し、可能性として、米国一国、または西方同盟国との共同で通常兵器の空襲をシナの核施設にかける方法や、戦術核兵器を使ってシナを攻撃する方法も示された。
 ここでの問題は、国際法上の正当性をどう担保するかだった。

 ペンタゴンにはソ連軍との対支共同作戦など問題外であったが、ホワイトハウスの文官がそれに熱中した。中心人物は安全保障補佐官。彼は5月中旬に駐米ソ連大使と会見し、シナの核について意見交換を望んだ。
 しかしソ連大使は逆に米国の「多角的核戦力」計画を問題にする。※これは欧州各国に独自核武装をさせないための米国案だったが、ソ連から見ると米国が英仏を核戦争時の「馬の足」化しているだけのように疑われた。前後してソ連も中共に対して「多角的核戦力」のシナ版を呼びかけたことがあり、毛沢東はこれに大反発している。

 1963年6月、フルシチョフは米国と「部分的核実験停止条約」を討論することに同意。米国はふたたび、米ソが共同でシナをなんとかする機会が生じたと期待した。が、ソ連は依然、「多角的核戦力=欧州核拡散」だと、反発しており、その気運でなし。ケネディ政権は、それが障害なら「多角的核戦力」の政策は放棄できるとも判断。

 ハリマンはモスクワで部分核停条約に署名するさい、フルシチョフに、シナの核は両国にとって危険だと伝えた。
 しかしフランスは独自核武装を進めていて、それと同じことをシナに禁ずることは難しかった。

 1963年9月、訪米した蒋経国は、CIAやバンディに対して、米軍が後方支援して、台湾軍が落下傘部隊を送り込んでシナの核施設を襲撃すればどうかという提案をした。しかし相手にされなかった。そんことをやればソ連と中共が一致団結するだけである。
 9月11日、蒋経国はケネディと会談。ケネディは「300~500人の降下部隊をあの遠い包頭まで撃墜されずに送り込めるのか」と尋ねた。ピッグス湾で懲りているケネディは、この台湾人の約束はとてもあてになるものではないと考えた。

 しかし蒋経国は引き続き、台湾軍を使っての、非正規的な手続きによるシナの核能力の破壊工作を各方面に説き回り、CIAは興味を持ち続けた。

 このとき国務省の東アジアの専門家が200ページ以上のリポートをまとめる。
 彼の結論。核武装したシナが将来、欧米の主要な国家の間の力関係を変えることはあり得ない。シナは米本土を核攻撃できない。その核武装の目的はシナ本土の防衛のための抑止である。米国はシナが核実験に成功したら周辺アジア国を助けて、それら諸国の核武装を防止せよと。※これではシナの工作員だ。

 1963年年11月22日、ケネディは射殺されて、LBJが第36代大統領に昇任。1964年4月末、ラスク国務長官は、例の東アジア専門家のリポートの要約をジョンソン大統領に見せた。

 1964年初め、米国は秘密のルートから、シナが同年に間違いなく原爆を爆発させると聞かされた。
 偵察衛星は、8月初めに、ロプノールの鉄塔などの建設を確認した。

 ジョンソン、マクナマラ、カーンらは、ソ連がシナを先制攻撃することを期待する。
 9月15日、フルシチョフは蘇支国境問題について談話を発表し「ソ連は“最も新型の殲滅性武器”を含むすべての手段で自国の国境を守る」と、核攻撃の可能性も暗示した。

 しかしワシントンの期待を打ち消すようにソ連大使は、シナの原爆は心理的な兵器で、ソ連政府にとっては取るに足りないとジョンソン政権に伝えた。

 9月中旬の偵察衛星写真は、ロプノールの準備作業がほぼ完了したことを教えた。訪中したマリ政府の要人は、シナは10月1日の国慶節で原爆を炸裂させるだろうとマスコミに予言。
 じっさいの爆発は10月16日であった。米国が13箇所展開していた観測所のうち、11箇所の装置が、きのこ雲の放出した電磁パルスを捕まえた。次いで飛び立った飛行機が、高層大気の塵を集め、原爆の材料がプルトニウムではなくウランであったことをつきとめた。
 1965年春、米国の海軍は、何らかのルートで、シナが数年の内に潜水艦を持ち、そこからハワイや西海岸に届く弾道ミサイルを発射するとの情報を得た。
 米海軍は、ソ連を装ったこの本土攻撃により、北京は米ソ戦争を誘発させたいのではないかと疑った。
 ポール・ニッツェは提案した。シナのミサイル潜水艦が処女航海するときに撃沈してしまえと。

▼古本の摘録とコメント
▼『戦後産業史への証言 三』S53年2月・毎日新聞社pub.

 終戦直後、国内エネルギーとしては、水力発電の電力だけが足りていた。ただし渇水に弱かった。
 鉄道と産業用の石炭は無かったので、奪い合いだった。全企業の生産意欲がどうなるかは石炭にかかっていた。

 白州次郎はまず重油をくれとGHQに要求した。それで製鉄した機械で炭坑を復活させると。
 石炭はストをやられると全産業が困った。最も困った電力会社が石油化に走った。

 イタリアは自前資源がなかったが天然ガスがポー川に出た。
 仏は1918に石油を専売制にして輸入を国家が一手にやっていた。

 日本の炭層は欧州のものより薄く、しかも波うっている。欧州の機械をもってきても合理化にならない。液化技術にしても同様。
 世界でいちばん良質でしかも安い石炭をもっていたのがかつてのイギリス。
 欧州の石炭は石炭紀。日本の石炭は第三紀。これは堅いコークスができない。

 出光は終戦直後は、旧陸海軍のタンクの底にたまった油の集積作業をして耐乏。
 戦艦大和が沖縄に突っ込んだときの燃料は、菜種油に重油を混ぜたものだった(pp.33-34)。それが徳山にわずかに残っていた。

 戦前、テキサスオイルは上海、漢口、天津に油槽所をもっていた。しかし売れていたのはスタンダードとシェル(アジア石油)だった。

 日本は戦前、原油から極力、重油以外のものを採るという「完全製油」をやっていた。つまり揮発油、灯油、軽油をできるだけ得ようとした。というのはそれらの油種は原油の1割5分の値段である。重油は逆に原油の7割の値段にしか売れなかったので。
 ところが需要量は重油が多かった。それで足りない重油は重油製品として別に輸入していた。
 この重油製品の輸入量が日本の石油全体の輸入量のなんと7割であった。

 昭和25年、タンカーは十何億円。油槽所は4億円。
 27年に出光がアメリカから戦後はじめて高オクタン価ガソリンを日章丸で輸入した。このガソリンはそれまで国内で消費されていたガソリンより燃費は少なくて済み、しかもエンジンを傷めないので、驚かれた。
 日米開戦後に米国では接触分解装置が非常に発達した。

 タンカーの船長にとってノロノロ走るのはいやだ。
 昭和30年の米国内には、日本には暴動や革命が起こるのでリスキーだという心配がメロン財閥の中にすらあった。

 出光佐三いわく「役人というのは苦労していない。だから権力を持てばなんでもできると思う、あれはばか息子のあり方です」「生きるか、死ぬかのような苦労をしなきゃ。役人みたいに、大学を出て、うしろに国家権力を持って、それを振り回して威張っているものに利口なことができますか」

 萩原吉太郎いわく、日本の政策は課長以下の官僚が決める。若くて優秀なのだが、長い目でみると、まちがった方向に向いた精密さであって、どうも狂っている。

 官僚出身の佐藤栄作通産大臣は、言葉だけ調子がよく、石炭問題で泥をかぶる気はなかった。そこで炭労はある日の昼、佐藤と仲の悪い党人の大野伴睦・自民党副総裁に、池田総理を動かしてくれるよう頼んだ。大野は料亭で羽織を着、芸者を2人はべらせ、その片方の胸に手を入れ、もう片方には肩をもませながら、10分間、その話を聞いた。その日の夕刊に、大野が池田に会い、石炭問題に積極的に乗り出すように要請したとの記事が出た。

 野口照雄いわく、昭和24年時点で日本人は「ウィスキーの水割り」を知らなかった。小さなグラスでストレートで飲んでいた。来日したカルテックスの幹部が水で割ることを教えてくれた(p.58)。

 戦後の日本経済の成長率を米本土にいて予測できたやつはいない。何かの用事で来日して町の人びとが働いている様子を見て初めて考えが変わる。昭和24年~35年頃。

 30年たって石油が出るかどうかわからない事業に貸す銀行などない。だから石油会社は自己資本で何十年も続けられるところばかり。

 一号井ではふつうは出さない。鉱区の広がりを確認するために周辺から掘って、最もムダのない採取法を決める。しかしアラビア石油はカネがなかったので、鉱区の真ん中に一号井を掘った。これは出るのが当たり前だった。

 日本が鉱区を貰えた理由は、中東のナショナリズムの成り行き上の幸運。

 昭和30年代前半は役所の課長クラスに戦争体験者が多く、石油がなくて飛行機が飛ばなかったことをよく覚えていた。日本政府がフラフラしなかったのでメジャーズは敢えて妨害をしなかった。なにごとでも方針がフラフラしている国が妨害されるのだ。

 戦中は炭坑労務者の半分が外人(シナ人と朝鮮人)で、北炭では18000人もいた。
 敗戦でまずシナ人が蜂起した。これが日本の戦後の労働組合および労働運動のさきがけといえる。ついで朝鮮人。政府はシナ人と朝鮮人を昭和20年12月までにすべて送還した。
 北海道では昭和20年末に炭坑の労働組合組織率は75%に達する。これらはシナ人や朝鮮人のやりかたを見習ったため早かったのだ。
 三池のスト騒動で労組が、ヘルメット、覆面、末端がヤリになっている旗棒、右翼にドスで刺されない用心の週刊誌腹巻などを創始し、これが全学連に模倣された。

 大正8年に万国労働会議があって、深夜、18歳未満、女子の坑内労働は禁止せよと。日本は昭和4年から実行。
 昭和6年頃の国内炭坑不況は満鉄が撫順炭を日本へ300万トン/年もダンピング輸出していたせいだった。

 社長の構造再編決定で100%安心なものなどない。60%を目安に決断しなければサバイバルに失敗する。

 宇部興産の中安閑一いわく、稚内に石炭と石油の鉱区をもっている。天然ガスがあるかもしれない。※これがもっと早く出ていたらまずソ連軍がやってきただろう。

 昭和9年に初代の社長が宇部に1万トンの石炭船が横付けできる港を自費で造れと。これを実行した。いまは3万トンの船がつけられる。外国産石炭のトンあたり運賃は、1万トン船だと14ドルだが5万トン船ならば7ドルになる。よって国内炭が枯渇してもオーストラリアから買えば化学コンビナートを維持できる。

 石炭液化は、空気と遮断した炉で加熱して、一酸化炭素と水素に分解し、脱硫して、石油にする。フィッシャー法。

 アメリカが石油輸入国になったのが昭和27年。

 原茂いわく、組織の幹部の悩みは、敵と闘争することではない。味方の内部の意思統一に幹部のエネルギーの8割は消耗する。※「つくる会」の内訌を見ているとまさにこの通りであろう。ひきこもりネット少年の知りえない機微だ。

 東海原発の一本松は戦後まず阪大の浅田常三郎と原子力の勉強をした。

 正力松太郎は昭和31年に、あと5年でコールダーホール型の原発をつくるとブチあげた。一本松は石油とのコスト競争に自信がなかったが、現地を視察して考えを変えた。

 黒鉛ブロックはながいあいだ強い放射能にあたると収縮する。そこに日本の強い地震がくれば炉壁は崩壊しかねない。これがイギリスからの導入にあたって苦心したところ。

 鉄も、放射能によって脆くなり、温度が下がったときにボロボロになる。しかし50℃以上に常に保てばよいことを発見。

 フランスは原爆をつくるのに、アルジェリアの戦費の4000億円を何倍か上回る投資をした。

 その当時の最前の知識、努力をしてやって予期されないことが起こった場合、免責するのが常識。

 アメリカが撤去した賠償施設はほとんど腐って捨てられていた。要するに日本の戦争ポテンシャルを剥ぎ取ることだけが目的であった。

 特需総額は、米国の51会計年度で1500万ドル。FY52で2830万ドル、FY53で6760万ドル。たいした額ではない。当時は「別需」と呼称。別途需要。

 朝鮮動乱の途中まで半島への影響はソ連が圧倒していた。
 朝鮮で米軍は日本ストックの弾薬を使い果たしたに違いない。

 米の援助方針はペイ・アズ・ユー・ゴー。日本が自主的にやる気を見せれば援助のカネは惜しまないが、日本人がヤル気を見せないなら支援しない。
 MSAの域外調達は教育発注であり、アメリカの業界も好意的に技術の指導をした。

 小山内宏いわく、旧陸軍の平時編制の定員は20万人程度だったと。
 またいわく、吉田と池田は日本の再軍備に反対したから善玉となっているが、事実は、単に明確な方針をもっていなかっただけだ。なりゆきだと。

 特需の最大の恩恵は、アメリカのマネジメント方式が日本の防衛産業に注入されたことである。それまでは大福帳的な方法で後方補給資材の管理をしていた。現代にそんなやり方で対応できるはずがないのだ。
 もうひとつはテクノロジーマネジメント。米は航空機の試験装置を貸与し、その使い方も教えてくれた。

 今のダイキンは戦中の大阪金属工業で砲弾メーカー。
 P-2Vのライセンスは、高度な電子機器を搭載した大型機の最初の製造経験となった。

 昭和32年7月から37年6月末まで、「車両交換計画」。ジープを中心に、3/4トン積み武器輸送車(ウェポンキャリアのこと)、2トン半積み兵員輸送車など8万台の軍用トラックを、新三菱重工、トヨタ、日産、いすゞの各社がライセンス生産し、それを米軍が買って防衛庁に供与する。防衛庁はボロボロになったそれまでの貸与車両1万3900台を米軍に返す。主要な日本のトラックメーカーはこれで米国式の量産方式を学習した。
 ※「ウェポンキャリア」とは要するに兵員輸送向きではないぞという意味であったことをこの記事でようやく理解した。たしかに荷台は狭いものだった。

 P-2Vとジープが、弾薬特需後の穴を埋めることになった。
 当時の防衛庁には、防衛力をどうするとか装備の国産率をどうするかとかの経済絡みの長期ビジョン、企画力はゼロで、装備については安易なアメリカ依存。その文化がいまだにある。

 小松製作所は昭和29年の時点で、年に砲弾を100万発量産する能力を持った。いざ鎌倉のときは500万発にもできた。
 しかし、神武景気で、東南アジアに武器類を輸出する構想が立ち消えたため、これらの能力は延ばされなかった。
 武器については16カ国から60件の輸出引合いがあったのだが、政府がクレジットを設定してまで武器輸出市場を開拓せねばならぬ状況ではなかった。

 ATMはフランスから売り込みがあったが、防衛庁は断然国産主義を貫いた。
 日特金には河村正弥という生涯を機関銃に捧げた常務がいて、昼間の仕事が終わったあと、夜なべで機関銃の設計をした。これは昭和29年から開発開始、37年採用となった(p.258)。

 三菱電機は関義長が社長のとき、エリコンのSAMを社費で輸入してバラして調査した。※当時のエリコンも戦前と同様、ドイツ人の兵器技師たちの再雇用先であったかと思われる。
 自己資金で設備投資ができるような会社でなければ、防衛産業ではプライム・コントラクターになるのがむずかしい。

 YS-11はマーケティングが下手だった。YS-11が輸出では失敗したのは、開発コストを管理するノウハウが当時の日本にはゼロだったから。安いものよりも、良いものをつくろうとしたので。

 45トンの戦車をアメリカから貰ったって、日本では橋は渡れないし、トンネルもくぐれん(p.260)。だから61を国産した。
 千賀いわく、日本は兵器のインプルーブメントを考えない。61式TKはその代表だと。

 FXのF-11は空中待機能力が評価されて国防会議で内定していた。しかし千賀はF-100を選ぶのがふつうだろうという判断だった。マッハ1のF11を学んでも日本の航空機産業の飛躍にはつながらない。さりとてF-104は運用思想が有人ミサイルに近いもので、日本が将来独自に改造のしようがない。F-100ならガタイがでかいので学べる部品が多く、独自改善の余地も大きかろうと。

 F-104のライセンスは機体が75%、エンジン関係が47%、しかるにFCSはブラックボックスだった。エレクトロニクスの国産化率は14%で、高い月謝だった。
 昭和39年頃、米空軍はまだ日本におり、F-102を置いていたが、それが撤退するというので、穴埋めにF-104を継続生産した。

 千賀はバッヂのシステム見積もりとしてはGEのものが一番よくできていたようだと。ひとつのシステムがダウンしても他のシステムでカバーできるようになっていた。リットンのはコンピュータをどんどん継ぎ足していく方式だったが、つなげばつなぐほど精度が落ちるのではないか。ヒューズのはとにかく安価だったので、それに決まった。しかし買ってみたら要求性能を満たしておらず、次から次へと手直しが必要で、けっきょく高くなった。

 PPBSはフーバー大統領が1929に提唱した。地方行政機関はひとつの事業体である。その使命、任務をまず決めろと。そこから費用対効果が分かると。これをヒッチが精緻化してペンタゴンに適用した。
 千賀いわく、一次防、二次防……と竹の節をつぎたすやりかたは、発展途上の共産圏のやり方だ。これはPPBSにしなければならない。

 松野長官があらためてくれた。6年計画として、しかも3年ごとに計画を見直す。本当は毎年見直すべきなのだが。官僚は国会答弁で毎年ガンガンつきあげられるのは厭だった。「すでに決まっている。それにもとづいて今年も決めた」という答弁がいちばん楽なのだ。それで予算先取りの形式としての「○次防」が好まれた。

 四次防の途中で石油ショックとなり3割もの積み残しを生じた。これも3年ごとの見直しをしなかったからだ。官僚は積み残し部分を計画最終年にカットしてしまった。つまり最終年度ギリギリに「見直し」をした。これでは軍需産業はたまらない。

 民需の研究開発は3年だが、兵器は6年かかる。
 C-1の開発費はべらぼうではないが、調達機数が28機とあまりに少なすぎて、償却費が1機あたりべらぼうについた。
 小山内いわく、あれはジェットエンジンの開発に意義があった。

 50年の秋頃、兵器の共同開発の話がスウェーデンからあった。しかし国会で野党がなんでもかんでも武器輸出は禁止しろというのに官僚が迎合して、実らず。

 英国はホーカーシドレーなど黒字の会社が大合併して企業の開発体力をつけている。日本はまったく乱立。要は石炭のときと同じで会社の重役ポストが減るのが財界は嫌いなのだ。
 短SAMの開発が41年から始まったいまだに実用化のめどが立たないのも、一企業の自主開発の限界か。

 ホークは40年に千歳に最初に配置された。42年から国産。ほんとうはボマークを導入できれば理想的だった。
 ナイキは最初の一個大隊分だけ陸上自衛隊だった。

 通産から防衛に移った森田装備局長の鉄道自殺(1967-10-7)は、ホーク・ミサイル国産化をめぐる三菱電機と東芝の争いが背景だろう。※73式APCをめぐる重工と小松の争いではないか?

 45年の中曽根は将来の米軍基地は北に1箇所、南に1箇所でいいという考え。
 PXLで川重は身銭を切ってモックアップまで作っていたのに白紙化された。

 千賀鉄弥いわく、対潜哨戒機のキモは使用するソフトウェアのみ。P-3Cのエレクトロニクスなどハードに関してはごくオブソリートなものである。機体は1950年代の旅客機だ。しかしソフトで米国にぜんぜんかなわなかったのだ。
 ソフト開発は人件費が大きい。日本は研究開発予算が少なすぎるので勝てない。フランスでは防衛費に対して研究開発費は17%、米は9%(その分母が巨大だが)、西独は6%、日本は防衛費に対してタッタ1%だった。

 YS-11を太胴にするか、細胴にするか。細くしておけば気温が高い環境でも有料荷重を減らさないですむ。また片発停止時に高度維持ができる。これで決まり。次期エンジンに自信があれば、太胴にしてもよかったが。
 飛行機の開発はとにかくトレードオフ項目が多いので、若い芸術的な創作能力が不可欠。これは30歳代までしか維持できない。零戦を設計したときの堀越が32歳、久保富夫が20代だった。YSの主任設計者の東條輝雄はそのピークを越していた。

 特需産業から防衛産業にきりかわった境目は昭和30年。
 昭和30年に通産省は自動車の国民車構想をうちだした。だれものらなかった。
 YSは官が55億の開発予算と特殊法人を用意しなかったら、できるわけはなかった。

 なぜC-1を軍用にも民用にも使える機体にしようと考えなかったかというと、防衛官僚がまじめで、要求性能を100%欲するため。また、どっちつかずの予算の獲得や執行をやれば、あとの会計検査がうまく通らないのが日本の官庁のしきたり。

▼『防衛生産委員会十年史』S39年6月・経団連pub.

 口絵写真の最初の国産警備艦『いなづま』に長魚雷。

 米軍から最初に完成兵器として製造の発注を受けたのは4.2インチ迫撃砲。27年5月3日に、大阪機工が528門受注。

 苦労したのは領収検査。品質管理が日本企業にはついていけてなく、ここでハネられた。すると納期が遅延し、資金繰りが苦しくなった。
 弾薬のような単純なものでも、ダメだった。※いかに戦中の日本軍の砲弾が戦場での効果が少なかったか。

 兵器製造設備は高精度でなくてはならず、したがって設備の損耗が早い。他に転用もできぬ特殊なものが多い。また投資技術の陳腐化が早い。発注の長期見通しが無い。納期は確実性が求められる。メーカーとしてはとてもリスキー。
 保安庁調達はさらにやっかいで、窓口によって規格や仕様が異なる。

 バズーカと銃剣を受注したのは日平産業。
 29年には日本製鋼に75ミリ無反動砲16門の試作発注あり。

 神戸製鋼所は28年から2年弱で105ミリ榴弾を100万発製造した。普通信管と、最も難しい時計信管は高野精密工業(株)が下請け。ファイバコンテナは菱森工業。
 同時期、小松は4.2インチ迫撃砲弾をやはり100万発製造した。
 1954にビクターオート府中工場(旧軍施設)は水陸両用車も受注。
 ハーフトラックも米軍のカネで国内生産して装備していた。1953年度に149両、7億4500万円。1954年度に187両、9億3500万円。1955年度に149両、7億4500万円。

 航空機の仕事は、27年7月に昭和飛行機が軽連絡機の分解修理を頼まれたのが戦後初。
 ジェットは28年に新三菱と川崎航空機が、F-86とT-33の分解修理をうけたのが最初だった。
 新明和は、30年に、米海軍の飛行艇の修理をうけおった。
 国産計画の当初は、航空爆弾は、10キロ、30キロ、454キロの三種類。

 航空部門の朝鮮特需はタッタ10億円だった。昭和30年には防衛庁の仕事だけでもこれを上回った。
 昭和27年に、カナダによる1940年のオレンダジェット・エンジンの開発が日本に合っていると経団連は通産省に建言。

 F-86を国産するときにアメリカ政府がその経費の46%も負担してくれた。※朝鮮戦争から1964までが「失われたチャンス」だった。この間の歴代内閣の無気力が日本の核武装を不可能にした。

 内閣も国会も怠慢で、国防会議よりも先に防衛庁と三自衛隊がスタートしてしまった。やっと岸内閣が32年に「国防の基本方針」を決定した。つまりはじめの3年間は自衛隊に「方針」がなかったわけである。

 昭和30年に米は陸上自衛隊のために261億5200万円の装備品をくれた。また、405億2200万円の弾薬をくれた。同じ年、海自用の艦船供与は76億9900万円、弾薬無償供与は4億5300万円であった。※このようにタマ代が装備品代を上回るのが陸軍の大特徴である。兵器で勝負するのではなく、弾薬で勝負するのだ。

 WWII後、アメリカは東南アジアに15万台の車両をタダでくれた。6年でポンコツになるが、平均12年も使い続けていたので更新需要があった。米陸軍省は、日本企業にそのチャンスをやろうとした。
 昭和31年7月、いすゞ、三菱、トヨタ、日産に16台のトラックを試作させ、アバディーンで半年の性能試験をした。これが合格し、32年5月に防衛庁と協定。
 59年度以降の分担は、1/4トン車が新三菱重工、3/4トン兵器運搬車と2+1/2トン兵員輸送車はトヨタ自動車。

 とうじ、艦艇は建造に3年かかった。

 兵器輸出がふるわないのは、政治的・技術的な秘密事項が多いことと、口出しする省庁が多すぎてその折衝でメーカーが疲れ果てることが阻害要因である。

 また純国産であっても、ミルスペックを使っているのだから、米国に対する「信義」の問題を生じてしまう。いわんや国産武器には外国武器のパクリが多かった。

 欧米には兵器の設計と試作だけで企業として喰っているところがある。なぜ日本は兵器の量産と開発を切り離せないのか。
 NASAと国防省はみかけ上分かれているだけで、連絡委員会が存在し、緊密に方針を調整して重複投資を避けている。そして成果を互いに利用している。

 武器産業、なかんずくロケット産業は開発費の比重が高く、社内蓄積がよほどないと乗り出せない。
 従業員の半数は大卒以上でなければならない。

 昭和35年時点で陸自の武器と戦闘車両類は2000億円くらいあったが、ぜんぶ米国からの無償供与で、そのため陸自は人を増やすことだけ考えればよかった。唯一、第七混成団の機甲化装備だけを国産する計画だった。
 自走無反動砲、特車、特殊運搬車は、第七師団のために開発された。

 初期に米からの供与にのみ依存しすぎたために、ふつうの軍隊では正面に対する後方の経費が全体の6割になるのだが、陸自のみは2割と、とんでもなくいびつな比率が定着してしまった。
 兵站機能の充実を犠牲にして装備の調達量を増すことは、けっきょく未稼働資産を何年も抱えることになって無意味であり、予算効率を低下する。
 旧軍人は初度費と年々の運用費を脱漏なく勘案できない。有事に国家総動員すれば良いというものではない。

 防衛庁は民間企業と違って減価償却の資金留保ができない。長期計画の中に更新費用を見込んでいかないとだめ。
 国防の満足な水準は定量的に表せない。しかし兵站は管理できるのであって、その点は大企業と変わりはない。大福帳式ではだめ。
 老朽陳腐兵器は不良資産に相当し、これは勇断をもって廃却しないと予算効率を低下させる。

 兵器発注は契約までの時日がいたずらに長く、本決まりとなってからの製造期間が短くなり、作業は納期である年度末に皺寄せられ、同企業の他部門が圧迫され生産ラインを撹乱させられるパターンが多い。これは間接損失といえる。だから36年に数社の地方(北海道、近畿、九州)企業が、防衛庁からの武器受注を辞退した。

 経団連は池田新内閣に、GNPの2%を長期的に防衛費にあてろと申し入れ。
 36年7月の閣議決定で、1ヵ月分の弾薬備蓄を方針策定。

大戦機のガソリンタンクは分散するほど危険だったのか

 数年前に苫小牧の石油タンクが地震の揺れだけで火災を発したことがあり、防災工学の専門家は「なぜだ!?」と首をひねったものです。
 といいますのは、これらのタンクには「落とし蓋」が載っていた。ライナーにはゴムシールが貼られており、設計上は、空気や酸素がタンク内に入らないようになっていたからです。
 ナフサ(原油成分のなかで最も揮発しやすい)の雰囲気だけでは、火災は起きません。酸素か助燃剤が供給されなければ、石油類といえども、発火も引火もあり得ないはずでした。

 インターネットをながめていましたら、このような密閉容器から発火する原因の一つに「キャビテーション」も考えられるようです。
 それを読んで、大戦中の米軍機のガソリンタンクがどうして機銃弾によって火災を起こすのだろうかというメカニズムの謎の見当がついたような気がしました。

 キャビテーションといいますのは、液体と接している板状の個体が急に剥離をしようとするように動きましたときに、液体との接触面に擬似真空が生じ、その真空が瞬時に気泡を作り出す現象です。
 たとえば冷えた缶ビールを未開栓のまま床に落としますと、震動によって缶内にこのキャビテーションが生じ、その気泡ガス(この場合は主に炭酸ガス)は、いくら冷えた缶ビールであって、また静止をさせていましても、長時間、消えません。

 このキャビテーションは、板状の個体でなくとも、たとえば高速で液体中を貫通する弾丸の航跡の直後にも生じます。
 キャビテーションによって生じた気泡の中には、その液体の中に溶けていたガス成分が気体になって満ちています。

 落下させた直後の缶ビールのように、自機の激しいマニューバや、1発の敵の弾丸の貫入、あるいは高射砲の至近弾爆発の衝撃波等によって、すっかりキャビテーションの気泡で満たされてしまったガソリンタンク内は、もしも次のステップとして、外部から空気と火種が供給されますれば、爆発的な火災を起こしてしまうと想像ができます。

 大戦中の米軍機のガソリンタンクは、ラバー・シールの内貼りによって漏れを阻止し、燃料消費にともなう空隙部分には不燃ガスを満たして外部大気からの酸素流入も阻止する構造になっていました。もしも敵の機関銃の徹甲弾が1発撃ち込まれても、火災は起こりません。

 しかし、キャビテーションの気泡がタンク内の液体中に満ちてしまった状態のところに、敵の弾丸が飛び込めば、事情は一変したでしょう。その弾丸は、曳火弾や焼夷弾や爆裂榴弾ではなくとも、赤熱した金属粉を伴っている可能性があり、それが火種となり得ます。また、飛び込んだ瞬間に、わずかながら、空気の塊もインジェクトするはずです。すると、タンク内では酸素と気泡が反応した小規模な爆燃が起き、その爆燃が密閉タンクの内圧と温度を急に高め、タンクの射入孔または射出孔を一瞬押し拡げ、そこからまたさらに追加の外部大気がタンク内に混入して、爆燃を瞬時にタンク全体の爆発に連鎖せしめることとなったのではありますまいか。

 つまり、「タンクに2発続けて当たる」かどうかが、米軍機が火災を起こすか起こさないかの分かれ目だったのではないでしょうか?

 弾丸の衝突による金属の赤熱は、アルミのような軽金属では容易に起こったでしょう。これは、アルミ鍋や銅鍋では、鍋底が赤熱して調理油が発火する火災が、鉄鍋よりもはるかに起き易いとされていますことから想像ができるように思います。
 弾丸の衝突エネルギーが熱エネルギーに転換され、タンク周りのアルミ部材が部分的に赤熱し、あるいは赤熱した金属粉として命中弾丸とともにタンク内に貫入することが、あり得たのではないかと想像します。
 弾丸素材にも銅が使われていましたので、アルミとの衝突で赤熱したかもしれません。

 弾丸のタンク衝突震動と、その弾丸の貫入航跡によるタンク内のガソリン液体のキャビテーションは、7.7ミリ弾よりも、12.7ミリ弾によって、より激しく励起されたでしょう。
 また、12.7ミリ弾は、20ミリ弾よりも、2発続けてタンクに貫入する率が大だったでしょう。
 敵機のタンクに火災を起こさせたければ、「キャリバー .50」がどうも最適だったのでしょう。

 日本海軍機がパールハーバーやダッチハーバーの重油タンクを7.7ミリ機銃や20ミリ機銃で銃撃したことがありますが、それらは銃撃では燃上はしませんでした。タンクが巨大ですと、貯蔵液中にキャビテーションを引き起こすためのエネルギーも、地震なみの膨大なものが必要なのでしょう。7.7ミリ弾ごときではキャビテーションの気泡はすぐ拡散してしまったことでしょう。
 としますと、やはり日本軍機は、ガソリンタンクを胴体内のひとつに集約すべきであったのです。小型のタンクを主翼内に分散していますと、銃撃を受けたときのキャビテーション反応もそれだけ過敏になり、防漏措置や防火措置の有無とも無関係に、ますます簡単に発火・爆発してしまうことになったのでしょう。

簡単だが明快な才能テストたり得る第一関門

 北鮮が核爆弾を既に持っているとしたら、その爆発実験をしないでいることのメリットはゼロです。
 商用原子炉級のプルトニウムでも、大量に集めて砲身装置方式で臨界させれば1キロトン未満の非効率爆発は起こせるのです。それを地下でやるだけでも、金正日は「ウリナラは核爆弾を持ったニダ」と世界に宣伝ができますね。
 しかし北鮮は核爆発実験をしていません。まったく口だけですから、米国をはじめ、世界からはもう公然に馬鹿にされています。

 事実は、北鮮は核爆弾など一発も持っていないのです。この結論でわたくしと一致するのは国内を見渡したところ神浦さんだけでしょうか?
 だとしたらほんとうに困ったことです。米国要路は、北鮮が原爆をもっていないことはリアルなインフォメーションとして先刻承知です(もちろん公的アナウンスは国益を考えて別なニュアンスにしています)。米国人だけではない、世界の既製の核保有国の要路は皆そうです。

 そんな彼らが、日本人の自称「学識経験者」たちや政治家が揃いも揃って北鮮の核保有を信じているらしい様子を観たら、彼らはどう思うでしょうか。きっと胸の内で「日本にはお子ちゃましかいないのかよ」と覚ることになりましょう。それで日本の将来の安全保障は増すでしょうか? リアリストなら、「その程度の想像力すら働かない連中が将来、米国にとって核のバランス・オブ・パワーの老練な協働プレイヤーになることはなさそうだ」と結論してしまうでしょう。

 核抑止戦略は優れて心理戦です。誰も他国の指導者の心の中は読めませんが、それを敢えて読んでいかないと、核抑止など成り立たないのです。

 北鮮が核兵器をもっているかいないかという、こんな初歩的な「心理戦の裏」も見切れない人には、日本の核抑止のプランニングを公言することはどうかやめて欲しいものです。
 米国の情報機関は、日本の公人の核武装関連の発言にはすべて目を通しています。それなのに、日本の著名な言論人が、自他の核武装についてあまりに未熟な発言ばかり繰り返して発信していると、米国指導者層の胸の中で占める日本の同盟者としての信用度は、どんどん低下していく一方なのですから。

 拙著『ニッポン核武装再論』では、「北鮮の核」はもちろん完全スルーしてあります。すべて「対支」の核武装論です。ガキを卒業したい人は、早くこの本を図書館でお読みなさい。

 シナは米国に届く核ミサイルをどうして20発より増やそうとはしないのでしょうか? ワシントンと北京との間には、この点について「黙契」があるはずです。「米国がシナの進路を邪魔しないうちは、自発的に20発にとどめておく、だからシナは米国の脅威じゃないよ」と、シナの指導者は米国の指導者に対して過去にこっそりとメッセージを伝えたはずです。

 シナにとっては、このポジションは安全・安価・有利なのです。20発を30発、40発と増やすことは、シナの財政にとって、何でもありません。しかし、ターゲットにされる米国としては「てんやわんや」の対策が必要になってしまうんです。(日本に押し売り中のMDプロジェクトはその事態に備える長期研究の一部です。)米国政府にとって、それは悪夢なんです。

 米国には一つのオプションがあるでしょう。日本をシナに対して核武装させることです。しかし、日本人は全般にガッツがなく、ガッツがある日本人は、しばしば愚か者なのです。あのビッグマウスの隣国・北鮮が核をもっているかいないかの判断すら、誰も正しくできない。入門者級の二者択一テストで0点という成績ではトホホ……でしょう。

 さあ、どうしたら良いでしょうか?

研究者の素養の一つとしての「適宜な距離感」

 現代の日本で、シナ軍研究をしていらっしゃる方々は、その道に入る前は「シナ好き」であったのか、はたまた、その逆であったのか?

 偶然の機会からですが、やはり古参の方々は「前者のパターン」が多かったのだなぁと、直かにお会いして確かめることができました。

 海上オイルリグ問題で孤軍奮闘を続け、ついにマスコミ世間に問題の存在を公知させた平松先生は、学生時代の前漢以前のテキストへの文学的愛好が、今のキャリアの原点であられたようです。

 また、さいしょは制服組自衛官として、自衛隊が対ソ一辺倒であった時期から一貫してシナ軍情報ばかりを担当し続け(つまり参本第二部支那課のような仕事の師団~方面幕僚バージョンで、このコースだとやはり昇任人事では損する)、のちに防衛庁の研究職に転じてシナ軍研究を継続されておられる茅原郁夫・現拓大教授も、やはり古代シナ史への興味があったのだということでした。

 こうした方々は、現代シナ人の正体に、若き日のある時点で、気付いたのだと想像できます。

 皆目わかりませんのが、米国人の政治指導者層の中にいるチャイナ・ラバーです。これがたとえばキッシンジャーの親支反日姿勢ならば「ユダヤ殺しのナチと同盟した日本は一生許せん」という怨念があるのですから、納得ができる。しかし他の連中は、シナ人が近代人ではない、したがってアメリカのフェアなビジネスの相手たり得ないし、まして世界を幸せにする同盟者たり得ぬということが、どうしていつまで経っても覚れないのか。

 人命も所有権もどうでもよいのだというのが、反近代主義です。これがシナ人です。「ウィルソニアン」を、もし理想主義者と看做すなら、チャイナ・ラバーはウィルソニアンたり得ぬはずでしょう。ところがチャイナ・ラバーが米国の民主党に多い。
 米国の共和党は、「バランス・オブ・パワー」指向から、ガッツのない日本人を見限って、ガッツのある中共指導部の力を利用しようとします。これはリアリズムですが、近代主義の人類的な価値を軽視するという点で、不道徳的です。近代主義者なら、誰もシナ独裁政権の幇助などできないはずです。

 そんな次第で、米国の二大政党のどちらも、本然的には親日反支ではない。おそろしいことです。
 これについて幸いにも伊藤貫氏に尋ねることができました。答えはシンプルで、彼らの発想傾向の根源は、昔のアメリカ人宣教師たちの根深すぎるシナ幻想なんだということです。ちなみに伊藤さんの奥様の直系には二人の旧軍中将がいるらしいです(一人はノゾエ中将? もう一人が不明)。またご本人のご親戚にも、加藤隼戦闘隊の関係者がおられるということです。伊藤氏はもちろんチャイナ・ラバーだったことは一度もないでしょう。

 米国内のチャイナ・ラバーは、シナ人が(日本人より)近代人だと錯覚します。あるいは、そう信じたがる。確かにこれは宣教師のメンタリティなのだと説明されれば、余所者のわたくしにもよく納得できるような気が致しました。
 教派教会と近代ビジネスとは親和しません。米国民はG7のなかでは最も宗教的であると言われて反論できないでしょう。ということは今のイランと同じ危うさを秘めている。この危さに触知できない多くの「親米保守」は低能保守でしょう。

 伊藤さんはこれについても解り易く説明してくれました。米国に留学すると、最初の3年は、授業の水準、学問環境の整っていることに、日本人は圧倒されてしまう、と。それだけで帰国してしまえば、低能な親米御用学者になって終わりです。もちろん米国人の学業水準を超えることもできない。しかし米国に10年以上暮らす覚悟をすれば、在米の日本人との付き合いはなくなり、すくなくとも偉大な米国人たちの虚飾は剥げ落ちて見えてくるのだと。

 これはつまり、十字軍のあとで西欧はイスラム化などはせず、逆に近代化に向かって行った、それと同じじゃないのかと思いました。つまり外国をよく知ることでその国の幻想に染まっちまう御仁と、その国の合理精神だけ参考にできる御仁とが、いるわけです。

 ヨーロッパの王様を離縁して大荒野に入植した米国人は宗教的すぎるために反近代的なブレの余地が多い。そこをシナ人は巧みな宣伝で衝いて行き、人士を取り込めるのです。
 これに対して日本の伝統政治文化では役人に外部への説明責任の自覚が足りないところにもってきて、戦後は、科挙官僚に国民と運命をともにする気構えがゼロとなり、米国内のウィルソニアンには「シナ人は反近代的で、日本人は近代的である」ことを説明もできず、また米国内のリアリストには、「反近代主義シナと核の結びつきこそ世界を最も不幸にする」ことをも、説明ができませんでした。

 日本発のホワイト・プロパガンダは、シナ人は近代人ではないという宣伝をアメリカ国内に届かせなければならないのですけれども、そのさいに、日本国内の反シナ派の言論人の多くが、過去の大アジア主義に親近であるという点が、大ネックとなります。
 大アジア主義は、反近代主義です。わたくしがなぜ頭を抱えてしまうか、解ってくれますか。

真相はかうだシャーミン

 那覇防衛施設局はじつにご苦労さまですね。<いまさら辺野古の沿岸埋め立て案は変えられない><内陸案などあり得ぬ><計画した滑走路の角度を変えればまた別な市街地がアプローチコースの下になってしまうから、角度も変えられない>なーんて趣旨の説明を、嘉数高台でわれわれにしておいてですよ、その同じ日に、読売新聞の記者さんには<埋め立て場所は、沿岸よりも少し沖へずらす><滑走路の角度も少し変える>と観測気球リークですかい。

 官僚や官僚出身の政治家がどうして日本人を幸せにできないかお教えしましょうか。試験エリートの秀才官僚には、自分より頭の悪い国民と運命をともにする覚悟が自然にはできないのです。子供のときから泳ぎを知っている漁労の民が入水自殺はできないのと同じなんですよ。
 そこで、万一国家が傾いても、自分ひとりだけはカネと地位と名誉と法的安全と家族の将来の安心を確保するという「泳法」を、無意識のうちに採用してしまう。

 徳川幕府は、終始ついに、シナ王朝からの政権承認を欲せず、求めませんでした。シナからは「日本政府」として公認はされていなかったかもしれないが、その必要が無かった。
 シナとの交易で得られそうな金銭的メリットは、将来の大陸からの間接侵略のデメリットを下回るだろうと、適確に判断したのです。大見識でしょう。
 いったい、わが国の過去の歴史の中で、いくつかの行動的な貴族や武家が、どうして、ただの秀才博士よりも、日本人を幸せにできたのでしょうか。

 それは、彼らは命を的に、体を張ったからです。それで衆望とカリズマを得た。
 命を賭けた行為が、リーダーがフォロアーたちと運命をともにする覚悟があることの簡単な証明になっていたでしょう。
 権力者が国民と最後まで運命をともにすると思われればこそ、民心も支持した。また、そのような支持をうけている政治指導者には、国家を傾けるような真似もできにくくなった。

 ところが、ただの試験エリートの秀才官僚は、そうはならない。
 もう今や日本の人民は、国家を牛耳っている高級官僚が、最後まで国民と運命をともにするつもりなどサラサラないことに、すっかり勘付いてしまいました。だから、おそらく消費も回復しっこないでしょう。

 せんだって収録をした鼎談で伊藤貫さんにもしつこく尋ねたところですが、「スポイルズ・システム」、「ポリティカル・アポインティー制」の日本への導入が、即刻必要なのです。これは小泉氏にも前原氏にも分かっています。現政権と次期政権の天王山はここなのであると。党人による対官僚の討伐戦が、マスコミ的には目立たないが、粛々と進行中なんじゃないですか。

 普天間問題ではどなたも事実を指摘する勇気がありません。国民と運命をともにする気がある奴が、この問題でも、鮮いのです。

 日本はGNPの3%、つまり世界平均の国防負担をすることに決めれば、そもそも米海兵隊に沖縄に駐留していてもらう必要がありません。米海兵隊が沖縄(または日本国内のどこか)にいるかいないか、で、日本の対支抑止力が致命的に変わることなど、今日ありえない。
 ですから日本政府は米海兵隊には、「今年一杯で出て行ってくれ」「シナと戦争になったら、いつでも適当な基地を貸すぜ」と申し伝えるだけで良いはずです。これを指摘できない理屈は百も二百も挙げ得るだろうが、国民と運命をともにする勇気があるのかどうか、まず己れの胸に問うべきです。

 米国防省の秘めている「リアルな計算」と、米海兵隊がする「公式発言」は、大いに違いがあるでしょう。米国防省は、海兵隊が沖縄におらず、グァムまで退がっていても、日本人と台湾人にシナ人以上のガッツがありさえすれば、シナ人が増長することはないと考えています。
 海兵隊の本音は、資産防衛です。既得の沖縄基地と「思いやり予算」は、彼らの長年親しんだ権益になってしまい、いまさら手放せないのです。なんだかんだと戦略的な理由をこねあげますが、それはすべて仮定の上の仮定にすぎず、核武装など、日本人の意志力によって前提が覆るものばかりでしょう。それにあえて論駁せぬのは、やはり日本側の担当者に、日本国民と運命をともにする気がないのです。

 辺野古の海には、台風時には波高15mの破壊力が押し寄せますので、沖にヤワな構造を浮かべただけでは1年で壊れてしまうといいます。防波堤が必要なのです。
 しかし、どうせ恒久設備ではないと考えれば、防波堤もまたメガフロートとし、浮体滑走路本体も、連年修理を行なうという方式でスタートさせることができたはずでしょう。
 そうすれば、ハシモト政権が簡単に考えた普天間基地の廃止そのものは、とっくに終わっていた話です。

 メガフロが選択されなかった理由は二つあると疑われるでしょう。ひとつは施設庁の上層が、われわれが想像するとおりに、土建利権にすっかりからめとられていて、地元土建業者が参入できないメガフロを排除する必要があった。日本の鉄鋼産業の政治献金力などは土建屋にはまったく敵わないということでしょう。簡単に数億のキックバックが捻出できるほどに、日本の公共土建はムダだらけなのです。
 もうひとつの理由ですけれども、普天間基地に私有地を貸すことで毎年何百万円も国から貰い続けられる基地地主たちの意向がありましょう。普天間滑走路の地下は石灰岩質で空洞(鍾乳洞)が無数にある。すぐにリゾートホテルなんか建てられない土地ですので、返還と決まれば、大損なわけです。
 ちなみに沖縄の個人所有の基地用地は、いまや「債券」化しております。堂々と売り買いされている。ゼロ金利時代には、沖縄の基地用地は、金の卵を産み続けるニワトリですよね。なにしろ文字通り、労せずして、防衛庁から毎年数百万円が振り込まれ続けるのですから。
 沖縄の商売人にとり、一生かかって用意した資金で最後には基地用地を買い求めて、それで隠居するというのが、理想とするフィナンシャル・プラニングだそうです。
 ただし基地用地の値段は、基地が返還されるという話が出るだけで変動します。返還後にすぐにリゾート開発ができれば良いですが、そうならない場合は、どうなるか。現在は、嘉手納の基地用地の売値がいちばん高く、普天間はたいへん下落しました。
 あるいは、沖縄で死んだ堀江氏の側近も、こんな基地用地の話に興味をもったのではないだろうかと、ふと思いました。嘉手納クラスの軍用地であれば、これは株よりも確実でしょうからね。

 海兵隊は「有事の航空基地使用」の便宜供与の約束だけを日本政府からとりつけたら、もう黙って沖縄からグァムに全部隊を引き上げるべきなのですけれども、その「そもそも論」を措いたとしましても、あきらかに筋の通らない話があるんです。
 すなわち、いったん地元と同意した、「辺野古の沖合い埋め立て案」が、ごく少人数の反日活動家に妨害されただけで、ボーリング調査を全面的に不可能にさせられ、そのまま、あっさりと計画そのものがご破算にされてしまったことです。これに米軍が不信感を抱くのは当たり前ですね。そして日本政府もこんなマネを前例化させたりしたら、それこそ大禍根になるでしょう。

 その「妨害」というのは具体的には、舟から人(本土から来ている共産主義者)が、調査しようとしている水中に飛び込むわけです。この水中に飛び込んだ中共の手先をうまく排除する方法(またはやる気)が、海保や水上警察にはないらしい。「巡視船や警備艇のスクリューでまきこんでミンチにしてしまったらマスコミがうるさかろう。それは厄介だ」という理由で、排除を試みないのです。
 こんな理由で犯罪人の不逮捕が罷り通るなら、日本は法治国家じゃなくなりますよ。
 まず海保はなぜ水中逮捕術を有しないのか? シナのフロッグマンが大挙して離島やオイルリグにおしよせてきたらどうするつもりなのだ?
 スクリューのない警備艇だって簡単にできるでしょう。櫓で漕げって言うんですよ。
 もうこれは地元警察または政府機関の構造的または組織的怠慢なんですよ。「政府の責任」「公に為した約言」が果たされていないわけです。とてもじゃないが、本件では政府側の弁護はできない。米軍が怒るのがあたりまえです。

 辺野古岬の北隣の大浦湾には軍港はできそうもないですね。水深40mは立派ですが、そこに入るまでにリーフがあります(平島、長島を結んだ線の延長上)。このリーフの一部を深々と爆破して除去しませんと、喫水の深い船(高速双胴船など)は辺野古岬の北岸に接岸できないのです。

 ジュゴンの藻場などどうでも良い話です。シナ人が沖縄を支配すれば、ジュゴンはぜんぶ喰われてしまいます。

 げんざいの沖縄の就職先人気No.1は米軍基地従業員です。その従業員がなんと米軍基地反対デモにも参加しているそうです。戦後の日本政治の欺瞞は、沖縄には露骨に健在です。

重投のお詫びのしるしに沖縄遍路してきますた。ヨカッタヨー

 あ、ありのまま、三日前に起こった奇跡を話すぜッ……。花粉症が治っちまったんだッ!

 オレは昭和59年4月に横浜で突然、花粉症になったッ。古い木賃アパートの新しいタタミ6畳に、わざわざダニ殺しのスプレー薬剤を1缶ぶちまけちまッたのが、思えばそのきっかけだッたに違ぇねえッ。
 いらい「ストナリニ」という抑制剤なしでは関東の2月~5月は過ごせなくなったッ。
 ひどいときなどはッ1日1錠が基本のこの薬をッ1日に2錠飲んでもッ、夜は鼻づまりとクシャミで熟睡できずッ、昼は副作用で朦朧状態ッ。花粉が消えるとッこんどは7月~9月の夏の暑さッ。オレが北海道を気に入ってる理由がッ分かるだろうッ。

 聞いてくれッ。いま女房の奴は、擬似ヒっキー状態で仕事をしているオレの三食をッ完全にコントロールしてやがるんだッ。「母乳に良い」とかの妙な信仰に嵌まッてッ、晩飯はいつも魚……まあ、嫌いじゃないからそれは良いんだがッ、驚くじゃないかッ、そんな生活が半年続いた結果ッ。1~2年前に生涯ピークの73kgまで増えていたオレの体重はッ、1週間前に計ッたらなんと61kgに落ちていたんだッ。二十歳台でッ自衛隊に入る前の体重にッ戻ッてたことになるぜッこれはッ。ちなみに除隊時の体重は64kgぐらいと記憶するッ。身長は170で変わりはしねえッ。

 み、三日前ッ、オレは上京したッ。するとどうだッ、ちっとも鼻水が出て来ないんだッ。くしゃみが三回くらい出ただけだったッ。
 昨夕は杉の木が無い那覇からU-4(あの堀江にいちゃんの自家用ジェット機の自衛隊版だぜッ)で強風の入間に戻ッたがッ、やッぱり花粉症の症状はあらわれなかッたッ。そこから夜行列車で北上する間もッ何でもなかッたッ。
 つまりッ、オレの約20年来の花粉症はッ全くとつぜんにッ治ッちまッたらしいんだッ。去年までは「ストナリニ」は春の上京時の必備品だッたんだがッ。

 総合的に推理するとッ、こういうことなんだろうぜッ。花粉症の発症や沈静にはッ、排気ガス環境やストレスなどのッ複数の原因要素が考えられるもののッ、筆頭要因として作用している決定的なファクターはッ、やはり食い物(それには酒も含むッ)の量と質がッ現時点での本人の生活にッ「マッチ」したものかどうかッ、その「バランス」なんだと言えるんじゃねえかッ。

 ちなみにオレはッ、家の中ではアルコール抜きの生活に切り替えてッ、もう1年半近くになッているッ。

 花粉症は一度罹ッたら一生不治の病かと思ッていたがッ、そうじゃなかッたッ。同病の諸君の為にッここで証言しておくぜッ。

テスト

 ファイアーフォックスのツール>オプション>プライバシー機能で、なんでもかんでもoffにしちまうと、このエントリー欄を開くことすらできなくなることに気付きますた。
 重投となりましてお詫びします。

官僚組織は反撃の両翼を延伸して政治家個人の隙を衝く

 総務省(旧郵政省)と特殊法人NHKがリストラ廃業圧力の風をはねかえそうとして、海外宣伝放送を税金を使ってやろう、なんて画策しています。
 そもそも「説明責任」の文化がない日本の役人に「対外宣伝」などはぜったいに無理ですし、高級官僚とNHKは反皇室主義者たちなのですから、これを許したら日本人の税金による日本国の破滅がいっそう加速されるだけでしょう。

 かつて外務省の駐米大使がアイリス・チャンとの公開TV対決でやった「弁護」は、なんと南京大虐殺を事実として認めることでした。
 もし役人に対外宣伝をプロデュースなどさせれば、日本の立場は逆に必ず悪くなるのは目に見えているのです。
 役人に宣伝センスはありません。そしてそれ以前に、自国の歴史を知りません。

 自分より頭の悪い国民と運命をともにする気がないのが、試験エリートの高級官僚の本質です。だから祖国を弁護する熱意もないんです。自身の弁護だけできりゃいい。
 彼らの頭の中にあるのは、いかにして愚民の税金を使って自家の権勢と終身福利を楽に安泰に確保するか、それだけでしょう。

 フランスのアンテヌ2や英国BBCは、とっくにインターネットで複数のニュースを世界中に提供しています。これを視る人は、なにもフランスや英国の文化が知りたいわけじゃない。中学生が深夜に短波ラジオにかじりついてべリカードを集めていたような、もうそんな時代じゃないですよ。

 NHKもTV第一でオンエアした首都圏版の国内報道クリップをそのまま音声だけバイリンガル化してネットキャストすれば、げんざいの予算内で完全にやりくりできます。NHKという時代錯誤の特殊法人にこれ以上、勝手な事業をさせてはいけません。

 並木書房の新刊の『日本刀真剣斬り』につきまして宮崎正弘先生のご高批をいただいたとは望外の光栄です。じつはわたくしも、昨日やっと原作シナリオを書き上げました劇画『2008年 日中開戦!!』(夏までに刊行される)の構想では、宮崎先生のメルマガおよび最新のご著作から得たイメージを活用しました。まあ多分わたくしは一生シナには観光旅行はしないでしょう(故・江藤淳も、絶対にあそこには赴かぬと人に語っておられた)。今後も、現地に詳しい方々の文章によってわたくしはシナのイメージを掴むしかありません。でも、かつてとは違って、今はリアルなリポートをしてくださる方々が多いのが助かりますよ。

 『日本刀真剣斬り』の企画人ならびにインタビュアーとしてのわたくしの大きな興味の一つは、昭和40年代末から50年代にかけての、初期の戸山流道場の実態についてでした。特に、中村泰三郎氏についてお聞きしておきたかったわけです。
 そもそも籏谷師は27歳のときに仙台から上京されて戸山流振興会に入門されたそうですが、それは中村氏の道場ではなく、小板橋道場だったという。
 この小板橋氏と戸山学校との関わりが、結局わからない。小板橋氏は戦時中は将校で剣道人だったそうです。そして戦後に自衛隊に入り、定年後に大和市で日本飛行機の寮長をしつつ、剣道を教えていらした。それしかわかりません。

 で、その時代の雰囲気なんですが、当時は少年の間にかなり「スポーツ剣道」が流行っていたんですよ。(誰か剣道マンガの出版史を書いてくれ!)

 ただし、まだ日本は高度成長期の途中段階でしたから、剣道家にだって経済的な余裕がない。「武道具屋(刀屋含む)」も、その剣道家に劣らず、暮らしがたいへんだった。
 それで、剣道家の中には、武道具屋を「食わせてやっている」という態度が出る人がいた。中村氏はそういうタイプであったようです。
 武道とは別に正業を持っていれば、武道を純粋に追求できるのかというと、そうでもないでしょうね。正業があるから逆に貪欲になるんだという場合だって、とうぜんあるはずですね。中村氏の本業は不動産業だったそうですけども。

 当時、段位を1段につき1万円で売る(5万円だせば道場生でない町の親父に対してでも5段の免状をいきなり与える)といった乱暴な剣道商売が、日本にはじっさいにあったようです。今はインターネットと自由な掲示板のおかげで、マーケットに「良い道場」と「悪い道場」の情報がよく供給されますから、利用者のニーズに合った選択が昔よりは容易でしょうね。

 今回は本に載せなかった実験もいろいろとしています。そのうち「絵」にならない実験写真は割愛しました。そこで有益な知見も得られていますので、おいおいどこかで語ろうと思います。たとえば日本刀を皮膚に接触させた状態から、片手のみで前方に「押し切り」をした場合の威力ですが、そこが皮下の動脈のあるところでない限り、とても重傷は与えられぬようだという印象をうけました。これは追試をしたいですね。
 慶長期の初期柳生流には、敵の腕の内側の動脈を両手持ちで押し切りにする形はあったと見ていいだろうと思います。そして『五輪書』にその形が出てこないのは、片手押し切りの実戦性がほとんどないためだと、いまは考えたいと思います。

 江戸城内での刃傷の目的(=敵の命を奪う)の達成例は、斬った場合は大概失敗で、刺したものが圧倒的に成功しているようです。
 としますれば、もし刺すことだけを考えたならば、脇差などを抜いて用いるよりは、匕首を密かに懐中しておいて奇襲した方が合理的ですよね。しかし、当時の武士はそれをしなかった。
 これはなぜかと考えますと、武士には、武士の道具を扱う腕前を世間に誇りたいという名誉心があった。匕首で刺したのでは、その評価がゼロだと思われたのでしょう。
 幕末の京都での下級武士同士の暗殺。これも匕首などは使われていません。やはり、足軽や浪人であっても、武士としての刀術の腕前を世間に誇りたかったのでしょう。

 昭和28年刊の塚本清著『あゝ皇軍最後の日』(陸軍大将田中静壹伝)に、大正11年頃の奥元帥の逸話が紹介されています。奥元帥は、夜は必ず小太刀を枕元においていた。そして夏の蚊帳の裾には紐をつけ、その端を手元に置いて寝た。もし賊が忍び入って蚊帳の吊り手を切り落としても、蚊帳にからめとられることなく、脱出ができる用心だったといいます。
 それと、本書には、今村均の興味深い証言もあります。1918~19にかけ、経費節約のため、東京から欧州の武官にあてる電報は、すべてロンドンへ打ち、ロンドンから転電することにしていた。そのさい、暗号を一回翻訳し、また組み立てなおしていた、というのです。
 元・野外暗号モールス通信員として断言しますが、これをやったらどんな暗号でも、傍聴国(英国)の数学者チームによって解読されてしまいますよ。時間はかかりますけどね。
 背景について解説しますと、ドイツの支配する海底電信ケーブルは英海軍によって開戦直後にワールドワイドで切断されていて、ドイツと海外とのリアルタイム通信は無線しか使えなくなっていたのです。そしておそらく英国は、外国(特に日本のような電気通信後進国)の通信情報を効率的に傍聴する目的で、自国が支配する海底電信ネットの利用価格を敢えて吊り上げずにいたのではないか。エシュロンの前駆形態はもうワシントン会議の以前から、ヤードリーの以前からあったのです。「エシュロンはおいしいぞ」と英国人に知らせたのは、じつはマヌケな日本の陸軍省であった。
 この時期の日本の武官電文や武官暗号のクセを英国は承知した。その知的資産は、昭和期の日本の暗号解読にも大いに役立てられているはずです。

 無限特乱いがいの暗号は、理論的に、いつかは必ず解読され得ます。問題は、解読資源(人と時間)は有限だということです。戦前はスーパーコンピュータがなく、数の限られた数学者チームが、たいへんな時間をかけて一通の暗号電文を解読せねばならなかった。だから、解読作業の前に、数ある傍受電報のなかから、まずどの電文を優先的に解読するかの第一段階の判断を、スーパーヴァイザーが想像力と経験によって下さねばならない。無駄な雑事務の電報やりとりなどに貴重な解読資源を浪費してしまい、もっと重大な国益にかかわる電報をスルーするようなことをしていてはしょうがないからです。
 軍事作戦電報は、それを解読した時点で、もう命令が実行されてしまっている場合が多い。解読が徒労におわることが多いものですから、しばしば外交電報よりは後回しです。
 有名なコベントリー空襲の成功も、英国が肝心の作戦命令の暗号解読をたまたま後回しとしていた結果、間に合わなかった、という可能性があるのではないでしょうか。そして表向きは「事前に知っていたがわざと対策をとらなかった」とフカしているのかもしれませんね。

 しかし外交系の電報は、時間をかけて解読する価値がある。長期的に、無駄にならないのです。

『日本刀真剣斬り』の小見出し大全

●日本人はいつから真剣が使えなくなったか
●「条約改正運動」の悲願
●真剣で人を斬り殺すことの難しさ~~大津事件
●相沢三郎中佐の失敗
●戸山学校は軍刀術をどう変えたのか
●軍刀の製作指導がなっていなかった
●目釘の大事について
●旧軍はシナ軍の「流派」を研究していたか?
●戸山学校の剣術が「最先端」だったことはない
●三島事件について
●平安時代の騎馬戦術について
●源平時代の合戦と日本刀
●近世における日本刀
●新撰組と刀剣
●鎧と鎧の重さ
●剣術のトレーニング法について
●弓箭および保呂について
●保呂とはいったい何だったのか?
●小太刀の機能について
●鞘について
●小柄[こづか]は手裏剣ではない
●戦場での刀剣手入れについて
●自傷の危険について
●対騎兵の戦技と馬面について
●馬術訓練について
●『寛永三馬術』について
●宇治川の梶原景季について
●鞍の素材について
●側対歩について
●介者は左右が逆?
●鞭について
●馬の繁殖について
●馬の戦略機動について
●いわゆる正宗論争と時代背景について
●鎌倉刀について
●刀の研磨について
●刀の製造について
●刃紋を見て鑑定できるか
●最長の刀について
●長柄の武器について
●洋鋼の長所について
●銘および文様について
●樋[ひ]について
●古代の日本刀について
●青銅剣の意外なメリット
●「丸」と「号」について
●石井昌国氏について
●武道教育について
●研ぎ職について
●血の処理について
●フィジカル・トレーニングについて
●礼について
●TV時代劇について
●演武での「一本差し」はやめるべきである
●真剣に対する者の最低のたしなみについて
●下げ緒について
●真剣斬りをたしなむ人口について
●「戸山流」に謎の多い理由
●複数の戸山流の団体について
●目貫について
●田辺哲人氏の達人ぶりについて
●最後の古武士・奥澤圓師
●居合いの形だとどこまで斬れるものか
●乾いた竹を直角に斬ることはできない?

張学良は耳が不自由な人だったのか?

 引越し直後で郵便・宅配便ともに混乱しておりましたが、ようやく『諸君!』が届きまして、あらまし目を通すことができました。(しかし『文藝春秋』本誌と『中央公論』はまだ届かん! 住所変更しとくれよ~~)

 中西輝政先生は『諸君!』でも「張作霖を殺ったのはソ連の工作員だ!」と、フィーバー is high 状態ですた。
 先生、そろそろ Calm down してくださいましよ。

 戦前のシナ人が虚実の情報(他人のも、自分のも)をハンドルしていたノリについては、夏文運『黄塵万丈』(S42年刊)という本などが参考になります。

 確かに言えますことは、自分の実父や実母を殺した真犯人について死ぬまで誤解しているシナ人の大物なんてあり得ません。必ず真実の「風聞」は、まあ遅くも2年以内に関係者には達するでしょう。それがシナの情報環境じゃないですか?
 (とうぜん、1937南京屠殺の場合は、ウソと知りつつ、わめいているだけです。)

 また今回感心したのは月刊『正論』誌上で藤岡信勝先生が、某重大事件ソ連工作説などは信じ難いというニュアンスの公正なコメントをつけていらしたことで、疑わしいポイントが適確に指摘されている。この御方は冷静ですわ。

 それともう一つ、雑誌と関係なくて偶然に見直しましたのが、故・司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』の中で、日本の文化のコアに南洋文化があることにつき、褌[ふんどし]を例として解説していたことです。さすがは大先生だけあるぜよ。

 ガセ(この語源は gossip)に舞い上がって大コケしてしまう人間の心理を考えてみますと、やはり「特別扱いされた」ことに、人は防禦壁を崩されてしまい易いんでしょうなぁ。
 「この情報は先生に最初にお知らせするものですが……」なんて言われると、「よし、この特種紹介でオレは名をあげられるぞっ」と計算してしまう。もうあとは冷静ではいられません。欲心から期待がどんどん先走っちゃって。

 政治家さんも同じでしょ? 小泉氏は皇室典範改変騒ぎでは、どうも旧厚生省の役人に操縦・使嗾されたのではないかと『諸君!』で秦郁彦先生が示唆しておられた。これもあり得そうな話だなと感じ入りました。
 「先生に最初にお知らせ」という、ご注進・ご進講のカンケイを濃厚に構築していた役人たちだったら、首相となった元厚相(元ボス)に、何を吹き込むこともできるに違いない。政治家は彼ら下僚を信用することで名を売り出してきたんですからね、ずっと。もう習い性です。

 このように、小泉氏のように選挙で圧勝できる長期政権のリーダーでも、役人には簡単に操縦されてしまうのです。これは、日本の公務員のクビを政治家が勝手に切れないように定めている日本の法律がおかしいためでしょう。この法律は有害です。

 個人は活動期間が有限です。政治家は任期が有限です。組織は無限に存続します。その組織をバックにし、活動期間が無限に保証されている高級役人に、個人の政治家が勝てるわけがない。勝てるのは共産党や公明党のようなシロアリ社会政党だけ。そんなのが勝っても日本人は幸福になれません。

 政権の役職にある政治家は、現役の高級官僚のクビを、いつでも、何の理由でも、即座に切れるように、いますぐ法律を変えねばなりません。またその逆の「ポリティカル・アポインティー」(政治家による高級官僚ポストの政治的任命)も可能でなければならない。
 さもないと「改革」などできない。とんでもない「満州国」ができかかっているんですよ、すでにもう。

 各省庁が独立の主権国家のように手柄と権益を競い合い、高級官僚が日本国の富を食いつぶす。諸外国とも、省庁単位で、勝手に連絡をとり合う。試験エリートの役人たちは、頭のよくない国民と運命をともにする気はさらさらないので、国家指導部に、求心力・カリスマはゼロ。したがって、草の根からの国防力はゼロ。これが「満州国化」です。

 選挙で選んだ政治家が狂った政治を進めて国民がひどい目に遭うというのなら、これは自業自得で納得するしかないのです。
 しかし選挙で選ばれておらず、政治家が自由に任免もできない秀才官僚が、政治家を(個人の寿命を超えて永続する)組織力を梃子にして操縦して、祖国をあの満州国のような自滅に誘導することを、どうして国民は許せるんですか?

 この正当な怒りを言語化するのは評論家の仕事だと兵頭は思いますが、日本の役人のすごいところは、会社員の新聞記者や、自由業のコラムニスト/コメンテイターにまで「この情報は先生にだけお知らせするんですが……」の工作を仕掛けて、籠絡してしまうことです。
 巷間の著名批評家たちの小泉ヨイショ(皇室典範は改正してしまえ等)も、小泉タタキ(郵政改革は悪しきネオリベだ等)も、どちらも役人発の耳打ち工作を、確かな全局的な証拠資料を入手した(あるいは、乃公のみが理解・把握できた)ものと早計にも信じ込み、気負いこんで、踊らされてるだけでしょう。あきれたものです。

 しかし希望の光はある。『諸君!』に載っていた、若い大学の先生の文章には感心しました。(わたくしはすぐに本を捨ててしまうので、なんという人であるか、思い出せないのが恐縮です。)目次的には扱いが後ろの方でしたけども、巻頭近くのコンテンツより数等善い。一読して晴れ晴れしい気持ちになりました。雑誌編集部の判断力までは曇ってはいないのだな、と、お見受けします。

みにみににゅーすぅ

 雉だ! 雉が3羽!
 窓を開けると目の前は、護岸いっさいナシのワイルドな川です。道路はウチの前までで行き止まり(直進すればそのまま谷に突入する)。どこか遠くの温泉旅館のような風情です。よ~し、パパ、こんどは釣りにチャレンジしちゃうぞー。
 その対岸には小学校のグラウンドが遠く見えるのですが、その手前がずっと「荒野」。まだ雪が数十センチ積もっているその荒野を茶色の羽毛の雉のような体形の鳥が悠々と歩いているのでした。遠景には道南の低山がロッキー山脈のように望まれる。
 ところがこの温泉旅館みたいな貸家から歩いて15分ほどで、「産業道路」と称されます、郊外型店舗が軒を連ねた4車線バイパスに出ます。ありがたいことに書店もあるではないか。
 さっそく部屋に大きな市街地図を貼ろうとしたら女房が、「今後はそういうのは禁止」との厳命です。この借家は築三十年近いのですが、リフォーム直後で新築のようにも見えますので、大いに元気になりまくりやがり、もうインテリアなどに凝り始めている。どこが「元修道女」じゃ! 質素実用を本旨とした俺様のいままでのライフスタイルが間違いかよ? 「その地図には一年間我慢してきたがもうダメ」だと? わかりましたよ。じぶんの仕事部屋に貼りますよ。

  並木書房からわたくしの新刊。『陸軍戸山[とやま]流で検証する 日本刀真剣斬り』(だったかな、タイトルは?)が出ました。7日から10日にかけて各地の書店に並ぶだろうと思います。籏谷先生との共著です。軍刀や殺陣を研究する人が一度は目を通さねばならない資料になると自負しております。
 それとビックリしたんですが、並木書房で小松直之さんのマンガの企画が進行してたんですねえ。新刊の折込広告をどうぞごらんになってください。

 小生の『2008年 日中開戦!!』は、倉橋さんという、信州にご在住の作画家さんとコンビでやることに本決まりですわ。いやぁ、サン出版のコーディネイト能力を見直しましたよ。

 あと、旧称「史料英訳会」があらたまりました、ホワイトプロパガンダの非ボランティア・スキームの方ですけども、サイトも改築されました。 今後はhttp://hassin.sejp.net/ に、アクセスをおねがい申し上げます。