TOP PAGE


« 2006年03月 | メイン | 2006年05月 »

摘録とコメント。

▼永田実『ルーブル』
 ソ連の工業製品が輸出に占める割合は3~4%だが日本は軽工業含めて97~98%である。
 1979ソ連はチタンの輸出をとつぜん停止した。クロム、プラチナ、マンガンなどの国内蓄積を進めている節がある。
 ソ連は欧州市場の軽油の60%を供給。

 アジア・ドル市場はヨーロッパに比べ規模が小さいので操作しやすい。ソ連はまず大量のドル売りに出、相場を押し下げたところで買い戻して利ザヤを稼ぐ(p.71)。
 ルーブルの発券量が公表されることはない。

 米『タイム』誌85-6-17号によると、ソ連AWACSは米スペースシャトル初期モデルに似ていると。
 ソ連東欧は技術文書に関しては公開主義で、西側へのライセンス輸出を欲しているが、翻訳困難であまり利用されていない。
 85-6の米議会公聴会で米海軍は海外では最大規模の諜報員64人を日本に置いていることを明かす。
 70's以降、貿易政策上に国務省よりペンタゴンの発言力が強まる。

 ソ連の対西欧ガスパイプが止まってもノルウェーがある。
 1963の不作はフルシチョフの大処女地開拓計画の失敗で土地が荒れ旱魃にみまわれたため。ハードカレンシーないのでgold売却につながり失脚。米豪加アルゼンチンから小麦買い付けの始まり。

 ソ連は81年から穀物の生産実績を発表しなくなった。※70'sにソの大量買付けでアメリカ飼料が値上がりし市場混乱が続いたので偵察衛星で作況を調べるようになった。
 ソ連では魚料理の数は限定される。すずきの一種、ちょうざめ、こい、ふなしか食べない。さば、いか、くじらの食べ方をテレビで指導したが無駄だった。

 ソ連の外貨準備は金準備ともどもスターリン以来非公開。
 ソ連では石油生産&輸出の方が小麦生産より「比較優位」。百万トンの小麦を輸入し、その生産コストを石油業にふりむけると、7億ドルの輸出収益に。

 ソ連は石油採掘と併行して新油田の探鉱をしなかった。しかも西シベリアでは機械採油ではなく自噴に頼っていた(p.42)。
 ソ連は沖合い油田は未経験である。
 ソ連は貨物輸出の半分を鉄道に頼る、世界一の鉄道王国。

 圧延鋼材の鉄鋼製品全体に対する比率。1981においてソ連69%、米74%、日本87%也。日本では絶滅した平炉鋼がソは1980で28%もある。このため径100ミリ超の鋼管は輸入しなければならないのである。
 アエロフロートの機長が千葉のスーパーで日用品を万引きして捕まった。
 終戦直後のソ連原油生産は2500万トン。84年は61500万トン。

▼西村文夫『ゴルバチョフ』
 レーガン再選の見通しが明確になるとソ連は米からの提案で顔を立ててもらって宇宙軍縮の話し合いに乗り出す決心をした。9-6のオガルコフ解任はその露払いだった(p.202)。
 60's末~70'sはじめ、クバン地方の収穫さがったのは「キーロヴェツ」トラクターが重すぎて土壌を過圧縮してしまうしてしまったから。空隙つぶれ浸透保水なくなり立ち枯れ。
 ゴルビーはより軽いトラクターを別な工場でつくらせようとしたが戦車&トラクター工場を利権とする軍に阻まれた。

▼モルデハイ・アビール『中東に伸びるソ連戦略』1977
 WWⅠまでロシアは米に次ぐ石油生産国。
 WWII後、コーカサス油田が枯れかけたときに、ボルガとウラルの中間で第二バクーが発見され、1960には総生産の7割に。

 ソ連油田が僻地に移るにつれて採掘は困難を増し、それがソ連をして国際原油価格の値上がりを歓迎させる。
 石油収入はソ連の外貨獲得の第一位。

 シベリアの石油をヨーロッパ・ロシアに運ぶためには精油と同じくらいコストがかかるため、ボルガ・ウラル石油に比べるとその価格は2倍になる。
 チェコの対ソ石油依存度は99%である。

 ロシアは19世紀末、鉄道をバンダルアッバスからアラビア海東岸まで延長する予定だった。
 味方でない者は敵=ドグマ的態度。敵でない者は味方=実用主義的態度。
 1959の米英のレバノン・ヨルダン介入では、ソ連はスエズに続いてふたたび脅しをかけはしたが、領内南部で軍事演習するにとどまった。

 1962の米の対イラン軍事援助停止と、トルコIRBM撤去は、イランをしてソ連に接近せしむ。天然ガス輸出協定。
 また1966-7にイラン・ソ連兵器供給協定。
 1973-10にイランは石油危機に便乗して対ソガスを値上げ。ソ連は値上げの代わりに土地の割譲を提言した(p.146)。

 1974にミグ23とスカッドが大量にイラクに送られた。
 ソ連に支援された南イエメンがサウジと小戦闘。
 米は1978高価格の中東石油を輸入し、アラスカ石油をより低価格で輸出した。
 訳者。CIAリポートによるとソ連の汲み上げ技術は米の50'sのものであり、水攻法も含水率44%になってしまっていると。

▼旅順図書館 ed.『日露戦後三十周年記念 在旅順同役参加者座談会誌』第一回~第三回(S10-12、S11-11、S14-5 pub.)

 36連隊長は二龍山からの47ミリ砲に腹部を直撃され、後送後に死亡。
 とうじ「予備」はなく、現役→後備→国民軍。日清で現役だった者は日露では国民軍だった。
 日清戦当時、一門の大砲を撃つには上等兵が三名と馭者3名は古い者でなければならぬ。他3名はシロートでよい。

 日清では後備の騎兵がスペンサーカービン。また歩兵の後備はスナイドル。10~15発うつと新品でも遊底開かなくなり、みな腰に木槌をさげてこれで叩く。

 日清では歩兵は近1のみ22年式、近2は単発銃、二連発銃(?)だった。
 日露では後備歩は18年式。
 この銃の話をしている第三軍弾薬中間廠附砲兵一等銃工長・駒井春太郎の談。
 M38-8~10月に「遊底覆」を考え、槁本参謀長に認められ、1個大隊分つくって送ったと。
 輜重車は、36式2輪輜重車→38式→39式→自動(貨)車。

 蝿取り紙は、カナダ製?
 日本の発明ではなかった。タングルフートとか言った。
 日本兵のPOWは帰ってきたとき、やはり申し訳なさそうにしていた(第一回)。

 焼夷弾という言葉はなく、延焼弾と言った(第二回)。
 支那馬車は輪の接地幅が広い。日本のwheelは幅が狭く、泥に沈む。

 素焼きの丼を「ごろ八茶碗」と言った。
 ロシアのコンクリートに鉄筋は無かった。
 鉄条網は3000ボルト通じていた。

▼吉田璋也『有輪担架』S15-3
 キャンバス木骨担架の下に自転車のタイヤが一輪ついている。これを装備した隊があった。

▼毎日新聞社 ed.『海鷲隊長の手記』S19-11
 十数人へのインタビュー。
 ボルネオでは死体を一丈の大トカゲが食っている。
 S17-5-7に小型空母喪失の報を知るや「断じて報復せん」と全員の敵愾心は熱湯のやうにたぎりたつた。

 ビヤ樽に洗濯板を突きさした奴=F-4F
 ミッドウェー参加の零戦隊長浅間大尉いわく、敵の搭乗員の顔をみたことはない。赤いか青いか、帽にメガネで分かるわけがない。白いマフラーをはっきりみたことはある。

▼エルンスト・ウーデット『戦乱の翼──大戦勃発から終局まで』坂部護郎 tr.S12-8
 2人乗りボマーで部品欠陥のためスイスに不時着。ウーデットは上等兵だった。スイス人は親独だった。

 「今は敵のプロペラーの廻転によつて起る風を感じる位に近づいた」
 20mまで近づくと、敵のプロペラ風を感じる。そこから撃つと12発でおとせる。
 航空兵は曹長から無試験で少尉に昇進す。

 両手でMGを叩くと直ることがある。ギュヌメールが後ろからそれを見てこの機の状態を悟る。そして両手で「あばよ」と合図して去っていった。
 ※両手で、の意味は、どちらの手も引き金から放したよ、ということか。

 リヒトホーヘンは騎兵大尉男爵でウーデットと会った日に68機撃墜しており「西部戦線の赤鷲」とか「紅の男爵」と云われていた。
 リヒトホーヘンは10mで射っていた。

 リヒトホーヘンは編隊中で臆病な行動をとった者は即日、追放した。
 長靴を履いたままでは大便はできぬ。
 すれ違いざまヒマシ油の匂い。
 まわりで火を燃やすとガス対策になる。
 末期はフォッカーD VII、階級は中尉。同じ中尉のゲーリングが最後の着任上官。
 ウーデットは戦間期をいかに飛行機屋として過ごしたか。

▼滝口乙三郎『青嶋占領紀念写真帖』大4-5
 騎銃(30/38)の一斉対空射。珍。
 38式15榴のクリアな写真。
 占領当時イルチス砲台上の写真。間違いなく38式歩兵銃。※つまり初陣でドイツ軍に勝った小銃なのだ。

 独のソリ付き重機。
 分捕せる敵の野砲。15榴くらい。
 破壊されたビスマーク砲台の28cm砲。
 独野砲は38式野砲に酷似。

▼『スターリン全集 第一巻』大月書店、1952
 日露戦争中のアジ:「カフカーズの労仂者よ、復讐するときがきた!」

 「どうだろう、同志諸君。専制政治は、われわれにむちのうなりや弾丸の音をわすれてくれ、何百人のころされた英雄の同志を、われわれのまわりをただよって『復讐しろ』とわれわれにささやく彼らの栄誉あるまぼろしを、わすれてくれとたのんでいるのだ!」

 「復讐するときがきた! ヤロスラヴリ、ドムブロヴォ、……グーリア、バクーその他の場所でツァーリのバシブズーク兵にむごたらしくころされた栄誉ある同志の復讐をするときがきた!」
 「復讐するときがきたのだ!」
 以上、1905-1-8印刷の宣言文。

▼ジョージ・Marion『基地と帝国』新山健 tr.1954、原1948
 第五艦隊司令長官、レイモンド・A・スプルーアンス大将は、沖縄に戦後も基地をもつのは「防衛」に合致しない、と。

 デンマークはグリーンランドから米国人を追い出すことができず、逆に原住民100人を疎開させた。
 グリーンランド撤退を米が拒否したことは1946~47のデンマーク内ではげしい議論をよんだ。

 1985に米の銀行、鉄道会社は、ロシアに100%米資の「満鉄」をシベリア鉄道に連結させろと要求した(p.113)。
 これを断って1896、ロシアは東新鉄道の権利を得た。
 1916にはWWⅠに乗じでシナの通信界を支配できる取り引き。他の計画、特に鉄道は、欧州が日本をあとおしして潰させた。

▼片倉藤次郎『英米の空爆原理』S18-11
 この版元・アジア青年社に、『獄中獄外』/児玉誉士夫あり。

 「我々は敵国アメリカが先月(四月)迄に既に十一隻の航空母艦を進水せしめ更に五月下旬に新に一隻を進水せしめた事、そして其上に尚ほ六十隻の航空母艦の建造中であると告げられる」(p.5)。

 また4月15日に首相官邸で開かれた地方長官会議で陸軍は「最近米国の与論、その戦備進捗の現況に鑑みるとき帝国本土に対する敵の空襲はこれが実現必至と予想せらる」と。

 彼等は本年度末には12万5000の飛行機を有するに至ると我等は告げらる。
 アリューシャンの飛行場は9月末~初夏は濃霧で使えぬ。

 英の対独空襲は1939-9-4のウィルヘルムスハーフェン及びブルンスビュッテル等の要港に対するのが最初。
 前日には偵察飛行とリーフレット撒き。
 9-24にフリードリヒスハーフェンのエンジン工場を英仏が爆撃。

 対人民爆撃は1940-1-12のシルト島ウエスヨーラントに対するのが最初。
 1940-5-10~12、フライブルク市初空襲。
 5-21~22、ボン、アーヘン初空襲。

 独の対英爆撃は1939-9-29のヘリゴランド湾、10-16のスコットランドのフオラ湾が早く、40-6-20夜に至りようやく陸上都市を爆撃。

 これに対し英はベルリン住宅地を8回爆撃。
 独は遂に1940-9-6~7にロンドン大空襲。

 1907の陸戦法規。第25条。如何なる手段に依るも無防備の都市、村落、住宅又は建物の攻撃または砲撃は禁ず。

 海戦規約の第1条にも、無防備の港、都市、村落、住宅又は建物の砲撃は禁止せらる。 ともに英米も調印。

 「この英米の焦土化テロ空爆原理が」(p.38)。
 東京大阪の人口密集度はロンドン、ベルリンをしのぐ。

 WWII緒戦でベルギーは7000余の戦死者を出して降伏したが、その後英米がアントワープを空襲したところ一挙2300人が死んだ。
 ローマ爆撃を米に勧めたのも英。

 1933-5-27、連盟委員総会で米代表ウィルソンは、空襲戦の全廃、空襲の例外なき違法化を唱えた。
 空襲を警察行動と言い張ったのは1934頃の英政府。

▼関根伸一郎『飛行船の時代──ツェッペリンのドイツ』H5
 アルミはバルト海~アルプスまで独国内で自給可能。WWⅠ中、銅など輸入金属の代用材として、ラインラント、バイエルンで量産。

 英は戦前からツェッペリンを警戒し、チャーチルは1913に、英も建造せよ、と。
 1915-1-20、初の英本土爆撃がL3とL6で。ウィルヘルム二世は自分の親戚を空爆したくなく、ロンドンは不許可。
 200キロ爆弾を投下。
 1915-6-6、1000キロ爆弾を投下。
 新型のLZ40号(L10号)は、1915-6-4に、100キロ×2、50キロ×20、焼夷弾×90を投下。
 また1915-6-16に2500キロの爆弾を投下。

 1916には夜間空襲に切り替え。1916-9-2~3の16機による爆撃では事前に警告した。463発を投弾。

 ロンドン往復30h、高度6000だからひどく体力を消耗する。航空心理学や航空病の研究が始まる。
 ツェ伯じしん、1914には飛行船より固定翼と考え、ボッシュに巨大飛行艇をつくらせている。
 ブルガリア→東アフリカ補給飛行では、エジプト上空で沙漠の照り返しに乗員が目をやられた。高度1000mを保つ。95h、6757km飛んでたどりつく。
 WWⅠで海軍LZは64機投入、17機喪失。陸軍LZは50機投入、17機被撃墜、9機事故、19機老朽解体。

 1915から3年間に出動した飛行船の英国爆撃ミッションは50回。それによる英人被害は556人。

▼岩田達『戦捷の哲学的基礎知識』S18-11
 日蓮いわく、「夫れ一切世間の中にて國が亡ぶるが大事にて候」「須らく天下国家を祈りて己が一身に及ぶべし」。

 吉川英治「死んだ偉人も国家の現在の宝」「世界の有する財産の中で、最も貴重な財産は人間」(スターリン氏)
 プラトン「正に仮面の平和こそ戦時」
 「我が民は智識なきによりて滅さるべし」(ホセア書 四ノ六)
 フォッシュいわく総力戦下の国家は往時の包囲された都市市民と同じなのだと。
 会津籠城では、鍋、釜、装身具、骨董品、仏具を弾丸にした。「仏法を鉄砲にする会津兵」

 昭和14年までは工作機械用精密軸受けの「国産は絶無」で、総てテイムチンおよびSKF(スウェーデン)の供給に依存し、S15-8、米の工作機械禁輸と、S16-6独ソ戦にせまられて、S16-10にかろうじて国立機械試験所の手による円錐コロの製作法に一成案を得、政府の援助もあって17年初頭以後、ようやく国産精密軸受けの生産を見る(p.217)。

 14、15、16年度の物動計画は、どうなるかも知れない米英の物資を頼りにして樹てられていた。
 多田恵一は大8にボルネオ開発を説いた。田中義一陸相は明石台湾総督に南洋調査費を出させようとしたが、明石中将病没で頓挫。

 シベリア出兵時、陸軍航空本部第二課長であった高橋常吉大佐がS12-9-1に講演したところによれば、シベリア出兵でいっしょに出て行った米英軍は、戦闘そっちのけで石油その他の資源地質調査を行なっていた。それを見、その目的の遠大なるに、却って感服した、と(p.228)。
 仏印には無煙炭あり、日本の電力会社はこの石炭を最も使いたがった。

靖国関係の疑問ある人は『大東亜戦争の謎を解く』を読みましょう

▼内田星美『近代日本の技術と技術政策』1986
 陸軍からの留学は1870=M3桂太郎から始まる。
 初めは組織・作戦を学ばせるためだったが、1879より、砲・工兵関係の技術留学が大宗に。

 日露役直前の1903に工兵課の所管に軽気球が加わった。
 M17にはオーストラリア政府から銃の依託生産を受注。
 三年式重機には「レキザー」銃の長所がとりいれられている?(p.204)

▼フラウイウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』I~III、新見宏・秦剛平 tr.1975~81、原B.C.75~9
 著者は防衛隊長だった。

 破滅の原因は僭主。この僭主よりはローマ軍が寛大だった。
 ギリシャ歴史学は二次史料の羅列だけだ。

 軍勢は……無数のらくだに踏みつぶされてしまった(I巻p.53)。
 安息日でも自衛のためにだけはユダヤ人は戦う。
 麦は夏に収穫されるので、夏こそ掠奪の秋。

 ユダヤ人は体力に於いてギリシャ人にまさっていた(II巻p.11)。
 ローマは中東の平坦地では槍騎兵を主用した。
 命令はすべてラッパ(p.113)。

 ローマ歩兵は両腰に長短2剣を帯びる。
 フェンスには牛の生皮がよい。
 動物には自ら望んで命を絶つものはない。だから自殺は神への冒涜である。よって投降も不名誉ではない。

 アスファルトを船の防水材にしていた。
 城壁の破壊部分を大きくすることは退却をsuggestする(p.69)。
 ローマ兵は鋲を多数打った靴を履いていた。

▼『島崎藤村全集・13』「フランスだより」S31年
 大正5年発表の談話によれば、フランスの新聞はゴシップ載せず、未決犯人は頭文字しか出さない。

 シーメンス事件当時、筆者は仏人から仏製軍艦売り込みに協力するよう迫られた。『ニコニコ』大5-9-1号記事。

 仏人は勲章に執着する。

▼濱口富士雄『射経』S54年
 唐~宋にかけ『○○経』という本が百出する。酒経、香経、筆経……。

 易経の繋辞下に出る弓は未だ丸木弓。これが周礼の考工記弓人になるや、現代とほぼ同じ合成短弓に。
 決・ゆがけは、親指につける象牙の器具。遂・ゆごては、腕を保護する。蒙古式。

 詩経の車攻に、車上射を描写。
 趙王の胡服騎射採用は『戦国策』に載る。
 押し出し射法を難じ、自然な離れを提唱しているところを徂徠が訳し、日置流に採用された。

 解説。日本の弓は耳のうしろまで引く。シナの弓は顎の下まで。
 弓をひきつがえた状態=持満。

 倭寇の頃、和弓はシナ弓より威力があった。南方では膠が解けるので威力が落ちるせい?
 実戦では練習用よりも弱弓を用いる。強いと狙いがつかなくなる(p.72)。

 原始の形では、右手親指のハラと人差し指の第二関節脇で矢を締め付けつつ引く。
 地中海形では、親指と小指を一切使わない。三本指の第一関節で弦をひっかけて引く。
 蒙古形は、曲げた親指で引く。だから親指保護の「ゆがけ」が必要。
 柳は根付きよく、成長も早いので、軍営の周囲に植えられた。よって柳営という。
 シナの騎射は「居鞍」。日本式は「立透[たちすかし](p.164)。

▼筑摩『現代日本思想体系 4 ナショナリズム』1964
 神風連は明治5~9年に進歩派が敬神党を嘲笑せんとしてつけた仇名。
 神風=カミガカリという記号認識は明治初からあった。

 神風連とは、オランダ学万歳派が、新世代の英仏その他派に叛旗をひるがえしたものとも言える。
 M8の神風連は髷は残し、刀は袋に入れて手に提げて外出した。

 熊本城では乱があろうとは察していたが、まさか洋式武器のある城に攻め寄せるとは予期せず。
 このとき、与倉知実中佐邸が襲われ、本人は逃げたが、聯隊旗は奪われた。M9-10-24のこと。※人事総覧をみると与倉はその後将官になっていない。

 保田与重郎は『馭戎概言』を精読すれば思想戦が書いてあると1942に。

 中野正剛は、国家改造計画綱領の中で、金融は統制下に置けと。米では銀行反抗のため行き詰まっている。国有化や半官半民にする必要もないと。
 日本はいまだ……高度精密工業……について先進国に譲るところのものが少なくない(p.323)。

▼G・ダニエル『文明の起源と考古学』1973、原1971
 1950'sまでの成果を収録。
 ジョンソン博士はcivilizationを彼の英語辞書に収録することを拒み、古くから礼儀を意味したcivilityを選んだ。
 都市化は urbanizatin

 E・タイラーの定義だと、野蛮→未開(農耕)→文明(文字)。
 モーガンの区分。火→弓矢→土器→家畜→鉄→表音文字→文明。
 トムセンの三段階。石器→青銅器→鉄器。
 ラボック。Neolithic~Palaeolithic (lith- 石の)

 炭素測定法により、文明はザクロス山麓でなく、最初の農耕民のあらわれた三日月地帯よりももっと南のメソポタミアで生れたと確定。「歴史はシュメールから始まる」。

 創世記11章。人々は東のほうから移動してきて、シヌアルの地=シュメールに平地を見つけ、そこに定住した……。
 アベルとカインは、ステップ沙漠民と灌漑流域農民とを代表。
 旧約のバビロニア人とはカルデア人。ジェネシスのアブラハムはそのウルに住んでいた。
 「カルデアの」は長いあいだ「賢人」を意味した。
 日干しレンガの耐久年は75年。だからテルができる。

 ヒッタイトは象形文字を使用。
 プンジャブには古代車が残り、現用されている。

 マルサスが1798にシナを世界で最も豊かな国と言ったのは当時の西洋のステロタイプに基づく。
 『人口論』から25年でシナ観は地に堕ちた(p.120)。
  ランケ、ゴールドスミス、ヘーゲル、コンドルセは口を揃えてシナを停滞不変の国と呼んだ。

 黄帝は青銅期の直前か。
 シルクロードはB.C.3000には開かれており、仰韶の成立と一致し、それより6000年前からある近東農業をうけついでいるかもしれない(p.127)。

 商期、ほとんどの交通は水路によった。
 ワトソンいわく、商社会は、戦車と弓を主に使う点、青銅器近東都市文明に似ると。

 食料生産革命はエリオット・スミスが言った。
 弩がシナから西に渡ったと主張したのはJ・ニーダム。

▼ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』
 アゼルバイジャンは別名・メディア地峡。イラン山岳防御帯の裂け目であり、肥沃で人口稠密、メディア人からペルシャ人の出発地。

 カスピ沿山地は雨が多い森林で、大食糧供給地方。
 エラム象形文字は、魚を除けば既に漢字とは全く違う。

 ギアン出土の三足土器は、鼎に似る。B.C.2000末。
 B.C.860以前のアッシリアはチャリオットのみで騎兵なし。アッシリア彫刻に国王が戦車で山河を越えるところを描いているのは、それが大苦労だったから(p.78)。
 旧約エレミア:見よ、かれは雲の如く来り、その車は旋風の如し、その馬は鷲より早し……。スキタイの地中海征服。
 シナとうてつ文の仮面の「新ヒッタイト王国」様式の類似。

▼F・ギゾー『ヨーロッパ文明史』上・下
 1828ソルボンヌでローマ崩壊から仏革命までをGuizotが講じたもの。

 文明の科学的定義はしない。
 文明とは社会と精神の進歩、発展で、物質的豊かさではない。だから文明のために蒙った損失ならば忘れることができる。

 ヨーロッパ文明の秘密は、社会秩序の諸要素の多様性、それらの要素が互いに他を根絶し得なかったことに求められる。その反対がアジア的専制なのだ(p.51)。

 初期ローマ時代、イタリアには耕地はあっても農村はなく、都市から田園に出かけていくのみ。
 上位ヒエラルキーが下位者を任命し、思想を強制するカソリックが12世紀以降定まったのは不幸。

 5~10世紀、農村優位化し、都市が衰微し、人口は減った。
 封建制→再び都市が活性をとりもどす。常に都市内にある教会が、農村封土からの逃亡知識人を吸引。→市民。

 領主の土地の中に、収穫対象としての都市が囲繞されることになった。
 自治市と領主との「防壁権」をめぐる戦いは11世紀に本格化。市側が勝つ。

 市民は領主をさしおいて、王に接近する。12世紀。
 12~13世紀の市民は常に胸ヨロイをつけ、槍を手にしていた(下p.32)。

▼渡辺已之次郎『華盛頓に於る日本の敗戦』大11
 米国海軍はWWⅠで活躍できなかったため、戦後、腕試しがしたくてたまらないのだ(p.15)。

 ウィルソンの頃まで、米大統領は海外旅行しないとの不文律あり。またウィルソンは講和委員に上院議員や共和党員を含めず、議会対策をまったく怠った。
 当時のフィリピン総督はウッド将軍。

 デンビー海軍長官による米国艦隊編成替は、太平洋に最新の重油焚き艦、大西洋には石炭焚き艦を配せんとす。
 ハワイ軍司令官には、WWⅠ指揮経験あるサマロール将軍が任ぜられた。

 ヤップ島問題は大9の国際通信会議以来。
 グアムにもヤップにも海底線。ヤップからはグアム、上海、メナドに線が繋がる。

 海軍の秘密主義が陸奥の既成艦たることを米国に知らせないようにして置いた(p.139)。
 グアムは米海軍の軍政下におかれ、アプラ港には外国商船立ち入り不可。ただし貯蔵は石炭のみ。
 サモアも米軍政下。艦船修理施設あり。「ボロック」にも海軍根拠地。

 ハワイは、カリフォルニア、アラスカ、サモアより等距離。東部太平洋の支配点(p.143)。
 ターンバル、フィスクらの海軍人は、早くからフィリピンは空軍力で守るのが合理的であることを説いていた(pp.242-4)。

▼鈴木兼吉『ワシントン会議に際して』大10
 全権は国内では後援を訴えず、出航はるか後、無電で支持を呼びかけた。

 マーク・ケーア中将の9月論文。subは半径6マイル[ノーティカルマイル]しか見通せないが、クルーザーは20マイルみわたせるから、水上制海こそ完璧な洋上支配也という(p.100)。
 また同将はairはsubに絶対有利なので護衛も空軍にやらせろという(p.105)。

 ヤップ島電信はもともとドイツ所有。ガム、ミンダナオ、セレベス(メナド)に線がつながっており、ロケーションは比島とグアムの中間。

▼常田力『ワシントン会議と永久平和』大11
 「事実現代を溯る五十回の海戦に於て、六割で勝ったのは漸く一割位である」(p.163)。だから七割に固執した。

 4国協定とは、奄美や小笠原が日本本土であると否とに係わらずこの防備を現状維持するとしたもの。

▼外務省調査部第二課『ドイツと植民地問題』S16年
 ニューギニア殖民は濠の猛反対あったが英の許可があったので実行。東半分の北側をとる。

 スペインは米西役の負債を軽くするため、1899、カロリン、パラウ、マリアン(アメリカが占領したグアムを除く)諸島を1675万マルクで独に売却した。
 ガダルカナルのあるサロモン諸島ははじめから含まれない。

 連盟を脱した日本に連盟は委任統治の返還要求の態度が示せない。米はそれを望んだ。英は日本の抑制のためにこれを自分たちの統治領もあわせて、ドイツに返してもよいとすら言っている(p.162)。

▼田中広巳「東シナ海と対馬・沖縄」(防衛大学校紀要・第40輯・人文/社会科学編、S55年)
 幕府が沖縄を1609の遠征以来、薩摩藩に任せていたのは、軍事的脅威の面で幕府がぜんぜん警戒していなかったことを示す。

 ロシアに対して対馬を、砲台+海底ケーブルで守れと主張したのは榎本(大日本外交文書・巻8)。
 『ペリー提督日本遠征記』S28訳には、英国未着手の沖縄に着目したのがペリーであったことを示す手紙載る。「太平洋の諸島」は、別の箇所から沖縄と推測できる。

 またペリーは日支両方への拠点として台湾を最重視していた。この構想は南北戦争で実現せず(p.48)。
 台湾征討論者の西郷隆盛も台湾を沖縄や南洋、シナを制握するところとみなしていた。南進政策は、薩摩系人士の沖縄ルートの発展策である。

 李鴻章は沖縄を清国対外発展の門戸とみていた(p.50)。

 井上毅は日清戦に臨み、朝鮮は一国で独占できないが台湾は違うと。
 『沖縄縣治要覧』大10版によると、M29年7月に沖縄分遣隊は撤廃されてしまった。M31~35までは大隊規模のみ。戦闘力ほとんどなし。

 沖縄は日清戦争で、対馬は日露戦争で、各々前線から回廊へと役割が変化した(p.56)。 沖縄基地は米中心にみて価値があるが、アジア中心にみると永遠の価値はない。

▼石井通則『小笠原諸島慨史(その一)』1967
 欧米人の初来島は1823、米捕鯨船Transit号の漂着。船長はCoffin。

 1855ペリーが父島に。
 幕府はペリーの記事によって同諸島が外人に占拠されていることを知った。

 硫黄島(火山列島)居住は、M20以降、日本人が最初。定住はM37から。
 ペリーは母島を占領せしめたが、合衆国政府はそれを否認した。

 南鳥島は19世紀後期よりマーカス島として周知さる。
 ついに確認できない「中之鳥島」があるらしい。
 沖ノ鳥島と硫黄島は370カイリ。南鳥島と硫黄島は689カイリ。
 軍機関としては、父島要塞司令部、海軍通信隊。
 S19-4-4から全島民のひきあげ始まり、6-15に艦上機の第一回空襲。

 マッカーサーは島民を残す意向だったが、米海軍が反対して強制送還になったという(p.27)。

▼小笠原戦友会 ed.『小笠原兵団の最後』S44年
 硫黄島で降伏勧告させたのはサイパン捕虜。
 トラック島に対する機動部隊空襲で杉山参謀長と永野軍令部総長が、東條、嶋田に代わられる。東條は軍政と軍令を兼ねる。

 S20-1-1時点で父島に陸軍9200人、海軍6000人駐留。
 終戦前の1年間は、木造の小型船団すら父島に寄り付けず。
 母島からは晴天のときだけ父島が見える。蚊と蟻と鼠がすごい。

▼望月小太郎『華府会議の真相』大11
 著者は山縣有朋にも近い、英語で話せる代議士。

 林大使はロイド・ジョージの演説当日まで日英同盟は継続される如く誤解して、本国に報告を送っていた。

 中南米諸国はぜんぜん参加しないことに決した。
 加藤友三郎は日本語で。ハーバード大の市橋教授が通訳した。

 加藤は自分の口からではなく、海軍専門委員をして7割をいわせようとした。これが6割屈服の原因だ。
 加藤は将来にわたっても米英との海軍対等は求めないと言った。

 日本記者団は6割を支持し、海相に迫った。
 11-8には出席代議士を前に海相みずから7割必要を説いた。

 ここでも日本外交は軟弱で男性的率直を欠き、堂々と陸奥復活を要求しないで、7割の比率を要求すれば陸奥も自然に生かされるというが如き態度。これはじつに見え透いていたので、7割要求もかけひきのひとつとみなされてしまったと。

 海相は新聞記者にもなぜ日本が7割を欲するのかの理由を2週間にわたり全く説明しなかった。だから米国新聞は、7割説は一種の駆け引きだと批評した。

 海相ははじめから、もし7割が失敗したら、随行部下である海軍専門家の責任にしようとしていたのである。

 加藤を抜擢した権兵衛いわく、あまりに妥協性に富むと。
 政友会代議士応援団は、ワシントンで7割をプッシュしたが、加藤が6割を呑むと、それを成功と言い囃した。

 アラスカ買収の際、英とのあいだで軍事防備せぬ黙約あったが、キスカに米国第二の根拠地を設けた。1898の比島併合の際にも星亨公使に併合しないと約しながら結局やった。グアムは潜水艦根拠地にする予定である(p.88)。

 マハンは『米国海権の現在及び将来』の47頁で、ハワイを北太平洋死命の地と呼ぶ。ホーマーリーやバイウォーターも。
 ハワイを海軍策源地にすることは1916米国将官会議の決定。
 海大教官ニーブラック大佐は、アラスカ、ハワイ、ミッドウェー、グアムの根拠地化を説く。ナイトとロッヂは、ハワイ、ミッドウェーを強調。
 加藤海相は、ヒリピン、グワムは我国の鼻先に在るから危険であるが布哇は脅威でないといふ。

 大型subはミッドウェー~横浜2250浬を13hで航海している?(p.95)
 現にドイッチェランド号はキールからニューヨークを往復した。
 1912のヘリゴランド防備制限会議も独が応ぜず、英は占領に苦労した。

 山梨陸相は3-12の貴族院で、国防の第一線なる奄美大島小笠原方面に制限を受けるのであるから多少の不安を免れぬ、と。
 以前の高平・ルート協定では、ハワイ含む太平洋島の現状維持は約束済み。
 ハワイ併合は1898、台湾割譲は1895。

 フォッシュもついてきた。

▼小松緑『ワシントン会議の真相』大11
 ヒューズ案を知っていたのは、全権4名の他に、デンビー海軍長官、クーンツ海軍大将、ルーズベルト海軍次官、フレッチャー国務次官。

 市橋の通訳は声がよくなかった(pp.32-3)。

 海軍専門委員は、ルーズベルト、英ビーティー大将、仏ルボン中将、伊アクトン中将、加藤寛治中将。各国とも部下3名づつ。

 フィリピン、グアムと米本土間のケーブルはヤップを通らざるを得ず。

摘録とコメント

▼朝日新聞社『鉄の博物誌』S60年

 1309の「春日権現記絵巻」に、焼け跡で竹火箸で焼け釘を拾うの図が。

 1735英で石炭のコークス化に成功。これで製造した鋳鉄は薄手の鋳物にできた。これで機械の枠台をつくるようになり大発展。
 ※ギリシャの大理石に類似する加工性良好で強い素材を英は大量に入手した。

 1779英コールブルックデールのアーチ橋が世界初の全鋳鉄構造物。
 1820頃、炭素を減らしねばりのある錬鉄普及。
 1855ベッセマー法でスチール量産に目処。
 1860'sには錬鉄の構造物。錬鉄のつなぎは鋲接。
 1880'sには鋼の時代に。
 1894、日本の高炉製鉄がタタラ製鉄を量で上回る。

 幕末大阪湾の砲台に「重い屋根」を支えた鋳鉄支柱ありと/松村貞次郎
 M16~18、兵庫県生野鉱山に初の国産鋳鉄アーチ橋。

 石炭の亜硫酸ガスが鉄をダメにするのでコークス必要。
 石炭を燃やす蒸気機関のポンプで炭坑排水が容易になり、これが石炭を増産せしめ、大量の鋳鉄製造を可能にした。

 B.C.2500アナトリアでニッケル含む隕鉄から初めて短剣がつくられる。
 これがヒッタイトを経てエジプトへB.C.13~10世紀。

 シナでは殷周時代、青銅器の他に、隕鉄の小型儀礼用の鉞と戈あり。
 剣伝説。干将(陽で亀文)、莫邪(陰で浸理)。また楚に竜淵、太阿、工市の三剣。
 鹿島灘には海砂鉄がうちよせる。それで古来製鉄していたことが『常陸風土記』に。
 ムカデは金属神。俵藤太の大百足退治は、蒲生氏が製鉄に関与していたから。

 犂先は鋳物。鍬は鍛造。
 刃物、大工道具の地方特産品化は江戸後半から。
 千葉の久留里(君津市)は戦中に海軍の短剣などをつくった。館山に近いため。もともと鎌の産地。
 鹿児島の豚包丁。これは沖縄経由のシナ洋式だという。※蕨手刀もイノシシさばき用を兼ねていたのか。

▼宮崎市定・他『京大東洋史1 古代帝国の成立』S27初版
 ※もともと京大の支那学は、東大教養漢学に対抗した、西洋史式の東洋史研究。

 新疆にはもとイラン・アーリア人いたが、そのごトルコ人が天山山脈を越えて来て、同地をウラル=アルタイ語化した。

 広東からは東北貿易風を利用してマレーまで南下できる。
 漢末の三国時代~唐末の五代まで740年間、割拠的傾向強いが欧式に封建諸侯化せず、豪族は朝廷における特権貴族であることで満足した。

 春秋時代にはまず交通運輸のために堀や堤防を作る。のちに農業用に役立てられる。
 ※19世紀に河渠淤塞し内線不良となり、反面海外から汽船が高機動集中できるようになるともうOUT。
 宋いらい、君主独裁の制度が完成し、簒奪おこりにくくなり、政権が2代以上安定するように。科挙が完成し、官僚制が機能しはじむ。

 奴隷は狩猟者および採集者には実際に用がない(p.24)。
 仰韶遺跡からは、男よりも女の方が人種的に多用な骨が出土。※先祖は父なくして生れた──の意味は?
 北方新石器時代に武器出土せず、闘争少なかったと言える(p.25)。※佐原史観のヒント?
 孔子に先立つ時代において、鉄器と牛耕法の発明あり。
 殷代、男奴隷を臣、女奴隷を妾とよぶ。殷は山東を討伐し、凱旋するが、西方の周に亡ぼさる。

 春秋の斉が富んでいたのは海岸に臨み魚塩を得ていた由。
 戦国初、中央に位置した魏の文化が一番高かったが八方から侵されて弱くなり、優れた人材は秦に逃げた。
 匈奴は西方スキタイから騎射を学び強大に。秦も戦車から騎射兵に代え、他国に抜きん出る。

 私有財産の蓄積と所有を通し、家父長による強い家族統制おこる。これが孔子流の哲学になる。ただし相続は均分。
 漢の民衆主食は粟で、西アジアの小麦粉文化とは大いに違う。

▼護雅夫 ed.『東西文明の交流1』
 殷代の車は車制からみてオリエントわたりである(p.110)。
 ユーラシア北部の半農半牧者のうち、もっとも早く純遊牧化したのがスキタイ。

 アッシリアでは、戦用弓は馬を降りて射た。
 直飛する三角ヤジリ(三翼)は、ヒッタイト・アッシリアの平面ヤジリと違って騎射可(p.131)。

 黒海北岸スキタイは、物資欲しさに南岸ギリシャ植民民市を保護。
 サルマタイはスキタイ風短剣を持たず、重矛と長剣を用いた。弓は2次的となる。
 戦国時代の斉に槍騎あり。しかしスキタイは用いても短槍。

▼石母田正・他 ed.『古代史講座 13』
 車両の発明は、高地から低地に鉱石を運ぶため。

 青銅技術は初めメソポタミア、ついでインダスに伝わる。

 インダス文明域の広さは同時期メソポタミアの4倍、エジプトの2倍。しかも域内等質。大都市はモヘンジョダロとハラッパだけで他は村落。しかして2都は設計酷似す。600km以上離れているのに……。その大きさは他文明を凌ぐ。

 インダスではコブ牛、象が輸蓄とされ、農耕蓄はなかった。多人種都市(p.10)。
 前2000に馬使用していたアーリア人のイラン周辺南下により、インダスとメソポタミアの貿易は途絶し、双方亡ぶ?
 アケメネスペルシャの制度を、もともと西域に節する秦が採用した(p.15)。
 下インダスは、前1000後まで「流風遺韻」の文化影響を残す。

 フェニキアのシドン王は、アッシリアの攻撃を受け海上亡命を企てたが予知され捕えられ殺された。後の反乱では、アッシリアは島要塞をとれなかった。
 フェニキア海軍は、ダリウス、クセルクセスのギリシャ遠征を導く。
 亡びた東フェニキアはドリア山地人がギリシャを奪うや復活しカルタゴに継承。

 ヘレニズムは前30ローマのエジプト占領をもって終わる。
 インド洋直線横断航路はプトレマイオス朝末期に。紅海北部への航海は危険だったが、ナイル中流コプトスから海岸に出る道を整備。

 アショカ王磨崖法勅第13章に、西方ギリシャ5王に仏教使臣を派遣したとある。
 インドとローマの貿易はまったくローマの贅沢品入超。
 北インド(ガンジス)はローマと交流せず。

 淮南子によると始皇帝は今の広東付近の南越を攻めるために南嶺の一部に霊渠を開鑿し糧食を補給させたと。
 ビルマルート北端で漢勢力の南端。漢は水系外の陸路支配に限界があった(p.164)。

 安史の乱前後にアラブ人による南海貿易が、その効率のよさから陸送間接西方貿易を圧倒。
 異民国が中国になつくことを「郷慕」と表記。
 戦国時代に鉄製農具が普及し、水利土工が楽になり、水田限界が北上する。
 成都は秦代に運河がつくられたことから、稲と魚で民に凶年の憂いがなくなったと、漢書・地理誌。

 地溝はダムや池のことで、河から水をとりいれるに非ず。前漢~後漢に淮水でこの工事さかん。畿内で同様工事したのが4~5世紀。

 20歳のアレクサンダーが35000の兵とともにB.C.334小アジアに上陸したとき、全軍の食糧はわずか10日分。

▼木村正雄『中国古代帝国の形成』

 エジプトと違いシナでは洪水期がすなわち農耕期。だから低平広開で洪水の害を防ぎ得ないところは、農耕地にならなかった。

 殷末に王位の兄弟相続制が父子相続制に代わる。周初には財産の長子相続が確立する。
 春秋の鉄器普及以後、耕作地責任が単家族毎に分割さる。以後を古代、以前を原始とする。が、治水は個々の家族の管理能力に余ったので、ギリシャ的私有市民には発展しない。

 晋の定公はB.C.451~3頃、晋陽城を水浸しにするため渠を掘る。後、農業用水となる。
 呉王夫差は中原に兵・糧を送るため2本の溝を掘る。

 漢書・溝洫志いわく、鄭国渠が秦に莫大な軍糧を得さしめ、その収入で秦は六国を統一し得たと。※欧州大陸は軍用輜重を運河に頼らず。よって興亡パタンがシナと異なる。
 黄河の大堤防は戦国時代にまず斉がつくり、対抗して魏、趙もつくる。※長城のプロトタイプ?

 江南では国家権力の背景がなくとも農地の開拓が可能であった。
 メソポタミアの塔は洪水時の避難場所として神聖。

▼『海事史料叢書』第6巻・村上雅房「船行要術」永正2年

 船は黄帝がはじめて作り、「烏江ヲ漕渡リ玉ト云リ」。
 「司天ヨリ運ヲ尅スルヲ天刑ト云」
 ※千早フル 神ノ瞋恚ニ天道干シ 博ク晒サレ 行キナ止マリソ

 防州の上ノ関より、長門関まで、東西に長い。春夏は東風が吹きやすい。秋冬は西風が吹きやすい。

 「四季ノ乗様、北国ハ春夏ハ地ニ添ヒ乗リ、秋冬ハ沖ヲ乗、南前ハ春夏ハ沖、秋風ハ地ニ添フ」
 「昔ハ沖乗尤禁タリ。其故ハ冬ノ日ハ猶更夏ノ日利ト云モ一日ノ始終ヲ見スベシ。乗リハ難成故也」※これが瀬戸内海である。

 無風ニ船ヲ出シテ沖ノリハセサル事也。

 陽中ナリトモ風強ク、横波ナラハ本櫓ヲ用ヘシ。瀬戸内也トモ大将貴人乗セタル船ハ本櫓ナルヘシ。

 「遠灘ヲ渡ナラバ水ヲ煎シテ樽ニ入ヘシ。水変シ人損ス。唐渡ハ赤土ヲ入、是ハ七日\/ニ色変スル故也。亦潮ヲ水ニ用ルモ赤土ニテコシテツカフ也」(p.301)。

 遠灘夜ニ入事夏ハクルシカルマシ。冬ハイム事也。

▼リデル・ハアト『英帝国崩潰の真因』江本茂夫 tr.S15年、原1939
 “When Britain Goes to War”もしくは“The British Way in Warfare”の訳。

 WWⅠ後にハートが造言「平和を求めんと欲せば、戦争を予知せよ」
 自由の最高到達点は偏見よりの解脱である。
 過誤や誤謬をなくすように努めることが消極的ではあっても正解への道だ。
 W・マッケクニイ大佐の李鴻章伝を読んでいる。

 本書のアメリカへの影響。“Nation”1939-10-14
 本書のためにホア・ベリシャ前陸相が辞任した。
 本書脱稿後、著者は神経衰弱に罹っている。
 日独伊が国際連盟加入の小国に加えた連続的攻撃は、連盟の主桁である仏英への間接的接敵法だった。

 WWⅠ後、フォッシュはライン国境を主張したがウィルソンに阻止され、英も見捨てる。クレマンソーは独に優しかったがポアンカレに代わられた。ポ氏はルール占領して失敗。再び緩和したときはナチが出ていた。

 文明を完全に維持するためには次の戦争に於いては何人も勝利を得ないことが必要(p.12)。
 クラウゼヴィッツの見解は、ナポレオンが兵員の優勢に屈服した戦闘にクラウゼヴィッツ自身が参加したことに、明らかに影響されている。

 クラウゼヴィッツの時代には陸軍の装備に重要な変革がなかったから、兵員の優勢が戦闘毎に戦闘を決していくと主張し得たのだ。
 クラウゼヴィッツから半世紀後、「武装国家」の著者フォン・デル・ゴルツは、防御が攻撃よりも強大であるという観念は単なる謬見と公言した。

 戦車をもたなかった独軍は、ガス弾と発煙弾を多量に射つ新砲撃法に加うるに「各個前進」という新歩兵戦術を併用して、敵の最強拠点に向かって努力を集中せずに、抵抗力最少の線に沿って強襲することにより、正規戦術を覆した(pp.18-9)。

 死体を埋めたり、便所をつくらぬ敵は、戦意完全喪失の証拠。

 ルデンドルフは東部での楽勝の経験から、西部での攻勢所要兵力を楽観した。
 大戦略とは戦争後の平和状態も考えること。
 「電撃戦」という軍人の夢は実現の可能性を次第に減ぜられている(p.35)。AAの発達で air raid も無力になろう。

 永続的安全保障の最大可能性は、集団保障の組織を育成するにあり(p.39)。
 防御が有利になったから、集団安保が現実的だ(p.45)。
 1937-11に発表した論文。各国は何をなし得ないか。それは攻勢だ。

 フォン・ブロムベルグ元帥は守勢の有利を早くから認めており、ドイツは西部で攻勢に出たりしないだろう。
 チェコをソ連が救援せんとしてもポーランドが妨害するだろう。

 南欧の防衛力に関して楽観。1937。
 ジブラルタル港は急に深いので錨地が狭く、スペイン側からの砲撃にひとたまりもあるまい。
 WWⅠで独はなぜ英の中立を信じたか。要するにグレイがハッキリ警告しなかったからだと(pp.75~)。

 近代戦では防御が強い。緒戦で占拠された国境地方からドイツ軍を直接行動によって撃退することは不可能だろう(p.81)。

 ルーマニア政府はもしソ連と結べば農民暴動が起きてしまうだろうと懸念中。
 戦艦建造はやめてSLOC防衛に回せ。
 英空軍は目下、fighter中隊よりもbomber中隊をたくさん整備している。

 いまの独軍は膨張しすぎて、戦間期ゼークトの軽量&奇襲指向を忘れている。※ハートは大陸軍削減論者。

 ポーランド軍の楽観主義はその特殊な地形的条件からきている(p.109)。
 スペインでのソ連製軽機は他国製より優秀だった。TKもおおむね優れる。重機は重すぎ、小銃は旧式だ。

 ギベールは、国軍は国民性に即した戦術をもてといい、ナ氏はその書を座右に。
 1918独作戦部長ヴェッツェルは、英軍には粘りがあるが仏軍にはないと。
 長弓隊も杭柵をつくる間なく攻撃されたときは敗北した。於パテー、1419。
 フォッシュは仏の針打銃が敗因とみた。→だから火器進歩=勝だと。

 モルトケいわく、動かないで射撃する兵は、前進しながら発砲する者より有利。
 マスタードガスはMGと同様、防御兵器。

 ハートは戦略攻勢(先占待敵)、戦術守勢(MGの吸引殲滅)を説く(p.147)。
 英の「地方軍」はナポレオン三世の脅威より生まる。

 空襲は侵略ではなく襲撃にすぎない(p.157)。
 限りある燃料積載量が、帆船時代に遂行された厳重封鎖を不可能にした。よって近年では封鎖艦隊は自国港にとどめておく遠隔封鎖。

 日本は食糧自給できるので英国よりも爆撃に脆弱ではない。空襲損害は列強中で英国が最も心配される(pp.182-3)。
 WWⅠ直後、英国は最大の空軍国だった。英家庭では末っ子が優遇されるのに、空軍は逆にまっさきに削減された。
 ルール占領に英が抗議すると仏は126スコードロンの大部分を海峡沿いに集めた。

 WWⅠで英に投下されたのはわずか74トン。これで死人859人出た。
 飛行機は陸上では攻撃される心配から全速飛行する。それでガソリンを三倍消費する。海上では経済速度で巡航してくる。だから海岸都市の方が危ないのだ。※バトルオブブリテンは立証した。

 今日では機速が大なのて夜間飛行場を爆撃できぬ(p.192)。
 平時演習で75%当てられる海軍砲手も実戦では2%に落ちるものである。つまり1/40となる。

 スペイン内戦2年後、英政府は爆撃の正当性を調査する委員を派した。この調査は、その後の空襲を抑制させる効果があった。
 「クラウゼヴィッツ及びその門下がナポレオンの事蹟を讃仰して作り上げた『絶対戦』、即ち無制限戦争の理論」

 国際規約は戦争の後期の段階において破られ易い。エチオピアでは、イタリー軍は戦争が長びいて雨期に入りそうになる頃まで毒ガスを使用しなかった。かれらはその使用を用心深く隠していた(p.236)。

 ヒットラーが1935-5に提言したように爆撃を海上および陸上作戦の隣接地域に限定することは結構なこと。

 勝利は博するが、戦争終結の後が何うなるかを見透すことの出来ない短見の戦略家のために、最もしばしば最大の損害を蒙った国は常に戦捷国(p.241)。

 WWⅠ後の仏軍は、方針でも訓練でも主に発射弾数増加に心を注いだ。

 1915ベルギーとロシアの要塞が脆くも陥落したので仏は自国要塞砲を撤去。それが1916のヴェルダンの窮状を招く。ドゥオーモンとヴオーのコンクリート要塞を奪回したとき、それらは砲撃によっては無傷だった。ここからマジノ線を着想。同一箇所に3発命中しても耐える。内気圧高いのでガスも入らない。

 戦時塹壕勤務は半月交替シフト(p.260)。
 アルデンヌを最近ハートが旅行した印象では、ここはティルモピレと見えた(pp.274-5)。

 オランダ兵は民兵式のいいかげんな訓練しか受けていなかった。
 バルフォアの青海諭。海軍第一主義で、陸軍は遠隔アンフィビアス用の素質優秀なものとする。

 1937、ダフ・クーパー氏は完全機械化論者に。
 ブレンが使われるようになり、重機はいらなくなった(p.371、原294頁)。
 1936のソ連大演習に招待された英使節団は米国クリスチー型改良の高速軽中戦車の数と性能に多大の感銘を受く。

 広い戦闘正面に、あたう限り多数の「尖兵」を同時に前進させる法によれば、敵線の強弱を同時に検知できる地点が多くなる。突破口の拡大は休んではならぬ(p.466)。

 敵の薄弱点が発見され、報告されるまで予備隊を待機させておく普通の方法は無効。
 敵はわが予備隊の到着前に、後方から援兵を繰り出して弱点を強化するから。

 天才的な訓練者は有能な指揮者よりもよほど稀である(p.494)。
 ある砲兵将軍は、歩兵を訓練するには3年かかるが、砲手を訓練するには2カ月で十分だ、と。

 ウィトリンガム大尉の近著『英国の大尉』。歩兵の個人的自発性を重視している(p.544)。

▼E・H・カー『ナショナリズムの発展』大窪愿二 tr. 初版S27年、原1945

 訳者いわくこれ以前の本のまとめ本。

 アクトン1862いわく、ナショナリティーは自由をも繁栄をも目的とせず、民族をもって国家の鋳型と尺度にするという至高の必要のためにそのいずれをも犠牲にする。

 19世紀のドメイストルは国家は主権者と貴族からなると論ず。
 国際法の初期の歴史の大きな部分は非戦闘員の財産と通商を保護する規定を作りあげることから成っている。
 18世紀は仏語が主権者の国際語だった。そして平民は戦争中でも自由に商取引できた。

 ネーションとピープルは分けて考えられた。
 19世紀型近代ナショナリズムの始祖はルソー。彼がネーションとピープルを同一視した。
 ナポレオンは最初の民衆的独裁者。

 夜警国家の昨日は大体において財産保護にあり。財産なき労働者には、この場合、祖国は無い。
 19世紀パブリックスクールとリセは、ブルジョアジーに公共業務の訓練をする学校。
 国際貿易を平和の保障と考えるのはコブデン流。

 ナチ=ナショナル・ソシャリズム。これは1895の独で発明された概念。
 ビスマルク時代の英でジンゴイズム=大衆のナショナリズムがつくられた。

摘録とコメント。

▼藤沢一孝『明治維新以降 本邦要塞築城慨史』S33年(防研図書館「本土/築城要塞/14」のカードケースを見よ)

 山内静夫(元・築城本部長)いわく、築城部にいたとき、上原元帥から言われた。「……織田、豊臣時代に及んで、その進歩の極致に達した。かの文禄・慶長両役に於ける、作戦基地の築城編成、水軍根拠地、兵站主地、兵站線上の築城編成等は、大東亜戦争に於ける要塞の編成配置のそれと、全く、その軌を一にしている」

 維新当時に招かれた仏教師は江戸城を称えた。

 S15年に北千島要塞。S16年に中城湾と舩浮、S17年には麗水要塞を建設。
 M5に仏から参謀中佐以下の教師を招いた。
 奄美、千島の要塞の発想は、敵subと飛行機に対する抑制を考えた。大8上奏裁可。

 S8~9年の日本海側要塞は、増強いちじるしいソ連subに対応して拡張整備。15加を主、7加(AA兼)との組み合わせ。
 S16-9に砲台工事すべておわる。18-3には補備作業も終わらす。

 大11年度から、南西諸島の中城、舩浮、狩俣の三臨時要塞建設計画を作製し始める。ところが前2者のじっさいの着手は、WWIIがはじまって1ヵ月後のS16-7だった。

 宗谷はS5年度から臨時要塞地とされる。
 大砲射程短く、瀬戸内海すら封鎖できなかった。

 普仏戦では地雷榴弾[=破甲榴弾]がなかった。そんな仏の経験に基づいている仏式要塞では粗悪なのだった。ちなみに「爆裂榴弾」は1885に出現。
 S18~19年の資料は全く残っていない。

 1872にマルクリーを招く。1873ミュニエーがマルクリーを交替。1874、ルボン、ジュルダンを招く。1897、仏国築城工師ムージェン工兵中佐を招く。1900、普国工兵少佐レンネを招く。

▼佐用・森・共著『基地設営戦の全貌』S28年
  ※設営は海軍用語、設定は陸軍用語也。

 巻頭写真でドーザー、ディパー、スクレーパー/キャリオール、10tローラー等。
 ラバウルの地下移転はもっとも徹底的で、トンネル総延長は東京~大阪間に匹敵。

 米式ランディングマットは無理だったが、鉄網舗装で代えた。
 ソイル・コンクリート(表土コンクリート)も試されたが機械均しが必要で、非実用的。

 キャリオールやブルはトラックDrを充てたので扱い下手。
 酸素ガスとカイロ灰の混合物は桐ダイナマイトの60%威力。

 工事現場で行き止まる道路=対空偽装上、最も悪い。自殺行為。
 日本人のみの手によるドック第一号は呉の第一船渠でM24竣工。
 油タンクは水を混ぜておけば下から漏れることはない(p.82)。

 機械化設営隊を前線に繰り出し得るようになったのはS18年後半。
 分散搭載の着想を欠いたため輸送船2隻のうち1隻が沈むと設営遂行不能に。
 分散格納もしてなかったので被弾被害局限できず。
 米海軍のC・B's =Construction Battalions もS16-12の創設にすぎない。

 ブル等機械化が遅れたのは、失業救済の考慮から(p.135)。※然らず。人夫斡旋親分=地方ボスに頼らないといかなる工事もできない江戸時代のシキタリを陸軍工兵隊が払拭できなかったため。鹿島建設の研究所がそんなこと知らないわけがない。じつに日本の闇。

▼宿利重一『メッケル少佐』S19年
 佐藤賢了は、S18-3-1衆院決算委員会で、米将校の戦略・術知識は幼稚であると。※シバリョー引用。

 M6、独帝は岩倉一行に二等勲章を天皇にとらせようともちかけた。婉曲に辞退した。
 西郷従道は誰よりも仏贔屓だった(p.17)。
 伊藤はビスマルクと会見して後、かんぜんにかぶれ、葉巻の持ち具合もそっくり似せた(p.114)。

 メッケル着到時、日本将校は、Etapes(仏)、Etape(独)、兵站、の字のみ知り、意味は判らなかった(p.121)。
 「大行李」「小行李」も形を弁えなかった(pp.121-2)。※直訳語では説明にも理解にもならぬ好例。

 M21の参謀旅行では、欠点の一として、「言語の錯雑、不明瞭なること」を挙げられた。
 日清戦役時の旅順要塞は、独工兵少佐フォン・ハイネッケンによって補強されていた。
 支那では馬車は買い上げてはならない。賃借する。そうすると修理は自分たちでする。 独断専行=Initiative (p.288)。

 渡欧した児玉に対し、「最も注意せねばならぬのは、防禦に絶対性のないことで、如何なる堡壘及び砲台と雖も、突破し得ざるなく、……。……我が作戦に敵を追従せしむることに依って目的を達し、光栄ある捷利たるが可能である」(p.339)。

 南阿戦後、Buhrer-taktikなる戦術[要塞戦軽視思想?]を日本は輸入した(p.388)。これが旅順の難攻につながった。

 旅順第三軍参謀・井上幾太郎の講演。日露役前は「一般に土工作業の効力を非常に軽く視て居りました。当時の築城教範はドイツの教範を翻訳したものでありまして……。併しながら歩兵隊に於ける築城の教意は極めて簡略でありまして……」それよりズット前[M23~4頃]……におきましては、工兵隊は仏国式の操典を使用して居った。此時代には反面射壕や坑道のことを稍々綿密に訓練して居ったのであるが、ドイツ式になってから廃れた。

 これと先のメッケルの指導を併せ考えたため旅順をあなどった(p.391)。※つまりメッケルの指導が兵站に手厚く、要塞戦に手薄であった。

 カネで買収できぬ金持ち貴族のドイツ将校も、外国勲章で釣ることができた(p.402)。

▼図書文化研究会『世界名著案内・戦争論・闘争論』

 史記によれば孫武も孫ピンも共に山東省の出身。
 マキアベリの参照した時代は隆盛期ローマ。しかしてその君主像は互選的「護民官」。
 クラウゼヴィッツの「行軍」や「先進部隊」の項は、わずか12年後、モルトケによって改変された。時代が馬から汽車に変わった(p.87)。

 1914~5の『戦争とロシア社会民主党』『社会主義と戦争』は、帝国主義戦争を内乱に転化せよと。

▼河辺正三『日本陸軍精神教育史考』
 最初の兵学校には公家の子弟の入校をすすめた(p.11)。

 M5の軍法で、除隊後3年間は、上官反抗罪が適用され得る。
 戦利品盗は、死刑。

 哨兵睡眠 or 酩酊は「徒」刑(p.32)。
 将校の刑は、奪官、回籍、降官など。兵には、死、徒、放、杖、笞など。
 停官もあり(p.47)。

 入営して第一期末検閲おわらぬ者を新兵と称す。機動演習とは諸兵連合 or 大部隊の演習。

 在郷軍人の演習はやはりズンダレていた(pp.70-1)。
 S19に飛行機の体当たりで魚雷を阻止した?(p.121)

▼藤原彰『軍事史』
 士官教育は、仏式の学科本位を、普式の術科本位に改む。

 参本『明治廿七八年日清戦史』第一巻によれば、清国は黄海を制して陸軍を海路朝鮮に輸送するつもりだった。

 イタリア技師から青銅砲を教えてもらったのは、イタリアだけがそれを現用中のため。
 ロシア軍の斉射は、多く頭上を跳び超えるだけだった(p.103)。
 183ページ写真キャプション:歩兵連隊砲(四一式山砲)は輓馬一頭引きであったが、馬が倒れ人力によって運ぶことが多かった。

 服部『大東亜戦争全史』によれば、海軍の開戦前結論は「…対米作戦は、武力的屈敵手段なく長期戦となる覚悟を要し、……戦局は有形無形の各種要素を含む国家総力の如何及世界情勢の推移の如何により決せらるる所大なり」 ※つまり海軍もドイツ頼み。

 米機動部隊はコラルシー後、母艦機の1/3をレコンにしていた。
 202ページ写真キャプション:分解搬送する連隊砲の砲身と砲架は、どちらも100kg以上あった。

 支那派遣軍は1945春から、米軍の上陸とソ連の参戦に備え、海岸に向かって戦線を収縮中に、敗戦を迎える。

 林克也の『日本軍事史』は、38式重機がホチキスのコピーであるのをはじめ、砲、TKなどほとんどの陸軍兵器が外国のマネであることを列挙。

 西南戦争において、守勢局面でのパニックの前例あるために、自軍兵士への恐怖から、ことさら退却を嫌った(pp.246-7)。プロシアと同じ。
 たとえ軍司令官でも、上からの命令なくして退却を禁止された(作戦要務令)のは、世界唯一。

 板垣退助ら反政府派は、海防と非常時用基幹常備軍、あとは民兵でよい、と唱えた。
 日本国土上の防衛戦は、維新以来まったく考えられず(p.252)。

▼清水潔『商子』
 土地に愛着する農民を主たる国土防衛力にする。そのために農民人口を増やす。→漢の屯田に通ず。
 戦闘における首級数だけを賞爵任官の基準とした。※スキタイ的気風。

 荀子議兵篇に「秦の衛鞅は、世のいわゆる善く兵を用うる者なり」と。
 学者は所聞に溺る。
 書経、詩経は農産、軍の役に立たぬ。

 兵力を敵のあえて行動しようとせぬところに動かすものは強国となる。
 五百畝でようやく一回の戦争の費用になる。

 晋の文公は、衛に兵車を入れ易くする為、衛国の田畠の畝を東西向きにさせた。

 太古の帝王は木は伐り放題、獣は殺し放題。黄帝の時代には獣の子や鳥の卵をとらぬようになり、棺は人民用には作れなくなった。

 強国の婦女子は男を戦場に送るとき「勝たねば帰ってくるな」という。
 脱走防止には5人組隊伍を組ませる。

▼マウロ・カペレッティ『手続保障の比較法的研究』
 USAでは最高裁が違憲と断じた法律は、法令集には残るが、実際上は全く「死んだ法」となる。※だから早く9条は違憲と断ずるべし。

 イギリスは欧州人権条約に国内法としての地位を認めていない。議会立法を最高のものにする思想から。
 英裁判所に違憲立法審査権なし。

▼『孫ピン兵法』金谷訳

 水を絶つ、とは渡河のこと。
 天兵とは動物が生まれながらに与えられている歯、爪、角。人は天兵なきもの。

 ゲイ(person)は弓弩を創造して、勢をそれに似たかたちで考え出した。
 「移民」=民衆を君主のために駆使すること。
 鈎行の陣とは、両翼が曲がった横陣。

 飛び道具を使わぬ白兵戦を「接刃」という。
 易なれば則ち車に利。険なれば則ち徒に利あり。
 客とは侵攻側。主とは防禦側をさす(p.244)。

 敵の軍隊を分散させることができ、敵の軍隊をおしとめることができれば、味方がいかに少なくても余裕ができる(p.262)。
 余り有る所あり、足らざる所あり、形勢これなり(p.305)。

 漢墓出土孫武は、宋刻本十一家注孫子と基本的に同じ(p.321)。
 他に、六韜、尉繚子、管子、晏子春秋、墨子、他が発見された。

 孫武との異句例を金谷氏解説。
  そのおもむかざるところに出で → 必ずおもむくところ
  よく衆を以て寡をうつ者は → 逆
  守るは足らず、攻むるは余る → 逆

 孫ピンの時代は、車戦→歩兵戦の時代で、そのあと、時代は騎射戦へ移行。

▼ハウスホーファー、マウル他共著『地政治学の基礎理論』玉城肇 tr.S16年

 マウルは景観と生活の関連に特化。
 1927にKrebsは、地政治学などいらぬ、政治地理学で事足りると。

 ハ氏によれば政治地理学は国家の平面的分布と気候に触れるだけ。地政治学は未来の歴史観が主観的に入る。バンゼいわくそれはプログラムじゃないかと。

 著者たちによる定義:地政治学は政治現象の地的制約性に関する理論である。
 Suesが1888に大西洋の海岸と太平洋の海岸の古典的対比を書いた。

 ハ氏はFaigrieveの『地理学と世界権力』を、大衆を動かすイギリス学問の平明性の典型と。ソ連は『近東』という地政治学的な年刊誌を出している。

 ラッツェルいわく、アテネ、ヴェニス、英、日は、封鎖的人格体が防衛されると同時に、あらゆる外的刺激と印象をひろくとりいれることができるがゆえに、位置と空間が恩恵を施したと。
 マッキンダーは、島国は辺縁国を襲うのが当然であると。日本がシナを襲わないのは不思議な例外だと。

 モスコーは依然ヨーロッパにかたよりすぎているから、防禦間合いは小さい(p.176)。※けっきょくヒトラーを誤らせたのはハウスホーファーだったのか?

 アンドリアス・ホーファーはチロル山嶽でナポレオン軍を撃退。

 英人Faigrieveは、「ステップ + 沙漠 vs 森林」、「河川 vs 山嶽」、「大洋 vs 大陸」と、人類の対立を図式化。

▼アルブレヒト・ハウスホーファー『欧州事情叢書 第六冊 英国の支那侵入』S15年
  著者は有名なハ氏の息子。

 秦はアレキサンダー死後百年の国だ(p.4)。

 支那はその理論上の主権を他の凡ての国土に対しては要求し、貫徹したが、日本に対しては実際上、一度も貫徹しようと試みなかった(p.5)。※そう、これは異常な例外なのである。ここに気付いた男は偉い。日本人はほとんど気付かない。

 蒙古の海上遭難は、フェリペ2世がエリザベス朝を攻めようとしたときに似る。
 著者は半島で日本と明が激突していることを知らぬ(p.6)。

 プラシーの戦で阿片の産地ベンガルを得た英人は、ナポレオン時代に英に依存していたポルトガルの支那拠点より、アヘンを流し込んだ。

 アヘン戦争の隠れたポイントは、支那軍備は伝統的に北を向いており、南からの攻撃は意表外だったこと。アロー号をきっかけとした砲艦による白河遡航、北京占領をみよ。

 与論の一部は常に帝国の掠奪に反対を表明する。しかしその反対論ゆえに、その非道徳的行為の分け前にあづかれぬことはない。グラドストンは阿片戦争中、事件の支持を拒否したが、4期の首相在任中、香港を還附しようとしたことはない(pp.38-9)。※反英プロパガンダはやはり独人が巧くするという例。

 支那内地での大麻栽培は有効に厳禁されていたが、天津条約後、自家栽培が行なわれるようになった。

▼『経済的ニ可能ナル戦争ノ規模ニ就イテ』

 WWⅠや日露戦争を債券や貯蓄から分析。
 S11年を基準として考えると、外国起債をゼロとみても、500万人召集し、3億円の入超いれ、100億円の資産を動員できる(p.38)。

 S9年の映画検閲メートル数。18223908mなり。うち輸入は2901791mなり。

▼今井隆吉『国際査察』1971
 潜在能力国から実際の核戦力まで二年という数字は遠からず非現実的でなくなるであろう(p.114)。

▼J・Steinmetzler『ラッツェルの人類地理学』訳1983

 ラッツェルは人類地理学ということばを1882につくった。
 人間の本質的特性は運動。

 民族性と気候の相関を説いた先駆者。ヒポクラテス、ボーダン、モンテスキュー。

 ラッツェルは文化の発端を「栄養と身体の保護をめぐる戦いの軽減」に見る。
  ※ドイツでは文化が文明よりエライ。シュペングラーは、文化が老年期になると没落の兆候たる文明に達するのだとした。

 バックルの浅薄な書物に長時間を費やして後悔(p.202)。

▼ジュール・ロワ『大いなる失墜』S42年

 自由仏軍の標識はロレーヌの十字架。キの字。
 大臣官房員は大臣のスピーチのゴーストライターになるのは当然なのに、ドゴールはペタンに対しそれを拒んだ。

 仏軍の軍法会議法典は野戦で降伏する司令官は死刑と定めていた(p.108)。

 ヒトラーはスペインを通りジブラルタルを経てモロッコを占る意向だったが、1941にペタンが自ら北阿独軍の兵站を買って出て、それを防いだ。

 ワシントン駐在のフランス大使は、日本から対支援助を中止するよう求められていたカトルー将軍に対し、アメリカが暗に日本の最後通牒を受諾するようにすすめているぞと知らせてきた。
 カトルーはトンキン国境を閉鎖させた。ヴィシー政府はカトルーを非難した(p.196)。

 死刑判決を受けたが、ドゴール特赦で終身禁錮になり、1951獄死。

▼H・Baldwin『ひしがれた巨人アメリカ』(上)、訳S48年
  ※(下)が出なかった模様。珍なり。

 1965夏にベトナムに梃入れする必要があったのに、米政府はなぜ予備兵力動員をかけなかったのかと非難(p.17)。

 ケネディ~ジョンソン政権はスタッフ・システムに慣れていない。個人的アドバイザーに頼った、と非難。
 3~40年前の新聞編集長は、公正さのため、記者の原稿から副詞のみを削除した(p.30)。

 北ベトナムは物資の98%を自国の船で運んだ(p.47)。※これはガセだが、アメリカと異なって、蘇支の側はベトナム戦争で末端輸送の負担が少なかったのは事実。生産ではなく、輸送配分の負担でアメリカは疲れた。

▼C・J・Hitch『戦略計画と意思決定』

 米陸軍は米西戦争の後1821にコマンディングゼネラル・総司令官を任命したが、それは軍政軍令の2頭制となったので、ルート陸軍長官は総司令官を廃し、1903チーフ・オブ・スタッフにする。海軍も1915これに倣い、作戦本部を設立。

 大統領はコマンダー・イン・チーフ=総軍司令官である。
 WWII中にジョイント・チーフス・オブ・スタッフができる。1947法定化。

 ソ連は『核時代の国防経済学』を1000部翻訳出版した。
 A-7は登場当時でも最も安価、かつ低速だった(p.93)。

 毎年春、三軍別所要兵力の研究がなされ、任務別計画は8月末までに終わらせ、国防次官は全部内要求を10月初旬にうけとり、大統領は次年度の予算案を1月に議会に提出する。

 1959春、米民間防衛本部は400億ドル以上を要するシェルター計画をアイクに出すもNSCは却下。このときゲイサー委員会報告が出されたが、いまだに秘密。

 コンバインドオペレーションとは2ヶ国軍協同作戦をいい、ジョイントオペレーションとは複数軍種の協同作戦をいう。

摘録とコメント

▼矢吹明紀『アメリカン・ポリスカー大図鑑』2003

 密造酒は山の中で製造した。1933に禁酒法がなくなっても脱税目的で続いた。これを警察が峠で待ち伏せている。その追跡を振り切るためエンジン改造車が作られた。彼らがやがて賭けレースを始め、いまのストックカーレースとなる。

 ビジネス・クーペのビジネスとはムーンシャイン・ビジネスのこと。
 レーダー速度取り締まり機は米では1950年代に導入されている。
 2ドア・セダンもボディの剛性ゆえに好まれる。

 60年代までダイナモ(直流発電機)は残っていた。60年代なかばにオルタネーター(交流発電機)に替わる。

 有鉛ハイオクと高圧縮エンジンの組み合わせによる大気汚染をストップさせたのが1970マスキー法。この施行後しばらくは低圧縮比エンジンの時代になる。大排気量だと中低速トルクが細くならない。

 昭和28年に警視庁は「シボレー150」を多数輸入。パトロールカーに必要な性能を出してくれる普通乗用車は皆無だった(だからトラックが多用された)。※旧軍のスカウトカーは不整地仕様のため路上で高速が出せない。内地残存車数もゼロ。
 1955にクラウン改造のトヨペットパトロールが警視庁に納入された。

 1950以前は、回転しない赤い点滅灯だった。1950’sは茶筒型の回転灯。1970’s半ばに横に長い箱型の両端内臓回転灯に。1990’sは箱型のフラッシュ式に。

 メトロポリタンは首都のことだがD.C.をメトロポリタンと呼ぶことはなく、シカゴ、ダラス、ベガス、デンバー、ソルトレイクシティの市警察がメトロポリタンポリスと呼ばれている。

 州兵(ナショナルガード)も独自のミリタリーポリスをもっている。
 ナイン・ワン・ワンをコールするとたとえ交通事故でもポリスカーの他に消防車と救急車も一緒にやってくる。基本的に3者が同時出動するのだ。

▼P・J・ヘルツォグ『戦争と正義』小林珍雄 tr.S30年
 ※東京裁判は正義だと説得していく本。シスコ講和後に誰が何の目的で訳刊したのか知りたいところだ。

 オーストリアのカール帝はWWⅠ後、何の法手続きなくマデイラ島に流された。
 WWII後の軍事法廷は「特殊国際法」と呼ぶしかない。

 トマスによれば人間の人格的価値を傷つける行為が自然法的悪。
 「自然権は、実定法によって与えたり除いたりすることはできない」(p.14)。※だから日本国憲法は違憲である。

 自然法は国際秩序も支配するのが望ましい。※ヘルツォグは戦勝国が国際的公共善を知っていると疑わない。

 戦犯処刑は自然法にかなっているのだ(pp.19-20)。
 グロチウスは、聖書に戦争を禁じた箇所はない、と。

 一種の国際的司法手続として戦争を見ることは、スコラ学の戦争観の基本的特徴の一つである。ヴィトリア:正戦を行なっている君主は敵国の判事たり。 スアレス:刑罰的正義の遂行としての戦争は、同一人を検事にもし、判事にもする。

 Banezは正戦を認める。一市民は他の市民を勝手に罰することができないが、国家はできると。

 ピオ2世や、あるドミニコ会士までがNBC戦を是認した。
 ロマ書14-23、すべて確信によらざることは罪なり。

 グロチウスの挙げるユダヤ人の戦いでは、彼等は果樹や家畜は寇せず。
 グロチウスは、降伏した捕虜は、女子を含め殺してもよい、と(p.133)。

 ヴィトリアいわく、戦争権でなされたものはみな、正戦にたずさわった人々の請求権に最も有利な方法で解釈される。よって、とったものはなんでも返さなくてよい。

 法廷罪刑なくとも、自然法にもとづいていえば、犯罪があることだけで処罰をみとめるのに十分である(p.176)。

▼『防大紀要 第四十一輯』S55年・人文科学篇・豊福淳一「カントの国家論」

 国際間の自然状態においては「戦争への権利は、ある国家が他の国家に対して、すなわち後者によって侵害されたと信ずる場合には、自身の威力によってみずからの権利を追求するために許容された方法である」(『人倫の形而上学』)。
 なぜなら、自然状態では、こういう権利の追求は訴訟によっては行なわれ得ない。

 カントは戦時国際法に人道の強い基準を持ち込もうとしなかった(p.18)。

▼ルヰ・レイノオ『近代フランスに及ぼしたるドイツの影響』佐藤輝夫 tr.S16年、原1921

 ドイツ人は新聞などの利用が古来巧みだ。たとえば18世紀のグリム。
 ルイ15世は歩兵学校に英語の課業を置くことを欲しなかった(p.43)。

 フランス人は「社会」好きであり、それが個人の自然らしさを殺し、才能を萎縮させている──と既に18世紀の画家のフロレンが言ってた。

 ゲーテのウェルテルは母親によって甘やかされた、訓練のできていない男ではないか。しかるにこの本は仏で大ヒットしたのだ。もっとも『新エロイーズ』が先行しているけどネ。サン・プルウは結局身を引くが(pp.78-9)。

 ボナパルトはウェルテルをエジプトにもっていき、七度も読んだ。
 この作品の模作が1800頃に無数に仏人により書かれた。

 ボナパルトはルソーの弟子で「自然」派に属していたのだが、近東に近づく頃には「自然に従う人間は犬だ」と確信して述べた(p.102)。

 フランス人論の最初期の仕事は、ベアド・ド・ミュラール『英国人及びフランス人に関する書翰』。
 ピアノを即興的に弾ける田舎のドイツ人主婦。
 ゴビノオは『人間種族の不平等論』1855の中で、ドイツ気質の純粋な代表者は英人とスカンジナビア人だと。

 ナポレオン3世とは、「王座にあるドイツ主義的ロマン主義」なり(p.340)。
 半世紀にわたるドイツの知的征服(p.340)。
 1871にガブリエル・モノは『ドイツ人とフランス人』を著わした。

▼堀川武夫『極東国際政治史序説──二十一箇條要求の研究』S33年 

 1899に英露は、各々、揚子江、長城以北を鉄道権域とすることをとりきめた。

 ハリマンは、日米共同で満鉄の整備充実を図ることが、ロシアの復讐に備える上からも得策であると説いた。
 袁世凱は塩税を担保に外国から借款。

 袁は1912にドイツと対支武器専売などの条件の借款を契約(p.54)。
 スタンダード石油は北支に石油利権を得た。
 山県は清朝存続の支那を望んだ(p.64)。

 日支感情悪化の因は「志士」らの孫文援助(pp.69-70)。※殆んど倭寇に類す。
 第五号希望条項は加藤の意に反するものをまとめてみたものだった(pp.96-7)。
 日露役中の鉄鉱石は大治鉄山から来た。原鉱石と銑鉄(p.127)。

 シナ人いわく「日本は平等の友邦として支那を遇すべき筈なるに何故に常に豚狗の如く奴隷の如く取扱むとするか」
 袁が米に頼ったのは、英が欧州で忙殺されていたので。
 日本はここでも秘密交渉でまとめようとし、ポーツマスと同じリーク戦術で返された。

 シナ側「日本の兵器は欧米のそれに比して粗悪である」(p.231)。
 対支武器供給は日独の実績が相半ばす。値は日本製が安い。
 シナの対独参戦は1917-4で、青島戦は中立中に終わった。

▼広江源三郎『軍隊社会の研究』大14
 著者は海軍機関大尉で任意除隊者。
 陸軍は震災を契機に世間の評判がよくなった。ところが甘粕大尉事件でまたその評価を下げた。

 機関科問題の根。英海軍は操帆を貴族の独占とし、機関は「相当官」と称して中流以下から採った。その後、重要度が逆転したのだ。

 権兵衛の失脚後、海軍内の薩閥は解体した。

▼大村有隣『名古屋城 竝 尾張藩国防の研究』S12年
 偕行社記事への投稿をまとめたもの。

 がんらい城の北は人馬が立たない大沼であった。これに托して築いた。
 城下は高台で、水を採りにくい。
 「畠水練、兎兵法」(p.34)。

 享保ころは日本には「足を練る」習慣が無かった?
 天明期の伊藤直之進は、砲車による車戦を提案している。その当時の武士の体格は車夫に劣っていた(p.85)。

▼J・F・C・Fuller“The First of the League Wars”『全体主義戦争論』渋川貞樹 tr.S15年、原1936

 Totalitarian War について。フラーは「イギリス・ファシズムの最も有力な闘志の一人」/訳者。
 フラーは反共(p.4)。

 機械化輸送機関の損傷破壊度は、一日の使用車両の5%に達す。

 軍事目標から1km以内の病院は、爆撃免除を主張し得ないとフラーは信ずる。これを国際法で決めておくべきだと。

 MGを防御に、Airを攻撃に使っただけで勝つ。山間移動中の側面防衛にはマスタードガスを用う。

 罠地にガスを撒き、そこにMGやAirで追い込む。エチオピア兵は裸足だった(p.57)。※このような侵略と満州問題とを一緒にされてはかなわぬ。
 Airによる追撃は山地戦では有効だ。ただし大軍に限る。
 エチオピア軍は槍を中心としていた(p.100)。大部隊の正規戦は無理だった。だから後にゲリラ化した。

 この数年、フラーは自動車ゲリラ隊の使用を主張。これは武装商船または私掠船の地上版だ。※Rat Patrole?
 さらに、民間機によるテロ攻撃を主張(p.121)。

 空襲はゲリラ隊には無効。かれらの村落、すなわち補給基地を爆撃汁。
 「……切迫つまった敵が、自己防衛のために、同じ戦術を採らざるを得なくなるであろう。また、石油の輸入阻止を行うならば必ずや敵国をそうした情勢に陥入れることであろう」(p.125)。
 ※ドウエの最大の貢献は、ヒトラーにガスの使用を思い止まらせたことだろう。都市空襲報復の図が効いた。

 ルイス・マムフォードは参考になる。歩兵の勃興とデモクラシーのリンケージはコンドルセ。
 ナポレオン「余の軍隊の強さは、機械における力の如く、量を速度に乗ずることによって計られる」
 クラウゼヴィッツの要約(pp.141-3)。

 R.B.Fosdickの“American at War”の98ページに、「カイザーを釜ゆでにする教会決議」の模様が述べられる。
 ナチ対ユダヤに関するフロイト的解釈(p.170)。
 ロイドジョージは「イギリス最初のファシスト的首相」だ。

 ヒトラー「……最も残忍な兵器は、もしそれがより速かな勝利に資するものならば、人道的である。……余は、予め数ヵ月間交渉を続け、長期にわたる準備を整えるだろう。だが……闇夜の電光一閃の如く、突如として、敵に躍りかかるであろう」※フラーはヒトラーがクラウゼヴィッツを読んだと見ている節がある。

 「……もしムッソリーニが自己保存のために、戦争を敢行するという全体主義的方策[対都市空襲のこと]を採らなかったならば、彼は敗北を喫しただろう」(p.196)。

 WWⅠにおける連合国の根本思想は「飢餓」による勝利であったが、イタリアは、敵の神経に対する攻撃をあみだして、それを無効にした。これが全体主義的戦争なのだ(p.203)。
 ※プロテスタンティズムは当該地域に独特の飢餓の記憶が動力だろう。間引きや捨て子のあり得た地域とそれは重なる。

 パリがフランスにとって政治的に重要である如く、ロンドンはイギリスにとって糧食補給上、重要なのである(p.214)。
 某人いわく、敵の側における革新ほど、軍人の精神的憤激を捲き起すこと確実なものはない。

 「地下防空室よりも遥かに効果的なのは、防火建築物である。というのは、火災が一番危険だからだ」。当時独ではまいとし4億ライヒスマルクが火災で失われていた。

 C・G・フィリップはV2開発を報告していた(p.233)。
 フラーは反ユダヤ的傾向をみせる(p.241)。
 空襲では防御の利は無い。その例証(p.247)。

 WWⅠ中、飛行船は52回、固定翼機は59回、英を空襲した。死者は、前者計が556、後者計が857。1935の交通事故死者は6500人だ(p.253)。
 フラーは戦艦2隻の起工に抗議する。

 機械導入によって人間の徳性は向上する(p.296)。
 貨幣を廃止汁(p.308)。
 「自由」を骨子とするイギリス・ファシズムを説く(pp.340~)。

▼林屋友次郎『佛教の戦争観』S12年

 上海仏教日報というメディアがあり、日本政府は仏教をも実利に協力させていると。
 これに反論し、明和会(翼賛仏徒)は「一殺多生」だと(p.4)。

 いかなるものにも「自性」がない。だから仏教は戦争そのものを悪いとも善いともしていない(p.10)。
 イスラムの神は「攻め戦う者を憎めばなり」(p.17)。

 『大般若理趣分』には「たとひ三界所攝の一切の有情を殺害するも、これに依りて地獄に堕ちず」と。

 日本では平安朝いらい、天皇=金輪聖王だと解説する派がある。つまり如来の化身だと。
 王道を説いた経典が無数にある。そのひとつは、三大徳を、有信・有力・有思だとする(p.26)。
 王者の正法は、大慈悲と不放逸である。つまり仁愛と正義。

 鎮護国家としての寺。奈良朝には7大寺。桓武朝には10大寺。天平13年の国分寺。華厳経に基づく。
 護国思想をもつ三経典。法華経、金光明経、仁王経典。→正法護持。

 阿含経のエピソードは、よく治まっている国への侵略をいましめる。
 聖徳太子は慈悲を2つに分けた。攝受・しょうじゅ=愛撫と、折伏・しゃくふく=折檻。

 仏教にいう平等は、バランスのとれる状態を指し、それが目的。国家を完成するとは、国家をこの世ながらの浄土とすることである(p.55)。

 ローマ以前にもアッシリアやペルシャが、諸国民を征服することが地上に真の平和を実現する所以であると信じていた。
 日露役の死者は75000人。大震災の死者は10万人だ。

 バーナード・ショウは、毒ガスや空軍を中心に大軍拡競争をすれば先進国間では戦争は抑止されると主張。

 英国セシル卿は、化学成分を共通知識にすれば化学戦は価値がなくなると連盟で演説。 米国の提案。化学戦の材料と器具の取り引きを国際的に禁止しよう。→化学工業国の独占になるとの反対うけて撤回。

 曾我五郎に対し、工藤祐経の子からさらに仇討の願あり。やむなく斬首。四十七士も同じ理由で。無限復仇を止める為。

▼細野・他『中米・カリブ危機の構図』S62年

 トリニダッド・トバゴは産油国。
 ハイチの国民一人あたり所得はインドより低い。

 10年後にはヒスパニックが米最大のマイノリティになる。

 旧英領カリブ諸国では出生率低下傾向。※ここからパウエルが出た。
 他は爆発。

▼東京裁判研究会『パル判決書』上下、講談社、S59年

 パルは経歴上、主席だったが、色の関係でウェッブになる。
 米人弁護人は日本側の要請。
 重光と梅津はソ連の要求で追加した。

 盧溝橋の第一発は共産軍ではないか(上p.91)。
 大陸法には少数意見書の習慣ないが、仏蘭判事は書いた。
 オランダとソ連だけが日本に対して先に宣戦した。

 田中隆吉証人はなぜあんなに太っているのか。パルはこの証人に気分が悪くなった。※板垣日記によると他の判事も気分が悪くなった様子だと。

 連盟で人種平等案を潰したのは豪州のW・M・ヒューズ。
 世界の対日世論悪化は、1905頃のウィッテの宣伝による(下p.256)。
 解説。インドは沖縄信託統治に反対し、日本とは単独で平和条約を締結。

 再来日したとき広島の「あやまちはもう繰り返しません」を見て憤慨した。原爆犠牲者に捧げる言葉ではなかろう。
 この判決書は英国でも公刊を禁ぜられた。

 パルの戦後講演。「真理をさとったと見せかける誤りを避ける力が、人には与えられていないように見える」
 パルは1967に死去。

▼田辺繁子『マヌの法典』S28年、原AD200頃。最古訳は1794英訳。
 独には1797重訳でニーチェもこれをみて感激した。

 名前の付け方にも4階級を反映せしめよ。
 「真実は沈黙に勝る」(p.52)。

 11の感覚器官:耳、目、舌、鼻、肛門、生殖器、手足、言語器官。※1830パリ印行の訳書でフロイトはこれを見たろう。

 たとえ正当でも師を非難すればロバに生まれ変わる。
 王は山獄の防塞の中に宮殿を建てなければならない。

 戦利品は獲得者のもの。
 狼の如く奪い、兎の如く危険を避けよ(p.191)。

 六軍:象、馬、戦車、歩兵、将校、輜重兵。
 敵からの逃亡者には特に警戒しろ。

 林中では弓、丘陵では剣を使え(p.202)。
 戦闘は予測不能だから、最後の手段。

▼クセノポーン『騎兵隊長・馬術』田中秀央 tr.S19年、原BC365
 解説。この書以後、騎兵には歩兵がつくようになり、だく足で走れぬ馬は排除された。
 当時、鐙が無いのに、飛び乗りや、騎上投槍を強調。蹄鉄もなし。

 「若し人が飛行してみたいと思ってゐるとすれば、人間の行動のうち乗馬ほど飛行によく似たことはない」(p.36)。※坂井三郎は同意するだろう。

 馬は放馬せんとする時には首をまっすぐ伸ばす。馬は怒ると鼻の孔をひろげる。

 ギリシャ馬は咬み癖あるので口輪も用いた。
 ペルシャの投槍は、より短く丈夫。

摘録とコメント(※)。

▼土屋元作『太平洋問題観瀾』大毎pub.大13

 加藤(友)内閣のとき、ローマ法王庁への派遣大使の費用を議会が削除したのを、加州に多いイタリア人が怒った。アイルランド人も同様。

 K.K.K.は排日に関わっていない(p.12)。
 米国議員は議会で果物を齧る。

 ピューゼット・サウンドは英人ジョージ・バンクーバーの命名。18世紀末の人で北米航路を発見しようとした。
 本多利明はカムチャッカ遷都論を唱えた(p.119)。

▼荒木浅吉「太平洋戦争における潜水艦作戦について」(『海幹校評論』S41-1)

 駆逐艦に対する浅深度発射法を日本subはついに実用化せず。米は13m潜望鏡と磁気魚雷でなんとか実用化。
 戦艦はsubに対して何事も為し得ぬのは商船同様。

 ミッドウェー後、過集中subの通過許しが多かったので、8-12に米はSJ・潜水艦搭載レーダーを『ハドック』に装置。

 米は航空哨戒に重点をおき、基地から800浬まで毎日飛ばしていた。
 日本subは20ノットの米戦艦用につくられているので、高速な空母を追いかけられなかった。

 パッシブソナーは日本近海では効かないが、南海では非常によく聴こえる(p.47)。

 ※陸海の幹部学校の記事(大学紀要に相当するもの)をもれなくインターネット公開しないのはいかがなものか。稀に国会図書館に納入されている巻号を見るのは、寄稿者が一人でも多くの国民に見せたくて個人寄贈をしたものか。『新防衛論集』や『陸戦研究』もネット公開したら良いではないか。

▼月刊軍事問題研究 1966-12(pp.39-59)・勝山幸雄「新戦争論ノート,液体燃料問題と現代国家戦」

 日本がインターウォーの20年間に人石やらなかったのに独は1941までに460万トン。

 石油は同一熱量を得るのに石炭の50~30%容積で済む。質量も6割で済む。
 ボイラーの熱効率も石炭は重油より数割悪い。
 蒸気機関の熱効率は10%、ガソリンは27%、ディーゼルは33%になる。
 積み込み能率は、石炭が毎時20トンに対して重油は40分で200トン。

 WWⅠでドイツ=オーストリー側は820万トンの石油しか得ず。連合側は2800万トン。これは平時needsの各々80%と209%を意味した。
 ドイツはAir、sub用の燃料は何とかなったものの、自動車用が決定的に不足し、西部戦線の帰趨を決した。

 Ferdinand Friedensburg 氏の研究が参考になる。※ていうかほとんどその紹介?

 車両数は、西部戦線で連合軍の20万台に比し、ドイツ=オーストリー側は4万台(全保有の四分の三)しか使えなかった。
 ルデンドルフ“大戦の思い出”によれば、1918-9-15ブルガリア敗れると石油供給脅かされたため停戦要求したと。

 railway network では仏より密だったが、それに頼りすぎたのが独の敗因。
 1940-10にナチはルーマニアに「政変」おこさせて石油を制圧した。※日本学ばず。

▼『ザ・ジャーナル・オブ・ジオグラフィ』1972-9、(pp.363-9)
 1962~64に沖縄のcivilミニストレイターだったS.McCune氏の寄稿。

 沖縄は1944まで要塞化されなかった。
 1950の朝鮮戦争で、沖縄は米軍にとっての a staging and supply base となった。
 ベトナム戦争期を通じ、The Keystone of the Pacific である。

 北京とグァムのちょうど中間にある位置関係。香港と東京のちょうど中間でもある。
 奄美大島は1609に薩藩のものになり、1953-12-25に米から鹿児島県に返還された。
 今日でもスーパータンカーは沖から油を陸揚げする。

▼週刊読売 S43-3-29号

 戦中の空襲で焼けた城:名古屋、和歌山、大阪、松山、仙台城大手門。
 石川、鳥取両県は無被害。京都、奈良、熱海は目標から外された。※なぜ熱海? 終戦の交渉予定者が疎開していた?

 戦略爆撃調査団によれば、B-29のべ33000機参加中、喪失485機、搭乗員戦死3041人。
 内地戦災死は50万人。

 S20-5-26-0105に皇居正殿出火。4時間後に鎮火。皇居の大半を焼く。
 二百数十機が日比谷公園、三宅坂に落とした15万発の焼夷弾が類焼したもの。
 皇居炎上については『昭和史の天皇』vol.2が詳しい。

 B-29はS19-5頃にインド経由でシナ奥地に50機駐留。19-6-15夜、成都から20機で北九州を爆撃。成都からはそれ以遠には届かない。

 19-11-1、マリアナから単機東京偵察。11-24、70機が都内と中島飛行機を空襲。続いて名古屋の三菱系と神戸の中島系工場を空襲。20-1から一転、都市爆撃に。27日に銀座・有楽町一帯。
 20-3-4に150機編隊による東京雲上盲爆。これでマリアナ基地整備が認識された。

 東部軍管区参謀いわく、当時「何機撃墜」と発表していたのは、無線傍受によって帰途の海上墜落をモニターしていたのが根拠であると。

 20-5-14に名古屋城と熱田神宮が焼け落ちる。

 皇居内宮殿は5-25深夜(正確には26-0105)に焼かれた。
 その頃には沖縄に700機、硫黄島に300機、マリアナに1000機のB-29が展開。にもかかわらず北海道はB-29で爆撃されなかった。函館、釧路が艦上機で、室蘭はミズーリ・アイオワ・ウィスコンシンの艦砲射撃でやられた。しかしターゲットは重要産業目標のみで市街地は助かった。小樽は山が迫った地形と海軍の艦載AAのおかげで特に小被害。※小樽は左翼の一大拠点でこの歴史を消したくてたまらない。

▼C・グラインズ『東京初空襲』

 ノルデン照準器は敵手に渡せないので、自作となった(p.72)。
 蒋は日本の報復を怖れ、シナ着陸を望まなかったが、無視された。

 1939~41の東京の米大使館には爆撃用産業地図がなかった。ソ連海軍武官が豊富な情報を持っていた。
 工業地帯の上を飛ぶ利点は、AA少ないこと、目印を失わないこと。

 「ごく短い説明の中で……皇居がどこで、それをどうやって避けたら良いかも示しました」(p.112)。
 「…神社やお寺──皇居を爆撃しようなどとは決して考えてはならない……」/ドーリトル(p.114)。
 「ドーリトルは、天皇の宮殿を爆撃しないようにとの訓令を、何度も何度も繰り返した」

 同伴エンタープライズは、偵察哨戒機を運用。
 SBD爆偵は、日本のピケット船の発見を、無線ではなく、通信筒の投下によってエンプラ上のハルゼーに知らせた(p.135)。※このテフシの徹底は、逆に、日本側のいかなる些細な通信も米側では傍受ができていたことを物語る。真珠湾接近に気付かなかったなどあり得ない。

 アメリカでは前の座席が上席。
 21発の爆弾と1465発の焼夷弾を投下。死者45、負傷153を与えた。被撃墜ゼロ。
 B-26は離陸距離が長すぎて不適だった。

 J・ドゥーリトルは逆宙返りを最初にやった男。
 天皇を殺そうとする企図はなかった(p.43)。
 甲板は150mある。艦速は72km/hである。あと37km/h加速すれば離陸できた。風速は20ノット。

 アーノルドのS-2副官がターゲットリストをつくる。鉄鋼、マグネシウム、アルミ工場、航空機産業、精油工場、海軍施設……。
 FDRは1-26頃、モンゴルから重爆で日本空襲できないか、下問。アーノルドは、ソ連の協力なく、不可能と答申(p.55)。

 各機は500ポンド爆弾×3、500ポンド分の焼夷弾を積んだ。1機に5人のクルー予定。無線はテフシ要求上、取り外され、230lb軽くなった。
 尾部のキャリバー.30×1梃のみ残し、別に擬キャリバー.50×2をつけた。下部銃座は非実用的なので、取り外した。

▼イアン・ハミルトン『思ひ出の日露戦争』松本泰 tr. S10年

 訳者序、日本軍部訳版は省略アリ。
 第一軍には外人17人が観戦武官となっていた。

 山県は野砲の機動性について熱心に語った。
 児玉は日本語一点張りだ。
 福島は外国語に通ずるが決して外国人とうちとけない日本人だ。

 歩兵は草鞋も携行した(p.18)。
 コメはビスケットよりはるかに消化が早く、たちまち空腹を感ずる。
 現地給仕兵は日英混血。

 ロシア軍は対岸河岸段丘の上に放列を敷いていた。※ノモンハン同様。ただし砲兵用の壕は無い。
 日露とも、砲兵に機関砲を交えて配している。

 日本軍の散兵突撃は、次第に密集してしまい、しかも途中で伏せ射を頻繁にさせるものであったようだ(pp.61-3)。※歩兵学校で大いに改善の余地があったわけである。
 仙台兵の裸を見てたくましいのに感心する(p.90)。

 露兵捕虜を日本兵が曳きたてて行くのを見、さすがにショックを禁じえない(p.104)。
 ロシア兵の突撃は、剣付き鉄砲を初めから前に伸ばし、首を下げて走ってくるだけ(p.119)。。

 規律悪く、住民を掠奪したのは軍夫(p.123)。軍夫の日給は6銭。増加食付き。
 英国は南阿でまず軍用道路をつくって泥濘を克服したが、日本の兵站部にその着眼なかった。

 露軍は暴露していることを勇気と履き違えている(p.140)。※cf.セバストポリ三部作。
 ボーア役に日本から観戦武官行っている。

 ロシア下士官は軍隊手帳も読めず(p.155)。
 遼陽戦はモルトケのコーニグラッツ攻略のマネ、とみている(p.239)。※独語のケーニッヒと朝鮮古語の「王」はなぜ似ているのか。

 大山は仏語を話す。
 ロシア銃鎗は日頃、研いでいないので、先が丸くなっており、厚い生地を通らない(p.297)。

 第一軍の負傷原因。砲弾20、小銃100、スパイク2。
 コメ食は寒地ではカチカチに凍結し、絶対に砕けない。

 ロシアは203高地でも砲を山嶺に露出させていた。15榴を直接射撃に用いた。
 乃木は世界の軍事新聞を多量に読んでいた。

▼W.シャイラー『フランス第3共和制の興亡』井上勇 tr. S46年pub.原1969

 offensive a outrace 徹底的攻撃。
 attaque brusquee 奇襲。

 アルダン・ド・ピック大佐「勝つためには、進まなくてはならない」

 ペタンだけは、火力が優勢なときのみに攻勢を限定しようとしていた。
 ジョフルはサンシール士官学校を出ず、エコル・ポリテクニク出。

 ベルグソンの反主知主義が軍人含む全仏人に影響を与えた。
 アングロサクソンと違い、利己主義的個人主義の仏には慈善ナシ(p.119)。※つまり教会任せ。

 ガリニエは複数の外語に通じる最も知的な将軍。
 WWⅠ中、急速昇進した将官が、戦間期の若手将校の昇進を甚だしく抑制した(p.194)。

▼村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』S55年

 土木技師は、18世紀後半の道路・運河時代に、miliatry engineer から区別された技術職業部門の草分けで、1850~70年代にジェントルマンのプロフェッションにつぐ高い社会的地位を得た(p.149)。

 だから土木技術者を civil engineer と呼ぶ(p.231)。 

 狐狩りは冬の風物詩。

 はじめ軍医は無資格者がなり、除隊後、民間で開業が許された。これは1858の医師法で規制された。

▼“Makers of Modern Strategy”

 ハートは1920年代後半の軍事評論界ではまだフラーのジュニアパートナーでしかなかった(p.601)。

 フラーは艦隊のアナロジーを陸上にもってきた(p.602)。

▼陸軍技術本部『蘇軍兵器冩眞要覧』S7-12

 スコープ付き小銃は、歩兵、騎兵聯隊に各一小隊分(20人)。

 軽機は各i小隊に2梃。狙撃聯隊は合計54梃。軽機の火力は歩兵25名に相当とされている様子。

 蘇軍に於る重機関銃の装備は著しく優良にして狙撃聯隊に54銃あり。

 小口径砲には、大隊砲と聯隊砲がある。
 大隊砲は、歩兵砲小隊に平射および曲射砲が各1門である。
 その種類には……
 グルューゼンベルグ 37ミリ歩 平射 3357mレンジ、これ、当時普及中。
 ローゼンベルガ(クルップの主任技師の名、駐退砲架応力計算の泰斗) 37ミリ歩 平射 3200mレンジ。
 マクレン、最も多数。37ミリ歩 平射 3200m。
 ゴチキス 47ミリ 3200
 エフ・エル 57ミリ 曲射 600歩射距離。当時の曲射砲の主体。外装式木台座。
 リホニン 48ミリ 曲射 600歩射距離。
 ゲー・エル 90ミリ 曲射 500歩射距離。
 アーゼナ 75ミリ 曲射 500歩射距離。

 聯隊砲は狙撃聯隊内の聯隊砲兵Bn(2コ中隊)に6門。
 その種類には……
 1927年式76ミリ聯隊砲。普及努力中。ゴム輪帯。レンジ7060m。
 1902年式76ミリ野砲。
 1909年式76ミリ山砲。共に過渡的に聯隊砲に代用中。

 この他、31年型ボフォース(47ミリATGにも75ミリ曲にもコンバチブル)あり、その47mmタイプは新式対戦車砲としてS7-5のパレードに現る。初速560m、レンジ6600m。

 ※ここから参本がソ連のATGを47ミリと思い込んでいたことが想像される。とすれば1式47ミリはイタリア口径の真似ではなく、単純にソ連の同格品を作ろうとしたのかもしれない。

 野砲はすべて1中隊が3門で、特異。
 師団砲兵は12榴が計9門、野砲が計12門だった。
 軍団砲兵は、10加が計9門、15榴が計18門だった。

 師団砲兵のアイテムには……
 新式76ミリ野。S7パレードに表れ、砲身長く、砲口制退機有り。
 1900年または1902年式76ミリ野。レンジ8500m。
 1909年または1910年式122ミリ榴。レンジ7600m曲射。すでに旧式。

 軍団砲兵のアイテムには……
 1910年式107ミリ加。レンジ12700mシュネデル製。※日本の14年式はコレの追随か。
 1910年式152ミリ榴。7600m。

 山砲には、1909年式76ミリ。レンジ7000m。

 騎砲兵のアイテムには……
 1902年式76ミリ騎砲。
 1909年式76ミリ山騎砲。

 重砲(諸元は参本調整の『蘇連邦軍要覧』を見よ)には……
 ウィケルス式120加。※ソの122ミリはもともとヴィッカーズ?
 1904年式155加。
 シュナイダー式155加。以上は対砲兵戦用。
 ウィケルス203榴。
 シュナイダー280榴。以上はべトン陣地破壊用。
 カネ式155加。
 254ミリ海岸加農。以上は陣地砲兵。
 オブホフスキー製305ミリ榴。陣地砲兵。特別強固目標。

 高射のアイテムには……
 1914/1915年式76ミリ高。現制式。高度5500m、トラクター牽引。
 ボフォース80ミリ。試験中。トルコを通じて買った模様。高度9700m。
 「ビ」式40ミリ機関砲。情況不明。高度4600m。
 エリコン20ミリ両用機関砲。数十門購入。

 探照燈は米「スペリー」式を輸入。電気FCSも米から購入、研究中と。

 蘇軍は手榴弾を重要視し、歩騎兵は略々手榴弾嚢を有し、其内に最小限2発を携行す(p.61)。※やはりシナ軍の手榴弾主義はソ連譲りだったのか?

 “1931年砲兵必携”によると……
 76ミリの炸薬量は約0.785kgのトリニトロトリオール。
 122ミリは地雷弾で4.312kgの炸薬。
 107ミリはトロチルで2.048kgの炸薬。※日本の10加はまったく負けている。
 152ミリは地雷弾で8.8kgの炸薬。

 TKの新編成として、Ptは5、Coは16、Bnは50両に改編中。
 現在蘇軍所要戦車数は1453両。ただし旧式豆式全部含む。

 装甲自動車のアイテムには……
 A.b27年型。
 六輪型。
 ブロネフォード型。以上新型。
 オスチン型。
 フィアット型。
 蘇軍型半装軌。以上旧型。

 牽引車のアイテムには……
 ボリシェウィク型。高射砲用。トレーラー複数を引く。
 コムナール型。20H、15H用。農業用に普及させて徴用する政策。
 テイヤガチ。シトロエン・ケグレス型。1930-1建造。

 ゲペウ自転車隊と、宣伝用印刷車が存在(p.94)。

▼S53年『防大紀要 第三十六輯 体育学篇』兼坂弘道「軍隊剣術の変遷(1)」

 維新後の軍隊では槍術中心の銃剣用法が行われていた(p.145)。

 山県の命名になる抜刀隊とは、剣術に自信なきため突撃発起できない官兵に勢を与えるために西南役中に選抜されたもと士族の警視ら。
 同役では洋式片手剣に対する日本式両手[もろて]軍刀術の優秀さが立証された。

 1660にフランドルの戦闘でルイ14世の兵士が短剣を銃口に縛着した。1670バイヨンヌ氏が実用化。さらにヴォーバンが装着法を改良。1703には槍は駆逐された。

 M10前後、真剣勝負にて軍刀の不利あきらかとなり、銃剣が採用さる。

 日本文献中の矛の初登場は古事記の「天の沼矛」「国平の広矛」。
 日本書紀・皇極3年に、長槍[ながほこ]と見えるのが槍の字の初出。

 建武元年の戦で「長柄」の負傷者が記される。槍の実戦投入(南部文書)。
 次が太平記の建武3年の二井寺衆徒のもちものとして登場する。

 宝蔵院流は、僧徒がはじめた。

▼諏訪哲郎『現代中国の構図』
 人民公社は対ソ戦の要砦としてつくられ、農業的な意義は無かったと。

田中清行氏の出馬に驚く。

あーびっくりした。

摘録とコメント。

▼杉江重誠『ガラス』昭和15年・改訂四版(初版S8年)

 内部に真空の空洞をもつガラス煉瓦。音と熱を伝えない。このガラス中空煉瓦だけで1933にシカゴでビルが建てられた。窓がないのに採光できる。

 ヨハネ黙示録に「水晶に似たる玻璃の海」と出るのはガラスの海のこと。
 石英質の砂、ソーダ灰、石灰石粉末をルツボで溶かすとガラスができる。
 出雲の国司が朝廷に毎年献上した美富岐玉とはガラス玉。

 日本のめがねは元和年間に浜田彌兵衛が東南アジアで学んできた。
 明和年代まで諸大名は、ビール瓶のようなくだらない舶来ガラス製品の購入のために大金を使った。

 日本の板ガラス生産高はS12年に世界一になった。重要輸出品。
 ところが必須の原料である硼酸・硼砂は国内で採れない。これがないと耐熱ガラス(硼珪ガラス)ができない。※つまりは防弾ガラスができない。

 ガラス製造はたぶん、エジプトで磁器のうわぐすり(釉薬)から発達した。
 梵語の「ルリベイドリヤ」がポルトガル語のvidroになり、そこから「瑠璃」「ビードロ」になった。七宝流しとも。

 ギヤマンはオランダ語のdiamantから。
 玻璃はラテン語のpolireから。

 ガラス製造屋は玉屋といった。
 「硝子」は江戸時代には「びいどろ」と読んでいた。それが大正13年いらい常用漢字の選定がなされて、「がらす」としか読めないようにされた。昔は「ガラス」などとは決して読まなかったのだが……。

 昭和6年からはケミカル/ファーマシーの分野で用語用字の統一平明化の作業が進められている。

 ガラスは珪酸のアルカリの混合物だから基本的に水には溶ける。耐熱パイレックスでも一日煮沸すれば鱗状片が生成する。
 だからガラス容器による化学実験ではアルカリ化を予期しなければならない。

 どんなガラスでも苛性アルカリには侵されやすい。
 ヂルコンをまぜると耐アルカリでは最強のガラスが作れるが、日本国内に産しない。

 硼酸がガラスの膨張率を小にし、弾性を増す。つまり温度変化に耐えさせる。
 1400度で溶ける。それを400~500度の雰囲気のなかで数時間かけて冷やす。
 昔は鋳型だと表面がザラついてだめなので、水にぬらした木型でガラス製品をつくった。

 ポンペイの廃墟の浴場に、厚さ半吋のガラス窓が使われていた。
 スティンドグラスは12世紀から。
 摺りガラス=マットグラスは人工的に傷をつけたものなので、きわめて割れ易い。

 表面張力があって糸状に縮まろうとする溶けたガラスをいかにして板状のままひきあげていけるかが工業量産のブレークスルーだった。
 ひきあげる速度を増せばガラスは薄くなる。写真乾板用の薄ガラスをこの方法で昭和7年から国産できるようになった。

 凸凹模様をガラス製造段階でプレスによってつけてしまうのを「型板ガラス」と呼ぶ。これは摺りガラスとは逆に割れ難い。
 昭和10年に2ミリ薄(世界最薄)の型板ガラスが国産化され、これが障子や住宅の戸に大量に利用されるようになっている。

 シリカ、酸化アルミ、酸化マグネシウムを多くし、酸化ナトリウム(ソーダ/アルカリ)を少なくした板ガラスは、雨や大気中の湿気で浸食されにくい。よって国産ガラスはすべてこれ。外国のガラスはこの配慮がないので、日本で使うとすぐに光沢を失う。

 古いガラスは素材中に鉄分が不純物として含有されており、そのために青緑色がかっていた。鉄分1%含有の厚さ4.5ミリの板ガラスは、太陽熱線のほぼ全部を吸収し、室内に熱を透過させないという特性がある。
 その代り熱を吸収して膨張しやすいから網入りの天窓ガラスとしては甚だ不適。

 支那事変直後に金属の代用品としてガスラ(グラス・ファイバー)が開発され、ネクタイやテーブルクロスをガラス綿だけで試作した。「ガラスの弾丸」も研究中(p.91)。※ホーローびきの拳銃弾ならば今日あるが……。

 そもそもグラスファイバーは1904に工業化されている。溶けたガラスを引き伸ばせば糸になることは紀元前から知られていた。
 WWⅠで石綿輸入が途絶したドイツがガラス綿を1914に大々的に工業化。また各国でも主に船舶の断熱用にガラス綿を試した。
 1914にロシア軍艦セバストポール(長さ450呎)は艦内の熱絶材料にグラスウールを用い、それによって380トン軽くなり、喫水が4吋浅くなった。
 しかし講和後は競争力がなく、また石綿が復活した。

 グラスファイバーは細ければ細いほど引っ張り力に耐える。それを撚り糸にすれば、ピアノ線の三分の一の強度にはなる。

 ロックウールは溶岩、玄武岩、安山岩を原料とした人工繊維。グラスファイバーは絹光沢の白色だが、ロックウールは茶褐色または灰緑色。ガラス綿より低廉。

 割れても飛び散らない安全ガラスはフランスの化学実験室で偶然のことから1903に着想され、二枚の板でセルロイドを挟んだトリプレックスとなる。
 非常に高価だが1924から箱型自動車の窓に採用された。自動車事故の怪我の半数がガラス切り傷によるものであったため。
 1930からは挟むフィルムが酢酸繊維になる。目下はビニール系とアクリル系を試験中。

 ガラスを製造工程で急冷すると表面が先に冷え、内部が後から収縮するので強力な引っ張り力が残る。これを叩いてもなかなか割れず、もし割れるときには一瞬に粉微塵になる。粒には鋭角がなく、手で掴んでも怪我をしない。これが強化ガラス。
 強化ガラスは切断加工ができない(すれば全部が粉微塵となる)。だから最初から製品寸法にしておいて熱処理をするしかない。強度は普通のガラスの7倍。

 カメラや望遠鏡に使うガラスは optical glass という。
 他の製品との違いは内部に「筋」が無い。逆に「泡」がわずかに残る。泡がまったくなくなるほどゆっくり製造していると、坩堝の内壁から不純物が吸収されてしまうため。
 鉄分含有は禁物。紫外線をブロックしてしまうので。

 天体観測用の大形レンズは冷却に数ヵ月かける。1時間にコンマ数℃づつ下げていく。 新しく買ったセトモノやガラスを水で煮ても硬くなることはない。このような迷信がなぜか家庭にある。

 スティンド・グラスは、断面がI字形、またはU字溝のある鉛のリボンでガラス板同士の境界をつないでいる。ガラス断面にもそれに対応した凹凸を彫る。日本では明治34年に製作された。

 重いガラスほど屈折率が大きい。鉛成分を30%も加えてもガラスは透明である。しかも比重から屈折大となり、光輝燦然としてくる。バリウムも。

 独のエナガラスのショット氏が紫外線を透過するガラスを1903に開発した。これで天文観測が飛躍的にパワーアップした。

 鉄、マンガン、銅を多量に加えると黒色ガラスができる。これにさらにニッケルを多量に加えると、紫外線だけを通すガラスになる。厚さは1ミリ半。これで暗中信号機ができる。20燭光で8哩の遠距離に通信できる。艦隊の無灯火行動に使える(pp.186-7)。

 紫外線写真は、証書の改竄痕を見破るのにたいへん重宝する。水の染み跡が可視化される。インキを消した跡も見える。

 眼鏡レンズはいかに透明でも9%の光は反射しているから、裸眼より9%暗い世界を眺めているのである。

 河原や砂浜に落ちている砂は鉄分が含まれているので、そこから造ったガラスは濃い緑青色にしかならない。
 ビール瓶は昔から鉄とマンガンで黒くしたガラスを使う。昭和の初めころに一瞬だけ、無色透明のビール瓶が製造されたが、すぐ元にもどった。
 大衆酒の瓶は大量に製造しなければならないので安い珪砂を使う。すると鉄分のため青いガラスになる(当時のふつうの一升瓶はコレ)が、これが面白くないのでさらにマンガンを加えて真っ黒にするのだ。

 明治19年のコレラ流行で生水が飲めなくなり、ラムネが普及した。今の玉壜はM30頃に登場した。

 普通のガラスで耐熱させようと思ったら、極力薄くするしか方法はない。
 パイレックスはアルカリ土類と重金属元素を含まない硼珪ガラス。

 体温計の計測時間を縮めるには水銀柱を細くするしかない。だが円形断面で細くすると目盛りが読めないので、楕円断面とする。その長軸でもなんと0.05ミリにする。
 ガラスは経年変化する。そのため古い体温計は、初期設定よりも高めの温度表示をするようになる。

 水晶の眼鏡(本玉眼鏡)はよくない。紫外線と熱線を全部通してしまうから。これはすでに文化3年に警告されていた。本玉でない江戸時代の眼鏡は、青みがかったガラスであった。

 鏡は影見。天の香具山の銅から日像の鏡を鋳たのが八咫鏡。
 現在のガラス鏡は銀メッキ。その以前は錫アマルガム。錫箔を貼り、水銀を塗り、1ヵ月後に水銀を除いた。

 銀メッキ法は1843に外国で発明された。銀引[ギンビキ]という。最終工程でベンガラまたは鉛丹を、剥離防止剤として刷毛塗りする。
 鏡の良し悪しは、表面に直角に掌をあて、それを横から見て像と比べて見ればわかる。
 銀メッキを極く薄くすればマジックミラーになる。
 模造真珠は太刀魚の鱗を溶かしてガラス玉に塗ったもの。

 天然宝石はガラスよりも熱伝導率が大きいので、冷たく感ずる。判断センサーには舌先が一番である。ガラスより冷たいと感じたらホンモノだ。水晶はこれで確実に分かる。
 科学的には紫外線を当てると蛍光の差で分かる。

 天王星が発見された数年後に新元素がみつかり、ウランと名づけられた。ついで同じ硫黄属の新元素がみつかった。地球を意味するtellusからテルルと名づけた。その数年後にセレンが発見された。これはギリシャ語の月(selene)から。

 日本の元素名はドイツ語系統が正式なのでウラン。ウラニウムは英語。
 ガラス戸をガタンと開けると必ず隅の方で割れる。
 熱湯でガラスが割れるときは曲線で割れる。ギザギザにはならない。

 レンズに黴は生えない。生えているところを拡大観察すれば、必ずダニの死骸があるはずだ。
 石英灯は大正13年に国産化された。2000度で溶かす。

 光学ガラスは、ドイツのエナガラス、英のチャンスブラザース、仏のパラマントアからの輸入であったが、「日支事変勃発と共に日本光学、小原光学等の各会社も亦光学ガラス製造設備の拡充を計り、主要軍需資材供給の重責を分担してゐる」(pp.287-8)。

 戦車、装甲自動車、装甲トラック、飛行機の窓ガラスには必ず安全ガラスや防弾ガラス(強化ガラス)が嵌込んである(p.288)。
 1787創立のマサチューセッツのボストンクラウンガラス会社は、州議会から、従業員の兵役義務を免除された?(p.294)。

 明治8年に『七一雑報』という雑誌があった。日本のプロテスタントがつくった最初の雑誌。この第一号の巻頭はガラスの記事である。※あるいは北海道開拓と関係があったのか。

 板ガラスの反射を使った手品のたねあかしは、阿部徳蔵『奇術随筆』にある。
 同じく西洋劇場の幽霊の出し方については、明治12年刊の『御伽秘事枕』。

 川柳ではびいどろは美人の隠語。

 十年ほど前に無色に近い透明なベークライト、正確に云って今のプラスチツクス(合成樹脂)ができたときに誰かがこれを有機ガラスとなづけた。

 安物石鹸には水ガラスが入っており、いつまでも手がヌルヌルする。

 明治40年頃まで汽車の窓ガラスには白ペンキで横線が太く引いてあった。窓があると知らずに頭を激突させる乗客が多かった。今でもまだ、ショーケースにガラス戸があることを忘れて横合いからさしのばした手を打ちつけ、きまりの悪い思いを苦笑にまぎらすことも度々である(pp.315-6)。

 マタイはなぜ新しい葡萄酒を古い革嚢に入れるなと言ったのか。新酒は醗酵が続いており、そのガス圧で古い嚢は破れて使い物にならなくなり、酒もまたこぼれてしまうから。

 明治5年9月に仁徳天皇陵の南の昇り口が崩壊して石郭があらわれた。その中に石棺があり、ガラス器が2箇あった。
 幕末の国産無色壜はほとんど薬用に造られた。

▼W.F.Wilonguby “Government Organization War Time and After”『世界大戦における米国総動員概説』資源局 ed. S9年、原1919

 WWⅠ中のロシア小麦はなお米市場を破壊し得た。
 そのロシアに休戦後は食糧を供給する必要がある。

 石炭は貯蔵に適さない。だからすぐ運び出せる鉄道のcapacityに生産量も制限を受けてしまう。

 「合衆国内に居住するドイツの臣民と取引するに際しては……単に彼等の国籍がドイツ人たるの事実のみを以てしては……『敵国人』と為さず」(p.163)。

 航空局は1917-6-30に「リヴァチー・モウター」を完成した。標準発動機。

▼C.G.Dawes『欧州戦に於ける連合軍軍需補給の実績』S2年

 1914以前は、補給の如き特殊事項を担任する将校は、劣等部類に属する者と看做されたることも少なくない(p.11)。 

 1918-10-31時点の貨物自動車数。米29869、英31770、仏80044、白4192、以上在仏。伊28600(在仏+在伊)。

 1918-10-31の在フランダースの獣数。米163795、英382927、仏642984、白38118、伊6804。

 同日・同所、自動小銃&MG数。米68011、英52145(ビッカース、ルイス、ホチキス含む)、仏75500、白4333、伊444(本国分含まず)。

 同日・同所の重砲弾薬(野砲クラスを含まない)数。米122431発(+さらに野戦軍より後方に310842発)、英3760896発(+216457)、仏2944400(+216457=英と同じ)、白33800(+225000)、伊14342(+225000=白と同じ)。

 英でsuppliesといえば、糧秣、油脂のことに限定され、米のsuppliesと対応する語はstoreだった。
 戦時中米国はFuel Administrationを設ける。
 アルゴンヌ~ミューズの戦闘では米軍は毎日15万トンのガソリンを消費した(p.110)。
 欧州各国にて使用せる鉄道用貨車平均で10t積載。平均速度は15~40km/hを超えない。
 動物輓曳車は1200~1500kgを積む。トラックは平均3tだった。前者は1日25km推進した。後者は80km/day。

 悪路の輓曳は300kgを毎時4km進められたのみ。
 空輸は末期に僅かに実施。
 恐怖心をおこさない騾が前線では100kgを運んだ。4km/hで30km/dayも。

 仏軍のソンム戦傷者はすべて河川で後送された。200tを4km/hで推進できたが、夜は動かせず、また長距離には却って不利。米軍は河川は利用せず。

 白、伊軍はTK遂に使わなかった(p.190)。

 米第一軍の9-26の発射弾数。75ミリ砲を322438発、2805トン。95ミリ砲を1347発、19トン。105ミリ砲を19476発、351トン。120ミリ砲を4317発、99トン。145ミリ砲を3905発、155トン。155GPFLPを3470発、1768トン。155Hを76918発、3700トン。220Hを2836発、312トン。

▼ Stephen Possony『今日の戦争』大内愛七 tr. S15年
 著者はオーストリア人。岩波刊なのでかなり多数の日本人が読んだ筈。

 訳者序、事変目的達成のために努力しつつあるわが国の産業界は、計画性が不徹底で、産業界自体が現代戦争に必要な資材の大きさを知らない。

 1934資料で、1梃のMGは前方2km、戦線13mを守り得るとされる。1km正面の防御には80~100梃いる。MGは6ヶ月ごとに取り換えを要する。

 当時の兵員トラックは15人とその必要物資を運べる。
 筆者はTKの最盛時は終わったとする。スペイン内乱より。
 スペインではGunとTKと爆撃機を同時に使用した時のみ戦線突破できた。

 WWⅠ中に爆撃で破壊された橋はない。
 WWⅠ中、対空砲の命中率は11000発分の1発から、1500発分の1発に向上した(p.58)。

 WWⅠ末のドイツで不足欠乏したのは、平時なら自給していた石炭や硝石であった。
 農産物の平時大量貯蔵こそは戦時の値上がりを防ぐ(p.152)。

 「総バーター勘定貿易」は、時の経過とともに、同一量の輸入を獲得するためにヨリ多くの財を輸出せねばならなくなる。これは1937に理論化されている。

 農民は労働者以上に国を愛しもせず、健康でもない(p.183)。

▼M.Debney『戦争と人』S19年
 ※タイトルの「人」とは「器材」の対概念。

 戦後、敗者の側には回想録が続出する。1871後の仏、1918語の独然り。

 WWⅠの仏将校は、普仏敗戦を体験した教官に育てられた。
 陸大卒業生は、「軍内貴族階級」「青年トルコ党」であった。

 ヒンデンブルク線=ジークフリート線。

 英軍は大会戦の後には詳細な会戦広報を出して国民を納得させた。フランスはこれをしなかった(p.34)。

 「器材戦」は必然的に「期限付戦争」を指向せざるを得ない。
 ルーデンドルフは自動車で麾下の徒歩旅団を誘導しつつ、リェージュ周辺の築城陣地に突然侵入した。

 馬匹はWWⅠ中、1日30kmの速度で前線~後方を往復。自動車はその3倍の距離を無休止で走った。
 1794仏将Pichegruは結氷に乗じ軽騎兵を以て北海テクセル島のオランダ艦隊を拿捕した。

 下級幹部は近代戦に於いて初めて重要な存在となった。
 フランス人は兵卒であっても指揮することが好きである(p.124)。
 フレデリックは敵近く行進して、会戦を拒否して遠ざかることができた。火器射程の関係により。

 仏軍操典の扉には「軍紀は軍の最も肝要な力……」と記してある。※これを真似して「承詔必謹」なのだな。

 「緒戦で戦争に勝てるのだ」と、「成功が確認できた場所に予備を進出させる」──この1870戦訓を、独はWWⅠでも墨守した。戦略的な“方向”が無視された。

 要塞は器材戦「兵器」であり、守勢をとる軍隊にあっては器材の価値が人間の価値を補い得る(pp.224-5)。※マジノ線の理由。

 ソンムでは塹壕がきわめて早期に粉砕され、兵は砲弾孔に陣替えしなければならならかった。だから永久陣地で人を節約汁。

 1882の仏教育改革いらい、百科事典主義が支配的。スペル、作文、判断の学力は低下。詰め込み式。「科学精神」をもつ若い世代をつくるという掛け声だが。専門教科がやたらに増やされ、膨張し、文部省に捨拾選択の自信はない(pp.275-6)。

 1917の仏軍反乱は統帥部に対してであって直上将校にではない。1918末の独軍反乱は、異階級人たる将校団に向けられた。
 デブネが戦場でみたのは、智者の崩壊と勇者の出現(pp.287-9)。

 航空写真標定と迫撃砲により、塹壕と鉄条網を攻撃前に爆砕しやすくなった。1918頃。 しかしコンクリート要塞は別だった。※だからマジノ線。

 仏政治家は会議冒頭では学のあるところをみせるが、やがてアングロサクソンの細部的、実証的な反論に尻尾を巻く(pp.300-1)。※フォッシュに欠けていたもの。

 普仏戦の敗因はアフリカ植民地の戦争しか知らない将校(p.304)。

 「La Paliceの真理」(p.333)。※1470~1525の仏将でPavieの戦いで戦死。最後まで勇敢に戦ったことを仏詩では「死ぬ前、元気だった」という。ここから「あたりまえ」の意に。
 遅蒔きの名案は大破局の註釈でしかない。

 フランス陸軍に於ては、参謀部が統帥(司令官)の代りをしたことはない(p.353)。独では皇太子を高級統帥者にしなければならないので、参謀がその無能を補う。

 独断=Initiative (p.356)。

 プロシアは自己の作戦計画は同盟国に知らせないが、同盟国の作戦計画に対しては閲覧の権を保有する(p.385)。

 多くのフランス人が権威の体制を待望しているにせよ、それは当然権威の中にこそ自由の真の保証者があると見るからである(p.433)。

▼川越重昌『兵学者佐藤信深淵』S18年

 信淵の没後3年目にペリー来着。
 「兵法一家言」中に、狩りで鎗刀にて打ち止めたり高崖からおっこちたことがあるが、刀も脇差も思いの外にその身は曲がるものだ、と。

 戦法の特色は、十分な楯によって敵陣に肉迫しようとすること。
 斬馬刀とは6尺棒の先につけた太刀で馬の脚を薙ぐもの(p.34)。

 ナポレオンは信淵と同年に生れた。
 「ワッソク」……背へ斜めに掛ける負い方(p.305)。

▼『眞山靑果全集 第十四巻』S51年
 附録の「月報」で福田恆存は激賞。西洋の作劇術を日本で最初にものにした人で、日本の近代演劇史に残る唯一の劇作家だと。菊池寛もかなわないと。
 東北出身。松竹の座付きになった。しかし晩年は数万人に一人の病気にかかって病床。
 M40の測量士は「××チェイン○○リンク」と測り回る。

 M40の自費出版には3000円かかる。
 「学派と学閥の闘争以外に何んの能も無い日本の学者達だ」
 北極探検では犬ぞりに鎗をもって乗る。

 M41の爪きりはハサミ
 「私どもの若い時にや、思ふの考へるのと云ふことが無かつたものだ」

 エスカリオテのユダが銀30枚でキリストを敵にわたした後、その罪を悔やみ、指を噛み、地を凝視して悄然と樹下に佇立する絵。
 If he had not been born. ……これはキリストがユダを呪った言葉としてマタイ伝に見える。その方が幸せだったと。

※とかく指先が震える人物が出る。著者は書痙か?

 M42、散弾の送蓋に「ワッパ」とルビ。
 2連銃に35円は出すが40円は出さないと。

 仙台藩では親不孝者は城下の芭蕉の辻で鋸引きにされた。
 暴れ者をとりおさえるには、細引きではない綱のようなものを被せるとよい。
 「財産を保護する為なら、法律上殺しても無論不論罪[ふろんざい]です」

 電柱には「コールタ」を塗る
 M40にお歯黒剥げした下女
 縄鳴子を張って待ち構へていると

 早稲田田圃に高圧電気の原導線を
 肱木の下には金網。万一切れた用心

 落合の火葬場の先にはまだ空地がある
 郊外が開ける前駆者は、湯屋と理髪屋
 石竹色=ピンク

※「大塩平八郎」大15雑誌『中央公論』発表。これほどクーデター決行者の緊張感になりきって表現しているフィクションは見たことがない。昭和の青年将校が刺激を受けたのは確実である。また、平八郎に対する河合のツッコミ、これは三島に対する森田のケシカケと同じではなかったのか。

 一日一度は川べりを散策しないと気色が悪い
 小前小者の貧民が御器をもたない新乞食となっていた

 兵庫の豪商北風荘右衛門が大塩らの上司の役人としめしあわせて西宮に内密の米市場をたてて、大坂に入津する諸国米を関東にまわしている

 檄文も配布してある(p.631)。※「檄文」はおかしいという人がいたが、実はおかしくなかったことがこれで分かる。檄は飛ばすものだが、撒くのは檄文で良いのだ。

 刀は仕損じる、槍で突け
 この混雑のなかに、常に知らない静かさがシインと聞えるやうな気がします。
 「大小を差していては人目にかゝるだらう」平八郎、大小を河中に投ず。

 真山の中学同級生が吉野作造。
 最後に常に自己にかえろうとする人間を描いた。

▼田中・藤巻・星野共著『不動明王』

 貴族の調伏合戦が、強そうな忿怒身像のファンを増やした。
 道長は法成寺を建立したとき、1万体もの不動尊を造像供養した。

 摂関期~平安末には修験道が不動信仰を庶民に広めた。

 右手の宝剣は慧刀と呼ばれる。智恵を「智慧」と書くのは不動明王の効験にあやかろうとしたもの。
 光背は迦楼羅炎と呼ばれる。

 日本では大師様と十九観と2様式あり、後者は古代インドの奴隷を彷彿とさせる醜悪な姿。※左肩に1本だけ垂らす弁髪は奴隷の髪形なのか?

 五大明王のうち3体は虎皮裙[こひくん]。また降三世明王の場合は獅噛[しがみ]の飾りも。※ある人いわく仁王の虎皮はヘラクレスなのであると。この場合は如何。

著者も新刊ゲット!(爆)

 一部書店店頭に出るより遅く、著者のもとにも『大東亜戦争の謎を解く』の見本が届けられますた(昨日)。
 おやっと思ったのがイラストです。当初計画では別宮先生のお知り合いの方が素敵な挿絵を描いてくださるというお話だったのでしたが……あれ、どうなっちゃったんですかね? しかし伝統ある『丸』風のイラストをこのようにサクサクッと付けてしまえるのですから光人社さんの実力はさすが凄いものです。また、装丁のソツの無さを御覧ください。装丁やレイアウトは本当にプロとアマの差が出てしまいますからね。やっぱり伊達に老舗じゃないですよ。

 あとがきにも書きましたが、インターネット時代に百科事典みたいな用語解説書をつくってもしょーもないわけです。ですからこの本は用語解説書ではありません。論点提示書であり、仮説集成です。

 どんな論説が載ってゐるか? それは買って読んでくだされとしか申し様は無い。

 反近代的リベラリズムとは所詮、似非リベラルであることを、モダーンの文語を移植される前の頭でも理解できる日本人は、ミリタリー研究者だけのようですね。これは元禄時代に生きた徂徠、白石の頃からそうです。

 戦前・戦中・戦後の日本を混乱させた共産主義は、80年代バブルに駆逐されました。そのバブル以後の日本人を納得させて引っ張っていく規範・指針を、誰もが求めています。
 一時はフランス発の「ポストモダン」がそれではないかと有閑読書階級の一部が思い込んだことがありました。
 が、湾岸危機(デザートシールド)のときに出した新聞広告声明で、もののみごとに彼等の前近代性がバレた。ミリヲタはみんなそれを直感しました。
 元禄時代から日本人が理想と現実を把握する力は、あまり進歩していなかったのです。

 近代(モダーン)の根本義は「公的な約束をしたら、それを破ることを誰もが恥と考える」に帰結します。その結果として社会の自由と平等が両立する。それ以外に、自由と平等への幹線などありはしないんです。
 ところが儒者と共産主義者は、公的な約束を守ることが筆頭にくる大事な人の道なのだとは考えないのです。したがって、儒教徳治主義や共産主義の先には、自由と平等が両立する近代は、あり得ません。
 日本のインテリはなかなかここを学習ができず、敗戦を挟んでなおまだ混乱をしているわけです。近代を理解もしていないのに近代後を論じようというのですから、幼児が自動車を操縦しようとするようなものです。危なくて見ていられない。

 「公的な約束をしたら、それを破ることを恥と考える」かどうかと、その社会の家族構造とは、ある程度、影響し合うでしょう。自分の血族だけが大事な社会(シナ・朝鮮)では、血族外に対する嘘は許されてしまうでしょう。そこから変えない限り、彼等の国内では近代も無い。室町以後の日本は血族社会ではないので、個人が外国に脱出しなくとも近代があり得たのです。ところが内乱防止に役立つと思って教育勅語などという儒教への退行を是としたところから、日本はせっかく離れたシナ・朝鮮(および共産主義者)の同類に、再びなってしまいました。

 新井白石は「国書復号経事」の中で、<いったいに朝鮮人は狡黠にして詐が多く、利の在るところ信義は顧みない。天性、狢の俗だ>と書いているそうです(上垣外憲一『雨森芳洲』)。白石はまた、朝鮮は明から助けられたのに、その明が清に攻められたときには一人の援兵も送ろうとはしなかった、と指摘しているのですけれども、これは公的な約束を破ったケースとは違う。しかし白石は、当時の朝鮮人の中に、デザートシールドの時の日本のポストモダンの連中を視たのでしょう。

 たまたま中公新書の竹内洋氏著『丸山眞男の時代』をサラッと読みまして、うたた今昔の思いをあらたにできました。

 丸山氏は1946年に「超国家主義の論理と心理」という論文を雑誌に載せ、そこでマルクス主義教条ではない「社会学」という舶載新型解剖刀の使い方の手本を日本人に示し、読書階級に大きな知的興奮を与えました。この丸山流の賞味期限はバブル前期まで長く保たれました。
 やはり丸山氏の初期の論文に「軍国支配者の精神形態」というのがあって、東郷茂徳はジョセフ・グルーになぜ宣戦のことも真珠湾のことも一言も言わなかったのかを、自我の弱さから説明していたのですね。米内光政の話も出てきます。

 そう、50年代とか60年代には、こんな固有名詞が読者には無理なく共有されたのです。2000年代の今は、日本がアメリカと戦争したことすら知らぬ日本人に、1945年以前の戦争について何が論点であるのかを説かなければならない。

 丸山氏が把握した価値中立でない戦中日本の超国家主義は、朱子学(=教育勅語)への退行であって、日本人が罹り易いインフルエンザだとは言えても、体質ではありませんでした。
 体質=自我意識の古層といえたのは、日本独特の水利灌漑共同体(それは1950年代末に半滅した)から来ていたものです。そのことは50年代から共産党員の玉城氏が指摘していたのに、丸山氏はじめ誰も理解できませんでした。
 新兵しごきは各国にもありました。古兵にとって新兵はじぶんたちの命を託すにはあまりにも頼りなく見えますので、急いで鍛えなければサバイバルができなかったのです。ドリルサージ(教練軍曹)が率先垂範でそれをやるか、一等兵が事後罰的にそれを代行するかの違いはありました。各国軍のシゴキの実態はベトナム戦争以後の米国映画や80年代以降のルポルタージュで徐々にミリヲタには把握されました。

 『ピンクパンサー』のクルーゾー警部は、ネットの映画予告編の発音を聴いたら「憲兵」だったのですね。この憲兵隊を内務省の機関とせず、陸軍省の機関としたために、明治政体は破壊されてしまったのだという話を、兵頭は1995年頃に雑誌に書いたと思います。そのとき、丸山氏はまだ存命でしたが、末期癌との闘病生活に入っていました(1996-8没)。

 社会構造等を云々する前に、日本人は近代に関して単純に無知なのです。ミリヲタは多少、その無知を覚ることができる。その無知を自覚しなければ、誰にも未来は語れません。

 丸山氏の対極に、「こんどこそはうまくやろう」という「悔恨共同体」の最初期バイブル:林房雄『大東亜戦争肯定論』(1964)がありました。これの延長が「if戦記」です。
 丸山氏にしても林氏にしても、実際の戦争指導の内幕をほとんど理解せずに自論を組み立てていました。

 新刊『大東亜戦争の謎を解く』が、もし1950年代か60年代に出ていたら、そのごの日本人はどうしていたでしょうか。皆様の読後感を承りたいところです。

摘録とコメント(※)

▼S.Glasstone編、武谷三男 tr.『原子力ハンドブック・爆弾編』1958、The Effects of Nuclear Weapons

 弱い力→強い力に変わるとき、エネルギーが放出され、質量が減る。
 1ポンドのウランまたはプルトニウムを完全に分裂させると9千トンのTNT爆破と同じ。
 20キロトン出力を得たいなら理論上は原料2.2ポンドで良いことになる。

 重水素1ポンドをすべて融合させると26千トンのTNT爆発と同じ。
 火球半径以上の高度で爆発させるのが普通である。1Mtなら2900フィートである。

 回折荷重:爆風波が構造物の裏にまわらぬとき、表裏の圧力差により働く力。円柱はこの回折時間が短いため荷重を無視できる(p.86)。※広島では風呂屋の煙突は立ったまま。病院や公共建物は円筒状に汁。

 衝撃波面に続く、突風による動圧荷重を「牽引荷重」と呼ぶ。TNTが1000分のn秒しか続かないのに、1メガトンでは2秒も続き、破壊的。

 巨大壁面構造物は主として回折力を、トラス橋などは牽引力を受ける。

 回折に弱い構造物が特定の被害を受ける範囲は、爆発エネルギーの立方根に、また被害範囲は「三分の二」乗に比例する。
 ex.エネルギーが1000倍になると、同程度の回折型被害の生ずる範囲は、およそ10倍ほどの割合で増加し、被害の起こる面積は約100倍の割でひろがる。

 牽引型被害は、それぞれ上の、10倍以上、100倍以上、となる。というのも、爆心からの距離は、風圧持続時間を縮めず、エネルギーに比例するからである。

 耐震を意図して建てられた現存する構造物で、その重量の10%に等しい横方向荷重に耐えられるようになっているものは、爆風による被害は少ないだろう(p.91)。※つまり今や日本の都市は他国の都市より核攻撃には強い。

 爆風の力は力積impulseでも表わされる。正圧部持続tと、超過圧力の変化を加味したもの。

 異なる出力で同じ被害が出る距離を求める算式(pp.96-7)。
 この本が出た時点ではまだ広島も長崎も20ktとしている。

 日本の鉄筋コンクリート建物の多くが爆風に強かったのは、1923震災後、高さ100ft、垂直荷重の10%の側圧に耐えるべしとの建築規制あったため(p.150)。

 航空機は後上方からの爆風にも弱い。
 地上破壊口の直径は、爆発エネルギーの立方根にほぼ比例して大きくなる。深さは4乗根に比例する(p.191)。

 テフロンを溶かすには、平方センチあたり70カロリーが必要。
 屋根瓦が泡立ったのは40カロリー。

 広島の火災は焼夷弾1000トン分に相当。
 長崎では市街の配置が不規則だったので、火災範囲は広島の四分の一で済んだ。

 熱線がピークに達するまでの時間は、爆発エネルギーの平方根に比例して長くなるので、小型核ほど退避行動が不可能(p.317)。

 1.25マイル以遠では、20キロトンからの初期ガンマ/中性子線は、無遮蔽でも被害を生じない。しかし1キロトン以下では、熱線を上回る到達範囲を有する。※中性子爆弾の明瞭な説明。
 中性子は百分の一秒以内に到達するから、退避行動は無意味(p.345)。※無意味でないという異見も。

 コンクリート、湿った土、酸化鉄鉱石や鋼鉄パンチングのような小さい鉄片を加えてつくった変性(重量)コンクリートは、中性子にもガンマ線にも有効である。※酸化鉄入りのテトラポッドが既にある。

 硼素は遅い中性子をとらえるので、colemanite をコンクリートに混合する。
 ガラスはナトリウムと珪素が主成文なので誘導放射体となる(p.382)。
 木材、繊維は放射性にならない。

 キロトン級から生ずる clouds は対流圏上層に達せず。
 成層圏留分の半数落下は7年。

 米国ではカルシウムの3/4を乳製品から摂る。ストロンチウム90はカルシウムと同じ消化のされ方をするために体内に定着し易い。

 1tのTNT-HEによる標準死者は40人とされる。
 三度の火傷は感染症の危機。ケロイドは通常の焼夷弾攻撃でも発生。
 被曝後の受胎児は奇形にならないようだ。

 ガンマ線を浴びると黒人は爪が青変する(p.464)。
 脱毛には順番があり、睫毛と鬚が先行する。ただし永久脱毛は一例もなし。

 放射線を浴びた海水も蒸留すれば飲料水として完全である(p.508)。※3Fの灰については触れていない。

▼H・トビン『アメリカ総動員計画』邦訳S16年

 南北戦争のとき、北軍は運輸・通信を統制。南軍は経済全般を統制。

 1917~8の経験では、米国の宣伝は主として広報委員会のうけもち。検閲は広報委員会の外、多数の機関によって行われた(p.59)。

 米のWWⅠ参戦熱に着火成功したのは、広報委ジョージ・クリール配下の素人宣伝家(p.60)。

 検事総長は25万人の志願者に政府の徽章を与え、破壊活動の狩り出し権をもたせた(p.71)。
 事前検閲は出版、報道、映画界に浸透。

 検閲に逆らい、榴霰弾の無効を公けにし、英陸軍にHEを採用させたのは、新聞。

 英はWWⅠの初期でドイツ宣伝ラジオをJamせず、反対宣伝で臨むことを決心。

 WWⅠ中の兵役拒否者は1500人だけだった。宗教者は除く(p.85)。
 米にはヴィッカーズやクルップに相当する大手兵器私企業なし。

▼伊藤博文 ed.『兵政関係資料』S10年

 鎮守府は、海軍の城郭たり。根拠地たり。
 横須賀鎮守府だけでは、九州や北海道沖で損傷した船がたどりつけまい(pp.12-3)。

 室蘭と舞鶴は対露用。佐世保は対支用。

 独人イヤリング教授いわく、日本は島国なのだから皇子孫は海軍に従事させろ。ロシアは皇太子を陸軍、第二皇子を海軍に入れている。日本はその逆をやれ。兵学校は江田島ではなく東京に置け。

 当時の三海峡は、紀井~淡路、伊予~豊後、長門~豊前。これ以外は封鎖できる実力がなかった。

 アナポリス優等生は英仏に留学させていた。

 北海道を防御したくば、本州から援助できる港湾に要塞をつくれ。函館と室蘭を考えろ(p.133)。

 M24の有地中将意見。スエズ運河は喫水25呎以上の船は通れないから、ヨーロッパが日本を攻めるにはケープを回る他ない。しかるに英仏露伊西の戦闘艦は1艦あたり877トンの炭量。戦時全力一昼夜で302トン消費する。つまり877トンは2日強で尽きる。経済速力でも5日しかもたない(仏海軍が証拠)。いろいろ考えると敵艦隊は4日毎に積み込みの要あり。香港、上海に石炭を供給しているのは、他ならぬ日本だから、連中に勝ち目は無い(pp.198-9)。

▼アラン・ムーアヘッド『ガリポリ』

 青年トルコ党の50%がユダヤ人で95%はフリーメイソンのメンバー(p.26)。ローマンカトリックは彼等を毛嫌いする。

 破産の脅しは抑止力にならない(p.37)。
 厳寒のダーダネルスには黒海から流氷が漂うことがある。

 この作戦には観測水上機を除き航空機は不参加?
 英のテストでは、透明度が良ければ機上から18フィートの深さの機雷を視認できる。

 たとえ老朽艦であっても「艦は人間よりも大切であるというのが全海軍の伝統であり、艦長たるものはどれだけの人命を犠牲にしようとも、艦を守り抜くようにつとめなれければならないのであった」(p.121)。※この義務あるがゆえに英国では艦長は最後は必ず船と運命を共にしなければならないのである。水夫に死を命じている以上は。

▼コルマル・フォン・デル・ゴルツ元帥著、フリードリヒ・フォン・デル・ゴルツ大佐補『国民皆兵論』陸大 tr.大15
 ※ゴルツ元帥は少佐時代、1883に普仏戦を総括した本を書いている。本書はWWⅠ後の読者対象。

 緒言、モルトケはクラウゼヴィッツの門弟だ。クラウゼヴィッツは近代におけるすべての軍事研究者の師だが、WWⅠを想像できなかった。

 大口径モーターは遅発信管。
 英の封鎖はハンニバル包囲の現代版だ。戦理は変わらぬ。

 大戦開始の際に4000万の人口の仏国が6700万のドイツと同等の常備軍をもっていた。
 参加総員の約半数の死傷者を出したボロジノ、アイラウの如き会戦は、大戦中に一度も見ることはできなかった。

 スーパー新兵器をすべての国が持たない限り、世界平和は無い。
 すべて新たにできた兵器はその法則をみずから作る。

 1813年以降、普国に於いては兵役は国民の当然負担すべき名誉の責務なりとの意見が行わるに至った。

 WWⅠの軍団の最後尾は1日行程分後方の路上にあるので、軍団が同時に戦闘に加入することはできなかった。稀に1日50km歩いたことも(p.47)。

 WWⅠ中、独はDをもって最大の戦術単位にするに至る。
 クラウゼヴィッツは、2単位制軍隊だと、その司令官は何もできなくなると警告す。
 騎兵と輜重縦列は、特に敵航空機に対して脆弱。

 以前は1000名よりなるBnが最小戦闘単位だったのに、今日では中隊~分隊も戦闘単位である。
 普仏役において加農/榴弾砲が敵の榴弾で損傷することがまったくなかった。

 WWⅠの偵察機は3機編隊で行動した。
 運動性劣る重爆は夜のみ使用され、昼は軽爆が出撃。※飛行船も。

 ベルサイユ条約は、観測気球や対戦車ライフルまで禁止してしまった。
 WWⅠ型LTKは「特製の自動車に載せて運搬し得」(p.76)。

 WWⅠ後、将校団は目の敵にされた。
 WWⅠ中、15万人の新任将校が、凡らゆる社会、凡らゆる職業より採用された。
 普仏戦時の仏軍将校の命令書は、詳細に過ぎた。ほとんどが9月革命で将校となった人々。

 ナポレオンは41歳で、フリードリヒは48歳で年齢超過を自覚した。
 「政策第一と云うナポレオンの金言」(p.198)。
 クリーグスプラーン:作戦計画←→オペラチオンス・エントウルフ:策動案。

 モルトケはもともと東西同時打撃を考えていたが仏要塞の発達により1878以降は西守東攻派となる。つまりオーストリーと共同でワルシャワあたりで露軍を合撃せむと(pp.258-9)。
 シュリーフェンはなぜそれを変えたか(pp.-260)。

 仏国新聞論調の好戦化は英仏協商後から。
 ~p.262までアロン引用の箇所と思われる。
 ベートマンは参謀本部のベルギー計画を知らなかった(p.266)。
 ※独国内の戦況報道が宜しくなかったのは国内があまりに分裂していたから。

 一等国ではじめて諜報勤務を整然と組織したのは仏(p.300)。

 7年役では戦闘隊形で行軍したので前進に道路を使用することは稀。
 夜行軍および夜間の部隊交替はWWⅠから(p.323)。

 WWⅠ前には「防者は全正面に於て成功した場合にのみ勝利を得るが、攻者は長い戦闘正面の唯だ一点に於て成功すれば、勝利を得る」といわれてきた」(p.358)。
 そこで小部隊による側面攻撃が多用され、常に成功した。

 クラウゼヴィッツが長生きしていたら、攻撃を有利と書き改めたろう(p.361)。
 フリードリヒ『戦争の一般原則』「故に攻撃を敏速に行うに従って、兵卒を失うことが益々少ない」。これは今日にもあてはまる(p.365)。

 「攻者は側面及背面の警戒を……成るべく猛烈に前方に向って攻撃することに依って、之を期すべきである」(p.368)。

 ドイツでは騎兵が軍隊の中でいちばん尊重され、国民の間に一番愛されたが、仏国軍隊では工兵および徒歩砲兵が優待された(p.414)。
 連合軍は後半2年、必ず歩兵の総攻撃にTKを集団的に先導させた。

 大量のガス弾の製造が普通の爆弾よりも容易かつ廉価(p.468)。
 「勇敢なる国民は爆弾やガス弾を以てする空中攻撃のみでは、決して屈服せぬであろう」(p.469)。

 フリードリヒからナポレオンになって、追撃が初めてできるようになった。
 「独断専行」を論ず(pp.530-2)。
 「精鋭な軍といえども、長い間劣悪な敵と戦って居れば、その能力が低下する」(p.541)。

 野戦軍の移動式炊事車は、日露戦争で初使用(p.574)。
 「如何なる史家といえども、支那人が長く存続するの故を以て、之をローマ人やギリシャ人の上に、置く者はあるまい」(p.616)。

摘録とコメント(※)

▼金子有鄰『蹄の音』S37年

 明治の戦闘用馬術を古くは要馬術という。
 日本馬は「馬当て」や人のふみつぶしができるが、西洋馬は不可。

 日本後記の弘仁3年に、「てい齧」(踏む・噛む)の荒馬の話。その脚色が今昔物語に。

 馬は犬と違い、主人の敵は自分の敵とは考えない(p.50)。
 鎗の大事は、突き出したものを掴まれぬこと。大刀では槍の柄は絶対斬れない。

 馬上刀は必然片手刀で、柄も短く、両手ではむしろ不便(p.56)。※だから宮本武蔵。

 佐久間象山は洋鞍をつけていたが、町を歩くときは馬丁の口取りが必要だった。
 槍で払うことを、しばき立てる、という。
 草書では「等」は「傘」と間違えられる。
 陸軍騎兵刀も非常に重かった。

 敵が自分の馬を斬ろうとする場合、これを防いではならず、敵を殺すことに集中。
 動物は怪我に鈍感なので、急所以外の防具は有害。

 馬に乗りなれぬ者の尻は桃尻といわれ、割れていない。
 やぶさめの語源は「矢馳せ馬」。
 古く、落馬とは人馬もろとも倒れること。人だけ落ちるのは「平落」という(p.360)。

 楠討伐戦で馬は役立たず。関東武士の威勢は地に堕ち、名馬思想も廃れた(pp.449-50)。

 北条匡房はオランダ人から攻城、砲術を聞き、兵書をあらわした。※「カチクチ」は「タクティケン」。
 太鼓は胴が長いと遠くに達しない。

 漢武帝より唐までシナ人はアラブ馬を大量に遠征獲得したが、これが三韓を経て我が国に移入された。初見は、神巧17年4月1日、百済よりと(p.504)。
 カウボーイの鐙は、欧州の古型をとどめる。

▼廣瀬清志『統幕議長の地位と権限』1979

 S53年、栗栖統幕議長が「択捉でソ連軍が上陸演習」と言うも、内局が「基地建設だ」とそれを打ち消す。
 が、7-29毎日は、米政府の「択捉ソ連軍演習」の判断を伝う。日米間の制服同志の情報交換が明らかとなって、金丸長官の怒りがバクハツした。

 作戦計画や軍事情勢判断も内局の手中。どんな機密も内局に筒抜け。
 制服は予算調整の権限もなし。

 ガリポリ上陸作戦が、初の陸海統合戦。
 米では軍高級人事は議会管掌。

▼宮崎弘毅『日本の防衛機構』1979

 連合国はMax20万人までの警察官を許可していた。当時、国家地方警察3万、自治体警察95000だったので、余裕分75000人の警察予備隊創設をマックは日本政府に命じた。

 ちなみに日本は4コiDで占領されていた。

 改進党のレトリック。教育の基本規定がないから教育基本法が憲法代わりだ。それと同様、自衛軍についても基本法によって憲法に代え得る、と。

 内局(内部部局)とは、長官官房、防衛局、人事教育局、衛生局、経理局、装備局。
 欧米では軍令は統合幕僚総長が文民長官を補佐する。日本では軍令も内局局長が補佐。 長官と軍人の間はすべて内局官僚がとりしきる。

 三自衛隊の幕僚監部は1951当時の米幕僚本部のコピー。
 国防会議に倒幕議長の常時陪席制度なし。軍事情勢判断への参画権なし。
 S47年、国防会議に国家公安委員長、内閣官房長官等を加えることを閣議決定。

▼御手洗辰雄『山縣有朋』S33年

 生れたのは新暦の6.14、旧暦の4.22で、足軽よりも一つ下の身分。
 松下村塾に10月に入塾したが、松陰は12月下獄した。

 1863-7の薩英戦争のときは、山縣は26歳で、奇兵隊軍監として壇之浦支営の司令。翌年が四国艦隊との戦争。26歳でリューマチス。

 薩長盟約は慶応2年1月。慶応3年5月2日、30歳で京都に行く。同行は鳥尾小弥太、伊集院兼次郎、中村半次郎。馬関で中村と待ち合わせた。5-18に初めて西郷とも会う。6月に京都から帰って7月に結婚。

 前原は陸軍関係の先輩。全く一介の武弁だった。
 親友は従道のみであった。西郷は徴兵で良いと考え、従道をして山縣を助けさせた。

 征韓論のとき、山縣は瘧[おこり]が起こった。※エピレプシー?

 頼山陽の漢詩はシナ人に見せられるようなものではない。

▼藤村道生『山県有朋』S36年

 奇兵隊のときに狂介と名乗る。
 M14、大山とともに東京防衛を建議。

 M8-12に廃刀令を建議。
 M22-2に月曜会を解散させ、偕行社に合一させ、三浦、谷、鳥尾らを予備にし、プロシア主義の外征軍建設で国論をまとめる。
 ※軍人勅諭は山県一人決めの修正憲法なのか?

 生涯の愉快事は、日清戦争で第一軍司令官となったこと。
 戦陣訓の祖形となる最初の命令は、山県がソウルに入ったM27-9-13に出した。

 三国干渉に反発する将軍連を抑えたのは山県の功。
 ニコライ戴冠式へは米国→仏経由で向かった。

 伊藤は大倉ふくむ政商資本家によびかけて政党をつくろうとし、山県は反対した。
 北清事変は山県内閣のときに起こった。

 M37-6、参謀総長になり、兵站総監を兼ねる。M38-12に両職解かる。
 日露戦争で山県は特に大本営に列することが許された。本人は満州軍GHQを望んだが、あまりに細部に口を出す性格なので、天皇が斥けた。

 山県は火鉢やテーブルを叩いて乃木の作戦を批難した。

▼W・ジャクソン『政治地理学』横山昭市 tr. S54年

 脚注、ソ連ではマッキンダー研究は公表されていない。

 南メソポタミアのシュメルの都市国家は確固に独立である。キシュ、ウル、ウルク、ラガシュ等。いずれもジグラットを有し、儀式場から発展した城壁定住地。そこからチグリス上流に殖民された。

 陸では隊商が結び、海ではインダス=ハラッパや紅海と船が行き来した。

 ナイルでは、メソポタミアにおいて不可能であった流域の統一を成功させた。陸では担夫と驢馬の交通に依存。

 フェニキアでは一人の王が多数の独立都市国家を統治。レバノン杉をエジプトまで運び、帰りはパピルスを積む。
 テュロス市は風向きに関係なく船を使うため島の南北に2港を整備し、メソポタミアとは駱駝で連絡した。テュロス商人は紅海まで進出。前814カルタゴ建設。前450にカルタゴ人はブリテン島に到達。

 ロンドンも元々独立都市なので、英国君主は儀式等に限ってロンドン城塞内に入ることを得。

 秦では人工運河が、インカでは道路が、内陸統一を実現した。
 19世紀殖民は鉄道が実現。ex.インド、シベリア、米西部。

 アレクサンダーの広域支配には、二つの首都(出撃拠点)が必要だった。すなわちバビロンとアレクサンドリア。
 始皇帝は長城で間合いをとり、首都から放射道路を造営。

▼青田学『金日成の軍隊』

 1947、日本製武器をソ連製に代え、48-2-8人民軍健軍宣言。

 45-10-25にソ連が空軍を組織してやる。これは海軍とともにまだ人民軍ではなかった。日本、シナの航空学校出身者を集めた。練習機は日本製。
 ※1957にマリノフスキが中共に提案した電波体制とは、SUB用ロランCのこと。

 国連軍が38度線を越えると金は満州の通化に逃げた。12月、平壌を奪回してからは慈江道別午里、または江界にいた。

 中共の抗米援朝志願軍は水中橋であらかじめ豆満、鴨緑江を渡河し、潜伏。
 ※このとき中共軍は石油のほとんどをソ連から補給された。もちろん製品で。そしてソ連自身はこの時期はまだルーマニア油田が頼みだった。とても米軍とは戦えた状態ではなかったので毛沢東をけしかけた。

 ソウル死守を唱える北鮮を中共がオーバーライドして指揮し、退却。※北鮮兵などというものは居らず、全員シナ兵だった。

 1958頃の北鮮軍訓練はすべて夜間と洞穴訓練。
 馬匹は1960's中盤に車両化した。

 FROG-5/7は69から装備。
 南派ゲリラ戦は1965-7にテスト。67から正式に養成。
 金は非正規戦主義に傾き、68に近代化を主張した軍首脳を粛清。

 徴兵は16歳から。
 夏期は人民軍は0500に起床するも、1300~1350午睡あり。
 1988-1のプエブロ号事件で予備「労農赤衛隊」の3割が1週間で師団編成され出動準備。

 主たる基地は平壌~元山線以北の西岸。爆撃機は満州国境に配置。

 69-3に米はフォーカス・レチナ演習。米本土から空輸で援軍を韓国に移動させた。C-130/141など185機で。各機は21時間で到達した。

▼『海外国防資料』S42第27号その2

 朝鮮戦争で米軍1コDの1日あたり所要補給総量は500トン。対する中共は60トン。旧日本軍末期に等しかった。

▼堂揚肇『日本の軍事力』S38年

 SDFの1コDの1日戦時補給量は、糧食30トン、石油50トン、弾薬300トン、その他が35トン。

▼『ソヴィエト年報』S29年

 1927のソ軍はiD×70コに対しTK×180台。
 第二次五ヵ年計画を経て、1937にはiD×100コに対しTK6700台。欧州随一。

▼副島種典『ソヴェト経済の歴史と理論』

 1937にはトラック生産量でも欧州第一位になる。

▼コリン・グレイ『核時代の地政学』

 著者にいわせると、パワーは「攻撃の恐怖からの自由」というネガティヴな安全保障とは無関係で、「米国の価値を発展させること」がパワーであると。

 アトケソン将軍の観察。ソ連の長期目標は、へミスフェリック(半球的)なディナイアル(拒否)だ。

 ヨーロッパ・ロシアには460メートル以上の高地はない。
 黒海←→バルチック海間は1127km。

 コラ半島の海岸線は390kmで、その海岸線から浮氷原端までの平均水路幅は290km。

▼飯田嘉郎『航海術史』

 ヘロドトスによれば、前600エジプト王ネコはフェニキア人に東回りのアフリカ一周を命じた。彼等は沿岸に立ち寄っては種を撒き、収穫しつつ進んで、3年目に戻ってきた。
 前500、カルタゴのハンノ隊は、50橈の船60隻に3000人を乗せてシエラレオネに到着。食糧が尽きて、還る。

 地中海人によるインド洋季節風の発見は前100か。

▼H・シュライバー『道の文化史』邦訳1962

 ギリシャ人は黒海沿岸に殖民市をつくり、農産品を本国に発送した。
 クレタ、古代ギリシャ、エジプトの道路は商用でなく宗教用。

 ペルシャ王の道。ダリウスI世は統治のために道路を整備した。わざと主要な都市を避け、最短距離を通しているので、外敵には利用し得ない。※内線防衛作戦のインフラ。
 ペルシャ湾岸からアドリア海岸までの2500kmを乗馬伝令が10日で駈けた。

 インド初の統一者チャンドラクプタ(前298死)も総延長2400kmの道路を造る。多くの渡し場を摩擦なく運営させた。

 アレクサンドロスはギリシャ人の土木技師団を使い、迂回路の設営によりしばしば会戦せずして勝利を得た(p.32)。
 9万の兵が30km/日のペースでインドに進む。そこにマケドニアから絶えず補給が行なわれた。

 前13世紀のエジプトでは駱駝が知られていない。ロバと牛のみ。十分な水が得られないと南方には交通できなかった。

 ナポレオンの道路建設もローマ人に匹敵。
 前2世紀初頭までイタリアには古い未舗装商業路しかなかった。兵士の無聊からの反乱を予防するため、ローマは平時は軍隊を辺境での道路建設に忙殺させた。
 軍団に先行して道を直す工兵隊はローマ初期から存在。

 しかしローマ人は山間路は嫌い、できれば船、荒天時のみしかたなく海岸道路を歩くというスタイルを好んだ。
 南スペインのオブルコからカエサルは27日でローマに戻った。

 ローマは大規模な占領軍は置かず、わずかな駐屯軍と、道路によって急派できる本国の軍団により支配した。

 コルベールから道路と橋梁の整備を委託されたゴーティエ等、ローマ以後荒れ放題の道路の復旧に着手。近隣に水をあける。
 18世紀半ばまでに、かつてローマが13500km整備していた一級レベルの道路を、フランスは2500km有するようになった。

 1802~5のナポレオンのシンプロン峠道の開設には、発破が使用されている。※1820死の本多利明はとうぜんこうした情報を得ている。

 軍隊は発電所が脆弱であると考え、蒸気機関車を選好した(p.310)。
 ディーゼルエンジンの実用信頼性はWWⅠの潜水艦が初めて証明した。

 WWⅠ後、数十万台のトラックが市場で叩き売られた。
 中世ヨーロッパ人もアルプスの山岳を嫌った。

▼ケネス・マクセイ編『Tank Facts and Feats』1976

 古代の進化した軍事国家アッシリア BC1100~670。ヤギ皮を張って浮航渡河できた3頭曳戦車と弓兵。騎兵なし。

 記録された最初の chariots はBC3500頃、ウルとカルデアのスポークなし4輪・オナジャー4頭曳き・2人乗り車。

 エジプトはウルのスポーク付き戦車をコピーし、BC1680の対ヒッタイト戦に勝利。
 車戦は本質的に個人戦。だから人口が増し、集団戦術に移行すると廃れる。
 装甲騎兵があらわれると、車はそれに対する防護用になりさがった。

 中東では、ローマの Orchomenus の戦い(BC86)が最後。
 実質的にはペルシャがアレクサンダーに敗れたときに終わっていた。

 戦車の君臨期間は3000年で、BC700頃から装甲騎兵の時代になる。これが1000年続いた。

▼秋葉鐐二郎『宇宙開発近未来』1986-12

 抗力は速度の二乗に比例するが、熱の発生率は速度の3乗に比例。

 低軌道200kmの衛星といっても、遠地点では500kmになる。
 高度200kmは真空ではないが、固体が昇華し、消耗してしまう。

 真空中の衛星中のわずかな空気は、放電をきわめて起しやすくする。
 モンゴルフィエIR気球は、地面放射IRを熱源とする半永久高層気球。
 SEU・単一事象アップセットは、放射線によりデジタル記憶の1と0が反転してしまう事故。

 衛星を放射線から守るため、アルミ1ミリ厚板が必要。大気は遮蔽効果あり、高度500km=スペースシャトル高度の円軌道では、人体に影響ない。

 磁場の強さは距離の逆3乗に比例。
 重力は距離の二乗に逆比例(ケプラー法則)。
 軌道の摂動……6要素がゆっくり変化していく。

 ノズルの大きさを見れば、推力もわかってしまう。
 アブレーション断熱材は、シリカガラスで強化したフェノール樹脂。

 WWII中の固体ロケットの評価低かったわけは、今日のコンポジットに比しダブルベースで、工程のフレキシビリティ低かった由。

 液酸液水の実験は50年代の米でやっと。
 ペイロード10~100トンを中型、以下を小型、以上を大型という。
 フォン・ブラウンはV-2に翼つけて射程を延ばそうとした。
 シャトル発射はブースタ全開後、固定ボルトを火薬でふっとばす。

 放熱勢量は、(絶対)温度の4乗に比例。
 宇宙ステーションを回転させた動場でも、三半規管が角速度を検出し、不快。

摘録とコメント。

▼B.ヴォーチェー大佐『ドウーエ将軍の戦争学説』S14年
 著者は仏人。この冊子は『航空記事』5月号附録。

 ペタン元帥の1934-6-7序文付き。※伊の仮想敵は仏。

 空襲は、短期決定的でなければ、敵人民はけっきょく堪えてしまう。※そのような空襲は核攻撃しかないことがイラクで証明された。

 ドウーエは空軍を他の2軍から独立させ、政府直轄の総予備にしようとした(p.52)。※これをチャーチルがエアコマンドで初実現し、それをFDRがイタダいた。

 当時「戦闘機」とは全周火力を有するもので、前方火力のみのものは「駆逐機」(パースーター)と呼んだ。ドウエは前者を推した。※これが数々の双発複座戦闘機を生む。

 空襲では、物心両面に於いて最も敵に苦痛を与える機関を狙え。それが文明的戦争である。またその手段としては毒ガス空襲が結果として人道的である(p.93)。

 ドウエは、破壊第一、屈服第二の主義。「占領は結果にして原因にあらざるなり」(p.108)。

 空中戦力はいざというときまでとっておく切り札ではなく、開戦時に投出すべきもの。

▼末永雅雄『武器史概説』S46年
 ※文献案内が整った一冊。

 鎗の初見は1331(元弘3)の戦闘記事「南部文書」。

 刀剣について。「把の長さが両手の把握に適するようにつくったなどは、剣道による変化と考えられるのであって、中世の初めにはまだ片手把握を普通としているものが多い」(p.16)。

 廻り鉢。上半球が力を受けると回転するようになっている(pp.120-1)。

▼G.チャイルド『歴史のあけぼの』

 第三王朝の終わり、エジプト帆船は170フィートに。
 インダス川流域文明も、小降雨地帯にあり。

 インダス川とその諸支流は、大きな都市人口を養うための食糧を広い地域から集める輸送網になった。西と北は大山脈で、東は大インド沙漠で外敵から間合いがとれた。面積はシュメルの4倍。インダスにロバと駱駝は無い。

 ペルシャ湾からラガシュの農民に、またアラビア海からモヘンジョダロの農民に、海産魚が供給される。石器時代にはなかったこと(p.146)。

 青銅時代では、あまりかさばらない贅沢品しか遠距離に陸上輸送し得ない。
 東地中海文明ではバラ荷は瓶や俵に封印して輸出。

 ハムラビは、ロバに曳かせるソリッドタイヤ戦車に代え、輻つきの軽快な馬曳戦車を用いた。

 エジプトがヒクソスを追い払うためにも馬に曳かせる新式軽戦車を採用せねばならなかった。これがナイルにおける車両の初め(p.174)。
 ※便利なものは、これをフルに利用しないとき、他人が自分を亡ぼす手段になる。

 小アジア高原では、農業用泉が分散していたので都市集中が起こらなかった。

 フェニキア人は、船を漕いでナイル川に8日で到着し、帰路は、風向きが良ければ4日で済んだ。平底船でちょくせつ河岸住民に小間物を売った(p.185)。

 シリアのステップの隊商は、1日30マイルで旅行を続けた。ユーフラテス河岸から東へ360kmいくのに19世紀の記録で10日かけている。

 アッシリア、エジプト、ヒッタイトの中期の安定は、戦車によって官吏や地方行政官が早く旅行できたから(p.198)。

 軽戦車の改良の早さに比べて金属利器の進化は遅い。

 アッシリアは敵住民の皮をはぎ、クイで刺し殺し、運河をうずめたと記録される(p.214)。

 ダリウス~クセルクセスはインドの戦車隊も徴募。新領土の治安維持の組織をつくった。

 航海は不安定なので、陸路の移民よりも文化は混合する。北アフリカの殖民市は、メソポタミアの殖民市ほどには母国フェニキアに似てない。カルタゴが共和国だったとき、フェニキアは中央集権だ。

 前450のアテネは、主食を輸入依存するようになった最初の政体(p.225)。
 ヘレニズム期にロードス島からアレクサンドリアまでの海路4日は縮まらず。

 西アジアでは毎年、ごく短い間だけ雨で隊商路が泥沼化する。北イタリアではローマ道を離れれば周年泥沼。しかしローマ道上では、1台の馬車が1隻のハシケ相当の荷物を運ぶことができた。

 道路が悪いと輸送コストのため非ぜいたく品の工業製品(ex.陶器)の輸出は伸びぬ。すると職人じたいが移出する。そして現地で他の商品のコスト攻勢からよく守られて、独自文化が育つ。

 ローマ道が、イタリアをフランス製品の市場にしてくれた。
 AD25頃、ローマの工業技術は属州に拡散し、属州間貿易がとだえ、自給に戻る。※奴隷制の上で輸出努力しないため各地域の購買力が衰えた。

▼G.チャイルド『文明の起源』下巻

 帆かけ船は前3500までナイルに現れず。
 三角洲の西からはリビア人、東からはベドウィンが攻めた。

 BC1500直後、学者たちはエジプト、小アジア、シリア、メソポタミアの首都の間を自由に旅行していた。

▼徳田釼一『増補 中世における水運の発達』

 交通地理は、表・裏を通じて西日本が恵まれていた。海岸線の凸凹により。
 上代の貢物は初め陸路運送だった。延喜式をみると、大宰府、遠江、因幡からの海路運送あり。

 主要2ルート。西海→瀬戸内→淀川。北陸→敦賀津→陸路→水路→大津。いずれも官船が用いられる。

 荘園が強力になると、官用の船・車・人馬が地方で勝手に使われ、律令制は崩壊。
 律令では港湾は1区に1港が原則。荘園は港のある海辺を獲得しようとした。
 伊勢神宮が大湊を領有したのも、東国に散在する神宮御厨から海路輸送される年貢を収納するため。

 「梶取」は南北朝より「船頭」に変わった。船頭はシナ貿易船の船長の意で、鎌倉時代までは九州に来る宋商人を呼んだ(p.95)。

 若狭湾の小浜。応永年間に南蛮船が2回来た。朝鮮貿易の拠点。
 中世末期に帆の大小で船の格を表現することが一般化。室町時代に兵庫と大湊に造船所。

 港湾使用の関税が生じた。港を持つ荘園は潤った。
 鎌倉幕府は繰り返し関所廃止令を出した。
 淀川には享徳2年には180もの関があった。のちに616に増えた。

 土一揆は関を焼き討ちすることが多かった。商人の脱税を後押しした大名は強くなった。

 貞治、出雲に着岸した蒙古・高麗の使者が、その献物を海賊に奪われた(p.249)。
 朝鮮からの渡来船は、応仁より後、瀬戸内海の海賊を避け、若狭に。

 毛利、上杉、今川、信長は次々と課税を強制廃止。海賊鎮定作戦もこの延長で、信長から秀吉に引き継がれた。
 朝鮮征伐で水運業界は完全統制下に大発達した(pp.287-8)。

 中世、琵琶湖でさえも、漂没多し。
 山賊は、律令末期から増え、鎌倉初期に一時屏息。しかし鎌倉中期以降、激増。

 戦国諸侯は交通業者への課税を免除して富国強兵策とした。航海業者は富力を蓄積し、道路は改修された。
 淀川遡行は綱引人による。

 応仁の乱のとき西軍方の大内氏は、東軍の瀬戸内での待ち伏せを避け、西国の糧秣を日本海ルートで敦賀に。
 美保関には明船も来着。

 室町時代に船が準構造船から構造船に進化した。
 倭寇は福建から外国船を買い、それをコピーして底を尖らした船を造り、航洋性・凌波性を獲得。

 李朝の文によれば唐船も倭船も藁草を織って帆としていたが、それが麻や綿帆になった。

▼加茂儀一『騎行・車行の歴史』

 牛は重連しにくい。
 記録に残る最古の馬の調教所は前1500のオリエント。日本では「責め馬」という。

 駱駝はブーラン(砂嵐)を予期したとき以外は走らない。だから御具は発達せず。

 ギリシャ人がケンタウロスとみなした小アジア人は、地中海文明にさきがけて前2000頃に乗馬機動。
 馬具も馬術も未熟な古代には乗馬のままの接戦は避けられた。可能になったのが、中世騎士。

 ヒッタイト(旧約のヘテ人)は青銅斧と戦車。戦車は前1900から使われた。
 車の材料たる杉はメソポタミアの北のミタニにしかない。エジプトすらそこから戦車を得ていた。ヒッタイトがそこを占領。その後、ソリッドタイヤがスポークタイヤになる。車輪そのものは前3500から。

 前1500のアッシリア、ペルシャ、エジプト、インド、殷の大帝国は、戦車によって可能だった(p.27)。
 ヒクソスの南侵は気候乾燥のため。この傾向は続き、エジプトでは馬が使えなくなり、駱駝とロバに替わった。

 アッシリア人はヒッタイトから馬具を知り、改良し、秣の代りに穀物をあてがい、完成された初の騎兵に。ペルシャ人はモンゴル馬との交配で馬体を向上させた。
 ペルシャ騎兵の末裔がパルチア騎兵で、ローマとも漢とも接触した。

 インダス文明は牛車と象。征服アーリアンは騎馬と戦車だった。

 クセノフォンの時代の騎兵突撃は、後世のドラグーンのピストルを投槍にしたようなもの。スピードはギャロップだとUターンできないので常にキャンター(緩駆)。

 アレクサンダー軍の馬は湿潤熱暑のインドで蹄裂傷を起し、侵攻頓挫。
 西アジアではその病気はありえない。

 イタリア半島も乾燥地だがアルプス以北は湿潤のため蹄が軟化してしまう。ローマ舗装道だと著しく磨り減る。そこで鉄板製のヒッポサンダルを縛り付けた。
 ローマ末期に蹄鉄が実用化なり、周年遠征が可能になる。
 ローマ帝政は胸帯による輓曳法も発明した。これで作戦距離が伸びた。

 十字軍は乗馬がアラブ馬に著しく劣った。またトルコ兵の遠矢が馬を傷つけ、現地で馬を調達した。
 イングランドの大弓も三角断面のヤジリで鎖帷子を貫通する。埜は3フィート。
 この強弓対策として鈑金甲冑が14~15世紀に発達するが、接射で90度ならば貫かれた。また馬も装甲せねばならず、機動力の優位が減じた。

 14世紀末からの火器導入でヨーロッパの騎兵時代は終わり。イタリア小国家のみで生き残る。

 ドラグーン戦法。敵前15ヤードまで速歩で来て、停止。前列が2梃のピストルを順次射つ。第二列が同じことをする間に後退。
 クロムウェルは、ピストル斉射の後、速歩で白兵接戦にもちこんだ。

 17世紀の道路の悪いヨーロッパでは乗馬はトロットできない。18世紀に道路が改善され、4輪馬車ならトロット可能に。

 王政復古時、密猟と造船のために森林が破壊され、赤鹿、まだら鹿がイングランドから消える。狐すら貴重品に。

 囲い込みで柵ができたので、18世紀後半の狩猟家は飛越が必習となった。狐狩り、銃猟、乗馬、柵の4要素は、欧州大陸では揃って流行ることなし。だから英式馬術は独特に発達。

 シナと匈奴の争いは、前3世紀の秦代から7世紀の唐初まで。
 モンゴルの矢は長さ2フィート、三角ヤジリで、ヤスリで針のように鋭くされていた。三頭の替え馬に輪乗した。

 関東や中部山岳に古代日本馬の産地があったのは、湿気による蹄病が少ないため。源氏の勢力圏にだいたい一致する。

摘録とコメント

▼岩村忍『文明の経済構造』

 考古学者ゴードン・チャイルドや社会学者カール・ウィットフォーゲルは、テクノロジカルな水利工事を都市や文明の原因とした。
 岩村反論。デルタに人が移動する前の丘陵生活でも水利技術は存在したと。

 食糧革命から都市成立までは7千年かかった。
 ナイルと違い、岩盤のチグリス=エウフラテスは一貫した舟航はできない。
 メソポタミアは建材や香辛料を周辺山岳と南アジアに求めた。
 成立段階でエジプトはメソポタミアから刺激を受けた。象形文字はシュメルの影響だ。

 エジプトが必要とした青銅原料は、小アジア、カフカズ、イランに遠く求めねばならなかった。
 前1500頃、鉄器化と馬馴化が同時におこる。北方蛮族はメソポタミアからこれを学び強大化す。
 ヒッタイトはアナトリア人。鉄を産し、輸出した。

 優良な鉄鉱石が黒海、インド、セレス(支那)からギリシアに輸入された。
 アリストテレス『オイコノミカ』は前3世紀のペルシャ経済を分析。

 ギリシャ植民市は本国の干渉を受けなかったがローマ帝国はそうでない。と、アダム・スミス『国富論』。
 カラバンとモンスーン利用の舟により、ローマの商品はインド、シナまで達す。
 ローマは敵のペルシャの中継ぎで極東から絹繊維を輸入した。

 明末から清初にかけ、カソリック宣教師がルネサンス後の欧州文化をシナに持ち込んだが、需要者がヴェブレンいうところのレジャー・クラスだったのと、貧農→都市労務者のあり余る資源のため、医・農学ふくむ実用技術は顧みられず、天文学と数学が尊重された。日本はその逆をよろこんだ(pp.38-9)。

 ローマの手工業は属州に、農地は辺境開墾地へと遷移。空洞化が生じていた。

 3世紀のディオクレティアヌス帝は財政再建のため、貨幣納税を廃し、穀物に代える。市場なくなり、交易途絶え、輸入物は高価な奢侈品のみに。

 遊牧蓄の価:駱駝>馬>羊≒山羊。
 牛は多量の水を要するので遊牧に不適なのだ。

 蹄鉄をつけたパルティア騎兵は550kmを2日で走破。ローマ時代のステップで。
 ウェーバーいらい多くの学者は、封建制とは広域経済圏の崩壊に伴う現象だという。

 イスラムが海上冒険できるようになったのは7世紀半ばいこう。ウマイヤ朝が艦隊をつくってビザンチンを攻撃した。9世紀にバイキングは地中海に達した。『後漢書』によれば166に東ローマの使節が入貢。※ということはトルコもいずれはシナ領土というわけだ。

 モンスーン航船は600人乗れた(p.85)。
 アラブとシナの最初の接触は8世紀中。
 唐末に広州等が黄巣の叛徒により破壊されるまで、サラセン商人は広、杭、揚、泉の各州海岸に居留地を維持していた。

 宋代にシナが安定すると再びアラブ人が訪れた。
 宋代は史上かつてない都市発達時代。世界最初の紙幣も。
 宋船は小型で、日本や朝鮮との貿易限定だった。
 羅城は外郭を城壁に囲まれた都市内部。

 宋代、野合して散じ易いものを瓦といふ。転じて演劇の意味となる。徳川時代にそれを日本読みして河原の字をあてたのが、かわらもののはじまり。京都の四条河原とは何の関係もない(p.123)。

 バルト=北海=近東をつないでいたキエフ公国のノヴゴロド市は、モンゴルに対する防備のため商業活動が中断し、ロシアとヨーロッパは13世紀に切り離された。

 インダスとメソポタミアはインド人の出す船で交流していた(p.143)。
 このインド文明は前1500にアーリア人が侵入して亡びた。このとき少数支配のためカーストを生ず。
 以後インドは前500のシャカの時代まで歴史的に空白である。
 643にイスラムがパキスタン海岸に到着した。
 9世紀はじめにアラブがアフガンを征服した。
 16世紀にムガル王朝により全インドがイスラム化した。

 エジプトの都市化の発生と進展は相当遅かった。著者いわく、都市と文明は関係ないのだ。
 メソアメリカ(今のペルー)の前800のオルメック遺跡に都市の影はない。
 古代ギリシャのストア派以後の西洋のモラリストの主張は、性格、知能、肉体の相違を問わず、人間は等価とする。エガリテリアニズム。

▼日本歴史地理学界 ed.『日本海上史論』明治14年pub.

 足利時代、対馬人が朝鮮の港で戦闘したことあり、そのけっか釜山以外は閉ざされた。

 日本では西船東馬だ。
 呉は水上は得意なので、赤壁に曹操を破る。

 清和天皇の貞観21年、新羅の海賊船×2が豊前~大宰府の租税船を劫める。大宰府の官兵はおじけづいて追いつかず。蝦夷人に命じて討たせる。
 足利氏のとき、麗倭といって60戸に限り朝鮮の沿岸に移民が認められた(p.231)。

 江戸期には、奥羽を出帆し、下総の銚子口から利根川を溯り、関宿から江戸川を下って府内に。

 初期の台場はすべて波打ち際(低地)に置かれ、山上ではなかった。また、砲台と連携する軍艦を置かなかった。※照準器にロクなものがなかったため、水平直射以外は命中を期待できない。

 元寇のとき、河野通有が敵艦に小さな和船を漕ぎ付け、帆柱を倒して敵船に乗り移り、敵将を殺し、武器を奪った。この話が500年間の日本武士の海防戦の理想となってしまった。鼓吹したのが頼山陽の蒙古来の詩。彼が日本防衛を非科学的なものにした(p.355 & pp.360-1)。

 肥前唐津湾で島原乱後、外国武装商船を焼き打ちしたことあり。佐藤深淵は科学的な国防を構想した(pp.364-5)。

 品川台場建設のとき、木戸孝允は人夫に化けて江川太郎左衛門を観察。
 佐久間象山は江川の台場を無益と論じた。
 品川造船所や石川島、横須賀造船等の最初の職工の大部分は、戸田で江川が露船を造ったときの実習者(p.388)。

 カノン砲は鋼鉄製と決まっていた(p.391)?
 韮山→滝野川→関口水道町→小石川水戸屋敷跡……と移ったのが、陸軍砲兵工廠。

 演練のことを調練という。大調練は観兵式。号令は江川がオランダ語から日本語に直した。剣を刀としなかったのは、号令にしたときの響きが悪いから(p.399)。

 『築城典型』は蘭書の訳だが、日本で始めて亜鉛活字を用いた。
 下関砲台も低地水平射ち式で、口径5寸ほどの「長加砲」。24ポンド砲。有効射程20町。

 神武東征は紀伊半島沿いに太平洋を北上。宮川上流に上陸か。南朝の吉野は山中のようではあるが、谷が四方に通じていた(p.466)。

 海軍水路部は、航海に必要な浅海情報だけを収集していた。

▼ジャン・ルージェ『古代の船と航海』

 ギリシャ人は海が好きだったのではなく、やむをえず航海者だっただけだ。
 陸路と海路の危険は等しかった。海賊はローマ帝国前期で消えたが山賊は常にあり。

 東地中海では7月10日~8月25日に北風のため、北部アフリカからイタリアには渡れなかった。ローマ全期を通じて。

 カエサルの兵は渡河のときは革袋を用いた。

 ヘロドトスによればエジプトには大形板のとれる木がないので、アカシアを使った。稀に、エジプト・イチジク。

 エジプト船は骨組みは弱い。寄せ板構造のため。船底には荷物を載せない。しかし航海の際はバラストが絶対に必要だった。※バラ荷があり得ない。高付加価値の文物だけ長距離運ばれる。

 アテネは制海権をもっていた頃、造船用森林がない。マケドニア、トラキアから桧、杉をもってきた。
 樫は地中海では軍船の竜骨材となる。

 古代、船客は食糧を持参し、水については船の設備を頼んだ。
 樽はガリア起源で、ローマ初期まではアンフォラに流動荷を入れた(p.79)。

 エジプト~ローマまで、船の接岸は船首でのみ行なう。
 古典的な三段櫂軍船は、全力衝突の後、後方に漕ぎ、あけた穴から浸水させる。
 epibates(海の歩兵)は、少数のみ前方上部構造に載せた。

 epopides(敵船の櫂を薙ぎ折るための船首衝角補助棒)はペロポネソス戦争期に完成。ヘッドオンですれちがいざま破壊す。
 三段櫂船には、沖合い荒天航行力なし。好天時のエーゲ=エジプト間のみ。
 ペルシャ艦隊の中核は、より多数の海兵隊員を乗せたフェニキア三段櫂船。

 前4世紀末、ヘレニズム時代の諸王国は、巨大船を発明し、アウグストスがローマ艦隊をつくるまで地中海を支配。
 カルタゴは人的資源少なく、ローマと比べ、訓練されたクルーの補充ができなかった。 ローマが実施した最大の海上作戦は前214~3のシラクサイ封鎖。
 ローマは常備艦隊の維持に気乗り薄で、海洋同盟国の駆使を選好。
 256~282、人員不足のため、ローマ艦隊は半減した。

 古代エジプトでは、紅海の航行は異例のものとみなされていた。
 カルタゴは亡ぼされる前、ジブラルタルを封鎖。大西洋航海独占を企図。
 ロードス島は小麦と葡萄酒の地中海貿易(といってもローマが消費のために一方的に輸入する)センターとなる。

▼ジョン・ランドン・デーヴィス『冬季に於ける機械化作戦』大江専一 tr. S19年

 著者は英人。
 ソ連は対フィンランドにウクライナ人を投入した。

 森林に道路を啓開し、そこに湖水をポンプで流すと氷道ができる。冬の道路。
 ソ軍は兵も車両も白色迷彩せず、夏のママ。

 1939-10~11月の日付のみられる『ソ連スキー戦闘操典』が多数散乱していた。
 スキー戦闘は必ずスキーを脱いで行なう。フィンランドのスキーに踵を止める金具なし(pp.31-2)。

 スキー着用中の吊れ銃は、体前の胃の辺に斜に吊るのがよい。※PPShにやはりスオミの影響?
 ソ連にはアキオがなかったようだ。重機を2枚スキーに積んでいる。

 ソはウズベク、カルムクス、東洋人も投入(p.81)。
 ソの戦法。バラージ2h+数分間空爆(この前後30分、砲撃休み)+歩兵突撃(同時にAir support)

 T・A・ビッソン「日本経済瞥見」というロシア語訳論文も散乱していた。
 ハートの1937本を引用し、ソの密集好きを難ず。

 スウェーデンも対フィン武器援助していた。

▼外務省調査部第三課『辺疆問題調査第一号』S10年

 海岸に「ソヴィエト」地区をつくらないよう指導している。攻撃に弱いから。
  ※だから北サハリンに亡命政権をつくるのが最善だったのだ。

▼B・Tuchman『愚行の世界史』大社淑子 tr. 1987、原1984

 被征服民族に対するアッシリアの政策は、追放。
 コルテスは上陸するや、自分の船を焼いて退路を断った。

 ムーア人のスペイン征服も、スペイン内戦の敗者が外国に助けを求めたことが発端。
 ソロンは理想の法律をつくったあと、10年間の船旅に出た。

 カトリックは百以上の聖人の日を守ったがユグノーは日曜しか休まなかった。
 愚行は、その後も同じやり方を固執するところにある(p.25)。
 ラオコーンの話はホメロス後1世紀ごろの創作挿入。

 チャイナ・ロビーが猖獗を極めたのは1950~60's (p.274)。
 中共は上陸戦により蒋軍守備の海南島を占領した。
 熱烈プロテスタント党のダレスは宗教ゆえに蒋と李を支持した(p.281)。

 ACデイヴィス海軍中将はインドシナ介入について「ひとたび戦争に突入したら、安上がりな戦争の仕方というものはないと理解してもらわなければならない」(p.282)。
 ダレスとアイクはマッカーシーを恐れていた。

 脚注、ラドフォードは対支予防攻撃思想を抱いていた(p.291)。

 リッヂウェイは現ファンダメンタルズの非近代性から朝鮮への地上軍投入には反対だった。

 レトリックから教義へ(p.293)。※→無策か究極かの大量報復戦略。
 ケネディは1965に再選されたら、撤兵させる気だった?

 ※ジャングルの百姓村は盲爆しても構わないが敵の都市民は爆撃できないとする奇妙な価値観に米国人はとらわれていた。これは戦中のシナとコミンテルンの宣伝が利いていた。じっさい、長崎後も、核兵器はアジア人に対してのみ使おうとされた。インドシナでは敵の独裁指導部が存在する都市だけ爆撃すべきであった。この咀嚼された戦訓がイラクで実験された。

 バーク「政治における雅量が真の英知となることはまれではない。偉大な帝国と狭量な心は調和しないものだ」

 ※「過度の野心」とはトートロジーではないのか。

▼フィリップ・ナイトリー『戦争報道の内幕』

 英では1870の教育法のおかげで1880→1900に新聞数が2倍。Daily News は普仏戦中に発行部数が三倍に。
 クリミアとボーアの間のすべての戦争は英国に関係なく、そこでの大胆な特派員記者は人気者。

 普仏役の初期までは速達郵便記事。電信採用されるや、記事のスタイルまでが電信文と類似に。
 日露役で完全報道検閲時代に。

 The Times のライオネル・ジェームズに無線機つきの船で日露戦を取材させるかわりに、日本情報将校が乗り込み、その船と設備を借用した。

 英ではWWⅠ時に国土防衛法。検閲制度が創設され、新聞は御用化した。
 WWⅠ前まで英軍人の仮想敵は仏(p.42)。

 英では宣伝関係のあらゆる書類が役後、破棄される(p.42)。※ウォーターゲートのヤバイ証拠を大統領が始末させ得なかった米政体との顕著かつ根本的な差。英国おそるべし。

 WWⅠ中の仏新聞は情緒的英雄譚でページを埋め、Newsのひとかけらも報道されなかった。タンネンベルクのロシア敗退は英でも戦後まで伏せられた(p.49)。
 チャーチルはアスキス首相にThe Timesの官房化を提案した。

 WWⅠ中は兵が前線で撮影すると銃殺だった(p.56)。

 英は最初の数ヵ月で、過去数百年のすべての戦争を合計したより多くの士官を失った。総戦死者ではWWIIの3倍である(英軍)。

 ジョージ・オーウェルはスペインでスターリンが独立左派を主敵と見ていたことに気付く。→“1984”へ。

 1939-4の英平時徴兵制が女も対象としたのは文明国では史上初(p.168)。
 1940-6~8月、6千人以上の裕福な家の子供たちがイギリスを脱出した。
 1941の英で本の検閲は新聞ほど厳しからず。

 WWII中、独ソ戦はソ国内でもまったく報道なし(p.199)。
 独軍は1コiDあたり1500台の馬車と600台の自動車を有す。英米iDは3000両のトラックあり。

 ベトナムは検閲なかったが、それが却って将軍に詳細を語らせないことに。

 朝鮮戦争初頭にも検閲まったく無し。
 が、マックは朝鮮戦争中、17名の特派員を日本から追放。
 イギリス部隊の方がモラル強かった。
 危険な感じはテレビでは決して伝わらない。

 ワシントンには調査報道基金・FIJがある。1000ドルくらい助けてくれる。

摘録とコメント(※)

▼津田重憲『正当防衛の研究』

 ギリシャでは「同害同報」。
 主観的危機感からの殺人は「誤想防衛」。

 正当防衛の相当性:不面目な逃避になる場合の防衛は可。ただし相手が子供、狂人の場合は、逃げないと罪。
 自ら招いた侵害に対する自衛は正当化されない。自招侵害に対する正当防衛。

 藉口防衛:逃げていく加害者を追い討ちすることなど。
 他人のための正当防衛は「緊急援助」。

▼星斌夫『大運河』

 書経に禹貢とあり、水路漕運によって首都に税糧を輸送していたことが推定される。

 呉は、対楚作戦の兵糧を、人工運河、陸行、水行を経て運んだ。
 呉は揚子江と淮河を運河で連絡した。これを使って兵糧を北に運び、斉を破った。

 淮南子の人間訓に、始皇帝が南越・広東を討つために渠をうがって軍糧を運んだと。
 史記・平準書に武帝の運河整備事業。

 後漢に、生産力中心が、関中(長城の南で、黄河中流の北域)から関東(黄河下流の北域)に移る。
 隋直前に生産力中心が揚子江(江南地方)に移る。それまでは中原地方、つまり黄河。
 荷物で重くなった船の遡航はむずかしかった。とくに10~3月の黄河の減水期は、支渠すべて航行停止した。

 徴兵制が傭兵制にかわった唐末、漕運需要が著増。
 長安はその大消費を大運河一本でまかなっていた。

 元は金と戦って征服した河南、山東の税糧を水路で通州にあつめた。南宋を後略するときも、各地の短い水道をフル活用。

 元じしんによる運河工事は、泥堆積のためことごとく失敗。遂に海上へ物流路を求めた。
 元代に造船技術も向上。

 南宋滅亡直後、大都へのコメ輸送は馬車で。礼器と図書は海船で。
 元代の海船は、2~3航海にしか堪えなかった(p.82)。

 淅江~北京の間で遭難すると、沖縄方面ではなく、朝鮮に漂着した(p.97)。
※昔の呉の沿岸で遭難した船は海流の力で半島南端の西海岸(つまり百済地方)または出雲地方に漂着する。日本人は百済まで赴けば南シナの技術情報を簡単に蒐集できた。

 明代は元への反動で海禁政策。しかし太祖が元を北方へ駆逐するときに士卒へ軍餉を輸送させたのは海船であった。
 明代の船は、河海両用の北運船。
 豊臣氏の朝鮮出兵に対しては、海運で糧食補給。登州から旅順口まで、順風帆走2日であった。

 運軍からの逃亡者が捕らえられると、面上に“逃丁”と刺青された。
 日清戦争中、日本は海運の安全を保証した。

▼馬場鍬太郎『支那水運論』S11年

 北方では、ラバ、ウマ、ロバが駄載用、ラバ、ウマが牽引用。
 南方では、ラバ、ウマが駄載になっているが、牽引獣はない。南方では人力が商品交通の主要素で、舟がそれに次ぐ。

 マックスウェーバーは西洋は森林文化で東洋は治水文化だと言った。
 長江は山峡の難あり、また季節の増減水が大きいが、価値は絶大。
 清代の洪秀全も用兵上、大運河を利用して長江に出て金陵に拠った。

 1872に汽船会社が海運サービス始めると河路は淤塞した。
 水路利用が徹底していたため、鉄道化は遅れた。

 1トンの貨物車を曳くのに北方では7~8頭要る。それで20哩/日。

 欧州では、運搬用に河川に注目したのが15世紀で、改良工事は17世紀から。
 河口付近は泥が厚く、大船は進入できない。19世紀。

 長江へは、周年2000トンの船が入る。夏の増水季は1万トンOK。
 揚子江は、ふつう屏山県が民間船の遡航の終点。しかし小舟は叙州上流60哩、蛮夷司まで可能。そのあいだは急流。

 重慶~宜昌の遡航は、汽船のないころは30~40日がかり。冬期も不凍。

 南満河川は小艇のみ可。北満は黒竜江系により大船可。
 全満水路は年200日しか航行できぬ。
 松河江支系はイカダのみ可。
 満州の降雨は、朝鮮国境で最大(p.312)。

▼国分直一『東シナ海の道』

 安藤広太郎によれば、江南海岸から北九州に向かう航海は、他の経路にくらべて危険度は小さい。

 国分反論。明時代のシナ人ですら沿岸航法をとっていた。遣唐使船は南路でほとんど遭難している。※その後、シナ皇帝の謁見の季節が決まっていたこと、そこから逆算すると滞在費が乏しい関係で、日本人は季節がよくないのを承知で出港するしかなかったという説明が誰かからあった。シーズンを選ぶ自由があれば、あれほど遭難はしないと。

 殷代、黄河に水牛あり。
 南西諸島は先史稲作の導入経路とならず。

 殷代に稲作あり。呉越戦争で呉を亡ぼした越王が海上から山東に入ろうとする。そのとき、漁労民が脱出したのが弥生文化だと岡正雄説。

 保存蓄積できぬ芋の文化は文明に発展しない。
 漢魏の頃の稲作北限は、山東南部から蘇北(p.62)。

 『後漢書』「鮮卑伝」。酒泉をふたたび寇したとき、秦水というところで軍糧の穀物と獣肉を土地から得られずに困った。魚だけはたくさんいたが、漁師がいない。そこで、倭人は「網捕」を善くすると聞いたので、倭人国を撃って、千余家を得、秦水上に移住させた。おかげで糧食は助かった。

 三国時代、呉は夷州なる海外の島を討伐した。台湾か?

▼高瀬重雄『日本海文化の形成』

 1年のうちかなりの期間、北西風。リマン海流が日本海を還流する。

 Pacific-sea を漢訳して「寧海」。
 渤海:もともと遼東~山東の両半島に挟まれた黄海の一部を云う。

 北九州一帯の気候は、山陰に似、曇天・雨・雪の日が多い。

 安倍比羅夫の蝦夷鎮定にあたって、越(日本海側諸国)は、大和朝廷が陸奥へ向かうための前進基地。兵糧を送るための舟を造り、また捕虜収容所も置いた。古代末期、津軽十三湊←→越の舟運が。

 「せんたい」という袋を古代の日本兵は担いだ。食糧を入れた。他に、支給の公糧がある(p.59)。

 高句麗を建てたツングースは、南満州「とうか」江流域に猟牧す。はじめ都を鴨緑江の中流に置いたが、413年に大洞江畔の平城に移す。

 唐会要。玄宗は渤海本国を討とうとしたが大雪と山路険阻のため失敗。
 安禄山の反乱の情報は発生後3年で朝廷に達した。

▼『春秋左氏伝』鎌田正氏解説

 疑わずんば(確信があるのに)何ぞ卜せん。
 魯と斉の戦で多数の兵車が用いられた。

 偏戦とは約束して決戦すること。詐戦とは約束を破っての奇襲作戦。
 普と楚の戦では普は各3人のりの兵車700乗を投入。城撲にて。

 それ文に止戈[しか]を武と為す。
 学びて後に政に入る(役人になる)を聞く。未だ政を以て学ぶ者を聞かざるなり。

▼『タキトゥス』国原吉之助 tr.

 計算書は、ただ一人に検査されて、はじめて都合よくいく(p.10)。。

 ローマ歩兵の担ぐ荷は重かった。そして老兵すらこき使われた。
 総督は反乱を圧するために剣闘士を養い、武装させている。
 盗癖のある奴隷から財物を守るため、食物や酒瓶にも封印し押印した。

 ゲルマニア人は木製楯。大半は先を焼いた棒の槍のみ(p.47)。

 「自分の功績は、自分が認めているだけで、充分だ」
 北海では天候は激変する。しかし岩礁はなく、砂濱である。

 ローマ人は双子を慶事とした。
 鉄のヨロイを着た敵に対してはローマ兵は斧や鶴嘴を使用。
 アウグストゥスは軍事統治の実相を隠すため首都衛戍軍を天幕キャンプに分散させていた。

 阿諛は遅れるほど仰山だ(p.111)。
 ローマの外征将軍は、自分の戦績が凱旋憲章に充分とみとめると、それ以上の作戦はやめた。

 解説。平時ローマにおける元首と市民自由の関係の調和を考査した。
 タキトゥスが記録した事件の子孫はリアルタイムで存命していた。悪い行いの記録も、栄ある美徳の顕彰も、すべてそのまま現世人への風刺、風諫である。

 トラキアの2~3の部族は山頂に定住し、近隣の部族と以外、絶対に戦わない(p.127)。
 尊敬されるのは文体に払った苦心よりも、文体のもつ気迫である。
 投身自殺は見苦しいとされた。

 ローマ人は官職を徳の報酬と考えた。年齢下限はなかった。
 かつてイタリアは食糧輸出国だったのに、アフリカやエジプトから輸入するようになったのは、土地が痩せたからではない。

 クラウディウスは兵の忠誠を買うために賄賂を使った最初の元首。
 市民に自由の印象を与えるために、公広場の警備兵を隠す(p.230)。

 ネロ 「いっそ間接税を全廃しては」
 元老院「そうすると直接税も廃止しなければならない」

 モセテ河とアラルを運河でつなぎ、海→ローヌ→アラル→運河→モセラ→ライン→北海と舟運可能に。
 その昔、劇場は立ち見だけだった(p.252)。

 AD59-60のアルタクサタ=ディグラーノケルタ300マイル(標高1500m級)の孤軍行軍は快挙。
 ローマ兵は穀食し、肉を有害と考えていた。※嘘。肉も食っていた。

 モナ島攻撃用に平底船をつくる。騎兵は馬にすがって泳ぎ渡る。※ナポレオンはこれをヒントにブリテン島を攻略せんとしたのだろう。

 オクターウィアの下女のうち大部分は拷問をうけても女主人をかばった。

 堕胎は未だ罪ではなかった。
 パルティア人は槍の投射加速具で戦う。

 「一般にわれわれは、人の怒りを買おうとしてよりも、人に恩を売ろうとして、いっそう多くの罪を犯すのである」(p.278)。
 進撃、退却はラッパの合図によった。

 「じっさい、民衆というものはいつも政変を待ち望みながら、しかもそれを恐れているのだ」(p.288)。
 自由市民への拷問は違法。

 当時の竪琴弾きの作法と聴衆の作法(p.303)。
 ネロは亡命先としてエジプトかパルティアを考える。

 アグリコラは百姓の意味。

 ブリテン島のカレドニアにはゲルマン種、南方にはヒスパニック、ガリア対岸にはガリア人種が住んでいる。
 気候は鬱陶しいが、寒さは厳しくない。南方系植物は生えないが土地は肥えている。

 ブリタニア人は、服従するために支配されるが、奴隷となるまではおちぶれない(p.330)。
 castraは常設陣営。castellaは要塞。ともに重要道路に沿う。

 「つまり、誰もが、はなばなしい成果なら、これを自分の手柄として吹聴し、みじめな運命なら、これを一人のせいにしてしまう……」(pp.338-9)。
 在英ケルト民族は1m以上の刃の鈍い大剣を持つ。騎戦用で、歩戦用に向かない。

▼『プルタルコス』

 テセウス。合図の白い帆をあげるのを忘れたので絶望して自殺したという話の初出。
 ソロン。「風によって海は波立つが、動かすものさえなければ、海ほど平穏なものはない」※日本近海との相違。

 ソロンを容れたペイシストラトスは、戦争で負傷した者は国費で養われることにした。

 アルキビアデス。新月の夜に月明かりで犯人の顔をみることができようか、という推理探偵プロットの初出。

 デモステネス。ラオメドンなる男、脾臓の病気を防ぐため長距離走を始め、ついに最優秀ランナーになりました、とさ。

 アレクサンドロス。彼はイリアスを戦術資料として読んだ。アリストテレスが校訂したもの。
 総司令官のことをヘゲモーンという。
 自噴油井への言及(p.197)。
 インドに入る前、多すぎる戦利品の山を焼いた。

 理性ある人の間では、水や必要な食物のためにだけ止むなく戦争が行われる(p.208)。

 戦象は今と同じように訓練を受けていた。
 ガンジス下りは筏の他にガレー船使用。

 酒飲み競争をして42人が死んだ話。
 クレオメネスは、重装歩兵の投槍を両手鉾に、把手盾を革紐で支える盾に替えさせた。
 ロムルス。さらに今日に至るまで花嫁は決して自分から寝室の中に進み入ることなく、抱き上げられて運び入れられるという風習が続いているのは、あの時も力づくで連れてこられたのであって自分で入ったのではないからである。
 凱旋の起源(p.264)。
 ロムルスが、アルゴス式円盾を、サビニ式楕円大盾に代えさせた。
 母親による子供の毒殺(p.269)。。
 支配とレジティマシーに関する初の言及。「それが維持されるのは、正当なことに固執するから」。
 「植木と同様に手入れと人目につく場所が必要」(p.280)。

 カトーは自分に厳しかったが、使用人や役畜にも甘くなかった。
 カトーはマニリウスを、昼間に娘の見ている前で妻を抱擁したとの廉で除名した。

 ローマ人はギリシャ風を知るまでは裸を恥じていた。
 サピエンスには賢人と慎重な人の両意あり。
 ローマ軍は火矢も使用(p.336)。

 メラス川は流れを舟で通えるものとして、ギリシャ唯一。
 BC5のスパルタ王の言葉。戦争に必要な富というものは際限がない。

 ローマ人は突き癖のある牛の角にまぐさを巻いて通行人の注意を促す(p.351)。※ここから、火牛計の場合は角で火を燃やすのが自然だったのであり、尾で燃やしたとするシナの文典は泰西情報を加工した作り話であることをほぼ推断できる。泰西からシナまで話が伝わる時間は現代人の想像以上に短かかったと知るべし。

 逃亡兵への古い懲罰。真っ先に逃げはしった集団を十人づつの組に分け、それぞれから籤に当たった一人づつを、衆目前にて処刑。

 クラッススはブルンジウムから冬の強風を冒して出帆したが、果たして多くの船を失った。

 パルティアの振り向きざま弓射はスキタイ人に次ぐ。また、駱駝に矢を山積して射まくり、ローマ歩兵部隊を全滅させた。風上に砂を盛り上げ、風に乗せて目潰しとした。

 「ローマの国家がこれほどの勢力に発展したのも幸運によるのではなく、危険に立ち向かう人々の忍耐や勇気によるのである」(p.364)。

 ポンペイウスの騎兵に対し、カエサル側歩兵は、投槍を投げずに顔をめがけて突くように命ぜられた。
 カエサルはepilepcyを患っていた。手紙を用いてローマ市と連絡しあうようにし始めたのは彼。
 ローマ市民の武器でガリアの財産を得、それをローマ市民に分配して、政治力を得ようとした(p.426)。

 ポンペイウスは海から補給を受けつつ戦い、カエサルはそれができなかった。
 槍は元来は足を打つもの(p.440)。

 護衛をつけず、人々の行為にこそ守られようとした。※マックが真似。
 「予期しない死」が最良であると。

 クレオパトラの魅力は美自体ではなかったこと。
 潜水夫に、釣り針に魚をかけさせる(p.498)。

 パルティア相手の戦闘では、山を右手に逃げよ、との勧告(p.503)。
 ローマ軍は鉛丸を使用。

摘録とコメント。

▼リチャード・マイニア『勝者の裁き』安藤仁介 tr. 1972

 シュレジンジャーいわく、ベトナム政策の立案者は、いずれもスチムソンの弟子たるバンディ兄弟とラスクだったと。

 最も侮蔑的な態度をとった(p.106)ウェブ裁判長も高柳を支持し、共同謀議を非法とした(p.62)。

 ケロッグの1928講演「自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得る」(pp.71-2)。

 フィリピンに対する侵略は訴因から外された。独立国でなかったので。
 米とソのみ、軍人を裁判官に混ぜた。
 大陸法の方がコモンローより証拠基準が緩い。

 オランダが日本に宣戦したのは日本の蘭領攻撃よりも早い。日本はオランダに1942-1-11宣戦。

 チョムスキーは1930'sの対日政策を批判(pp.176-7)。

▼マシュー・F・スティール『米国陸戦史(上下巻)』1969第6版、T.K.訳、保安隊幹部学校pub.原1909

 カナダには道がなかったので侵入は常に水路による。
 フィリピン討伐中にフィリピン側を応援した米人もいた。

 ワシントンはしばしば小隊分散という基礎的過誤を犯した。
 独立戦争の資金は徴税ゼロで仏からの借金と紙幣刷りによった。ワシントンは私財で兵を養う。

 南部はサムター要塞さえ攻撃しなければ分離の既製事実化に成功しただろう。この先制攻撃が北部人を一致団結させ、熱狂をまきおこし、大統領の義勇兵応募に殺到せしめた。

 リンカーンは軍事経験皆無で、デービスはプロ軍人だった。
 デービスは欧州に小銃1万を発注している。

 追撃の重要性を解っていたのはジャクソンだけ。
 ジャクソンいわく「常に出来れば敵を迷わせ誤解させ且つ驚かせよ」。状況特に有利でない限り、決して優勢な敵と戦う勿れ(pp.270-1)。

 南北戦で不落だった陣地の共通要素。凹道によって囲まれている高地。ただの丘ではダメだった(p.335)。

 リーとジャクソンは、軍隊の行軍と同じ速度で野戦電線を架設する手段をもっていなかった(下巻p.24)。

 チャンセラーズビルが、両軍の歩兵隊が塹壕を利用した最初の大戦闘。
 南アフリカの戦訓。高地が防御に有利とは限らず、低地が不利とも限らない。

 ピッツバーグ、メッツ、パリ、プレブナ、サンチアゴ、旅順港の経験は、市街を砲撃するより飢えを待て、と教える。

 ミショナリーリッジの南軍。歴戦のプロだったのに、全連邦軍を見渡せる高地であったため、攻撃前2日間の敵の準備をみていてすっかり臆してしまい、守れる陣地を捨ててしまう。パニック。

 グラントの電報と書簡は、すべて、自軍よりも敵軍の方が損害が多いと言っている。
 シャーマンは、鉄道から100哩離れて作戦することはできないと(p.241)。
 米西戦時、海大はあったが陸大はなし(p.309)。

▼板倉卓造『国際紛争史考』S10年

 旅順口と通信していた露国側の無線電話局があった。これを発見し、凹ました(p.36)。

 バ艦隊は蘭人の無線技師クーイを同行していた(p.179)。
 1904-12-3、英国は独船がカーヂフ港で石炭を積み込むことを差し止めた。

 S5-9-29、スウェーデン公使フルトマンによる神奈川県金沢町轢殺事件(p.407)。

 FDRは資産家猟官公使制を、プロ外交官に代えた。
 ポーツマス条約は仏文を正文とす。日清講和条約は英文が正文。

▼平等通照 ed.『国語に入った梵語辞典』S53年

 nadi(河) →那智

 アバダは天然痘の隠語になった。

 右から左に書くセム文字がBC700頃メソポタミアから北西インドに入った。

 ばかも梵語由来。

▼渡辺銕蔵・抄訳『ソ連の石油飢饉』S17年12月pub.
 ※10月に上海の雑誌に載ったA・Riva「Oil for the Tanks of Russia」。

 1932の600万トンから1938の150万トンに石油輸出が減ったのは内需拡大のため。ソ新聞によれば1940の自動車用燃料の生産額のうち6割はトラクターによって消費された。また灯油はソ連国民の代表的な炊事用燃料である。

 カスピ沿岸のマハチ・カラ~グローズヌイ~マイコープ~黒海トゥアプセに至るパイプラインは170万トン/年。
 枝線にマイコープ~アーマヴィル~ロストフ~ドンバス~リシチャンスク。また、マイコープ~クラスノダールもある。
 バクー~バツーム(黒海)は2本のパイプラインで、ひとつは170万トン/年の原油を、もうひとつは100万トン/年のバクー精製油を送る。

 バクー~グローズヌイ間は1939着工。

 カスピから内水使ってタンカーを白海まで達せしむ。
 昨年、ドンバスおよびウクライナの多くの製油工場が既に枢軸軍の手に帰した。

 最近のイギリスからの報道によると、ソ連の鉄道網は、輸送能力50万トンにおよぶ油槽車をもっている。※だったらテヘラン→タブリッツティフリスと運べないか?

 ソ連の同盟国からは、彼等自身の油槽船の状態から見て何等の有力な援助をも期待できない(p.20)。

▼ヘロドトス『歴史』上中下巻

 タレスの河流二分工事&渡河(上巻p.62)。

 当時アジアにおいては武勇でリュディア人を凌ぐ民族なし。騎馬で長大な槍を揮う。
 キュロスの駱駝の計。

 スキュタイ人は、ヨーロッパからキンメリア人を駆逐して、コーカサスを右手に見ながらメディアに侵入。アゾフ海からリオン河まで、軽装徒歩なら30日。

 メディアのほかの地区はすべて平坦であるのに、黒海方面だけは山が多く、森林で蔽われている。

 世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない。
 彼らが河を敬うことは非常なものである(p.110)。

 ペルシァの将ハルパゴスが盛り土戦術でイオニア諸都市のひとつテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。

 ペルシャ大王の出征時の飲料水は、河水を沸かして銀器に保つ。おびただしい数の四輪騾馬車で運ぶ(p.141)。

 バビロン(アッシリア)では、人工運河の最大の一本のみ、舟航可能(p.144)。
 河下し船の荷は、椰子材の酒樽と、帰り用のロバ。

 エジプトの、ヘリオポリスからテバイまでは遡行9日。

 ペルシャ人には王家の後裔を尊重する気風があって、叛旗を翻した者でもその子孫にはいつも主権を返す。

 ノモスこそ万象の王(p.307)。

 註、蛙はナイルには棲息しない。

 弓はエチオピア人、槍はエジプト人が愛用。

 ダレイオスはスキュタイをコーカサスを右手にしつつ追った(中巻p.14)。
 遠征より一世代前、「蛇の襲来」が北方からネウロイを南に逐った。

 スキュティアは寒いのでロバ、ラバはいない。

 ペルシャ人は弓と短槍、帽子を用いる。

 ペイシトラトス一族は樹木を伐り払い、騎兵行動を楽にしてスパルタを出撃。

 ダレイオスは召使に給仕のたびに「殿よ、アテナイ人を忘れるな」と三唱させた。※呉越。

 カリア軍はアイアンドロス河を渡り河を背にして戦うべし。こうすれば、もって生れた以上の勇気を出すに相違ない。

 註、ギリシャでは春秋に雷鳴多い。地中海は冬が雨季。夏が乾期。

 できるだけ平坦地で決戦しようとするギリシャ人をペルシャ人がわらう(下巻p.15)。

 「われら[ペルシャ]が行動を起さずとも、彼らの方では同じようにはせぬ。いや必ずやわが国に兵を進めてくる……」※これが真相だろう。

 穀類は粉末にして輸送した。

 「さればはかりごとを立てるには小心翼々、あらゆる不測の事態を考慮し、実行に当っては大胆不敵であるような者こそ、理想的な人物であると申せましょう」(p.44)。

 ペルシャ兵装。フェルト帽。鉄ヨロイ。柳編みの盾。盾の下にえびらをかける。短槍。大型の弓。矢は蘆。右腿に短剣を吊るす。

 十人隊長から万人隊長まであり。
 エジプトに「海戦用の槍」あり(p.61)。

 「人間を生き埋めにするのはペルシアの風習なのであろう」(p.74)。

 空壺を埋設して、テッサリア騎兵の馬脚を折る(p.167)。

 「戦闘中にはよくあるとおり、矢の当ったものの周りに大勢兵士が駈けよってきたが」(p.223)。

 「異国軍の兵士は相手の長槍の柄をつかんではこれをへし折ったのである」。ペルシャ兵の敗因は、身に装甲のなかったこと(p.278)。

 軍隊を女への贈り物にするのはペルシャ独特の風習。

 アメストリス(♀)はマシステスの妻の両乳房、鼻、耳、唇、舌を切って犬に投げ与え、変わり果てた姿をその家を送り届けた(p.309)。

 解説。ヘロドトスの没年は前430以降である。

▼池田博行『帝政ロシアの交通政策史』

 鉄道は運河より15倍速く、輸送費は1/4である。運河は春の増水期だけ利用すればよい。

 防衛上の見地から広軌を採用したが、1917の赤軍のワルシャワ攻撃は軌幅差のために手を焼いた。ポーランド軍はレールを換えながら簡単に前進した。

 ナポレオン撃退後に軍道整備。しかしクリミア遠征した32000の兵のうち、辿りついたのは12000だけ。

 通信線はクリミア戦争に間に合わず。セバストポリ包囲の報道はパリ経由でペテルブルクに届いた(p.94)。

 欧露の北部の河川は5~10月が航行可能。中部では4~11月。南部では3~11月。シベリア南部では5~10月。中部で5~9月。シベリア北部は6~8月だけ。

▼菅井・田代『アメリカ技術史』S24年5月pub.
 ※米国人によるモト本があるはずだが記されていない。占領軍も太っ腹だった。
 ※まえがきを見る限りでは、このジャンルの一般向けの啓蒙書は戦前は無かったようである。

 イロコイ族の長屋はカマボコ兵舎そっくりだった。

 初期米国には石炭がなく、ために石灰(漆喰)は得られなかった。かくして剥き出しの羽目板という米国風家屋が成立。ただし工作が悪いと隙間風が酷く、そこは泥土で塞がれた。

 丸木小屋はスカンジナビアで創造された。この工法のすぐれているところは、釘を使わずに、しかも、漆喰を塗らなくとも隙間風が入らないこと。

 灯火は鯨油ランプか、暖炉そのものであった。
 冬期の農閑期の副業が家内制工業の揺籃であった。仕事は暖炉の周りでした。

 靴屋は道具が軽いので渡り職人となった。村々の有力者の家に何日も泊まりながら註文をさばいた。

 米国最初の図書館はB.フランクリンが1729にフィラデルフィアに建てた。
 フランクリンのペンシルヴェニア型暖炉は、加熱気をN字状に煙突に導き、その最初の屈曲部および下降部の鋳鉄筒からの輻射熱で室内全体を暖め、かつ煙突からの隙間風の逆流を防ぐ発明。薪が少量で済み、しかも室内が煙くならない。

 フランクリンはこうした発明の特許をとらなかった。「われわれは他の人々の発明から非常な利益を受けている。自分の発明が他の人々に役立つ機会を喜ばねばならぬ」

 1752にフランクリンは雷雨の中、物置に雨を避けながら凧を揚げた。紐は麻紐だったが、そこに結び付けた絹糸が毛羽立った。また、手元に近いところに結びつけた鍵に指を近づけると、強い火花が出た。
 追試を重ねた結果、雷雲には陽電気と陰電気があると分かる。
 1752に避雷針を発明。大きな建物では数本使えばよい。避雷針は最も高い煙突上から壁沿いに地中まで届く長い金属棒で、接地部は地中で直角に曲げて壁から8フィートまで引き離したのち、ふたたび下方に4フィート潜らせておく。

 サミュエル・スレイターは少年紡績工を英国のように搾取せず、見苦しくない畏服をあたえ、教育を施した。スピニング・スクール。

 独立戦争で英国から梳綿機がこなくなったので、エヴァンスはこの機械をつくる機械を発明した。

 米では作業容易なシーアイランド綿は南カロライナとジョージアの海岸低地にしか育たない。他はすべてアプランド綿だが、これは繊維が短く、縁の種子に繊維が強く接着しているので、手工的に引き離すのが大苦労であった。奴隷が休まずに作業しても1人が3ポンドしか採れなかった。そこで綿花農場に寄宿していた青年ホイットニーがこれを機械化する単純な装置をこしらえた。それは1日に綿50ポンドを分離できた。ところがそれを農園で披露された地元の紳士たちは欲どおしくもたちどころにめいめい勝手にこの発明の類似品を特許申請したのでホイットニーは後には嫌気がさして銃器製作事業に転ずる。
 ホイットニーの綿梳機械の原理は最初から完成されたもので、その改良が各地で進められた結果、女工が1人で1日に100ポンドの綿を製造できるようになった。その結果、英国紡績工業に対する最大かつ独占的な原綿供給者として米国南部経済は急成長することになった。その結果、南部では非常に奴隷が増やされた(綿の栽培と収穫までは機械化できなかった)。それまでの奴隷は扱われ方が人道的だったが、「綿の増産すなわち大金持ち」という南部経済の構造ができてしまったので、以後は奴隷の酷使が進んだ。
 かくして南部は当然に、自由貿易マンセーとなった。北部はこれから工業を養成して英仏に対抗せねばならぬのだから、保護貿易が必要だ。こうして南北は対立コースに乗った。

 入植当時のニューイングランドの沼地には鉄が石ころのようにころがっていて、それを熊手で集めて製鉄の原料にした。

 当時、鉄鉱と不純物を液状化するまで加熱できる熱源は、木炭だけだった。それも窯の中にいっしょに入れて燃やさねばならない。必然的にそれらの窯は崖地に設置され、原材料は驢馬で崖上に運び、そこから窯に投入し、水車鞴で炉の底に空気を送り、銑鉄と鉱滓が別々の口から流下してくる。

 鉄は貴重なため、釘、蹄鉄、釜、銃、大工道具、鋤の刃部等にのみ使用された。多くの機械と歯車、馬車の車輪、車軸すら木材であった。鉄を採掘する機械までが木製だった。
 1898にフレデリック・テイラーが高速度鋼を実用化。タングステンクローム鋼を空気焼き入れした工具刃は、切削仕事を続けて700度まで熱をもっても軟化しない。これで作業効率が6割も上がった。
 これがWWⅠ中に世界に普及した。
 米国の資源上の欠点は、ただマンガンが国内で採掘されないことだけである。

 独立戦争で硝石の自給が確立した。古屋の下から1ブッシェルの土をとり、水に混ぜ、それを濾灰槽で漉し、透明になるまで煮詰め、冷やすと、1/4ポンドの硝石が採れた。

 シャンプレイン湖とニューヨーク港をハドソン河が結んでいる。ここを英国船に通航させないことが北部をバラバラに分断されないカギで、そのために北方タイコンデロガに先手をとって遠征した。つぎに河口から遡行されないように、総重量180トン、500ヤードの巨大鉄鎖を6週間で鋳造し、丸太に結び付けて北岸からウェストポイントまで流し、錨で固定した。

 18世紀はじめにスイス人とドイツ人が宗教的理由から渡米しペンシルヴェニアに定住した。その辺境ランカスターは鉄砲鍛冶のメッカだった。
 遠方を一人で行動する職業狩猟家にとって弾薬は浪費できない。その要請が小口径のライフル銃を発達させた。
 18世紀なかばのランカスターのRossers製の典型的なライフル猟銃は、.32口径、弾重49グレイン、黒色火薬22グレインで初速1483フィート/秒、100ヤードでは弾速は850フィート/秒であった。
 このペンシルヴェニア型ライフルは独立戦争のころにはヴァージニア、ニューヨーク、アレガニー山脈まで普及していた。しかしマサチューセッツ州には行き渡らず、そのためレキシントンとバンカーヒルの民兵はマスケット装備なのである。
 マスケットに照準器はなく、60ヤードでは当たらない(p.78)。
 ヴァージニア出身のワシントンは最初から千数百名のライフル銃隊を組織できた。
 英軍はこれに対抗するためドイツの狙撃兵を雇ったが、そのライフルはペンシルベニア型に劣り、不振に終わった。

 ライフルのマズルローディングの手順。角製容器から掌上に火薬を注ぐ。それを銃身に注ぐ。油を塗った丸い布パッチを銃口に置き、その上に弾丸を重ね、おやゆびで押し込む。先端の窪んだヒッコリー製の槊杖で突き固める。

 コルトは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかった。そこで染物工場で知った笑気ガス(亜酸化窒素)をつかった大道見世物でカネを貯めた。1946以前には電気発火式の水雷を試作した。テキサスvsメキシコ戦争でようやく連発銃の需要があり、ホイットニーの工場の近くにハートフォード兵器工場を開いた。

 トマス・ロッドマンは緩燃火薬を工夫した。燃焼が遅いほど、頑丈でなくても高い初速が得られる。大粒火薬は、燃えるにしたがって燃焼面積が小さくなるので逆効果。輪胴形の火薬粒に成型すれば、燃焼ガスは次第に増えるようになる。

 1786にラムゼーが完成した蒸気船は、水流を船尾からポンプ噴射するジェット・プロパルジョンであった。4マイル/時で遡上できた。

 アパラチア山脈以西の交通は自然河川を利用できない。ここから運河と鉄道が必要になった。
 最初の大事業がハドソン河上流とバッファローを結びつけるイリ大運河の開削。沼地の難所は厳冬期の凍結中に掘り進んだ。また生石灰モルタルではない、水硬セメントを開発し投入。
 この運河によってそれまで別々の地域であった東部と中西部(イリノイ、インディアナ、オハイオ)が一体化し、ニューヨーク港は大西洋最大規模に発達し、ミシシッピ河~ニューオリンズ経由の内国廻漕ルートは廃れ、これまた南北戦争の雰囲気を醸成した。

 トレビシックが蒸気鉄道を発明したのは1804だが、なんと1813まで、平坦な軌道に平滑な車輪を密着させれば機関車が列車を引いて走れるということが分からなかった。
 1831にジャービスがボギー台車を発明し、機関車を長くすることができた。

 英では機関車の燃料は最初から石炭だが、米では森林があり余っていたので薪だった。燃料がなくなれば、乗客が総出で斧をもって沿線の森林を伐採し、再び走行を続けた。
 米機関車独特の不恰好な煙突は、薪燃料に由来する火の粉の対策である。この火の粉は乗客の衣服にも、沿道の家屋にも、かなりの脅威だった。

 英国では鉄道は既存の地上利用を尊重して曲がりくねったルートが決められているが、米では鉄道はあらゆる地上物をまっすぐ貫いて敷設され、速度を殺さないようにした。
 このため、踏み切りと排障器が発達した。
 鉄道も南北でなく東西方向に発達した。

 スイスのトンネル掘削に圧搾空気が利用されているのにヒントを得てウェスティングハウスは列車の空気ブレーキを開発した。

 モールスは最初は紙に信号が印字されるものとして完成したのだが、やがて耳で聴いた方が分あたりの送信字数を増やせることがわかってきた。

 米では1820頃から石炭ガスのガス灯が普及した。それ以前の照明では細かい手元作業は不可能であったが、これ以後は夜なべ、夜更かしが可能になった。

 シンガーは月賦販売を発明した。また、彼の訴訟から、機械発明品の特許は先に完成・実用化されたものが優先されるという判例が出た。
 工業用ミシンがレディメイドを大量安価に提供したので、衣服の「手縫い」は廃された。この結果、家庭婦人の余暇時間が増えた。

 政府からマスケット銃の量産を請け負ったホイットニーは精密ジグを実用化し、互換性のある部品を連続量産することに初めて成功した。1818のフライス盤の発明はその延長。この小銃工作機械を1854にプラットが量産した。

 1868にブラウン・シャープ社は1万分の4インチを測定できるマイクロメーターを完成した。
 1864にセラーズは標準ネジ規格を制定。1899にはチューリヒでネジの国際規格が決まる。

 エジソンの母親は小学校教員だったが数学はダメで、エジソンは終生、計算を人に頼んでいた。12歳ころ、ギボン、ヒューム、ユーゴーなどを読んでいた。
 家は貧しくなかったが、12歳から列車の新聞売り子に志願し、終点駅の図書館で日中を過ごし、空いている喫煙室を化学実験場にしていた。ここで燐によるボヤを起し、車掌に殴打され、そのときに片耳の聴力を失った。
 電話の受話器の鉄片の震動の強さを知るために針をつけて錫箔の上に当ててみた。するとかなりの深さの溝が掘れた。ここから蓄音機を思いついた。多くのエジソンの発明は「組み合わせ」と「事業化」の努力なのだが、蓄音機だけはゼロからの発想であった。当時、かなり教養がある人でも、レコードの原理について容易に納得をし得ず、それはインチキだと疑っていた。
 WWⅠで独から円盤原料のフェノールが来なくなると、エジソンは自分でコールタール以外のものからフェノールを製造する方法を発見し、1日1トンも製造した。
 1915からは米海軍のためにASW関連の40近い提案をしている。

 初期の自動車は晴天時にだけ乗るもので、冬期は納屋に仕舞いこまれた。だから屋根は無い。

▼田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』1981

 日本の刑法は他人のための防衛を広く認める(p.3)。
 復仇は自衛ではないが奪還は自衛である。

 自衛権は現に行なわれつつある違法に対す。自力救済は既になされた違法に対す。
 sagesse politique 政治的賢明。

 多くの日本人学者は、国際法上の急迫とは未来のことだと、刑法とは異なる立場をとろうとしている(pp.24-5)。

 カロリン号事件における self-defence は相手国の不法を要件としない。つまり国内法とは別概念だった。

 緊急避難の場合、法益の釣合いの問題は起こらない。

 一般国際法上の自衛権は、国内法上の緊急避難と本質的に類似する観念であると見なさねばならない(p.125)。

 自力救済も相手側の違法行為を前提とする。
 自力救済は、従って自衛権ではない。

 戦争を厳密に表現せば、use of armed force, recourse to acts of force
 自衛権は second blow(なぐり返し)の権利のような消極的なものに非ず。
 国境外へ先制自衛してよい(p.217)。

 武力攻撃の発生と損害の発生を同一視するのはおかしい。
 意図の想像に基づく先制攻撃は不可。※よって電波盗聴衛星が必要になる。

 安保理事会や総会は政治機関であって、憲章の有権的解釈をする処ではない。(拘束力を持たない。)
 警備艇の銃撃も、武力行使である。

 国連憲章の第1章と第6章以下は全くの矛盾(p.354)。

摘録とコメント

▼塚本清著『あゝ皇軍最後の日──陸軍大将田中静壹伝』(昭和28年12月刊)
 ※『表現者』で紹介した部分は割愛。

 5月24~26日の空襲で、泉岳寺、乃木神社、増上寺、三笠宮、秩父宮、大宮御所、英大使館が焼ける。

 昭和14年に田中は師団長としてシナに派され、15年に宜昌(南京・漢口を経て揚子江をさらに重慶まで遡航する途中にある)を攻略する作戦の陣頭指揮をとる。未明から夜の12時まで32kmを行軍し続け、2カ月間は風呂に入れなかった。師団長は馬であるが、痔になった。

 大戦末期、本土を16コDで守るとすると引っ込むしかない。しかしもし50コDもあるなら、海岸でやれという元気がでてきた。
 本土は離島とちがって艦砲射撃も疎散となるはずだ。

 味方戦車も最初から水際に陣地つくれと。
 山で対戦車戦闘するのは消極的だと。

 かくしてS20年3月以降は、非合理的な水際決戦思想に逆戻り。
 20-3 東部軍管区司令官&第12方面軍司令官
 田中は関東平野の海岸線をすべて視察しようとした。

 S19年夏、サイパン失陥直後に、第一次の本土地区師団増設。約10コD
 関東地区では、千葉歩兵学校を中核に、第91師、第84師などを編成した。

 S20年初頭から、百単位師団が新設された。100番台である。これらはすべて「海岸拘束兵団」。別名を「はりつけ兵団」。
 斬り込み部隊が1個聯隊、機動性のない固着部隊が3個聯隊の4単位制。
 この師団はペリリューの戦訓から生れた。水戸聯隊の斬り込みの戦果を重視。19年末から教育総監部は斬り込みの浸透的潜入攻撃方法をもって火砲、飛行機の不足に代え、全縦深同時制圧までさせんと考えた。

 つぎに200番台の「二百単位師団」がつくられた。これは攻勢兵団で、俗には「突撃兵団」という。
 指揮官の年齢を思い切って若年化した。師団長は少将、連隊長は中佐か少佐である。

 100番と200番で合計30個師団、10個旅団ほど。

 20年春から、本土防衛は、東京の第一総軍と、広島の第二総軍でやることになった。
 第一総軍は東海道から北。杉山元帥が司令官。
 第二総軍は中部から西である。畑元帥が司令官。

 第一総軍は、北部、東北、東部、東海と分かれるが、そのうち東部(関東)を任されたのが田中静壹であった。米軍は九州と関東に上陸すると考えられていたから、九州には横山中将、関東には田中が任用された。

 東部軍の下には十数個の師団があった。九州は10個である。上陸後はそれぞれ倍増する予定であった。

 当時の本土軍は、方面軍としての作戦任務だけでなく、軍管区としての軍政任務も附課されていた。

 田中は東部軍(=第12方面軍)および東部軍管区司令官として、住民の防空、避難、国民軍の動員、編成、訓練も面倒をみなければならない。また帝都防空の最高責任者であった。

 12方面軍の下の第52軍は、佐倉に司令部をおき、九十九里から印旛沼で戦う。
 53軍は厚木に司令部をおき、相模湾の防禦。
 36軍は機動決戦兵団で、所沢や浦和に待機し、九十九里にも相模湾にも攻勢をかけられるようにしていた。戦車はぜんぶここに集めた。機動兵団の運用を知る上村利道中将。

 近衛師団は東京の防衛で、その司令官は飯村穣中将。

 (p.11) S19年以降の新編師団は火砲としては迫撃砲を主体にしたが、「多数の弾丸を必要とする迫撃砲に、弾薬の生産が追いつかぬという状態であつた」。

 田中配下の沿岸の3個軍は、築城におわれてほとんど訓練ができなかった。
 36軍だけ訓練をしていたが、駐留地の移動が頻繁で休宿地帯の宿営準備に忙殺されがちであり、しかもコメ不足のため、あまり過激な訓練を兵にはさせられないでいた。

 参本第一課は選択した。築城よりも訓練が大事だと。対米戦の成績を統計的に調査したところ。
 もし敵上陸が切迫しているなら訓練せよ。半年の余裕がある場合のみ築城せよと。

 田中は長野県まで視察した(p.15)。

 4-13、明治神宮が炎上。
 その前後に、各宮家もあいついで炎上。

 八丈島、大島も視察した(p.17)。

 おおいに苦労してつくった沿岸陣地が一本の命令で変更された
 中央部の意見がまったく不統一であった

 中央は、沖縄のあとは済州島にくるという可能性も、いちおうは考えた。

 20-8-24 自決。※ところが自決せねばならぬ理由がいまいちよくわからない。昭和20年の東京における憲兵運用に何か負い目があったのか(捕虜にした米機パイロットを住民がリンチで殺していることについて憲兵隊が責任があるといわれればそうかもしれない)。それとも天皇の松代動座を阻止するなどの陸軍中央に反する独断をしていたのか。それとももっとシンプルに、天皇に対する御詫びか。

 昭和20年に近衛兵が賢所に放火してボヤにする事件があった(p.223)。田中は東部軍司令官だった。

▼ニコライ・トルストイ『スターリン その謀略の内幕』新井康三郎 tr. S59年

 鉄道でいけないテヘランにバクーから行ったときのみ、スタは飛行機に乗った。モロトフも飛行機恐怖症だった。

 帝政ロシアでは拷問は長年禁止されていた(p.77)。
 1936にトハチェフスキーは、ソ連はドイツに対してチェコを援助できぬと告白。
 スタはヒトラーが何の反対もされずに反対派を粛清したのに倣った(p.96)。

 ポーランド侵攻が遅れていることについて、リッベントロップの催促をのらくらかわす。
 9月17日の午前2時という異例の時間にスターリンがフォン・シューレンベルク大使を接見し、赤軍は夜明けとともにポーランドを攻撃すると通告した。

 土地は時間に匹敵した(p.118)。

 ソは90万トンの石油を独に供給していた。ゴムはシベ鉄で極東より供給された。
 1939秋、チャーチルはFDRに「ヒトラーの石油の状態を考慮すると、彼は時間切れに直面しているとの感じを受ける」と伝えた(p.121)。

 ソからヘルシンキを攻めるのをリューディガー・フォン・ゴルツ伯のドイツ軍が援けた。
 1940にヘルシンキで五輪が開催されるはずだった。
 1940になって在フィンのソ軍に1939型ライフルとKVが行き渡った。

 英参本は中東からのカフカス連続爆撃と黒海封鎖で独石油入手を阻止しようとした(p.169)。
 ソ連もそれを怖れた。

 独のノルウェー侵攻直前、ソは1940-2-11協定に基づく石油を勝手に停止していたのに、侵攻開始後にすぐ再開。

 ソ連式の射殺法では、首のうしろからピストルを射って前額に達する。

 開戦後、まだ帰趨のはっきりしない5月、「事態がどちらに転ぶか不安定な状況にあった間は、スターリンは例の用心深さを発揮して、対独原料供給を遅らせていた」(p.208)。

 望む事の2倍を要求して、半分で満足するというソ連の戦術(p.218)。

 軍内の政治委員制は、元帝政下将校を監視するため、トロツキーが導入。
 一番信じられるソ連将兵の死数は750万。
 英国は白系ロシア人をいかに熱心にソ連に引渡したか。

 モンゴメリーがあと数時間遅れたら、デンマークも東側領になっていた(p.353)。
 1969にロバート・ジョーンズは米国の対ソ武器輸出の本をまとめた。未訳。

▼堀場一雄『支那事変戦争指導史』S37年

 ハンガリーは満州国を承認した(p.280)。
 カナダの対独宣戦は9月10日。
 WWII始まったので英仏は10~11月、シナから軍を引きあげた。

 日本軍は、政策、報道、軍需に有為の人材を回さなかった(p.758)。
 軍の庇掩下でないと日本人は大陸に進出できぬとの思想はあやまりだった。
 一戦場に同時に3コD集めたことなし(p.762)。

 「支那事変に在りては叡智ありて実行力乏しく、大東亜戦に在りては実行力ありて叡智乏しと謂ふべきか」

▼中原茂敏『大東亜補給戦』

 昭和12年にイタリアに重爆×72、小銃×10万、砲観測器若干を緊急発注。
 支那事変で、陸軍の各兵器費に対し、12年度は56パーセント、13年度には76パーセントが弾代に充てられた。

 ソ連の石油生産(百万トン)。昭和15は31、16は34、17は33、18は29、19は39、20は22で、だいたい日本の6倍。

 米は真珠湾の前の7月7日にアイスランド進駐。
 WWII前のルーマニア石油生産は600万キロリットル。ピークは800万だった。

 日本陸軍の火砲のRange値一覧(p.248)。31速野から99山まで。ロケットはなし。

 TNT生産は、昭和16~18は全火薬中の60~63%をしめたが、17年以降は割合が減り始め、19年は50%、20年は37%となり、多くはカーリットその他、代用新火薬に転換。

▼日石 ed.『石油便覧1982』

 WWⅠで「連合軍は石油の波に乗って勝利へと辿りついた」と評された。
 ダイムラーのガソリンエンジン1883
 ディーゼルの重油エンジン1893
 米海軍の石油切り替え1904
 英海軍の決定は1912

 カリフォルニア油田から蒸留するガソリンはオクタン価が高い。ボルネオ、台湾油も(p.121)。

 船用タービン用C重油は、粘度の高い低質でもようが、燃費悪く、経済性でディーゼルに劣る。

 1914、英、イラン石油を支配。
 1939、米はソと日本に航空揮発油の製造装置特許の輸出を禁止。モラルエンバーゴ。
 1939、英は石油局を設置。
 1941、米は対日石油輸出まったく停止。
 1942、英のガソリン不足深刻となり自動車輸送統制開始。
 1945、米英石油協定。於ロンドン。
 1951、英はイランの石油産業国有化を承認す。

 BPはもとはアングロ・イラニアン石油と称した。溯ればアングロ・ペルシアン石油。英人ウィリアム・K・D'Arcy がイランの最初の油田発見者。

 WWII前は精製は消費地ではやっていなかった。

▼『トューキュディデース』小西晴雄 tr.(筑摩書房『世界古典文学全集・第11巻』)

 内陸に当時残る帯剣の習慣は、盗・海賊時代の名残り。最初に廃剣したのがアテナイ人。

 初期の都市は、島でも大陸でも海岸線からひっひこんだ所に造り、海賊を避けた。
 トロイ戦争がペロポネソス戦争よりはるかに小人数で戦われたのは、現地調達可能な糧秣の水準まで絞り込んだから。

 イオニア、シケリアへの殖民は、トロイ戦の後。
 アイギーナvsアテナイの三段櫓船海戦時、甲板は全部に張られておらず。
 掠奪は主として海経由で、陸戦による侵略はなかった。
 アテナイの発達は海商というより海賊的支配によるものだったらしい。

 註、三段船に寝食する場はなかったので、航距離は局限。
 註、昔のギリシャ人は本を黙読しない。必ず音読。

 ケルキューラvsアテナイ海戦に船衝戦法なし。
 「諸君は他を傷つけない代りに自らも傷つけられないで守れると思っている」(pp.27-8)。

 一旦、与えられた支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏を手放せなくなったのだ。しかしこの例は我々をもって嚆矢とするのではない。弱肉強食は永遠不変の原則である(p.29)。

 常に我々は……敵の過ちに僥倖を恃むことなく、自らの用意に望みを託すべきである。人間にはそれほど大きな違いがあるとは思われず、限界状況で鍛えられた者こそ最も強いと考えられるべきである(p.31)。

 これを知ったアテーナイ軍は、重装兵を正面に押しだして攻撃を加え、さらに周囲を軽装兵で囲み、中にいた者に石を投げつけて全滅させた(p.39)。

 湿地の民はエジプト人の中でも最も剽悍な部族であった。
 註、エジプトでのアテナイの敗北は、陸戦化していった為。

 事実、アテーナイの国力は正規兵よりも外人傭兵に依存しているのだ(p.43)。

 戦いでは飽くまで冷静を保つ者ほど安全である。
 諸君が(侵略を受けて立ち)開戦を決定したとて条約破棄行為にはならない(p.44)。

 「ツキディデス症」は、市内に戦時体制のため人口急増したときに。
 飢饉はリモス。疫病はロイモス。

 註、密集海戦では、口頭命令だから、騒ぐことは許されなかった。
 註、最高司令官が戦場後方に位置するようになったのは、アレクサンダーの父フィリッポス以降。

 ……ひとたび戦いになるとどちらの側にも援軍が得られるような状態になり、敵より有利になること、自己の力を増すことのために他を呼び入れる機会は、反乱を起こそうとする者たちには簡単にあるものであった。

 これらすべての原因は物欲と名誉欲とを満足させようとする支配欲にある。これらの諸欲から闘争への渇望が生まれる(p.116)。

 また欲望に駆られた人でなくとも、闘争力が伯仲してくると人々は抑制しきれない強い感情に流され、残酷で無情な行為にでるようである。

 このような場合には、逆境にある人すべてにとって頼みの綱ともいうべき公律を他人に仕返しをする時に破ってしまうから、いつか誰かが危機に面して公律を適用しようとする時にはもはやその効力はまったく失われてしまっているのだ(p.117)。

 もっこがないので、後ろ手を組んだ、かがめた人の背中に、土砂を載せて運搬(p.129)。

 戦うことが利益になると考えればこそ、恐怖があっても戦いを避けない。……また他の者は目前の損失を我慢するより、戦争の危険を耐えるほうを選ぶ(p.145)。

 不測の未来は我々を一様に恐れさして、むやみに戦争を起させないというきわめて良い面も持っている。

 我々(シケリア諸都市)が賢明でさえあれば……今後は、島外から援軍や調停者を一切呼び入れることをしてはならない。

 シチリア原住民はイベリア半島を逐われて来た。
 註、当時の商船は平均9km/hの速さ。
 重装兵、騎兵には、糧秣を担う奴隷がついていた(p.272)。

 解説:彼がペロポネーソス戦争の体験を通して到達した考えの中では人の心理は基本的に重要な位置を占めていた。人の行動の動機とは、富の追求と名誉への欲望と恐怖から逃れようとする三つの動機に集約されると彼は考えた。そしてこの三つの願望を実現するために人間は力を得ようとする……(p.333)。

 兎も角彼は新しい考えを説明抜きで表現しようとしたのである。

▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・2 越後流』

 鎗は敵の顔面を突け。馬の載するは36貫(精米1斗)、人の担うは6貫可なり。
 首級は初太刀の者に与うべし。

 大軍なるときは夜明けて退き、小軍なるときは夜深くして退く。
 雪道は、まず人夫に踏み固めさせてから行進せぬと、泥るむ。

 縦ひ将吏を討捕るといへども、一番鎗の功を越えざるなり。
 飯の後に武具を著すると、緩む。槍をもって退去するときは、先端を後に寝かして左手に持つと、反向し易い。

 衆馬の中を駆けるときは、むしろますます狂馳させる。と、囲りの馬が避けるので、通り易い。
 血祭とは、首級を洗い、化粧して、串刺しにし、捨て置くこと。

▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・7 諸流兵法(下)』

 徳田の合伝流は西郷従道にも伝えられた。刀槍戦よりも鉄砲戦に重きをおく。
 兵学は実戦事実伝を肝要とす(p.56)。

 天正末~慶長初めまでは火縄銃は槍隊の露払いでしかなかった。
 が、慶長初め以降は、鉄砲の無い足軽や弓隊など全く用が無くなった。6~7間以遠では、弓は甲冑を射通せない。

 客戦に於て、服さゞる村里の井に、砒素、鴆毒を混ず(p.84)。

▼A・ボイド『中国の建築と都市』S54年、原1962

 インドは地震国だがシナよりも石とレンガを多用している。
 黄河域には良質の建材用石がない。代りに木材が余っていたのが理由か。

 中世英国では圧倒的に木造建築。
 木工は土着していたが、石工は渡り職人であった。※だからフリーメイスン。

 三角形トラスはアーチの代りになるが、剛性である。
 迫持石(アーチストーン)は同寸でなくてはならぬ。

 石材は漢代以降、主要な橋材となった。
 有名な某園のアーチ橋は大理石製。

▼小松茂美 ed.『続日本絵巻大系・17』S58年

 前九年の役絵詞では、長兵はなぎ刀のみ。したがって面頬も両側のみを被って正面は空く。
 結城合戦絵詞には平刃のヤリが見える。
 鎌倉時代の絵巻は京都に発注してとりよせていた。

 後三年合戦絵詞に、猪の目透しの鉞を肩にした軍卒の絵。
 中巻には半首[はっぶり]=面頬+アゴ被いの歩兵が出る。

 東北では、自分の手で首をとるを「てづくり」という。

▼小松茂美 ed.『平治物語絵詞』S52年

 あごひげのばし放題の男が目に付く。面頬はあるが半首は見えない。
 柄頭が急角に反り上がっているのは片手打ちを考えた馬上太刀。

▼機甲会 ed.『日本の機甲60年』S60年

 初期ドライバーは輜重兵だけだったのでTKもはじめは彼ら。
 大14の宇垣軍縮で自動車隊も廃止されることに。

 山下奉文中将団長のドイツ視察団はS15年5月グデリアンより直接コンバインドアームズの話を聞く。
 フラーの陸上海戦論の訳が大12-12月号の「騎兵教育の参考」に載る。

 対米戦初盤では95式LTKの37ミリがM3スチュアートLTK-I型の改すら貫通できず。
 鹵獲M3LTKの実験では後面も貫通しない。逆にこっちの正面は貫通される。
 重量25トンでは装甲を一般に云う戦車並みにすることは不可能(p.74)。

 米軍のマニュアルでは「弾薬の射表や弾丸効力、戦車各部の装甲板厚等は、隠すのでなく全軍一兵に至るまで知るべき知識とされてい」る(p.131)。
 ノモンハンのBTは半クラでも登坂した。

 74TKはAPDSも英国のものを使っている。

 TKが、前方1300mから400mまで30km/hで迫るとき、その見かけ上の面積は、歩兵が200→60mまで匍匐するに等しい。しかも前者は110秒、後者は700秒。よってTKがATKに暴露しているとはいい難い。

 イスラエルは四次戦争のゴラン高原では155Hのタマを400発/門発射する必要があった。
 74TKの年間ランニングコストは2千万円/台。乗員のコストは450万円/1人/1年。
 普通科が射撃しながら50m突撃したら30秒かかった(p.167)。

 同じ97MBTでも三菱製と日立製とは部品互換性がなかった(p.287)。

▼飯村穣『兵術随想』S41年
 編者の西内雅はS15内閣総力戦研究所いらいの部下。

 軍ははりきった馬であり、政治家はこれを御する良騎士でなければならない。

 軍部の秘密主義の責任は、機密をすぐ口外する政治家にあった(p.46)。
 イントリグの訳語が謀略。兵語「謀略」はロシア班小松原道太郎少佐による。
 「何某曰く式の兵術を排せよ」(p.116)。

 米がもし核を使わずベトナムから退いた場合は、日本は仏並の核武装をすべきだ(p.228)。

▼陸上自衛隊幹部学校 tr.『枢軸側の大戦略』S31年、原1952?
 ラディスラス・ファラゴが旧独軍人の論述をまとめた“The Axis Grand Stratety”という資料。

 クローゼウイツツはナポレオンの突破作戦よりもフレデリック大王の陣地戦をよしとした。その影響を継承してシュリーフェンは「包囲」にこだわり陣地戦に陥って決戦とならずにドイツは負けたのだ(p.57)。※と新時代の独参謀は言いたかったらしい。米軍はクラウゼヴィッツの影響を根掘り葉掘り訊ねているようだ。

 フレデリック「小人はすべてを防御せんことを望む……すべてを御るものは何物も救わぬ」「陸軍の強さは速力に依って増加した集団の力に等しい」※→フォッシュ?
 補充兵ほ多く保有せば数量は補うことができるが、失った兵の質は之を補うことができぬ。

 シュリーフェン「百万人を給養するには十億弗を要する時、消耗戦略を行うことは不可能である」

 1940年西部前進中のTKに対する飛行機または司令部よりの通信にはヒラ文を使用した。コードは陸上戦闘中不適と。

 グデリアン中心に代用潤滑油の研究すすめたがとうとう成功せず、東部冬期戦でTK凍結続出した。空軍用潤滑油もまた不足した(2巻p.143)。

 1934にナチのE・Hadamovskyは「力を用いることは宣伝の一部である」と。

 イタリアはアルバニアからの数十万トンを除くと全石油をドイツから食糧のバーターで得ている。

摘録とコメント。

▼ラルフ・タウンゼント『米国極東政策の真相』大江専一 tr.日本国際協会S12年pub.

 シナは一村内で既に自給が可能。またそれは、短距離間といえどもかかる高関税によって助長されてきた。※老子の世界。そして人民公社。

 シナ留学生は勤勉だが「自分自身の裁量に任されるとなると、恐ろしく下手」。

 アメリカインディアンは黒人と違い、宗教的にも肉体的にも奴隷化されなかたのは不思議だ。

▼ヴァルガ『戦争と世界経済』和泉仁 tr.S15年
 ※独がソから油脂を輸入している事実を伏字としている。60頁。

▼ヨハン・フォン・レールス(Leers、独人)『世界制覇の争点』高橋文雄 tr.電通出版部S18年

 1930~3にスタは「スターリン運河」を掘りバルトから北海ムルマンスクへ抜け出られるようにした。

 弩級艦は吃水深くスエズからは来られない。※つまり石炭罐の重油罐化にも関係なく、またシンガポールをどう整備しようが、弩級艦とともに英国はシナ沿岸において日本の敵ではなくなった。

▼大河原蔵之助『一水兵より海軍少佐になるまで』S6年

 日露戦前の石炭積みは人夫が主で、艦内では機関部員が加わるのみ。水兵は手を貸さなかった。が、開戦直前から、すべて乗員でやることに改めた(p.86)。

 13ノット出すと、マストやヤードが唸り始める。

 水兵の給与は平時の倍になる(p.108)。
 合戦中は耳に綿栓を詰める(p.141)。

▼エヌ・シュペクトロフ『軍需工業論』S10年、原1934

 戦闘艦の1門の発射最大数は19世紀後半は110回/日、WWⅠで987発/day

 戦艦1隻つくるのに6年かかる。改装も、1隻1年以上かかる。

 WWⅠの独ではTNTの結晶物は砲弾用に、屑物は、手榴弾や地雷用に回された。
 イペリットのつくり方に、マイヤー法とレヴェンシュタイン法がある。

 1913型3インチ騎兵砲を除けばすべてのロシアの陸軍砲は最初のものがクルップ、のこりのすべてはシュネデル製である。

▼参 ed.『日露戦争に於ける露軍の後方勤務』大4

 ユダヤ人多いオデッサで最も応召率が低かった(p.20)。
 1904-9にクルップに120mm臼砲を注文。1905初期より到着。
 1904-12に奉天に手榴弾工場をつくった。

 満州は5月下旬~8月下旬まで雨のためぬかるむ。

 馬車鉄道により雨季の糧秣補給を確保(p.304)。
 無線も使った(pp.366-7)。

▼松本伊之吉『海軍施設系技術官の記録』S47年

 米では施設作業部隊を平時には一般公共事業に用い温存したのに、日本では軍縮で潰してしまった。

 工作車には特に特殊鋼が必要だが、モリブデン、クロム、ニッケル、マンガンが足らないので、磨耗の早いものしか国産できなかった。

 鹵獲のブルでいちばんよかったのがアリスチャルマーだが、これは米では二流のもの。
▼有終会 ed.『米国海軍の真相』S7年

 飛行船の母船が10余隻もある。

 ワシントン会議以降、ハンプトンローズ、グァンタナモ、ボストン、セントトマス、パールハーバーの貯油槽を大増設。

 サラトガ級が入渠できるドックは、パナマ、シスコ、パールの3箇所しかなく、うち2つはレキシントン級には対応できない。

 陸軍長官出身のタフトは大統領になると、海主陸従主義を定めた。サンフランシスコにしか港湾防御要塞がなかったのを、パナマ、サンディエゴ、コロンビア河口のピューゼットサウンド、アラスカ、ハワイ、グアム、マニラ、スービックの8防御港に拡大した。
 ついで1916に太平洋軍港の拡大案が提出され、参戦にもかかわらず推進。
 シスコは油田からのパイプに直結していたので特に重要だった。

 アラスカには、キスカ&シトカの海軍貯炭所のみ。

 ブラッセー年鑑などの公表タンク容量はアテにならない。航続力は各国極秘。たとえば、何速に於て何マイル、とは示さない(p.298)。

 経済速度は8~12ノット。これは艦が大きいほど小さくなる。しかし戦中は対潜のため15ノット以下で走ることはありえない(p.301)。※しかし日本海軍では、あり得た。

 油の量だけでなく、それを急速に給油できる港湾装置が充実(p.305)。
 S6年の ala moana 事件。ハワイ人が米海軍中尉夫人を暴行し、裁判中リンチで殺された。

▼中根千枝『家族の構造』

 英では16世紀以来、どんな関係であれ、2組の夫婦が同居することは全土的になかった。

 「腹は借りもの」などという考え方は、インドやシナの血縁重視の思想からはけっして出てこない。

 遊牧民のテントには1核家族しか入れない。
 蒙古における一子相続の慣習は、大家族とは矛盾する。

▼中根『家族を中心とした人間関係』

 原始には氏族はなく、家族だけがある。古代と現代が小家族の時代。社会の富が不均衡で、超定着的な時代に大家族が現れる。

 原始基督教時代に一夫多妻があった(p.76)。
 アフリカでは弟に対する兄の命令権はない。シナ、インドでは、非血縁の親分・子分関係は生じない。

 東南アの家族制は世界で最も自由形態。結婚をしない自由がある。また女の社会進出はあたりまえ。
 インド人も距離の近い人と結婚しない。本家と分家もない。シナと同様。

 ハイパーガミーの行われるインドでは、上層に独身女、下層に独身男が増える。そのため下層女の持参金は莫大を要す。
 シナでは結納金が貯まらずに結婚できない男が多かった。
 シナでは父なるがゆえに父権がある。日本では家長なるがゆえに父権が附いてくる。シナでは父権は死ぬまで維持され、隠居制は無い。

 英人は10代に母親の世界から父親の世界に入る。

▼斉藤真 ed.『デモクラシーと日米関係』1973

 明治はじめのキリスト教入信者は、これを儒教の延長だとみた武士階級。

 南北戦争後の米事業家は、スペンサーの「ミリタントタイプオブソサエティからインダストリアルタイプオブソサエティへ」なる社会進化説に多大の影響を受けていた。ロックフェラー、カーネギーら。

 大正の日本人がアメリカ映画をいかに愛したか(pp.134-5)。

 ウィルソンは、自著『国家』(邦訳1896『政治汎論』)の中で、社会は進化によってのみ善くなり、革命は退化につながると。

 吉野作造は典型的なウィルソンかぶれ(p.147)。

 大正期に訪日したジョン・デューイは、反米論あることを報告。
 内村は米のWWⅠ参戦に絶望した。
 評判の悪い「写真花嫁」は1920に廃止。

 アメリカでの差別待遇を黙過すると、日本人は世界中から劣等人種とみなされて、いたるところで海外発展を阻まれることになる(p.184)。

 1900前後の日米開戦論は米側のみの一人相撲。
 1920'sを通じ、米海軍は、排日は戦争をしてでも貫くべき国益とみなした(pp.188-9)。

 日本政府は排日問題を重要なものとは考えず。よって大使の引き揚げもなし。
 大正デモクラットは人種差別をアマく見た。

 東部では100%アメリカニズムと19世紀末風人種主義がWWⅠを機に復興した。
 排日法が大陸進出を正当化した。

▼伊藤政之助『戦術史講和』大15

 オクスフォード大学は「戦争研究を度外視する大学は決して政治家養成の良学園にあらず」と、戦略・戦史の講座を置く。

 仏は1871~90は守勢作戦時代。独はこの間、先制を欲したが自制した。
 1890~1910は仏の攻勢防御時代。この間に独は力をつけた。
 1910~は仏の攻勢時代。ジョフル参謀長。

 英にはボーイスカウトの他、少年「チャーチ」旅団がある。本国のみで65万人。

 WWⅠで伊は総勢100万なのに50万の墺軍に防戦のみ。
 米の毒ガス生産は1日分で東京市民全滅に足る(p.22)。
 ベルギーではこの頃、強いアルコールを禁じていた。

 明治20年に至るや中隊を散兵と援隊とに改め、戦闘正面を150mに、散兵の間隔を3歩に縮め、おおいに攻撃精神を高唱せしも、「独断」の範囲は甚だ狭少であった(p.115)。


 ナポレオン下のアーゲローは黒人出身(p.309)。
 WWⅠの男子数に対する兵員。仏27%、独25%、英23%、伊20%だった。
 兵員100に対する馬の数は、普墺戦で15頭、普仏で17、日露で20、WWⅠで30である。

 WWⅠの陸兵1人あたりの毎日の純陸軍戦費は、英20円、仏5円、露・伊・独・墺が4円である。日露役の日本では2.3円だ。

▼川瀬一馬『日本文化史』

 7~8月の季節風は、日本の西南海地方(沖縄)から大陸に吹き、その後は逆に吹く。しかし、季節風にのっても、大陸からの戻りは困難。

 日本の西南地方は、風と海流が悪く、接岸が困難。
 揚子江は風道なので、上下行ともに「信風」を利用できる。

 日本海岸は夏のみ平穏で、秋の終わりから翌春まで交通できない。
 太平洋岸は一年中使えるが、午前は凪ぎ、午後に荒れる傾向がある。

 安倍仲麿は、おきなわ島まで到着しながら難波してまた大陸に吹き戻された。

 武家文化は文字でなく視聴覚に拠った。禅はテキストで教導せず、師との接触によったので、武家にウケた。

 足利学校は禅院の形式をとった。
 林羅山の宋学はまだ単なる紹介解説だが、素行が出て初めて宋儒を論難し、仁斎、徂徠が続く。

 神道の教義は全く儒仏に依存。あるのは祭式のみ。

▼北見俊夫『日本海上交通史の研究』

 柳田の『風位考』。日本海岸は陸路は往来し難いため航海が発達したと。
 山口県沖から海流と追い風にのった漁船はウラジオまで「二日走り」する。

 『元史瑠求伝』にいわく、「凡西岸漁舟到、澎湖己下、遇颶風発作」すると、漂流し、みぎわに落ち、百に一も戻って来ない。……つまり沖縄近海は低気圧が頻繁に発生するのでシナから交通するのは危険なのであると。

 順風でも急潮にかかると一歩も前に行かなくなった(p.122)。つまり黒潮が強いので。

 柳田『火縄銃から黒船まで』。江戸期のジャンクは、5~9月に揚子江岸を出、南西風に乗って来日。シナへの帰航は10~12月の北東季節風に乗る。片道3~6日だった。

 日本からシナをめざすのは目標が広いので容易だが、その反対が至難であった。

 日本海側の暴風日は11月~3月に集中。逆に夏はほとんどベタ凪ぎ。太平洋側の伊豆大島は周年荒れる。日本海の年間波浪は、1m以下が100日、2mまでが100日、2m以上が160日である。
 良材の多い熊野の山中で造船して川を下して難波に出た。

▼トライチケ『軍国主義政治学』上下巻、浮田和民 tr.大7、原1899~1900

 戦争とは自国が判事になる訴訟なのだ。
 国家が先であって、契約が先ではない。

 中世では貴族は外国の貴族と親密で、自国の市民とは疎。市民は市民同志親しく、自国の貴族とは疎。
 最初の成文「叛逆罪」は1352の英にて。

 英国のインド虐政は正当化される。ヨーロッパ人はアフリカと東洋ではヨーロッパと違う政策を採ってよい(上巻p.147)。

 フォン・ボイエンやクラウゼヴィッツのようにロシアに脱走して旧国旗に反抗したものは、残留組のヨルク、ブリュッヘル、ビューローより道徳少ない。

 英国においては、戦時状態にありとの布告が、ドイツにおけるよりも甚だ頻繁である(p.242)。
 ユダヤ人は名誉あるドイツ人に対して常に民俗瓦解の一要素たりき(p.392)。

 ロシアでは、国が認めないと貴族ではない。二世代続けて公務につけない家族は貴族の資格を失った。これは、成り上がり貴族を許す(p.417)。

 英国下院の議員の1/3は、鉄道管理者だ(下巻p.17)。
 スウェーデン人は社交的だが、ノルウェー人は無愛嬌だ(p.229)。

 著者の師のダールマンは言った。結婚の誓いのとき、離婚もあり得るなどとは言わない。それと同じで、理性を有する者は良心を犠牲にし得ず、軍旗に対しても良心の故に服従できない場合があり得る。だが宣誓のときにはそんな留保は言わないものなのだと。

 ドイツ青年の決闘の習慣は美風だ。英国士官は決闘を禁じられてから、公衆の前で喧嘩するようになった(p.311)。

 革命戦争以前、英仏だけが国債を起こせた。フレデリックは7年役のとき、ついに公債を起こせず、悪貨幣で切り抜けた。

 著者小伝。トライチケは初め自由貿易主義者だったが、年経るに従い、反動化したと。※つまり愛英→反英ということ。

▼『燃料史』

 昭和15年、米は航空燃料の他、鉄製ドラムの供給も禁止した(p.42)。

 南方油の運送実績。戦争第一年148.9万トン。二年246.6万トン。三年106万トン。四年(終戦迄)ゼロ。

 S18年末からの苦肉の策。台湾砂糖、満州雑穀、国内甘藷からアルコール。大豆、魚油、フィッシャー軽油を潤滑油に。航空ガソリンのための松根油、重油のための亜炭、ボタ乾溜、タンク底油液の処理。

 松根油はS19年に伝えられたドイツ技術で、針葉樹の8%がテルペン乾溜油になると。農林省は伐採に難色を示し、根だけ許した。陸海分担で、20万リットル製造したが、航空用にはならず、漁船用とされた。※大正時代から松根油の研究があることは兵頭旧記事を見よ。

 南方油田はタラカン油田とサンガサンガ油田(バリクパパン製油所)のみ。他には出なかった。

 兵站総監を作戦部長より上位にしている陸軍はパレンバン占領を素早く決心。海軍は作戦第一主義で伝統的に補給はどうにでもなると思っており、特に航空ガソリンに関してそうであった。こうして最大油田のスマトラは陸軍の製油分担区になった。海軍はボルネオを得た(p.94)。※トータルウォーを考えていたのが陸軍省であって海軍省ではなかったということ。

 S19年2月に海軍航空燃料が枯渇し、陸軍に融通を懇請する羽目に。陸軍は応諾したが、マリアナで空母が壊滅したのを見て、本土決戦に備えて海軍には渡さないことにした。
▼田辺義雄『世界の食糧情勢』

 1978~1982平均すると、綿など含めた農産物輸入はアメリカから42%だが、特に小麦シェア53%、トーモロコシ91%、大豆93%は一国依存状態。

 米国農地の2000万Acerが日本向けの作物をつくっている。これは日本の耕地より広い。

 83年の供給熱量は国民一人あたり2593kカロリーだった。うち1361%、つまり52%は国内産の勘定。
 人は寝ているだけで1日1450kcalを消費する。

 農水省は、最大限の自給努力をしても2000kcalの自給が限度と見ている。これは昭和20年代後半の水準。

▼クセノフォン『アナバシス』松平千秋 tr.

 エウプラテスの某地方は稗がきわめて豊富。
 ティグリスは舟航はできるが舟なしで渡河することは到底望めぬ。

 急退却をすれば、追撃は小勢では危険となり、さりとて大部隊ではスピードが出なくなる。
 ナツメ椰子の果汁は美味だが頭痛を起こす。

 規律のためには敵よりも指揮官を恐れさせねばならぬ、とクレアルコスは言ったとか。

 クセノポン「われわれ(ギリシャ人)は、寒暑や労苦に耐える点では敵(ペルシャ人)に勝る肉体を持っている……」

 クセノポン「さらに諸君よ、もう一つ私が確信していることがある、すなわち、戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望むような者は、大抵は見苦しく悲惨な最期を遂げるものであること、それに反して死は万人に共通で逃れ難いものと悟り、ひたすら見事な最期を遂げんことを志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれ、在世中も他の者より仕合せな生活を送るのを私は見てきているのだ」

 ただ一つ、騎兵はわれ\/に優る利点を持つが、それはわれわれよりも安全に逃走できるということだ。
 ペルシャ人の投石器は、掌に握れるほどの大きい石で、短射程。
 ロドス人の投石器は鉛丸で、ペルシャ人の石の倍、飛ぶ。
 それは弓よりも飛んだ(p.100)。

 ペルシャ人の夜営では馬は足も縛っておく。
 カルドゥコイ人の長弓は、下部を左足で踏みながら引く。

 ギリシャ人隊中には多数の娼婦がいた(p.120)。
 寝ている体に雪がつもると却って温かい。
 ギリシャでは猛犬は昼縛っておき、夜放す。

 テュノイ人は棍棒を、鉾の穂先を叩き落とすための武器だといっている。
 解説いわく、本書はアレクサンダーに影響を与えた。

▼『五国対照 兵語字書』明治14年2月 参謀本部

 ※山縣参謀本部長が西周らに編ませた、明治期の最初の外国語辞書の一つ。
 ※見出し語は仏語で引くようになっており、和語から引くことはできない。
 ※女性格に f.、男性格にm. と注記してある。(a)は古語の印。
 ※配列は仏、独、英、蘭、和の順か。

 巻末で室岡俊徳いわく、馬の毛色を言う語だけはどうにも比定がつかなかったと。

 Initiative,f.──Initiative,f.──Initiative.──Initia──先発

 Architecture militaire,f.──Kriegsbaukunst,f.──Military architecture,f.──Kriegsbaukunst,f.──築城術

 Arbalete,f.(a)──Armbrust,f.──Cross-bow,Arbalest──Armborst,f.──Kruisboog,m.──弩

 Cantiniere,f.──Marketenderin,f.──Sutler's wife──Marketentster,Zoetelaarster,f.──従軍酒婦

 Guerre civile.f.──Burgerkrieg──Civil-war──Burgeroorlog──国乱

▼金子有鄰『日本の伝統馬術』
 ※先行する著者の主著と内容はほぼ同じ。

 「令義解」に、「具装」とは馬甲だとあるから、奈良時代に馬ヨロイがあったことが知られる。

 源平盛衰記の生田の戦いの箇所に「馬には冑を着すべし」とある。ただしそれはカブトなのかヨロイなのかはっきりしない。

 太平記の22巻にも馬の鎖冑が出る。その他の例、多数。

▼R.アーミテイジ『アメリカ海軍──その伝統と現実』古田保 tr.昭和16年
  ※巻頭写真が20ページほど破り取られていた本。

 艦隊派と本省派のあいだに意見の食い違いがある。
 スクリューのことを「暗車」という。

 「1948年には米国海軍が総トン数では日、独、伊三国の海軍の合計と同じになると言うことは別に隠す必要もあるまい」(p.30)。

 「水兵は複雑な仕事を憶え込むのに6年はかかり、除隊して一般人の仕事へ戻るのも困難だ」「我が海軍は……現役兵員の4割はハイスクール出身である」(p.31)。

 「我が戦艦はことさらにあまり速くないが、装甲を厚くし、備砲を大きくし、航続距離を伸ばすために、速力を犠牲にしてゐるのである」(p.32)。

 1925頃は商船とSubが衝突するとSubの方が沈んだ。S-51号と“シティ・オヴ・ローマ”のニューイングランド沖遭遇。

 「19世紀及び20世紀の攻撃戦理論の唱道者ともいうべきクラウゼヴィッツの諸概念は、第1次世界大戦中に疑惑にさらされるに至った。それは攻撃的作戦が成功するためには、殆ど三対一の数的優勢を要することが分ったからである」(p.182)。

 日本政府は圧迫を加えられると敏活だ(p.192)。

▼参謀本部・広田忠三郎『日本古戦法』大13

 太古の騎射は「半弓」を用いていた。さもなくば馬上で使えるものではない。

 甲越の戦いのころは槍は普及していなかった。信玄などは麾下の隊だけに長槍を持たせていた。信長はこれを多量に用いた。以後、武士は必ず手槍(短槍)を持つようになった。
 本邦の「魚鱗陣」はシナの「車輪陣」の誤りで、「鶴翼」もまた「虎翼」の誤り。
 孔明八陣とは実は64種あるのだが、越後流は知らない。

 本邦の陣備えは頭に重点を集中した攻撃型。後ろに脆い。シナ軍の陣は守るを主とする。
 答古智幾・タクチック と 士多剌的義・ストラテギー が明治12~13頃の当て字(p.30)。※『軍事史学』によると、フランス語にオランダ音をふった。

 折り敷いて石突を地に托す槍襖を「嵐」という。
 植株列がそろっていないのは、深田である。

▼モック&ラースン著『米国の言論指導と対外宣伝』坂部重義 tr.S18年
 ※序文ページ破れていて原タイトル不明。

 宣伝と政治・軍事は作戦上、同価であるとはWWⅠではじめて米人に気付かれた。
 1940ごろ米にフィンランド救援の気運をつくったのは、ロバート・シャーウッドの芝居「ゼア・シャル・ビー・ノー・ナイト」と、シベリウスの音楽。

 WWⅠ中の米国内宣伝は、米国人をして北米爆撃を覚悟させる迄に(p.28)。
 戦時防諜法で5~20年の禁錮判決を受けた何百人もが、ハーディング~クーリッジによってほとんど釈放された。

 ホームズ判事すらWWⅠ中は保守派の判決を下した。
 Four minuit man (四分間演説者)は、ラジオのないときのシンクロ放送網。

 開戦と同時に多数のロシア人が合衆国から帰国した。
 国内・同盟国向けには本局が、対敵宣伝は陸軍省が担当。

 国内無線局を全部接収したのは海軍。これを定期ニュースブロードキャストに(p.226)。
 1918年からはハルピンが米の対シベリア宣伝活動基地となる。

 ヴェラクルスを占領させたのはウィルスンだった。

摘録とコメント(※)

▼重久篤太郎『日本近世英学史(増補版)』S57年

 文献上の初見は、江戸末、蘭語重訳のロビンソンクルーソー。
 蘭語の次に早くから研究されたのが仏語。18世紀末の革命以来の影響力による。

 明治20年代頃までは軍隊では「止れ」の意に独語のハルト(halt)が用いられていた。 「○年計画」はロシア語よりの翻訳(p.74)。

 軍隊ではズボンを袴、ボタンをコハゼと称した。
 1816にシナからの帰りに沖縄に寄った Basil Hall 英海軍大佐は 1843に Loo Choo Naval Mission・海軍伝道会を派した。

 Basil H. Chamberlain は沖縄近海を測量しあたとセントヘレナに寄りナポレオンと会っている。

▼『平成17年度学士会館定例講演会』
 永江太郎「支那事変(いわゆる日中戦争)の真実を求めて」
  ※論者はもと防研戦史部。

 戦史叢書のなかで、満州事変から昭和16年までの支那大陸の陸軍作戦について書かれているのは『支那事変陸軍作戦』の全3冊。
 これに対してカウンターパートの人民解放軍軍事科学院軍事歴史研究部が編纂刊行したのが『中国抗日戦争史』の全3冊。

 Sino-Japanese war といえば日清戦争のことになる。外国でも正確にいう場合は Sino-Japanese incident ・日支事変と書く。日本の教科書が「日中戦争」と教えているのはおかしい。互いに宣戦布告していない。だから「いわゆる」なのだ。いまの大陸では「抗日戦争(the war of resistance against Japanese aggression)」が正式呼称。

 満州事変の結果として日本は国際連盟からS8年2月27日に脱退した、日支間の関係はこれとは独立で、事変から2カ月後にはタンクー協定が成立している。中共公刊戦史も「国民政府屈辱求和」と書いて認めているのだ。

 事実、S10年には両国公使館は大使館に昇格した。

 経済交流はそれよりも早く復活していた。S8年7月1日に北平と奉天の直通列車が運行再開。S9-11には郵便協定。S10-1には満支間の郵便業務再開。S10-2-5には電信が開運。S10-9には山海関に国境税関が設けられて、正規の国際交易が始まっている。

 つまり満州事変にもかかわらず日支関係は<平時>だった。これがおかしくなるのは中共が苦境に陥ってからのことなのだ。
 苦境に陥ったのは、蒋介石が昭和10年までに日本との関係を正常化した結果でもある。だから蒋は共匪討伐に注力できたのだ。

 かくしてS9年11月に瑞金の中共本拠が陥落し、11年2月までかかって山西省に落ち延びた。

 蒋と日本の関係を悪化させたい中共はS10年1月から5月まで50件以上のテロを引き起こした。天津の日本租界内での複数の暗殺を含む。

 S10年7月にモスクワは世界中の共産党を第七回コミンテルン大会に招集した。世界の共産党はドイツと日本を当面の敵とすることが命じられた。中共代表は「8・1宣言」を10月1日のパリで発表した。内容は日本に対する戦争宣言で、詳細は中共の公刊戦史・上巻354~355頁に堂々と掲げてある。誰が戦争の計画者かは明白なのだ。

 延安に中共が逃げ落ちたところを蒋介石はトドメをさそうとしたが、さしむけた張学良は消極的であった。蒋介石が督戦のため西安を訪れると、西安事件が起きた。

 この事件の結果、昭和12年2月末に国民党の内戦中止と抗日の方針が決定された。
 にもかかわらず蒋介石に具体的な動きはなかった。
 そこで発生したのが北平駐屯の日本軍への挑発である。

 盧溝橋事件の4日後、7月11日夜に支那駐屯軍と第二十九軍の間で停戦協定調印。
 この協定も妨害するための中共の小規模テロが頻発した。
 ついに中共が動かせる正規軍が出てきて、日本軍を銃撃し始めた。25日、廊坊事件。26日、広安門事件。
 これをうけて参本は27日、北平・天津地区に限定した武力平定を許可。ここからが「北支事変」。

 7月29日、通州事件。

 上海には日本の海軍の陸戦隊が5000人、租界を守備していた。これを5万の国府軍が包囲していた。
 戦争を熱望していたのは中共だが、最終的に決意し、上海で戦争を始めたのは蒋介石。まず8月6日に国防会議。※「勝てる」と判断させたのもコミンテルンの息のかかったドイツ人なのだろう。

 8月13日午前10時半に、商務印書館付近で日本軍への攻撃開始。夕刻、八字橋付近の日本軍への砲撃開始。
 14日、シナ陸軍が虹口の陸戦隊本部と日本租界の防衛線への本格攻撃開始。シナ空軍は停泊中の第三艦隊の帰還『出雲』および陸戦隊本部を爆撃。
 15日、蒋介石は総動員を下令して大本営を設置。

 17日、日本政府は閣議で、不拡大方針を放棄。
 8月23日、邦人救援の第三師団が上海に上陸。しかし敵は優勢で膠着状態に。

 9月23日、国民党は共産党と第二次国共合作に調印。
 11月5日、第十軍が杭州湾に上陸。
 17日、日本も大本営を設置。

 蒋の側近・薫顕光の回想録にいわく「蒋介石は、自ら好む戦場を揚子江の線に選び、揚子江の線が破れた場合は奥地深くに抵抗線を築く計画であった」。

 戦争では10年前からの周到な準備が必要である。日清、日露ではそれをしていた。支那事変と対米戦争ではそれがなかった。特に外国内の反日感情や反日政策、米国のシナへの梃入れ政策(イコール反日政策)を傍観し続けたのが最も反省されるべきだ。

 M38、サンフランシスコ市は日本学童を隔離する命令。
 M40、米議会はハワイからの本国移民を禁止。
 M41、シアトルでも排日運動。
 大8、カリフォルニア州議会は排日協会を設立。
 大13、連邦議会は排日移民法を圧倒的多数で可決。

▼大島高精『米国と太平洋』大13

 ハワイで1000ft×138ftのドック拡張完成が1919年。
 それにつづいて1800および1000ftのドックを計画。

 フィリピンのカビテ、オンロガポ、ポロックは大艦向きでないので、マニラに新軍港を建設せんとす。
 米海軍参謀部は、距離の不均衡により比島防衛には巨費が必要で、むしろ無防備がよいと健策。

 明治は欧化時代、大正は米化時代(p.554)。

▼中村秋秀『米国の太平洋戦備』S7年 

 シナはTK×3000も買っているが、ガソリンが漏れ発火すると遺棄してしまう(pp.277-8)。
 飛行機は50以上あるが、古物。

▼勝守すみ『太田道灌』S41年

 幼時、鎌倉五山にて学修。
 当時の千代田区は、利根川と荒川の合流路の河口に膚接。

 川越←→鎌倉の中間地であることが立地理由。
 当時は石垣は少ない。土居をめぐらした。

 『太田道灌兵書』は江戸期の偽書。『道灌自記』も江戸楠流の偽書。
 鉄砲以前に足軽戦は重視されていた。

▼荒川銜次郎『太田道灌と江戸城』M42

 隅田川右岸の川越=江戸を連接して北方に対する防御線を形成せんとした。
 海岸でない、内地の城に石壁を用い出すのは、織田の二条城(永禄11)。

▼山口平四郎『海岸の地理』S44年

 Oceanといえば太平洋、大西洋、印度洋の三つのみ。
  他はメディタレニアンかマージナルか、どちらかのseaである。

 太平洋とインド洋の区分は、タスマニア=マッカリー=バレーニー=南極アデーヤ岬の線。

 港は風下側に造られる。日本では冬の北西季節風を考慮。よって日本海沿岸は天然の不利。

 欧州には勾配の小さいエスチュアリー地形のラッパ状河口が多い。これは干満の良影響を受ける。浚渫が不要であり、大船が遡航できるのだ。

▼橋井真『工作機械と自動車統制』S15年

 工作機械統制の初めはS13年3月の工作機械製造事業法。許可事業になった。

 池貝鉄工所は日清役中の設立。
 M44に快進社がダット号をつくる。ダットサンの起源。

▼原正幹『米国戦時造船』大10

 米の職工教育の成果は、本邦一流熟練職工よりも勝る人材を急造。
 特に製図と機械の理解は米国職工の方がはるかに勝る。
 一人の教員は5~20名を教えた。

 米でも戦中に給与が高くなると出勤率が数%落ちる。
 Wコーストの方がEコーストより出勤率はるかに高い。その理由は、露天船台の作業は雨天が苦痛なので。

▼ウォルフ・シュナイダー『ウルからユートピアまで』S36年

 ローマ都市住民のことを intramuranus 「城郭内の住人」と呼び、ドイツ市民の Burger も同じ意味である。

 zitadelle は小堡塁。これが多数置かれる。
 北アフリカや南アジアでは迷路式陸地によって防衛する。
 ドイツでは家の高さは道路の幅員と等しい。

▼大河内正敏『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』S10年、海軍有終会pub.

 尾崎はM35-12の第17議会で、日露の歳入が2億5千万円 vs 20億円で、競争にならぬと発言。

▼佐藤栄一 ed.『政治と軍事』S53年

 ヴァージニア憲法のコンセンサスである文民主義は英にて発展していたもの。海軍に大きく投資したので、本土防衛は地方軍民兵に依拠するしかなかった。

 フィッシャー提督は、海軍による陸軍の統合を考えた。

 17世紀のロンドン市の市民軍はよく訓練されており、別格に精強。
 クロムウェルの手兵を率いての反乱が、常備軍 standing army への警戒感となる。
 アダム・スミスだけが常備軍を肯定していた。

 対インディアン戦争は、最も初期の全体戦争または絶対戦争。そのころまだヨーロッパは、儀礼戦争の時代。

 「襲撃を受けたコミュニティ自体が自衛する以外には、防衛の方法は現実には存在しえなかったのである(p.11)。※ベトナムの戦略村の発想の背景。

 独のヴェーラーいわく、クラウゼヴィッツの絶対戦争はマルクス純粋資本主義に匹敵する理念型だと。
 ※政治の目的は権力であるから、核手段は政治と何等矛盾しない。

 ケネディはラ米に戦車を送っている。※たぶん低圧75ミリ砲の軽戦車のこと。

 マクナマラの後任者の Laird は、「米ソ関係にはゲームの理論あるいは行動・反応・分析といったものは通用せず、ソ連はより攻撃的であるとみなした。したがって、アメリカは対ソ戦略的優位を確保すべきであるとの立場をとった」。

 マクナマラの拒否したB-1、F-15/14、ABMをレアドは復活させた。

 警察予備隊設置当初、日本側は内局の意義を認め得なかった。その過程で、シビリアンコントロールとは、内局が部隊の上に立つことだ、との解釈が定着してしまった。

ポータブル神社

 神社の便利なところは、「分社」ができることです。これは本社のフルコピーなのですが、ファイルサイズは極小で済みます。
 靖国神社を首相公邸内の「ポータブル神棚」に分社しておいたらいかがでしょうか。毎日、居ながらにして参拝ができますね。
 「俺は靖国神社なんか嫌いだ」という新首相は、このポータブル神棚をどこかの倉庫に預けてしまう。あるいは無理してその公邸に住まない。
 維新政府は「神仏分離」を行政命令で強制しました。その過程で、ある神社は寺とされ、ある寺は神社とされた。日本ではこういうことができる政治的伝統がある。靖国神社も、危機感を持たねばいけません。
 「ポータブル神棚」をいまからたくさん準備することです。そして首相だけでなく、いろいろな人に持ってもらうことです。

 以下また、摘録とコメント。

▼徳永真一郎『幕末閣僚伝』S57年

 天保改革で倹約令を断行した老中首席・水野忠邦が罷免された。発表の夜、江戸の市民数百人が邸の前に押しかけ、石や瓦を投げこんで歓声をあげた。
 しかし1844に英船が宮古・八重山諸島を測量したり、外交問題が頻発するので、1845に再起用された。

 老中は月に一度は大奥を巡視する。
 オランダのウィリアム2世の国書には、天保11~13のアヘン戦争で清国は数千の兵を殺されたと(p.10)。

 ペリー来航前、松前海峡を通過する捕鯨船は年間100艘以上あった。※吉田松陰はなぜ関東で密航を試みる必要があったのか。

 井伊直弼の開国論は、海軍建設、商船隊建設を是とし、キリスト教の受け入れも認めるというもの。
 ロシアは日米戦になったとき日本に味方して恩を売ろうという肚で艦隊をうろつかせていた。

 ペリーの9隻の軍艦は、江戸湾を封鎖したのである。※時間が経てば経つほど、江戸市中は飢饉に陥る。
 メキシコは米海兵隊によってすでに城下の盟を強いられていた。そのようにして条約を結べば、もっとひどいことになる。

 江戸直下型地震で藤田東湖らが死んだ。これ以降、水戸藩主の言動は筋が通らなくなり、ただ横車を押すだけの老人になった。
 幕末、すでに牛乳とバターが病人食。
 1680に堀田正信はハサミで首を切って自殺した。
 貧乏すると、敷居を枕にして寝る。
 堀田正睦は西洋銃剣術を藩士に学ばせた。

 安政3年にハリスは正睦を威嚇した。清国は16年前、イギリスと戦争を起こし、「百万人の命を失な」ったと(p.41)。
 江戸時代の歴代天皇で政治になにかと発言があったのは孝明帝だけ。ただし一事について表裏二つのあいまいさ。
 家定は臣下に道理で責められるとただ泣きじゃくるのみで一刻でも二刻でも何の答えもない。死諫もムダだろう。

 井伊直弼は部屋住みの頃、新・新心流という居合いの一派を創立した?
 国学は現実論で、帰納法的。これに反し儒学は、最初から結論を定めて、それに適するようなデーターをあげる、(似非)演繹法。

 室町期に諸侯が勝手に上洛競争したことを見ている家康は、諸侯や家臣が勝手に朝廷と連絡することを厳禁した。
 家光が鎖国を決めたときに勅許など得ていない。政治を任されているのだから開国も勅許など必要ないのだ。

 水戸・薩摩・長州は天皇の取替えと幕府乗っ取りたくらんでいたので、それを潰したのが安政の大獄。ただし幕府としてはこれほど大きなクーデターの陰謀などを天下に公表はできなかった。
 長野主膳は早くから平田篤胤は唐心であって鈴廼舎の後継者ではないと言っていた。

 老中間部の要撃計画を自白した以上、幕法からいって松陰の極刑はあたりまえだった。 川路聖謨が23歳で勘定評所留役だったころ、剣術と槍術の道場に入門したが、同僚は「武術のために体を傷つけるようなことがあれば、出世の妨げになるぞ」と注告した。

 川路が佐渡奉行のとき稗飯を食ってみたがとても咽喉を通らなかった。
 勘定奉行は関八州の訴訟も裁く。

 川路が55歳のとき、江戸から木曽福島の本陣まで中仙道を15日で歩いた。1日7里半の計算になる。
 この頃の川路の日課。朝は丑の刻=午前2時起床。読書と執筆。空が白むころ、長槍のすごき2000回、大棒の素振り2000回。これは一日も欠かさなかった(p.95)。
 ロシアと交渉してエトロフ島を日本領と認めさせたのは川路だった。

 徳川斉昭が嘉永6年10月に対露交渉に赴く川路に贈ったうた:「わが国の千島のはてはえそしらぬ さりとて君はよそにとらすな」。

 「別して刀剣の楽しみ、大いに節すべきこと」を座右銘の一つにしていた。
 老中阿部正弘は37歳で胃癌で死んだ。

 川路の59歳・西の丸留守居役のときの日課。夜明け前から乗馬。午前8時に飯。読書。正午に飯。読書。午後4時に飯と酒一合。日暮れるや、重い鎗と軽い槍等、あわせて3500本のスゴキ。ついで、大棒を使うこと1000本、居合い刀(軽と重あり)を300回、さらに棒と居合刀を振り、曲尺をふむこと500、それより木馬に乗る。これで夜10時になる。
 体調がおもわしくなくなってからは、鎗刀をつかう代わりに、3貫目の荷物を背負い、1貫目余の太刀をさし、10匁鉄砲を携えて1里余、そこから鉄砲を持たずにまた1里余、そこから荷物も下ろして1里余、庭園を歩行した。
 それも医者から禁じられたので、邸内の精米機を踏む仕事をした。

 幕府は朝廷に恭順の意を示すため、旗本と御家人はしばらく鳴物停止、月代も剃らないようにしろとの達しが出た。
 川路は江戸城明け渡しの日、短刀で浅く腹を切った上をサラシで巻いて、咽喉を短銃で撃って自決した。旗本3000騎のうちこのようなマネをしたのは川路だけ。

 ある水戸藩士の申告によれば、斉昭は、クーデター&内戦を起し、米国に応援を求め、代償として琉球、佐渡、壱岐、対馬をアメリカにくれてやるつもりだったと(p.117)。
 文久元年の降嫁では浪士の襲撃を警戒して中仙道を選び、各宿場では2里四方を煙止めとて、炊事もさせず、10日前から近所で葬式もさせなかった。※火縄警戒?

 1862-12-22、伊藤博文は仲間一人とともに49歳の幕府の国史学者・塙次郎を自宅前に待ち伏せて斬殺し、その首を九段上の黒板塀の忍返しの上にさらした。
 廃帝の古例を調べていたというのである(pp.134-5)。
 松平春嶽の国事テロ犯人の赦免が暗殺を流行させた。

 天狗党の一件では392人を斬罪にした。安政の大獄ですら死刑は8人。
 当主が17歳以下だと国替えになるのが当時の幕府の制度。
 横浜駅に近い青木橋の前の丘陵にある本覚寺はアメリカ領事館のあったところで、その頃、日本で始めてペンキを塗ったという門が現存する。

 尾張は一度も将軍を出していないので幕府に不満あり。
 家茂の死因は脚気。
 小笠原長行は幕府の主戦論者だったが、意見は容れられず。その息子が、海軍中将・小笠原長生。

 無役の小普請組だった勝麟太郎は漢学熟を開いて生計としていた。それを蕃書翻訳所に抜擢したのは、大政奉還の発案者であった大久保一翁。一翁構想とは、朝廷がどうしても攘夷をしたいのなら徳川は遠駿三の旧領だけを支配する昔の一大名に戻ればいいというもの。
 安政3年の一翁のうた「ふたつなき三の宝のほかならば変わるもよしや民のためには」。これは三種の神器=国体のこと。
 一翁と改名したのは、49歳で断髪してから。
 一翁も日記をつけていたが焼却した。※日記には他見を憚るようなことも書くものだから、たいていの役人は晩年に焼却するのである。

▼S.J.Deitchman著『アメリカの限定戦略』S41年、上原和夫 tr.

 WWII中の6コDは、5000t/d、補給所は各10日分を貯う。
 マレーでの英軍は、「ゲリラをジャングル外に追い出す」を主眼として成功。

 ノルマンジーからラインに向かった第三軍の平均速度は24km/dで、最高はその倍に達す。
 北アフリカのクルセイダー作戦中は、32km/d ~ 64km/4hの間。

 1コDの補給に800台のトラック要る。そのうち、荷物を積んで前線に走っているのが400台(2日分)。空荷で後退中が400台(2日分)。

▼河田嗣郎 ed.『時局と農村(2)』S13年

 戦時は肥料工場が火薬工場となり、当然、農業減収が起きる。
 肥料はチリ硝石からつくっていた。

 1916の英ではイモの価格を抑えすぎ、生産低下した。その反動で値上げしたら1918は出来すぎた。英は小麦の逆ザヤ政策をとる。
 英では必要量以下の配給となったことはない。
 仏ではヤミ流行。
 軍や包囲市民への食糧割り当てをレイショニングという。

 英では1917-10から1918-2-25の割当制施行まで、queue(行列)がみられた。
 ベルリンでは1916からポロネーズ(舞踏・行列)を生じた。

 独でもWWⅠ中、ヤミ横行(pp.72-3)。
 1918の仏は農村より370万人動員した。蹂躙された農地は全国の6.31%だが、そこが最も豊饒地だった。

 ビスマルク以来の保護政策で、ドイツはWWⅠ初め、自給できると考えられていた。しかしそれは水増し勘定を前提にしていた。
 デンマーク、オランダ、スイスの酪農品、ノルウェーの魚は、輸入できた。一時はルーマニアから麦を輸入。
 英はノルウェーの鰊を買占め、これを遺棄してドイツに渡らぬようにした(p.157)。

 イモ5パーセント混ぜパンが1914末よりドイツで作られた。褐色。1915~17には、米国産のトウモロコシ、大豆、カブまで混入された。
 ドイツはイモで豚を飼うシステム。
 ドイツの1913の農業人口は1千万人。うち16~50歳男子は340万人。うち200万が徴兵されたのでは農業成り立つわけなし。
 そこで Freiherr Theodor von der Goltz は1890'sに工業化のいきすぎに反対。
 この頃から、漂泊労働者が国外より大量流入し、農業に従事。

 イモ、ダイコンなどの耨耕作物は、労力・農耕蓄・照明を必要とするので戦中に廃れ、穀物に転作することになった。これで総カロリーは減った。

▼堀毛一麿『ペレコープの戦』S9年

 スターリングラードはもともとツアリチンといい、スターリン、ウォロシロフが1918末に防衛にあたり、「赤いヴェルダン」といわれた。
 ペレコープはクリムの地名である。

 レーニンは、「党員はクラウゼヴィッツの兵書を読め」といってブレスト条約。
 英国は赤と白の永遠伯仲を望んだ。

 レーニンはパン列車を敗戦ドイツに送ろうとするも拒絶さる。日本の大震災のときも慰問品を宣伝文とともに送ろうとして断られる。
 東部戦線の独軍は休戦条約と同時にモラル崩壊した。

 マンネンハイムはコルチャックに、独立承認とひきかえに10万援兵を申し出るも、尊大な拒絶に会う。
 ロシアの赤白内戦で飛行機は殆んど用いられなかった。

▼吉田庚『軍馬の想い出』S54年

 東北から牝馬中心に徴用した。
 台湾Dを上海に投入した。
 重傷馬は薬殺。
 脚貫通、首盲貫でも馬は使える(p.46)。
 縦隊では前馬の尾に鼻をつけていこうとする。
 軍馬が斃死しても食べない。それが兵隊のプライド。総動員の10%以上が特務兵(輸卒)だった。
 家族は出征者には心配事をいっさい伝えないのが習慣だった。

▼マキシム・ホーソーン『戦車旅団全滅』S16年、富田邦彦 tr.

 筆者はウランバードルでT-37アンフィビアスで訓練受く。
 芽イモを食って下痢になり前線をのがれる方法がある。

 「肉弾戦は野暮な過去の戦いであって、廿世紀の戦斗法ではないと聞かされていた」(p.17)。

 日本軍と違いロシア側には十分な拳銃があった。
 水陸用T-38が並んでいた。
 独立TK旅団は各10両の11コ中隊から成る。

 筆者は「最新式」のS型軽戦車を指揮。
 この中隊は、火炎放射戦車×1、ATG×3を配属された。
 杉の葉をいぶして蚊よけとす。

 モスクワTK学校から送られてきた鉄条線は軽戦車を捕獲できるという話。3本で中戦車も。
 TK車内は騒音のため、クルーは手まねで話す。
 TK同士はKey無線でしたらしい。しかも走行中。

 1Coは3小隊。
 スターリン誕生日に前線で特別食出る。

 帝政下のロシア上級将校には命令軽視の風あり、上級指揮官同志の抗争で負けることもあったのでスターリンはこれを厳正に。
 ソ連ATGも実戦場では100m以上では有効ではなかった。
 親子戦車(p.232)?

 通信系。偵察機←→Bn長車←→Co長車←→Pt長車(ここまで無線)←→各車(手旗)。

 天蓋は、中からおさえていないと、外から開けられてしまう。
 パーカー両頭戦車(p.256)。

▼M.マクルーハン『メディア論』原1964、訳1987
 ※著者は1980死。

 ルイス・マンフォードは『歴史のなかの都市』で城壁都市を皮膚の拡張とした。
 歴史家のマコーレーいわく「それについて読むとわくわくするような時代に生きるのは楽しくない」。

 子供が一日のできごとをおしゃべりしたがるのは、再認識こそが生きるあかしだから。 電話が赤線地帯を廃止し、コールガールを生み出した。
 都市はそれ自体軍事兵器で装甲板である。

▼海野芳郎『国際連盟と日本』S47年

 英は多くの自治領の数だけの投票権を握った。
 従来、オランダ植民地は多量のアヘンを産した。

 日本の対支密輸が最も巨額。モルヒネを含んだ。
 台湾でもコカを栽培した。数千エーカー。

 1920頃の公娼制度下では、内地18、朝鮮17、台湾16から雇ってよく、23歳まで需要のピークであった。
 条約は就業最低を21にしようとした。

 内地公娼(私娼は除かれる)を調べたら5万人で、うち8000は文盲だった。
 1921に条約批准。21歳以下の(?)完全禁止は1927より。ただしザルだった。

 シナの技術顧問となったドイツ人「ライヒマンは実に日本側にとっては連盟保健部長の職務を逸脱して頗る排日的活動を行った不穏分子であったのである」(p.168)。

▼大場脩『江戸時代の日中秘話』1980

 台湾に逃げた鄭成功は1648から60年間、5度にわたって日本に反清援助を求めた。
 鄭が唐王であったことから、江戸人はシナ人を唐人と呼ぶようになった。

 吉宗は1720からシナの書籍を長崎に発注。
 江戸時代前半までは書籍の舶載はほとんどなし。

 シナでは銅の生産がなかった(p.37)。?
 日本が輸入した生糸は鎧のおどし糸など、ほとんど軍需。

▼小野武夫『日本兵農史論』S13年

 初期の鉄剣が直刀なのは、刺突を主としていたから。
 槍の初出は、倭健の東征にある「比比羅木之八尋矛」(古事記)

 火箭の初見は、欽明15年の新羅征伐に於いて。
 反り刀は馬上戦闘多くなるにつれ。

 山縣はM4に欧州をみてまわり、プロシヤが仏に勝ったのは予備兵が多かったからだとし、国民皆兵を12月に建議。

 柳田国男によると峠の俗称を味兵・あいひょう、とも言った。

摘録とコメント

▼本間順治『日本刀』S14年

 素戔鳴尊の剣、一名、蛇韓鋤・おろちのからさび。
 万葉。太刀ならば呉の真鋤/摩差比[まさび]
 当時、シナ大陸でも呉のみ鉄剣を産し、他は主として銅剣だったので。

 截断に際して刀自体の重い目方を、青龍刀は必要とし、日本刀は必要としない。
 東大寺献物帳に現存せぬ唐太刀あり、「偃尾」と註してあるので、鋒が反った湾刀がもうあったと思われる。

 玉葉には、平清盛が宋に日本刀を贈ったとあり。
 鎌倉末期の刀剣書中に、大和の國正なる刀工の作を述べて、「一とせ異国のもの〔=蒙古の捕虜〕の首を斬りけるに百人ばかりも斬るにこたへけり」とある(p.10)。

 洋鋼延べ鋼に焼入れし偽銘を加えて出征勇士に売る商人あり。

 明治以後、古来の日本刀をば文字通りの無用の長物扱ひとなし、外装の金具のみが僅かに珍重せられ、甚だしきは外装中の金のみが地金として用ひられるが如き態で、刀身のごときは二束三文の有様となり、……。

 事実先般の蘇満国境の戦に栗原中尉が軍刀を以て敵の機関銃身を切放した。※謙信の「鉄砲切助真」からの作り話か。

 国宝保存の最初の法は、明治21年に臨時全国宝物取調局(宮内省)が始め、明治30年の「古社保存法」(内務省)に結実。宝物は国宝に。建築は特別保護建造物に指定さる。
 M42に初めて日本刀が国宝に指定された。
 大2に内務省宗務局が文部省に。
 S4年3月、「国宝保存法」制定。建物も国宝に。

 村田刀は日本刀づくりではなく機械造り。満鉄刀、「金研刀」もまた然り。

 幕府のタメシ斬りは、山野加右衛門、山田浅右衛門、等。
 「二ツ胴截断」「三ツ胴切落」等と金象嵌を入れた。罪人や死体を切ることを大身武士の刀のケガレと考えていない事実が重要だと。

 近年、偕行社と軍人会館が、それぞれ別々に軍刀の斡旋に努めている。昨年(S13?)から水交社を加えて全国の刀工動員体制を内務省の協力を得てつくった。

▼ジョン・マクマリー著、アーサー・ウォルドロン編、衣川宏 tr.『平和はいかに失われたか』1997

 1935のマクマリーの未公刊メモランダムにウォルドロンが解説をつけて1992に出版し、それが邦訳された。

 オリジナルの1935文書は国務省内で回覧されていた。グルーやケナンが愛読。1992にそれが初めて公刊物になった。
 職業外交官のマクマリーは東洋語はできない。国際法の専門家で、ワシントン会議の米国主要メンバー。FDRは友人のひとり。

 アメリカ人の布教活動はシナでは成功したが日本ではそうではなかった。
 ワシントン体制は、貿易や政治上の小さな利益の追求の中に、崩壊していった。

 1920sはシナのナショナリズムの時代と回顧されるが、1935当時には「ナショナリズム」と「革命」は一般名詞ではなく、マクマリー文書にほとんど出てこない。

 ハル長官は、スチムソン長官の路線をただ踏襲した。軍事力こそ行使しないが、日本を違法な侵略者ときめつけ、日本に反対する世界の輿論を結集しようとした。

 ケナンは朝鮮戦争中の1951春にシカゴで有名な講演をしたが、そのときケナンはマクマリー文書を読んでおり、それを引用した。マクマリーは、日本が徹底的に敗北した場合、その真空はソ連が埋めると予言している。これは当たった。

 マクマリーは1925に北京公使に任命された。クーリッジ大統領。
 身長176センチで54キロしかなかった。

 21ヶ条要求のいくつかを袁世凱が撤回させた。日本人は怒って反袁運動に手を貸し出した。1916に孫文への支援開始。袁は皇帝になろうとして墓穴を掘る。
 この時点で南支に本拠を有する国民党がシナを統一するなどとは誰も思っていなかった。北京を支配している袁らの勢力(1916の袁の死後、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂)が清朝をそのまま継ぐと世界は見ていた。

 広東人の孫文は外国で人生の半分を過ごし、シナには基盤がない。自分の権力を増やしてくれる外国なら、どことでも組む用意があった。あるときはドイツ、あるときは日本。
 けっきょくソ連の援助が国民党を強大にした。※ベトナムに援助して中共を挟撃したのと同じノリ。

 孫はコミンテルンを味方にすると、米国や日本から新たな支援を獲得する努力をしなくなり、反帝国主義と、不平等条約廃棄を基本教義とした(p.107)。

 1925の英国を狙い撃ちにしたシナ暴動はコミンテルンから国民党に派遣されていた顧問の助言による。ついで日本、ついで米国がターゲットにされた(p.108)。

 英人フランク・サットンは張作霖に迫撃砲の製法を教えた(p.25)。
 ウォルドロンによるとマクマリーはウィルソン流。
 ウィルソンにとっての国際連盟が、マクマリーにとってはワシントン条約体制であった。

 シナで近代国際法を最初にマスターしたのは、ワシントン会議に送り込まれた駐英公使の顧維均。彼は「事情変更の原則」を前面に出した。
 WWⅠ後のドイツ人、また革命後のロシア人は、シナでの治外法権を奪われた。

 クーリッジ政権の国務長官、フランク・ケロッグは、米世論に神経過敏で、東アジアの専門知識がなかった。
 こいつが1925-5のシナ人の暴動デモに狼狽し、ワシントン条約のフレームを壊し始めた。条約改正交渉によらない、一国単独の、一方的特権返上。
 これに反対するマクマリーを在支の宣教師団が批判し、マスコミに叩かせた。
 この暴動はコミンテルンの使嗾によるとマクマリーは見抜いている(p.73)。

 けっきょく英国は1926のクリスマスメッセージで対支宥和路線へ。
 1927-1に英の漢口、九江の租界は実力接収。揚子江に大型砲艦が遡航できない時期を狙って、国民党左派が蒋介石を困らせるために兵隊を突入させた。

 1927に米国はシナでの治外法権を一方的に放棄せよという決議案が下院に提出された。背後には駐米シナ公使と、国際伝道教会事務局長のウェーンシェイスが…。
 米国民のためよりもシナ人のために責任をとろうと考えるセンチメンタリストの要求には反対すべきだと、マクマリー。

 ケロッグの後任のスチムソン(フーバー政権)はケロッグ以上に国民党に宥和的。国民党はマクマリー公使の頭越しにワシントンと交渉するようになる。マクマリーは1929-10に公使を辞任した。
 プリンストンの学長にならないかと誘われたが、断る。外交官キャリア(たとえば初代の駐ソ大使)にまだ野心があった。
 ※米人はなぜ公職に興味があるか。誰も知らない秘密にアクセスできるから。

 リガはソ連未承認時代のアメリカのロシア情報の収集拠点。ケナンもいた。
 スチムソンは不承認主義の元祖。満州国は日本の国際条約違反であり承認しない。
 対日冷却関係だけが次期FDR政権に引き継がれた。

 FDRは海軍を拡張し、1933にソ連を承認した。これはどちらも対日政策。
 だが同時にハル国務長官は、日本の行動を9カ国条約に訴えて日米関係をさらに敵対的にもっていくことは控えた。
 9カ国条約には、シナの主権、独立ならびに領土的および行政的保全を尊重する、とある。

 1933のソ連政府も多くの国際法を廃棄または改変したがっていた。
 1926の米国国務省は、シナによる条約の一方的否認を支持する教会団体の圧力に影響されているとマクマリーは見た(p.52)。

 1926にシナはベルギーとの条約を一方的に廃棄した。これが世界から許されてはシナが他の国にした約束も簡単に踏みにじられることになる。またドイツがシナの真似をするかもしれなくなる。そこでマクマリーはベルギーの味方をせねばならないと思ったが、ケロッグ長官はシナ支持声明を出してしまった。

 ベルギーは国際常設法廷に提訴したが、シナは訴訟手続きを軽蔑して応じなかった。これは新しい先例となった。
 田中義一政権当時の1928にシナは対日条約を一方的に廃棄した(1896および1903の日清条約)。このときもワシントンはシナ支持。
 1927、米政府は日本に一言も相談せずに新しい米支関税協定を結んだ。日本は、多国間協調外交に見切りをつけた。

 1937にFDRはマクマリーをシナ大使にしようとしたが、当時トルコ大使だったマクマリーはそれを断った。

 1920s後半のシナの南北角逐では「双方いずれの側も、民族的な熱意で他方をしのごうと努めた。その結果は一方の側が満足できる立場もしくは思い切った立場をとると、他方がそれ以上の対策を講じなければならないので、いつまでも問題の解決に達しない始末であった。もちろん中国人プレイヤーにとってゲームで大事なのは、双方が解決に至ることではなく、むしろこの競争を利用して政治権力を握ることであった」(p.67)。

 北方派が条約否認派ならば、南方派も負けてはいられない。

 諸条約の一方的破棄について国民党のスポークスマンは、北方軍閥を崩壊させた1925後、国内では人気の高い非妥協的な態度をとった(p.69)。

 1982の細谷論文は、幣原外交は国際協調を旨とするワシントン体制の維持を強調してきたと書いている。※事実は、1927の英国の苦境を傍観し、出兵せず、体制を崩壊させた。ワシントン条約でシナの秩序維持を任された日本なのに、国際協調のために期待された責任は懈怠した。

 カーゾン卿は、支配と独立の間には中間的な方法があると。
 1934に米議会は10年後のフィリピン独立を決議した。
 1923に孫文が広東の海関を接収すると脅しをかけた。米英は共同で軍艦を広東に派遣したが、最大受益国である英国の努力は最小だった。英国はいつもそうなのだ。
 共同租界の警官は英国籍だった。

 シナ北方人は感情は鈍重。シナ南方人は感情は変動しやすい。
 原総理が暗殺されると政党の力が弱くなり、しばらく軍人内閣の時代になった。これらの政権は選挙での基盤が弱いためにアジアでの国防問題ではまったく譲歩ができなくなった。

 米国内のシナ愛はまずクリスチャンジェネラルの馮玉祥に。馮がソ連に走ったので、こんどは国民党が支持対象に。1927-3の国民党兵による南京列強領事館汚辱事件で評判がぐらついた蒋介石は、自身がキリスト教に改宗すると公言して米国人の支持をつなぎとめた(p.123)。
 愚かな米新聞は蒋をジョージ・ワシントンになぞらえた。

 さしもの米人宣教師も1927末にはシナ奥地にはいたたまれなくなる。
 1926の国民党の広東から揚子江への進軍には、政治宣伝部員が先行して大成功。コミンテルンが派遣したロシア/ドイツ人顧問がアドバイスしていた。

 脚注。田中メモランダムは、1929-10-23~11-9の京都~奈良の太平洋問題研究会で初めてシナ側によって持ち出された。
 1929-12に南京の雑誌「時事月報」にシナ文と英文が発表された。在南京の重光代理公使はただちに厳重抗議した。中日倶楽部が訳した日本語版は1930-6に内地で出た。
 この英語版が満州事変のさなかに上海の新聞で再掲載されて有名に。
 宇垣は戦後、この文書は民政党がでっちあげ、シナ人に売ったのだろうと。
 1927-6に参本の鈴木貞一が満洲の分離について森格らと議論し、斉藤博駐米大使がそれを無難なペーパーに修正したことはある。これが民政党員に知られたのだろう。

 米英は1943-1にようやくシナでの治外法権を正式に放棄した。

 マクマリーが理解できないのは、なぜ日本人が張作霖を爆殺したか。アホ息子の学良と、作霖のとき以上の関係が結べるわけがなかったのに。
 ※考えられる可能性。満洲の軍事力を一貫して弱めることに利益を見出すモスクワは、日本の若手の軍人に接触し、作霖を殺したら、ソ連から蒋介石への軍事支援を止める、等と、利益を示唆して誘導した。名声欲にとりつかれた一部若手軍人がこれに騙された。

 マクマリーが1935で予言できることは、日本はシナ領土を際限なく侵略しつづけ、満州国式の支配を拡げていくだろう(p.185)。

 「アメリカは、太平洋には真珠湾以遠に適切な基地を持たないので、地理的な条件からこの海域では、戦略、戦術、兵站すべての面で日本が優位に立つ」「ワシントンおよびロンドン海軍軍縮条約は、日米がお互いに、太平洋の広大な海域を渡洋作戦できないような比率を合意している」(p.187)。

 「中国貿易には対日戦争を賭けるほどの価値はない。実際問題としても近代において、対中貿易が対日貿易ほど利益をあげたことは一度もなかった」(p.192)。
 シナ市場は、日本の全輸出の1/4をしめている(p.199)。

 「日本人は、表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ」「こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」(p.200)。

 米国は、北京公使館の警備隊、義和団議定書にもとづく天津の歩兵連隊、相当数の上海における海兵隊(最近は天津にも)を展開している(p.201)。

 いちど不承認と宣言した満州国を米国が承認することは日本人にみくびられ、ばかにされて増長させるだけである。

 訳者いわく、来日した孫文や蒋介石の「大アジア主義」は日本の意図とはしょせん同床異夢。

※「諸列強」なる訳語はおかしい。powersの訳が「列強」である。すでに複数概念である。

※シナ政府にとっては列強から「無視されないこと」がこの上なく大事で、核武装もそれが目的であった。戦って勝つためではない。

摘録とコメント。

▼『鉄の博物誌』
 隕鉄には4~40%のNiが含まれ、砂鉄にはチタンが含まれる。
 ※隕石でつくった「あめのぬぼこ」は錆びなかった?

▼田中重久『日本に遺る印度系文物の研究』S18年
 悉曇文字(Siddham Letters)を日本にもってきたのは空海。横書き本位なのだが、藤原時代末期に崩れて縦書きに。

 須彌山(sumeru)=妙高、善高

 「塔」は塔婆の下の婆を日本人が省略したもの。
 もともとパーリ語thupa(これが英語towerに変わる)、またはサンスクリット語stupaが漢訳されたのが「塔婆」。

▼長谷川熊彦『わが国古代製鉄と日本刀』S52年
 安田徳太郎によると、「タタラ」は印度語「タータラ(猛火)」から。「ズク」も印度語からだと。
 韃靼語でも猛火のことをタタトルという。

 戦国時代、農具の65%は鉄製、のこりは石器だった?

 漢代に焼き入れ加工法が開発された。

 硫化鉄鉱は日本に大量に賦存するが製鉄の目的には開発されていない。
 最も大量にあるのが砂鉄。少量のものは赤鉄鉱。

 全国いたるところに火成岩があるから、全国いたるところに砂鉄が出るわけ。赤城山では軽石中に砂鉄が含まれている。
 鹿島地方は利根川砂鉄で古代から製鉄していた。

 3世紀半頃、文武天皇は東辺と北辺に鍛冶を置くことを禁ず。
 大宝令でも砂鉄採取を許可制とし、東北の製剣を制限した。

 明治から大正まで、陸軍工廠で坩堝製鉄の原料として和鋼(慶長以後、高熱化したタタラでつくられた鉧・ケラ。それを餞別したのが玉刃金)を採用、海軍工廠でもM30頃まで酸性平炉に和錬鉄を用いた。

 包丁鉄は軟錬鉄。地金が包丁の形だった。

 蕨手刀の刀身は腕力で曲げることができる。
 大化改新で8省が置かれ、そのひとつの兵部省の下に造兵司がおかれ、国の武器製作を一手に引き受けた。
 701に造兵司の制度があらたまり、商売するようになり、銘も入れられるように。

 大宝年間に刀匠が地方に分散。豪族の直接註文をうけるようになって日本刀ができてゆく。

 蒙古は長大な青龍刀を使用し、それが南北朝の大ダンビラになった?

▼イワノフ&スミルノフ『英米建艦競争』訳S9年
 1597、エリザベス女王はポーランド使節に、中立商船貨物拿捕の合法性を主張。WWⅠでアスキス首相は、「この際どんな経済的圧迫も正義」と封鎖の非合法性を棄却。

 ドイツ外交の失敗のために、イギリスはアメリカの利益を損する海戦策続行の責任を容易にドイツに課すことができた。

 ドイツ封鎖に使われた機雷の82%はアメリカ製。

 英ではWWⅠ後、「国内艦隊」が艦列から取り除かれる。

 WWⅠでドイツは376隻のサブを参加させ、うち201隻が沈められた。しかもSUBによって撃沈された軍艦はあまり多くなかった。
 シーレーン防衛や軍隊輸送阻止にもSUBは向かない。唯一役立つのはエスコートされない商船攻撃のみ。

 英人ルドウエルは1920sに『我々は石油のために斗う』を著作。

 英提督ハーバート・リッチモンドは、将来の艦の最大限を1万トン以下とすることを提案。米は反対。

 ロンドン会議頃のサブの寿命は13年。トンあたり建造費は戦艦の3倍。

 著者いわく「将来においては艦隊を編成するあらゆる種類の艦船が恐らく潜水能力を持つであろう」

 ハーバート・ラッセル「我々がアメリカの要求に同意しない場合にアメリカが行わんとするものを極めて明瞭に暗示することによってその要求を表明しようとするやり方は、イギリス国民の脳裡に少しも好い印象を与えなかった」

 著者は航空機や水雷の優位を否定し、戦艦による「海面占領」は可能だとの立場。

 ロンドン会議当時ホノルルのドックは一度に1隻しか修理し得ず。
 地中海の平均視程は8哩。

▼レーモン・ルクーリー『フォッシュの回想』洪泰夫 tr.S6年、東京水交社pub.
 筆者は日露戦争でロシア側の連絡将校。

 WWⅠにはポルトガルも参戦している。

 Notus in fini velocior 運動は終わりほど加速する。戦争は末期がめまぐるしい。
 遊動部隊は敵予備隊の破壊というような最終段階に近づくほど増速する。

 フォッシュはルデンドルフの回想録を評して……決定的勝利は1回の攻撃成功で獲得できるものではないのにドイツ参本は第一幕のシナリオしか立案していなかった、と。

 Un Armee battue est une armee qui se croit battue! 敗軍とは自ら敗けたと想った側。

 ナポレオンの格言。 La guerre, un art simple et tout d'execution. 戦争は簡単、そして、すべて実行よりなる。

 フォッシュの兵学も深遠でなく単純。これ、褒め言葉。
 エルバ以降のナポレオンは勝てないことがわかっているが戦争せずにいられない気持ちの山師、とフォッシュは見る。

 ヨーロッパ人がアメリカ人を説得する唯一の方法は、「毫も彼等を説得しようとする風を見せない事である」。
 オランダ人は、スペイン~オーストリー領のフランドルに要塞を維持し、以て1715~1781の間、平和を達成した。だからフランスもラインの独領を手放すべきでなかった。

 フォッシュはゴルツ著『ガンベッタと共和国軍』を読んだ。
 プラハからブダペストを通って東部カルパシアに通ずる地方は戦時においてその防禦が困難。

▼伊東光晴監修、エコノミスト編『戦後産業史への証言 一』S52年

 明治20年に所得税が創設されたとき、法人は非課税。株主が配当をうけたとき、その所得に課税。
 富裕税はうまくいかない。宝石、現金は捕捉できない。
 アメには給与所得控除がなかった。これをモス~マーカットに認めさせた。

 シャウプが外圧かけてくれなかったら戦前の所得税取り過ぎは是正できなかった。
 大正12年まで定期預金の利子は非課税。これで明治の資本蓄積ができた。

 大正2年の重要物産免税制度。金銀鉄の採掘の所得を免税する。
 これを昭和6年以降、飛行機製造などにも拡大。
 これが敗戦ですべてなくなり、代わりに主税局長が特別償却を考案。投資奨励。インセンティヴ。弱きパイオニアを助ける。

 講和発効は27年からだが課税自主権は実質26年に取り戻していた。
 政治家はやはり自分が大きな減税をやりたい。だから総理になる前は反対で、総理になると急に乗り出す。

 ラジオの物品税は、真空管を用いざるものは除く、としていたので、ソニーが延びた。当時トランジスタは真空管より5割コスト高だったので、量産数が真空管に並ぶ前に課税していたら今のソニーはなかった(p.38)。※なんとも役人は恩着せがましい。一般消費税にしていたって、ソニーは伸びただろう。

 昭和27年に12インチの白黒テレビは18万円した。大蔵官僚の月給が3万円のとき。

 揮発油税は昭和18年に専売になって廃止。それが24年に復活。
 29年に角栄がこれを目的税にして道路にだけ使うこととさせた。これが時限立法でないところが異常。アメではガソリン税の2/3は一般財源に入れている。
 この石油の目的税化のアイディアそのものは鮎川義介が戦犯刑期を終えてから力説した。日本の道路は悪すぎ、これが経済効率を悪くし、拡大を阻むと。このときプレゼン受けた代議士たちは「みんなでやったんじゃ票にならねえ」。田中だけがこのアイディアを覚えていた。

 S31年時点で米国調査団いわく、日本の道路は先進国一悪い。国道舗装率が1割。
 軽油取引税を府県の地方税にしたのは失敗。バスとトラックしか使わないので軽油を上げるとバス運賃に連動するから上げられない。国鉄はこれでダメになった。
 また、卸売り課税なので徴税も困難。国税化して元売りで捕捉するべきである。

 田中の2兆円減税で日本の所得課税最低限は世界一になった。
 このくらいの巨大減税をやると、それをきっかけとして、税体系のオーバーホールができるので、主税局は嬉しい。

 社会保障を本格化させるには所得が完全に把握されておらねば不公平になる。国民総背番号制が必要なゆえん。
 ところが郵貯の非課税枠を通帳を複数作って悪用している国民が多すぎ、総背番号制を導入できない。

 保険会社は経済専門家でもよくわからない。
 通産省のエコノミストの先駆は林信太郎だ。
 戦前、国産ミシンのメーカーは蛇の目(東京)、三菱(和歌山工場で、大阪市場)、ブラザー(名古屋)。後の2社のは軍需工場用。シェアはほとんどシンガーの輸入品。

 国産ミシンは昭和23年から輸出はじまる。シンガーは軍需転換しており、それを民需に戻そうとしていたときに朝鮮戦争が起き、WWII後に抑制が解かれて爆発した米国内需要と世界需要に即座に対応できなかった。そこにユダヤ人が気がついて日本のミシンを入れた(p.66)。

 大阪のミシン生産は、かつての砲兵工廠の下請けの町工場。かつてのシンガーのセールスマンや修理工が長屋の土間で、精度の悪い汎用機を使って始めた。
 昭和12年で工作機械の輸入は止まり、100分の1ミリ、または1000分の5ミリの精度を熟練工に頼っていた。昭和30年まで工作機械は自動ではなく手動。
 ただし30年以前はジグザグミシンではないのでそこは楽。

 この工場で1000台単位の輸出オーダーに応えるのは、契約キャンセル時のリスクが大きすぎる。そこでブランド力のある大手がアッセンブルメーカーとなり、パーツを無数の長屋工場に外注して、ホリゾンタルにリスクを分散した。
 役所は戦中の生産第一主義で、このようなアッセンブラーの役割を評価できない。

 60~66万台の汎用工作機械とそれを動かしていた熟練工の失業者が、敗戦時に国内にあった。それをミシンが糾合した格好。
 これら工作機械の単能化は29年から。

 工場のメインのモーターからベルトで動力を分けるのではなく、それぞれの工作機械に1個づつ電気モーターが附属するようになるのが昭和30年以降。

 機械が汎用でなくなると、たとえばミシン部品から自転車部品への転換などはきかない。そのかわりに効率がよくなり、賃金も上がる。
 外国の優秀な工作機械を買った者には半額、国が補助することに。さらに、通産省が指定した高級マザーマシンを試作したら、その費用の半分~75%も補助。

 多軸ボールはミシン部品づくりで初めて採用され、それが自動車のエンジンブロック造りに発展した。

 艦砲メーカーだった日本製鋼の宇都宮工場もミシンに乗り出したが、大阪のような分業でないのでコスト高。
 関東の東京重機、富士精機(旧中島飛行機)などは、アセンブラーはブローカーだと馬鹿にして、註文を全部大阪にとられた。
 トヨタ系のアイシンはすばやく大阪方式を真似た。

 シンガーの部品を調査すると、熱処理管理が素晴らしい。中はやわらかく、表面は堅い。その層が均等である。だから摩擦も回転も均等。日本のは不均等だった。

 31年にスイスの時計工場を視察したらまさに大阪のミシン方式の社会的分業であった。
 次にカメラでも社会分業をさせた。シャッター、ボディ、レンズを分けてしまう。
 フォーカルプレーンだとボディと分離できないが、レンズシャッターは分離できる。そのプロンプタータイプは板橋の長屋工場のコパルにやらせた。コンパータイプは服部時計店に任す。
 コニカ、ミノルタ、マミヤはシャッターの自家生産をやめた。
 この結果、カメラの精度はよくなり、しかも安くなり、メーカーはデザインを簡単に変更して急速に量産もできるようになった。27年に国産シャッターは4800円した。それが35年には800円に値下がり。しかも性能は高い。

 もともとレンズの仕上げ用の測定機械は戦中に潜水艦でドイツから取り寄せた。海軍御用の日本光学と陸軍御用の東京光学はすでに戦中に高いレベルのレンズメーカーになっていた。あとはシャッターだけだった。
 朝鮮戦争ではライフの記者がニコンの1.4レンズをライカにつけて高い評価を得た。
 シャッターが弱点だったが社会分業で克服されたのでメーカーのエントリーがやさしくなった。

 日本の時計産業は系列支配で社会分業をしない。パーツメーカーは従属的である。しかしシャッターのように社会分業をすれば下請けはどこに部品を売っても良い。立場が強くなる。
 またスケールメリットで輸出の価格競争力もつくのである。

 昭和30年代の後半は、ECの日本ミシンに対する300%従量関税(禁止関税)をどう阻止するかの戦いだった。ECとは関税同盟に他ならない。
 そこで現地の新聞キャンペーンをやった。
 一流紙である『フランクフルターアルゲマイネ』にしても『ルモンド』にしても、欧州の新聞は「記事広告」の営業が堂々とある。
 これは、たとえばジェトロが、日本のミシンのためになる記事を書いてくれるように編集部に堂々と頼めるのである。するとその記事は、単発でなく、短い別々なものが、1ヵ月に何度か、載る。その記事面積を月ごとにトータルして、記事広告料は出来高として後から算定される。1ページ広告を打てば200万円だから、それを基準に算定する。その額をあとでジェトロは当該新聞社に払うわけだ。これは広告会社を噛ませる必要は全く無い。※欧州紙に載る反日親支記事はこういう背景でしょう。

 意見広告の場合は、向うの「電通」のようなところに頼めば、万事やってくれる。しかも、現地での「味方」を結集してくれる。
 ミシン関税を阻止するために日本に招待するならどの政党の誰が良いのか。こういう情報は現地の広告代理店はもっているが、日本の大使館と役所はまったく把握していなかった。
 外国の要人らも「招待は夫人なしにしてくれ」という。どこの国も同じ。ゲイシャと遊びたい。

 フィンランドではセールスマンは小型飛行機を自分で操縦して移動する。

 OEM輸出はリスキー。最初は良いが、しばらくするとわざと数ヵ月、輸入信用状を送って来ず、日本国内に滞貨させておいて、そこへバイヤーがやってきて、値切り交渉を始める。従わざるをえぬ。

 ライカのM3は落としても壊れない。こことミノルタが提携した。またツァイスとヤシカが提携した。以前には考えられない。

 ドイツはWWⅠ後に外国から経済機構をいじられた経験があるので、WWII後のアメリカの理想主義的独禁政策は半公然にサボタージュした。カルテル庁をつくるにはつくったが、それをわざと西ベルリンに置いた。国民が自由に行き来できない場所である。

 西ドイツで過剰投資が起きないのは、労働者が経営に口を出す「常任監査役会」があるから。
 日本では銀行が護送船団式のため、一社がある設備をつくると、フル稼働のメリットがないうちに他行系列の他社もまねして同じ設備をつくらされ、互いに操業率がガクンと落ちる。西ドイツでは都市銀行の頭取が数社の「監査役」を兼ねて毎日国内を飛びまわっているから、重複投資計画を発見すれば、バカなマネはやめろと止めさせる。その権限は各社の社長より強い。

 フランスではエコールポリテクニクを出た人間は人種が違うので、面会する前にエコポリ卒であるかどうかは調べておく必要がある。

 労働集約が強みの日本は、一品手作りのプラント輸出で先進諸国と競争できるのではないかと甘く考えたら、ノウハウがなさすぎて成果揮わず。

 豊崎稔は戦前から日本の工作機械の段階につき研究し、現状ではとてもアメリカと戦争できないと考えていた。

 伊東「戦争中、擲弾筒というのが、工作機械が悪いために爆発して、私たちの仲間が死んだ事故がずいぶんあった。そのくらい日本の工作機械はひどいものだった」(p.106)。※真相はそうではないことは兵頭既著参照。

 芝浦工作機械が直径5mの歯切機をつくり、ソ連に輸出した。

 大型容量の発電タービンについて電力会社は通産省の国産愛用指導に反発した。高温高圧下でのブレードの耐久力がぜんぜん違った。

 昭和24年のポンド危機のとき、ポンドスペンディングポリシー(ポンドが支払い手段になりそうな輸入はなんでもやれ)。
 そのとき本田宗一郎が17億くらいヨーロッパから工作機械を買いたいと申請を出した。
 日銀にはその意義がわからなかったので通産省は口添えして輸入させた。これで本田は伸びた。※とまことに恩着せがましいことをしゃあしゃあと言うのであります。

 アメリカからの資本の自由化要求に日本は応ずるべきか。通産省が35人くらいの職員に半年かけて欧州の米企業の悪行を調査させ、結論として、NO。
 商品の自由化(貿易の自由化)と、資本の自由化は違う。後者は、日本のレイバーを外人経営体が利用できることを意味する。見えない支配をされ、どんなに稼いでもアガリは全部国外へ吸い出される。
 アメリカは資本が強い(自社留保は巨大で、間接資本=銀行借金にも頼っておらず、ケンカの体力がある)。その強みだけを自由化せよと他国にいう。日本はレイバーが強いが、米国に自由に移民できるわけではない。それでは不平等条約だと。
 戦後米国留学組の近経の学者たちは、この問題ではまったく脳内お花畑であった。新日鉄のときもそう。

 貿易自由化は、コストカット努力でなんとかサバイブできる。資本自由化は、日本職人の努力=外人投資家の儲け、になる。
 石橋湛山は、ものつくりインダストリーが大事で、ファイナンスはそれに奉仕せよという信条。池田はOECDを先進国サロンと考えて自由化に熱中。

 とにかく時間をかせいでメーカーに最新設備を充実させた。技術面で日本が優勢になると、アメは屈服させるのをあきらめる。装備がいい相手には狙いをかけない。

 佐橋滋の師匠は河合栄治郎。河合は農商務省出身。河合いわく、昭和10年でもっとも理想的な職業は官吏だと。じぶんの良心にそむかずに、やりたいことがやれると。
 昭和12年の河合門下は、日本は将来、社会主義になる可能性があると考えていた。つまり金融(大蔵省)の将来は怪しい。そこで佐橋は、何主義になっても必要なはずの、生産・配給・消費をつかさどる商工省を選んだ。

 入省の年に支那事変。高等文官を受かった官僚のタマゴは兵隊にとらないという不文律がそれまであったのだが、甲種合格で13年1月入営。師団付き見習い士官として漢口へ。間一髪の16年10月に、中支那の主計将校全員が召集解除になったので役所に戻れた。

 衣料キップ制を担当して、統制経済の絵空事であることを痛感。
 まず原料ストックの総資材から数年分の国民ひとりあたりの用布量がnnメートルと算出される。そこから逆算してネクタイ1点、靴下1点、背広10点などとする。
 ところが必ず想定外の「特配」需要が判明する。相撲取りのフンドシ。これは練習用の他に本番用の絹マワシがある。絵描きは日本画は絵絹、洋画はキャンバスが要る。キリがない。

 佐橋は18年10月から鉄の担当になり、すぐに、翌19年初頭には鉄製造力がゼロになって継戦不能となると弾きだした。
 鉄鋼とは輸送業である。鉄鉱石も石炭も日本のは品位が悪く、鉄1トンつくるのに6トンの原料輸送が必要だった。船の稼動隻数のグラフの右下がりと、鉄鋼生産の右下がりは完全に連動していた。だから昭和19年初頭には、汽車で運ぶもの以外には何もなくなる。少なくとも鉄はつくれない。
 この報告をみた閣僚がびっくりしたというので、佐橋はまたびっくりした。そんなことさえ知らずに戦争をやっとるのかと。

 終戦後、熱血漢のキャリア官僚は多く労働組合に参加。
 佐橋は戦後、紙業課長。「生涯でも、こんな大きな権限をもったのはこれが初めにして最後だった」。子供の教科書からノートから新聞雑誌出版、切手、たばこの巻紙まで何でも割り当てをする。

 重工業局は自転車も範囲なので、競輪のスキャンダルがあると局長は国会にピンどめされる。おかげで次長が本来の重工業行政を任される。
 そこで、巡航見本市船を実現。
 大蔵省主計局は「そのアイデアはいいが、金は出せない」とは決していわん。アイデアが悪いから金を出さないという。
 日本のような馬鹿な予算算定方式は万邦無比。

 各省は5月ごろから次年度の新政策の立案にかかり、8月中に概算要求書を大蔵省の主計局に提出。
 9月から主計官に、各省の者が出向き、割り当てられた時間内で説明する。
 要求に応じて追加資料も出す。一省の資料を合わせれば天井に届く。
 12月に主計局から第一回の査定がでる。新政策はほとんどゼロ査定になる。
 各省はねじり鉢巻でみずからの要求を削減し、謹慎の意を表しながら第一次復活要求。
 数日して、目糞ほどの復活を認めた第二次査定。
 各省各局は悲憤慷慨しながら逐次削る。
 与党との連絡が頻繁になり、攻防ともに不眠不休。
 最後に、主計局と妥協するものと、政治ベースにあずけるものとに区分けして、大臣折衝の儀式へ。

 現行方式では一主計官の権限は各省大臣以上。この権力をじぶんから放棄する馬鹿はいない。

 昭和30年代前半は報道用と観光用だけに外車の輸入を認めていた。
 日本の綿製品は、エジプト、シナ、アメリカの綿花を適度に調合するところに秘密の技術があり、競争力があった。29年まではこの加工貿易が大宗。

 局長は行政機関の長だが、国会はあれやこれやの委員会で一年中局長をくぎづけにして、朝10時から夕方まで、本来の仕事をさせない。これは三権分立の侵犯だ。政府委員は局長でなく専門の次官補を置いて、ひとりが数局づつ担当すればよい。

 佐藤栄作通産相は経済に強くなかった。経済の説明をされたときに、ハダで分かる人と、わからん人がいる。池田はわかっていた。佐藤はわかっていなかった。
 公取委員長が歴代大蔵官僚とは七不思議だ。銀行の金利、重役のボーナス、支店の開設、ぜんぶ統制していた役人が、どうして自由主義や独禁法を守れるのか。

 戦時中に原料不足の紡績会社を整理した経験からいえること。残るものが廃止するものに餞別を出してケリをつけるしかない。
 法案は、与党内に3人くらい猛反対がいると、進まない。

 資本、物資、供給がすべて不足のときは統制計画も良い。しかし世の中が豊かになると、品質格差に公定価格をうまくつけることができず、統制は崩壊する。

 造船は電気熔接技術が他国を凌ぐようになってようやく一本立ち。
 鉄鋼屋いわく、日本の造船が世界一になったのは、合併した新日鉄が鉄を安く供給したからで、それが原因のすべて。

 銀行と政権中枢は口が堅い。他の政治家は秘密を守れない。

 昭和40年までは米政府のうちで国務省が見識と権限をあわせもっていた。ところがそれ以降、米国は経済がへばってきて、商務省が強くなり、米国の外交と商売が一緒になった。まさに「アメリカ株式会社」。
 日本の会社は借金経営で自己資本率が低いから、資本を自由化したら、わずかなカネでアメリカ資本に支配されるだけ。

 戦後日本には知識集約産業としての兵器産業・航空機産業が無い。とすれば、その代役として、コンピュータと自動車に活躍してもらわなければならない。この2業界は外資に対して保護する必要があった。

▼国立歴史民俗博物館『動物とのつきあい』1996
 日本の庶民がイヌとネコをペットとして飼育するのは明治時代から。西洋人の習慣が模倣された。※ポチは「spotty」。

 イエネコは縄文時代には飼われていない。遅くも古墳期には輸入された。
 サルは中世にかなり飼育された。
 中世のネコは首紐でつながれていた。

 縄文イヌは体高40センチ、前頭部に段(ストップ)がない。後の柴犬とは違う。東南アジア渡りであってシベリア渡りではない。シナの金属器時代に飼育されていたイヌと同じもの。
 縄文人はイヌが怪我をしても捨てずに飼い続け、死ねば埋葬した。弥生人はイヌを食い、埋葬はしなかった。イヌの埋葬は、江戸時代まで復活しなかった。

 細縄にトリモチをつけて沼に漂わせ、水鳥を捕るのがボタナ猟。
 ウナギ漁師は水鳥も捕った。だから魚屋ルートで鴨も売られた。
 房総のクジラ漁はツチクジラ対象。

▼『京都大学総合博物館春季企画展展示図録~王者の武装』1997
 5世紀なかばまで、よろいは鉄板に黒漆を塗っていた。それ以降、金色の武装が好まれる。装飾太刀、飾馬。※つまり国内が平定され文官が威張れる余裕が生じた。

 鉄の鋳造が難しかったので、環頭太刀は金銅。
 金銅は銅板に金メッキしたものだが、土中では銅イオンが表に染み出てきて緑青になる。
 水銀と金は容易に混ざり、そのとき金色は消えて水銀色になる。だから「滅金」と書くのだろう。このアマルガム・ペーストを銅板に塗り、銅板の裏から加熱すると、水銀が飛んで金色が定着する。

 朝鮮半島南部で出土の多い、蒙古鉢形のかぶとは日本ではほとんど出土していない。

▼小島和夫『法律ができるまで』S54年

 内閣提出法律案は、所轄省大臣が下僚に法律案の原案を作成させる。同大臣は関係各省と意見調整する。また内閣法制局に法律案原案の下審査をさせる。
 次に、閣議請議のため内閣官房に持ち込まれる。ここでも内閣法制局と相談。次に、事務次官等会議に回される。その後ようやく、閣議。
 そして国会提出。

 議員が所属する政党の政策を表明または実現するための法律案は、まず、政党の政務調査会が中心になって検討する。

 国会関係の法律案は、議員運営委員会の委員長が提出する。
 また、各党の合意が得られた他の分野の法案も、同委員長の提出とする。

 提出先は、先議の議院の議長である。
 両院で原案どおり可決されると、最後の議決のあった院の議長→内閣官房→閣議→奏上となる。奏上の日から30日以内に官報で公布される。

摘録とコメント

▼ルヰズ・フヰツシヤア『石油帝国主義』S2年、荒畑寒村 tr.

 WWⅠまでの国際政局は、鉄と石炭をめぐるものだった。独仏国境争いはまさにそれ。
 英はWWⅠ初めは3割の軍艦が石油焚きであったが、休戦までに95%に。
 今の国際政局は石油中心。メキシコがいい例。……ここまで訳者の序。

 世界最大の既発見油田のコーカサスに英が出兵したのも石油目的。
 ベルリン=バグダッド鉄道も石油目当て。予定終駅はモスウル油田だった。

 WWⅠ開戦時、英は世界産油額の2%しか支配していなかったが、今や5割だ。
 トルコの対露参戦もバクー目当て。

 独軍飛行隊の活動は、石油の消費を節約するために制限された(p.18)。
 ルデンドルフの回想録では、タンクの貨車でバクーから石油を運んでくるつもりだった。

 ルーマニア商務官の報告:「ソヴエットの会社はその灯油、石油等を改善する上に、有らゆる努力を払ってゐる」
 クラッキング(分離)と精製とに対する装置は、特にアゼルバイジャンのナフタ(石油)トラスト委員長、セロブロウスキーの米国訪問後、多量に合衆国から購入せられた。

 ロシアは米石油会社を北サハリンに招致して、日本に対し米政府が撤兵を働きかけるようにしむけた(p.209)。
 ソは米石油会社を通じて米国の国家承認をとった(p.212)。
 石油は日露の和解の動力であった(pp.286-7)。

 ※ソが満洲とオーストリーから撤兵したのは、油田が無いからだ。

▼O.J.Clinard著 “Japan's influence on American Naval Power 1897-1917”(初版カリフォルニア大・1947、再販1974 in Germany)

 英は陸軍無力なので米の仮想敵から外されていた。また、カナダは米にとり英の人質のようにみえた。

 マッカーサーの父は、ドイツとアメリカがハワイで戦うと考えていた。
 カイザーはポーツマス会議中、米に接近。会議をまとめられるように支援し、さらに日露役後、日本を共同の敵に仕立て上げようとした。

 親日が親露になってしまったのは、日本がポーツマスで賠償要求を出した時から。※身の程を知れと。

▼『軍事史研究』S11年 vol.4-3号
 山内保次「軍馬物語」。前九年頃の馬は4尺8寸以下。稀に5尺を越す大馬あり。小馬は4尺以下。
 二毛の馬、位牌面(鼻梁の白線)、泪や矢負のようにみえる辻(旋毛)もゲンが悪いと嫌われた。

 武田の武将たちは、馬は大きい程よいという主義。
 馬格の差によって一騎討ちの有利不利は決定的になった。

 日清戦でシナ馬は場格ちいさくも耐久力あることがわかった。日本の馬は全然だめだった。
 日清戦で人夫が輜重になったのは、馬不足が原因。

 日本馬は、馴致調教みな不良で、北清事変では外国人より「猛獣の如し」と評された(pp.76-7)。

 秋山好古の旅団の馬格も4尺7寸が平均。重さは93~5貫。特に飛び越し、駈歩がまるでダメ。
 遂に明治38年に大量の馬輸入となる。

▽vol.6-2号
 島田貞一「槍の板に関する考察」。
 木柄は強度と軽さが両立せぬので、打柄といって、木芯に割り竹を膠着したものが必ず使われた。正倉院にもある。※とすればケラ首を切り落とせるものではない。
 あまり滑り易いのは雨の日によくないので多角形の「かんな目」とした。
 柄の曲がり防止に、2ヶ所で掛けず、4ヶ所の爪で安置した。 

▼星健之助『支那文化の源とバビロニア』S15年

 三皇の一人、大昊伏義は、魚形のイヤ神(ダゴン)だ。だから蛇身人首なのだ。
 神農「炎帝」は日の神マルヅク。
 黄帝はニニブ、エンリル(エホバ)。

 ローマの最後の人身御供は、アントニウスのとき。
 周礼の「連山」はニシールおよびマシュー山(ギルガメシュの)

 周礼の「帰藏」は肝臓の筋で卜したバビロニアの習慣。
 鹿骨卜はシナ書になく和書にある。なのにシナから出土する。

 龍はバビロニアに6千年以上前から拝まれている蛇。
 科斗之文字=治東→オタマジャクシ→楔形字

 スメル人は鬚が少ない。シナ人も鬚が少ない。
 ハムラビは自らを「羊飼」と大法典に。

 スメールの支配者は紅毛で、被支配者を黒頭と呼んだ。→黎民(周)や黔首(秦)も「黒い人民」を意味する。
 弩はバビロニア起源。ギリシャ人だけは使わなかった。

 家屋の材木部を塗装するのはバビロニアの技術。
 朝鮮人はシナ人と同様、全く風呂に入らないが、洗濯だけはする。支那人は洗濯も全くしない。
 朝鮮人は日露役のころまでは、シナ(人)と呼ばず、必ず「大国(人)」といった。しかし腰掛に座る習慣だけはシナから採り入れなかった。

 バビロニアでは油はゴマ油のみ。
 仏教はもと、無神論哲学。そのためアショカに政治利用されるまで流行らなかった。カニシカ王下で有神化・大乗となり、それがシナ後漢に伝わる。
 SIND(身毒)→ペルシャではSがHに、シナではSがTになって、天竺と。

 初期仏僧はインドからはよくシナに来たが、シナからはほとんど行かなかった。
 拝火教徒を「黄色い頭」という。黄巾賊はゾロアスター?
 Byzantin→ZANTIN→太秦

 孔子だけが無神論だったのではない。シナ人が無神論なのだ。
 シナ人中の回教徒に比較的、責任感が強い。
 オーガスタスは、ライン=ダニューブ=ユーフラテスを自然国境にせよと遺言している。
 古ペルシャにはLの音なくRのみ。このRはシナではNになり易い。
 朝鮮人はもともと苗字なし。沖縄人は三字苗字が多い。
 ヒッタイトをバビロニアではケタと呼ぶ。→キタイ・契丹→カセイ

摘録とコメント。

▼ロバート・B・テクスター著、下島連 tr.『日本における失敗』原1951-6、訳刊S27年3月

 著者は昭和21年春に来日し、23年7月に帰国した。ある程度、日本語を聞いたり話すことができた。軍属としての活動拠点は和歌山と大阪だった。文化人類学系社会学者としてディクタフォンを携帯していた。日本のあとはタイに向かったと。

 ラティモア序文にいわく、ドイツは「代用」品製造に加え、石炭と鉄をもっているので、米国が交渉するにあたっては他の西ヨーロッパ全体に対して必要なほどの大圧力が必要だ。ドイツが臍を曲げれば全ヨーロッパ工業が損害を受け、アメリカは困る。またドイツは西欧を捨ててソ連と結び、東部領土を回復することもできる。そのような強い立場。
 これに対して日本は必要な原料も食糧も支配しておらず、アメリカもしくはシナと不利な立場でその入手についてかけあわねばならない。※アメリカは日本に簡単に圧力をかけられるが、かつて鉄とコークスを供給していたシナもまた日本に影響力を行使し易い。日本人は「シナと組めばよい」ことを反米の理由にできる。しかしシナやソ連は日本に譲るべき広い土地をもたないという、誘惑の限界はある。

 またラティモアいわく、日本を合衆国のグルカ兵にすることを快く承認する日本人がある。

 日本から帰米した元占領軍のシビリアン職員たちはどうしてマッカーサー批判を憚っているのか。それは朝鮮戦争が始まった今、反マッカーサー言説は親コミーと疑われるからだ。
 「やっつけることができなかったら、手を握れ」……米国の地方の職業的政治ゴロの鉄則がある。

 「我々西洋人は、しば\/、民主主義を、その中で人間が活動する枠、もしくは骨格と考える。我々はその骨格の形をいためないために、非常な苦心を払う。アジア人は骨格の上にある肉により関心を持つ。骨と皮の民主主義に、彼等が惹きつけられるとは思えない」(pp.38-9)。
 ※民主党小沢新代表も民主主義の骨格は分かっていない。またおそらく今後、それを勉強する時間もなかろう。

 アジアでは、新しい指導者は、民衆に高い生活水準を約束することで追従者をあつめ、被剥奪者に対する正当な弁償にはなんらの注意も払わない。
 「所有権の不可侵性を強調するアメリカ人は」※だったらインディアンに土地返せ。
 北京大学で反米学生運動。1948の春、日本におけるアメリカの政策に抗議。

 大統領がソ連による原爆実験について確認した声明の数ヵ月後の1949-2-6、陸軍長官ローヤルは、東京の米国大使館内で新聞記者たちに、米国は日本を守る義務はないとの彼の信念を披瀝した。原爆を手にしたロシアが日本に攻めてきたら米国は日本を放棄することを考慮していると。ワシントンポストの1949-2-17報道。

 ハンソン・ボールドウィンは1950に、いまの米軍には台湾は守れないと。

 占領の最初の3年は農民はインフレのために裕福だった。しかしその後の占領軍のデフレ化政策で農民は怒った。土地私有農民こそ「旧勢力」だと。
 小作人ははなはだしくふくれあがった円で地主から土地を買うことができた。

 1949-1の選挙で共産党は300万票ちかく集めた。奈良県では1949-12現在で登録党員は157だが、県民は3万票も投じたのだ。
 共産主義者は大部分の病院管理理事会の支配力を握った。彼らが推薦する患者の入院料だけ安くできた。他には、学校と、アンチ税務署組織に勢力を扶植した。

 共産党とウルトラ・ライトに対する投票が増えたのは、占領軍がデモを禁ずるなどしているからだ。

 著者の希望の星は、日本最初のキリスト教徒の総理大臣、片山哲の社会党連立内閣だった。しかし連立の条件として左派を入閣させられず、閣僚の半分は他党員だった。
 片山は、社会民主主義だけが共産主義のアンチになるのだ、といってマックを納得させていた(p.132)。
 1949-1-23の選挙で片山は落選した。このとき共産党は4議席から35議席に増えた。

 日本人の再軍備論者は、大東亜共栄圏を復活させたりしないこと、絶対に赤とは取り引きしないことを米国人に納得させるべきであるのに、その努力をしていない。
 中道政党に投票した日本人を、命がけで抵抗するほどのたのもしい西欧の味方として当てにすることができるかどうかは疑問である。

 日本の動機は、余りにも、一貫性がないので、再軍備された日本は我々の信頼し得る同盟国にはなり得ない。
 西洋人官吏がよろこんで詳細に答える社会学的質問に、日本の管理は答えようとしない。これは「面目」を重視するためだ。

 1949-6-11のヘラルドトリビューンによれば、一部日本のビジネスマンは共産党の野坂参三に赤色シナとの貿易の斡旋を頼んだ。49-7-19タイムは、大阪の工業家がマルクス主義研究会をひらき、共産党に献金していると。50年2月の時点で日本の実業家は、米国からの援助よりもシナとの交易を望んでいる。

 七宝職人は40歳で目がいたむ(p.73)。

 米本国からVIPがやってくると、将官とその夫人が京都駅からつききりで観光させてやる。ただのIPなら佐官とその妻。金持ち用の女学校でバレーボールをしているのを見学させる。深刻な質問をし始めるころになると、漆器を買いにいく時間ですと。
 「稀には、民間教員官は日本の最も重大な教育問題になっている「エタ」、または、特殊部落の学校を来訪者に見せることに成功するかもしれない」(p.77)。
 故フラナガン神父が京都へ来たとき、社会救済事業を担当するガイドが、神父に向かって黒人の悪口を言い出した。

 マックは46-12-1に国防省に電報した。米マスコミの訪日許可は出版業者と編集者に限定し、記者は含めてはならない。クリスチャンサイエンスモニター、ヘラルドトリビューン、シカゴサン、サンフランシスコクロニクル、エムピー、デイリーワーカーは反占領軍的であるのでその関係者は除外したいと。

 ネーション誌の特派員も一年間申し込んだが入国拒絶された。マックの拒否理由はついに明らかにされなかった。※マックはプレゼン上手だが説明責任観念は無かった。
 朝鮮戦争の前、東京の英外交官がマックによびつけられ、ロンドンタイムズの東京特派員がよくない記事を書いていると警告された。

 そこで許可を得ている新聞記者は順応した。日本の女子野球チームについて、その他安全な記事だけ本国へ送るようになった。
 前シカゴ・サン特派員のマーク・ゲインの帰国後の著述は日本の民主化について悲観的だ。

 人類学者クルックホーン1949にいわく、戦中~戦後の日本人の道徳は Situational morality =情況的 でしかない、と。

 日本経済を調べるため派遣されたエドウィン・ポーレーは石油事業者で、1931~38に日本に86万537ドルの石油を輸出した。

 陸軍次官ドレーパーは1948に日本に滞在した。ディロン・リード投資金融会社の副総裁である。その総裁がフォレスタル国防長官だ。
 ドレーパーはドイツのカルテル解体を計画的に阻止させた。1949-4-30時点でドイツの独占事業体はひとつも破壊されていない。

 1937にアレンは、財閥は4つであり、それは三井、三菱、住友、安田だと書いている。E・B・シューペンターは1940に『日本と満州国の工業化』で財閥の役割を分析している。
 米国の商工人団体は、ある会社役員が他の会社役員にはなれないとするマックの命令を廃棄しろと1949に迫った。

 アメリカ鉛製造会社は日本化学の株の過半数を持った。日本石油および東亞燃料の支配権は米人に帰した。
 1917にグッドリッチゴムと古河合名が横浜ゴムを設立。前者の持分が半分だったが、開戦時には7.5%に減っていた。これが1950に35%になった。

 1949、嬰児殺しは彼等の伝統の一部になっている。GHQは、1970までに日本の人口は1億になるとみている。1949だけでも200万人増えた。
 1950、マーガレット・サンガーは講演継続をマックに禁じられた。カトリック教会からの抗議により。
 しかし米人のスペルマン枢機卿はカトリックでありながら産児制限について講演することをマックに許されている。

 1950の春、戦後はじめて人口制限についての出版物が刊行された。それまではGHQが禁じていた(p.169)。
 1947の日本人の一人あたり収入は100ドル以下。1946の米人は1269ドル。
 1949に英国の生産力は英史上最大に。マーシャル援助が有効に使われた。チャーチルは鉄道や電信の国有化に反対だったが、すでに国有化されているものをもとに戻す元気はなかった。

 1948-4に英労働者は1938より76%高い品物を買っていた。しかし、無料の社会施設という形で労働者が受け取る大きな利益を計算に入れずに、一般工業賃金は114%上昇していた。
 著者いわく1947になぜマックが炭坑国有化に反対したのか分からないと。

 小製造家はグループとして、多くの根本的な点において、大金融事業の、直接的間接的、支配を受けている。
 小製造業者は事実上傭われた労働者である。彼等は高い率の報酬を求めて交渉する立場にいない。小製造業者が切り詰めることができるものは、賃金だけである。照明の不十分さは戦前と変わらない。

 将来、小企業が大企業よりも活気づくとは思われない(p.122)。

 吉田が自由企業を支持するのは、アジア各地で宣教師からくいものを得るために宗旨変えを誓う「コメのためのクリスチャン」に似ている。

 1937において日本の中流階級は多くない。フレダ・アトレー『日本の粘土の脚』。
 タルコット・パーソンズは1946にいわく、日本の特徴は中産階級が蜃気楼だということ。文化的、政治的、経済的自主性がなく、上から支配された。

 NYT特派員は1949-12に報じた。インフレが中産階級を一掃した。大学では、新興成金、闇業者、新円階級の息子たちが遊んでいる。まじめな問題に興味をもち、学園を指導しているのは共産主義同調者だけだと。

 大闇師は、ガサ入れされたときには身代わりとなる男に表面上、商売をさせている。
 ごろつき新聞は、この闇業者をおどかして、新聞で攻撃をしない代わりのカネをまきあげた(p.158)。政治家もこれらの新聞をおそれて、名刺広告を出した。
 著者は和歌山県でごろつき新聞に対する名誉毀損訴訟を奨励したが、無駄だった。

 ある漁業権力者は漁船で沖縄、台湾と密貿易して巨富を築いていた(p.181)。
 ドイツと同じく、占領軍によるインフレ→デフレの切り替え政策の直前までに資本を支配した者の地位が、デフレでさらに強化された。

 戦時中米国は生産力を50%増やした。
 1950-1の日本の工業力は、1936の三分の二。
 1934に9ポンドの繊維を消費していた日本人は、1947では3.5ポンドだ。
 コーヘンによれば、1934に2245カロリー喰っていたが、いまは1955カロリーだ。
 1948には1700カロリーだった。
 正味賃金は1936の26%だ。

 日本が直面しているのは、悪い計画か良い計画かの選択ではなくて、むしろ、良い計画か破滅かの選択である(p.148)。※これぞ白面のLawyer宣教師のビヘイビア。

 シナの赤化で英米は上海のタバコ工場を失う。
 日本の国際収支のバランスを恢復させるためには国民収入の23%も資本を蓄積しなければならない。

 47~48年、米軍は令状なしで数百人の女子通行人をつかまえて強制梅毒検査。
 日本の警察は占領初期、卑屈で、誰にも尊敬されなかった。四辻の交通巡査以外、誰もかれらのいうことをきかなかった(p.161)。
 ※CICと結託してアカ狩りに励むようになって、日本警察の株が持ち直した。

 NYTによると、1948に日本の新聞は、共和党指名大統領候補マックに対する、多くのアメリカ人の反対意見を報ずるアメリカ通信社の記事の掲載を禁じられた(p.166)。そのため、共和党大会でなぜマックが指名されなかったのか、なぜ十分審議さえされなかったのかと、多くの日本人はあやしんだ。
 1950に訪米した日本人教授は、現地ではじめて、マッカーサーの日本統治に反発する米国の社会学者が七割も占めていることを知って衝撃をうけた。マックに媚びてさえいれば世界に対するミソギになると信じていたので。

 ただし米人は、マックが朝鮮戦争を東京から一歩も出ずに指揮していることについては不評は言ってはいない。
 著者いわく、マックの賞味期限は統治3年で終わっており、もう民政からは手を引くべきで、その場合は沖縄かフィリピンがグァムに引っ込むべきであると。

 1920年代の社会立法は、日本の労働者をなだめるためでなく、世界からほめられるために可決されている。日本人は欧米から賞讃されるためにはしばしば極端なことをやるのだ。

 1948-7-15に日本の大新聞に対する事前検閲が廃止されると、日本の記者たちは、どの記事がプレスコードに触れるかを自分たちで決定せざるをえなくなった。その結果、アカハタ以外の全紙はいちじるしく臆病に記事を書くようになった。この事実を占領軍御用英字紙であるニッポンタイムズもAPを引用して1948-8-12に伝えている。

 1948-12-19、一オランダ少佐は、9人のインドネシアの民間人を並ばせて自分のピストルで彼等を射殺した。その中に教育長官のサントソ博士もいた。

 マックは49-3-3の大毎で「今や太平洋はアングロ・サクソンの湖となった」と語った。
 米国が日本各地に用意した、米書ばかり揃えた図書室。それを利用に来る日本人は技術の本だけを貪り読み、社会科学や民主主義の本には興味は示さなかった。

 1949秋のリール著『山下大将裁判事件』。朝日、毎日、共同通信はその本に言及してはならず、法政大学はその本を出版してはならないと、非公式にマックから命じられる。

 日本人はよく投票する。棄権は不穏当だという意識がある。そして候補者の主義主張ではなく、名声と地位が選好される。
 マックは個別訪問を禁止した。
 1948に非共産の政治家いわく、いまや集会を開くことは東條時代より困難であると。

 共産主義者は恐るべき抜け目なさを有するが、その選挙での成功は、社会不安の原因というより、結果だ。アカは、民族主義、排外主義、超国家主義を利用する。社会がまずそれらの主義をつくりだし、アカはそれを国民的熱度を高めるために利用するのだ。

 1950-5-30のメモリアルデイに共産主義者はパトロール中の米兵5名をつき倒して石を投げつけた。6月、マックは日共中央委員24名を公職追放。

 米では共和党員すらこう言う。共産党を非合法化するのは利口ではない。地下にもぐらせるだけ。合衆国では、犯した行為ゆえに人は告発される。心に抱いている思想ゆえに人は告発されない。
 一つの党が非合法化されれば、第二、第三の適用があり得る。

 日本ではCICはチャールズ・A・ウィロビー少将が編成した。そして各県に分隊を置いて県政を支配した。※つまり落下傘内務省だった。
 CICが部下にしたエージェントには元特高が多い。特高警察のネットワークは県下に起こるすべてのことを知っていた。CICはたいへん重宝した。そして占領軍職員のシビリアンであるニューディーラーの左巻き活動をこれらエージェントが監視してCIC経由でマックに通報していた。
 ※この腐れ縁は今もある。公安は「監視力」を時の権力(それは官邸のこともあれば米国のどこかであることもある)に高く売ることだけ考えているから、北鮮人が日本人を拉致しても生暖かく見守っている。(ただしその責任は公安にはなく、自国民を拉致する北鮮を敵だと考えない堕落した有力政治家とマスコミにある。)この占領中の公安の真似をして米国向けに点数稼ぎをしようと張り切っているのが検察だろう。

 CICは最初は超国家主義者の活動を警戒する諜報機関であった。が、すぐにそれは日本国内のアカおよび占領軍シビリアンの中の親共分子の発展を阻止することに全力を傾けるようになった。
 マックは日本に来てから東京近郊を離れたことは一度もない。

 日本人の半数は土から離れている。この率はアジア一である。農村はすでに人口過剰だ。工業化をすすめる以外にこの過剰人口はどうしようもない。

 戦前の組合加入率のピークは1936で、420589人だった。
 日本に個人主義の伝統がなく、戦後は急激な発展をしたために、組合は独裁的に運営されている。
 米国でのみ、政治的なことと経済的なこととが組合活動の中で分離できている。

 ある撮影所の組合は疑いも無く共産主義者に指導されていた。共産主義者900人を会社が解雇しようとしたところ、スト。この1500人を会社敷地から立ち退かせるために、700人の日本の警官が出動し、米軍は、偵察機×1、装甲偵察車×4、シャーマン戦車×4で後詰めをした。

 日本の繊維品の安さは、輸出がされなくとも、間接的に米国に害をあたえる。というのは世界のバイヤーがその価格を根拠に米国製品を買い叩くからだ。
 日本人工員の賃金は米国の25%だ。
 いまやイギリスも日本同様に「輸出か死か」である。

 1949には30万の国家警察と95000の地方警察、そして200万の有志消防夫がいた。
 NYTは概してマック贔屓である(p.210)。
 キャンプファイアはGHQが1948に持ち込んだ。

 50万冊の米陸軍の文庫が横浜に死蔵されていた。これがさいきん、配布された。
 敗戦から1948までに日本に流入した英文書籍は125万冊以下だ。
 商業ベースの翻訳出版は占領開始から3年9カ月後に許可された。

 1947に農林省が土地改革のポスターをつくるための紙が公式ルートでは手に入らず、ヤミで調達した。

 1949にライシャワーの『日本・過去と未来』およびベネディクトの『菊と刀』が5500部づつ、翻訳刊行を許された。この2冊だけが真に価値がある。ジョゼフ・グルーの『滞日十年』は日本の社会問題をスルーしているつまらぬ本だが、こちらは7万部も許可され、しかも戦後外国書籍で唯一、点字版が刊行された。

 1950までに次の小説が翻訳出版された。『風と共に去りぬ』『仔鹿物語』、ダグラス著『ローブ』、ブラッドフォード・スミス著『武器は公平である』、ハーシー著『ヒロシマ』、シンクレア著『龍の牙』『勝利の世界』。

 また『テリーとバンキーの野球』『一ダースなら安くなる』『ポパーさんのペンギン』といったしょーもない本も翻訳されている。
 日本版リーダーズダイジェストは150万部のバケモノ媒体になった。

 1949時点で日本の映画館はタイトルの1/3がハリウッド製。
 著者は『オクラホマ・キッド』『アメリカ交響楽』『フランケンシュタインの息子』『ターザン』、そして西部劇などは米国人の税金を使って日本人に見せるようなものではないと嘆く。※潔癖症の疲れる奴。

 1300台のポータブルトーキー映写機がGHQから各県に貸与され、記録映画を上映させた。片山内閣の最後までにGHQが提供した記録映画はたった9篇だった。
 1950までにタイトルは173に増えた。

 「理解」は、外部世界との関係をつくるのに必要ではあるが、十分な基礎ではない(p.245)。
 1950夏までに国立大の外人教師は35人のみ。宣教師は1949春までに1000人も入国が許可されていた。やっとICUの1951開校がマックに許された。
 1949春時点で在米のシナ人留学生は3914名。ニップは75名。1949秋には230名に増えたが。

 井上勇は1950-1に占領軍御用新聞に英文で書いた。GHQが米文学の翻訳を認めないので、日本人はフランス文学とロシア文学に傾倒しつつあるのだと。※おめでてーな。

 占領軍の正規米将校の多くは、生れてから一度も投票したことがない。
 マックは1937以降、いちども米本土の土を踏んでいない。

 1949にウィロビーはスメドレーを文書攻撃した。彼女は告訴しようとしたがマックがウィロビーを防禦した。
 ウィロビーは1939の自著『戦争における作戦行動』で、ムッソリーニを褒め称えていた。またフランコや日本の行動にも肯定的だった。

 ドイツでは各州は文官に支配された。日本では軍政だった。
 日本がベトナムにコメではなくサトウキビや植物油をつくらせたために1944に60万人が餓死した(p.276)。
 日本占領の最初の4年に合衆国は13億ドル使った。7年間では21億7000万ドル。

 ロイベンズ1949論文によると、1930年代のなかごろ、日本は近隣国が輸出するうちの2~15%を買い、また、その地域の総輸入量の15~30%を供給した。日本にとっては、総輸入の1/3、総輸出の1/2が、アジア相手であった。

 日本の1949の対アジア貿易は、1934の15~20%である。1936にはアジアの食糧輸出の2割は日本が買ったが、1948ではたった3%だ。

 なぜ日本工業を復活させる必要があるか。購買力のないアジア人には、安い商品でないと買えないのだ。それを大量に作れるのは欧米では無理で、日本だけだ。日本工業がその役割を果たさないと、スターリンの商品がアジアを席捲する。

 明敏な国務省は、シナとロシアを引き離して、西欧の力を強くするために、あらゆる役に立つ機会をさぐることだろう(p.283)。

 GIのジープを日本人のトラックやタクシーが追い越すと、GIに止められ、怒鳴られる。これが1949の世相。
 日本の社交家のグループはユネスコで商売しようとしている。「ユネスコ万年筆」「ユネスコ・キャラメル」の製造販売願いが出された。

 1950-5のリーダイに引用されているところによれば、1950春、マックは「日本は『極東のスイス』になり、スイスが中立国であると同じ理由で、日本も中立国となるべきである──どちらの側につこうとも、日本は破壊を避けることはできない」と言った。※ニュークをシビリアンに支配されているので軍人マックはヤケを起こしていた。破壊とは原爆投下のことである。

 朝鮮戦争で日本人はこう考えている。民主主義は望ましい。原爆は恐ろしい。その中間のどこかに共産主義がある、と。

 北鮮が南侵をはじめるとアイケルバーガーは言った。「アメリカ人は8500万の日本人を味方に持つ。日本兵は司令官の理想の兵隊である。彼等は死ぬまで持場に頑張る連中である」。

 著者はいう。日本人の民主化なんて信じられないので、1953よりもっと先まで、米国の文民が日本を占領しつづけるべきであると。
 またいう。国連軍が日本人を利用するとすれば、その危険の無い方法は、大隊または聯隊単位の戦闘部隊として、それをもっと大きな米軍の中に混ぜて使うことであると。

 ※自分だけが正しくすべてを知っていると確信できるプロテスタント・ニューディーラーで民主主義宣教師。日本語を知らないベネディクトの足元に及ばないルナティックな高等痴人。この若者のその後はどうなったのだろうか?

摘録とコメント。

▼『別冊歴史読本 日本古代史[騒乱]の最前線』1998-2

 弥生時代の一般的な手持ちの武器である有柄式磨製石剣は紀元前5世紀から出土。北部九州で広まった。瀬戸内ではなお打製石刃が継続して発達した。
 北部九州に青銅剣が出土するのは紀元前3世紀から。
 弥生中期に北九州に銅製武器が現れたのは、航海民が大陸で手に入れてきたもの。
 それを紀元前1世紀には北九州で鋳造するようになる。

 弥生の剣は短いのが特徴で、鉄剣でも60センチ。多くは20センチ台。
 楯は表面に皮を貼ったものもあった。

 北部九州の有力者の副葬品の青銅武器には折れあとや研ぎ減りがあるので、有力者も体を張って戦争を先導していたと知られる。
 戦闘は敵対するムラに矢を射かけることから始まった。
 縄文人骨で集団戦の戦死者とみられる例はほとんどなし。

 大和朝廷の半島進出が始まる四世紀なかばまで、国内戦では鉄器はほとんど使われていない。
 高句麗の騎馬兵は弓ではなく槍がメインアームだった。弓は歩兵が扱った。
 隼人の反乱では、「斬首獲虜合千四百余人」。

 ヤマトタケル伝承は4世紀の史実ではなく、大和王権の発展史を後代に擬一代記的に総括したもの。そのキャラクターモデルの一人には聖徳太子も考えられている。
 ヤマトタケルのクマソ征討伝承の背景に、大和王権初期の南九州進出の記憶が。

 蘇我氏は大和政権の財政を管掌することによって6世紀以降台頭した官僚タイプの新興豪族。知識源は大陸だから、大陸で仏教が流行するなら日本でも採用すべしと考える。
 物部その他の伝統豪族は、朝鮮は属国だからその真似をする必要なしと。
 物部氏の神社が石上神社。
 物部一族は弓では誰にも負けないので、587年、蘇我は守屋の配下の迹見を引き抜いて味方のスナイパーとして雇い、守屋を射殺させた。
 645に蘇我父子をほろぼした加担勢力は、隋や唐からの帰国組。律令制をつくらないと、唐に日本がやられる。※守屋はある意味正しかった。だから徂徠は「物」氏を自慢する。

▼近藤好和『弓矢と刀剣』1997

 宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』によれば、李氏朝鮮(1392~1910)の軍兵は文禄の役の前には弓箭しか持たず、刀剣装備がそもそも皆無であった。主武器としても副武器としても刀剣類を有しなかったのである。こんな軍隊もあった。※それが「剣道」の宗家を騙るのか?

 打刀大小二本差しを身分統制令の一環として、武士身分だけのものとしたのが、豊臣秀吉の刀狩令。
 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』によれば、刀狩の目的は、百姓の非武装化ではなく、あらゆる階層にまで普及していた打刀大小二本差しを、武士身分だけに限ってその標識・表徴とすることにあった。
 ただし初期江戸幕府がこれを確認するのは17世紀後半以降。「帯刀」とは打刀大小二本差しのことに。
 この帯刀権をあらためて軍・官・警が独占することにしたのが明治9年の廃刀令。

 古代の弓箭の遺品は、正倉院と春日大社に伝世する。しかし中世の遺品は数えるほどしかない。そのため博物館と美術全集に弓箭が露出せず、日本の武器=刀剣だと人々を錯覚させてきた。

 弓箭は「調度」とも呼ばれた。
 10世紀後半の摂関時代に儀杖と兵杖が分化した。後者は湾刀化した。

 革札よろいの鉄札交ぜは初期には胴の正面と左側面。
 780に鉄札から革札への転換が指導されているが、これは防矢力が革札の方がよかったらしい。※果たしてそうか?

 初期の大よろいは、弓をひきやすいように胸板が小さい。そこで鳩尾板と栴檀板を付加せねばならなかった。
 かぶとを含めると最重で40kgに達した。
 草摺の構造は乗馬専用で、これで歩くと前の草摺に足が当たって不便。

 弓の上端を末弭[うらはず]、下端を本弭[もとはず]という。丸木を弓にしていた頃、根元を本、梢を末といったので。
 鈴木敬三によると、最初の合わせ弓(伏竹弓)である外竹弓[とだけゆみ](木材の背側に苦竹を張ったもの)は、奈良時代に舶来していた大陸の角弓を12世紀の平安貴族が国産材料で真似たのだと。その競技は歩射だった。これが武士に採用されて、南北朝期には三枚打弓が全盛に。室町時代には四方打弓になり、近世には 弓胎弓[ひごゆみ]ができた。

 矢束[やつか]は、握り拳ひとつを「一束[そく]」、指一本を「一伏せ」と数える。古代の矢は鏃をふくめて長さ80センチ弱だが、中世では90センチ強であり、合わせ弓の弾力に対応していた。

 箆の端の彫[えり]が「矢筈」。
 野矢は二立羽を矧[は]ぐ。征矢と的矢は三立羽。三立羽の左旋回を甲矢[はや]、右旋回を乙矢[おとや]といい、二隻一手で諸矢とよぶ。

 鏑矢は征矢に2隻加えた。つまり1人で4本しか射てない。
 鏃の無い大型の鏑を「ひきめ」と称する。笠懸は「ひきめ」を使う。流鏑馬は鏑でする。

 西洋でもシナでも馬には左から乗るが、日本のみ右からだった。
 著者いわく、日本の舌長鐙は疾走用ではなく、騎馬が不得意だから落馬のさいにすぐ足が抜けるようなスタイルに発達したのだろう。
 日本の在来馬は体高4尺を基準として、1寸高くなるごとに「一寸[ひとき]の馬」「七寸の馬」などと呼び、8寸以上、つまり体高145センチ以上を「丈に余る馬」といった。

 材木座で昭和28年に大量に発掘された、新田の鎌倉攻めの際の人馬骨をしらべたところ、推定馬高は109~140センチであった。
 秦の兵馬俑は実物大だが、その馬の平均体高は132センチ。

 厨川柵の攻防で、鉄を撒くとあるのは、鉄菱のことだろう。
 弩の実戦使用を示す最後の記事が、厨川。
 南北朝以降の文献の「石弓」は、綱で吊った岩石を落とす装置のこと。

 平維茂の郎党の寝所の構えとして「布の大幕を二重ばかり引きめぐらしたれば、矢など通ふべくもなし」。
 今昔物語には組討で敵の首をとる記述がない。そのようなスタイルは治承・寿永以降である。

 戦闘で射る矢は、次々と矢継早に連射しなければ効果がない。※というより己が危険なのである。
 『吾妻鏡』で大場景能は保元合戦を証言する。為朝は鎮西育ちのために、騎馬の時は弓の扱いが思い通りにならないことがある。
 また佐々木高綱の証言。歩立のほうが弓が引き絞れるから、騎射の弓よりも短くてよいのだと。
 また1224に漂着した高麗人の弓は、皮を弦にしていた。

 著者いわく、中世の流鏑馬は的は正面にあったのではないか。現在の小笠原流(吉宗が再興)と肥後細川藩の武田流は、どちらも中世に直接つながっていない。

 ※馬の上から俯角射撃をするためには大弓の下三分の一を握らないことにはモトハズが馬体に当たってどうしようもなかったわけだ。

 馬上打物戦こそが南北朝の戦闘の特徴だと著者。
 源平盛衰記の宇治合戦で筒井浄妙は、敵のかぶとの鉢に当てた長刀が折れ、太刀では敵のかぶとも頭も破ったが、目貫き穴のもとから折れた。

 源平盛衰記の石橋合戦で佐奈田義貞は、一人の敵の首を掻いたが、その次の敵との組み討ちで刀が鞘から抜けず、後ろから来た別な敵兵にかぶとの項辺穴に指を入れて引っ張られて逆に首を掻かれた。最初の納刀で血をぬぐわなかったために、固まってしまって抜けなかったのだ。
 ※とすれば居合の納刀は「拭き取り」動作を必須とすべきである。

 『盛衰記』の飛騨景高と根井行親の対戦。根井がまず馬を射、飛騨は落馬。すると根井も馬を降りて、太刀でかかる。飛騨根井は「勝負はふたり」と叫び、両者、徒歩での斬り合いに。すると飛騨の刀が折れる。すると根井も「互いに組んで勝負」と太刀を捨てて組み討ちになり、根井が飛騨の首をとった。
 ※著者は無批判にこの記事を例示するが、これは典型的な「武功記録の美化」(この場合は根井家による)であろう。延慶本平家物語で敦盛の死体がどのように争奪されているかがリアルであろう。ひとかどの武士には複数の従者が運命共同体として形影相伴っており、「手を出すな」と言っても無駄である。

 盛衰記の巻29には、後続の味方、乗り換え馬、じぶんの郎党がついてこないシチュエーションでは組み討ちはするな、と戒められている。
 「柄も拳も通れ」という表現は、鍔のない腰刀だからリアル。
 鎌倉中期以前の短刀の現存遺品はごくごく少ない。

摘録とコメント(※)

▼大木雅夫『日本人の法観念』1983

 キケロの法律論はまったく対話形式で展開されている。

 中世の大学の法学テキストは完成されていてはならず、教授法は口語の討論形式によるべきであった。
 論理的討論術が批判的精神と体系的懐疑心を発展させ、西洋哲学を近代科学にした。

 シナの科挙は唐代では「進士」(詩文)を重視し、宋代では「明経」(儒家古典)を重視した。

 大憲章の大は「長大な特許状」の意味。

 シェークスピアは若いときにマキャベリに心酔して、リチャード3世の年代記を書いた。絶対王政賛美の彼の劇が世間に受けたのはそれはイコール国民の福祉だったから。

 ジェイムズ1世は、王権の根拠は契約ではなく征服だと言い放ち、アンチ・ノルマニストのクックがそれに反発した。クックはベーコンの政敵で、近代科学からは遠かった。
 クックは11巻の判例集を編纂し、先例引用を一般化させた功労者。

 クロムウェルのチャールズ1世処刑は熱狂的に行なわれたわけではなく、裁判委員の半数は関与を拒否し、処刑の瞬間には数千の群集からうめき声が湧き上がった。そこでミルトンは革命を鼓舞する詩を書かねばならず、ロックは理論的基礎づけをせねばならなかった。

 過ちを刑するに大臣を避けず、善を賞するに匹夫を遺れず/韓非子

 1919の賄選憲法第12条には、中華民国人民は、孔子を尊崇し、および宗教を信仰する自由を有し、法律にあらざれば制限を受けず、と規定した。

 シナではついぞ、民事訴訟法は発展しなかった。1911の清末にようやく草案起草。
 すべて刑法であった。所有権などは刑法の枠で考えられた。だから私人間の権利義務など意義が認められず。そもそもシナ語の概念に「権利」も「義務」も無かったのだ。
 刑事訴訟法としては、断獄律があった。

 儒教では子が親の犯罪を証言することはあり得ないはずだが、謀叛と大逆については律令は子孫も親を告発せねばならないとしていた。

 律令時代とくらべると鎌倉時代は司法国家。式目51ヶ条のうち訴訟関係は17ヶ条。つまり裁判規範を示していた。

 鎌倉時代の民事では攻撃側が「訴人」、防禦側が「論人」。

 織田も豊臣も徳政をやった。江戸幕府と諸藩は、徳政こそ号令しなかったが、棄捐令は発している。

 喧嘩両成敗の喧嘩口論とは私戦のことである。堪忍した側は私戦を避けたのだから無罪になり、攻撃者だけが「一方成敗」される。松の廊下は喧嘩ではなかったわけ。
 しかしこの慣習法の結果、ならぬ堪忍するが堪忍の処世術が瀰漫し、日本人の正義感は著しくゆがめられてしまった。
 甲陽軍鑑ではハッキリと批判している。

 幕府の年貢収納高は、幕末に至るまで減少し続けた。
 鎖国は宗教問題よりも、幕府による外国貿易独占という財政政策だった。

 武士の軽輩は内職どこか、大工や佐官までした。

 本多利明によれば江戸後期の下級武士は半知以上の借り上げに遭って主を怨むこと敵の如くであった。

 江戸時代の百姓は訴訟のプロだった。少なくない醵金をあつめて江戸まで出て来ているので必死でもあった。裁判官は大声で叱り続け、引き下がらせようとするが、もしお上に対して「御理解承知した」などと白州で言えば「まけ」なので、うつむき黙るか、「へいへい」と言い続けるか、不利な場合は「日延べ願い」を提出した。
 「内済」の決着が誘導されたのは、幕府の裁判資源がパンクしたため。訴訟を請け負う公事師は村方にまで出現した。

 奉行所法廷では、最上段に坐すのが奉行。民事で御目見え資格のある町人以上は縁頬に、由緒ある浪人と御用達町人は板縁に、それ以外の百姓町人浪人は最下段の白州に坐らされた。

 江戸幕府の裁判機関としては、老中、若年寄、評定所、三奉行、道中奉行などがあった。
 新井白石にいわせると老中とは大名の子で、古今の何も知らず、政務の本末を弁じ得ず、ただ上様の意を下に達しているだけ。
 三奉行のうち寺社奉行は30歳代の若い譜代大名。町奉行と勘定奉行は中級旗本出身だが、役方の出世コースの終着駅であるからたいていは老人。かれらは裁判の開始に「一通吟味」はするものの、その後の「追々吟味」はすべて部下の書記「留役」がした。中期以降は与力も裁判員になり、代わりに奉行の関与はほとんど形だけに減った。

 奉行裁判の形骸化と留役に対する賄賂の横行は吉宗時代前にすでにあったので、吉宗は三奉行裁判に臨席した。また目明しの利用を禁止させ、拷問を制限し、縁坐制を原則廃止した。
 孔子の、民は之を由ら使む可きであるが、之を知ら使むことは不可である、の意味は、大衆を法令に従わせることはできるが、その立法理由を理解させることはできない、と嘆いたのである。
 吉宗は罪刑法定主義を目指し、「をしへざる民を罪するな」と言い、最新の法度書を寺子屋の教材にさせている。また過去の判例を整備させた。そのひとつが公事方御定書だが、これは奉行所の役人のための準則だから、民間に公開されない。※しかし公事宿にはなぜか私的なコピーが隠し置かれていた。

 10両盗めば死罪と決まっているが、裁判役人は「どうしてくりょう三分二朱」といって、盗んだ額が10両に足らなかったことにしてくれた。
 また、火事のとき親を見捨てて逃げれば死罪と決まっているが、いっしょに立ち退いたあとで群集にまぎれて見失い、行方不明になったことにしてくれた。

 イギリス(クック流)の「法の支配」を日本人は過大評価するな。これは貴族議会による王の制圧、諸侯が議会を名として王に代わっての専制をめざしたモットーだったのだから。

 コリント人への第一の手紙の中にある「正しくない人」「教会で軽んじられている人」とは、法律家のこと。紛争処理は聖職者に任せろ、と言っていた。これをルターが分離した。救いと法は別世界だと。これによって法には宗教的権威はなくなった。

 日本の裁判官の数は少なすぎる。はやくなんとかしろ。権利を具体的に実現する装置が不完全だということだ。

 日本人はプライバシーを言うくせに家に表札をかけている。表札を出している家は米国にはほとんどない。

▼井上昌次郎『動物たちはなぜ眠るのか』H8

 豪州イリエワニが現存爬虫類の最大かつ最重。淡水だけでなく海岸にも棲む。

 待ち伏せ型の動物だから、寝ていると思って近づいてはいけない。

 コウモリは野生で20年も生きられる。同体重のネズミを飼育管理しても数年が限度なのに。

 夜行性のイヌは決して熟睡することはない。浅い眠りをしょっちゅう繰り返す。

 ライオンが仰臥位で昼寝するのは耐熱のため。

 延髄にある、レム睡眠中に運動命令伝達を遮断しているる機能に細工を加えると、猫も熟睡中に夢を見ていることが、その運動から確認できる。

 冬眠はじつは断眠状態なのではないかというのが最近の知見。

▼神坂次郎『元禄御畳奉行の日記──尾張藩士の見た浮世』S59年

 1718に没した朝日文左衛門、知行100石、役料40俵の8863日の日記『鸚鵡籠中記』の解説。代々の家職は御城代組同心。
 ※役付きの武士が日記を残したのは、男が公務を長年続ければ必ず「訴訟」や「疑惑の噂」や讒言中傷事件などのトラブルに巻き込まれると予期せねばならないので、そのときに日付正確な弁明書などを提出できる備えとしていたのである。だから金銭出納はつまらぬものでも細かく記す。そうした日記をつけない役人の方が稀であった。日記の残存するものが少ないのは、ほとんどの日記は本人の万一の備忘にすぎず、本人が死亡すれば用も価値もなくなったからである。こうした解説が無いのは不審だ。

 ありきたりの町人が三度のメシを食うようになったのが元禄時代。
 江戸でふつうに外食が可能になったのも元禄時代。
 庶民の家に畳が普及。また着物の左が上と決まったのもこの頃。
 大振袖の袖口は鯨の鬚で形をつくった。

 文左衛門は18歳で武芸を習い始め、その科目は槍であった。元禄4年。
 3ヶ月後に弓。さらに据物斬り、柔術にも入門。

 19歳でためしものを見物。広小路にさらされていた罪人3人の胴体。これを弓術師範の星野勘左衛門の下屋敷にひきとり、そこで師匠らが切る。文左衛門も股の肉を切り落とした。
 ところがその夕刻の酒席で出てきた刺し身皿をみるや罪人の足の断面を思い出し、手が震え、気分悪く、舌はこわばりうまく話せなくなり、以後二度とやらない。

 やわら(柔術)は入門から1年未満で印可[しるし]の巻物に判を据えたものが貰えた。元禄6年。※ようするに武術道場は当時すでにカネと引き換え商売。

 翌元禄7年に「軍法」の弟子入門。次に居合術に入門し、印可は元禄8年に貰った。
 元禄8年に鉄砲場へ行き、玉ぐすりを貰って射ったのが面白く、鉄砲の弟子入門。これは長く続いたが、十三発打つも皆はずれ、などの記載が目立つ。※当然だがこれは10匁クラスの火縄銃(p.102)で、そう簡単に当たらないから流派が立つわけである。6匁~3匁クラスの足軽鉄砲と同一視はできない。

 元禄9年、兵法(剣術)の弟子。

 小給の者が、何カ村にもわかれた知行所を管理するのは負担であり、いきおい酷税にもなってしまう。それで元禄ころから諸藩は高知(高禄)者いがいの家臣の知行地を廃して、蔵米取り(サラリー)制にきりかえた。

 武士が茶店に太刀を忘れると、それは道中奉行に届けられる。忘れた者が仕官の身であれば、もはや逐電するしかない。
 芝居小屋に武士が刀を置き忘れ、持ち主がすぐ判明しないときは、藩の評定所が詮索を始める。けっきょくバレる。士道不覚悟のゆえをもって、御暇。

 文左衛門は辻で猿若舞をみている隙に脇差の中身だけ掏り盗られた。盗まれた場合はモノが公に曝されるわけではないので、問題がない。

 武士の芝居見物は決して堂々とは出来ず、茶店に袴を預け、編み笠で顔を隠して潜り込む。

 大都市の芝居小屋は、左右に床を高くしつらえた桟敷があるが、中央は土間で、そこに薄縁・うすべり(半畳)を敷いて見物する。
 名古屋ではまだ菰張り、葦簾がこい。雨の日は、演らない。

 『太平記評判』は1両1分10匁もする本だが、文左衛門はそれを購入した。

 綱吉時代、燕を殺した足軽が小塚原で斬罪になっている。蚊を叩いた小姓は流罪。井戸に猫が落ちたのに気付かなかった江戸城台所頭は八丈島流し。
 ※これらの史料を無批判に例示しているが、ほとんどは軽輩であったことに注意すべきである。仲間小姓クラスは無学で独りを慎むことはできず、放恣にわたれば振舞いはごろつきと変わらず、その野卑さを嫌う階層が増えていた。またエネルギッシュなリーダーの下では点数稼ぎに出精する役人が活動するものである。同輩を陥れるための讒言濫訴も疑うべきである。

 ボラは一寸から成長して一尺で成魚。最後は三尺におよぶ。これをトドという。「トドの詰り」。

 元禄13年、27歳で御畳奉行とされ、御役料40俵を貰えることに。実務は部下の手代や御畳蔵番たちがやってくれる。
 もともとの知行100石は白米にすると35石、約100俵でしかないから、大きい。
 100石の知行にともなう軍役は槍1本。つまり、槍持ちと中間を1人づつ雇えば良い。
 貞享年間の『豊年税書』によると、コメ18石は小判18両で、大人3人と子供1人が1年で12両の食費だと。

 当時の武士社会は外泊が許されないので妾は居宅に置くことになる。

 武士の公務旅行では槍持ちの中間が1人、草履取りが1人、供につく。「槍持ちをはじめて連れて振り返り」

 元禄5年、ある武士が芝居小屋で、酔った牢浪中の中小姓(足軽身分)に鞘を踏まれて絡まれた。やむをえずその中小姓の刀で横ざまに払ったが「刀鈍くして傷つくに及ばず」。地に倒したところをまた振り上げて首に切りつけたが、すこしひきやぶれただけ。
 滅多打ちに殺したが、中小姓の刀は切れずして鍋弦のごとくになった。

 博奕場を捕手に急襲されると、武士の多くは刀を捨てて逃げた。
 罰の「御追放」は、「士外の仰せ」なので大小をとりあげてしまう。

 滝沢馬琴は名古屋の家婦の密通は日本で一番多いと報告している。

 鞘ごとの刀を掴み合いの奪い合いになると、簡単に鞘は壊れてしまう。

 枯れ葉かきを木抓[こまざらえ]という。

 1715に名古屋城の小天守御金蔵に侵入した盗賊は、照明用に硫黄を燃やしていた。点火には火打ち箱を使用か。
 侵入形跡を面倒と思って報告しなかった御番士は、脇指を咽へ横ざまに突き通し、前へつと掻き切りて死。

 財政難の藩は「簡略奉行」に華美を取り締まらせた。この配下の「お改め」を騙って商品等を略取する者が多発。

 元禄7年の罪人死骸のためし物で、御道具(刀)の9振りのうち4振りは切れなかった。

 晴れた日のある屋根に泥鰌が20匹も撥ねていたことがある。これは鵜の仕業だろう。

 丑の刻参りは『太平記』に活写されているが、庶民の間には元禄期に普及した。近松が広めたのだとも。

 元禄15年暮れの赤穂浪士の一件は名古屋ではほとんど話題にならなかった。元禄16年に芝居化した「曙曾我夜討」は上演3日で禁止された。人気を全国版にした竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」は事件から45年後の作。

 元禄10年に百姓が剃刀で首を切り廻し、自殺。

▼村上兵衛『昨日の歴史』2000

 江戸時代から富山の漁村は不漁が続くときまって騒ぎを起こした。貯蓄観念がない。明治になっても四年に一度は義捐米にありついていた。
 このローカル恒例だった富山の米騒動を大正7年に全国区に拡大させたのはジャーナリズムであった。
 17歳の大宅壮一は大阪でこの波及暴動を見た。そして中学でこの焼き討ちを賞賛する演説をして退校になった。「マスコミ」という日本語は大宅が造った。

 西洋のテキストなら何でも翻訳して「円本」としてインテリに売れたのが昭和初年で、大宅は翻訳印税で吉祥寺に家を建てた。
 その前の下宿には徳田球一が上海からピストル30梃を運び込んだこともある。

 徳田らを応援する陸軍将校は、かなりいた。
 大杉栄は甘粕の幼年学校の先輩で、扼殺の動機は近親憎悪ではないか。

 WWⅠ後、日本の11年間不況。そして昭和7年から15年までは明治開国以来の経済好況。
 大宅いわく、火野文学は、国民が戦争を知りたかった気持ちと、前線将兵への感謝の念から、人気が出たものだ。

 対米戦争中は日本国内にカネがダブついた。そのため競馬の全盛時代であった。

 三島は、書かなくなった直哉がいつまでものうのうと生きていることに我慢がならなかった。
 三島は学習院で貴族から何を学んだか。社会や政治にたいしてあれほど無責任でありながら、平然として生きていられる神経の傲岸さ。
 三島じしんのキャラは世間に対して小心で律儀で礼儀正しい。

 三島の、学者家系の母の倭文重が終始、三島の創作の第一読者であり、もっとも信頼する批評家であった。『豊饒の海』の最後の百数十枚いがいは、すべて三島の母の感想によって書き直されているはずだ。

 昭和20年2月。都会のインテリ家庭では、20歳になる息子の本籍地を田舎に移していた。田舎では都会人の体格だと徴兵検査後に召集されない確率が高いからだ。三島家もそうした。ところが加古川での徴兵検査で、第二乙種合格ながら召集されてしまった。家族も本人もショック。
 しかし入営時に風邪をひいていて、聯隊の軍医がラッセル音を肺炎と誤診し、即日帰郷となった。

 このような三島が、戦後、『きけわだつみのこえ』の映画のアホらしさから、戦後の精神状況を徹底的に嫌うようになった。
 昭和25年の娑婆には兵隊帰りの若者が多く、職場では上司を屁とも思わない活気があった。

 文藝春秋は、中央公論や改造とちがって戦中に解散させられることはなかったのだが、用紙と資金難は戦後も続き、菊池寛は投げ出した。そこで本社が大阪から東京銀座に移った。
 三島は歌舞伎と能を幼児から見ている。父方の祖母が歌舞伎のファン、母方の祖母が能好きであった。

 三島は昭和26年に太平洋廻りでギリシャまで旅行すると、古代ギリシャには肉体と知性の均衡だけがあり、精神などはキリスト教のいまわしい発明だった、と確信する。

 大宅は清水幾太郎を、如是閑を新しくしたようなと評し、さらに、基地反対の平和主義の講演行脚について、平和主義は誰でも欲しがるチョコレートで、思想ではないと。ジャーナリズムは無思想の別名だが、強い個性と人格がなければ、すぐに他の強そうな思想にひきずりこまれ、溺れるのだと。

 大宅いわく、スターリンはすべての芸術の理解者であり、よって検閲官になったと。昭和30年代のソ連について「ソ連ほど保守的空気の強い国はない」。

 三島が軍隊を知らないことは『憂国』の輜重兵の呼称を見ればわかる。数日間の市街戦で輜重兵の出る幕はない。
 夜間に静かに移動すべき叛乱部隊が集合喇叭を吹くわけがない。
 軍装で帰宅した中尉の妻はまず軍刀を受け取って刀架に立て懸けるのが家庭作法。その前に玄関外で外套を脱がすなどあり得ない。軍刀を抱いて茶の間に行く軍人の妻もあり得ない。
 村上は『憂国』を戦争文学とは認めない。これは大岡昇平も同意見であった。

 三島はそのエッセイの中で「いい作品が書けているときの作家は、死からいっとう遠いところにいる」という意味のことを述べている。

 戦後、蘇峰くらい悪口をいわれながら、その研究業績を黙って歴史学者に盗用された者はいまい。
 国民新聞は長閥の御用新聞と思われていたのに、それが乃木遺書の全文すっぱぬきをやったのは、蘇峰にもジャーナリストの意地があったのだ。

 三島は『英霊の声』以外は一気には書いてはいない。一晩に4~5枚を毎晩続ける銀行家タイプ。
 三島の天皇描写「勇武にして仁慈にましますわれらの頭首、大元帥陛下である」「今日よりは朕の親政によって民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであろう。心安く死ね。その方たちはただちに死なねばならぬ」。

 三島は自衛隊も旧軍のように法学士が半年ほど入隊して訓練を受ければ三尉になれると思っていた。

 村上は三島の『葉隠入門』(S42年)の書評を同年に東京新聞に書いている。村上は、武士道の精華は、主人を「頼うだるひと」と言った室町以前の精神契約にあり、徳川以降の武士道は契約相手が不在の形骸で、真の死生観は葉隠を一関こえたところに探すべきだと考える。三島はいかなる死が犬死にかは誰にもわからないので、死後をおそれない決断が人間行動の自由を保障すると解した。

 S44年10月21日読売朝刊での、村上vs三島対談。
 村上いわく、陸続きでない日本には市民の直接戦争体験がない。だから民兵組織は国民に理解不能なのではないか。
 三島いわく、戦えるヤツをつくることが課題。
 村上いわく、文士の道楽と思われないか。
 三島いわく、人がどう思おうと意に介さない。会の意義が生じるとすれば、今ではなくてこれからだと思う。ノンポリにも全共闘にも属せない学生は居所を探している。
 村上いわく、制服は人間を画一にさせる。
 三島いわく、全共闘どもの格好こそ画一的だ。しかも薄汚くむさ苦しい。
 村上いわく、70年安保で国民は国防についての決断を迫られている。だから楯の会も拒絶されなくなった。

 グァムは日本統治時代の方がよかった、と最晩年の大宅。

 体験小説『憲兵』の作者である宮崎清隆に、三島は、死にたい理由を語った。第一に、書けなくなった。二番目に、川端が媒酌人になっている妻との仲。離婚すれば文壇から抹殺されるだろうと。

 平和主義、暴力否定、conformity が日本では尊敬されるが、三島はそれが大間違いだと。
 エセ知識人。思想に自分の身の安全を保障させる輩。思想を守るために命は懸けない。
 そうではなく、知識人とは、あらゆる順応主義に疑問を抱き、むしろ危険な生き方をすべしと考えた。

 ※「優雅と武士の伝統の幸福な一致」など求めていたら、国内戦は戦えても、外国には勝てないだろう。

 村上いわく、東部軍の軍司令官が民間人に縄でしばられてなんの抵抗も示さなかったとは、そんな軍隊があるかと。それは平和主義ではない。腰抜けだ。

 幕僚の三好秀男は戦中にフィリピンゲリラと国際法の通用しない戦いを体験している。彼は事件当日出張中だったが、もし居合わせたら絶対に縛られなかったと。

 士官学校の区隊長として21歳で敗戦を聞いた村上は、沓掛から東京に向かう列車車内で見知らぬ人同士が「これから、日本はどうなるんでしょうなあ」という科白を百遍も聞いた。

 WWII前の英国を旅行したツヴァイクは、英国人がまるでヒトラーを警戒していなかったと。周辺ドイツ人を統合したあとはヨーロッパ人に対する感謝のしるしとしてボルシェビズムを根絶するだろうと、語られていたと。

 村上じしんは、文学者の自殺は「事故」と呼ぶのがいちばん近い、と。
 江藤淳の死は文学者の自殺というより一社会人の死だから論ずるものではないと。

▼高木彬光『古代天皇の秘密』S61年

 奈良の大仏を造ったときの銅は、福岡県の遠賀川に近い香春岳[かわらだけ]で大半が鋳造された。和銅元年よりも何百年も前から香春神社のあたりでは銅をつくっていて、その宝鏡が宇佐八幡に納められている。

 玄界灘は冬は強い北東風が吹くので、魏使は夏にやって来たはずだ。そして遠賀河口近く、神湊ふきんに上陸しただろう。邪馬台国は宇佐にあったのだろう。魏志の百里は15kmだろう。

 『隋書』の「琉球伝」には、沖縄住民が男女みな、白紵の縄を以て髪をまとい、うなじの後よりめぐらして額に至る、とある。『万葉集』に「ひたいがみゆへる」と見える肥人は熊襲で、かれらは沖縄人と同族だったのだろう。
 熊襲は、今の熊本に住んだのが熊、大隈の「そお郡」に住んだのが襲。そして、襲=隼人だろう。

 隼人は海人族で、名前の頭に「ア」音がつくことが多い。あずみ、あまべ、あら、みな同じ。
 カンボジアのクメール、久米島、熊襲(=狗奴)も、みな同じで、大伴氏は熊襲の出だ。

▼雄山閣 ed.『文武抗争史』S8年6月

 戦争後は文官が台頭する。頼朝は大江広元を用い、三善康信を招いた。梶原景時も文臣だといえよう。
 足利尊氏は、高師直や上杉憲顕に政務を委ねた。
 信長は、朝山日乗、村井貞勝を重用。
 家康は本多正信、正純、板倉勝重を信任。

 源義経、範頼、畠山、和田、足利直義、直冬、福島正則、加藤忠広などはみな、ただの武骨だったから除かれた。

 シナにも、普の杜預、明の陽明など、文武で功を挙げた偉人はいる。ロシアではピョートルが文武兼備。

 坂上田村麻呂はあれほどの偉勲があっても文官の下に居つづけた。
 平氏も源氏も、皇室を出て二、三代にしてすでに5位の受領位より昇り得なくなった。将門は一検非違使を求めても得られなかった。

 しかし日本ではただの文学の士は宰相になれない。吉備真備、菅原道真が上代の例外で、江戸時代では林道春と新井白石だけ大出世したといえる。
 シナで科挙が完成した宋代はまったく文人の天下。

 清の二百数十年のあいだに満人は漢人に化せられて、満州人は一時其の故郷を失ひ、国語も亡ぼされた(p.9)。
 日露戦役後最近に至るまで実益を収め、領土を拡張した者は支那である(p.10)。

 古代人は知力を畏怖したから「かしこし」と言うのである。
 日本の権威はどこまでも官職にあって、氏族になかった。だから貴族は官職をもとめた。それがなければ無力であった。

 中央で立身できず、阿諛追従のできない覇気ある野心家が、あえて文化の冠絶する都を捨ててクソ田舎の国司になろうとした。
 住民はそのような人材を大切にした。
 任期が終わって国司を交替すると後任者から不正私曲を摘発される。だから居座り、子孫が地方豪族になった。

 長元5年、数十人の強盗が安芸守宣明の邸に押し入って、主人や妻を射殺した。
 それでも犯人を公式に死刑にできなかった。

 前九年と後三年役では大雪と糧食不足に悩まされ、将士ともに馬肉を食った。
 雷雨降雹の烈しさに恐れて鳳輦を棄て去った近衛武官の失態が弘安9年。
 吉野朝支持者がすくなかったのは、大覚寺党の中にも思想分裂があり、去就に迷う者が多かったため。

 参考源平盛衰記に、10月4日、早尾坂の城の防禦側(堂衆)が、「岡には大石を並て石弓をはる」。そして、攻撃側(院宣をうけている清盛と、その官兵にサポートされた学生)は「多は石弓に打れてぞ亡ける」と。※これはカタパルト投石器か。

 太平記はいう。北条氏討滅の謀議をすすめるため、やかましい格式をいわずに同心の者を集めるために、後醍醐天皇が無礼講といふ事をはじめたのだと。つまり身分を超えた秘密結社だった。花園上皇の日記にはこれを「破礼講の衆」とも。
 ※日本のクーデターチームが望んできたのは常にこれだ。

 夢窓国師は次のように尊氏を褒めた。合戦の間の肝が据わっている。降参した敵を許すことができる。物惜しみをしないで部下に武具でも馬でもなんでも下し給う。

 国家守護を高唱する古京6宗は上代的、現世利益を高調する密教は中世的、死後の冥福を力説する浄土教は近世的宗教である。

 禅宗の原始教団は反貴族的なのがモットーで、生活費は自らの労働により、静室以外には伽藍をつくらず、階級もない。これが民衆を感激させた。しかし権力者と結びつくと祈祷密教になった。

 武家は毎日、五山を訪問した。目的は美少年。禅寺の経済力で訓練され化粧された美少年は、武家の美少年より魅力的だった。禅林は武家専属の待合になった。
 御相伴給仕、御前給仕は芸者であり、御相伴衆は幇間である。待合政治はここから始まる。

 増水……水が多くてコメの少ない粥。

 足利幕府が京都では全部抱え切れなくなった多数の禅宗の知識人たちが地方に拡散して武家を相手に儒学を教えることを新商売にした。

 清正は熱烈な法華経信者だったが行長は基督教徒。両人の葛藤は朝鮮人も見抜いていた。黒田如水は行長を、執拗の夫にして他言に従はず、と。

 後光明天皇から、仏教を斥けて、江戸幕府を真似て新儒学に凝った。すなわち貴族の秘伝であった漢唐の古註ではなく、朱子の新註で論語を読んだ。

60年代核戦争映画をぜんぶ見直さなくては!

 わたくしが未見の映画『フェイル・セイフ』のセリフを動画から全部拾ってトランスクリプトしている物好きな人がいて、その英文ウェブサイトを読んでみたのですが、打ちのめされた。シナリオ読んだだけで手に汗握るという体験を初めてしました。凄すぎる。

 驚いたのは、この映画でウォルター・マッソーが演じていたのは、例のフォン・ノイマンじゃないですか! 原作者と脚本家は、彼の「ゲーム理論」を攻撃しているのです。ノイマンは理解されていなかった。
 実説の彼が「アメリカが今のうちにソ連を先制攻撃すればアメリカはワンサイドゲームで勝てる。今それをやらなければアメリカは将来苦労する」と語ったのは、ソ連崩壊後の今になって米国人の身に染みているでしょう。

 またこの映画の格好よすぎるショート・センテンスの会話(ゲームの勝者がいない、等々)からスピンアウトしているのがディズニーの『ウォー・ゲーム』だったのだと、おそまきながら悟ることができました。

 そしてこれも今更にして漸く分かりましたのは、『フェイル・セイフ』のマッソーはノイマン風のノイマンであったのに対して、『ドクター・ストレンジラブ』は、キッシンジャー風のノイマンにして、キャラをひねっていたわけだ。つまりキューブリックは、ノイマン風のノイマンでは面白くないと判断したのでしょう。

 電話先のロシア人指導者の声の調子から、相手が自分を信用しているのかどうか判別するノウハウがあったようにも書かれています。「バウリンガル」は、突然出てきた技術なんかじゃないのでしょう。

 以下また、摘録とコメントです。

▼『別冊歴史読本 20 武士と天皇』2005-8pub.

 10世紀後半から11世紀前半、「非職之輩」は弓箭を佩帯してはならぬ、とする「兵杖禁止令」が頻繁に出された。
 上皇を警備する武士すら特別許可なしに弓を持てないという厳密さ。

 『嘉吉物語』によれば、将軍義教の右手を赤松則繁がおさえ、左手は教康が押さえて、その首を刎ねた。
 管領・細川持之は、殺害の場から這って逃げたことで、威令を失った。

 名前の「通字」。北条家は「時」。足利は「義」。徳川は「家」。嫡男はこれらの字が上につく。庶子の弟たちは、嫡子の下の字を「系字」として、それが自分の名前の上につく。
 徳川家光の長男は家綱である。その家綱の弟はすべて「綱○」と名づけられる。
 清和源氏の通字は、とちゅうで頼から義に変わっている。

 北条氏の「時」の字は、上下のどちらにも用いた。
 三浦氏が義の字を使い続けたのは祖先の八幡太郎義家とのつながりを強調するためか。
 合戦における兵の死因の第二位が、馬に踏み潰されたことによるもの。

 富士川の戦いに平家は4000人が出た。これが、見たこともなき大軍といわれた。
 相模の三浦氏、伊豆の伊東氏クラスでも300騎くらいしか出せなかった。北条氏は40騎であった。

 有力守護の畠山義就は応仁の乱の生きるか死ぬかの動員で、騎兵350、歩兵2000を集めることができた。当時の日本の総人口は1500万くらい。

 諸葛亮は文官である。しかるに日本では大江広元の息子までが武士になってしまう(毛利季光)。そうでなかったら人はついてこなかった。
 三成に人望がなかったのも文化の違いだ。※部下と運命をともにしない奴と思われたのである。

 『吾妻鏡』の三浦氏滅亡の記述はいいわけじみており、史実は北条氏にとって特別に弁解が必要な、寝覚めの悪い経過であったことを暗示している。
 禅宗の特徴は弟子になるのに出自を限定しないこと。道元は叡山の女人結界をも批判した。

 鎌倉幕府は六波羅探題にも最後まで司法権を分け与えず、全国の御家人を直接支配しようとしたが、室町幕府は一転して守護(大名)の分権を追認し、各探題にはほとんど自治権を与えた。
 御家人と非御家人の階層を分離固定化し、さらに御家人のなかの少数有力門閥が排他的に徴税支配権を握り続けようとしたシステムが全国の武士から悪まれて、鎌倉幕府は滅んだ。

 足利尊氏は師直の命日に直義を毒殺した。直義の下についていた時氏は山陰の鉄資源のおかげでしばらく強勢を保った。
 『太平記』を見れば、神器は複数あって入り乱れ、どれがホンモノかはすでに分からなくなっていた。

 1393に室町幕府は酒屋土倉に毎月定額課税した。地頭御家人ではなく、都市に基盤を変えた。
 天皇の代がわりにともなう諸儀式はかなりの物入りだった。それで戦国期には天皇が望んでも手元資金が無いので譲位不可能となり、しかたなしに終身在位した。即位礼すら断絶する可能性があった。

 信長が三職任官を断ったのは、すでにシナ皇帝となる野心があって、日本の朝廷の官位では縛られまいとしたのだろう。
 秀吉は小牧長久手で家康に敗北すると軍事一辺倒の方針を転換した。諸大名を朝廷に叙任推挙してやる。そのとき天皇の面前で従一位関白の秀吉は他の大名の誰よりも座次と礼服格式が高いことが厭でも確認される。
 ※天皇家から距離を置く将軍ではなく、天皇家に最も近い「第二の藤原氏」になろうとしたのだろう。

 定信の「大政委任論」……日本の国土と人民は将軍が天皇から預けられたものである。しかしそうだとすれば将軍家は天皇家を大切にすべきであるから復古調の御所造営に大金を投じなければならなかった。

 諡号[しごう]制……清朝までのシナの制度で、前代の王を名前によって評価し、支配の正統性を宣伝する。日本では易姓革命が起きなかったので光孝天皇で途絶え、以後は日本独特の「追号」に変わった。追号には顕彰賛美の意味がなく、在所や陵地にちなむ。この追号と「○○院」の尊号の始まりとは重なる。

※公武は対立していたのか、相互補完だったのか、という、視野の狭い学説争いが日本史学界にはあるらしい。キリスト教会と欧州の地上権は対立していたのか、相互補完だったのか? どちらかがなくて済む話か?

▼林盈六[えいろく]『力士を診る』S54年pub.
 得俵は土俵内のごみを掃き出すためにある。

 大正15年時点で大阪相撲の実力は、その横綱が東京相撲の前頭と互角。
 維新でなぜ力士の髷だけは断髪されずに済んだか。西郷、板垣ら、相撲好きの元勲がいたので。

 明治42年の旧国技館の建設により、「晴天10日・雨天順延」の必然性がなくなった。
 一般に母親が大型だと、その男子は大きくなる傾向がある(p.23)。
 身長がまだ伸びている途中かどうかは、レントゲンで大腿骨の骨端をみると簡単に分かる。成長中の骨端は柔らかい。

 明治時代の入門者の選別ポイント。両股を真一文字に開き、上体をゆっくり前傾させて顔が土俵につくか。また、正座して両踵のあいだに尻を入れ、上体をゆっくり後傾させて後頭部と背中が土俵にぴたりとつくか。
 また、手・足が大きいかどうか。そこが大きいものは上背が伸びてくる。耳たぶがゆたかかどうか。ゆたかな者は筋肉がつく。

 幕下にならないと羽織は×。

 相撲部屋の平日は朝6時から11時まで稽古。朝飯は抜きである。
 二子山部屋だと15組が土俵におりるので一人当たりの稽古量は正味20分だ。番付上位から入浴し、昼飯のちゃんこは11時すぎから始まる。が、これまた番付上位からの順番なので、最下位が席につくまでに1時間半かかる。
 ちゃんこのあと、2時間の昼寝。体を動かすと口から食べたものが出るくらい詰め込んでいるので、仰向けのまま。目が覚めると手の指がパンパンに脹っていて、指が曲がらないくらい。育ち盛りだと、昼寝の後で体重が午前より5kg増えているが、午後の稽古でまた元に戻る。
 この「飢餓運動ストレス」の繰り返しが、摂食時の脂肪のためこみを細胞にうながし、太った体をつくっていく。ただし中卒入門時に肥満していない者は、脂肪細胞の数がふつうであるので、引退後に元に戻る。
 ちゃんこ当番は、その日の稽古は休みである。昼でもビールも出る。

 双葉山はけっしてマッタをしなかったから偉大。「後の先」で勝てた。

 名古屋場所は梅雨から夏にかけてで日々の気温の変動が激しく、体調が乱れがちなので、できれば東北か北海道にしてほしいと力士は思っている。

 場所数が増えたことにより若い有力者の番付上昇は3倍早くなった。
 そのかわり、病気や怪我をすると治す暇がない。
 「無事これ名馬」は力士も同じ。

 相撲で「かいなぢから」というのは世間で想像する静的な筋力のことではなく、技をかけるときの動的な威力。特に握力だけ測定すれば、ドクターの著者より弱い大関はいくらでもいるのだ。握力は、押し相撲とも四つ相撲とも関係がないのだ。

 昔、崎陽(長崎)でシナの鍋をチャンクォといった。これがちゃんこの語源であろう。 大正初期の角聖・常陸山の出羽の海部屋があまり入門者が多くなったので、ちゃんこ料理が発明された。

 本書の時点で約30の相撲部屋があるが、やはり親方の出身県の者が自然に集まる。二子山親方のもとには青森県出身者。
 井筒部屋は鹿児島。
 昭和30年代まで四足獣の肉はちゃんこに入れなかった。土俵に手がつくというのでゲンが悪い。

 WWII中、ワインが配給制になったフランスで肝硬変が激減した。1週間に1リットルの割り当てであった。
 日本でも戦中~終戦直後は肝硬変が少なかった。
 アイクが心筋梗塞で倒れたとき、主治医は規則正しい運動とウィスキー飲用を勧めている。

 アルコール分解にはビタミンB1 が必要で、それが足りなくなると脚気心臓の症状が出る。
 糖尿病治療中にアルコールを飲んだら、むしろ多めに飯をたべないと死の危険がある。アルコールはカロリーはあるが低血糖をもたらすので、血糖値が低くなりすぎてしまう。脳に栄養がいかなくなれば、廃人になる。

 1日5合以上も飲んでいれば、かならず膵臓がやられる。
 力士の急性膵炎は千秋楽の晩に多い。それも名古屋場所か秋場所。疲労とアルコールと冷たい氷水の組み合わせが引き金になるらしい。

 ストレスに対抗するホルモンは午前10時ごろが最高で、夕方から夜にかけて弱くなる。 アルコール分解能力は逆に夕方から夜に活性化し、朝は最も低い。

 北の湖はノンスモーカーだったが、貴ノ花はチェインスモーカーだった。輪島もスモーカーだ。
 水入りの大相撲で先に息があがるのは決まってスモーカーの方だ。持久戦ではデブの方が先にスタミナ切れするのは常識なのだが、北の湖にはその弱点はない。やはり喫煙しないからだ。

 大正の関脇・玉椿憲太郎は、身長が158センチしかなかった。
 昭和の大関・大ノ里万助は、体重が75キロしかなかった。しかしさすがに昭和30年以降の記録では、幕内の最軽量でも95キロである。
 昭和前期、大相撲は年に20日で、1月場所と5月場所しかなかった。だから優れた力士は37歳まで現役でいられたのだ。

 人体は脂肪以外の組織からカリウム放射線をつねに発散しているので、この全体量を測定すると、体重との兼ね合いで、脂肪の全量が判明する。
 男子平均で10~15%だが、この脂肪量は偶然にも上腕と背中の皮下脂肪の厚さに比例していることが判明している。

 肥満は短命であると世間に知らせたのは、アメリカの生命保険会社。
 力士の体重差は20kgまでは押し合いに影響がないが、30kgの差があると、押される感じがまるで違う。
 力士で頻脈を訴える者は多い。頻脈の反対は徐脈。

 戦前の力士に性病と脚気はあっても、糖尿病はなかった。
 糖尿病は血管の内壁を具合悪くするので、脳の血管がやられれば脳卒中となり、眼にくれば網膜症や白内障になる。腎臓がやられるのも、血管から。

 片足のアンクルにサポーターを巻いているのは、痛風。軽い捻挫を起こしたところに尿酸結晶が集まるので。
 親方になるとストレスから潰瘍になる。
 人間の歯の型をみれば、本来、肉食でない動物であるのはあきらかだ。

 親方はちゃんこの後、昼寝しない方がよい。肥満しないため。
 帯状疱疹(ヘルペス)が出たら癌検診をうけたほうがよい。

 突っ張りを得意とする力士、または入門当初の力士は手関節を捻挫する。一度傷めると、治ったあとも土俵上では不安防止のためテーピングで庇うようになる。

 千代の富士は最初の肩脱臼のとき仲間が力まかせに整復したので無理が生じ、しかも完治しないうちから稽古を再開したので、長く尾を引いて苦しめている。

 力士の骨折で最も多いのは肋骨で35%、ついで鎖骨の25%である。一般成人では前腕骨が19%、肋骨が16%である。
 力士で上腕骨骨折する者はまずいない。

 60人入門者がいて、十両以上になれるのは1人。横綱は300人に1人。

 腰椎の痛みに副腎皮質ホルモン剤を痛み止めとして投与する医者はよくない。劇的に効くが、副作用があり、薬を中止すると痛みが前よりひどくなる。
 行きずりの医者がよくやる。

 風邪薬はレスタミン系物質のためどうしても催眠性がある。そしてこれは筋力を発揮させない作用もある。

新刊と旧刊の摘録とコメント。

▼渡部昇一『昭和史 松本清張と私』2005-12刊

 松本清張の『昭和史発掘』は、その後の立花隆の『日本共産党の研究』で古くなった。 この両大作は、どちらもシンプルな個人の著作ではなかった。『昭和史発掘』は1964~71の週刊誌連載期間を通じて藤井康栄がデータマンを務めている。『日本共産党の研究』は、文春あげての調査体制を組んだもの。
 ※組織の一員となれば「仕事の効率」が得られる。それゆえに大企業のサラリーマンの給与は零細企業よりも良くなるのであり、中央官僚の「ご説明」は一人の党人政治家よりも隙が無い。ただし仕事の満足度の基準は、ギャラとは独立である場合がある。

 シベリア出兵を日本政府は渋り、アメリカが兵を出すなら日本も出しましょうと言った。連合国はアメリカのウィルソン大統領を口説き、日米共同出兵の形にさせた。

 共産党大好きの清張は、尼港事件の下手人に多くのシナ人や朝鮮人がいたことを書かない。また日本側に責任があったような書き方をしている。

 田中義一といえども300万円という大金を手土産に政党に入らないと首相にはなれない時代。それのどこが暗黒か。米国でもアイクは退役してすぐ政界には迎えられなかった。いったん大学総長になって民間人として共和党に入党している。

 中野正剛も尼港事件でロシアを庇護している。当時の人は「中野は赤化している」と見た。
 中野はコミンテルンからカネをもらっており、それを追及され死んだのではないか。

 摂政宮を爆殺せんとした朴烈の皇室憎悪は、コリア系共産党員と一部部落解放運動家にはよく見られた思想。
 荒畑、堺、山川などの大物共産党員が日共から離れたのもそれが理由。
 宮本はモスクワに従うのが正しいと。沖縄出身の徳田球一もそう。

 摂政宮にステッキ銃を発射した難波は無政府主義的な共産主義者。
 当時の法律では朴と金子文子は死刑しかないのだが、判決から10日後に特赦となって無期懲役に。清張は、でっちあげだったからだというが、これは当時の日本が成熟していたからだ。
 田中清玄いわく、朴はGHQに解放されたあと、北鮮に渡り、そこでスパイとされて殺されたと。

 清張はなぜ芥川の自殺の話の最後にミヤケンの論文などもちだしてくるのか。それは当時の日共への「ご挨拶」以外ないだろう。『改造』で懸賞2等になった小林秀雄の論文は時代を超えた価値があるが、1等のイデオロギー教条そのまんまあてはめている御文章を、今では松本以外に誰が評価しているか。

 芥川は昭和2年に自殺した。小林多喜二はその5年前に死んでいるが、死刑にされたわけではない。天皇を処刑しソ連に日本を進呈しようと運動する輩がその結社のゆえをもって死刑にされ得るようになったのは昭和3年以後のこと。しかしその後も治安維持法で死刑にされた者は一人もいなかった。逆に、共産主義者に殺され、片輪にされた警官は何十人もいた。警官が怒って取り調べが酷になったのもあたりまえだ。

 大正7年の米騒動で世間が驚いたのが、22府県で被差別部落の人たちが騒ぎはじめたこと。そして大正11年に水平社の創立大会。
 清張は被差別部落と浄土真宗の関係を初めて明確に指摘した。エタに市民権回復のチャンスを与えない代償として、来世に一般の者となって生まれ変わると説く浄土真宗の救済があてがわれたのだと。「今日どの未解放部落に行っても、貧しい村落には似つかわしくない大屋根の寺院が建立されている」。
 浄土真宗系の仏徒が靖国神社攻撃の急先鋒であるのも故がある。

 大正15年に福岡聯隊の演習に千人の水平社が示威運動を仕掛け、大騒ぎになっている。
 北原二等兵が岐阜第68聯隊に入営するとき、水平社の仲間たちが赤旗(共産党)や黒旗(無政府主義)あるいはイバラの冠を描いた旗(荊冠旗)を立てて見送り、北原本人も営門に着くまで反軍演説をして歩いた。
 北原を押し付けられたのは、気の弱い、兵隊あがりの中尉であった。

 入隊式の知事祝辞の最中に北原は勝手に班内へ帰ってしまった。軍曹は制止できなかった。
 またなぜか北原だけ、丸刈りではなく長髪のままでいることを許された。
 また北原は入営時の宣誓も拒否した。
 連隊長から呼び出されても、食事中を理由に待たせ、やはり宣誓拒否。

 酒保で将校に敬礼せず、それをとがめられても「北原二等兵」と名乗れば誰も手が出せない。
 外出を禁ずると差別だと騒がれるため外出させた。するといきなり帰営遅刻。
 やがてついに脱走。重営倉と陸軍監獄の分かれ目は、一週間以内に戻るかどうかだが、北原は一週間目ぎりぎりに滑り込んだ。
 直訴事件直後の中尉の処分は、まったく不明である。
 姫路の刑務所に入れられた北原は昭和3年の天皇即位で恩赦。しかし「悪いと思っていない」と拒否。

 清張によれば、当時の徴兵の検査官は北原のような運動をしている者は兵役にとらないようにしていたのだったが、なぜかこの検査官だけ、逆の考え方をし、このような者こそ軍隊で矯正して欲しいと思ったのだ。
 しかし田中義一が嘆いたように、軍紀は弛緩していた。

 『日本共産党の研究』によれば、日共が発足した1922に「二二年テーゼ」がつくられており、そこですでに「天皇制の廃止」は謳われている。それも、筆頭に。
 日本では共産党員は死刑になるのを恐れた。死に物狂いになるほど日本の大正時代は悪くなかったのだ。

 福本らがモスクワに呼びつけられると、いつ殺されるかわからないような雰囲気だった。そこで押し戴いてきたのが「二七年テーゼ」で、これによって党幹部たちは拳銃をもって警官を殺さなければならなくなる。

 なぜ田中義一は治安維持法を改正して最高刑を死刑にしたのか。昭和3年になると、いかに大正ボケした迂闊な日本の指導者層にも、コミンテルンとその支部の日共が何を本気で意図しているのかが誤解なく悟られてきたからだ。

 野呂栄太郎は重症肺結核だった。どこにいても死んでいた男。
 共産党員というだけでは死刑にしないようにしようじゃないかと決めたのは、田中清玄によれば、中堅~若手の検事団。彼らは自由主義的で国際的視野もあった。
 田中義一は死刑を求めた。が、検事団が反対しぬいた。

 農地改革は戦前すでにその萌芽はあった(p.160)。
 昭和元年の共産党幹部は年長の佐野が33、ミヤケンは17である。2.26の青年将校は、年長の西田が34歳、栗原は27だ。維新時の西郷は40、大久保は36、伊藤は27である。
 立花いわく初期日共に組織論も運動論もなく、特高の掌の上で踊らされていたと。

 S3以降に治安維持法で一斉逮捕された日共党員のS6年の裁判は公開とされ、被告は共産イデオロギーの宣伝以外の陳述は自由に許された。それを新聞も連日報道した。多くの被告党員はクートベ(東方労働者共産大学)に留学しスターリン治下のおそろしさが身に沁みていたので、日本のほうが良い国なのではないかと考えるに至り、佐野学以下、つぎつぎに転向した。

 S7年11月の大森銀行強盗事件の背景は何か。大陸で国民党と中共の角逐が熾烈化し、極東のコミンテルンが地下に潜らざるをえず、モスクワから日共への資金の流れが中断したためのジリ貧から。
 清張は庇っていたが、立花本により、スパイMの謀略などというものはなく、これら破廉恥事件はすべて日共が日共の方針として起こしていたことがはっきりさせられた。
 昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件。

 露清密約を日本が知ったのは1922のワシントン会議のとき。
 袁死後、黎元洪が大統領に。すると1917に張勲が北京に攻め上り、清朝を復辟。それを安徽省の段祺瑞が討った。1920、安直戦争(直隷=北京周辺地のこと)。直隷派のボスの呉佩孚は、張作霖から援軍を得て勝つ。1922に張は満州独立を宣言。続いて張は1923年に北京をうかがうが、直隷派に撃退される。24年、容共親ソの馮玉祥が奉天(=張作霖)側について、張が北京を支配。

 溥儀の帝師だったジョンストンは1934に書く。「遅かれ早かれ、日本が満洲の地で二度も戦争をして獲得した莫大な権益を、シナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する者は大勢いた」

 溥儀は東京トライヤルで「覚えがない」などと否定したが、ジョンストンの本に序文を書いた上で御璽を2つ、押してある。つまり「実印つき」の一級資料なのだが、実印のない国が構成した極東軍事裁判では証拠採用されなかった。

 浙江財閥は、米国でキリスト教徒になった宋耀如がシナでの聖書販売権をもって帰国して成り上がったもの。米国は浙江財閥と姻戚関係ある蒋介石を頼んでシナにて英国と張り合おうとしていた。
 蒋介石の南京政府が1927に英日から承認されているのは、揚子江を押さえていたから。

 清張いわく、田中メモランダムの全文を見た者はないのに、なぜ竹内好[よしみ]は昭和40年1月の『中国』に全文を公表しているのか。
 日本は日露戦争後、満洲を清国に返しているし、清朝がつぶれたのちも、張作霖の満洲支配を黙って見ている。

 清張いわく、1924に北京の主となった作霖の得意や想うべしだ。日本のいうことを聞かなくなったのは当然だ。
 ※つまり清朝の後継王朝を自分が創始できると考えた。日本軍は彼が満洲で反共防波堤になることしか希望しなかった。無学な彼を日本のエリート軍人が随意に操縦できると思っていたが、馬賊の頭目がそんな愚か者であるわけがない。ところが日本の官僚は、自分が有していない能力、つまり受験テクニック以外の器量についての想像ができない。馬賊は無筆である。試験エリートにはなれない。しかし多人数の頭目である。無法の荒野で大勢を従えられる人間には、試験では測定できないずばぬけた「器量」があるのだ。そこが、器用なだけで器量の無い日本の軍官僚には分からない。無学な者はエリートが操縦できるし、もしも操縦できなかったら殺してしまう資格が自分たちにはあるだろうと軽く考えた。満州に限らない。多くのシナ人はどうしようもなくとも、少数のシナ人には日本の役人には無い器量がある。東南アジアでも同じである。それを想像できないのが日本の役人たちだった。「程度の高い土人」とまともにつきあえなかったのが日本のエリートの失敗だ。

 最後の御前会議で鈴木貫太郎が天皇に判断を丸投げしたのは、立憲君主制では絶対にやってはいけないことだった。
 28年の爆殺事件は、溥儀が満洲に入る、その露払いの事件だったのではないか。

 佐分利は一高でボート部。将来、大臣になれる可能性が高かった。幣原外相が駐支公使にした。幣原のペット、なる見方は当たっており、内地では不評だった。護身用の小型ピストルをもっていたが、それは自殺現場にあった大型拳銃とは違う。
 蒋介石政権の中枢にいて、条約破り外交(革命外交)を推進していた外交部長・王正廷のいいように交渉を進められ、国府に与えてはいけない言質を与えてしまったのが自殺の背景とされる。
 あるいは、公には申し開きのできない素性のカネをシナ側から私的(たとえば女関係)目的で受け取り、それを誰かに知られてしまったのではないか。

 天理研究会の大西愛治郎は、天皇はシナ人が日本にやってきてなったのだとの教説を垂れていた。さらに天皇は不徳なりとも言い切った。そして自分が天皇に代わるべきだとまでうそぶいた。不敬罪と治安維持法違反で逮捕後も持論をひるがえさず、一、二審とも懲役四年。上告し、大審院では心神喪失で無罪。これのどこが暗黒か。

 キングになるには正統性が必要で、だからナポレオンはフランス国王ではなく、皇帝になった。日本の天皇も国王であって皇帝ではない。
 昭和天皇は、「機関」のかわりに「器官」の文字を用いたら問題ないといった。本庄は天皇の意を体してこれを世間にリークさすべきであったのにしなかったから、美濃部が襲撃されることになった。
 当時の人も、政友会の機関説攻撃は異常だと思っていた。だから昭和11年の総選挙では民政党が躍進している。これのどこが暗黒か。

 大正元年の第三次桂内閣は、組閣手続きが非憲政的だとの護憲演説だけでつぶれている。
 野間清治はローマとイギリスを念頭して雄弁を日本に定着させむと夢見、明治43に『雄辯』を創刊。これが1万6000部売れた。漱石の『猫』すら1年で1万部しか売れなかった頃だ。翌年には『講談倶楽部』(講談の速記本)を発刊。
 佐々木邦の短編『閣下』に、海軍将校のなかに、出仕時には背広服を着て、本省で軍服に着替える者がいるが、陸軍にはまだそんな不心得者はいない、と元少将が嘆く場面がある。

 昭和5年のホーリー・スムート法が1929の株式大暴落の原因だ。1年で世界の貿易量が半分に減れば当然だ。
 つづく昭和7年のオタワ会議をみて石橋湛山すら、ブロック経済の行く末は戦争だと予測した。
 清張いわく、47歳の老先輩が、ほんらいは若い者がすべきテロをやったというので青年将校らは発奮したと。

 鈴木侍従長の妻は昭和天皇の乳母。鈴木本人も昭和4年から侍従長。2.26で天皇が激怒するのは当然だった。
 真崎の後任の教育総監の渡辺大将は、軽機と拳銃でさんざん撃たれ、軍刀でも一太刀斬られた。※2.26死亡者のなかで、最もハチの巣にされた人ではないか。いかに真崎が事件の動機であったか。

 高橋是清は布団の上で拳銃に撃たれ、さらに肩に斬りつけられ、右胸を刺された。
 高橋が生きていたら、日米の石油問題はどうにか解決したはずだ。
 宮城を警備していた大高少尉は中型モーゼル拳銃。闖入してきた中橋中尉はブローニングの大型拳銃で、そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしていたので疑惑をもたれた。

 清張川島陸相を評していわく、歴代中、おそらく最低の陸軍大臣、と。
 真崎を有罪にすれば皇道派は潰せるが、国民に反軍感情が起こると統制派も損だと。
 2.26当時、外地の満洲にいた南次郎大将もなぜか責任をとらされ、予備役に。これで現役大将は、植田、西、寺内の三人になった。

 広田内閣は寺内寿一のゴリ押しで閣僚入れ替えをして船出したが、私学出身の浜田代議士とのハラキリ問答に破れた寺内のゴリ押しによって瓦解した。官僚出身の広田の内閣が日本の立憲政治を葬った。

 2.26がまた起きるという恐怖が文民を金縛りにした。2.26がおきたのは5.15の殺人犯の刑が軽すぎたからである。犬養総理を殺して6年で出所しているのだ。これら凶悪犯を世直しの志士とマスコミがもちあげたのは大不況のせいだった。その大不況はマルクスの予言が当たったと解釈された。しかし実は原因はホーリー・スムート法なのだ。
 米英はブレトンウッズ会議で戦後、自分たちの誤りを認めている。自由貿易が世界的ルールになった現在、日本社会にはマルクスは必要ないし、日本が他国を侵略する可能性もゼロである。

 ※兵頭いわく、桜田門外のテロの成功で幕府の権威は地に堕ち、幕府の消滅が決定されたようなものである。2.26はまさしくそれに匹敵する。しかし2.26や5.15が起きたのは日本の内務省の警察武力が近代国家として貧弱すぎたからだった。一弾も反撃し得ずして警視庁ビルを明け渡し、それで切腹人も出ていないことの方が問題だ。日本は本州の東北と北海道の工業化をパスして外地に何を求めようとしたのか。石油を禁輸されたのはホーリー・スムート法とは関係がない。

▼国立歴史民俗博物館監修『人類にとって戦いとは』2000-4pub.

 ※「大坂夏の陣図屏風」の部分を挿絵に掲げ、いかにも兵隊は女を手篭めにするものなんですよ、と言いたげであるが、左翼らしい浅さである。この屏風に書かれているのは身分のある女で、だから両手をとって誘い、あるいは馬に乗せようとしているわけである。目的は後日の褒賞である。身分のある女と下賎の女は、当時は誰でも一目で区別がついたのだ。

 岩畔いわく、北支では規律があった。が、戦線が中支、そして南支に移ると、いまわしい情報が中央部まで聞こえ、戦陣訓のようなものを出すしかないと阿南陸軍次官に進言したと。また岡崎清三郎・教育総監部総務部長は、「某師団長の北支・中支における乱暴さは、松井石根総司令官をして、この師団を内地に帰さない以上は中支の治安は良くならぬと言わしめた」と。

 ドナルド・キーンが日本兵の戦死者のポケットから集められた日記を分析する仕事をしていたことは、鴨下信一『面白すぎる日記たち』1999に書いてある。

 『日清戦争従軍秘録』を書いた濱本利三郎は松山中学の夏目の同僚で、『坊ちゃん』の体操教師のモデルとされる。50名中35名が死んだ戦闘の生き残りで、凱旋後も数年間はその悪夢で飛び起きていたという。

 「一個師団のなかで、三人しか生存者がいなかったという激戦」(p.132)が203高地であったなどと信じている研究者が、兵隊日記を見て何を語りたいのか?
 1891に「輜重輸卒として入隊」(p.134)する兵隊などいたのか? 輜重兵ではないか?

 雷管式小銃がその威力を実証したのはアヘン戦争。
 シナ事変では二度目の補充あたりから「郷土聯隊」の建前は崩れた。他地域から混ぜるようになった。

▼石田龍城『戀の江戸城史』S9年5月pub.

 千姫は、お附き老女の刑部卿の局が手引きして大坂城を脱出した。徳川の間者であったのは当然である。

 ※坂崎出羽守(石州濱田1万石)は、ほんとうに槍一本で救出などできたのか。二代の娘が小名に嫁すわけもない。

 お留守居役と銀座役人は遊郭の保護者なり。
 お目付け1000両、長崎奉行は3000両(賄賂の相場)。
 「飛脚の野郎が巡礼に何んだか耳打ちをして、駈出しましたが、その駈け方と云つたら、全つきりなつてません」

 上履きの下駄のことを浄木[じようぼく]という。新興宗教の礼拝堂にはこれを手に抱えて集まる。
 遊女の出産(避妊失敗)率は案外に高かった。ここから考えて、武家の間ではかなり高率で水子殺しが行なわれていたのだと推定できる。

 11月、3000石の豊島刑部は、城中の廊下で、老中の井上主計に短刀で抜き打ち、肩先深く割り込んだ。二の太刀で胸を貫いた。
 つづいて藤森久兵衛に羽交い絞めにされたので、刑部は自分の胸を刺し貫き、その短刀が藤森の胸も刺し通した。

 本多正信は武功はなかったが家康から好かれていた。同輩の妬みをおそれて、5万石で満足していた。ところが子の正純はばか息子で、家康から宇都宮の15万石をうけてしまった。
 天井を二重張りにしたのが、いいがかりの一つの理由となった。

 松平定信の改革も、御側御用人の本多忠壽との提携がなければ不可能だった。
 将軍につく女中が「中ろう」もしくは「手附中老」。
 中ろうの大ボスを上ろうという。その出自は堂上家の姫君であり、姉小路、花町、飛鳥井、萬里小路などの役名がついていた。
 じょうろうのすぐ下に、中間管理職の「お年寄り」がいる。旗本の娘。

 御台所につく女中は「お清」。この人たちは容貌の悪いものが選ばれており、将軍のお手はつかない。
 大奥をクビにするときは「近来勤め向き思し召しに応ぜず」で、永の暇にできた。

▼司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫・新装版 1巻 2000年(6巻まで同じ)
 山伏の杖は「犬追いの錫杖」。

 武家も庶民も成人儀式まで下帯(褌)をしないのが江戸期の習俗。北方に褌はなく、日本は南方文化であった。褌祝=へこいわい。
 この庶民風俗を武家では格式ばって「元服」といっているだけ。

 若衆宿もシナ、朝鮮にはない。南洋習俗だろう。稲作と漁労という点で揚子江以南の楚、呉、越が倭人に似る。楚、呉、越の言語は古代タイ語系だったらしい。

 ひとつ村の異なる字ほど仲のわるいものはない。「このような社会意識は、あるいは日本だけの特殊現象ではないかと思われる」。
 忠義は人形浄瑠璃を通じて庶民に宣伝されていた。

 農業兼業なら漁労は沿海のみですむ。遠出の必要はない。だから逆に農地ゼロの漁村が遠洋に乗り出すことになる。
 蜂須賀氏は収奪が過酷で、領民は最後までなつかなかった。

 船上ではすべての言葉に耳を澄まさねばならぬ。よって無駄口は禁忌である。

 網元は社会保障の責任者でもあり、不漁時のめんどうをみなければならない。しかも天候に左右される。だから三代続くことはない。
 人別帳から抜かれた無宿人は、互いを石州とか備中とか呼ぶ。コジキ仲間でもそうである。

 兵庫港は小さい川しかそそがないので堆積がなく、深い。しかし後背に大農地や大市街が開けない地勢のため、大坂に負けた。
 北陸米を陸送で上方に送るときは馬の背に2俵づつのふりわけであった。

 幕府は500石船までを公許。この頃は商船は1000石以上まで黙認。
 紀州、淡路、四国の言葉がきたないのは、敬語・ていねい語が発達しなかったため。その理由はおそらく南方の無階級文化が残ったことにあろう。特に海浜がひどい。

 「江戸期もこの時代までくると、むかしの船のように順風だけにたよっているのではない。横風であろうが逆風であろうが、たった一枚の帆と舵を奇術のように操作することで帆走してゆくのである」(p.245)。
 そのために大きな舵が必要だった。

 苗字帯刀の帯刀は大小である。
 近衛は苗字であり、その上に氏として「藤原氏」がある。九条、三条、三条西、みなおなじ。
 藤原氏の分流で加賀介になれば「加藤」の苗字をつくる。伊勢なら伊藤。
 地名を苗字としたのは、開墾地主が土地所有権を主張するため。
 北条荘をひらいたから北条家になる。

 上方では冬でも日に何度も打ち水をする。商品にほこりをかけないためである。
 ジャンクは枡を3個縦にならべた構造で、枡から枡への通行はできない。シナ語で船をチュワンといい、それがマライ語で訛り、さらにポルトガル人がジャンクと紹介した。

 家康は、西国大名が鳥羽港から江戸を襲うのを警戒した。鳥羽城主が500石以上の船を集めて淡路島で燃やす役目をおおせつかった。

 1730成立の樽廻船は菱垣廻船と同航路だが、灘の清酒を江戸に早く運ぶ専用貨物運送業である。菱垣はつみこみに7日以上かかる。樽は1日で終わる。
 樽はシナ・朝鮮にはない。
 桶は古代にはなく、「曲げ物」に液体を入れた。神社の手水柄杓を大きくしたようなもの。
 日本の樽は灘の酒造業者の発明だろう。すぐに四斗[しと]樽ができた。
 関東の酒がまずいのは、火山灰地で水がまずいため。

 江戸は釘までを関西から輸入していた。
 海水を嫌う絹は陸送された。
 難破は多い年で1000艘もあった。

 旗本の家来、大名の足軽まで武士だとカウントすると、江戸時代は10人に一人が武士だった(p.340)。
 江戸初期の人口が1500万。うち、150万が侍。

 元和偃武の結果、各藩はしごとひとつに吏員御同役3人をさだめ、三番勤め(3日に1日出勤)としてワークシェアした。
 同心は、足軽なので、勤務中は袴をつけない。

 行政の請け負い組織が発達していたので、わずかな与力・同心で統治できた。
 兵庫から江戸まではふつうは10~30日の航海だが、風がよければ無休で3日で着くこともある。

 右へ70度、ついで左へ70度。これを「間切る」という。(p.381)。
 風をななめに帆に当てるのを「ひらく」という。
 船首を風から遠ざけるのを「おこす」という。風上に指向するのを「詰めびらき」という。
 これらの技術は瀬戸内で発達した。
 飛脚は1店から月に3度、出ていた。江戸日本橋から京三条まで6日で走るのがきまり。

▼第二巻
 戦国期の南蛮船の帆は亜麻。
 木綿を二枚あわせたさし子の帆は手間かかるわりに破れ易く、水で重くなり不利。
 廻船問屋は多数の人を切り盛りせねばならず、投機的でもあり、子孫はうまく継げない。

 こんぴらの語源はクンビーラで、インドのワニである。
 舟虫は船の敵ではない。船食虫が害虫。筆の太さで白く、長さ30センチになる。海水で呼吸している。そこで江戸期の船は淡水に碇泊しようとする。また冬は陸揚げして船底を火でいぶす。

 船が衝突した場合、風上側の責任が重い。

 オランダは九州より狭いが、誰もそれを知らない。識字率は欧州一であった。
 船の1トンは昔の10石と換算すればよい。
 つまり千石船とは100トン船にすぎない。

 和船の舵は多数の綱で吊ってあった。河口の浅瀬まで入るため。
 鰹は鰯を追う。干すと固くなるので、かたうおといった。

 熊野には古代から水産社会がある。紀州船はどこの沿岸にも入会権を主張できた。
 熊野人は山育ちでも海をおそれない。

 近代資本主義がないところでは会社は血縁でやるしかない。
 「信用」は農村の徳ではない。漢代に五常として「信」が加えられたのは、広域商業のせいではないか。

 西鶴は日本永代蔵のなかで、シナ人の「云約束」がたがわないこと、品物にこすいごまかしをしないことを絶賛している。
 のれんの信用が日本で言われるようになったのは幕末のこと。

 しごとは「段取り八分」

 八戸の町医、安藤昌益(1703~62)は、いっさいの支配者のいない世を「自然世」とし理想視。※ルソーの本が1750年代に出ているから、その影響だろう。
 水戸藩は他の2家にくらべて石高が半分だが格式維持のため出費がでかい。そこで農民を苛斂誅求した。商品生産は顧みられなかった。ところが偶然の地理から那珂湊が水戸城下以上に発達して助かった。

 津軽藩の城は弘前だが、内陸。そこで無人に等しかった浜に港をひらき、青森となった。
 日本海をきたのうみといった。波の底辺が短く、するどくとがっている。
 大型和船の最盛期は明治30年。

 シナ語には「いじわる」「いびり」に相当するものがない?

 あかを排水するのに「すっぽん」とよばれた水鉄砲があった。※スポンジの転訛?

 嵐の夜は、落水者を見捨てたといわれないように、艀、または板を数枚、放り込んで去る。
 朝鮮には貨幣がなく、商船がなく、したがって漂流船もほとんど出さなかった。

 かみぶすま、とは、仙花紙の袋のなかに、砧でよく打ったわらを詰めた布団。江戸末期でも綿布団を買えない町人はこれであった。

 商人が遠国者と交話するときは浄瑠璃の敬語を使う。武士は狂言。

 帆柱は江戸のある時期から寄木になった。細い材を鉄環でたばねてある。これはオランダ船の帆柱よりすぐれている。※オランダ風車の軸がこの方式ではないか。

 けやきのことを、関西では槻・つきという。
 滑車・せみの材は、桜か欅でないと、摩擦で発火する。
 出戻り、は船言葉だった。

 門を構える許可はふつう、苗字帯刀権をともなった。
 すでに売買文書が一般だったので、無筆では船頭にはなれない。

 帯刀を許された百姓でも両刀を帯びるのは婚礼、山の管理などのときだけ。旅行は脇差のみ。
 砂鉄を精錬するものを「ムラジ」といった。

 苗字はなくとも定紋はかならずあった。
 昔の剃毛は、温湿布でぬらしておいて、いきなり剃刀。

▼第三巻
 サメのことを関西以西ではフカという。
 柄巻きのサメ皮は南方のアカエイ。

 なまこやあわびは清国沿岸でもとれた。フカヒレも。それをわざわざ長崎に買いに来た。いかに清国が内陸主義帝国であったか。人民が海に出ることを警戒し、沿岸の漁業従事すらも許さなかったのだ。

 肉体が痛いと他人のことを考える余裕はなくなり、徳がなくなる。だから商人の親玉は病気になったら引退すべきだ。

 鬢づけ油は、ゴマあぶらかなたね油に、蝋、竜脳を加える。
 旗本に雇われる最下級侍の年俸が3両1分。よってサンピンという。

 トンは、英国がフランスから葡萄酒を買うときに樽を叩いて数えた音から。
 柱は杉の心材の周りに細く割った長い檜を巻いて鉄環でしめた。
 706年の遣唐船の1隻は「佐伯」という名だった。
 律令政権は、地方権力者が稲作をうけいれればそれでよしとした。
 北海道のことを古くは「わたりじま」と。

 松前氏の祖先は武田信広。コシャマインを斃した。
 鰊(アイヌ語)のことを和語でカドという。カドノコが訛ってカズノコ。
 松前藩だけが鯡と書いた。さかなにあらず、コメと同格という次第。

 若狭湾→琵琶湖北岸→大津。このルート上に発達したのが近江商人。
 1669に松前藩はシャクシャインを毒殺。

 安藤昌益は将軍も商人もことごとく盗賊だと。
 青森の「十三」と表記される地名は、むかしは「とさ」だったとさ。
 昭和30年に江上波夫らが十三湊のアイヌのチャシ(城)を発掘した。
 平安後期、東北は平泉藤原氏の半独立国だった。それを安東氏が継承。
 津軽海峡の潮流は3.5ノット。

 1万石大名は城はゆるされず、陣屋もち。松前は幕末に家格があがったので、最後の築城ができた。
 百石以上の船は寿命が15年。北前は年に2航海くらいしかできぬ。それ専用船を造っても20往復で寿命が尽きる。
 幕末の函館山は薬師山とよばれていた。

 旗本の御普請役は家禄だけがあって役料がない。よって家計は苦しい。無役と同じ。
 ○○番とはすべて戦争役。
 幕府には「縄・竹・残り物奉行」なんてのもあった。

 コサックは黒貂をもとめてシベリアに来た。貂を獲りつくしたのでラッコに切り替えた。ラッコは北太平洋にしかいない。
 松前藩はアイヌに和語を学ばせず、農業も禁じた。山丹への人身売りまで強いていた。 ラッコの毛皮の特徴は、なでると毛がどちらにもなびくこと。

 最上徳内は農民だったが定信が直参に引き立てた。
 都市では商品経済のため道徳価値観は相対的になるが、農村では道徳教育は純粋まっすぐ君を生む。

 鰯も金肥だが、鰊粕にくらべて効果が低い。よって安い。
 幕府は薩摩藩には海路の参勤交代を許さなかった。

 1796に英船が噴火湾のアブタに停泊した。
 室町商人は茶と美術品。江戸商人は学問に数奇を向けた。
 明治の勅任官は、幕末の三千石・無役。

 厚岸に最初に入った洋船は寛永年間のオランダ船。
 幕府は大名をクビにできる。しかし藩政に口出しできない。

 「嘉兵衛は、目がくらむほど腹が立ってきた」(p.340)

 厚岸は直径30センチの牡蠣の死骸がぶあつく堆積していた。牡蠣がアイヌの冬の食糧になった。
 アイヌの家屋は草でつくられていた。
 大名の弓術師範は容儀端正(p.394)。

 巻末解説。逃げ込み所のない長汀を海の者が灘と名づけた。これは陸の者の呼称ではない。
 醸造酒は半年でまずくなる。西宮の水をつかうとその期間が先延ばしされた。六甲山地地下の貝殻層で硬水化し、さらに西宮地下で海水に混じるためらしい。
 西宮水は石鹸の泡立ちが悪い。庭石に苔がつかない。
 この水は、海岸から200~400mに湧く。その範囲外では清酒造りの原料に不適。

▼第四巻
 古代インドの一部族、そして東アジア騎馬民族のすべては、一種の月代をし、弁髪にする慣習があった。シナ人だけがそれをしなかった。

 定信が科挙を始めた。湯島で幕臣に受験をさせ、成績次第で登用した。
 科挙と違うのは、幕臣と与力と地方代官の地役人に受験資格を限ったこと。

 探検ベテランの徳内は四月中旬にエトロフにわたった。
 板に縄を通す穴をあけるときは、焼け火箸を使う。
 アイヌの櫂は穴があり、それを舷側のヘソに固定して漕ぐ。アッサプという。
 岬をノッケという。野付崎。

 道東北部では南風が霧をもたらす。西風で晴れる。そして西風はめったに吹かない。
 澗・ま。逃げ込める小さい入り江。

 シナ皇帝は宇内の唯一のぬしである。よってモンゴル人がシナ皇帝になったとすれば、その故郷は以後永久にシナの「版図」であると考えられる。また清朝が成立したことで、満洲と沿海州とシベリアも永久にシナの版図になった。これは西洋の領土観とまるで違う(pp.125-6)。最上徳内の千島日本領説はこの同類だった。

 版は戸籍、図は地図。土地支配ではなく、その人民を畏服させると、土地が版図になる。日本のヤクザの「シマ」意識と近い。

 対馬藩は朝鮮王から官位をもらって冊封をうけていた。これを根拠に李承晩も対馬の領有を主張。

 皇帝に発見した土地の地図を贈る。これが西洋人の「領土発見」の儀式。
 狩猟民族の特徴は、土地への執着がないことと、歴史を書かないこと。
 千島の島の名がことごとくアイヌ名であることは確か。
 ピョートル在位は綱吉~吉宗期。
 ロシア人はバイカル湖で遠洋航海の訓練をした。
 北千島には、北海道で滅んだ古アイヌ語が残っていた。

 黒田が榎本を海軍中将にした。とうじ、大佐以上の海軍人はいなかった。これは外交官としての格式をつけさせるため。
 旧幕の旗本は容儀が堂々としていて対外劣等意識がない。だから薩長人よりも外交に向いていると判断された。

 日本の幕府は直轄領は500万石にすぎない。また、加賀の102万石大名も、土地を私有していたわけではない。徴税権、人民支配権があっただけ。これは西洋の貴族や王族とはことなる。
 樺太と千島の交換は、ロシア側から働きかけた痕跡が明らか(p.177)。
 エトロフにはもともと蝦夷人が700人しか住んでいなかった。鍋一つ無く、20代で老人化していた。

 与力は町人相手に生涯を送る、特殊な武士。町奉行支配。
 日本最大の長崎港にすら、埠頭や桟橋はなく、瀬取りであった。荷揚げのための石積み足場だけはあった。
 ジャンクの断面はU、和船はVで、和船は荷物がないと安定しない。
 サシは東北で岬のこと。

 津軽半島、つまり左の半島の陸奥湾沿岸では潮が南流する。
 津軽海峡は、周年、不意に南東風(やませ)が襲う。

 囲炉裏は下賎とされ、松前の高級武士宅では火桶で手をあぶるだけだった。さすがに一室だけ、塗り籠めの間があり、冬はそこに籠城。一酸化炭素で頭が痛くなる。

 伊能忠敬は測量の旅で1日32キロあるくこともあった。杖先に羅針がついていた。夜は星を天測して緯度を測った。

 エトロフの沿岸魚はオホーツク向きに多く、太平洋向きは少ない。
 羽太正養『休明光記』によると、エトロフのアイヌは酋長は獣皮を着ているが、他は鳥の羽をつづったもので、ひどい者は草をあつめてひっかぶっている。15歳以下は冬でも赤裸である。小屋はあるかなきかで穴居同然である。

 鱒の夏の遡行がものすごかった。灯明用の油をしぼり、残骸は肥料にする。天日で乾燥させ粉々になったものを上方に運ぶ。

 船頭は宋代のシナ語。
 野差し=長脇差。
 陪臣、つまり諸藩の藩士が幕臣の前に出るときは、たといこちらが家老であっても、丸腰になる。大名と旗本だけが、将軍の直々の臣だからである。

 苗字帯刀御免の町人は、町人まげのまま大小を帯びて役所に行き、その大小を玄関であずけて、丸腰で奉行に対面する。

 嘉兵衛の船の一つは『福祉丸』(p.371)。
 巻末解説。「め」は海藻のこと。みるめ、わかめ。めかり神社。昆布だけは別格だったので、めがつかない。

▼五巻
 天領と郡代は、勘定奉行の配下。勘定奉行は常に4人いた。
 井上靖が『おろしや国酔夢譚』を書いた大黒屋光太夫は嘉平より18歳年長。死んだのは光太夫の方が一年あと。
 間宮林蔵は生涯独身。

 露米会社は、東インド会社の真似。
 1779にオホーツクに津波あり、ウルップの山に船が登った。

 元の貿易政策の反動で、明は銅銭を農村で使用させず、自国民の海外渡航を禁じ、小船ですら海に出ることを禁じた。同時期におこった李氏朝鮮ではさらに徹底していた。

 幕府は八王子同心の厄介(2、3男)100人を寛政12年に屯田兵として蝦夷地に入植させた。が、地理に適応できず、数年で壊滅した。

 農奴制のロシアからはどうしても水兵・水夫が供給され難かった。地主は裁判権すらもっていた。その逃亡農奴がコサックになった。
 シビル汗国がシベリアの語源。

 クロンシュタットは首都をまもるための軍港。
 1700ころ、大坂商人は江戸のことは「いえんど」と発音していた。「いしだ」のことは「いしんだ」、「おおさか」は「おさか」であった。

 ピョートルはスウェーデン軍の捕虜を大量にシベリアに流した。
 江戸時代に人頭税はない。薩摩だけ例外だった。

 ポーランドはカトリックゆえ、ローマで起きた進歩はすぐに伝わった。ロシアには、ルネサンスは伝わらなかった。
 ロシアにドイツ人やスウェーデン人が多いのは、新教を守らんがため。

 オランダが対日貿易で英国に勝ったのは日本の需要を調べて知っていたから。英国人は毛織物が日本にも売れると思い込んでいて敗退。

 エカテリーナ2世の次のパーヴェル1世は貴族たちに暗殺された。
 英国商船は100トン未満でも米国西海岸と広東を往復できていた。
 フリゲート艦は船団護衛用の快速帆船のこと。20~50門で武装。日本ではフレカットと書いた。

 ロシアの国書は皮革に金で書いてあった。
 1803、光太夫は、ネヴァ川で二人乗り気球を見た。
 執権北条氏のことを人々は公方とよんだ。
 スペインはカリフォルニアを鎖国させて交易を禁じた。

 ハワイ大学のステファン教授が書いた『サハリン』には、洞富雄の「少くとも北樺太が中国の領土であったことは明白である」説が引用されている(p.241)。

 ダッチハーバーはウナラスカ島にある。
 アリューシャンの聖パーヴェル島は原住民の抵抗が強く、ロシア兵が6人死んだ。
 バラノフ島は全島が針葉樹林。

 砲1門をもつ十数人のロシア兵に200~300人のエトロフ守備の南部藩士は火縄銃もありながら、なすすべがなかった。この報が伝わって奥羽~江戸人は非難した。
 幕末の艦砲は水平直射のみ。※だから土手で低く守ることは有効だった。これを補うためにロケット弾があった。
 シベリアは冬季にソリで旅すべきところであった。

 嗣子に役職に習熟させるためには、親が40歳のときに家督相続させねばならない。
 つまり武家や商家の息子は30歳前に家督をつぎ、家業である役職に乗り出す。
 社会的年齢の成熟と老化が早いのが江戸時代だった。それに応じて、人物の挙措動作や風貌も45くらいで老人化したのだ。

 農本政策をすすめている幕府が交易するわけにはいかなかった。諸藩はフリーだった。 巻末解説。銚子、は、海から見た河口の形態のことで、平安時代からある。

▼第六巻
 咸臨丸のブルック大尉の日記に、塩飽諸島からあつめた水夫の無秩序、卑屈、臆病ぶりが活写されている。

 カムチャッカに広域社会なし。家族と村だけがあった。
 さしものロシア人でもカムチャッカでは農業は不可能だった。
 カムチャッカ人は魚を穴で発酵させ保存食にするしかなかった。これはひどい匂い。

 ペトロには1人の士官と50人の兵しかいなかったが、大砲が24門あり、これは加賀藩より強力であった。
 その大砲訓練は毎日していた。小銃はたまにやっていた。

 ナポレオン軍60万のうち遠征軍は42万、うち仏人は30万。ロシア軍は21万で迎え撃った。
 ロシア海軍は、農民→水兵→将校の道をひらいていた。ただし貴族出身者のような教養の余裕の無いギスギス者が多かった。

 ロシアでは軍人が軍服のまま文官職を務めた。
 「小舟には、使者をあらわす白い幟がひるがえっている」(p.394)。

 単行本のあとがき。 古浄瑠璃の『頼光跡目論』は、実子よりも有能な実弟を2代目の源家棟梁にしようとする話。そこに渡辺綱のセリフとして「真向をたゞ一打ちの勝負なり」と出る。

 ※司馬氏の後期の作品だが、貴重な情報の数々が、長くてつまらぬ小説の中に散在しているために、読みながら脳内での切り替えが大変だ。これをなぜわざわざ小説仕立てにする必要があったのだろうか。「このシーンをどうしても小説で書きたかった」という部分がどこかにあったのかもしれない。

▼安倍公房『榎本武揚』S40=1965年7月pub.
 ※60年安保さわぎ直後の作品で、とうじの左翼運動の中に「わざと敗北する」ことを狙った裏切り者がいるのではないかという思いが、函館戦争前後の榎本の事蹟に関する疑惑物語としてぶつけられている。すばらしい日本語の文章を書く著者も、人格は小児的なレフトであったと了解される。

 厚岸に戦争中のちっぽけな砲台の跡あり。
 榎本は明治2年から5年まで東京の監獄。
 榎本の銅像は終戦後、「追放」されなかった。

 霧は灯火の遠近をわからなくしてしまう。遠いのに近く感ずる。
 兵部省糺問所、つまり軍法会議。

 昭和14年ころ、西園寺が石原莞爾を憲兵司令官にしようという運動があった。※東條一派とヤルかヤラレルかだった。

 退屈な者にとってのカミサマは、おおむね信じている本人の似顔にすぎない。
 階段のカドをけずって丸くしたら階段の機能は悪くなる。

 嘘は早足、眞は鰐足。
 著者いわく、土方いわく、剣の極意は、信念を切る。わが信念だけは、ぜったいに切らせてはならぬ、と。
 直参の近藤を切腹させなかったのはおかしいと。

 幕府脱走兵は竹刀胼胝が隠せない。
 徳川氏のけんぞくは維新後、アメリカの蒸気商船で駿州にピストン輸送された。あっというまにいなくなった。

 榎本は裏切ってわざと負ける戦をしたのだ。だから仲間から暗殺されるのをおそれて辰口の番所に避難しているのだと。
 大鳥いわく、榎本入所していらい、ここも封建が郡県になったと。
 牢内では一と六の日に入浴させていた。

 土方は、榎本を嫌ったが、大鳥をば憎んだ。
 大鳥は英人エストワン著のメリケン合衆国南北戦記を獄中で読んだ?
 榎本は米国留学のはずだった。が、内戦のためオランダに行き先を変更した。

 大鳥は志願の無頼町人から5尺2寸以上のものだけ選んで仏式に訓練した。
 福地源一郎『懐往事談』、1867の11月。米、仏、蘭の3公使は、こと定まるまで前将軍を主権者とみとめ、マゼステーと称することを主張。英公使は反対し、京都こそ主権者で、EXタイクンのことはハイネスの敬語がふさわしいと。英仏間の口論を福地は近くで聞いた。

 1867-12、近藤は左肩に銃創を負う。
 ペリー来航から明治元年のあいだに物価はほぼ10倍になった。※このインフレは開港貿易のせいだろうか? 政策だったのではないか?

 海舟いわく、大坂から逃げ戻ってきた慶喜は洋服で、刀を肩からかけていた。
 大坂城からは、書類、刀剣、古銭20万両だけを運び出した。※刀剣にこだわるのは、それが象徴的戦利品として宣伝されるからだ。

 1868-1 英米仏伊蘭普は中立宣言。
 毛虫の皮に帰る蝶はいない。
 雷は十里の外に聞こえずというが、火薬の爆発音はもっと遠くまで聞こえる(p.111)。

 内戦の早期終結をはかっての八百長戦争じゃないか、といいたい。
 戊辰戦争当時は「敵を殺せば、腹を裂いて肝臓を食ったというような時代だった」(p.206)。
 「当節流行のプラモデルではない」(p.207)。

 榎本は、官軍も自分たちと同様、鷲ノ巣(八雲の手前)や室蘭の方に上陸すると思っていたのに、江差にきたので裏をかかれた。
 開陽丸が沈んでいるので、そこは官軍も敬遠するだろうと考えたかったのだ。
 江差を攻めようとした土方軍をなぜ軍艦で運ばなかったのか。これ疑問。

 榎本が釈放されるとすぐに北海道開拓使になり、晴雨計を函館に運んだ。これが日本最初の測候所だ。
 大鳥が、フランスと組むことに反対した。それでは英仏戦争になるだけだと。
 函館戦争で『蟠竜』は砲弾を撃ち尽くして自沈。

 榎本は欧州でプロイセン軍のデンマークでの勝利を目撃し、封建国家ではダメだと。
 土方が処刑した新撰組隊員はみな、代々の武士家系。
 榎本は五稜郭を要塞ではなく作業場にした。

 海舟は事を成したあとは自分の足跡を歴史から消すのがよいという考え。だから柳生但馬の遺跡がないのに感心している。

▼トマス・ホッブズ著、田中・重森・新井共訳『哲学者と法学徒との対話──イングランドのコモン・ローをめぐる』2002-4初版イワブン

 国王だけが民兵を招集でき、民兵だけがわれわれの身の安全を守ってくれる。
 「人は生まれながらにして名工たりえず」(p.27)。

 制定法に反する行為は不正義。理性の法に反する行為は不衡平。
 国王がだまされて認可を与えたことは取り消すことができる。

 コモンローの法諺。「いかなる人も不可能なことをなすように義務づけられていない」
 人は、自由なしで生きることもできようが、法律なしには生きられない。※つまり国家なしでは。内乱は人命や所有権が誰によっても保障されぬ事態であることを、ホッブズはその目で見た。

 もし国王が税金を徴収できなければ、国民の土地の所有権は守られないではないか (p.54)。
 ※つまり国家が強くなくては国民にも権力があるわけがないと考える。欧州大陸には強敵が存在するので。

 内乱の法的な終息方法に特にページを割く。大赦例について。人殺しもなかったことにされる。そうするしかない。

 英国では修道院が解散させられ、その土地が多くの私人の私有地になった。

 「なにが衡平かを知っている人は、千人に一人もいない」(p.72)。だから裁判官は先例を重視する。しかし、これは正しくない。

 英法でも、「ヘンリ4世治世4年法律第23号」といった記述をする。この場合、西暦は使わない。

 海事裁判所はローマ法にもとづいている。
 陪審はコモンロー裁判の慣習。それは必ず衡平に向かうだろう。

 慣習は必ずしも法の権威はもたない。これがホッブズの立場。(p.97)。
 それが慣習であるという理由ではダメで、それが衡平の原理に合致しているから良いのだ。
 衡平とは理性の法であり、それは成文法に対立する概念。
 ※これは要するに、古ゲルマンの慣習では侵略は悪いことではなく、領土掠奪はいつでも誰でも a OK なのだが、近代人のホッブズは、今後の英国内ではそれをやめさせようと考えるわけである。

 古い法律の文字面に人民を支配させてはいけない。その法律を立法したときに何が意図されていたのかをまず究めよ。(p.99)。
 ※議会の暴走を王の裁判官が常識を働かせて止めることができる。そうでなければ国民の人権が守られない場合がある。

 英国の制定法は文章が長い。そして、なんと、文法の意味がとれないものがある(p.101)。

 衡平法は何が罪であるかを人々に教えることだから主教職がその裁判官=大法官になるのは妥当。

 法を実現するのが正義。そして衡平とは法を解釈すること。また法による誤った判決を修正すること。

 国王の敵に与したもの。偽通貨をもちこんだ者。国王が任命した裁判官を執務中に殺した者。これらは大逆罪=死刑。

 使用人による主人殺し、妻の夫殺しは、反逆罪。※古ゲルマンの慣習法。
 臣従の宣誓者による領主殺しも叛逆罪。

 王国の国民の安全は、国王の安全にあり(p.109)。
 軍隊指揮官の対敵通牒も大逆罪。大逆罪は、すべての法をいっきょに破壊するから。
 今の国王が簒奪者だと言う者は叛逆罪。

 ※「過失」「未必の故意」といった用語がないためか、過失罪の衡平についてはホッブズはずいぶん外している。

 盗むとはどういうことかの定義でも四苦八苦。※これも、ゲルマン法や内乱の歴史のせい。

 ヘレシー(異端)とは、もともとギリシャで、アカデミア派(プラトン)、ストア派(ゼノン)、エピクロス派、ペリパトス派(アリストテレス)のどれか一つを選ぶことをいった。

 ギリシャで学校教師になるには競争があった。それで他派誹謗から殺し合いが起きた。
 ニカイア信条では、「我は聖霊を信ず」。※つまり、処女懐胎はじっさいにあったと心から認めねばならない。

 火刑は英国の制定法では廃止されようとしていたのに、教皇権が大きくなったことで、ヘレシーその他に関して、また復活されてしまった。

 クック(=法学徒)は反王権思想家。※ホッブズは、それでは英国人は外患に弱くなって必ず不幸になると言いたかった。

 「真のそして完全な理性は、個々の人びとの理性的能力のあいだの相違のなかにこそある」(p.189)。

 刑罰を王が決めるのでなければ、刑罰を誰が確実に実行できるのか。ギャング団を処刑できるのは最高軍事力だけだと。
 ※現在の英国の諜報機関は国王直属であり、法律に掣肘されない。だから「殺しのライセンス」が保障されているのである。

 大逆罪は、絞首刑。それでもまだ息があれば、地面に横たえ、内臓を引きずり出す。※映画『ブレイブハート』で再現されている。

 ユダがみずから首をくくり、はらわたがひきずりだされた。使徒行伝・第1章18節。
 反逆罪の犯人が女の場合は火あぶり。クックいわく、女に断頭や絞首は適用されぬと。 正当防衛殺人をクックは重罪とする。ホッブズはそれは無理だと。
  ※「法文による支配」と「法の支配」の違いの好例。後者は、理性・衡平を重視。

 反逆罪や重罪の犯人は血統汚損者となり、相続と被相続の権利がない。

 アムネスティア……忘却に付す。アテネの内戦収拾の智恵。

 十分な警戒態勢を整えても、その恐怖を除去できないばあいには、相手を攻撃しても、それは正当だと言えよう。(p.231)

 イングランド人が所有している土地は、厳密にはすべて国王の土地である。そうだとしないなら、土地保有の権原が無効になるだろう(p.234)。

 生まれながらの自然人には土地所有の権利は主張できない。

 ゲルマンとは戦士のこと。それが彼らの商売だった。
 家族や従者に対する主人の支配は絶対だった。
 そこには自然な衡平法しかなかった。無筆だから成文法もない。

 ゲルマン社会では、男系の血統が絶えた場合は娘に相続させた。

 イングランドの領主たちは、国王に戦争に召集されたとき、兵士たちの糧食を戦争のあいだ負担する義務があった。(p.240) ※だからグルカ兵に糧食を支給せずに遠征に駆り立てるなんてこともあり得ない。

 土地保有を認められる見返りに軍役があった。それはイングランドでは次第に貨幣でたてかえることが可能になった。土地にみあった騎兵を出せという習慣はなかった。歩兵だけ出せばよかった。

 州代表がナイトである。都市代表がバージェスである。これを国王の議会に送った。
 バラとは選挙区としての都市のことである。

 以下、訳注。
 クックは1552-1634で権利請願の起草者の一人。国王の裁判干渉に反対した。法と議会は王より上だと考えた。
 787の第二回ニカイア会議で、キリスト、マリア、聖人、天使の画像礼拝がみとめられた。
 フレデリック・バルバロッサは、神聖ローマ皇帝としてたびたびイタリア遠征した。
 キケロの立場はアカデミア派とストア派の混合。その文体はラテン語の模範に。すべてのヨーロッパ近代語の文章に影響を与えた。

 以下、巻末解説。
 国の主権は一つでなければならない。国王ではない宗教家などに国政を左右されてはならないというのが一貫した主張。
 一つであるならば、国王でも議会でもよかった。現実には、国王と議会が一体となったものがよかった。

 国王も参加者であるところの議会にイングランドの主権がある、と言い切ったのはロックだが、その理論はホッブズが準備した。ホッブズの共通権力・コモンパワーは、そのままルソーのヴォロンテ・ジェネラールである。
 クックは民衆絶対で国王否定。それではダメだと。
 クックは司法権を第一と考え、ホッブズは主権が司法界におびやかされてはならぬと信じた。

 国王は最高の裁判官である。つまり聖俗両方を統括する主権者だと。※そうしないとカトリックにやられる。
 議会と国王の対立は、軍事大権と官吏任免権をどちらが握るか。
 国王が国防のための大権として新税を導入せんとしたのが、ピューリタン革命のきっかけになった。

 ※衡平(エクィティ)とは何か。簡単な例では、借金より担保の方が巨額なとき、コモン・ローでは担保はただどりであった。それは不衡平であろうというので、差額を返せという命令がエクィティ判決。ここから、純資産のことを米国ではエクィティという。ex.エクィティ・ファイナンス。

現代テニヲハの限界

 アダム・スミスは1761年に言語起源論を書いています。
 とうじの英国のインテリも、その伝統として、やはりギリシャ語とラテン語の基礎を十代のうちに学ばなければなりません。
 ところが、これは18世紀の英国では、もうとんでもない苦業のように感じられました。
 といいますのは、古代語では、ひとつひとつの語に、数十もの変化形があるのです。それを一つ一つ覚えぬうちは、古代文の作品鑑賞にまで進めません。
 そして無数の変化形をせっかく覚えても、古代語は死語ですから、それを使って語るギリシャ人もイタリア人も現代にはいないわけです。それを考えますと、もう学習の入り口ですっかり厭になってしまう。

 英語が粗雑で表現パワーが未熟きわまりなかった13世紀頃であれば、ギリシャ語やラテン語は、母国語では不可能な思考や表現を可能にしてくれる宝箱の鍵、魔法のツールだったわけです。だからインテリは必死でそれら古代語や現代外国語(特にフランス語)を覚えようとしました。モチベーションはおのずからかきたてられていました。

 ところが14世紀に英語の骨格が固まって以降、しだいに英語の表現パワーが増して行くにつれて、高等思考のためにギリシャ語やラテン語の修業は、不可欠ではなくなっていくのです。
 そして英国の軍事力が高まるにつれて、こんどはヨーロッパの外国人が積極的に英語を学ぼうとするようにもなりました。少年スミスはそのような時代にギリシャ語とラテン語を学ばされ、深く考えるところがあった。

 スミスは、古代のギリシャ語、ラテン語には前置詞がなかったこと、つまり、語の格変化だけで、精密な情報伝達を実現していたことに注目しました。スミスは、これこそ自然に狭い地域で形成された古代語の特徴なのだと考えました。

 ところが偉大な思想を生んだ古代ギリシャ語の文法は、時代とともに変わり、やがて、ぜんぜん別な文法におちついていくのです。それはなぜなのか。
 劇的に変化したのは、トルコがコンスタンチノポリスを占領してからだったと、スミスは言います。
 これ以降、ギリシャ語に「前置詞」が加わった。そのことによって古代ギリシャ語は死語への道程に入った。古代文法はその時点で破壊されて、別なものになったのです。

 その変化のキモは「単純化」でした。ある情報を精密に伝達しようとするときに、すべての単語を格変化させる必要がなくなった。たんに、語と語を前置詞で結んでいけば、それだけで十分に精密に、情報の記述ができるようになったのです。ユーザーは、格変化を覚える必要からは解放されました。

 ただしそれには代償が伴っていたのです。古代ギリシャ語では、一文の中の語の配列をどのように前後させようとも、情報を精密に伝達できたのです。ですから音楽的な構文が自在にできました。
 ところが、前置詞で語と語を結ぶようになりますと、前置詞の前後に来てもよい語と来てはいけない語はもう決まっていますので、語の配列の自由度はほとんどなくなりました。そして、一文を書くのに、以前は不要であった多数の前置詞を不可欠に用いねばならぬようにもなりました。

 この結果、ツールとして単純化したギリシャ語は、詩作にはぜんぜん向かなくなってしまった。非音楽的に、ガサツになったわけです。
 現代日本語が、古い日本語よりも、詞に自由に音曲を割り当て難いのと、これは同じ現象です。

 トルコ人に支配される前のギリシャ語は、たった300の根源語から、無限に新語を形成できていました。全盛期の古代ギリシャ人は、ギリシャ世界の外からは言葉を輸入しませんでしたので、古代ギリシャ語の変化はラテン語以上に複雑であったのです。

 しかし古代語が別な言語と融合すれば、いきおい、前置詞が導入され、変化は単純化されることになる。だからたとえば古代ラテン語も、ギリシャ語とトスカナ語との合成でしたので、その二つの母語よりは単純化されていたんです。

 スミスの時代の英語は、現在形、過去形、進行形以外の動詞は、10個前後の「助動詞」がないと、文としてまとまりません。伊語、仏語では、ふたつの助動詞が、動詞の不備をおぎないます。
 4~5の前置詞と、6つくらいの助動詞によって、古代語のすべての変化と活用を代用できる。この「経済」が、近代語において発見されたのである──と、スミスは分析しました。

 さて、わたくしも他人のことは言えそうにないのですが、日本語をみじかく端折ろうとしますと、ついテニヲハの割り振りが雑になり、伝えたい情報がほんとうに精確に伝達できているかどうか、あとで自分で読み返してみて、保証の限りではなくなります。

 少ない字数で、精密な情報を伝達するためには、明治時代の漢文読み下し調はじつに便利なものです。だからわたくしはそれを現代文を書くときにおいて愛用しております。

 現代の日本語のテニヲハは、漢文読み下し文や、現代英語の前置詞よりも規定力があいまいながらも、それでも同国人になら、なんとなく通じてしまう。このことに現代の日本語のスピーカーが無自覚であることが、米国における同時通訳者を、はなはだしく悩ませております。

 この無自覚は、「他人を知らない」こととニア・イコールですので、日本人の権力にとって危険です。他人を知らなければ宣伝もできない。否、その前に、まともな政治がしにくい筈です。
 若い日本人が、現代日本語のテニヲハの規定力のあいまいさ加減に自覚的になるためには、漢文の勉強か、外国語の勉強は、役に立ちます。だから小学5年生に英語を教えることは悪いことじゃない。問題は、その授業が、この「自覚」を導出できるかどうか、だけでしょう。果たしてこれを自覚できている教師が、何人いるのでしょうか? 日本語が話せない外人は、この問題を理解していないでしょう。

今日の古本・摘録とコメント(※)

▼岸田五郎『張学良はなぜ西安事変に走ったか』1995

 蒋介石が南京に国民政府を樹立すると北京は北平・ペーピンと改められた。
 1935-1-22に議会で広田弘毅外相が「日華親善」演説。和協ムードに。蒋は2-22に排日言論の新聞掲載を禁止。

 関東軍とは別に、河北省天津にいたのが「支那駐屯軍」で、これが別名・天津軍である。1935で2000名。1936-5に5700名。
 なぜそこにいたか。清朝政府が義和団事件のオトシマエとして1901に8カ国連合軍と結んだ「最終議定書」に駐兵権と演習権が認められていたから。すぐに政府後援暴動が起きる無法な国柄だから、こうでもしないと外国人の生命と財産は保障され得なかったのだ。

 デモのことを游行という。
 蒋介石政府の不換紙幣による通貨統一を英国が1935に助けた。英ポンドと連結することで信用を確保。これで地方軍閥は蒋に逆らえなくなった。日本は英国から協力を求められたが冷淡にスルー。

 北支の中央ソビエト区を蒋軍はトーチカで包囲した。するとコミンテルンが派遣していたオットー・ブラウンは西遷を決めた。35-1に貴州で中共は会議を開き、ここで毛沢東が指揮権を握った。
 コミンテルンの政策は「逼蒋抗日」。毛は「反蒋抗日」。だが毛は36-5にはコミンテルンに従う。※軍資金がすべてである。それはモスクワからしか出なかった。

 日本の北シナ分離政策に米英が干渉してくれなかったので、蒋はソに接近した。

 満州事変で日本が国際連盟から制裁されなかったのを見て、ムッソリーニは35-10-3にエチオピアに侵攻。これがシナ人を恐怖させた。次はシナがやられる、と。
 ※日本はすぐにイタリア非難のコメントを発表すべきだった。イタリア人は満州の日本人のようにテロをしかけられてはいなかった。

 1935年にコミンテルンは大方針転換。社会民主主義者は、以後は敵ではない。味方にする、と。
 スターリンはスペインで共産党をフランコに売り渡したように、シナは蒋介石に任せるつもりだった。

 綏遠事変。関東軍参謀の田中隆吉が特務機関長として内蒙のモンゴル人軍を組織したが、それが国民党軍に敗けた。シナ人は、関東軍に初めて勝ったというので、大喜び。

 蒋の37-1の「西安半月記」によると、蒋は西安で「掃討戦はいまや最後の五分間ともいうべき大詰めにさしかかっている」と叱咤激励した。
 中共軍の背後は陝北の沙漠であるから三方向から攻め立てれば幹部は逃亡し、その軍隊は自分のものにできると考えた。その後、ソ連と連合できると。

 蒋は学良を「おまえは若くて無知であり、共産党に騙されている」と罵倒。王以哲には「おまえたちの軍の無線がひんぱんに共産党と連絡を取り合っているが、私が知らないとでも思っているのか」と。

 西安事件のとき、学良は、部下の工兵団長に、華県のある鉄道橋の爆破を命令。それにより華県・潼関からの中央軍の西進を阻止できるので。
 華清池は驪山に面していた。この驪山山頂には学良の衛兵1個中隊が十数張りのテントを設営し、テロリストが裏山を越えて侵入しないようにした。

 蒋発見の合図として銃3発。
 事変直後、西安市内は無法状態となり、十七路軍の兵士が市内を大掠奪した。スメドレーはその被害に遭っている。

 学良はスメドレーに西安から英語で宣伝放送をさせた。
 西安事変直前、日本は蒋に反ソの防共協定の締結をよびかけていた。ソ連も、国民党に相互不可侵条約をよびかけていた。

 学良は親中共である。その手で蒋が殺されれば、シナ人民はソ連嫌い、中共嫌いとなる。
 この時点でシナ人口は4億5000万とカウントされていた。

 蒋方震は、日本の陸士卒で、山縣有朋にすすめられてドイツにも留学。戦略論や日本論の著書がある。保定軍官学校の校長となった。そこが東北軍に人材を供給した。事変前までは、蒋介石の黄埔軍官学校と双璧勢力である。蒋介石のドイツ顧問団は、方震のつてで呼ばれたもの。

 延安の洞窟住居をヤオトンという。
 黄埔軍官学校校長時代の蒋介石は陳潔如(三番目の夫人)と同棲していたが、この陳はロシア・スクールで、ロシア人顧問の通訳であった。

 国民党要人の西安入りが周恩来より3日遅れた。このラグの間に事件解決のイニシアチブを中共に握られてしまった。
 事件に際してモスクワからの大事な至急指令電報が、暗号書の不整合で、中共の受信所で翻訳できないことがあったという(p.137)。

 蒋介石は南京に戻ったあと「張・楊に対する訓話」を捏造し、それを西安で語ったものであると偽って発表させた。真っ赤な事後偽作であってもこのように発表されたなら公式文書となって流行するから、発表の2日後、ただちに毛沢東は「蒋介石声明についての声明」を書いて反撃した。※これが宣伝戦の正しい反撃態度である。

 蒋介石は軍事と政治工作の連動が上手だった。軍事配備をすませると、たてつづけに政治攻勢をかけ、敵の内部を分裂させる(p.180)。
 「蒋はちょっとしたことにさえ報復をはかる性格だ」(p.187)。

 雑軍とは土匪出身者。
 逮捕された学良には、明史関係の歴史書の読書だけ許された。

 日本国民は武漢を占領したら国民政府は降伏するとマスコミに踊らされており38-10-27の占領の報で提灯行列した。
 重慶の歌楽山のふもとにはOSSの「中米合作所」が46~49年にも存在していた。

 満州の南に隣接するシナ5省の日本軍による分離工作に反発したのが、北平の学生による35-12-9運動。この熱気が張学良をつきうごかした。
 もし西安事件がなければ、中共が表舞台に出ることはなく、国民党に滅ぼされていた。だから中共にとって学良は「功臣」とされている。

蒋介石を相手に汁

▼以下、S42年8月pub.夏文運『黄塵万丈』の摘録とコメントです。

 屈原の「不辰」……自分の生れたときが悪かった。
 1906金州うまれの著者は、8歳から11歳まで四書五経を暗記させられた。
 シナ人のための中学がなかったので、日本人がシナ人向けに経営していた旅順師範学堂へ。
 国語教師はシナ人で、流行の「白話体」「注音字母(現代カナ運動のようなもの)」を北京から導入。

 とうじ、日本には5万人のシナ留学生がおり、一高などの特別予科にパスすれば、シナ政府の官費生となることができた。
 著者は広島の高等師範に入った。シナ人は百数十人いた。

 勢力を競っていた三勢力。国民党。中国青年党。共産党。後2者は、国民党にあきたりない勢力が、右と左に分かれた。中共がソ連の指導で1921に結党されると、同時に『醒獅』という雑誌を出していた集団が中国青年党を組織した。

 WWⅠ後、労働力が不足したフランスは、上海でシナ人の「勤工倹学生」を募った。毛沢東はこの試験にパスしたが、自分では行かなかった。

 満洲事変前、すでに朝鮮人は道尹(県知事)になっていた。が、満州では、張一族以外は役職には就けない。
 張学良は、夜遊びに耽って朝寝坊を繰り返す毎日だった。
 学良は易幟後、青年党を禁止した。
 学良はヘロイン中毒だった(p.185)。
 アヘンをやっている著者もヘロインがよくないことは知っていた。

 満州事変前夜、毎晩のように日本軍が演習して砲声が聞こえ、日本内地の空気も凄まじいので、不安が募る。奉天の馮庸大学では軍事教練用の小銃を土に埋め、トラブルを避ける措置まで講じた。しかし多くのシナ人は、日本はソ連を恐れて何もできないと思っていた。
 事変後、馮校長が大学専用飛行場から北京に脱出すると、地元暴民が大学を掠奪。

 満州国のために働いていた馬占山らは叛乱し、ソ連を後ろ盾にできる満州里に籠った。二人はソ領へ逃げ込み、ヨーロッパ経由で極東に舞い戻る。

 南満生まれの著者には、冬季のシベリアでの列車中泊はこたえた。またソ連軍は朝鮮族を将校にしてふつうにやっているのに、日本軍が満洲人を将校にするようなことはない。その違いに強い印象を受けた。

 張作霖は足が切断されたが即死ではなかった。気力だけで3日生き、変装してかけつけた息子に、日本軍にやられたと言った。
 日本とのトラブルは、満鉄平行線の問題だった。
 爆殺された作霖はシナ民衆から「大元帥」と讃えられ英雄視された。
 この事件でシナ人の日本観は一変した。

 中村大尉は日本の馬に乗っていた。蒙古人にはその馬が珍しかったので注目され、変装がバレてしまった。中村は取り調べに応ずれば助かった可能性があったのに、完黙した上、柔道技で相手を投げ飛ばしたので、司令部で射殺されてしまった。シナ軍も困って、その死体を山に埋めたのである。

 1924に孫文が連ソ容共路線を決め、国共合作。孫文死後の1927、反共右派の蒋が南京政府をつくり、米国の援助を受けた。

 この南京政府を屈服させるには、日本軍が河北・河南・山東・山西・チャハルの北支5省(満洲の南隣の地域)を統一し、なおかつ反蒋派の「南西派」と組んで、南北から中部の南京政府を挟撃すればよいと、日本軍は考えた。

 張学良は30トンの金塊を残して逃亡した。この行方は不明で、斎藤隆夫が陸相を追及してもいる。あるいは、関東軍参謀の土肥原、板垣、和知らが隠匿し、西南工作に使ったのではないか。

 1934に蒋軍は端金の中共ソビエト政府を攻撃して延安方面へ駆逐した。
 その督戦に西安におもむいた1936におきたのが監禁事件。

 田中上奏文は、田中内閣当時の参謀総長・金谷範三の論を基幹とし、松室孝良が発表したものだ。
 シナの新聞紙上では「田中奏摺」と題されてデカデカと報じられた。
 著者は学生時代からこれは偽作だと思っていた。作霖と学良の2代に仕えた秘書で、王●【くさかんむりに凡】生という湖南出身のシナ人が書いたものだとも聞く。

 国民政府には藍衣社という国内工作機関と、国際問題研究所という対外工作機関があった。この国際問題研究所の部長で対日情報担当の陸軍少将だった羅文軾に戦後、著者が日本で会ったとき聞いたら、王●生はじつは共産党員であったと。

 南西工作が失敗した日本軍は、満州南隣地域の安定のためにチャハル省主席の宋哲元を担ぐことに決めた。宋には政治手腕はなく、実直な武辺者であったのが日本人に評価された。宋は南京政府と日本軍の圧力の板ばさみとなった。

 あるとき板垣が胡漢民に、満洲は対ソ防備のための重要拠点だから、シナから切り離して独立地域にするというと、胡は、「盗亦有道」(盗むにも道理が必要だ/老子)、満洲を独立させるなら、シナ人(を代表する胡)にその代価5000万ドルを払え、と求めた。日本は無為無策でチャンスを失った。

 土肥原は土匪だ、満洲のローレンスだ、などと悪評が高かったが、会ってみると儒将の風格があるとシナ人に驚かれる。宣伝ほど恐ろしいものはない。

 1935に中共が延安に遷った。1933までは第三インターの指令は外蒙古または新疆経由で上海で受けた。瑞金から外蒙のどこかに移れと命令されたのも1934のモスコーからの暗号無電。モスクワからのクーリエによる命令伝達は上海にはないのだった。しかし延安では直接にソ連人が差遣されてきて、その指令を受け取れるようになり、蒋介石政権に対しての立場が強化された。

 宋哲元が使えていた親分の馮玉祥は、清朝末期から有力軍団(西北軍)を形成し、シナ人としては珍しい近代教養を有し、米国には「クリスチャン・ジェネラル」だと自ら宣伝していた。馮は決して士官学校出身者を用いず、宋をも兵隊から抜擢した。宋は自分の名前がようやく書けるだけだった。

 中原会戦で蒋は、閻と馮の連合軍を撃破。閻は大連に逃げていたところを関東軍の板垣が飛行機で山西の太原に送り込む。閻統治時代から山西の財源はアヘンである。
 このとき蒋介石は<昔からシナは武力によって統一はできないといわれたが、しかるに自分は武力によってこれを統一した>と得意の絶頂。

 馮はソ連に逃げ、洗脳されてすっかり左翼化して帰国。内蒙に勢力をのばしたが、周囲は中共党員ばかりだった。
 蒋と長く争った宋哲元の二十九軍は張学良に支配された。

 胡漢民は反蒋の南西5省(広東、広西、貴州、雲南、四川)をまとめ、東南アジア華僑3000万と結託して日本の資金援助で開発株式会社をつくろうとした。

 磯谷廉介少将は宋哲元をまったく頼んでいなかった。ところが磯谷の部下の影佐禎昭が宋をプッシュし、冀察政務委員会の首班とした。

 宋の約束実行を待てないというので日本軍が冀東政権を樹立させたことは宋にしてみればまったく面白くない。宋が反日に寝返る一因となった。
 また宋と交渉する関東軍と天津軍の方針がバラバラで、日本軍は信用できないと思われた。
 天津軍の経済参謀が池田純久。

 西安事件で、国府の国防部長の何応欽は、西安への爆撃や出兵を主張し、蒋一族に誤解されてこまった。蒋を釈放させたのはソビエト第三インターの指令だ。

 中共にあやつられた学良のために蒋介石は抗日をやるという一札をとられた。盧溝橋事件は必ず起きるというべき緊迫状態に。
 事件当初、最高責任者の宋哲元が北京を不在にしていたのが拡大の一因。

 宋の片腕が張自忠(三八師長)だったが、宋は師団長よりも格上のポストの天津市長を手兵がゼロの蕭振瀛に与え、しかも最有力の相談相手にしていたのが面白くなかった。
 張が実力威圧によって知日派の蕭を南京に逃亡させ、みずからが天津市長におさまると、宋軍閥にはインテリがいなくなり、共産党としては操りやすくなった。北京には親日の空気は皆無となった。
 盧溝橋事件のとき、張は親日を装い、日本訪問中であった。

 7日の盧溝橋事件から29日の事変拡大まで3週間も経過したということは、これは満洲事変とは違って、日本側の計画的な事件ではなかったことの証しだ。

 拡大の責任の8割はシナ側にある。日本の責められるべきは、ただ眼識が無いことだ。

 冀東政権は親日で固め、対日貿易で利潤を得させていたが、長官の殷汝耕は日本留学組だったからともかく、その部下の幹部は侮日であった。保安隊司令官の張慶余はシナ語が分からない和知参謀の隣室で「新しい天津軍司令官は香月とかいうそうだが自分が北京の前門外にある芸者屋で買った女の名前と同じだな」と高声に談笑していた。著者はこれはヤバイ侮日の兆候だと思い和知参謀に警告したがスルーされた。やがて通州事件を起こしたのは張の保安隊である。

 停戦協定は7月11日に結ばれたが、夜、どこからともなく北京城外で銃声がきこえてくる。この銃声は双方の監視員たちにも誰のしわざか分からなかった。
 じつは劉少奇が夏期休暇中の北京の学生3000人を動員して南苑の高粱畑で軍事訓練させ、抗日気勢を盛り上げさせていたのだった。

 急遽、帰国した張自忠は、逼宮(三国志に出る曹操の作戦)を宋哲元に応用した。すなわち日本軍との交渉をまとめさせず、宋をして「知難而退」せしめるというもの。宋は忍耐力の無い男だった。

 張は香月司令官との会談から北京の自宅に戻る宋哲元の専用列車を砲兵団長の揚少佐に命じて爆破させようとした。しかし揚がターゲットが宋であると気付いて驚き、スイッチを押さなかった。
 宋は北京でこのプロットを知らされ、日本軍のさしがねではないかと疑った。
 香港に逃亡した揚が人に話したので、下手人が日本軍でないことがわかった。

 張自忠は宋哲元に委員長を辞任させ、自分がそのあとがまに座ろうと考え、直接、そのように求めた。宋は事件の解決を委任すると言い、幕僚を引き連れて郊外西苑の二十九軍司令部に入るや、ただちに三八師の副師長に対して、今晩12時に天津日本租界を攻撃せよと命令を発した。

 天津襲撃は7月29日。通州虐殺事件も同日である。

 驚いた張自忠は米国兵営に逃げ込み、変装して自転車で天津に逃げ帰り、南京に向かった。二十九軍は日本軍に駆逐されて平津地区から南下敗走を開始する。
 しかし張自忠はこの件で蒋介石に認められ、陸軍大将に進級したが、大別山脈での対日戦で死亡した。著者によると、事変拡大の第一責任者は張自忠だ。

 著者がおもうに、日本軍は居留民保護が念頭にあるために、万一のときの早期解決を重視して天津軍を増強させた。それが冀察側を刺激した。
 日本軍の方針は局地解決と全般的解決の間の連絡がなく、場当たり的だった。
 日本軍の情報収集は、特務機関によるものばかりで、軍としてのシナ研究の下地がない。そのため、特務が雇用していた程度の低いエージェント(多くが日本語のできた朝鮮人)の寄せるいいかげんな情報ばかりを信じ、程度の高いシナ人からの情報収集を怠った。しかるに特務機関の高級軍人たちは、シナ人とシナ語では話も通じないくせに、自分がシナ通だと自惚れていた。
 特に中共をあなどっていた。最後までシナに共産党などないのだという認識だった。ところが宋哲元の作戦主任・参謀処長の鄒大鵬は正式党員だった。3000人の学生に武器を渡したのも彼だ。馮玉祥夫人も中共シンパのインテリで、中共は彼女を通じても宋を動かしていた。
 特務機関の指揮官同士に功名心競争があり、またエージェント管理の引継ぎがなく、機関長が転出すると、情報資産はすべていったんチャラになった。
 天津軍の三人の高級参謀の間にも功名争いがあって、一人が得た特ダネを他の二人は妬んで無視し、情報を共有せず、バラバラに策動し、天津軍としての統一意思がなかった。

 日本軍を北京郊外から原駐地に戻させないように策動していたのも中共だ。

 終戦直後の国民党時代、満州には漢奸はないとされ、逮捕者がなかった。日露戦争時代の満洲馬賊は、多くが日本軍に協力している。

 上海では日本の憲兵隊が無線監視班をもっていて、送信するとすぐに急襲された。
 藍衣社は拳銃による暗殺を得意とする。
 広東料理店は出入り口が両開きの軽いスイングドアである。

 シナでは、ある人物がトップの側近であるかどうかが価値のすべてで、その人物の正式の肩書きなどに意味はない。ところが日本の役人風に考える高級軍人にはこれがわからなかった。中央統制調査局長で藍衣社のリーダーの戴笠に日本の陸相からの親書を渡せばすぐに必ず蒋介石に届くと著者がアドバイスしても、日本の参謀は、戴笠の肩書きが一少将で局長クラスだからダメだと、相手にしなかった。

 蒋介石も最初は日本の政治の仕組みがよくわからなかった。近衛総理に実権が無いなら、誰が和平のできる実力者なのか? 重慶の防空壕の中で、蕭振瀛が、「三人います。それは日本の軍部の大佐、中佐、少佐です」と冗談をいい、そうした少壮軍人を代表するのが板垣陸相なのだと説明した。

 重慶政府内にも、和平を実現した者が次の内閣(行政院長)を背負えるという野心がめいめいにあり、各派閥が競争していた。
 蒋介石は、黄埔軍官学校を設立する前に株式取引をやっていた。

 張李鸞は、汪精衛工作を、影佐の「欺君罔上」(天皇を騙している)であると。
 汪の重慶脱出は、たぶん蒋との事前了解の下だろう。昆明からハノイに飛行機で飛んでいるのは、オーソライズされていたからとしか考えられない。※ルドルフ・ヘスか。

 戦争のゆくえがどうなろうと、重慶もしくは南京のどちらかの国民党が生き残る。
 汪は17歳のとき清国の摂政を暗殺しようとして逮捕された。

 汪は自分が死んでも国民党に尽くすという考えだった。彼が読みきれなかったのは、日本が英米と戦争を始めたこと。まさかそうなるとは夢にも思っていず、非常に後悔したという。
 これは著者も同じで、もし日本が英米と戦争すると知っていたら、協力するシナ人は一人もいなかったろうと。

 影佐と和知はどちらも陸士26期で競争し合っており、重慶工作を自分の手でまとめて将来の大将になってやろうとの野心に燃えていた。

 繆斌工作は重慶特務の戴笠が日本の情報をとるためにやらせただけ。極東裁判でマッカーサーが証人として繆斌を要求すると、蒋は繆斌を銃殺させた。

 国民党特務のうち、射撃の腕が求められるセクションには、満州系統の人が希望された。射撃名人が多かったので。

 「孫子もいっているように、戦いには戦いで、戦力を養うほかはない」(p.169)。※いってねー。

 朝鮮人と満人は日本の憲兵隊から通訳兼エージェントにされていたケースが多かったので、終戦直後は命の危険があった。

 日本降伏と同時に北京には城防隊という訓練された特殊工作隊が中共によって送り込まれた。国府軍と違い、中共は終始、平津(北京、天津)の都市に潜入していたので、国府の先手をとって諸都市を押えた。

 それに遅れて藍衣社が入ってきた。鉄道が中共ゲリラに破壊されているので、彼らは兵站を米軍の輸送機のドロップに依存していた。国府兵士の入城とともに北京市内は無差別な掠奪にさらされた。

 重慶の漢奸懲罰令によると、日本軍占領地に住んでいた住民は漢奸となり、占領下の大学生は偽学生、人民は偽人民となって、粛奸委員会が勝手に逮捕できた。
 共産党は蒋介石に漢奸摘発をやれやれと慫慂した。そのとおりに実行すると、人民の怨みは自動的に国民党に向かうわけである。

 李宗仁が親日的だったので、北支では戦犯銃殺が一人も無い。中支、南支では多数のB級戦犯が銃殺されている。

 銃殺は都市郊外のきまった場所でやるので、そこに連れて行かれなければとりあえず安心。

 殷汝耕は南京で銃殺されたが、獄中での態度は終始端然。他の要人はそうではない。人間が落ちぶれたときに、修養した人としない人はすぐわかることを著者は体験した。

 シナ人は逮捕されると急に仏教を信心して読経する者が多く、その声がうるさかった。

 国民党は、辺境民族に仏教信者が多いので、要人の中に仏教徒の戴天仇を混ぜて宣伝とした。
 著者は獄中生活のためアヘン中毒が完治した。

 蕭萱という湖北出身者は日本に留学したほどの男だが易者で、蒋介石の母の墓を選定した。風水。蟹の手に似ている地形のその蟹の指のところに家族を葬れば一家は繁栄するのだと。
 風水は明の劉基が元祖で、皇帝のために全国に易者を派遣し、いい墓地がみつかると、付近の道を破壊して水脈を断った。そうすることで将来、皇帝より良い運勢の人は現れ得なくなるからだ。
 蕭は1949年に蒋の母の墓付近を再調査したところ脈に反応がない、つまり将来がないので、台湾にいくのを止めたと。
 その頃、中共系の新聞に、毛沢東の両親の墓の話が載っていた。1934頃、何建という将軍が、湖南の毛の父母の墓を破壊し、屍を灰にして撒き散らした。これで家の運命は断たれたはずであった。ところがその新聞には、何が壊したのは本当の毛沢東の祖先の墓ではなかった、毛姓の他人の墓だったと。わらうべし。

 辻の潜行を保護したのは軍統局の戴笠だろう。辻は蒋の母の墓を破壊せず、逆に盛大に供養したので、蒋が恩に着たのだと。

 直接にシナ人民と接する憲兵が、シナの程度の高い階層に対する人扱いが粗暴であったため、シナ人の反日態度を決定付けてしまった。