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訂正。

 「七飯山」ではなくて、地元の方は「七飯岳・ななえだけ」と呼ぶことがあるそうです。聞き間違えました。
 しかし28日のUPかなと思っていたら、20日にUPされていたとは……。素早すぎるぜ!

摘録とコメント(※)

▼ハーバード核研究グループ『核兵器との共存』
 1974フォード大統領がSALT-IIをあきらめたのは、もしソ連と合意が成立すると共和党の大統領候補に指名されないおそれがあったから。

 ダレスは、ソ連の西欧電撃戦だけでなく、他の方角に対する小規模侵略に対しても米国は核兵器を使うかもしれないことを暗にほのめかした。
 1957から62年にかけ、米の戦略兵力の拡張は緩慢。弾頭総計は、55年が2000発、62年で4000発である。

 1960にペンタゴンは初めて、SIOP(統合戦略計画)をつくる。すなわち、ICBM、SLBM、爆撃機の調整攻撃マニュアル。
 インストラクションとストラテジーの違いは、後者は、使わないことも含まれる。

 62年マクナマラのアンアーバー/ミシガン演説でカウンターバリュー(対工業力)の伝統が大転換、以後、米の核攻撃戦略はカウンターフォース(対軍隊)に。※カウンターパワー(対権力)の発想が甘ちゃん夢想家の米人には無かったのが共産主義との戦いでは致命的に不利となった。戦争が政治だと理解していないから、無生物を相手にしようとする。
 1960's初期、flexible response 戦略が米政府により採用され、67にNATO正式ドクトリンとして承認される。

 1961に米は、政府の意見とは独立の「軍備管理・軍縮局」をつくる。
 ピークの年だった1958には、4日に1回の大気圏内核実験があった。63年、部分核停条約。そこで63にもピーク。爾後、核兵器開発は3年間、停滞する。
 60's後半、B-47の全部とB-52の半分を退役さす。
 1970'sはランチャーもメガトン数も60'sより減り、命中率指向が明確に。

 キューバ後、ソ連は年率3~4%で国防費を増し、60's後半に劇的に強化。1966のICBM292基が70年には1300基となり、米を抜いた。SLBMは1974まで抜けず。
 ※質的、つまり核ミサイルの信頼性や確実性や即応力の面ではソ連は米国を抜いたことはなく、じつはベトナム戦争末期でも米国がソ連に核戦争で敗北するおそれはまったくなかった。問題は、MADによる抑止を現実として受け入れるか否かの、精神衛生上の価値判断に尽きていた。これを受け入れない、すなわち、万一抑止が破れたときの米国都市民の被害を限りなくゼロにしようと動いたのが、トライデント+GPSという先制カウンターフォース能力の革命と、レーガン大統領のSDI構想の組み合わせだった。

 60's後半、ソ連ABM、地下壕、SAMは劇的強化。B-52対策も。国家の「耐核性」を獲得す(p.148)。
 1960's中頃、マクナマラは、軍事予算シーリングの正当化のため、「確証破壊」なる説明を用いるようになるも、SIOPはカウンヌーフォースのまま。つまり、予算上、十全なるカウンターフォース(第一撃のみによる勝利)を実現できなくなっただけ。

 1930に米が、62にソがスパイ衛星を飛ばす。1969SALT開始、72に妥結。衛星で監視できない戦術核は、交渉対象にならず。
 1970から米によるMIRV化はじまる。ABM突破が目的。70年の4000発が、77年の8500発に著増。60'sは全く数が固定だったのに。

 ソは1970's中頃からMIRV付き新世代ICBM(SS-17~19)をつくり、弾頭数で77に米を抜く。ただしSLBMのMIRV化は70's後半までできず、ポセイドンによる米優位をゆるす。※けっきょくSLBMでソ連が米国を脅威することはその後もなかった。
 70's中頃、バックファイア展開。以後の交渉の争点に。

 1970's初め、シュレジンジャー国防長官は「限定核オプション」を強調。弱さゆえのエスカレーション理論だった。
 SALT-Iの特徴。ABM、中共の核装備を背景に、ソ連は競争を休む必要を感じた。米は爆撃機を対象外とすることに成功。
 米市民はABMを嫌った(p.155)。

 70's後半、500基のミニットマンIIのうち300基が、出力2倍、精度向上型に更新。
 1980カーターの「リターゲティング」「相殺戦略」「CキューヴドI」「長期核戦争」ドクトリン。シュレジンジャー案に手を加えたもの。
 B-52は、1956~62年にかけ、対ソ大編隊の戦列に並べ終える。
 1977、SS-20の欧州配備。

 デタントのおわり。1970にソ連はアンゴラへキューバ兵を送り込む。フォードはSALT-IIを一年凍結。78、ソ連はエチオピアへキューバ兵を送り込み、カーターの足をすくう。79-9、キューバ駐留ソ連旅団が問題化、SALT-II調印遅れ、3ヶ月後、アフガン侵攻を見る。

 包括的核実験禁止条約交渉は、1982-7にレーガン政権により正式打ち切り(レーガン戦略は81に示された)。
 1962が米核兵器の出力総計のピークだった。
 ソ連のブラックボックス性は、Bomber、ICBMで劣勢の60's前半には、幻のギャップを信じさせ、大増強しているさなかの60's後半は、逆に過小評価をさせた(p.172)。
 1962のICBMの平均出力は、米が1Mt、ソ2Mt。1982ではその四分の一。

 WPの戦術核は、危機の際、ソ連から空輸される(p.208)。
 米は1982には6000の核弾頭を欧州の70箇所に貯蔵しており、危機の際には、それを300箇所に分散する計画(p.258)。

 1960'sのソ連ICBMは、目標の1マイル以内には命中できず、5Mt×4発を以てやっと米サイロ1基を破壊できた(pp.267-8)。
 ※つまり7割以上の確実性で敵目標を攻撃したければ同時に4発を集中せねばならない。数千発の弾頭があっても、じっさいに破壊しつくせる目標数はその四分の一以下でしかない。核大国といえども、カウンターフォースを採用する以上は、核弾頭は決してあり余ってはいないのだ。核兵器はいささかも絶対兵器ではない。石原慎太郎世代にはなかなかこれが分からない。

 1960's後半、米巡航ミサイルがBMに代替さる。
 ICBMサイロの電源は数日間しかもたない。

 米は交渉を通じてソ連のSLBMに対する依存度を高めさせようとした(p.301)。※GPSとコミでないソ連のSLBMはまったく信頼性がなく、かつ西側の圧倒的な対潜作戦力の前に脆弱。だから米としては都合がよいわけ。げんざいロシアはSLBMを事実上、捨てている。

▼倉田英世『核兵器』
 1956-9仏の原発運開。
 1960-2-13仏の初の原爆はプルトニウム型。
 1963、実用原爆の量産態勢。
 1968-8-24水爆実験成功。

 U-238は高速中性子で核分裂を起こし、U-235は低速中性子で核分裂を起こす。高速中性子の数はたくさん得にくいから、U-235がたくさん必要。

 U-238が低速中性子を吸収するとPu-239に化ける。だから、低濃縮ウラン235を核燃料に、ありふれたU-238を壁材に用いた幼稚な原発→最初のプルトニウム原爆、というのが最も楽なコースになる。

 Pu-239も低速中性子で核分裂する。

 核融合は、DやTなど軽い元素の原子をクーロン斥力に逆らってくっつけるために高熱を必要とすることから「熱核反応」とも呼ばれるわけ。
 Dの生産単価はU-235の三百分の一で、出力は1000倍。
 融合反応で飛び出す中性子は、分裂反応から出る中性子よりも3倍も速い。よって、U-238の分裂や、中性子爆弾に使えるわけである。

 3F水爆は、U-238がLiDより安いので最も安価。

 ガス遠心法は、6弗化して気体化したウランを遠心分離し、軸側に集まる軽いU-235を次々とふるいわけて濃度(純度)を高めていく。これはガス拡散法のような、フルスケールの工場運転は必要としない。少しづつ、こっそりと造ることができる。※だからシナは最初の原爆がウラン式だということを米に対して隠すことができたのである。

 原子炉を数週間だけ運転したところですぐ停止させてU-238を取り出すと、核分裂性のPu-239がいちばん多く手に入る。時間をおくと、分裂しないPuの仲間が増えてしまう。※そこで米国が三菱と日立にライセンスを渡している2系統の商業原発は、炉全体をバラさない限りU-238を取り出せない設計になっている。これだと衛星からの監視が容易である。

 使用済み燃料からPu-239を取り出すことを再処理という。U-235は物理的濃縮(遠心もしくは拡散法)しかできず、面倒なのに比し、Puの取り出しは化学的な溶媒抽出でよいため、簡単。
 Pu-239は70%純度(通常発電所から取れる)でも兵器化はできる。
 Dは天然水を遠心分離して得る。Tは原子炉内でLiに中性子を照射して作り出す。

 放射線は光速である。中性子は、その半分~数百m/secである。
 γ線は高密度物で阻止する。中性子は、水素、炭素など低密度物でよく阻止される。

▼高榎Ibid.
 ローレンス・リバモア研のシミュでは、5~20発の中性子爆弾で、ソ連の1コMDを破壊。旧来核では10~40発要した。中性子爆弾の威力は現在の1Ktが最も良い(p.173)。

 トルコ、英、伊が受け入れたIRBMを、ノルウェーとデンマークは拒否(p.177)。
 ダレスは1957-10に「大量報復」をひっこめ、ペリフェラルな限定核戦(キシンジャーに沿うもの)に傾く。

▼ゴールドシュミット『核開発をめぐる国際競争』
 米国が、イランやトルコに対するソ連の進出の意図を未然に封ずることができたのは、核の独占のため。

 ネヴァダ核実験は1951から。はじめは戦術核のために新設された。※満州の中共軍をやっつけるための小型弾頭が多数必要になった。それがたちまち完成したので毛沢東も戦争を諦めた。

 1953にカナダで新ウラン鉱脈が発見され、ベルギー領コンゴ(1960閉鎖)やカナダの初期ウラン山(いずれも寿命尽きかけ)に代わった。

 1950年以来、米英は5000万ポンドを南アに投資してウラン採鉱を振興した。1958~60の最盛期には、年間に投資額に等しい売り上げ。これはgold収益の四分の一に相当した。

 ベルギーから昔買ってあったウラン10トンと、ノルウェーから供給された重水、数トンで、フランス最初の3基の実験重水炉ができた(p.153)。

 英仏採用の天然ウラン型動力炉は、プルトニウム生産炉から発達したものである。
 他方、米ソの濃縮ウラン型動力炉は、原潜エンジンから発達した。
 トリウムは、インド、ブラジル、マダガスカルに豊富にある。

 1957-12-16、スプートニク打ち上げ後の初のNATO首脳会議(於パリ)で、米国は、ミサイル発射基地の設置を受諾する同盟国に対しては、核爆弾を米国の管理の下に置く中距離弾道弾の供与を提案した(p.202)。

 英国が戦時中に支出した資金は、20億ドルに及ぶ米国の投資の約百分の一に過ぎなかった(p.74)。

 日本政府から在モスクワ大使館あての電報の件は、ポツダム会談が始まる前に、ワシントンには知られていた。この電報の内容は……天皇制の維持に対する保証を正式に宣言することによって……日本を即時降伏させることができると……数ヵ月来説得に努めていた国務省の一部の説の正しさを裏付けるものであった(p.94)。

 1944年、ボストンのある地質学の教授が、20年も昔の南アフリカの文献中に、トランスヴァールの金鉱石の中にウラニウムの存在を示すものがあることに気がつき……その結果、幾つかの鉱物標本は、微量のウラニウムを含有していることが発見された(p.119)。
 戦後、たいした費用をかけないでウラニウムと金を同時に分離する新しい化学的処理法が完成するに及んで、この発見はさらに重要性を帯びたのである。

 プルトニウム生産炉で1947年、照射により黒鉛が老化し、機械的なひずみが生じたので修理したが、1948まで正常運転できなかった(pp.119-20)。※チェルノブイリもこれが疑われた。

 カナダは、ウラニウムや、重水炉の使用済燃料棒を米国の再処理工場におくって抽出されたプルトニウムを米国に売却し、米国の核軍備に直接貢献する立場にある(p.121)。

▼ヴァルター・マルムステン・シェリング『戦争哲学』S17、原1939
 ※モラルを道徳と訳しているので話がおかしいところがある。またruleを何でも「法則」と訳しているのではないかと疑われる節もある。

 カントは「判断力批判」第28章で、戦争は一民族の考え方を高める、と。
 ヘーゲルは戦争についてはただ「法律哲学」324節で触れたのみ。

 カルル・リンネバッハ:「我々は一つの命題に対して反対の命題──然もそれは別な箇所で言われている場合が多い──を探し出す時にのみ、クラウゼヴィッツを理解することが出来る」(第14版索引の序文)。

 シャルンホルストはシュタインの社会改革をプロシア軍制改革のベースと見た(p.303)。

 デルブリュックは『戦術の歴史』の中で、14世紀はじめの火器が騎士をおわらせたのではなく、15世紀末の農民槍兵こそがその原因と主張。

 ゼークトは少数精兵主義。そして、同じ立場の「イギリスの軍事著述家」がある、と(p.315)。

 デルブリュックは、クセルクセスは百万の兵など率いてなかった、と疑う(p.358)。※明治期の日本の参本が編んだ日本古代~近世の戦史が非実証的な出来なのに比し、その手本とされたデルブリュックの欧州古代戦史は、このような疑問のオンパレードである。ただし、現代の常識から過去を安易に断定するというトルストイ氏流だが……。

 pp.407-12、435-6、445-6、465-6が、国会図書館の本では欠損。※おそらく共産主義等に関する陸軍省の検閲の結果。

▼『入営者必携 模範兵講習録 第4号』日本国防協会、S5
 陣地戦で突撃すると景色が同じなので必ず迷子になる。WWⅠでは磁石が必携だった。そこで俘虜が多かったのは欧州兵が弱いわけではない。

 空砲にモノを装填して発したもの→陸軍刑法の「違令の罪」。
 陸軍懲罰令。「免官は其官を免じて一等卒となし、降等は一階級を下す」。
 重営倉は、まともな飯と寝具が三日に一度。軽営倉はそうではない。
 教化卒は、兵器はもたせられず、外出もできない。
 諸令。特別大演習はD対抗。特種演習は、特別陣地攻防演習が主。
 金鵄勲章は軍人のみ。

▼滝沢正勝 ed.『入営準備 模範兵講習録』第2号、S5
 朝鮮、台湾、関東軍の三司令官は、天皇に直隷している。
 「陸軍教化隊」は姫路10Dの管轄。

 冬は6:30AM、夏は5:00AM起床。
 三八式歩兵銃の表尺鈑は400~2400米。

 軽機は左上方にタマが偏り易い(p.66)。※11年式のこと。
 ひとさし指をゆるめると、LMGは故障おこす。
 肉眼でパイロットの帽子が見えたら、高度200m。
 「間の外」から撃突する剣術。

 騎兵の「なみあし」は100m/分、伸暢駈歩[しんちょうかけあし]は420m/分。それ以上を襲歩という。
 日露役の沙河会戦で滝原三郎少将は、砲は前進するより長射程であることが有利だと痛感した。

 太田道灌は、浜辺の千鳥の鳴き声が次第に遠くなるのを聞いて潮の干いたのを察知した。陣中勤務では次のことを心得よ。
 埃の低く濃く起きているのは歩兵前進。
 埃の高く薄く起きているのは騎兵前進。
 埃の高く濃く断絶するのは砲兵前進。
 虫の声やんだら潜行兵。
 敵国住民が傲慢で勢い込んでいるのは近くに大敵兵あり。逆ならば敵兵少なし。

 飛行機工場勤務兵は自由が多く、安全なので、だらける。
 騎兵砲兵用の馬ははじめから軍馬補充部で育てたものだが、輜重の馬は壮馬を購買するので、御し難い。

▼大井成元・口述『メッケル将軍の思出』S14-5月、軍事史学会
 桂はパリに自費留学しようと出かけたが、ドイツが包囲中のため、ベルリン留学に変更した。
 大山は同じ船でフランスに調査派遣させられたが、両軍の士官を見比べて、仏側が恥なくたるんでいるのをみて独に傾いた。

 陸大以外の要職者も参謀旅行に参加させた。

 将来の独仏戦について、M26頃メッケルは、プロイセン陸大教頭として次のように講義した。とかく指揮官は敵の築城に吸引されがちだが、それは少数で監視せしめ、主力はパリを目指すべきである、と。それでそのための陣地線一点突破がさかんに研究された(pp.34-5)。
 「要するに将来の戦術は機動にあり」(p.35)。

▼嘉納吉彦『日本航空燃料史』1956
 ※資料として一級である。

 S6の上海事変では、30%混合することにされていたベンゾールがストックなく、海軍機は苦しんだ。
 そこで代りに四エチル鉛を使用開始。ベンゾール同様、これもS7に米から輸入。 
 S7に海軍は佐世保、横須賀にベンゾール貯槽を急増設。※まだ霞ヶ浦にしか航空機がない頃。
 初のオクタン価測定機材も米よりS8に輸入。
 当時、米の最高オクタンは87だった。

 北樺太オハ原油は、潜水艦用の重油にはなったが、航空用には年間1200キロリッターしかならぬことが分かった(p.14)。
 しかし中支渡洋中攻用にはオハ加鉛(74→92オクタン)使用オイルも特製。当時、米は100を輸出中。

 水噴射はアンチノック剤代わりに使える。重クロム酸カリ0.3%混入で防錆完璧となり、メタノール50%混合で不凍となる。噴射は高ブースト時のみ、燃料よりやや少ない量、行なう。
 この装置のために噴射式気筒をS18から造らねばならなかった。
 S19には全エンジンの三分の一が噴射式となる。

 燃焼のend-gasをかきまわす等して冷却すれば、「機械的に」オクタン価を高めることができる。
 揮発油の燃焼には3.5倍の酸素を要するが、アルコールは2倍強で済む。酸素消費量あたりの発熱量は、アルコールが上なのだ(p.123)。

▼白樺会『北樺太に石油を求めて』S58
 大15~S18まで、ピーク時には内地と同量、31万トン/年の原油を海軍に納入した。しかし大14で自主採油はなくなった。

 油田はロシア人が自噴しているのを早々と発見しており、1885にはその開発を考えていた。
 ちなみに千島・樺太交換条約は1875である。

 日本が北樺太に油田があるという事実を承知したのは、迂闊千万にも1905に陸海軍が北樺太を占領した際のこと。英ではとうからこの油田に注目していた。※テディが樺太占領を日本に勧めた理由も、とうぜん、これであったろう。

 ニコライエフスクの騒ぎの波は北樺太にも及んだ。日本の会社は一時全員、南に避難した(p.10)。
 利権回復後、ソ連はこの油をすべて極東で消費したようだ。

▼榎本隆一郎『回想八十年』S51、原書房
 米と違い採油量の少ない日本では航空ガソリンは分溜だけでは量があつまらず、イソオクタン(メタン原料の航空燃料)の合成をしなければならなかった(p.135)。
 水からガソリンをつくる怪人のエピソード(pp.136-7)。
 関東軍は満州事変後のS7年6月頃、燃料(石炭・石油)、鉄鉱石、アルミニウム原鉱石の三部門の調査を企画した。

 石油は内蒙ジャライノールがかねてから有望とれさていた。※だから田中隆吉?

 満州での試掘は失敗。石炭と油頁岩のみ有望と判断された(p.142)。
 ※じつは北支~満州の油田はシナ人とアメリカの石油会社が合同で綿密な調査をすすめており、石油がどこにたくさん出るかもほぼ判明したのだが、それを日本に知られればすぐに占領されてしまうので、シナ大陸に石油はまったく出ないという偽情報を広めて、米資本は一時撤退したのである。これを日本の敗戦後に中共が占領する。

▼成田精太『ソ連國力の解剖』S24
 モスクワ炭田の1940採炭実績は1300万トンだが工業用に不適。
 WWII中にモスクワから210工場を移転した。

 戦時中に沿ヴォルガ工業地帯が台頭。ウラル=沿ボルガ油田の1938生産高は130万トン。戦中に500万トンに達したかも。1941末クィブィシェフ遷都。

 ウラルでWWII中に全武器の4割を造った。
 コーカサス油田は1945に1100万トンと産油半減。1937には2100万トン。
 グローズヌイ&マイコップ油田は、占領、破壊、移転で壊滅。
 WWII初期ドイツの石油消費量は1000万トンで、ソ連よりずっと少なかった。

 ウラルの軍需生産はWWII中に6.6倍に。
 WWII英米の対独空爆は1500km以上飛ぶことはなく、1200~1300kmだった。

 ミンスク=バラノウィチ鉄道は最もパルチザンにやられた。ヴァルダイ高地からレニークラヴィッツじゃなかったレニングラド辺の湿地と、ピンスク~キエフ湿地は、春季泥濘化し、大軍移動困難。
 6-22は東部の雪溶けすぎの最大限早い時期。ヒトラーの侵攻開始予定日。

 例年ソ連工業は1~3月に鉄道フリクションのため生産下落、4~6月に回復する。
 1940のイラン縦貫鉄道は、バンダル・シャプール~テヘラン~バンダル・シャー(カスピ沿港)まで1394km単線で、機関車×109両、貨車×1350両だった。トルコからも単線。

 ヴォズネセンスキーによると、戦時、春蒔の労量へらすため秋蒔作物が増加された。
 戦中、英は在外資産売って財政賄ったが、ソ連にはシナ朝鮮の鉄路と東欧にしか在外資産なし。

 1939、人口密度はウクライナが一番高い。
 医員は1940でも76%が女。42年は83%だった。
 戦後ドンバス炭鉱の復興に7年かかった。食糧作物に変えてしまった綿畑復旧も困難。
 WWIIウラルでは兵器に必要な圧延鋼に傾斜。
 帝政時代、火力発電は液体燃料とドンバス炭使用。
 1937ごろ100気圧ボイラー設置。

 1949末のTD54型ディーゼルトラクター以前のトラクターの大部分は石油(ガソリン?軽油?灯油?)で、これを重油(軽油?)に替えて30%燃料節約と。

 ソ連では軍人の衣食は軍事費ではなく個人消費に勘定(p.309)。
 兵器バイヤーは政府なので価格を上げずに、経営を補助金で維持させる方針が、1949からはメーカー採算を強化する方向に変わり、兵器が値上がりした。1949-3-10ズヴェーレフ財務相。
 1948末までの兵器買い付け値は1939のまんま。1946末に軍人サラリー上げる。

摘録とコメント

▼『都市不燃化運動史』
 1657、明暦振袖火事後、植溜(緑樹帯)をおき、神社仏閣を郊外に移した。耐火都市計画。
 享保以降、町火消が町方、定火消が武家地、大名火消が江戸城を担当。
 特定地域では三年以内の土蔵造り化を命ず。

 失火後のコンクリートはアルカリを失い、中~酸性化して鉄筋を錆びさす。

▼本田喜久夫『戦争と音楽』S18
 WWII中のレコード各社の廃盤指導(pp.278-80)。
 星条旗よ永遠なれ、ワシントンポストは廃盤。蛍の光、庭の千草(ラストローズオブサマスー)は残る(pp.281-2)。

 カイゼルは無類の軍楽家。
 ビスマルクとワグナーは同世代人。

▼立花次郎『戦争と交通』S18
 S17頃に内容の無い本が多く出たのは、国民のインフレ気味の財布を狙った(p.151)。
 S17頃、少数の在独日本人がソ連経由で帰朝。
 戦争中も日本では温泉旅行が盛ん(p.155)。
 大間から鹿児島まで2200kmの「新幹線」構想あり。

 WWII中、独の大型船はバルチック海のみ立ち寄り、英国対岸は避けた。
 独は日本内地の5倍の鉄道密度を誇る。
 ベルリン=ウクライナ間200km余の複々線計画あり。
 ソ連はボルガの水運が×になるや、中央アジア鉄道を通じて単線5000kmに年間1500万t余の石油迂廻輸送を敢行した。50t油槽車を50両牽引する大貨物列車が延々5000kmの線路に間断なく走る。
 貨車はどうしても深夜に操車場に集まり、しかも照明もせざるを得ないため、空襲の好目標になる。
 ドイツは戦争中は“闇”食料がなくなる国だ(p.149)。※大嘘。

▼M・シャクリー『古代社会を復元する』
 archaeological visibility=考古学的な発見され易さ。 
 マヤの運河は、物資の建設資材を運ぶためのハイウエー。

 豹の骨と人骨が一箇所に出た。これはむしろヒト科が捕食されていたのである(p.42)。
 1930's、二人の極地探検家が、1年間、肉食だけで生き延びられることを実証した。※植村も実践した生肉食だろう。エスキモーに倣ったもの。

 ローマ兵は実は多量の肉を摂っていた(p.118)。
 14世紀、小麦が主食となる迄は、ライ麦の麦角中毒多し。
 レプラと結核は免疫が互換的に働く(p.139)。
 ドニェープル近辺のマンモス狩猟民は、ネアンデルタールより人口密度高かった。
 10~15世紀ノブゴロドのコーデュロイ式街路。全長にわたって丸太を横に敷き並べる。起原はB.C.4000にまで溯る(於・オランダと西イングランド)。

 斧で伐ると木の端繊維を押しつぶすので腐るのが遅くなる。
 松と菩提樹は保存されやすく、オークは保存されない。

▼西川吉光『現代安全保障政策論』
 ラテン語se-cura「ある状態から自由になる」→security
 Wolfersは1962に、不安の不在が安全保障だとした。それは他者をコントロールする力でもある。
 包囲恐怖症=シージメンタリティ。

 レイモン・アロンはビアードやH・モーゲンソーに逆らって「国益」の存在を否定する。ちなみに「我が国には永久的な敵味方はいない。永久の利益のみ」と言ったのはパーマストン。

 公共善 Public good の達成について、プラトンは高学歴少数者統治によれ、といい、アリストテレスは、少数意見も保護した多数人民の合議でこそ、といった。

 フィレンツェのロレンツォ・ディ・メジチはベネチアに対抗してミラノ、ナポリと同盟を結び「勢力均衡政策の父」と呼ばれる。
 16世紀にはロアン、18世紀にはフェヌロン、バッテルが勢力均衡を説く。

 AJPテイラー「大国の勢力均衡は小国の利益」。
 スイスはWWII中、ドイツに大量輸出(p.80)。

 WWⅠ中、連合軍はドイツに6559万枚の宣伝ビラを撒いた(p.116)。
 ブートゥールは人口の増大を戦争原因とみる。

▼ジョン・オルセン『ウェストポイント物語』
 ウェストポイントの新入生には次の四語しか許されない。「Yes, sir」「No, sir」「I don't know, sir」「No excuse, sir」。

 アナポリスは眼鏡者は採らない。水かぶると何も見えないので(p.62)。※これは戦前江田島も同じだったが、今はどうだか……。 

 ウェストポイントの外語は、ドイツ語(p.92)。
 レスリング、ボクシングなど各種スポーツを3ヶ月交替でひととおり習得。
 学科の「軍事科学」では、地図解読法などを。

 サバイバルスイミング。作業服2ポンド、ブーツ8ポンド、背嚢2ポンド、煉瓦10ポンド、M-14=11ポンド、計33ポンドを身につけ、深さ15ftのプールを75ft、銃を濡らさずに泳ぎ渡る。

 コロラドスプリングス(空軍士官学校)とアナポリスでは、もみあげや口髭の規制がなくなっている(p.254)。

▼陸海軍人民委員部『1929制定 赤軍偽装教令』陸軍航空本部&樋山光四郎tr. S8

 第十一:「積極的の偽装とは一定の計画の下に敵をして連続せる観念を辿り遂に我が企望する如き誤りたる判断に陥らしむるに在り 換言すれば偽装は一般の戦術上の方針に依り常に一貫せる主義の下に行われざるべからず 単に個々の目標を隠匿し或は偽工事を為すのみを以ては偽装と称するを得ず」

 第七十一:「規則正しき輪郭を有するもの、規則正しきか或は対称的配置を有する物体は飛行機に依り発見せらる」

 第百十七:「敵の空中偵察に対する偽装作業を為すに方りては開始前及作業中時々該地方の空中写真を撮映し且つ偽装専門家をして飛行機より肉眼を以て点検せしむるを可とす」

 第四百二十六:「作業を秘匿するには材料の運搬及配置を蔭蔽し夜間、濃霧時を選び遮蔽位置或は特に設けたる掩蓋下に於て作業を実施し且 偽装軍紀を厳守するを要す」
 ※キューバの核弾頭が全部発見されなかったのは当然だ。というか、そもそもバレたのが異常。部下軍人たちがフルシチョフに反発して臍を曲げたのだろう。

▼フラー『制限戦争指導論』
 1915初期、西部アルトア・ルースでは、砲兵の射撃によって敵の第一線壕を占領できた。ナポレオンも、戦争は砲兵の運用次第と言っている(pp.245-6)。

 補給車の推進は砲撃の弾孔のため困難で、歩兵に追随できず。※平時にいくら道路網が整備されていても、有事となればこうなる。

 イペリット系黄十字(マスタード)は致死性でなく、暴露後4~12時間で火傷発生(pp.257-8)。
 ※戦後の別資料で補う。マスタードの効果は、最短でも4時間たたないと出ない。そして目は数カ月ダメになる。イペリットは白血球すら壊すが、同時に、抗ガン剤としての用途も発見されている。WWIの毒ガスには、鳥が最も弱く、ネズミすら死に、馬もやられるが、犬は平気であった。塩素ガスはすごい濃度で、小火器などは錆びて動かなくなった。だからマグネシウムが良いのか?

 1918-3~4月、アラス=ラフェール間に独軍がガス攻勢。アルマンティエールス(仏白国境の町)はマスタードガス充満し、住民は下水道づたいに逃げた。

 WWⅠ中の米軍損害258338人中、70752人がガス。つまり27.4%だ。しかし全損害中46419が死亡であり、うちガスによるものは1400人だから、ガスによる戦死比率は2%だった。
 フラーいわく、WWⅠに使用された最も人道的兵器はガスだった。

 ナポレオンは、ロシア農奴、ウクライナ人、100日天下中の仏に対しても、まったく宣伝は慎んだ。
 ビスマルクも1871パリ革命政府を決して支援しなかった。

 ドイツの残虐を宣伝した詳細なリストは、“Falsehood in War Time”by Arthur Ponsonby, 1936を読め。
 ドイツにはWWⅠ中、宣伝省がなかった。
 1917末、ボルシェビキの宣伝はその全力をもってドイツ軍隊に向けられた。

 ブレスト・リトウスクの独ソ和平条約で、ロシアは人口の26%、農地の27%、石炭の四分の三を失った。

 1920のソ=ポ戦争で、もしトハチェフスキーが勝っていたらドイツは占領され、ベルサイユ体制は吹っ飛び、世界共産革命戦争に発展していた(pp.290-1)。

 革命後、労働者は働かなくなった。それで農民も交換したいものがなくなり、食い扶持分しか耕作しなくなった。これが1920の飢餓の因だと。→NEPの必然。

 レーニンはクラウゼヴィッツについて「その基本的思想は現在では、あらゆる思索家の反駁を許す余地を残さないものとなっている」と。
 レーニン時代には、ボルシェビキ党の多くがユダヤ人であった(p.346)。

 フラーは目撃した。戦車が軍の指揮頭脳をパニックに陥れた。このパニックを起してやれる兵種が他にあるならば、それでも良いのだ。
 フラーはダリウスに対するアレクサンドロスの直接アプローチがペルシャ軍崩壊に結びついた、と見る(p.361)。
 フラーの戦車による攻撃目標は、あくまで各級司令部で、そこに向け不意に驀進させるべし、と。

 1939の独陸軍の優位は数的なもので、質的優位ではなかった(p.363)。
 WWII開戦時の仏兵力は独の半分しかなく、マジノ防御は致し方なかった。

 質・量ともに勝っていた仏戦車がベルギー国境に集められていたら……(p.365)。
 トハチェフスキーは1937-5にフラーに反発。戦車部隊に対しても砲兵の支援は必要だと。

 資質を有する司令官は、善悪いずれのニュースに接しようと興奮したり驚嘆しない。資質のない人は、自らの体質から、ありもしない状況をつくりあげてしまう。──ナポレオン。

 1940-5-18、チャーチルは「共産主義者とファシストを抑留すべきである」と軍に訓令、裁判もなしに、ドイツ系ユダヤ人など多数がアスコットなどで抑留された(pp.388-9)。※マン島にも収容所ができた筈。

 1940の独軍の対仏電撃戦中、独のラジオ局はフランス語放送を間断なく行い、民衆パニックを演出した。

 ライトリンゲルいわく、もしドイツ人が、1918のウィルソン14条のようなものをもってロシアに侵攻していたら、ロシアはちょうどドイツが14条で分裂したと同じようになったに違いない。

 チャーチルにとって対ソ援助、対独非妥協は、自分の生涯を単純化するためでしかなかった(p.396)。※フラーはファシズム運動家。

 1940-9-3いらい、英爆撃機隊は国防省直轄とされ、チャーチルの私有部隊となった(pp.420-1)。※これをマネしたのがFDRの原爆運用。

▼ハンス・モーゲンソー『国際政治学』第3版・第8章「国力の本質」
 インドは石炭と鉄の宝庫としてアメリカとソ連の次にくる。
 1939にはわずか300万、総人口の1%以下のインド人が工業に就業していた。

 大きな人口がないと近代戦に必要な工業設備を建設したり動かせない。
 米人口は、1824からの自由移民、とりわけ1874~1924の移民に負う。

 WWⅠ直前、独は、ロシアの人口増はこのままでは我に不利と判断した(pp.167-8)。
 1870には独も仏も米人口より多し。しかし1940の米人口は1億(?)、仏独計は3100万。
 19世紀末、大英帝国は40000万人、つまり世界人口の四分の一。1946には55000万人、うちインドが41000万。インドを失えば、英も終わる。

▼増田抱村『国家と人口学説』S17
 英は中世では仏と同じ農業国。穀類を輸出し、人口は仏より少。19世紀に至り、工業発展し、食糧輸入で仏の食糧輸入額を凌駕。

 15~18世紀中葉は、ドイツ人(中心はシュワーベンやバイエルンの高地族)が最も増えた。ギボンの説明によると、ラテン民族より遅れて文明開化したので性的に堕落しておらず婦女をあくまで家庭内にとどめて増殖力を高く保ったからだと。
 東独移民とともにペストが流行し、15世紀以前の300年は人口は微増。
 1500生まれのフォン・ヴェルトは、ゲルマンとはゲルミノ(盛んに繁殖する)が語源だと主張。

 百年戦争で農村が掠奪されると流民が都市に殺到し開戦9年後から都市型疫病が蔓延。 ここから大復興したルイ14世の大臣コルベールが、人口は国力の手段であり、また国政の目標も要するに人口を増やすことだと言ったのはけだしなりゆき。

 マキャベリは、スパルタやアテネの衰退は人口制限にあるとした。スパルタは遺産を均等配分していた。ローマ人はギリシャ人と違い、人口が増加しても国内は乱れないと考えた。
 ※戦時中のコンセンサス。人口制限は個人のためにはなる。が、国家のために悪い。

▼美濃口時次郎『人口政策』S19
 モンテスキューが総括する。プラトンとアリストテレスは人口の増加を恐れ、その抑制を主張したと。
 それは少数の自由民が多数の奴隷を支配するための結論だと。
 ※戦死の可能性と飢え死にの可能性に直面した人にとって、後者がはるかに深刻である。

▼北岡寿逸『人口政策』S18
 明治には「人口問題」はなかった。
 大正に「過剰論」が生じた。
 コメの生産性が人口増に追及せず、輸入の必要があった。大正の米騒動。

 日本では支那事変を境に、それまでの人口過剰論が、「生めよ殖えよ」に転じた(p.58)。

 スペングラーは仏人口減少の理由のひとつに、15歳以下の児童の労働機会が減ったことを挙げる。加えて、教育の必要。

▼フォン・ボグラウスキー『古今戦法』伊藤芳松 tr. M34
 著者は独中佐。訳版元の兵事雑誌社はM29-3に雑誌創刊。

 独傭兵の銃兵は槍集団と組んだ。敵騎兵襲撃に対しては槍の後端を地に依托し、蝟集した。
 「クローゼウ井ッツ」に言及。
 ナポレオン時代は敵に300歩まで近づいて放列。
 普仏戦では400~500歩距離の歩兵損害が最大。これは密集過度のため。

 「独断専決」と訳している(p.232)。
 独実験によると400m以上の小銃射撃は無効。
 最新火器の決勝距離は250~400mだ。

▼中央経済法研究会・森敦三 ed.『敵産管理の理論と実際』S18
 S16-12-22に成立した敵産管理法の解説。
 ※要するに米国特許(の国内独占使用権)を強制的に公共化してしまう法律。ちなみに三菱商事などはスイス等を経由して対米戦中もパテント料などを払い続けていたことを戦後に誰かが書いていた。

 工業所有権戦時法ニ依ル専用免許申請ノ却下(S17-8-21、いずれも陸軍大臣が申請却下した)。

 特許No.77723・石炭、石油或ハ炭化水素化合物ニ水素ヲ添加シ圧力及熱ヲ加ヘテ之ヲ分解スル方法。
 No.97560・炭素質材料ヨリ有価生成物ヲ製造スル方法。
 No.97637・鉱油ノ精製法。
 No.104540・内燃機関用高空調整装置ニ関スル改良。
 No.107815・可調正「ピッチプロペラ」。
 No.117202・空気入リ「タイヤー」ノ内管。
 No.124287・石油炭化水素分裂法ノ改良。
 No.125870・液体混合物殊ニ炭化水素液体混合物ノ分離法。
 No.142640・高「アンチノック」原動機用燃料炭化水素ノ製造法。これは日窒がテキサコから買っていた特許である。

 ……他に、飛行機ノ尾輪、内燃機関用燃料ニ関スル改良、発動機燃料、分解蒸留物ヨリ得ラルル常時液体ヲナス炭化水素蒸留物ノ精製方法、などなど。

▼産軍複合体研究会『アメリカの核軍拡と産軍複合体』1988
 G・ライマンの『ヒトラーの特許戦略』によれば、スタンダード会社はファルベンに人石の特許を売り、WWII中も料金を受け取っていたという。

 WWIIで使われた燃料の6割は石炭。4割が石油。
 これが朝鮮戦争では逆転し、石油6割となる。
 ベトナムの米軍は100%石油だけ。

▼池崎忠孝『太平洋戦略論』S7
 ※三冊の単行本と幾つかの論文を合冊したもの。

 カトーはしつこく唱えた。“Delenda est Carthago”カルタゴは滅ぼされねばならぬ、と。

 思ふに、我国が封鎖されて一個月も立たない間に、主として木造建築から出来てゐる我国の首要都市は、殆んど灰燼に帰して終ふでありませう(p.32)。

 石油がいよいよ足りなくなったら、シベリア鉄道でロシアの石油を買えばよい(p.166)。※この石原莞爾の受け売りが、満州事変後の提案たり得るのか?

 米人は日本海軍の七割主張を an Incantation(無意味なおまじない)と呼んでいた(p.365)。

▼石井洋『日本国防の地政学』S55
 バイカル以東のソ連石油需要は1000万t/年。それに対してサハリン原油は250万t/年。よって西方からの鉄道貨物の3割が原油となる。コムソモリスクとハバロフスクに精油工場がある。

 1941-8-5に日本政府が対ソ中立条約遵守を声明するとスターリンはバム用レールを西シベリアからウラルの武器工場に送った(p.29)。※Really?

 ムルマンスク~喜望峰~ウラジオストックで15600マイル。スエズ通れば12000マイル。北米経由なら5700マイル。

 日本の1935と37の原油と重油の対米依存実績。67%(231万キロリットル)と74%(353万キロリットル)。

▼ブルース・A・ボルト『地下核実験探知』
 1945-6-16のニューメキシコのトリニティ原爆は1万9300tのTNT相当。
 地震波記録では、電光形の上向きに針がブレている軌跡が、地盤の圧縮を示している。
 シナの核開発担当官、銭三強は、パリのジョリオ・キュリー研究所からソルボンヌに進んで1943卒。WWIIで仏にとどまるあいだ、仏の地下運動を通じ、モスクワに成果を渡した。戦後のソ連の対中共核開発支援は、そのときの働きに対するお返しだった、と銭は言う(p.14)。

 ソ連援助でシナは重水炉を1960-6に臨界させた。そしてガス遠心分離で濃縮したウラン235により、1964-10-16、バクハツ。

 インド初原爆は10~15キロトンだった。
 ジェット気流は、通常の15倍も強い音圧で、50km以遠によく音を伝える。

 半減期の2倍の時間では、放射能は最初の四分の一になる。ゼロにはならぬ。
 ストロンチウム90の半減期は28年。セシウム137は30年。プルトニウム239は24300年。この半減期の長さが金属としての加工をゆるす。ウラニウム238は4.5×「10の9乗」年。

 煉瓦造の家に住む人は、木造の家に住む人より、多量の自然放射能を受けている。

 ふつうの水素の原子核は、陽子が1箇だけ。
 「陽子1箇+中性子1箇」は重水素。Dとも略記。これは自然界に5000分の1存在する。1kg分離するのに、100ドルかかる。
 「陽子1個+中性子2箇」は三重水素。Tとも略記。ふつうは核爆発(特に核融合)でつくられる。不安定な放射性で半減12年。Tは常温では気体のため、乾式水爆では6リチウム化重水素として原爆の周りを囲ませる。また「装置水爆」とは、DやTを液体で使ったもので、それゆえに湿式とも言う。

 1929春に米人がサイクロトロンを発明した。※爆縮式原爆に必要な、多数の爆薬を精密に同時一斉に電気点火する回路装置のことは「クライトロン」という。

 無用に飛び散る中性子の方が多い状態を、亜臨界という。
 プルトニウム239を使ったガン・バレル・タイプも可能である(p.51)。
 きたない水爆10個は、原爆1万発分のフォールアウトを生ず。

 500グラムのDの融合は、yieldにしてTNT26キロトンに相当する。
 湿った土の方が、地震効率はよい。水中なら、もっとよい。
 2トンの硝安発破は、400km先の地震計にもわかる。

 火山灰の塵が大気をまわると、夕陽が真っ赤になる。
 1350年に銃砲推薬として使われていた火薬が、採鉱に応用され出すのに、更に300年かかった。

 地下実験は、径2m、長さ1000mの孔。爆弾は鋼容器入り。電線を引いて、埋め戻す。

 表土が下底岩盤から切り離されることを spallingという。
 上昇表土の再落下衝撃を slapdownという。
 衛星でチムニー陥没をみつけられぬようしたければ、特に軟層土のところでは深掘りの要あり。
 液体中はS波は伝わらない。
 5kmより深い核実験は経済的に不可能(p.100)。
 102頁の断層崖の写真を見よ。Great wall は自然物がヒントだったのだ。

 普通の地震では、観測点によってP波の初動方向が異なる。が、核実験ではそれがすべて上向きとなる。震源の4方位からの観測記録を照合しさえすれば、核実験と確定される。

 空気が薄いと宇宙放射線の害を受ける。アンデスのインディオはリマ市民の10倍被曝しているのだ。
 ストロンチウムはカルシウムと同族金属なので、骨中に蓄積され易いわけ。
 アーネスト・ローレンスらは、1957にアイクに対し、ABMの無フォールアウト可能性を報告。

 1972時点で米で最も深い油井は8km。
 大空洞内で爆発させると地震は三百分の一になる。これをデカップリングという。

 1963-6フルシチョフの東ベルリン演説で、ソ連は現地査察は拒否するが、大気圏内・宇宙空間・水中の核実験停止条約は締結してもよい、と。それまでは全面核停以外は認めていなかった。
 1959-6提出のバークナー報告により、米国防省は、ソ連をとりまく国々に10地点ほどの地震観測点を置く。

 1974ジスカール・デスタンは太平洋実験を地下化すると述べ、1975-6-5のムルロワ実験は地下になった。
 スウェーデンはかつて地震の被害を受けたことがない国だが、1930'sから地震観測を開始。1000km離れたノバヤゼムリヤその他のソ連実験を記録し続けている。

 ツンドラや結氷海岸の地中ノイズは小さいので、観測所に適している(p.219)。
 径わずか17.5cmのボーリング孔にも入る小型地震計ができた。

 1971に於ける西側の探知能力は、最小20Ktまで。
 20Kt爆発は、300m厚の沖積層で完全に封じ込められる。
 ソ連はTNT5キロトン相当の化学爆発「メデオ」をやったことがある(p.259)。

 NSAは日本、トルコ、印パに於いて新疆の秒よみを聴いている。
 部分核停条約後も米はクレータ実験行なう。1968に三回。

 核爆発により陥没したチムニーの放射能は比較的低い。

 核クレーター利用貯水湖のソ連での実例(p.287)。

 5メガトン弾頭のABM爆発はかなりの広い空間をX線で飽和させ、進入ミサイルの電子回路を妨害する。
 1974(?)に南ア原子力評議会のスポークスマンは、南アの核技術はインドより進んでいる、と明らかにした(p.368)。

▼“The effects of atomic weapons”『原子兵器の効果』武谷三男・他 tr.科学新興社1951pub.原1950マグロウヒル。
 ※同じ本を主婦之友社も『原子爆弾の効果』と題して、篠原健一、石川、山口に訳させてS26に出している。主婦之友社版は485頁、科学新興社版は536頁。印刷技術に歴然とした差がある。なお国会図書館蔵の科学振興社版には例によって往時のミリタリーフリーライターによると思われる犯罪的な切り抜きがある。それは巡洋艦『酒匂』がビキニ実験で大破している写真の載っている頁の前後である。

 放射能は光輝が収まった後、生ずる。
 火球は、密度が小さいので上昇する。

 広島、長崎の例では、高度が2000ftで、フォールアウトに帰せられる被害者は全く存在しなかった(p.44)。

 ピーク過圧は、爆発出力を「三分の一乗」した数で距離を割った数値に、単純比例する。
 20キロトン爆弾が、距離2500で、ある被圧値(1平方インチあたりにかかるプレッシャー)を生じたとするならば、30キロトン爆弾は、同じ被圧値を、距離2860において示すことになるわけである。
 ※つまり小型の核爆弾を大都市の細かなグリッドに1発づつ、計数百発も落としてやるような絨毯核攻撃でも加えない限り、ひとつの大都市の地下構造が全滅することはない。

 圧力と距離との関係は、地上爆発の場合は、同じ量の空中爆発の場合の距離に、「2と1/3」をかけたものと同じ。
 高度が高くなると、地上爆発よりも、最大で「2と1/3」、ふつうは「2と1/2」倍に威力が増す。これは、反射波の効果が加わるため。
 ※つまり対都市の毀害面積を極大にせんとして最適な起爆高度をプログラムすれば、こんどは直下の地下構造に対する破壊力がトレードオフされてしまう。このように、核は「絶対兵器」からは程遠い。長崎と広島の被害は、両都市があまりに可燃であり過ぎたことによったのであり、これはドイツと日本に対する連合軍の通常爆弾空襲の投下爆弾量と、それによって地上で発生している死者の数値を並べてみたら、一目瞭然だ。

 ビキニ実験で発生した波頭の最高は20ft。

 重骨組+鉄筋コンクリートは最強で、レンガ造りは弱かった。煙突構造は、背圧が均しくなるので、おどろくほど強い。広島では鉄筋煙突は残った。木の電柱は折れた。

 大型核爆弾のピーク圧を考えると、その空中爆発の被害面積は、放出エネルギーが2倍になると、1.6倍(2の「2/3」乗)になる。
 小型核爆弾の力積を計算すると、エネルギーが2倍になれば、被害半径は1.6倍になるから、被害面積では2.5倍になる。

 20キロトンで完全破壊される地表域は、半径0.5マイル内である。

 丘陵の影になったためまったく無被害だった長崎の住宅地の写真(p.163)。

 18インチの土と木で造った半地下壕は、爆心から距離900フィートでも残り、1/2マイル以遠では、全無被害であった(p.189)。

 吃水30ftの主力艦に対しては水中1/4マイルで起こった核爆発が最も有効である。※艦底を破損し、浸水せしめる。
 潜航中のsubは、距離2700ftでの水中核爆発で仕留められるだろう。
 商船は3000ftでも損傷。軍艦は2000ftで。
 衝撃波面は輻射を発することができない。吸収もできない。よって火球を囲む。

 赤外線は起爆から0.3~3秒後に出るので、閃光を見てすぐテイクカバーすれば火傷を防ぐことができる。

 中性子を、火球をみてから避けることは不可能。
 遅い中性子は、よっぱらい歩きのように到達するから、壁のうしろに隠れただけでは防げない。遅い中性子の方が、高速中性子よりも5倍も致死的。また、速い中性子の放出量は、ごくわずか。

 長崎のグラウンドゼロで、生き残った山腹坑の写真(p.458)。

摘録とコメント。

▼Ernesto Massi・他『アメリカ地政治学』S16、原1941
 ※海大の蔵書印あり、そしてパナマ運河のイラストには「封鎖線」を朱ペンで書き込んである。翻訳の早さといい、もうマジですね。

 1914までの南米は単純に植民地で、その都市は、輸出のための交通基地に過ぎず。
 南米内の国家間紛争は「大洋への共通の出入口をどちらがとるか」

 1936に英はマヤ連峰の山麓(グアテマラ、ホンデュラス)に、独・墺・チェコの亡命者たちの植民地を定めんとした(p.184)。

 ホンヂュラスの河川による国内交通は、多くUnited Fruit Companyによって管理されている。

 1920頃、サウスジョージア島付近で年平均1万頭の鯨を捕った(p.191)。
 1940頃のフォークランド守備英兵は200名。

▼京大文学部西洋史研究室 ed.『傭兵制度の歴史的研究』1955
 スイス応募兵は飢餓線をさまよっていた貧民たち。

 英の対植民地革命鎮圧の要訣は、ニューイングランドを制するハドソン河の確保と目された(p.473)。

▼Joseph Marz『海洋地政治学』S16、原1937
 ※著者ヨーゼフ・メルツは独人也。
 アングロ・イラン会社の石油産出量は、1931に6300000tで世界の3.3%、1932に7000000tで世界の3.8%、1933に7100000tで世界の3.4%だった。

 当時、直接にイギリスの勢力下にあったのは、イラン、ビルマ、イラクの一部の油田。 大英帝国の横軸、すなわち英←→シンガポールに沿って油田がある。 

 東アフリカ領有に際して英はザンジバルの保護を重要視し、1890ドイツはそれを諦める代わりにドイツ寄りの北海河口に突出したヘルゴーランド島を交換物として領有した。しかしWWⅠ後、要塞は壊された。

 1939刊の「海軍評論」p.409に、海軍の保護による南方石油地域への進出を、海軍大臣が意見している。
 1937英人はカナダ人の35倍額を納税している。アンザックの3倍でもある(p.77)。

 英の地中海進出は、ミノルカ、エルバ、カプリ、コルシカ、ダルマチア沿岸諸島、イオニア諸島などの島嶼の占領によった。

 フリードリッヒ・リスト(1789-1846)は、香港占領前に「イギリスにとりアフリカは、インド、シナ、オーストラリアへの商業路としてのみ価値がある」「経済学は国家の特色に従って異り、時間的制約の下に立つ」と。

 1937のイタリーとフランスの潜水艦数は11+7隻で、英は15隻(p.155)。。

▼C・B・フォーセット『政治地理境界論』S7、原1921、Oxford刊
 ボーダーラインではなく、帯としての Frontier line を説く。

 ライン地方で話されるドイツ語は内部ドイツのそれよりも語尾の変化に注意しない。

 「マーク」。中欧原始林中の部落を囲繞する非居住広野で、よそ者がここを通過するときは、指定通路を守るか、自己の存在をあからさまに表わさなければ危害を加えられた。奇襲防止用の慣習。※「ディマーケイション」という映画があったな。たしか邦題は「戦争のはらわた」?

 ナポレオンいわく、仏帝国の辺境障害で、エジプト=シリア砂漠が最大であり、アルプスがそれに次ぎ、河川は第三位だと。※攻める立場? 守る立場?
 1890'sまでサハラを超えた軍隊はない(p.42)。

 アルプスの不均等な起伏は、イタリア側からの侵入を難しくし、南独側からの侵入をたやすくする。しかもイタリア側へは必ず分進合撃となる。

 山地は統一的言語を有するのが普通なのに、山頂を以て二国間境界としてしまうから、少数言語問題が起こる。

▼戦略問題研究会 ed.『戦後世界軍事資料・3』
 1950頃までは核兵器は米原子力委員会と軍の共同管理だった。トルーマン以後、軍の専管となった。迅速使用のため。

 1972春、南越軍の独力と北越軍は実力均衡していた。1973-1の停戦協定へ。
 第四次中東戦争で米はイスラエルに8000トン空輸、蘇はアラブ側に13000トン空輸+海上α

 1973にF・Ikleは論文にて、地下数千フィートから数週間かかって地上に出る戦略報復兵器を提案。同論文はまた「時間こそ、錯誤に対する最良の薬」と。※地下軍隊が忘れ去られて……というマンガはここからか。

 G・Santayanaの名言。狂信者は、彼等の目標を見失ったとき、彼等の努力をさらに倍加する。

 マイケル・ハワード1973論文。「核のクレディビリティを発揮するには、その地域への通常戦力投下のクレディビリティが先立たねばならない」。※日本がシナの攻撃を受けた場合も同じこと。軍艦で反撃できぬ国がどうして核兵器で反撃できようか。

 ハワードまたいわく、「欧州に強力な通常兵力を置きさえすればソ連は核を使えない」。※さすが英人でよくわかっている。全西欧を占領できるからこそ核を先制使用する価値がソ連にはあったので、占領という政治目的が防者の通常兵器によって実現できないと分かっていたら核だけ発射しても危険・高価・不利なだけである。
 ※もしもソ連が米国と同じ島国だったなら、とっくに核ロケット戦争は起こっていた。核破壊をうければ周りからどっと攻め込まれる立場であるがゆえに、ソ連は慎重であった。

 A・Wohlstetterの1973論文。通常と大量核の中間──戦術核──の段階があるから、そこで終結のチャンスが生まれる。
 H・P・Truemanの1971論文。機甲部隊は現在、1日に50ないし100キロのスピードで前進する。

 1970にニクソン政権が基地内で化学処理の上、廃棄を決めたB兵器は、アーカンソー州パインブラフ(対人用)、コロラド、メリーランド、カリフォルニアの三箇所(対農作物用)に貯蔵されていた。

 韓国は1970をもって号令と動作を米軍式から国風に変える。71年にM-16のライセンスを取得。

 1966後半より、ソ連はモンゴル内にロケット陣地をつくる。※マジでシナをやるつもりだった。
 対シナ作戦用の機甲主力はモンゴル北のザバイカル管区に集めている。

 1973当時、シナの40隻のディーゼルsubは黄海から南支那海の間を浮上せず潜航(p.146)。
 72頃の北ベトナムの保有トラックは2万前後。ソ連からは年8000台の援助があり、中共からは年2000台の供給があった。
 北ベトナムへの石油はシナからパイプラインで毎日1000トン送られていた。

 71年に米軍は6.7トンの「コマンド・ボルト」をC-130から投下し、一挙にヘリパッドを啓開した。

 破壊再生森林にはダニ、ネズミが増えるので、生物兵器の効果も倍加される。
 1973-11-2ワシントンポストはソ連がSCUDをエジプトに送ったと。

▼『戦後世界軍事資料・4』
 現代は「決戦のない長期闘争」なので、クラウゼヴィッツの「彼我双方が決戦を求めない場合の戦場防御」が適合する。
 攻者は、「決戦にならぬよう、できるだけ広い地域を占領せよ」「敵の有力な倉庫を占領せよ」「防者が守っていない要塞をとれ」「有利な小戦闘を求めよ」。※いまシナがやっているのはコレ。
 防者は「要塞の前面に兵力を配せ」「戦線を延ばして防衛せよ」「敵の側面を脅かす配置を」「不利な戦闘を回避せよ」。※つまり早く下地島に空自を置けってこった。

 SIPRIのTsipisによる方程式。イールドの「三分の二乗」を、CEPの二乗で割れば、ハード目標キル能力(K)は算出される。

 リッチェルソン1980論文は、ICBMでソ連の政治指導者を殺すと、残った軍人では戦争を終わらせられない、そこで対西欧侵攻力を狙え、と提唱。

 1974に米はギリシャ国内にオネストジョンの核弾頭部をもつ数個の基地をもっていた。
 韓国がF-16を希望しているとの報道がされたのは、1976-12のNYT。

 1981-11-10のロストウ(レーガン政権)によるガイドライン。ソ連のSS-20に対抗し、シナおよび日本への戦域核配備を考慮する。※これに乗ろうという日本の評論家がいたわけ。

 1982-2-7のFY83国防報告 by ワインバーガー。ソ連を極東に分散させるためシナを準同盟国扱いとし、補給支援したい。※これも日本が頼りなかったため。
 B-52、B-1に空対艦ミサイルを搭載して海軍に協力せんとしていた。
 83年、リビアに抗しているチャドへも米はレッドアイを供与した。※スティンガーの一代前のタイプ。

 1983に未発表に終わった西独国防白書は、ソ連の軍事力は米が言うほど大きくない、と指摘していた。※偵察衛星がなくともこれだけの判断ができた。それに比べて北鮮が核武装していると何の根拠もなく信じている日本の言論人ときたら……。

 1981に全大統領は戦闘機の国産を予告した。

 1983、政府は緊迫時の米軍による3-Straights の封鎖を考慮すると発表。※米軍は自前で三海峡くらい封鎖できるのであった。そしてレベルの低い日本のマスコミでそれを解説したところは一つもなかった。

▼フェルヂナン・フォッシュ『戦争論──戦争の原則とその指導』S13
 原1903、その第51版が1918だが、初版と1904版からの抄訳。

 日露戦争は、欧州にとり戦訓たり得ない(p.10)。
 火器の数で上回れば、攻者はそれだけで優位である。※マスケット時代の考え方。
 古いローマの格言「同時に二つの戦争は決して行ってはならない」(p.34)。

 モルトケ「敵主力との第一回遭遇までしか、作戦計画は立たない」「最初の集中に当たって犯した過誤は、戦役間には訂正し難い」。

 モルトケ「敗退した一軍が新たな軍の来着によって前方に推進された例しがない」(p.101)。※まさに赤軍の流儀がこれであった。突破に成功しているスピアヘッドに対して全予備を送り込む。悪戦停滞している部隊へは増援をしない。

 クセノフォン「兵術とは行動の自由を確保するの術」。
 フォン・デル・ゴルツ「敵の戦闘員を殲滅するは敵の勇気を皆無ならしむるに比してその価値が少ない」。

 陸大は“Ecole de Guerre”也。

▼フラー『制限戦争指導論』
 30年戦争(1618-1648)では、軍人35万人、民間人800万人死亡。
 1805ションブルーンでナポレオンはメッテルニヒに言う。自分は1ヵ月30000人を損耗しても構わないと。徴兵制のおかげで。
 「将帥は状況図を描いてみるようではだめだ。つまり将帥の聡明されは望遠鏡のレンズのようにすみきった状態にあるべきだ」/ナポレオン。

 奈翁いわく「大隊長は全将兵の名と能力を6ヶ月で覚えるまで休息するな」(p.57)。※今日ほとんどの軍隊でこれは実行されている。
 N.B.いわく「自分が3~4ヵ月先に何をすべきか考え抜くことになれる」

 セバストポリで使用考慮され、斥けられたのは、硫黄を使った「焼夷窒息弾」。

 南北戦争の動員。北は289万8304名。南は122万7890~140万6180名だった(p.148)。※黒人従兵をどうカウントしているのか?

 小銃射程が大砲射程を上回った南北戦争で、正面攻撃はすべて失敗した。1862-12-13フレドリックスバーグでは北軍バーンサイドが、1863-7-3ゲティスバーグではリーが、1864-6-3コールドハーバーではグラントが、いずれも撃退されている。

 南北戦争は本格的塹壕戦で、シャーマンすら築城をさせ乍らアトランタへ進軍したのである(p.149)。
 シャーマンの副官は、シャーマンを「民主主義者で少しもヨーロッパ的なところがない」と。
 露土戦争では、塹壕にいる小銃手の防御力は絶大だった(p.176)。

▼総力戦研究所『長期戦研究(1)』上・下 S20
 モルトケ「等しいものを加える時には等しい」。

 戦争回避の努力をしていた国が戦争を避けられなくなったとき、明確な指導理念を用意していた実例はない。
 国産愛用は戦争準備のインディケーターである。

 WWⅠ準備において、独は国境中心の交通網、露は都市中心主義の通路を整備したため、動員に大差が出た。

 文禄慶長役の水軍も陸に従わされて負けた(p.40)。
 長期戦の過程における占領地の拡大は必ずしも戦捷の象徴ではない(p.51)。

 WWⅠで独は農民問題を扱い損ねて失敗。ヒトラーはそこで「農民と土地」を訴えた。※WWⅠの食糧危機の想い出がウクライナにこだわらせたのだろう。またペテルスブルグを餓死させられると信じたのだろう。

 英海軍はその実戦重視の伝統から参謀将校の出現を喜ばなかったが、チャーチルの技術的見解により海軍参謀部が設けられる。

 WWⅠ前半に独艦が英本土を砲撃している。そのごはZeppelinに代わる。
 独はWWⅠ当時から、ルーマニア石油、ウクライナ農産をはじめ、東部を自給のための掠奪地としていた。ポーランド人の動員も。

 WWⅠ中の独の対内宣伝は、初期はロシアに、後期は英に敵愾心を指向せしめた。

 コンボイ式は一青年士官の建言で、ロイドジョージが採用。前海相チャーチルは商船員にその伎倆なしとして反対。

 英ではある作戦が失敗すると関係閣僚が辞職する。ダーダネルスのときはチャーチル。メソポタミアのときはチェンバレン。
 フレンチは新聞を利用して本国にタマ不足を訴えることに成功した(p.429)。

 英上流階級は、秋口から春までの9ヶ月間を田舎で狩猟と乗馬についやし、5月にロンドンに集まって社交を愉しんだ。しかし徴募あれば長男以下全男子を捧げた(pp.435-6)。

 ヴィタミンはWWⅠ直前の発見(下巻p.5)。
 末期ドイツは砒素生産が落ちてガス戦を続けられなくなった。

 火砲の音源探知機は英仏共同開発である。
 開戦前の独仏英の重機は2184/1872/158梃という比。休戦時には15700/12200/5500梃に増えていた。
 WWⅠの撃墜の六分の一は地上火器による。

 ガス死傷者は、英187000人、米76000人、仏244000人。
 当時、ノーベル賞数でみると、独は化学、英は物理で勝っている。

 戦争初期には「誰が始めたか」論、後期には目的論が活気を帯びた。※前者をレーニンが批判する。
 初戦で上下あげて最も熱狂的だったのはロシア(p.35)。

 プロイセンでは官僚(含・軍人)の上層は、貴族が占有するので、田舎人は政界に入るしかなく、政府と議会はソリが合わない。

 ルーデンドルフはカトリックをユダヤと並列に悪罵す。
 ロイドジョージは大陸指揮権をFoshに一任。

 「14ヶ条」はむしろ英宣伝機関により世界に広報された(p.66)。
 独露が10.5cm砲や10cm砲をそろえているとき、仏は7.5cmばかりだった。
 仏は防諜強化の一環に前内相マルビーを漏洩の罪で2年島流し。

 労働力不足をおぎなうために仏は5000人のシナ人まで雇っている(p.109)。※この延長で周恩来とトウショウヘイが渡欧してアカに染まることに。

 ロシアは東には食糧余り、西の戦線と都市部では不足した。運べず。食糧を輸送優先の末位としていた。※だから国内が混乱するたびに鉄道が止まって大量の餓死者がすぐに出る。

 仏の自動車は戦中に急発達。馬がとられたことと、米からの石油援助。
 ロシアはWWⅠ中にウォッカなど酒類の販売を禁じた。

▼長谷川重治『科学捜査』04
 死体は地上に置いておくと最も早く白骨化する。
 水中はその二倍、土中は八倍かかる。

 タイヤにふみにじられてできる、皮膚と肉とのスキマを「デコルマン」という。
 22口径のピストルの弾すら、1.6kmも飛ぶ。

 銃器の刻印を削っても、ひずみを電気的に浮かび上がらせることができる。

▼塩原俊彦『ロシアの軍需産業』2003
 2003のイラク戦争でM1×2をやっつけたのはロシアの「コルネット」ATMか?
 これはニューズウィークの報道で、ウクライナからの密輸であるという。

 ソ連時代、労働者の所得税率は最大で13パーセントに抑えられていた。消費財の小売価格を高めにしておき、その売り上げに対する取引税が高かったので。
 なにより、国家が生産企業から買い上げる価格を低くし、それを国民に売りつける価格を高くし、さらに賃金を低くしていたことが、ソ連政府の最大の「税収」だった。

 ソ連は90年には戦略ミサイルを年産190基であったが、94年には25基に落ち込む。
 戦闘機は、500機以上つくれたものが、93~94の二年間でわずか23機。
 92~99に国内向けに製造された戦車は31両のみ。これもソ連時代には年産1300両可能だった。
 ソ連時代の韓国に対する債務を、ロシアはT-80Uで支払った。

 ソ連時代は軍用主義で、トラックは4~5トン積みが8割だった。それで空のトラックをやたらに走らせる不経済だった。
 そこでGAZ=ゴーリキー自動車工場 は、小型トラックを生産し、大成功。
 戦車生産のメッカは、ウラル車両工場。

 ガンベッタのシシリアマフィアの定義は、警備という安全保障サービス供給に特化した会社の一群で、問題解決に暴力を使用する組織。
 これがそっくりロシアにある。

 過度の自由化を推進するIMFや米国の背後には、自由化で得をする投資家、会計・法律コンサルタントが存在する。
 会計監査をする者がコンサルタントをしてよいわけがない。エンロン。ワールドコム。

 ロシアの輸出での稼ぎ頭は、航空機。武器関連の75%を占める。
 それも、ほとんどはシナとインド向け。
 90~99年に打ち上げられた人工衛星。米542、露CISが510、欧州109、日本37。
 ロシアの投資環境整備状況は、シナの半分の水準でしかない。

▼2003-2 土屋龍司 tr.、David Chuter『国防の変容と軍隊の管理』原2000-8
 ソ連軍の大弱点は有能な下士官皆無で、その仕事をすべて将校がしたこと。

 フランシス・フクヤマの「信頼の高い社会」は個人の利益より全体を考えるようになる。「信頼の低い社会」は個人、家族の私益を優先すると。

 チューターいわく、何世紀も前に、人はカネよりも、同僚の称賛をえることのためにはるかに一生懸命働くことを学んでいる。

 将校には過酷な任務になったときに辞めることができるような契約条項はない。
 法に反する命令はそれじたい無効である。サウジ国内法により米軍は女性兵士をドライバーにできなかった。

 支持されない命令は、書類がなくなる、約束が守られない、会議が行なわれないなどして、決して実行されない。
 この著書では大佐以上の将校について考える。
 軍人食堂を民間に運営させるときっと汚職が起きる。だから将校食堂は兵隊にやらせるのがよい。

 戦争論のうち著者が生前全面改訂できたのはBook-1だけ。だからそこだけを完全なクラウゼヴィッツの論としてとりあげた方がよい。
 クラウゼヴィッツの時代は侵略戦争は国家の権利だった。

 アメリカの高級行政官は政治任命であり己の次のキャリアアップに興味が強い。だから国際会議で一時的な妥協ができにくい。

 conpetence は権限と直訳されるが、意訳すると タテ割りの権限のこと。英語にはなじんでいない概念だ。
 「組織図」は何も説明しない。それは最も重大なことを隠している。かかれざる網(ウェブ)が決定を機能させているのだ。

 「ある国の自由や独自性は、その国の指導者集団の精神の中に存在する」※よって団塊世代は排除さるべし。
 韓国軍はオーストラリア軍より強大だが、独自の指揮権を有しない。海外派兵も一存で決められない。

 情報は「収集」され「分析」され「活用」されねばならない。
 昔の英語でintelligenceは「ニュース」の意味だったが、今ではespionageと同義である。
 ただし英語ではintelligenceとinformationが明瞭に分離される。仏独語では分離されない。
 「赤ファイル効果」…表紙が赤ければたいへんな情報が書かれていると思い込んでしまうこと。

 「情報は単一の機関が作成するものであってはならない」p.84
 ただし大臣に二途から情報判断が届けられるべきではない。
 そこで、各情報機関と省庁を横断した情報分析委員会が、内閣総理大臣のオフィスに直属すべきである。

 歴史上の情報の大失敗。そこでは、真に情報が不足していたことはあまりない。たいていの失敗は、分析過程でなされたのだ。多くは人々の先入観や既知情報が邪魔をした。 p.85
 「情報資料の要旨がより広範囲に配布されることによって、議論がより促進される」※つまり隠しすぎは安全・安価・有利でない。
 フランスでは軍だけが情報を収集している。

 世論の支持を考慮するのがpoliticalであり、指導者が国際問題を考えるのがpolicyである。p.89

 日露戦争ではサンクトペテルブルクの誰も、戦線で起きていることを知らなかった。指揮官と国家指導部が通信を頻繁に交わせるようになったのはWWIから。
 1859のイタリアでの殺戮が1864に国際赤十字をつくらせた。
 73年のイスラエルの油断は、元兵士が政治家になっている国ではときどきある。

 PKFなどで海外に出ている自軍の戦車部隊がもしゲリラと交戦して数発発砲しただけで戦場を撤退したら、何もしなかったより悪い政治的結果を呼ぶ。
 ジュネーブ条約や国際条約に違反した政府命令を拒否する義務を将兵は有する。p.99

 投降した軍人の逃亡を防ぐための武力の使用は、たとえそれが死に至るものであっても許容される。p.99
 傭兵、狙撃兵、火炎放射兵、降伏が遅すぎた兵は、しばしば降伏後でも処刑されてきた。

 軍の構成を決定するどのような科学的方法も発見されたことはない。p.100
 国防予算は近年ではGNPの2~3%が相場である。
 国の予算支出可能性を決定するどのような方法も存在しない。p.101
 軍隊というものは、会計係をよろこばすような雇用と解雇の制度によっては維持できない。

 近代的な航空機は、用途廃止まで使うと、調達価格の3から4倍の経費がかかるものである。p.103 ※つまり古いものは早く捨てろ。

 通常削減されるものは、削減が望ましいものというよりもむしろ可能なもの。
 防衛政策と軍の編制は同じ人物が考えて決めないとまずい。p.106
 近世以前の王国の軍隊は、奴隷、犯罪者、外国人傭兵から成っていた。

 ほとんどの戦争において、一般ピープルは政府によって採られる最も過酷な手段を支持し、時にはそれ以上のことを要求する。p.113

 若い軍人に老練な法倫理学者の役を期待するのは間違いである。軍人の倫理逸脱はまず国家の制度によって防止されねばならない。
 軍の管理地の環境保護が先進国では大きな課題のひとつになっている。
 軍は最も広い意味における社会の代表であるべし。

 軍隊は、世論が行ないたいが自分たちでは行ないたくないことを行なう。つまり社会の集約的なid、無我意識である。
 暴力、支配、絶滅の恐怖と同時に嫌悪するものへの攻撃、規律が想像されている。

 一般ピープルの軍隊イメージと実像とはどの国でも何の接点もない。特に志願制の国では。

 「全ての者を納得させることを期待するな」p.117
 説明を受けるグループの全てを歓ばせることは不可能である。
 政策の最後の全てのニュアンスを説明しようとする努力は、無駄な努力である。

 反対世論は誰も事実は求めていない。政府の方針が自分の考えと異なる場合に、政府が嘘をいっているとか間違っていると言うのみ。

 政府発表情報は無視されるか拒否される。なぜならそれは批判する者の偏見と仮定に合致しないからである。
 キャンペーン団体の目的は自己宣伝であり、彼らの運動に沿わない情報をけなすことに利益を見出している。

 政府が対話をしてよいのは、「価値ある対話者」のみ。まずそうであるか否かを見分けなさい。
 その条件の一つとして、彼らが出す提案が常に実行可能であるかどうか。
 より広範に説明することを、公共の利益と取り違えるべきではない。

 p.121 「民主主義は、人々が好きではなく投票しなかった政府と協力する用意があるがゆえに機能しているにすぎない。」

 議会が議会であるがゆえに倫理的に優位であることはない。そのような仮定を認めるな。
 委員会の投票は英国でも現金入りの茶封筒が左右している。
 売国的、十字軍気取りのグループによって政府に透明性が押し付けられるのを拒否せよ。

 日本以外の先進国では議員に政府の秘密を共有させることが可能である。なぜなら人は部内者であることを部外者であることより喜ぶ。
 ※日本ではすべて漏れるので不可能。スパイ防止法がない。

 満足しないことが反体制運動家の拠って立つところである。

▼秋山昌廣『日米の戦略対話が始まった』2002-7
 ※1940生まれ。大蔵から奈良県警本部長、などを経て、91に防衛審議官。97事務次官。98-11退官。防衛局長時代に防衛大綱、事務次官で新ガイドラインをつくる。

 1993における西廣(すでに退官)の意見を聞いた。要旨は……

・21世紀はシナが政治、社会、経済、軍事あらゆる脅威になる。
・21世紀の途中までは米国との同盟が有効だ。
・冷戦はおわったが同盟の未解決部分をなんとかしとかないと有事に対応できん。

・陸海空自は無駄があり他方で必要なことが未整備なので構造改革がいる。
・陸自は定員を減らすしかない。定員割れで通常訓練にも支障が出ている。18万定員は11万に落として良いだろう。
・海自の掃海部隊は規模でかすぎる。P3Cはいくらなんでも100機は要らぬ。50機で十分だ。
・空自レーダーサイトが古すぎ。
・DIAの日本版をつくる必要がある。

 ナイは日本の弁護人である。80年代にボーゲルから学び、経済ライバルを政治ライバルと混同するなとの視点に立つ。

 1995までにこう決めた。陸自は18万から16万に減らす。代わりに即応予備自衛官制度を創る。陸だけ減らす説得は不可能なので海と空も少し減らす。
 つまり海自は60隻を50隻に。
 空自は戦闘機350を300機に。これは書面にせず、口頭で3幕に了解させた。

 法制局は、日本国憲法ではなく「平和憲法」と書け、と要求してくる。それは昭和60年ころから内閣が防衛庁がらみの文書ではそのように書いてきたから。
 しかし最終文書では「日本国憲法」で押し切った。これは橋本と尾辻の手柄である。
 平沢勝栄は防衛審議官だった。
 宮沢は長期プランを考える頭があった。シナの脅威が分かっており、長期的にシナに対して防衛力が弱まってはいけないと信じていた。

 基盤的防衛力とは、日本が空白となってアジアに不安定を招いてはいけないという意味だった。
 旧防衛大綱は、防衛力は無限に増やしませんという上限設定にしか意味はなかった。
 基盤的防衛力構想では、敵は3~4個Dで日本の1~2箇所に上陸してくるのみという阿呆な想定であった。

 新大綱では、「限定小規模侵略独力対処」というコンセプトを外した。
 小侵略でも日米が最初から協力するのは確実である。他方、独立国である以上、自主防衛の精神を失ったらいかんとの批判あって、こたえた。

 中共政府は、日本政府が文書化したもので一喜一憂する。なにより文書の国。※日本=法匪と思っている?
 米韓は合同軍であり、平時には韓国人が、しかし有事には米軍人が指揮をとる。
 が、日米はそれぞれ独立で、共同軍なのである。

 新大綱でも、「我が国に対する侵略の未然防止に努める」としながら「現実に存在する核兵器の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する」と大矛盾。

 中共側役人は会見冒頭で必ず歴史問題を触れてきた。一律なので、党中央の指示と見えた。
 日韓の雪解けは防衛当局同士が最も早かった。
 アセアンフォーラムでの紛争予防外交にはシナがリラクタントで、かかる問題は2国間で解決すればよいと。

 新大綱の師団は6000~9000人、旅団は2000~4000である。
 戦車は旧大綱では1200両定数だったのを600両にする。火砲も1000門を900門に。

 1個護衛艦隊は、対潜中枢DDH×1、防空中枢DDG×2、汎用護衛艦DD×5の計8隻からなる。
 この隊を4つ維持することで、修理中、低練度、高練度、のローテーションとなり、常に最低1個の艦隊を機動的に派遣できる。
 それとは別に、7個の沿岸張り付き隊がある。
 艦艇総数は旧大綱の60隻から50隻になった。

 小沢は政府提案の予算案を政府みずからが修正し、防衛費を1000億円削って湾岸に掃海部隊を派遣した。防衛力整備より国際貢献のために自衛隊があるとした男。
 自衛隊を国連に預けるという小沢に防衛庁官僚は誰もついていけず。
 しかし、制服の中には共鳴者が多く出た。元制服の長野と田村の参議院議員は、これに共鳴して自民から新生党に移った。公明党がまた小沢に考えが近かった。
 センサーと追跡能力なくしてミサイル攻撃対処はできない。

 検討するタイミング→「平時に、かつ、可及的速やかに議論する以外、答えはないはずである」
 アカウンタビリティーは、「説明能力」。これと透明性をもっていれば、軍事大国でオッケー。
 定数、組織、装備が、法律と予算の議決という形で国会の管轄下に置かれている。
 防衛庁長官を文官が補佐する仕組みが「参事官制度」。

 村山が辞めたのは、オウムを破防法適用第一号に指定せざるを得なかったこと、そして反米の大田知事を国として訴えざるを得なかったこと、これに堪えられなかった。
 日本から撤退する場合、米は日本に事前協議の必要はない。
 いったん日本に入った米軍部隊がそこから出られなくなる、などというような不合理は予期されてはなるまい。

 田中外務相審議官は、日米ガイドラインの見直しにも参画。
 新防衛大綱は、限定小規模侵略独力対処のコンセプトを斥けた。
 作戦構想は、航空侵攻、海上交通保護と周辺海域、着上陸侵攻に3別する。※馬鹿馬鹿しい。3自衛隊の顔を立てているだけ。
 他に、ゲリコマと、弾道ミサイル攻撃を想定。

 周辺事態の概念は、地理的なものでなく、事態の性質に着目したもの。そんな事態について、どこから先は入りませんと地理的に言うことはどの国だろうと絶対にできない。

 米軍は自衛隊に対して武器弾薬のニーズはゼロである。
 相撃防止のための要領と相互運用性
 集団的自衛権は、政治的インフラストラクチャー
 「国際協調」…これこそあやふや語。使うべからず。

 米国の対支政策は戦前から一貫で、市場を米国のために確保しようという国益の追求。
 NMDは、2001前半まで米国で大論議。ラムズフェルドは、同年3月にミサイル防衛からナショナルとかシアターという語を除くことにした。

 TMDとBMDはまったく同じもの。後者が日本呼称。米国内は不適用で、海外基地のみを守ろうという構想。
 しかしNMDは米国本土のICBM防禦で、まったく技術も規模も別。

 マジノ線は無駄だったか? ※地下壕を無駄と思ってはならない。
 欧州がABM条約の枠組みが変わるのをおそれるのは、米露関係の悪化を懸念するからだが、この問題はロシアではなく、米支問題だろう。
 TMDはABM条約の対象外だし、ロシアには反対する実益がほとんどない。
 シナはTMDの台湾への展開をいちばん嫌がっている。
 また、NMDはシナの20発のICBM方針を根本から無意味化する。
 子ブッシュは、米支は戦略的パートナーではなくコンペティターと言った。

▼藤竹暁『都市は他人の秘密を消費する』04-10
 著者は大衆社会学の専門家。
 ホフマンの1822短編に「隅の窓」あり。身体不自由な主人公が屋根裏部屋の窓から群集を観察し、推理する。※ヒッチコックの裏窓?
 次にポオの1840短編「群集の人」。ここでは主人公は注目した群集の一人をつけまわす。そして発見する。彼の行動に孤独恐怖以外の何の意味もない「群集の人」であったことを。
 雑踏こそが特定時刻にはエアポケットになるという推理物の嚆矢は、ポオの1842小説「マリ・ロジェエの迷宮事件」。
 都市では、特別なもの以外は透明な存在になる。
 主人公の探偵とは別な報告者に語らせる形式もポオがデュパン・シリーズでさきがけた。
 都市では「見えざる凝視」が必要であり且つそれに満ちている。
 都市では自分が仮面をかぶって匿名かつ自由な観察者になるとき、人は自分自身をとりもどす。
 ステーブン・キングの1995小説では、昼間の変装は無効だとしている。

 エンゲルスは見た。マンチェスターの不潔で家庭的でない労働者住宅では、獣的または病的な堕落した無知なものだけが、心地よさとくつろぎを感じることができると。
 ドイツ人のベンヤミンは1842に「パリの秘密」を新聞連載した。中流以上の読者に、下層階級や、上層階級の実態を体験させてやる。ウケた。エピゴーネン多数。

 1826のクーパーの「モヒカン族の最後」はヨーロッパの都市作家に大影響を与えた。ハードボイルドな主人公はここからきている。共同体をもたない孤独者の活躍。バルザックは「パリのモヒカン族」を書いた。

 1903にジンメルいわく、都会人はなぜ冷淡か。他人の無遠慮な侵入から自分を守るため。それほど密集してるから。
 松本清張は「密室物」は社会から遊離しすぎていてダメだという問題意識があって、社会派探偵小説を開拓した。
 最近はその反動の「新本格派」が多い。あえて没社会的な設定。

 仏語 flaneur=街をうろつく人。遊歩者。※乱歩の「屋根裏の散歩者」もこの影響?
 1833にまずNYでペニープレス(1セント新聞)が登場し、ヒューマンインタレストニュースすなわち三面記事を売り物にした。フラヌールとしてのレポーターを駆使。
 これに1855に英が、1863に仏が続く。※つまり都市化は米→英→仏の順。
 シカゴ学派とはフラヌールによる社会学である。参与観察、フィールドワーク。

 1880頃、米には微罪を処理する「警察裁判所」があり、それは陪審制ではなかった。記者たちのネタの宝庫だった。
 善きことのほか死者を語るなかれ…というラテン語あり。
 19世紀後半の米新聞の特種主義をスタント・レポーティングという。

 クリスティのつくったキャラであるヘイスティングスは負傷兵で、本国で療養中であった。ベルギーの高級警察官であったポワロは戦禍をのがれて英国に亡命してきていた。足をひきずっていた。
 あえてよそ者風を強調することで、小さい村の中の住民の口を軽くした。というのはポワロ経由で秘密は漏れないと判断して。

 ボードレール:己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、せわしい群集の中にあって独りでいる術をも知らない。
 事件解決後のホームズはよくワトスンをコンサートに誘う。満足感を静かに味わうため。

▼司馬遼太郎『空海の風景』1978中公文庫版
 和気清麻呂は自家に図書館「弘文院」をつくり、子孫まで学問技芸の官僚を輩出することを望んだ。

 唐の高宗は強悍であったが風眩(癲癇)であった。
 六朝の漢文は、上表文をふくめ、頭から本心ではない嘘を書くのが名文であった。
 日本の太政官はしばしば左大臣が兼ねた。常にある職ではない。唐には太政官はない。なぜなら皇帝の専制だから。
 この唐制に近づかんとしたのが嵯峨天皇で、蔵人という新職をおいて、それを経由して政治をとりおこなおうとした。結果としてますます唐制と異なる日本制ができた。

 平安時代の綿の単位は「屯」。これは「束」と通用。
 日本で誓いや約束が厳密になるためには、平安貴族の漢文教養がすたれて農民出身の武士の天下になる必要があった。p.185

 じぶんの密教を真言密教と呼ばせたのは空海
 飛白…かすれさせる筆勢。空海が日本に導入し、モダニズムであった。
 三密とは、動作と言葉と思惟
 密教は唐で現世利益の効験 くげん をもって道教と争った。空海はそれを輸入した。
 現象に接してその本質を見抜く行を止観という。自身は透明になる。
 バラモン教のうち性欲崇拝の傾向のつよいものがチベットに入ってラマ教になった。
 以心伝心……仏法の奥旨は文章では伝えられない。
 外できいた話をすぐに受け売りする態度を「道聴塗説」と論語ではいう。
 中国仏教は宗派間の交流は自由だが、日本では最澄が叡山を要塞化してから他宗派とは絶交が普通になった。

 空海は筆を選んだ。行、草、写書(写経)など、用途別に準備していた。狸毛の筆は空海が発明した? 正倉院には、兎毛と羊毛しかなかった。王義之の書風はこれと不可分。 空海から最澄にあてた手紙は3通のみ残る。風信帖といい、東寺にあり。

 嵯峨天皇が宮城の13の門の額の文字を、自分と空海と橘逸勢で書き改めた。だから「三筆」なのであろうと。
 逸勢は政争により伊豆に流され、途中で死んだ。
 朱にするのは硫化水銀。印肉にも使った。

 高野山は空海の個人の私寺で、造営費は一紙半銭も国庫から出なかった。権門家の寄進を集めた。
 唐では「寺」の字には「役所の建物」の意味あり。
 高野聖、高野行人[ぎようにん]は僧以外の教団関係者である。

 荼毘はパーリ語
 六朝風=装飾過剰
 漢文は我流のよみかたが許されていいだろう ※同意。
 金剛界は能動の世界。胎蔵界は変容の世界。
 「魔法」は日本中世末のキリシタン用語。

 空海時代の日本の人口は500万人。
 讃岐は雨すくなく川は細流なので溜池が必要。
 大和政権は、儒教やキリスト教といった抽象理想ではなく、「稲作」を基礎原理とした。その「王化」とは、非稲作民を定住稲作させることに尽きていた。※春秋戦国時代と近いだろう。
 『三教指帰』は戯曲構成で書かれた日本最初の思想小説。リーディングドラマ。

 大学の音博士。中国発音を教えていた。だから空海は上陸と同時に会話できた。
 理趣経はセックス経典だが唐音のため暗号だった。東大寺でも重視していた。
 虚空蔵求聞持法。一定時間内にある真言を百万ぺん唱える。この方法でフォトグラフィックメモリーの才能が開発される。
 密教仏の衣装こそ、当時のインドの最裕福階級の着物。

 孔雀は毒虫を平気で食う。だから解毒力があるのだ、とアーリア人は抽象的連想をたくましくした。サンスクリットはそもそも物事をストレートに表現することと相性が悪いらしい。
 般若経は「ゼロ」に一切が充実しているとみる。
 日枝の山が、平安遷都後に「比叡山」になった。
 山城は、もと、山背と書く。

 日本船は危なく、新羅船は安全であった。
 日本船は無釘であった。
 空海が偉くなってから四国にたくさん寺をつくったのは、入唐前のスポンサーシップに酬いるためだろう。

 アラビア地図で日本は「ワークワーク」だった。倭国。
 唐土では歩行者を卑しむ。
 上巻p.306 西胡は自分たちの民族を「イラニ」とよんでいた。他称は波斯。

 牡丹は唐の長安の流行植物だった。
 世界史上最大の国家的翻訳事業が、唐では仏典について行なわれていた

▼岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』2003
 トゥキュディデスは、過去におこったことは、人間性が変わらないために、将来もフタタび起ると。
 こういうのは、農業文明がサイクル発想になじむ結果だという。

 ヘロドトスは、ギリシャの宗教はエジプトから来たものだと。当時、エジプトはペルシャの版図であった。ギリシャの敵、ペルシャを調べることは、三大陸を知ることであった。
 ポリュビオスはローマに連行されたギリシャ人捕虜であった。
 以後、小スキピオに同行し、カルタゴ滅亡を目撃する。

 ポリスは共同体である。共同体は家ではない。自由人が自由人を支配するから。
 中世都市は経済人が市民。古代ポリスは、政治人が市民。これ、ウェーバー。
 アリストテレスいわく、市民の基本任務は支配の術を学ぶことだと。それが政治学だと。
 そうなると古代人が市民に読ませる歴史とはすなわち政治史にしかならない。

 ヘロドトスは聞いておもしろいが、将来の参考書とすることを重視したトゥキディデスは聞いておもしろくない。事実の羅列なので。つまり詩的でない。当時はなんでも音読。 ポリュビオスは「プラグマタ」路線。国家的事件を書くことが実用的なのであると。
 有名権力者の人間性だけで歴史は決定される。こう考えたのが古典的ヒューマニズムの限界。その背景の時代の趨勢までは考えがおよばない。

 アウグスティヌスが歴史学を革命した。彼は人類史は神による人類教育の過程であり、直線的かつ発展的に救済という目的に向かって進むと説いた。
 ローマはキリスト教をうけいれたのに、西ゴートに劫掠された。それはなぜか? 人智で説明できない。これは神の教育なのだとアウグスティヌス。人間を越えた原因があるという歴史学のはじまり。

 ローマ時代にキリスト紀元なし。すぐ終末すると思っていたから。
 アッシリアが亡んだときにローマは生まれた。
 西洋では18世紀末までをアーリー・モダーンという。和訳して「近世」。

 聖書には原本が3種類ある。ヘブライ語のもの。ギリシャ語の「70人訳」。そしてサマリタン版(サマリア人が伝えたもの)。
 ルターはヘブライ版を根本とした。古代カトリックはもちろんギリシャ語訳版。
 ルターも終末が近いと思っていた。

 啓蒙主義は17世紀後半ロックから始まる。仏にわたってモンテスキュー。ドイツに移ってカント。いずれも、科学開花を背景に、宗教的な非合理精神を批判した。
 
 「赤頭巾」と「森の眠り姫」はペロー童話。すなわち仏。
 他はグリム。彼らは反仏&ドイツナショナリズム喚起のためにこれを編んだ。

 コンドルセは、専制君主が誕生した古代に、アジアの進歩は止まったと最初に主張した。それはギリシャ以前のこととする。

 ジェネシスの7日の創造では神はエローヒームと書かれている。ところがアダム創造のくだりではヤハーウェである。
 この「ダブレット」問題を、1753にフランスのアストリュックが解く。すなわち、創世記は、複数の部族が残した文書が合体混合しているのだと。

 現在の西暦は、キリスト教的意味を失った、中世的・数学的年号である。それは過去にも未来にも無限に延長できる、ニュートン的な時間にすぎない。
 キリスト教的ならば、創世記以前は表せないわけである。

 コンドルセはスペインの南米破壊は非難するが、啓蒙された欧州人が世界に植民地をもつのは正しいと考えた。

 モンテスキューの風土論はするどい。非常に寒い場所と非常に暑い場所が接近しているアジアでは、強い国民とヘタレな国民のギャップが甚だしく、力が均衡しない。そこには征服者と被征服者しか生じない。
 ヨーロッパは温帯が広く、強い国が強い国と対峙し、隣国人の勇気は拮抗している。

 マクルーハンより早く、コンドルセが、アルファベットこそ知的革命をなしとげたと書いていた。それはヒエログリフにくらべて知の独占をしにくいものだ。
 ※母音表記記号を発明し、それを子音表記記号と組み合わせたギリシャ人がいちばん偉い。インド人になくてギリシャ人にあったものはそれのみ。その違いがすべてを分けた。

 啓蒙主義はロマン主義の対立概念。
 啓蒙主義は、全人類を平等と考える。個性を許さない。人間=機械ともみる。
 啓蒙主義は、民族を認めない。ロマン主義は民俗重視。
 啓蒙主義は、社会契約説。ロマン主義は、国家有機体説。

 よって政治的ロマン主義は、反革命。保守の理論となる。
 ロマン主義は個性を重視する。よって天才願望でもある。
 ロマン主義は、市民資本主義=啓蒙主義と考え、その資本主義を嫌った。
 プチブルは俗物である。それは資本主義商売の必然結果である。その非人間ぶりから逃れなくてはならない。とすれば芸術だ。だからロマンティストは芸術家の謂いになった。 神ではなく、歴史を根拠と考える歴史学は、ロマン主義が生んだ。
 1890に、世界一の尖塔、ウルム教会堂が完成する。161メートル。これもロマン主義が背景。中世=ゴチックに注目した。

 ギリシャ・ローマの都市は農民=消費者の町。東洋の都市は支配者=消費者グループの駐屯地。
 中世の封建国家の都市において、はじめて、手工業者と商人の生産都市ができた。

 ウェーバーいわく、ギリシャとローマでは大水路土木による灌漑農業は必要ではなかった。だから巨大権力は必要でなく、専制化しなかったと。

 アメリカ原住民の石器をみることで、はじめて「雷石」と欧州でもいわれていた石器が、古代人の製作物であると確信できた。
 フリントのハンドアクスが旧石器だと広く認められたのは1859年。
 1913に死んでいるラボックはアリの目は紫外線を見ていると発見。

 進化論はたった10年で世界を席捲した。
 現代では二足歩行がサルと人を分けるとする。

摘録とコメント(※)

▼青木日出雄『戦略兵器』・他
 1949、仏、原爆開発を決める。
 1954、仏、製造研究の本格化。
 1959-6、ミラージュ4の初飛行。双発マッハ2、3人乗り、搭載4.5トンで初期型原爆×1発吊下OK。バディ給油システムを独自に考えたところで、米が空中給油機を売ることにした。行動半径2500kmでぎりぎりパリからモスクワ往復狙う。この行動半径は1962就役のTu-22より長く、1969就役のFB-111Aよりじゃっかん短いくらい。
 1960-2、初実験。
 1961-4、四度目の実験。実用化の域に。
 1963末、ミラージュ4の引渡し開始(実質64年)。最終的に50機整備し、各60Kt原爆×1発を積ませた。
 1968-8、仏の水爆実験成功。気球に吊るして、太平洋で。
 1971-8、強化原爆150Kt単弾頭の地対地弾道ミサイル×9基をプロパンス・アルプス地方の地下サイロに配備。固体燃料2段式で、射程3000km。強化原爆とは中性子ブースターを増着した原爆。高原であるほど、推力の面で得。
 1972-5、同じく9基を追加配備。
 1980、射程3500kmの後継IRBMを配備開始。弾頭は1Mt。

 1949、米はGLCMマタドールを欧州と台湾に配備。その発達型のメースを西独と沖縄に配備。※沖縄から北京まで2000km。現実的には、日本が巡航ミサイルに初期型原爆積むとしたらサイズはメース級にしないと収まらぬ可能性があるわけ。それを潜水艦搭載にする場合は浮上発射以外になく、とうぜんそれ専用の任務艦として特別に設計するしかない。つまり巡航ミサイルはICBMより早く完成できない。

 米は1954-3に小型の水爆実験に成功するまでICBMアトラスの開発は延期されていた。※アトラスには水爆は大きすぎて積めないとみつもられていた。そしてもし水爆弾頭にできないならば、精度の悪いICBMなど無理して持つ必要はなく、大量報復用のB-52で十分だと思われていた。

 1957-6、トルコに配した米レーダーが、クラスノヤールから極東に5000kmとんだミサイル×8を認む。
 1957-8、ソ連はICBMの開発に成功したと発表。
 1957-10、スプートニク成功。

 ジュピターは射程2500kmで1957試射成功。1959-3にイタリアに30基、10月にトルコに15基を配備。
 ソーは1958-9~1959-3の間に60基をイングランドの東部と北東部に展開。実戦態勢になったのが1958-12以降。
 これらIRBMは液酸+ケロシンを発射前30分かけて注入するもの。アトラスICBMですら注入に8分かかった。
 ※いまだにH-IIをICBMにしろという人がいるのだが、燃料注入やカウントダウンだけで24時間がかりのミサイルなんて使い物になるかっつーの。だいたいあの格好じゃサイロからは射ち出せないし、筒体の強度がギリギリなので組み立てた状態で横に寝かせてトンネルに隠したり列車で移動させることもできない。

 欧IRBMは、ミニットマンとポラリスが戦力化したので撤収された。
 目標破壊力は、爆発力の立方根の二乗に比例する。
 200Ktは1Mtに比べると、0.34:1の目標破壊力となる。
 20Ktと20Mtは、1:10である。ちなみにB-52には24Mt水爆2発、もしくは10Mt水爆×4発を搭載できた。米最大のICBMタイタンは9Mt、ソ連のSS-9は25Mtである。

 1957末、米は8000km飛ぶスナーク部隊を編成。スナークICCMは1959末にはメイン州に13基。1960末には30基。1961-6-25に0基になった。
 ワシントン←→モスクワ間は8000kmで、スナークはこの距離を0.9マッハで天測しながら飛んだ。

 マタドールは射程970kmで、1955秋から西独に。
 メイスは1959-6~1969頃、西独に。これは射程740kmのパーシングIと交代した。※つまり射程は半分以下になった。ソ連との取引か。

 ボーフルは、米国の核との結び付きを強調。「核の拡散と多極性とは区別すべきだ」
 ガロワはもっと単純な核拡散賞讃論。※説明宣伝に難があった。

 J・バーナム=「平和は外交の目的ではない」と最初に言った。
 ケナンはギリシャ援助には賛成だったが、トルコ援助には反対だった。

 朝鮮戦争中に米の最初の核戦略ができた。すなわちホワイトハウス直属の戦略空軍にのみ依存した大量報復。これがWWII直後の「動員戦略」「巻き返し」に代わった。ニュールック。

 1951-10、100機の戦闘機に掩護されたB-29×8機が北鮮上空でMig-15のために全滅させられた。→対ソ全面戦争の自信が崩壊。
 ヨーロッパを放棄するかどうかの論争が起きた。Great Debate.
 オッペンハイマーは早くも1953に、斬新な防禦テクノロジーで核軍拡を止められるという発想をしていた。

 ソ連の最初の水爆は実は水爆ではなかった。原爆を重水素化リチウムの固体で包んだ強化原爆だった。
 これに対して米の湿式は、サイズはデカかったが、本物の「熱核反応」兵器だった。
ソ連がそれに成功したのはやっと1955-11になってからである。

 「核の手詰まり」「相互抑止」は、陸軍の主張として1954~57頃、現れた。
 1957-10ダレスは『フォーリンアフェアーズ』誌で、ペントミック小型戦術核RDFが、大量報復抑止の必要を減らすだろう、と。

 1961~63に西独は米に核使用権を要求して対立、仏に近づく。→1963-1協力条約。
 1960's、在欧の戦術核はいちじるしく増加した。
 ガーウィン式BMD=サイロの近くで土砂を吹っ飛ばす。→See高榎尭『現代の核兵器』

 CEP150mは絶対精度と呼ばれ、そうなったらどんなに垂直サイロを強化してもムダ。※逆にいうと、CEP150mになるなら、弾頭はKt級で十分。また、これ以後のサイロは山岳中の横穴トンネルとするしかない。

 核爆弾記号のB-は自由落下爆弾、W-はWarhead.
 ナヴスター網は1986完成予定である。
 64k-DRAMのセラミック・パッケージがα線を出し、ICの記憶電荷を失わせる、ソフトフェイル現象が核戦争では起きる。だからガリウム砒素。

 EMPの立ち上がりは雷以上なので、安全器では阻止できない。
 中性子爆弾とはT(トリチウム=三重水素)の割を多くしたもの。これは後から挿入する方式にもできる。

 マクナマラのミシガン州アナーバー演説。「全面戦争についての米国の基本的戦略は、可能な範囲内で過去における通常戦争のそれに似たものにされる。NATOに対する大規模な攻撃によって戦争が起こった場合には、米国は敵の一般住民ではなく軍事力を破壊することになる」。※戦前に米が梃子入れした援支反日の戦略爆撃プロパガンダが自分に跳ね返ってきた。これがベトナムの敗退につながった。経営学の秀才マクナマラは最大の道化を大真面目に演じた。対権力直接アプローチが採用された湾岸戦争以降、居場所がないので、いろいろと繰り言を語り続けている。ケネディのように空軍に殺されなかっただけでも感謝すべし。シナは将来米国から爆撃されにくくするための布石として、また重慶その他を宣伝し出しているわけである。

 1964のポラリスA3は、200Kt弾頭×3が500m間隔で落ちる。

 ソ連がミサイルにコンピュータを載せるようになったのはSS-19から。
 シュレジンジャーはソ連の対米核攻撃は全面的でない、とした。

 カーターの指令(PD)59号では、ソ連のいやがる食糧供給路、蘇支国境のソ連軍および政治軍事指揮センター700ヶ所が核攻撃目標に含まれている。ただし中央指揮管制センターは、初回の攻撃では狙わない。

▼フォーセット“Frontiers”(1921)邦訳
 ※同タイトルで1907にカーゾン卿も本を書いている。

 未開で人跡未踏の森林障害は、河川交通により容易に抜けられる。
 ユーラシア遊牧民は、中欧森林が羊飼育に適さぬため、侵入をあきらめた(p.55)。※羊こそは、「自走する食糧」だった。

 ネパールの独立は、テライ地方の沼沢が保障した。
 ナイル・デルタ沼沢は、後世、却ってエジプトを地中海発展から疎外した。

 フィンランドやポーランドの沼沢は、冬に凍る。→ソ連は冬に攻める。※9月開戦ならぬかりはないというわけだ。ウメーこというネ。

 ヴェニスやオランダを守る沼沢は周年、氷らない(p.58)。※蘭はスケート大国ならずや?
 1914年現在、欧州には河と国境の一致はほとんどなかった。例外が、ダニューブ下流、同支流のサヴァ、プルート。

 メソポタミア、エジプトの支配者は、常に河川上流地域を支配しようとした。それは水の供給を支配できるから。上で灌漑水を消費してしまえば、下では足りなくなる。※シナでは黄河と揚子江の上流を同時に扼した秦が最初の統一王朝を建てた。秦の故地に権力を扶植する現代の軍閥は誰ぞ?

 20世紀前半、シナと朝鮮の国境地帯は無人とされた(p.78)。

 アルメニアは、ローマとペルシャの間の緩衝国であった。
 軍事上、特に一方にのみ有利である境界を、化学的境界、と呼ぶ。

▼飯村穣『続兵術随想』S45
 昔、図書館は有料だったが、占領軍が無料にした。九段の大橋図書館には兵書多い。※これは今の中央区立図書館だが、古本は処分されている。
 陸大図書館には孫子の参考書はあまり無かった。

 帝政ロシアの陸大教官だった将軍による1000ページほどの仏語書『赤軍の戦略=社会戦争』を飯村は和訳しガリにして参本に配布した。
 とうじ、甲谷悦男大尉がモスクワから日本に帰る途上で翻訳した、最新の赤軍野外教令があった。

 NHKの磯村の父は、終戦後、南方から飛んで帰って大菩薩峠で墜死した少将。フランス班付きの参本第二部欧米課(p.95)。

 S16-8、飯村は総力戦研究所で、南方に油をとりにいったらソ連が出てくるとの想定で机上演習を実施。東條陸相は毎日それを見に来ていた。この演習は9月に終了(p.158)。

 日露戦のロシア軍は、「われの有たない気球を上げてわれを驚かせた」(p.202)。※いちおう、持ってたんですけど……。榴霰弾で簡単に撃墜されるのと、旅順あたりだと連日強風で、ほとんど決死隊だった。
 第三軍は急遽翻訳したボーバンの要塞攻撃法に基いて旅順を攻めた(p.202)。

 リデルハートは、史学徒出陣で、ほんのわずか大隊指揮をとっただけだが、生涯「大尉」と自称するのを好んだ。

 まずセイロンとマダガスカルを占領すればインドは浮き上がったろう、と(p.254)。
 米の対ソ援助はウラジオ経由が一番多く、ペルシャ=コーカサス鉄道は戦中建設のものである(p.281)。
 北海ルートでは2回しかコンボイを送っていない(p.303)。

 ナポレオンの後方も河川依拠(p.291)。

▼ブレジンスキ『テクネトロニック・エージ』直井武夫 tr. S47、原 Between Two Ages 1970

 1878に普仏戦を論じたエンゲルスは、もはや兵器のこれ以上の進歩は不可能、と断定した(p.77)。
 G・J・F・マクドナルドは、電磁パルスによって住民の脳の活動を阻害することが十年以内にできると言っている(p.78)。→ソ連のSDI恐怖は実はコレ。

 引用。カトリック組織は、独身主義であるが故に、世俗権威に抵抗できた。内部団結も堅い。
 ※本書は1970's前半が不毛のイデオロギー時代であったことを教える。このような世相と没交渉的に中学時代までを田舎で過ごせたことは我が生涯の幸運だ。70's後半から日本の自動車のデザインが劇的に変わり、共産革命は視覚的にあり得なくなった。

 図書のマイクロフィルム化もNASAの技術なのだ。

 引用。「専門外の事柄についてのアインシュタインの発言の陳腐さは、専門内での彼の天才と同様に、まったく驚くべきものである」「彼はパスカルではなかった」(p.315)。。
 スタンレーホフマンを批判(pp.364-5)。

▼松平信輝『騎射』大正写本、国文研蔵
 図によると、0時から9時の45度角以外は射ないことになっている。

▼丸山国雄『日独交渉史話』日本放送出版協会、S16
 普仏戦中、ヨーロッパ諸国間に仏への同情なかった。ナポレオン3世の外交宣伝の失敗による。

 1860=万延元年に初めてドイツ船が江戸湾に。
 独立戦争後で米普関係良好。米公使が斡旋して日独条約締結。
 水戸の彰考館に寛政12年のドイツ兵書写本あり。最古(pp.102-3)。これらは独蘭辞書でまずオランダ語にしてから重訳されたようだ。

 明治4年、大学南校(旧昌平学校)の語学生の割合。英219、仏74、独17人。※これではドイツ流の軍制になどしたくてもできない。
 同年の文部省学制改革で、独のコース定員が125名に増加された。
 これらはもちろん、その外国語による全科授業があるのであり、単なる通訳養成ではない。※通訳養成は私塾でできた。

 陸軍が明治3年の布告で仏式を採っていたとき、和歌山藩だけはプロシア式を採用していた。
 マルクシズムは明治30年以降に入った(p.147)。
 明治20年頃から、教育学における、英米→独シフトがおこった(p.148)。

オプション最大化(Maximization)戦略とは何か

 チャンネル桜の討論会でも言及したこの概念についてご説明しましょう。これが分かりませんとシナの脅威の本質が分かりませんし、それに対抗するための日本の次期首相は誰でなくてはならないか──も、分からぬでしょうから。

 シナは1980年代からアメリカ東海岸に届くICBMを20発しかもっていません。この20発を30発、40発……100発……500発とすることは、かれこれ十数年も時間があるのですから、いくらでも可能だったでしょう。が、それを敢えてしていないんです。

 この意味は、「ICBMをもっと増やすか増やさないか」のオプションの自由を最大に確保しておくことで、米国政府との交渉力を最大にしようというのです。
 アメリカにとって「分かり易い敵」になったら、シナのような経済弱国は、おしまいなんですよ。
 常に敵を翻弄し続けることができなくてはならない。これこそが、先般コキントが『孫子』をブッシュに進呈した意味です。あなたがたの単細胞人士に分かり易いような敵対行動はシナ人はしませんよ、と念を押すことにした。
 そして米国NSAはこの孫子進呈計画も事前に察知していて「バカヤロー、こっちの方が上手だわい」と、スピーチ会場に「叫び屋」を潜ませてやったんでしょう。けっきょくコキントさんが翻弄されてしまったのです。

 オプション最大化戦略はICBMだけでなく、あらゆる分野で実施されます。たとえばシナは90年代初めにミサイル原潜と攻撃型原潜を1隻づつ国産した。そのあと、姉妹艦を増やさない。これも「オプション最大化戦略」です。対抗する米海軍としては、シナが原潜を量産するのかしないのかで、予算から編制から人事配置から、ぜんぶ計画変更しなければならない。シナは、自分の進み得るコースを無限大に確保することで、敵の要路の心理を翻弄してやれるわけです。
 その翻弄を通じて、交渉ができる。こちらが何かをしないことと引き換えに、敵に何かをしてもらえるでしょう。

 過去のソ連のように「物質」対「物質」のベタなレースに参加してしまえば、米国に勝てる国はありません。米国を物質で圧倒しようとするのではなく、むしろ今は手元にない非物質にモノを言わせていけ、という手なんです。

 これを市場でたとえるなら、じぶんの実際には持っていない株式で勝負する相場師のようなもの。未来の可能性で敵を脅かす。現に大金持ちでなくとも、よいわけです。

 ただし軍事競争上のオプション最大化戦略では、大事なことがある。最初に1つは「リアルの物質」を持たなければ、交渉の土台にすらならぬということです。
 げんざいシナは空母を1隻も持っていません。この「ゼロ」の状態からでは「空母艦隊をたくさんつくるぞ」という脅しはほとんどリアリティを生じません。

 「口だけの脅し」では逆効果にすらなってしまいます。
 「今すでに1つある。これを2つ、3つ……10倍に増やす」という脅しならば、相手も頭から否定できなくなるのです。そこから交渉を強制できるのです。米国のINFにソ連が屈服してSS-20が全廃(パーシングIIと相討ち)されたのは、その好い見本です。

 まあ、日本の臆病者たちが「核武装のポテンシャルだけで核抑止になる」なんて言っているのをシナ人が聞いたら、大笑いでしょう。
 また、北朝鮮が原爆を1発ももっていないことも、ここから容易に断定されなくてはなりません。「ゼロを1にします」という脅しでは、国際関係では、無効なのです。子供の虚勢と変わりない。北鮮の支配層もそれはよく分かっています。分かっていて1発の実験もできないでいるのは、現実に1発も手元にはないからでしょう。こんなのにひっかかるような哀れな知識人が多いのも日本だけでしょう。

 たった1発、パキスタンのように非公開で実験をしてみせさえすれば、北鮮の脅迫力は数百倍になるんです。なのに彼らがそれをしないでいることの合理的説明は、「その1発がそもそも無いから」しかないでしょう。何年か前に硝酸アンモンが大爆発したのは、それを地下に集めて「ナンチャッテ核実験」を偽装したかったのではありますまいか。

 さて、そこで、日本の次の首相です。

 これは「現に中堅の地位を占めている政治家であり、しかもシナから大いに嫌われている人物」でなくてはなりません。
 彼こそが、シナに対抗して「オプション最大化」の政策を実行できるでしょう。

 シナから嫌われている若手、ではいけない。彼はこんご、シナから脅されたり、籠絡されてしまう可能性があります。

 しかし、既にシナから憎まれまくっているのに、それでもしっかりと中堅の地位を占められているという政治家ならば、今後、シナから脅される可能性も最も低いわけです。彼は、もしシナからイヤガラセをされた場合、将来が長いので、シナに報復することができます。
 これを、シナは重視しないわけにはいきません。頭の良い中共指導者は、けっきょく、軽易なイヤガラセ以上のことは、彼に対してはしません。その結果、日本はものすごく安全になります。

 ヤクザは、武力行為の前には常に、敵組織からの報復と、その後の報復合戦の連鎖・エスカレーションについて瞬時に想像をめぐせます。組織の力は「後から報復できる」ことです。この連鎖の終末についてのリアルな判断が瞬時につかないようなチンピラでは、とうていヤクザ組織の長になどなれません。中共の政治指導者層も全く同じです。彼らは匪賊の血統です。シナの歴代王朝の創始者は、いずれもヤクザの親分でした。ヤクザに好かれているような政治家が日本の首相になったらどうなるか。これは考えるまでもないですね。

 シナから嫌われていても、年寄りの政治家ではダメです。なぜなら、彼には報復の時間がもうありません。それはシナというヤクザ組織から見れば弱点なんです。小泉氏は歳をとりすぎ、現役の終わりが見えてきてしまったので、ちかごろシナから強く揺さぶられているわけです。

 シナがオプション最大化戦略で近隣世界に対しているのに、日本国が自分で自分のオプションを規制するのは、自殺行為に他なりません。
 マック憲法、非核三原則、宇宙開発に関する国会決議、ICBMを日本が作ればアメリカが怒ると触れ回っている評論家……凡て、ヤクザのカモがする思考ループです。

摘録とコメント(※)。

▼Lindley Fraser『プロパガンダ』
 宣伝は、期待どおりの行動をインデュース(誘導)する。
 威嚇も宣伝也(p.8)。
 世の中には、プロパダンディストと、そのターゲットがあるのみ。

 正真が最善の宣伝、というのは経験からの帰納にすぎず、必然的真理ではない。

 最も古い宣伝の勝利は、旧約のヨナによるニニヴィ王および臣民の教化。
 国家の安全のために検閲が必要と説いた最初の人がプラトン(『国家』)。
 アウグストゥス帝は被支配民族を皇帝謁見儀式で感激させた。
 ユダヤ人は異教をユダヤ教に改心さすことに興味なし。

 十字軍は、征くに先立ち、サラセン人の残虐をふれまわった(p.25)。同じことを英はWWⅠで独についてした。

 エリザベス1世のとき、新教による反カトリック&反スペイン宣伝はピークに。これに対し、カトリックの側から反宗教改革運動があり、そこに「プロパガンダ」なる語が生まれた(pp.26-7)。

 三十年戦争では印刷機が諸王のパンフレット宣伝に使われた。投降勧告リーフレットはこのころ登場した。

 “Black Beauty”は、動物虐待反対のプロパガンダ小説であった。

 南北戦争では双方とも英の好意をかちとらんと宣伝した。
 ボーア戦争では英は自己正当化宣伝を怠り、「捕虜収容所の発明者」をはじめとする悪評が世界に広まるにまかせた。

 WWⅠドイツの宣伝の失敗は、その作者たちが、宣伝活動など馬鹿にしている旧式頭の陸軍士官たちであったこと。国内的にもお粗末なつくり話が多かった。

 他国の同情や憐憫を乞ういささかの訴えも、Uncommited nations の反感をそそることになりがち(p.44)。※これが分かって初めて近代人である。さすがイギリス。

 リーフレット撒布中、捕虜になったパイロットの権利を認めない──という連合軍の宣伝は、ドイツの撒布行為をやめさせた。

 1918になってもドイツ軍に逃亡の兆候なし。
 一般ドイツ民衆心理は、四年間の苦労がじつはムダだった──という話に抵抗したので、あまり宣伝が効かない。
 結論:宣伝者は、ターゲットに好意を示した方が、はるかによく効く。
 訓戒:感情感作成功は、彼の行動への移行を意味しない。

 ナチの宣伝は時により、また相手により一貫性がなかった。
 国内にはなぜか大成功したのに、国外には全く無効だった。※おそらく日本人もドイツ国内に入らなければそうだったろう。

 ドイツ人は、失敗した場合、自己側の理由でなく、不運や、相手のずるさを考える(p.60)。

 ヒトラー自身、宣伝にはこまかな一貫性はいらない、といっている。
 宣伝者は、いちどその犠牲者をひとり選んだら、それにこだわり、徒らに敵を増やしてはならない。独は「ボルシェビキ革命家たちもユダヤ人」といって対ソ侵攻した。

 ナチの「ドイツ通信社」は、世界にタダ同然の値でニュース配信。
 ムソリーニは北アフリカおよび中東に定期放送して宣伝。
 ナチはフランスに対し、ベルサイユの条件が恥ずべきものだったと思い込ませることに1920'sに成功。

 1938はじめ、ナチの対アラブ反英放送に対抗し、BBCは最初の外国語放送を行なう。ヨーロッパ向けは9月末から。

 WWII中、東欧ではBBCのドイツ語放送が信頼を得た。人は自国語の外国放送より、外国語の外国向け放送を信ずることがある。
 ※つまり平壌向けのダイレクトなラジオ放送をするより、いっけん在支韓国人向けと思わせる放送を台湾あたりからした方がメッセージは伝わるのだ。

 WWII初期から独はジャミングかけた。
 相手国人のアナウンサー起用は、戦時には逆効果だった。

 BBCのWWII中放送は欧向けだけで23カ国語。アメリカのは6カ国語。英語ふくむ。
 英米放送局は、中立放送傍受を分担した(p.112)。
 そこで敵国向けの送信施設を共有することにした。こうすると常に複数波が発射されていることになる。この方法は1948以降のソ連のジャミングに対しても用いられた。

 英では宣伝を Political warfare と呼んでいたが、米に倣って Psychological warfare というようにした。
 投降者による最前線での拡声器宣伝は有効だった。

 それ以外方法のない場合以外は、敵の宣伝内容に言及してはならない(p.121)。
 ブラック・プロパガンダ(発所を明らかにしない宣伝)は、敵も禁止指定しようがなく、敵兵は罪意識なくそれに接する(p.125)。
 コミュニストに「正直」「不正直」の概念なし(p.133)。

 なかんずく、宣伝はスローガン、旗、拡声器をもって彼等を悩まし、圧倒することができる。その場合かれらは静かに考え静かに憩う機会をけっして与えられないのである。※朝鮮戦争の米英軍人捕虜がシナの収容所で洗脳されてしまったことでアングロサクソンは大ショックを受けた。そこから宣伝/心理戦の本格研究が深まる。

 ダブルトーク。「ビー・オブジェクティヴ」とは、共産主義原理に忠実なこと。コスモポリタニズム(資本主義)vs「インタナショナリズム」。

 J.F.Scottの“The Menace of Nationalism in Education”1926は、WWⅠ直後の仏・独・英の歴史教科書比較。
 WWⅠ直後から1936まで、国際教科書中正化委員会が活動。スカンジナビアには今もそういうのがある。
 宣伝は子供と青年に向けたとき影響大きい(p.195)。

▼ジャン・トゥーラ『ヨーロッパの核と平和』戸口民也 tr.1988、原1985
 エリゼ宮地下、ジュピテルの間が核発射司令室。

 1981の仏核戦力は80Mt。
 ピエール・メスメル国防相は、対人口戦略をとることを言明。

 射程200kmのプリュトンは、東部フランスにあるため、スイス人が危惧を表明した。
 後継アデスは350kmなので東独に落ちる。

 SSBN基地はロング島ブレスト軍港、SAC司令部はパリの北にある。
 ペルーやチリも太平洋実験に抗議。

 アルビヨンの地下発射所の深さは400m(p.87)。

▼大山柏『戊辰役戦史』上下
 各藩の士分(前線の実戦力)は1万石につき平均100人。
 戊辰役では、幕軍以外、騎兵はなく、幕軍でも伝騎として使ったのみ。

 四斤山砲の口径は86.5ミリである(p.12)。
 佐賀藩と長岡藩だけがもっていたアームストロングカノンは6ポンド砲で、口径2.5インチ。

 欧州では1720に工兵があるが、本朝では黒鍬組→築造兵→土工兵→工兵。
 武士は砲の牽引や土工には気が乗らず、人足にやらせていた(p.15)。

 会津攻撃の際の患者後送は、若松城から三春まで戸板で担いで3日、三春から越堀に送り、さらに那珂川を舟下、那珂湊から汽船で横浜まで。

 幕府は政策上から架橋をしなかったが、内水舟運には力を入れていた。戊辰頃、飛脚船(汽便船)発達。もちろん全品輸入。外国船チャーターも。
 戦役進捗とともに官軍の交通線が伸び、海路が大いに利用され、明治海運の基礎に。

 鳥羽伏見では、坂軍は負傷者を淀川舟送→大坂。
 土藩は舟艇機動により1隊を八島に上陸させた。ただし戦闘無し。
 薩摩103名、筑前兵158名、仙兵100名、大坂~陸奥東名浜まで海上輸送。

 旧藩士100名の江戸川遡行。
 当時の舟運。白河から江戸までほとんど舟で行けた。当時の川は今日より水量多く、水運も遠くまで開けていた。

 船橋への小兵海上機動。
 林軍は海上より脱出(p.275)。
 官軍の新潟上陸。
 当時、石炭補給体制なく、蒸気船は制約を受けた。
 官軍の新発田上陸。

 秋田土崎港に官軍軍艦の陸上砲撃および上陸(下p.540)。
 箱館役で松前藩は日の丸を知らなかった(p.706)。戊辰役を通じ、唯一の陸海一体戦が箱館。
 海が荒れると備砲発射できなかった。
 品川沖でさえ、石炭集積不十分。
 青森→乙部の陸軍渡洋。
 富川から運送船に陸兵をのせ、空の上陸用舟艇を曳いて夜間に寒川沖へいき、兵を舟艇に移らせて奇襲。

 西南役では薩に海軍なかったので問題外。
 砲はほとんど臂力で運んだ(p.852)。

 橋があっても弱いので、重量物は舟で運んだほうがよかった。大部隊を陸行させると、先頭と末尾の戦地到着時刻がひどくずれてしまう。だから為し得るかぎり海運を利用した。汽船足らぬので大型和船まで動員(pp.865-6)。

▼飯田嘉郎『日本航海術史』
 日支間の航路は順風8日。
 沿岸航海いがいの直路は、成功率50%だった。 

▼小林淳宏『核戦略時代の外交』
 1961-9-1、ついにソ連の方が待ちくたびれて水爆実験に踏み切った。「日本の原水協は恐慌状態に陥り、八月の決議にしたがってソ連を『平和の敵』とみなすべきはずなのにそれができず混乱を続けた」

 トルコの米レーダーはソ連の実験ミサイルを発射後約2分で探知していた(p.268)。

 マレンコフは民生指向で自国のみ無事ならよいとする最少核戦力主義者で、中共も核の傘の外に置こうとした。アジアの戦争にソ連はまきこまれないという決意。これに対してフルシチョフはシナと組んでアメリカを追い越そうとした。※が、シナは決して利用されなかった。この妄想は米も抱く。

▼石井昌国『蕨手刀』S41
 ※なんともスキタイ風の柄の古代刀である。
 大刀は上代の直刀。太刀は中世の彎刀である。直刀は古代に流布し、彎刀は中世以降に発達。

 毛抜形とは、「茎/中味/中心/なかご」部分がふたまたフォーク状に透かし肉抜きされており、そこを握ることで、手に伝わる打撃の震動が緩和される構造の柄。
 ※蕨手→毛抜きの系列は、北海道→東北とつたわり、西国の刀子式とは別で、後者が前者を圧倒したのか。

▼小泉久雄『日本刀の近代的研究』S44、初S8
 動物の筋肉を切るには刃の表面の粗なるがよいが、日本刀は沸、匂によりこれができている。「物打」は刀身全長のほぼ中点にあり、そこで打撃すると手許にひびきがこない。
 大げさ、とは、A肩からB脇に切ること。小げさとは、B肩からB脇に切ること。
 軍刀はニッケル鍍金。鍛錬せずして油で焼入れる。

▼伊藤尚『学的に見た日本刀』S19
 正宗ら北条鎌倉の刀工を相州風というが、その特徴は、巾広、長い切先、反り少ないこと。それ以前は細身、反りの高いものだった。これは戦術の変化による。

 室町から寸法短い刀を、刃を上にして差すようになった。戦国期は粗製濫造の時代。
 寒地ではよく日本刀が折れるという(p.60)。※アイヌの軟鋼の刀は合理的なのか。

▼福本義亮『吉田松陰の大陸・南進論』S17
 ※幽囚録の勝手解釈だけ。

▼木村鷹太郎『古今東西娘子軍』M42
 天武天皇は女子の乗馬法を男と同じ跨乗でよいとした。

 庄内藩では女性が木に登り相撲をとる(pp.94-6)。

▼ウ・タント『核兵器白書』鹿島平和研究所 tr. S43
 広島を20Ktとす(p.4)。
 白血病。グランウンドゼロより1km以内の発癌は、それ以遠より50倍多い。1.5km内でも、10km内のそれの10倍(p.8)。
 小頭症児が産まれる(p.9)。

 鉄道センターに対しては地表爆発モードか?(p.28)。

 それぞれ16発のSLBMを積む仏のミサイル原潜×3隻の調達コストは、10億ドルだった。また年間運用コストは2000万ドルだった(p.42)。

 モスクワ爆撃機であるミラージュIVAの開発には6年以上かかった(p.118)。

▼近藤?『     』※メモ第一枚目が見当たらず。
 Finete(有限) Deterrent Strategy は、minimum deterrent strategy と同じ。
 明確な核戦力優位を追求するのは、 Infinite(無制限)またはMaximum Deterrent Strategy という。
 打撃力/打撃部隊はForce de frappeという。

 アイクは財政緊縮じつげんのため、小紛争でも部下の軍人が使いたいと言ったらすぐにも核を使わせ、大量報復にたちまちエスカレートするぞという蓋然性で対ソ抑止を図れるものと夢想した。日独は再軍備させ、米軍はもっと楽をしよう、と(p.72)。※ところがソ連は中共というオプションでこの簡単な構図を掻き乱したわけだ。シナはその真似を北鮮カードでやってるところだ。

 ところが1955ツシノ・ショーでソ連が爆撃機もったと思われ、1957-8にはICBMもったとも思われ、小紛争で核をつかうのはヤバくなった。
 そこでアイクはニュー・ルックを抛擲。mimimumとmaximumの中間のAdequacy of Sufficiency Strategy を選択した。

 限定侵略に対するアイクの考えは、ペリフェラルな戦術核使用→セントラルへのエスカレーションの恐怖戦術。これで、通常兵力の海外常駐こそ拒否力なのだと主張する陸軍を説得せんとした。理由は予算均衡の強迫観念(p.78)。
 ※朝鮮戦争中の原子砲の開発が北京に手打ちを呑ませた。その直近の成功があるためにこんなことを夢想した。シナとソ連とでは国家の抵抗力の構成が違うのに。アトミック・キャノンは人海戦術には有効だが、モスクワは脅かされない。対権力直接アプローチにならない。

 国防費の上限をまず定め、それを国防省に示し、国防省に軍備プログラムをつくらせる。これがアイクの方針たる「予算枠示達」方式。

 ケネディは予算枠示達方式を廃し、必要兵力×最低予算調達方式を宣言。
 拒否的抑止効果+制裁的抑止効果=多角的オプション戦略。※ところが対権力直接アプローチに無配慮なので遂に「効率」とはウラハラな結果に。

 ケネディ大統領は、核兵器と在来兵器との間に高い敷居を設けた。
 アイクは戦術核くらい軍人に任せろという態度。これを文民コントロールに引き戻した。※FDR~トルーマン時代に戻した。

 ケネディの意を体したマクナマラは1965にAssured Destructionの用語を打ち出す。これは敵に先制調整攻撃させても構わんとするもの。

 封じ込め政策のためには、常備兵力が必要。しかしペンタゴンは、敵が第一発を殴ってくる→急いで大動員をかける→アメリカが全面勝利する、というWWIIのパターン想定にしがみついていた。これは平時予算が安上がりなので、アイクの支持を得たのである。

 1950-4-7にアチソンとニッツェは、核・非核の両面で平時から対ソ均衡をとるべきことを勧告するも、トルーマンは拒否。
 1950-6-25の戦争勃発で議会の空気変わり、上記提案実施の好機だったがトルーマンはまたも無視。彼はソ連との全面戦争だけを想定していたから、アメリカの太平洋防衛圏をアリューシャン~フィリピンと狭く設定し、対ソ全面戦争の上では小さな価値しかない朝鮮半島を除外した(pp.57-9)。※コミーはそこを衝いてきた。

 米指導部は、朝鮮戦争はソ連が欧州に侵攻する前段階の欺瞞・牽制だとみたから、深入りを避け、あくまでソ連との欧州正面での全面戦争に備え続けた。※そうは問屋が卸さないのが共産主義者の戦略。隙があればどこにでも来る。

 マックは中共相手、ワシントンはソ連相手に、それぞれ全面戦争を考えていたにすぎない。差は少ない(pp.60-1)。

 アイクの下でダレスが Peripheral Strategy を変更。つまりユーラシアは広すぎるのでその周りに米軍基地と軍隊を維持したのでは米財政がたまらない。だから侵略政策の源泉に大量報復するぞと脅かすことで安価な制裁的抑止を考えた。

 1953-5上旬、アイクは動員戦略を捨てない参謀全員の首をすげかえた。就任4ヵ月後。
 朝鮮休戦後まとめられた報告。海外米軍へらし、中央戦略予備軍を強化。局地防衛には空海支援を主とする、と。
 グレン・スナイダーは抑止を二つに分ける。余儀なくさせる力=the power to coerce and compel と、思い止まらせる力=the power to dissuade

 ニクソン政権の「十分性戦略」は、「ソ連の核戦力のうち、対シナ分を除いたもの」と米国はバランスできていればよい、とするもの。

 米人の伝統的な考え方では、戦争は異常事態である。政治の失敗である。だから戦争が起きてしまったら、政治家は引っ込み、軍人にすべてを任せろ。軍人は国力の全力を思うままに動員して敵を無条件降伏に追い込み、勝利ののちに国家の指導権を政治家に返す。政治家はそこから相手国との平和正常化交渉をスタートする(p.51)。

 サミュエル・ハンティントンによれば、V-J day当時の陸軍は8020000人。が、1946-1には4228936人。1946-7には1889690人。海軍もV-J dayには3400000いたが、1946-3には1600000人に。しかも動員解除は部隊単位でなく個人単位で、組織戦闘力構成を無視していた。

 1948-6-23に国務省は秘密報告。従来のstrategy of Mobilization(急いで大動員すれば最後は勝てるぞ間に合うぞ戦略)ではダメで、現有常備兵力・force-in-beingを維持してソ連とバランスしろと。

 キッシンジャーいわく、核兵器はそれまでに馴染まれた軍事ドクトリンに対する後知恵として、敵の工業中心地を撃破する、より効率のよい爆発物として、つけ加えられただけであった。
 シュレジンジャーの1975国防長官議会報告。核戦争は最初から核の交換にはなるまい。むしろ、在来戦争で敗北しそうな側が最初に使おうとするだろう。だから、在来拒否力、戦術核、戦略核はどれも必要だ。

 フォード政権のラムズフェルドも、ソ連の人口を狙わない、対兵力攻撃を主目標と見た。政治目標は、「必要ならば」攻撃する二次的オプションになってしまった(pp.118-9)。

 スターリンは最も恐れている米空軍機の核攻撃を受けた場合はただちに西欧に侵攻し、占領し得る態勢をとることによって、それを抑止せんとするだろう。抑止に失敗した場合も、西欧住民を人質にして、抑止の回復を図るつもりだったのだろう(p.126)。

 スターリンは、国内向けの宣伝では、核兵器の軍事的政治的意義を故意に過小評価し、その存在を無視するような態度をとった。そうしないとソ連国民の対西側の闘争心と士気が維持できないからだ。他方でスタは外国に対しては、核戦争の恐ろしさや核兵器禁止の必要を大宣伝し、アメリカが核兵器をリアルにも使用しにくく、また脅しとしても使いにくくなるように仕向けた(pp.126-7)。

 1954メーデーに参加させたバイソンは空中給油で北米まで往復できる。バジャーは対西欧用。1955-7のベアはバイソン級で、大編隊飛行で数多くみせかけた。

 1955ごろにはSAM-1サイトがモスクワ周辺にあっただけ。1950's末にはSAM-2サイトがソ連本土と全東欧に。WPおよび防空軍独立の目的は、米戦略Bomberの阻止体制の確立にあり。

 U-2はレーダー信号の録音もやっていた。
 フルシチョフは1961-9に英仏伊はロシアの安全を保障するための人質だと公言。イズベスチヤーにも転載さる。

 1963~64にかけ、ソ連軍内でも在来戦争の準備が強調される。海軍歩兵が復活された。An-22の開発がスタートした。1966秋生産へ。
 キューバに於いてソ連の核クレディビリティが低くなったことも在来兵力強化の一因。
 ブレジネフ時代になると、ケネディの「柔軟反応」に対応するかのような、通常→戦術核の論文や、演習が。

 ICBMランチャー・サイトは建設に18ヶ月かかる(p.160)。
 ソ連ABMは米セーフガードにはるかに劣っていた。

 ソ連には「価値」と「兵力」の区別などという発想はない。常に全面である。ところが米国は区別しようとする(pp.169~)。
 コールドランチはソ連が先に実用。SS-17で。

 フランスの核武装は、スエズ動乱後の仏世論(反ソ&反米)に支援されて実現した。仏はアルジェリア戦争と同様、スエズ出兵が反共作戦だと思っていた。なのに米は支持をしなかった。これに怒った。
 米ソ間の核手詰まり環境で、アメリカのみに報復核の引き金権利があったのでは、西欧にとって何の安心にもならない。仏だけ見捨てられるおそれがある。だから、アメリカとソ連の全面核戦争の引き金になり得るような、フランス独自の対ソ攻撃能力が必要なのである。それがあってはじめて最少核抑止力となり、安心できる。
 つまりモスクワに届かぬ報復核では意味がない。

 ドゴールいわく、一人の人間は一度しか死ぬことができない。だから核兵器を使用する固い決意を認識させれば抑止は成立する。

 マクナマラはFinite からInfiniteへの転向を行なった。
 ソ連の目標がやたらに増えたため、米第一撃で全滅させることは不可能となった。そこでABMによる味方損害限定が考慮されるが、その効率はもちろん非常に悪い。それならむしろ確証破壊に資源を回した方が抑止になる。

 攻撃力をやたらに増やしたおかげで1967には米の核攻撃能力はソ連を圧倒した。ソ連の能力は1961以降はサモスによって把握されていた。マクナマラは普通の抑止理論の通用しそうにない中共への備えとして、薄くABMを配備することにした。

 マクナマラは在来軍を大増強し、アイクの核中心ペントミック師団を改編。三軍の諸兵科をタスク別に再分類し、費用対効果によって1タスク1兵科に淘汰。
 ソ連はジョンソンのベトナム戦争を天佑として核打撃力を増強し、ニクソンが就任するまでに核パリティを取り戻した。

 マクナマラは対ソ核優位回復を諦めただけでなく、それはかえって先制攻撃を挑発すると見た。サイロ硬化は限界があるとし、ABMに期待した。

 ニクソン・ドクトリンは「1+1/2」戦争に対応する。志願兵制に移行。

 1974シュレジンジャーは、ターゲティング・ドクトリンを発表し、この能力によってソ連に西側の都市を攻撃しないよう説得ができる、と、あきれた考えを述べ立てた。
 ※夢想家の政治経済学教授たちがかわるがわるにメチャクチャにした米核戦力を正常にひきもどしたのは、結局リッコーバーのトライデント+GPSだったのか。

▼O・ラング『中国の家族と社会 I・II』原1946、訳1953
  F・シューが助手だと。
 奴隷の数が多かったのはB.C.2世紀~AD2世紀。

 19世紀家族を知りたくば、ディケンズ、サッカレー、ブロンテ、S・バトラー、トルストイ、ツルゲネフの小説がある。
 巨大家族の例は『紅楼夢』でわかる。しかし貧窮家族には老人はありえなかった。
 貧乏家族なら『金瓶梅』『儒林外史』『聊斎志異』ある。※けっきょくシナ古典を英文で宣伝したいだけ?

 儒教の教義は祖先の死後の超自然力に対する信仰を否定しなかった。
 ルターの「親を尊敬するのは親を愛するのにまさる」の逆がシナ家族だ(p.30)。
 母系社会では父と子は他人と看做される。それが後を引く?

 シナの貧民は富裕階級より多産でない(p.197)。
 北部シナでは南部より早く「同族」が崩れつつあり。

 シナの大学教授は留学先別の派閥をつくっている。
 山東、河北では、女は市場に出かけてはいけなかった(II巻pp.7-8)。
 シナの茶の習慣は、生水が危険だから。

 ヒトラーは「希特勒」と書く。
 対日戦争中も、知識層青年は、一兵卒として志願するのは断った(II-p.182)。

▼坂井秀夫『政治指導の歴史的研究』
 英のエンパイアルートとはインドへの道。
 ディスレイリは英民衆が保守的であると信じて選挙法を改正できた。
 カナダはカナダ人に防衛させよ。西アフリカの英植民地を放棄しよう……なんて言ってた頃が彼等にもありました。
 1869-10グラドストンはNZから英軍撤収。
 インドの重大性は、英陸軍のインド兵依存にもよる。かれらを欧州に投入できる。

 エジプト支配は投資債権の保護のため。ただしチェンバレンはそれは公言しなかった。ライバル国の口実になってしまうので。
 グラドストンは、卓越した海軍が諸国を不安にせぬよう政策協調せんとした。
 太平洋不凍港への露の進出だけが英エンパイアルートを脅かさなかった。

 1860~1890's中期まで英は極東水域でも圧倒パワー。
 19世紀における英の極東での有利はまったくその制海権によったもの。

 清に特権あったにもかかわらず各国に機会解放した。この政策は1868にクラレンドンが公表、1890'sまで踏襲さる(pp.229-30)。

 第二次グラドストン内閣のディルクは、対露防波堤として英清同盟すべしと説く。

 日清役後、露仏は極東海軍を2倍増。英は極東においても“二国標準”を維持することにする。

 清は対日賠償を露仏の借款で払う。担保は海関収益など。ウィッテは「平和的浸透政策」により清国操縦を企図。北の露と南の仏に中の英は挟まれる形勢に。

 露仏に対抗し、英は独とともに第二回対清借款供与。→海関を露に渡さぬことが条件。
 シベ鉄は、英の対シナ商品輸送独占を脅かすもの。

 独による膠州湾占領をソルズベリは、対露牽制になるという理由から黙認。しかし独が租借地を排他地域にしようとしたので、反発に転ず(p.238)。

 1890のマッキンレー関税法、1897のディングレー法により、最大の英市場だった北米から閉め出される。他の欧諸国も保護政策に転ず。

 チェンバレンは、シナの列強(露除く)に対する門戸開放が、露の浸透を防ぐと考えた(p.251)。

 揚子江流域に接する地域は面積にして清国本土の三分の一を占む。1890's中期、清国総人口の三分の二がそこに居住。
 カーゾンは、揚子江流域(上海~南京)に鉄道を敷くことで該地域を支配せんとした。それは鉄道債権という投資口をつくることでもあった。

 ソルズベリ「われわれは孤立というものに危険があると信ずる歴史的根拠はない」「ドーバーの制海権を有している限り、イギリスの安全は保たれ得る」(p.288)。

 ソルズベリ:日本はロシアに負けるとは思わない。なぜならば日本は本土の基地から作戦できるが、ロシアはウラジオストックから戦い得るにすぎない。
 1896の日本海軍拡張計画は日本がロシアへの対抗勢力になれるのではないかという印象をイギリス朝野に与えた。※軍艦発注の額も大きいしね。
 1903頃になると、英軍事専門家は、日本はロシアに勝てない、と云い出し、世論に影響を与える。特にフィッシャー提督。

 1912頃の英一般民衆は、独海軍の拡張によって英の安全が脅かされているとする Naval Panic に陥っていた。→ドレッドノート競争。

 1912の坑夫ストライキに対し、チャーチルと陸相ホールデンは、非武装の首都警察隊の威嚇によって終息させたがったが、けっきょく30箇所に軍隊出動。
 チャーチルの「独海軍は贅沢品」発言はドイツ新聞に報じられ、独の国民感情を悪化させた。

 独海軍増強に対応し、英仏はおのおの、大西洋と地中海を分担するようになり、相互依存心が高まる。

 アルスター暴動に、大量の武器がドイツから密輸入されていた。
 35000梃のライフルと弾が南アイルランドのラーンに陸揚げされた。
 英陸軍士官には貧乏アイルランド貴族多く、鎮圧に反発した。

▼池田・志摩『イギリス国防体制と軍隊』
 ビクトリア時代いらい、はじめは仏、ついで独の大陸支配を防いだが、WWⅠ後、米日の海軍力増長により支配力が低下した。1921に日英同盟を破棄し、米英同盟による海上権維持を企てる。
 1938、英はアイルランドの独立承認を防止できなかった。

 1952に原爆成功。V・ボマー(ヴァリアント、ヴァルカン、ヴィクター)をモスクワまでの運搬手段とす。ただし1954国防白書では「主たる抑止は米戦略空軍」と。Allied Deterrent.

 1950's後半から、戦略/戦術の核を区分。段階的抑止論が生成。
 1963からポラリス潜建造着手、V-Bomberを70'sにはSLBMに切り替えんとす。

 1968労働党政権は、マレー、シンガポール、ペルシャ湾からの撤収と空母廃止を打ち出す。ポラリス4隻建造は続行される。

 1970保守党政権は、空母アークロイヤル維持を打ち出す。同年、ポラリス4隻完成。空軍から海軍に核抑止力が引き継がれた。※つまりポラリス・ミサイルの射程では大西洋から届かない地域、たとえばシナがあるので、そこらへは空母の艦上機によって核を配達せねばならなかった。

 1975労働党政権は、1971のスエズ以東撤退に加え、地中海からNATO用の水上艦と空軍哨戒機を引き揚げる方針公表。人員も削減。
 有事には、正規陸軍と予備陸軍の7%が大陸派遣される。

 英では6月の女王公式誕生日にトルーピング・ザ・カラー(賜旗)の閲兵式。
 毎年交替するシティ・オブ・ロンドンのロード・メイヤーの就任披露ショーの主力も軍。また年毎に三軍もちまわりでロイヤル・トーナメントというマスゲーム。
 WWⅠ戦捷のヴェテランズデーには官庁街中心ホワイトホールで慰霊祭。
 三軍の総司令官は法制上は女王。国防相は、行政担当と装備担当の二人おる。

 海陸空三大臣は1964に廃止された。そのかわり国防相下に三人の担当国防相をおく。
 英では「海・陸軍」と呼ぶ。海軍を「シニアー」として立てる。海軍はロイヤルだが陸軍はブリティッシュ。しかし陸軍人は気にしていない。
 1952~73の英蘭戦争が、艦隊戦の魁。この戦争に勝ってから、階級や士官身分が確立した。

 海軍は1546のヘンリー8世のAdmiralty立府をもって。百年後、クロムウェルが提督府をコミッティ制度に改めた。これが今の国防部会。
 1832海軍省設立。以後、Pax-Britannica時代。

 19世紀後半、1等戦艦×8、二等戦艦×2となり、仏と露の合計を上回り、「二国標準」政策に。
 WWⅠ後、アメリカのために、The One-Power Standardへの切り替えを余儀なくされた。

 1955には空母14、戦艦5をもっていた。以後、減少。
 1955竣工のアークロイヤルは1978-11退役。※トライデントができかかっていたので、もう空母で核を運ぶ用は無い。

 軍艦は訓練とメンテのローテーションがあるので、総勢力の三分の一が第一線戦力となる。空から海への抑止引継ぎは、英製ポラリス原潜三番艦レナウンが就航した1968といえる。

 1973創設の英仏海峡常備艦隊は、対機雷の部隊。
 英はソの核実験前の1948後半に核武装を決意した。
 1958-2に英米ミサイル協定。60基のIRBMが英に。弾頭は米管理。

 中止されたブルーストリークIRBMの欠点は、「ケロシン+液酸」燃料という面倒さと、大型すぎてサイロ化できそうになかったこと。

 スカイボルト中止ショック後、1962マクミラン=ケネディのトップ会談。米図面で英国ドックで原潜建造、ポラリス筒体は米が英に継続供与保証、弾頭は英が自前で造り、核運用権も英が握る、と協定。

 一番艦レゾリューションは1964起工、1697竣工。
 二番艦リパルスは1965起工、1968竣工。
 三番艦レナウンは1964起工、1968竣工。
 四番艦リベンジは1965起工、1969竣工。
 いずれも水中8400トン、20ノット、141名の2直体制。※同時2艦造っていることから、原潜用ドックは二箇所? 日本も可能。ただし神戸に集中してちゃマズイだろ。

 1968-1ウィルソン首相はポンド再建のため緊急財政が必要になり、米に発注したF-111×50機の購入を断念。極東からの撤兵を5年早め、アデン湾ふくめスエズ以東の全軍事力を71年末までに引き揚げることに(池田文雄『英連邦と国際問題』)。

 チャールズ2世がクロムウェル軍制をぶっこわし、近衛騎兵をつくった。貴族でなくとも金貨100ギニ払うと、そこに入隊することができた。これが Private Gentleman で、今の“兵”の語源である。
 「サージャント」は、ラテン語の「使用人」の意味のため、用いられず。

 英空軍のストライク・コマンドは本土防空と弾道弾警戒もやる。
 英仏の防空システムは連携す。
 17歳半から2~4年を服務期間として、直接予備に志願できるのは英のみ(pp.144-5)。※日本ではようやくこの制度のマネゴトができつつあるのか。

 予備軍の野営訓練を Active Duty といい、野営以外の訓練を Inactive Duty という。

▼金谷治『秦漢思想史研究』
 淮南子の内容は雑駁で、統一的な理解はほとんど不能。

 武帝の思想統一とともに孔子一本の世となる。

 韓非子五蠧篇「民は固より勢に服する」。仁義では治まらぬも、気力では治まる。

 淮南子・兵略篇。人間の欲望とその対象物との不均衡に争乱の原因がある。

 斉の国に於いて、一般に人間の個人的な能力を超えた大きな自然法力として「勢」を貴ぶ思想があった。

摘録とコメント

▼大林太良 ed.『戦』S59
 米のOtterbeinは未開戦争を統計的に分析。他に戦争発達論として、フロベニウス、独のグレープナー、蘭のファン・デル・ベイ。
 グレープナーとベイは「原始無戦」の立場。フロベニウスは、仲間同士では女を巡って棍棒で、異類とは猟具たる弓矢で闘っていたという。

 エスキモー同士は戦争しないが、インディアンとの間にはしばしば激戦あり。

 グレープナーは、新旧両大陸の古代高度文化では、槍・白兵を中核にし、弓・石が翼をなす編成が一般的という。
 アメリカの古代文明諸民族は、伏兵配置をした上で、偽装退却する機動を好む(p.19)。※これは古代シナ人の常套戦術。白村江もこれでやられた。

 スネサレフは、スキタイには青年戦士団があったのではないかと。
 マックス・シュミットいわく、採集物を異にする集団が接住すると、弱い方が個人的な掠奪によって交換欠如を埋めようとする、と。

 K.Otterbeinは、政治段階高いほど、衝撃武器を主用すると(p.26)。
 日本に実用的衝撃武器が増えたのは弥生中期、於北九州。

 日本の弓矢は1万年前からある。70センチくらいの短弓。縄文中期から石鏃が重くなるので、弓の寸法も長くなったのだろう。

 古墳時代にはまずヤリ、ついで鉾が盛行す。全長2~4mで、片手投げか。先の尖ったものを「そん」、平たいものを「たい」と呼ぶ。材質は主に鉄。

 古墳時代に、腹抉[わたくり]と称する逆刺(かえり)つきの鉄鏃が作られる。

 鏑矢は匈奴の発明(史記)。短甲→挂甲にともない鏃も長くなる。靱[ゆぎ]はヤジリを上向きに50本収納(矢筒。日本固有)。「胡ろく」は下向き20~30本収納の矢立てで大陸渡り。

 殷~漢まで片手用の「持盾」が使われた。
 白村江敗戦は攻防両具の急速な改革を促した。
 しなりの弱い丸木弓は、弦が手首を打つ。

 万葉集では「いくさ」を軍卒の意に用いる。宇津保物語、平家物語以降に、戦争の含意となる。古代はこれに「たたかひ」を使う。
 「つはもの」のモノは「霊威」、すなわち武器をいった。
 トモは武人の集団。大伴氏はその頭主。

 記紀の武器用語一覧(pp.132-6)。

 6世紀末に騎馬戦なし。
 記紀に騙まし討ちの例が多い。

 牧[うまき]の設置は、白村江以後の侵入に備えた改新のひとつ。
 壬申乱後、685年、畿外諸国に詔して、号令具や弩、抛[いしはじき]の類を私家に置くのを禁ず。
 天武~文武にかけ、官人のプロ軍人化を図る。大射の行事もその一環。

 740の藤原広嗣の乱では双方弩を発す。続日本紀。ただの長弓だったかもしれないが、クロスボウととれる記述もある。

 8世紀末までは大陸に備える大陸式軍制だった。以後は地方武士団が代替する。
 白村江は国策でない。一豪族の私戦だ(p.177)。
 壬申の乱の敗軍側にいた田辺小隅は騎馬小隊の奇襲の範を示した。

 続日本紀の承和2年記事に据付式の弩が。
 鎌倉期にようやく弩、手弩が見出せなくなる。

 なぜイモや雑穀では権力は築けなかったか。コメが最も兵糧(糒=ほしいい)にし易かったのである(p.257)。

 ロゼンフェルドいわく、アラブでは王にとっては外人傭兵が最も信用できる。地元と気脈が通じないから。

 因幡の白兎の原話はインドネシア。シカとワニが登場する。このワニは鮫に非ず(p.277)。

 ワット・プール碑文には、真臘のジャヤヴァルマン1世が騎兵を導入し、対戦象戦法を編み出した、とある。しかし馬が走れる地形は、タイ=ビルマ国境とラオスにしかない。※だから英軍はビルマに戦車を集めていたのか。

▼林巳奈夫『中国殷周時代の武器』S47
 戈とはAdzisのようなもので、右手のみで操作し、左手は楯を持つことも。戟は戈+矛。※盾を越して殴り易い?

 鉤形兵器は必ず首を狙った。直兵は胸。
 髪の毛を掴んで(てへんに卒)やっつけるのがシナ人古来のコンバットスタイル。※古代人の髪型にも理由がある。

 北方異民族の斧を西周が採り入れている。
 殷周時代の刀はいずれも短刀~小刀で、ぜんぶ青銅製。
 小刀は常に砥石とともに携行された。すぐに切れなくなるから。
 長刀は片手でふりまわす、なぎなたのようなもの。

 甲冑着用は西周いご普及し、長刀を廃れさせる。長刀起原はメソポタミアで、大きさはシナとそっくり。ただし柄まで青銅でつくった点が異なる(p.197)。

 弩はシナの戦国時代中ごろ、B.C.4世紀に出現。『墨子』の「非攻篇」に武器が列挙されているのに弩は見えない。ところがその「備城門篇」以下には多く出る。ここから、戦国中期以降と断定できる。

 毒矢を用いたことは『周礼』の「述人」に。

 シナでは骨鏃時代から三角棒形を使っており、スキタイと同時代の春秋前期から三翼青銅鏃も使っている。だから増田精一説は間違いだと。

 干=小盾。盾=中盾。櫓=大盾。

 戈ははじめは、横棒部分が長かった。敵がヘルメットを被ると、そこが短くなる。敵がヨロイを着るようになると、横棒の角度が90度よりも上ずり、それによってむき出しの部分を狙って切りつけるように変わった。

 長刀に代わる剣は、春秋の前記から。
 春秋の後期に、戈の先端に矛をとりつけた戟が登場。

 戦列は、前から剣、戈、戟、弓の順だった(p.426)。
 戦国時代、中原でも矛が使われだす。以前は楚国のみ。

 剣に矛柄をつけたものが、鈹または「サイ」で、要人警護用。
 刺客は薄身の短剣を愛用した。

 戦国策や史記で、秦は六国兵の首をさかんに切る。六国側は首をとらない。これは秦だけが鉄剣をもっていたからだというのが関野雄の説だが著者は否定。※要はスキタイでしょ。
 江上の「アキナケス型短剣」説も著者は否定する。

▼モスカーティ『古代オリエント史』
 シュメール人は歴史以来メソポタミアに定住しているが、セム人はアラビア沙漠から来た。
 モーゼとサルゴン大王は生い立ちの物語が似ている。
 メソポタミアの文字は繰り返しを好む。
 アッシリア法規はバビロニアのそれに比べ低水準で苛酷。

 農民の一年は雨の降る10~11月に始まり、4月に収穫始める。おわるのは、涼しいアッシリアでは7月、バビロニアでは6月まで。夏の猛暑は50℃に達するが、ナツメ椰子だけは結実するので9~10月にそれをとる。

 弓矢はセム人がもたらし、シュメールの密集部隊を破る。市を征服すると、あとの反乱予防のため有能者は連れ去られる(p.93)。

 復讐法はセム人によってハンムラビにもたらされた。
 美術様式の水は規則正しい間隔の渦で表現される。

 母音を表わす文字は、ギリシャ人がつくる以前になし(p.112)。

 ヒッタイトはB.C.1200ころ「海の民」により瓦解した。
 ライオンとスフィンクスはヒッタイトの独想。

▼サイラス・ゴールドン『聖書以前』
 著者はリトアニア生まれのユダヤ人。

 ヒッタイトはセム世界とギリシャを架橋した。
 ヒッタイトはヘブライやギリシャ以前に歴史文書を大成した。エジプト人すらヒッタイトの編纂方式を真似たのだ。ヘロドトスがアナトリアから来たのは偶然ではない。

 ホメロスでは「石投げ」は、イリアス13・600に一回出るのみ。

 ヘブライでもホメロスでも、死体は埋葬されねばならぬ。

▼ウォロシーロフ『スターリン作戦論』松島有司 tr. 1952
 ※1929/39/49の三論文合冊。
 ※1952にはスタは本気で北海道を攻め取れると信じていた。それに媚び且つ呼応する出版物。

 訳者いわく、戦前のスタ軍論文はロシア版スタ全集の4~5巻を見ろ。戦中のものは単行本『ソヴェート同盟の大祖国戦争について』。

 WWⅠ中、鉄道を寸断されたソ連は主にボルガ河を使ってウクライナの食料を北送した。

 WWⅠ中、スタはトロツキの反対をおしきって騎馬軍を設立し、司令部にブジョンヌイとウォロシーロフらを任命したのだ。

 1923-3-14プラウダ。ドイツ人はチェコの工場を動員してソ連よりも多量の戦車をつくりだしている、とスタ演説。
 ※日本、英国、米国等、非接壌国に対しては、陸軍力とリンクしたナチ=ソ連=シナ式の宣伝が簡単に奏功しない。ここに過去の日本の救いがあった。

▼シュミット・ヘンネル『近代史に於ける政治と戦争』S14
 なぜ18世紀に倉庫主義、疲労戦略主義の時代となったか。それは兵隊と人民の人命が最高値になっていたから。とにかく住民を逃散させては何にもならなかった。だから徴発ではなく購入する。戦場も局限する。地方を荒らしてはならない。倉庫が空になったら軍隊は引き返す。また決戦をすれば兵の補充も不可能だから、決戦もしない。

 この時代、分科大学ができ、君主と将軍が分離され、各種大臣には専門知識が要求されるようになった。

▼メグルーヂャン・他『帝政露国及ソ連邦の対回教徒政策』東亜研究所 tr. S16
 ロシア人はウズベク人をサルトと蔑称し、他の諸民族を犬のように呼んでいた。
 また、タタールとアルメニアを対立させるようにした。

 極東に移民させられたユダヤ人は文化向上に役立った。

▼ムーアヘッド『ガリポリ』S61、小城正 tr. 続き
 ※メモがバラバラに出てきたので分割掲載スマネエ。

 アルメニア人が全く無力であったことが、かえってトルコ人の暴力を誘発したようである(p.136)。

 初の係留気球観測による超水平線艦砲対地射撃(p.146)。

 当時の飛行機にMGなく、鉄製の大くぎ(スパイク)を投下した(p.167)。
 「彼ら(イギリス兵)は全く攻略不能な目標に直面すると、不意に自分の命が全く取るに足らぬものにみえてきて、いきなり立ち上がり、突撃して死ぬのであった」(p.176)。

 ケマルは崩れそうな部下を着剣して伏せさせた(p.188)。※古兵法に通ず。

 とうじのsubは淡水層でバランス崩した。

 ドイツ=トルコの防潜網は、太さ2インチ半、深さ220フィート。ブイで吊り、ボスポラス海峡を横断。中央に通路があった。

 彼らは失敗の責任をここでもタマ不足に帰した(pp.305-6)。
 MG銃口炎で藪が燃え上がる。

 本作戦が成功していたら、ロシアの単独講和はなかった(p.510)。

▼M.Janowitz編“Civil-Military Relations”1981
 1937-45の日支戦争を「The second Sino-Japanese war」と表記す(p.29)。

 タイの1932の「維新」は、仏独留学生により行なわれたが、王室は残された。

 1956ハンガリー事件、1968チェコ事件は、ロシアよりも先に東独、ポーランド、ブルガリアの独裁政権が望んだのである。ハンガリーは厭々従った。ルーマニアは不参加。

 東欧諸国では、軍人が直接、予算折衝にあたることはない。
 政治権力への軍人の参与もソ連の半分以下。

 武力を国益のために用いんとする性向は、ポーランド人に最も高く、チェコ人に最も低い(p.203)。

▼情報宣伝研究資料 第一輯、G・フーベル『1928年 大戦間に於ける仏国の対独宣伝』参本 tr. 内閣情報部pub.S13
 ※タイトルと異なり、すべてWWⅠ以前のハナシ。

 フランスは他国と異なり、新聞経営者が首都に集中しているので統御し易い。陸軍省新聞課 Bureau de la Presse と密接連絡。
 仏では1881に新聞検閲法。

 仏が榴弾にビラ詰めたのは1918-3のこと。パイロットが宣伝仕事などやれるかと拒否ったのでやむなく。

 フランス人はあまり外国旅行しない。また外観に弱い。独人は内的性質を読む。
 バイエルンを独立王国にせんと煽動したが……。

▼James Joll『ヨーロッパ百年史』
 1867、まずジーメンスが発電機で新産業の魁に。次いで染料で独の世界市場支配。
 1890迄に都市工業が発展し、独→米移民は零となる。

 マイケル・ハワードいわく、19世紀を通じて欧州諸国は、軍事的に有能で政治的に信頼できる軍隊の創建に苦労した。
 ビスマルクの戦後政策は、5大国の世界で常に3大国側の一員になる。
 仏領内に逃げたアルザス・ロレーヌ住民により反独感情が保たれた。が、1890以後、復讐熱はやや弱まる。

 1867からの英の選挙法改革で貴族社会が民主社会になる。1872に行政職への競争試験制度が採用になり、オックスブリッヂの一般卒業者が入れるようになった。

 19世紀欧でロシアとスペインだけが異なった鉄道幅。
 普仏戦争までは、野戦病院で手術=死。手術に「殺菌」が必要なことが、まだ知られていなかったのだ。

 1780にオスマン男爵がパリの街路を広げ、下水を更新した。これでバリケード構築は不可能となり、市中は富裕者のみの区となった。※平壌になぜスラムがないかの理由。

 ドイツの分権ぶり。首都はベルリンだが文化はウィーン、ミュンヘン、ドレスデンが上。金融と商業はフランクフルトとハンブルグが上。

 株式会社は英では1862、仏1863、普1870に法制化。
 20世紀はじめ、かつての貴族に代わり、大実業家たちが、インターナショナルな連帯感を欧州に維持した。

 ドイツとローマンカトリックの対立はビスマルク時代に発す。
 1871仏で王党派議員が多数当選するも1800'sまでに機会去る。

 ドイツでは労働者が中流化することはまれであり、中産階級は古い貴族的軍人の気風で律せられており、新しい産業家たちは工場を貴族世襲地のように経営した。

 スペインではアナーキズムの伝統が深く、広い。
 フランスの対露投資額は、全植民地投資よりも大きかった。出資者は小口市民。

 オランダの東亜植民地は、多くのオランダ人に官職を提供した。
 英の中産階級家庭では、多少ともインド統治と関係をもたぬ家庭は稀だった。

 英が中央阿に進出する必要を感じたのはナイル上流支配への懸念より。軍人がソールズベリに訴えた。→ファショダ事件。

 バルト出身ドイツ人はロシア帝国のもっとも忠実で有能な官僚。
 WWⅠ中、独は増税できなかった。建艦も借款で。
 適者生存はスペンサーの造語。

 仏革命以後、ロシアを除く全欧でユダヤ人は平等な権利が与えられた。ロシアのみ、ゲットー。東欧ユダヤがイデッシ語ばかり使ったのもマズイ。
 1880~90'sに反ユダヤ主義。

 婦人参政権運動はミドルクラスから出た。
 イプセンは中産階級に、ニーチェは知識階級に読まれた。

 イタリアでは中産出身の作家と芸術家が、戦争こそ世界の特効薬だと煽った。
 ヒトラーはルボンの1895『群集心理学』を絶賛。

 1913の独の大学生6万人。英は9000人。文盲率比は独英仏で0.05/1.0/4.0だった。

 英パブリックスクールで厳しい肉体訓練が留意され始めたのは南ア戦争以後。1900前後は、英国都市労働者の体格最低(p.209)。

 1914以前のヨーロッパの支配者層は、ダーウィン国家主義がデフォルトだったので、戦争を当然視して、WWⅠとなった。

 仏ではWWⅠまで政治的に軍人が登用されていたが、クレマンソーが改革。カトリックのフォッシュを陸大学長にした。
 外相アレクサンドル・イズボルスキは日露役での威信低下を欧州方面で回復したいと思っていた。

 仏ではサンジカリストたちも不平も言わずに動員令に従った(p.251)。
 英の高所得税化はWWⅠに発す。

 WWⅠ中、スイス新聞だけが公平な戦争記事を載せていた。
 WWⅠ中に仏でマタハリが処刑され、前首相のカイヨーは逮捕された。
 オーストリーはもともと食料をハンガリー、ロシア、ルーマニアに依存していた。

▼上法快男 ed.『現代の防衛と政略』S48
 総力戦研究所がS16-7に実施した机上演習。ボルネオとスマトラの油田に強行進駐して輸送を図るが、フィリピンから出動した米の東洋艦隊によって船団を全滅させられる。外務省を通じて対米抗議するも聞かれないので宣戦し、フィリピンを占領する。第一週。

 ※中央の参本ではいちおう「宣伝正当化」を構想していた。これは満州事変の前夜も同じだった。しかしじっさいにはこんな手間隙かかる段取りで彼らがコトを進められたワケがない。

 講評は8月27~28日。この2日のみ東條傍聴。このときすでに東條の計画は上の通りにできていたので、動揺したと(p.86)。

 白を黒といいくるめる気風はメッケルによる(p.119)。※いまの中央官庁キャリアの採用面接試験でも、試験官に迎合的なことを自然に言っちまう奴は入省はできまい。

 「もしわが軍に、当時のロシア軍がもっていた繋留気球があったならば、203高地を苦労して取らなくともよかった」(p.299)。※この本を先に読んじまったために、旅順の気球に言及した文献を大喜びで漁って手間食ったもんだぜ。

 クロパトキンは、日本軍主力が北鮮東岸に上陸し、間島に出ると判断していた。

▼エドワルド・ベネシ『戦争・外交・建国の憶ひ出』石川湧 tr.S13
 ※戦争とはWWⅠのこと。建国はチェコ。

 マサリクの回想録が先行している。チェコ兵問題は、マサリクの『世界革命』を見よ。 ドイツ人はドクトリナリズムだ。

 ルドルフ・マルチンなるドイツ人が1908のパンフレットでロンドン空挺占領を説いていた。
 チェコ語で戦争はヴァレチナー。

▼石割平造『支那城郭ノ概要』支那派遣軍総司令部pub.S15
 ※33ページまでの総論が良かったのだが時間がなくて書き写し切れず。ちなみに国会図書館蔵で禁複写。

 シナ築城思想は古来から全く変化がない。国境線と囲郭のコンビ。期による分類不可。 『春秋』の襄公11年の「防」とは、防禦築城の意味だろう。

 六朝。北方は淮河と長江の水郷が険要となっていた。南方は未開の蕃族のみ。おかげで270年も絢爛たる文化を育てられた。
 南宋の立地も同様だった。

 都市の周囲の城壁を、往古は「郭」などと称し、唐にいたって「羅城」と称した。
 羅城外の近郊の出城を関城という。

 天智天皇の築城は朝鮮経由のシナ式。
 シナの城は外壁ほどかたくするのに、日本では奥ほどよく守ろうとする。
 壁の高さは例外なく7~8mで、厚さは2.5mだ。古来の日本でも同じくらいだった?

▼石丸優三『元帥フォッシュ』S5
 彼のモットー。Fait ce que tu dois, advienne qui pourra. 為さざるべからざることを為せ、後は神の為すに任せよ。

 1876創設の仏陸大は1882まで無意味な幾何戦術を教えていた。フォッシュは1817卒で席次がNo.4。
 フォッシュの講義は決してゼスチュアーを用いず。

 1866の役ではワーテルロー以来、実戦経験のないプロシア側の方がよくその後の研究が進んでおり、1859の経験あるオーストリー軍をあっけなく破った。

 Surete を強調。※上司の意を体した独断専行のようなことらしい。

 フォッシュはドイツがベルギー方向から来ることはないと信じた(pp.100-1)。
 フォッシュは英語はだめだったが1870以来の高級将校のたしなみとしてドイツ語には長じていた。
 8月の西部戦線は非常に暑かったと。

 フォッシュのやり方は、三角形にて連続攻撃させるだけ(pp.487-91)。
 ルデンドルフは常に部隊を2に分け、一を防、一を攻専用とした。
 皇族ではないが旅行案内役をしている関係で例外的に彼の葬儀に勅使が遣わされたのである。

▼アンドレ・シモーヌ『余は糾弾す』羽田三吉 tr. S16 “J'accuse !”
 著者は無名の記者で米に亡命した。
 レイノーからFDRにあて、仏政府を米国に移す打診がなされた(p.6)。

 ダラディエは、ウェイガンはチェコ軍を高く買っていた、と話す。
 フォッシュによってポーランドの対ソ戦に差遣されたのもウェイガン。
 小麦とワインの価格が良い間は仏農民は不平を言わない。

 ユージン・シュネデルはシュコダの大株主だった。ドイツ企業とも深くつながる。※つまりシュナイダー製といいチェコ製といい、半分はドイツ製みたいなもん?

 仏参本を代表して1935秋のソ連の大演習を観戦したロワゾー将軍は、すでに「ソ連の戦車は世界一流だと思ふ」と言っていた。にもかかわらず右翼新聞はドイツに対してソ連では仏の助けにならぬ、と(p.118)。
 9月、ムッソリーニがベルリンを訪問したとき、ヒトラーは初めて公然とウクライナを要求した(p.166)。

 「同じ閣議においてボンネは赤軍の憐れむべき状態についても亦長い説明を加へた。彼は赤軍が如何に戦争を行ひ得ないかを証明するため『信頼出来る』情報を同僚に提示した。此の情報の出所は日本の陸軍武官であった」(p.210)。

 参本はソの空軍と戦車は独に匹敵するとみていた(p.229)。
 ノルウェーへは独・墺・仏ともに山岳兵を派遣した。ポーランド兵も仏英に協同した。 仏工業は材量不足で兵器増産が間に合わないのに米への注文をためらった(p.299)。

▼ドゴール『剣の刃』“Le fil de L'epee” S58
 ペタンは、「刃の切先となるよりも熊手となれ」といった。ドゴールはこれに反発する。
 ハンニバルはローマ軍の力が陣形そのものであり、これさえ乱せば無力化すると見抜いた。

 師団編制を創出し、単位自主権を与えたのはカルノ。
 司令部の総予備砲兵をあみだしたのはWWⅠの仏。

 ベルグソンいわく、本能と知性の結合体が直観力だと。
 フレデリック大王以後のプロシア軍や、第二帝政時代の仏軍は、体験から知性軽視におちいった。運や勘だのみ。仏軍の場合、教条主義。
 シャルンホルストいわく、平和な時代には、几帳面な人物が天才を制する。
 普仏戦後の仏軍事費は国家予算の半分。地方まで軍事優先政策をとった。

 ドゴールは自身を、好き嫌いの激しいサラブレッドだが、打てども進まぬ駄馬に思われている、とみる。
 とうじ仏軍は68種の砲を有す。
 指導者は、秘策を出してみせることで尊崇を得る、と自分で言っている(p.53)。

 クリミア戦後、ミトライユーズとシャスポー銃が入ったので、仏軍は陣地防禦ドクトリンに浸り、消極化。1889再建なるや、こんどは攻撃思想一色になる。つまりプロシア軍は攻勢をとった由に勝った、と分析したので。

 情報の対象がこの頃、要地、なかんずく高地に向かい、彼我兵力の情報収集が第二義になっている。
 トハチェフスキーとドゴールはドイツでの捕虜仲間。

▼バイウォター『太平洋戦争と其批判』大15、原“The Great Pacific War 1931-1933”1925
 ※「批判」とは、訳者によるこの小説の批判のこと。

 太平洋上には中間補給地がないから、日米両艦隊は交戦距離に入れぬ。
 大型汽船を爆沈させてパナマを6ヶ月塞ぐ。

 マニラ湾外で海戦がまず起こる。5隻の巡洋艦を主とする米アジア艦隊は全滅。
 日本はSubを通商破壊戦に使用する(p.176)。
 サンフランシスコ、LA他を空母で空襲。当時の英汽船の煙突線は青線。

 18インチ砲、超5万トン級戦艦×4隻建造をすっぱ抜く(p.227)。※そりゃバレてたよね。
 千島ルートの逆襲は気候上無理だとはこの頃からの見解(p.312)。

 小笠原逆襲、ダッチハーバー空襲、ハワイにおける日系人の反乱。
 米が無防備のトラック島を占領。
 「要するに日本の主力艦隊は最早有力なる単位としての存在を失ったのだ」(p.512)。
 大12-2~3月の米演習で、パナマが空襲に脆弱なことが判っていた(p.550)。

▼八幡一郎 ed.『弾談義』S57
 オーストラリア生まれのゴードン・チャイルドは、新石器時代初期の西ヨーロッパ&アフリカでは、アックス(縦斧)と弓矢が、東欧&西アジアではアッズ(横斧)と投弾が用いられたと1950に。

 左伝の宣公2年に、台上より人を弾ちて、その丸を避けるを見る、と。
 弾弓は春秋から漢代まで武器。
 棒または矢の先端近くに紐をむすびつけ、鳥を狩ることを「いぐるみ」と。
 球弾より錘弾の方が弾道の曲がりが少ない。

 インカのスリング(石投げ帯)は強力で、スペイン人の鋼カブトに当てて致命傷を与えた実例が報告されている(p.265)。

 axeは両刃石斧、adzeは片刃石斧、とチャイルドは分けたが、axeのみの文化は存在しそうにないではないか。

 現存の投弾手は、200m先の1m大の目標に当てられる。弓以上(p.293)。

摘録とコメント。

▼『住友金属工業六十年社史』
 官営軍需工場は日清役当時、船舶以外、全部まかなえた。
 真鍮の圧延はM14の東京砲兵工廠が初め。
 M32の銅需要は、木造船の底用と、大砲薬莢の銅帯。
 少量の珪素を含む合金銅線を開発し、電線自給。
 プレスはM36
 M40の八八艦隊計画で、国産を決めたのに、罐管[かまくだ]、復水器管(高級管類)は国産できず。→加藤友三郎が英技師プライス他を招き、製管開始。
 罐管自給の要を感じたのは日露役中。
 のち、「吹雪」の復水器亀裂事件のときは1年かけて全艦チェック。
 M45に冷間シームレススチールパイプ成功。呉工廠の設備は廃され、住友に任される。
 大2にタービン翼の国内生産に目処。
 大3~6、WWⅠの影響でスウェーデン鋼の輸入途絶。
 大7から燐青銅タービンブレード製作開始。
 大5にロンドン郊外でツェッペリンの残骸入手、ジュラルミンを解析。
 大12から1万トン級巡の機関新造、そして主力艦エンジンを炭混焼から重専に換装。
 大10でもまだ横須賀に英人技師いた。ジュラルミン製法を教わっていた。WWⅠ後、独から賠償としてツェッペリン用のジュラルミン技術をいただく。

 大14、三菱内燃機の依頼で飛行機用のジュラルミン・ペラ作り、その後、独占。
 大7までペラは全輸入で、山本五十六が押して一貫製造さす(p.66)。米ハミルトン社からパテントと設備を買う。可変ペラも同社技術。

 インド向けの銅および真鍮加工品が英商品を駆逐する勢いだった。
 S16、独のVDM式の広角可変ピッチペラ導入(p.151)。
 大11のペーガンを最後に英と縁切れ、独・米からの技術導入さかんとなる。※ワシントン条約が英にとって痛かった一側面。

▼曾村保信『現代史ノート』
 ブレジンスキーは「米国は日本の核武装を奨励も制止もすべきではないが、もし日本自体が核武装の決定をした場合には、必要な技術的援助を与えるべきである」と。

 ロンドン・タイムズ1971-2-6号は、ブラジル国内でドイツの核に関する実験研究が行なわれている、と。

 サターンVは日本の護衛艦と同重量?
 ヴィッカーズ社史に、1899の主任造船技師ウィリアム・ホワイトの言として、三笠など外注船の方が、海軍省の監督がないので思うように仕事ができる、と。

▼池田博行『帝政ロシア交通政策史』
 20世紀に仏参本の要請で、ロシア西部の軍用鉄道が強化された。が、機関車も客貨車もドイツ・オーストリーに劣り、牽引力は欧米の15tに対し8.6tしかなかった(p.296)。

 1913のロシア自動車総数は8856台。うち7308は乗用、1548は貨物で、すべて外国産。自動車工業はロシア・バルト海工場で1914年は140台の乗用車を生産。WWⅠ前半は馬車で戦った。

 1917の航空用軍用発動機生産は652台。同年、独は12000、仏は23000の発動機を生産。

▼東海大学文明研究所『文明とは何か』
 去勢に関する知識は、エジプト、バビロニアの牧畜技術の一環として生まれ、殷の宦官になった(p.55)。

 シナには無血縁の養子は無い(p.58)。

▼小橋良夫『日本陸軍の秘密兵器』1994
 支那事変初期、シナ軍も、ドイツ製のくしゃみガス「ジエフェニールシアンアルシン(?)」と、催涙性の「クロールアセトフェノン(?)」などを保有しており、製造工場も持っていた。が、前線部隊は装備していなかった(pp.88-9)。

 シナ派遣軍には「あか」「みどり」筒と少量の「きい」剤が補給されていた。
 日本の参謀総長は「作戦的に使用する場合は、大本営の命令によるべきもの」として、禁止。

 「あか」「みどり」は発煙筒と混用された。
 昭和13~14年頃、主要作戦を実施するときに「一般住民に危害をおよぼすことなき場合、自衛のためやむをえざるときは、局部的に、少量の『あか』『みどり』筒を使用すること」が参謀総長命で許可されたことがある。ただし「きい」「ちゃ」剤(弾)などの使用は厳禁されていた。

 筒1本の充填ガスが135グラムだが、それを多いときで一度に250本くらい使った。これは少量である。
 国鎮、准南、羅山、揚子江岸の戦闘で使用。
 ※森金千秋『攻城』S54を見ると、催涙ガス投射は昭和19年8月でもシナ戦線でやっていた。

 シナ軍も事変初期には少量のガスを使用したことが記録にある。

 米軍は南方で上陸戦をするときに必ず毒ガス運搬用の装甲輸送船を随伴させており、もし日本軍がガスを使えばただちに同害報復する態勢であった。
 米軍はもってきたガスの処理に困り、一部を海洋投棄し、一部を沖縄に格納した。

 ガス弾は、以下の砲弾に充填されていた。
 75ミリ野山砲用。92式きい弾。きい1号50%+きい2号50%で880g填毒、制定S9-4。
 野山砲用。92式あか弾。あか2号180g、制定S9-4。
 野山砲用。92式あおしろ弾。あお1号90%+しろ1号10%で720g、制定S9-4。
 野山砲用。試製97式ちゃ弾。ちゃ1号365g。
 10榴・10加用。92式尖鋭きい弾。きい1号50%+きい2号50%で2230g填毒、制定S9-4。
 10榴・10加用。92式尖鋭あおしろ弾。あお1号90%+しろ1号10%で1960g、制定S9-4。
 10榴・10加用。93式尖鋭あか弾。あか1号630g、制定S9-12。
 10榴・10加用。試製97式尖鋭ちゃ弾。ちゃ1号980g。
 15榴用。92式尖鋭きい弾。きい1号50%+きい2号50%で5710g填毒、制定S9-3。
 15榴用。92式尖鋭あおしろ弾。あお1号90%+しろ1号10%で5030g、制定S9-3。
 15榴用。93式尖鋭あか弾。あか1号1275g、制定S9-11。
 15榴用。試製97式尖鋭ちゃ弾。ちゃ1号2520g填毒。

 ※なぜか90.5ミリの軽迫弾が無い。実用の主力はストークブランに基づく迫の筈だが……。

▼F・許[シュー]『比較文明社会論』
 シナの孝行はindebtedness(恩義)ゆえだ。
 シナ人は集団間関係についての正義/不正義感をほとんどもたない。だから社会が変革されない。シナ人は状況中心。米は個人中心。インドは超自然中心。

 従って世界が彼に合わなければ、彼が世界を変えねばならない(p.3)。
 著者は、インドの家族はシナの家族に比べてはるかに重要でないことを立証せんとす。※マックス・ウェーバーに同一視されたことへの反発が根本動機か?

 人口が増加してもシナ人は、家族の拡張部分にほかならない凝集的なクランを、単純に形づくるだけであった。
 マヌ法典では孝行は強調されていないではないか。
 シナではドメスティックな問題はドメスティックの中だけで解決されねばならない?(p.34)。

 シナ人の考えでは、評判のよくない者の避難所が軍隊(p.37)。
 ヒンズー文化はシナ文化よりもいっそう男性向き。
 シナでは、売春・演芸師の第三代子孫まで、科挙に応ずる資格なし。

 シナのクランは包摂していく意図あり、ヒンズーのカストは排他を目的とす。
 シナ人の姓は明代には4600あったが、いまでは100+しかない。
 シナではクランの優位の公言は憚られる。

 引用。ロシア人は自己や他者の動機を直視することを米人よりも恐れない。
 米人の望みは、転換可能な外部世界のますます多くを、彼の転換不可能な内部世界へ移し変え、組み込むことだ(p.246)。

 士はシナでは学者を表わしたが、日本人はそれを武家の意に変えた(p.317)。

▼シャー・リフ『戦争と日本経済』原1940
 八幡と鉄道網のために1899に起した1千万ポンドの英国債は、1940時点で償還されていない。
 1904~1910の1億700万ポンドの外債も1940時点で返していない。

 英領マレーの鉄鉱採掘権のほとんどが日本人の手中にある。

 ガソリンは9割、重油は6~7割を輸入原油に依存している。
 しかも国内精製はガソリンで50%のみ、重油で25%のみ。
 しかし日本陸海軍の消費量だけは、米英についで世界三位(p.63)。

 1937、日本「空軍」は86万2000バレルの石油製品を消費。
 1938には2.5%、1939には20%の酒精混合が義務化。

 1934の石油工業法で、石油の採掘、輸入、精製業者は6ヶ月分のストックの義務。※てことは対米開戦時も6ヶ月分のストックのまま?
 1939初に石炭&電力の飢饉。

 シナ事変数ヵ月にして銑鉄飢饉(p.70)。
 1938、140の新油井を試掘する五ヵ年計画。
 1936に31000台の分解自動車(KD?)が輸入された。

 日本は冶金と機械工業が最も遅れている。
 すでにシナ事変前から日本の軍需工業は註文に応じきれていない。
 満州に古くからある英蘭系「アジア石油」、米系スタンダード・ヴァーキューム商社等は、活動中止を余儀なくされた。

 1938-1~2月、英国の港湾でシナ支援の労働者が日本船向けの積み込み拒否(p.185)。
 シナ事変中、対外決済の6割以上はロンドンでポンドで支払われた(p.213)。

▼ロイド・ジョージ『世界大戦回顧録』
 1914の直前まで、政治指導者は雄弁より沈黙を尊ぶ風が流行。その代表がグレー子爵だ。LGはこの生来の貴族を外交官として全く不適と酷評。外人しらずで旅行嫌いだと(p.123)。

 英軍が旧来の榴霰弾に代えて高性能炸薬榴弾を初使用したのは、1914-10-31で、砲は18ポンド砲。
 ……事件が発展するにつれて、軍人が仕事を下手にいぢくり廻していることがづぶの素人にも益々明白になってきた(p.422)。

 オーストリー軍中のスラブ部隊、チェコ軍は、進んでロシア軍に投降した(p.427)。
 ロシア人化学者は軍の依託研究せずに純粋研究に打ち込んでいた(巻2-p.556)。
 もし、英がタマと砲をロシアに送っていたら……と著者。

 1916-6に渡英したジョフルの抽象雄弁にLGは実証反論(pp.639-641)。
 ニヴェール戦法とは、目標より広範囲に、予期より早期に、予期より短切に移動弾幕射、歩兵が膚接(巻4-p.1767)。

 当時、ランカシャ、ヨークシャには、12~14歳の児童が工場作業のため授業の半分欠席してよいという習慣があった(巻9-p.3926)。
 新聞や牛乳配達で、AM9:00前に登校できぬ子多し。

 フィッシャー改革。18歳まで全員、何らかの教育を受くべし。※→日本の青年学校はこれのマネ。
 1918ルーマニア油田が連合側に奪われ、ドイツ苦境に立つ(p.3947)。

▼日本輸出入銀行海外投資研究所『ソ連・東欧諸国の経済に関する論文集』
 1976ソ連は原油520万トン生産、うち3割輸出した。
 戦中の油田はコーカサスのみ。

 60's後半、石油が石炭の生産を上回る。
 掘り易いウラル=ボルガから、もっと東の油井に開発が以降するにつれ、西側の技術と資金を導入している。
 石油危機以降は、埋蔵大きい天然ガスを重視。

 50's半ばまでは石油を輸入していた。60年に生産699百万tに対し消費678百万tとなり、輸出もできるように。
 ソ連経済はいまのところ、国民所得の伸びをエネルギー消費が下回っている。

 生産は石油が多いが消費は石炭が多い。輸出ドライブを示す。
 それでもエネルギー輸入は1976で34百万tある。

 50~60'sのオーストリー、ルーマニアからの原油輸入は、戦争の賠償(p.42)。
 イラク、エジプト、リビア、アルジェリアからは援助的輸入をしており、転売。

 ソ連の地質探査で見つけたアフガンの天然ガスは1967~80まで600億立方メートルを、窒素肥料製造用にパイプ輸入。

 第24党大会計画指令(第9次計画)は、70'sを通じ、全生産の75%に水攻法等を適用して回収を上げよと。
 パイプライン径は、第9次五ヵ年計画以降、幹線部分では従来の1020mmに加え、1220mmを採用。
 70's後半の第10次計画において、西シベリアへの依存度高まる。

 天然ガスのパイプ径は820ミリ→1420ミリを図る。

 油、ガスともターボドリル掘削。西側のロータリードリルに比べて回転速く、磨耗早く、ビットは地層に応じた種類がなく、しかも交換頻度高いので、けっきょく時間がかかる。ノルマを課せられた担当者は、浅掘りでやめてしまう。高性能ポンプも不足。
 ソ連が発明した水力採炭法がソ連内では普及が遅れている。

 火力に比べ、水力、原子力の達成が低い。第10次五ヵ年計画では11基の原発稼動予定が、実際には6基のみ。
 1975の火力発電の41%は石炭。
 東欧中最大のエナジー消費国はポーランド。東欧コメコンの人口の3割を擁する。

 英は北海油田とヨークシャ、ダービシャの大炭田で100%自給。
 独は石炭の4割を自給。
 仏・伊は石油と天然ガス出るが、2割、1割の自給。
 ノルウェーは北海油田により、純輸出国。
 オランダは北東部グローニンゲン・ガス田により、100%自給。
 スウェーデン、ポルトガルは水力が主。エナジー自給2割弱。

 ソ連における原発設備の供給は、イジョルクス工場と、最近増設工事済んだアトムマシ工場から。しかし高級鋼材が供給不足で進まず。その鋼材工場から作っているところ。

 ソ連はエネルギー消費を抑えるため、1981-9にガソリン販価を2倍にした。石油から天然ガスへの切り替えを誘導中。

▼ソ連極東及外蒙調査資料『東部シベリアの人口問題』
 ブリャート蒙古自治共和国の総人口は1926の48万余から1931には58万余に達した。うち、非ロシア系であるブリャート人は224000ばかりである。

 19~20世紀初めにかけ、ブリャート人口は漸減傾向。帝政時代の制度のため。
 東部シベリアの農村人口は、1897年に1308600人。1933年に2352700人。

▼古屋芳雄『近代戦と体力』S19
 兵隊と産業要員の比率を各国別にみると……。
 独は1:2.55、仏は1:2.33、英は1:1.60(狭義)、米は1:17.00、または1:8.00(前記より交通関係要員を除く)。

 S18-6-14発の同盟通信。米戦時人力院の委員長ポール・マクナットいわく、米兵力は6月末に920万になる。年末までに1090万にする。軍需工員は今1000万だが、1年以内に1130万人にする。このため210万人の民需工員を転配する。主婦、学生も120万、戦争関係の職につかせる。直接間接に戦争努力に従うものは6440万人になるだろう。

 なおS15-4-1センサスによる合衆国人口は約1億3200万人。1943-12末では、134757千人。

 米はS17に、陸・海軍およびコーストガードに女子補助部隊を採用した。

 S18-8-15に同盟が伝える。子供を持つ米国男子で扶養を口実に戦争遂行に関する各種労働を回避している向きがあるが、当局は彼等を10-1に軍籍に強制的に編入する、と。

 S18末の英(アイルランド除く)人口は4740万人。15~49歳の男女は2450万。うち男子のみだと1200万人。

 普仏戦争前後の普仏人口動態比較。
 1865~1869に、普は10.1%の自然増に対し仏は2.5%増だった。
 1871のドン底の年、普は2.8%増で仏は逆に12.2%減。
 1876~1880に、普は13.8%増で仏は2.9%増。

 仏革命時は仏人口の8割が農民。普仏戦争時は6割7分。

 1870の仏都市住民は全国民の31.1%、独は36.1%、英は61.8%である。
 1920の仏都市住民は全国民の46.3%、独は64.4%、英は79.3%である。

 在仏の外国人は、1851には40万人で、総人口の1.1%だったが、1936には250万人で、5.9%になっていた。

 『わが闘争』にみるヒトラーの人口観。「産む数を制限して、弱いものの遺伝子でも残そうとすれば民族は亡びる」

▼小山栄三『民族と人口の理論』S16
 1650~1930に世界人口は4倍になった。が、白色人種は欧州内だけでも約5倍になっており、かつその間、大量の移民をアフリカ、米に送った。白色人種全体は、有色人種が3倍化する期間に6倍となった。

▼Colin McEredy“Atlas of world population history”

 ルイ14世の破滅的戦争好きにもかかわらず、1600~1650に仏人口は減っていない。
 ドイツでは1650にいったん人口が減った。30年戦争。※独人が仏人を怨むようになったのはこれ以後。
 1720にマルセイユで欧州最後のペストが流行。しかし人口増加が鈍っただけ。 
 18世紀後半から衛生状態が良くなり、仏人口が増える。仏国が受け入れた外国人労働者は、イタリア、スペイン、ポルトガル、現住アルジェリア人の順に多い。

 独では19世紀初めにはじめて「過剰人口」が語られ出す。
 1900までに500万人近い移民が新世界へ。
 独はWWIIで350万も死んだのに、ズデーテンランドや東方からの引揚があったので、上昇グラフにkinkはできていない。

 ロシアでは人口密度が希薄なためにペストの効果は大したことがないが、モンゴルの侵寇と重なると、1237~1240の人口減がもたらされた。これは15世紀まで回復しない。

 16世紀、マスケットの登場が遊牧民の軍事的優位を吹き飛ばした。ロシアの南進の始まり。1600にはクリミアのタタールを残すのみとなる。

 1644の初期の清は漢人の満州移住を禁じていた。分化汚染を避けるため。その後、ロシア人が現れるころは、そうではなくなった。満人人口は、ロシアのオキュペーションをforestall(先んじて邪魔する)効果があった。

▼山下康雄『化学戦と国際法』S18
 著者は台北帝国大学講師。
 前大戦に於て、極めて例外の場合を除き、平和的人民に毒瓦斯被害がなかつた。
 ※戦間期の米にあった、「ガス=人道兵器」説を敷衍する内容。

▼キシンジャー『核兵器と外交政策』
 ※若書き。これによってホワイトハウスに迎えられた。
 ゴードン・ディーンの序言:「爆発の種類とか爆発力からは非道徳性なるものがでてこないことは明らかである」

 爆風の熱の効果は爆発力に正比例するものではなく、その立方根に比例して増大するだけである。20Ktの原爆は、従って20t爆弾の1000倍ではなく、10倍の爆風効果しかない(p.39)。

 「朝鮮半島の狭い首の所まででも共産軍を押し戻していたならば、自由世界との最初の武装闘争で共産主義の力を、挫折させることができたであろう」(p.63)。
 「Uボートは可潜水上艦にすぎなかった。ソ連は真の潜航艦を持つに至るだろう」(p.144)。

 工業力と直結した時間無制限の非核消耗戦争は、ソ連の勝てない戦争法(p.192)。
 ※それを蘇支の縁辺で続けようじゃないかと。

 技術的利点を局地的優勢に転化し得る軍事能力をつくることである(p.193)。
 5個聯隊からなる新型師団を10日間で中東へ運ぶにはC-133が272機必要。戦闘中の師団には30日間に9438tの補給が必要。

 西欧への核技術拡散は、戦略技術上、良い(p.243)。
 しかし、英国独自の核努力は「無駄な重複」だ(p.337)。
 戦術核に対応していないWWII型の米英の在独師団ではダメだ。
 「最少の負担と最大効率の戦略とを混同させてはならない」(p.390)。欧州同盟国は経済的犠牲を払えという文脈の中で。

 「ブルガーニンとフルシチョフがインドを訪れ、声高らかに平和愛好を言明している間に、ソ連内では水爆を爆発させるのである。こういうタイミングは、決して偶然ではありえない」(p.398)。

 「したがって、柔道家のように、……」(p.433)。
 「ナセル大統領も、相手よりもゆっくり待っておれば、敵を失脚させる機会は常にあったことだろう」(p.435脚注)。※永井陽之助氏は随分影響を受けたのではないか。

 ソ連国民は、殆んど十年近くたってはじめて、原爆が一体何であるかを正確に知ったというありさまだった(p.455)。
 「1954年になってはじめて、ソ連の大衆は……キノコ雲の写真をみることを許されたのである」(p.459)。

 「ソ連の指揮機構の杓子定規ぶりを利用する最良の戦略は、限定核戦争をやる手である」(p.500)。※これにうかうかと乗ったのがオガルコフで、乗らなかったのがSS-18を安価に量産したウスチノフだろう。

 政策は確率を考量する術である(p.531)。
 「平和は直接これを目的とすることはできないのである。平和とは、ある状態や、力関係の表現である。外交がとりくまねばならないのは、こういう関係であって──平和そのものではない」(pp.537-8)。

 社会というものは、経験だけから学ぶ。……しかし政治家は……インスピレーションが「真理」であるかのように行動せねばならない(p.541)。

 ダレスはキシンジャーの限定戦論を導入したが、ニッツェとケナンは反対した。
 敗北を避ける戦略のみが、熱核戦争では意義を持つ(p.583)。

▼『日本海軍燃料史』<上>
 瀝青炭は有煙である。ほとんどの国内炭がコレ。
 日清戦争で使用した石炭は、主として新原炭。有煙の和炭。新坑。

 黄海会戦の図に見る如く黒煙濛々として天を焦がす結果となり、外観は甚だ勇壮であったが、黒煙のため敵に所在を認められ易く、或は味方の信号を遮る等戦術的に少なからざる不利を来したのみならず、機関員の労苦は言語に絶した。

 国産炭を使った日清戦争時の軍艦は、全力の四分の三以上は、出せなかった(p.63)。
 日露戦争はすべて英カーディフ炭。また戦役中に仏から機械を購入し、国産炭を練炭に加工した。
 M39に練炭と重油の混焼を採用。
 大7より、ボルネオ産のタラカン重油の備蓄を始める。安価なカリフォルニア重油で追加需要を補う。

 海軍が開発に協力した北樺太油田(後に尼港事件の代償となる)からはピーク時に年産20万tが得られた。この油田の発見は1880である。大15からS19の返還まで、345万トンを生産した。

 揮発油は、はじめ潜水艦用として、後に航空機用として需要が膨らんだが、その蒸留製造技術はまったく遅れていた。
 S12の北支事変の渡洋爆撃に掩護戦闘機をつけるためにハイオクが必要になり、アメリカから緊急輸入。

▼内務大臣官房秘書課『敵地ノ占領』明治廿八年pub.
※フランス系の「戦時公法」の紹介らしい。ただしプロシア1813徴兵法も引いている。

 事務官は占領地に残る。政務官は侵略前に退却すべきである。

 占領は主権移動を意味しないから、住民に「忠順ノ宣誓」をなさしめる能はず(pp.26-7)。

 占領中の契約で、未だ結果を発生しないうちに占領が終わった場合、遵守の義務なし(p.36)。

 海戦では私有財産を押収してよいが陸戦では公有財産のみ。公保管の私有財産はだめ。
 戦争は、戦勝者を以て権利者と確認するに至る一種の争訟と看做すを得。よって戦争の費用は之を戦敗者に於て負担させるべからず。※確認訴訟か?

 物件徴発は、指揮官ができるが、金銭徴発は、民政庁長官が命令しなければできない。
▼棺泰彦『日支交通史』上・下、大15・S2
 日露戦時、ウラジオに敷設した機雷は朝鮮、出雲、壱岐に漂着した。

 わが国で海北というのは、韓土のこと。

 辰が秦の亡人投帰というのは、音が近いからおこった付会の説。
 秦・ハタは、肌から出たのだろう(p.87)。
 梁と日本の交通なし。
 遣唐船を廃止した後の方が、唐に入るのは楽だった(p.203)。
 五山の僧徒や公卿によって読まれた儒道諸子百家の書は概ね元から輸入せられたものであらう(下p.161)。
 「異制庭訓往来」にも、呉子や孫子の署名が混じっている。

摘録とコメント(※)

▼田岡良一『戦争法の基本問題』
 1179のラテラン会議は「司教、僧侶、旅行者、商人その他すべて武器を執らざる平和的人民は武力攻撃より保護せらるべきこと」を命ず。
 トマス・アキナス、Honore Bonet(14世紀末)も同様のことを説く。

 さらにヴィトリア、Gentiliusも非戦闘員への攻撃を難ず。
 三十年戦争中のマグデブルグの虐殺等の例は、みな宗教戦争の上のことなので、非戦闘員とはみなされなかった。
 ヨーロッパでは、旅商人の財産は盗られない。が、敵国住人の動産は奪われた。

 via military overthrow の説。敵国民のディモラライゼイションは、ただ敵国民が恃む前線兵力の倒壊によってのみ起こる。だから交戦国は専らカウンター・フォースを行なえ。兵力倒壊の学説。

 都市に対する兵糧攻めは適法。海岸封鎖も適法と類推される(pp.32-3)。

 無差別(対都市)砲撃 = indiscrimitate-bombardment は、無警告でもよかった。ハーグ条約で、これが沿岸砲撃にも拡大された。

 1215マグナカルタによれば、開戦時、国内に居る敵国商人は抑留され、相手国内の英人商人が安全なら、それを解き放つ。同様の法は、北欧および仏にもあり。
 ハンザ同盟とルイ11世の間にも1483に同様条約。
 敵たる外人をenemy alienという。

 相手国財産を没収した稀少例。1807にデンマークは英国民の債権を没収した。南部は1861に在南部の北部財産を没収する立法をした。

 la guerre nourit la guerre ……戦が戦を養う。
 ダイナスティック(王朝的)な戦争性格が、国民的(ナショナル)な戦争に変化した。
 18世紀を通じて政府は非国民の兵を雇って戦争した。たとえば1744の仏軍総勢16万人のうち、仏人は11万人のみで、他に2万のスペイン人、12000人のドイツ人等がいた。

 英国人は、世界を国家の併存とは見ず、人民の併存として視る(p.75)。すなわち、「人民vs人民」の戦争観。これは米とも共通。そして独とは対称。
 ここから、バラロング号事件が説明される。英国商船による独Uボート員虐殺事件。
 ※ここから、対都市絨毯爆撃の濫觴が説明されるべきである。

 米国は、海上財産非没収主義の先鋒。それでハーグ会議では仏と対立した。

 「戦数」(戦時非常事由)を適用すれば、荷やっかいな捕虜は銃殺できる、との説がある(p.105)。
 ハーグ陸戦条規22条二号「no quarter の禁止」:投降を受け付けぬ、との宣言の禁止。

 ナポレオン戦争中、英は仏の漁船多数を抑留した。上陸戦を怖れたため(p.124)。
 小口径焼夷弾を禁じたセントピータースブルグ宣言は、航空機銃についてのみ除外された。

▼田岡『改訂増補 国際法学大綱』(上)
 大昔、ローマの対外宣戦は、神官が国境越しに槍を投げる時、始まった。

 万国公法→(泰西公法→)国際法→(列国国際法→)国際公法。

▼P.Blackett『戦争研究』“Studies of War”岸田純之助 tr.S39、原1962
 1494にアルプスを越えてイタリアの要塞都市を落とし回ったシャルル8世は大砲を使用。この火力革命を把握しようとしたのがマキャベリの『戦術論』だが、マキャベリは大砲軍縮を希望していた。
 ドイツは2年間空襲を受けた。日本は5ヶ月のみだ。

 著者は広島原爆をTNT2000トンと計算する。その原爆によってWWIIの独と同じ被害を与えるには600機が必要じゃないかといってけなす。※60機? それとも出力単位の誤訳?

 「もし大部隊が原爆攻撃に乗じてすぐさま国土へ侵入すべく前もって配置されているのであれば……原爆攻撃を極度に集中させるのが最上の方法であろう」(p.9)。

 SAC司令ケニー大将は1948に、「空軍は赤軍戦列の後方の収容所の人々に武器を投下し、落下傘部隊を降下させて、背後からロシア人を攻撃するのを援助するであろう」と発表。※米人の好きな幻想。

 原子についてのドウエ主義はワシントンの軍事グループではすでに影響力を失いはじめているのであるが、ロンドンの政治グループの間ではいまだに生きのびているようだ(p.16)。
 アメリカの原子兵器製造産業に要する電力がイギリス全体で消費する電力よりも多い(p.18)。

 1954に著者いわく「仮にドイツおよびドイツ占領地に対して270万トンの通常爆弾投下によって現実に生じた物的損害と同じ損害を与えようとすれば、1000以上の広島型原爆が必要だ」。

 ある報道によると原爆一個に要する費用は10万ポンドにまで下がり、重戦車とだいたい同じ(p.20)。

 1953に原子力委員長のゴードン・ディーンいわく、たとえ水爆が初期の原爆の千倍も強力だとしても、その破壊の及ぶ範囲はせいぜい10倍にすぎない、と(p.22)。

 1953にシベリアの海岸近くを飛んでいるアメリカ機は、アラスカ近くを飛んでいるソ連機が米防空網によって発見、迎撃されるよりもずっと早く発見、迎撃された。

 20Ktが1Mtになっても、破壊半径は4倍になるのみ(p.35)。※ここではじめて広島級が20000tであったと認める。

 三重水素(乾式では不使用)は、熱を出しながら12年で半減してしまう。常温常圧下では二重水素も三重水素も気体。

 『TIME』1954-4-11号によると、1952の米初水爆は65トンもあった。
 1955の発言で著者はまたもや「1945型は2千t」と述べる(p.49)。

 100発の旧型A-bombでイギリスは決定的な損傷を受ける──と言ったのはこの著者であった(pp.49-50)。※石原慎太郎もとうじ影響を受けたのか。

 1945型の千倍の威力の水爆の破壊面積は50倍。1945型では15平方kmだった。その千倍の水爆は750平方kmだろう。

 S・ジョンソンいわく「人は二週間以内に首を絞められることを知ったとき……驚嘆すべきほど精神が集中する」。

 英内閣は、より密集しており破壊し易い独の労働者住宅を狙わせた。
 「現代国家が意識的に主要作戦を敵の軍隊に対してではなく、敵の人口集中地域に対して計画したのはそれがはじめてである。私が第一次大戦中海軍にいたころには、そのような作戦は思いもよらないことだったろう」(p.117)。
 なお、英政府によるこの決定は1942春である。※日本軍のシナ爆撃は軍が具体的な攻撃プランを定めているのだが、英のボマー・コマンドは首相に直属で、ターゲットを政府が決めていた。

 ニッツェやガルブレイスは対独戦略爆撃調査団員。

 著者は爆撃をカウンター・フォースに指向したかった。統計的根拠があるという。※これはベトナム戦争以降の米政府の非実効的な爆撃政策に影響したか?

 1960頃のICBMの全発射には30分かかった(p.128)。

 1962の著で「これはソ連のすべての男、女、子供に対して1人あたりTNT爆薬150トンに相当する」と。※ケネディのスピーチライターの誰かがこのようなレトリックを使い始めた筈。

 甲乙二兵器の成功例からどちらかの優秀性を証明するのはポアソン分布(ゆらぎ現象)。
 命中平均データmから予測命中確率xを導出する算式(p.180)。

 WWII中、爆雷の毀害半径は6mだった。だから深度設定を7.5mに決めた。※対潜爆弾の深度調定のオペレーション・リサーチに関しては、統計学の勝利というよりは、子供の算数問題に近かったといえようか。

 長期戦では熟練労働者の数が勝敗を決する、との結論が、労働者住宅攻撃となった(p.225)。

 船団が発見される率は、大小に関係ない。潜水艦が沈める船の数も、船団の大小とは無関係(p.232)。

▼藤岡謙二郎『地理と古代文化』S21
 ラッツェルに反対して、仏のBlachは、人間のイニシアチブを強調。つまりdeterministではなく、Possibilist。

 ラッツェルの影響うけた米のEllsworth・ハンチントンは、マヤ=アズデク文明の時は、ちょうど乾燥帯がそこまで南下していたのだ、と主張。

 揚子江は宋以前はまったくの沼地で、定住文明向きでない(p.101)。

 「河川が平野に出んとする地点」に文明が立つ。いずれも第四紀沖積の平野。

▼ジョン・スタインベック“Travels with Charly”1962
 “……Texas is a military nation. The armed forces of the United States are loaded with Texans and often dominated by Texans.”

▼外山卯三郎・訳編『南蛮学考』S19
 ※洋書のオムニバス。
 10世紀以来のヴェネチア船は、古代のガレー船とほとんど違いがない。地中海は大西洋に比べるとはるかに温和、平穏だったから。

 14世紀、はじめてガレー船が大形化。1268ルイ14世の対英侵攻用艦×15隻はベネチアから借りた。
 船尾舵も14世紀から。ゼノアとベネチアは13世紀から大船建造。

 15世紀末、仏人ドシャルジュは銃眼を発明。甲板は一段高められ、船首・尾砲は舷砲になる。この時代まで、船舶は幅狭く、非常に長く、かつ背が高い。夏に限って順風を見計らって出港した。

 船は借りればよかったので常備艦隊などは存在しなかった。1589の対西戦準備中の英艦146隻中、自国有は6のみ。
 進水前にはじめて吃水高を予測したのは1665の工匠デーン。この頃、はじめて6ヶ月分の糧食を積載する。それ以前は食料船を別に従えた。

 ピョートル大帝は25の造船所をつくったが、その死後、海軍は見捨てられた。エカチェリーナ2世はこう質問した。「グルジアは海港をカスピ海にもつべきか、或は黒海に持つべきか?」
 クリミア戦争中、バルトから東シベリアに航海できる艦なし。

 英仏がスクリュープロペラを採用したのは、アメリカ1840の『プリンストン』が14ノットを出してみせてから。

 クリミアの戦訓。もはや帆船は意義を失った。
 それに基づき、仏は木板に12センチの装甲をつけた『グロワール』建造。
 対する英は全鉄構造の『ウォリア』建造。17.7センチ厚。区画も採用。
 1860→1876に、装甲厚は4.5インチ→12インチに。

 英はクルップ砲に対して、チーク材をサンドウィッチした複合重装甲を考案。
 鋼に銅を混ぜたりニッケルを混ぜたりしたが、火砲浸徹力はそれを上回ってきた。
 そこで、クローム鋼を経て、ハーヴェイ法に至る。これだと7インチ厚あれば155ミリ砲に抗堪できた。

 衝角のエネルギーよりも、40インチ(?)の砲口エネルギーの方が高い(p.74)。
 1524にガマ艦隊に従った『ガレアン・ピンダード』は積載量100トン。
 ポルトガルはオランダ船の攻撃から軽快に逃れるために快速小型船に荷物を分散した。 ネルソン時代は、フリゲートが「艦隊の目」とされた。

 スクーナーは横帆でなく縦帆を全2~3マストに使用。スループは四角横帆使用。
 英船は短い船に高い帆。スペイン船は長い船に短い帆。
 臼砲の射程は800歩(p.215)。
 ハインリッヒ1世いらい、ツンフトによって組織された都市の民兵は、騎乗、弓、弩などに専門化した。

 西欧流「気を付け」は剣を抜いてのち号す。これ威令時代の名残。「頭右」で剣を投げ出す、これ服従の意向(p.223)。
 フリードリヒは7年役のはじめ決戦主義だったが、長期化してしまい、マヌーバ持久主義に戻った。

 仏革命軍の縦隊戦術とは、前面に散兵が進み、そのあとに縦隊が続行するもの。
 フリードリヒとナポレオンの使った火器に違いなし。用兵のみ。その新式を敵が覚えてしまったモスコー以降、ナポレオンはドイツ兵に勝てなくなってしまった(p.238)。

 18世紀まで大砲はギルドの手工品。
 普仏戦時の大砲にはほとんど全部「名前」が刻まれていた(p.243)。
 グスタフ・アドルフが青銅砲からいちはやく脱し得たのは良質の鉄が産出したから。

 1814、ロシア軍に騎弓手が随伴してフランスまで来た。

▼W.Dornberger『宇宙空間をめざして』
 著者は砲兵士官出身だった。
 パリ砲の最大高度は40km。

 V2の白黒塗装は、回転が起こっていないかどうかを知るため。
 着水ダイマーカー入りの袋がつけられて実験された。

 最初の実験。192km飛んで、横に4kmしか逸れなかった。最大Gは5Gだった。これは飛行機並。
 回収パラシュートは2段。まず減速傘。次いで主傘。

 V1が中高度以上に上昇できなかったのは、酸素濃度が必要なエンジンだったから。
 V1の失敗は28%、V2の失敗は、実戦におけるベスト時で4%であった(p.156)。

 はじめは地上20mで爆発する近接信管にしたかった。けっきょく電気瞬発にしようとしたが、じっさいは機械信管で、そのため相当めり込んでしまった。※つまり2000ポンド爆弾は地表から20メートル離して炸裂させるのがいちばん良いのか。

 突入してくるV2は赤熱球に見えた(p.295)。
 著者いわく、航空機をつくっても、燃料がなかったのだから、V2生産優先が至当だった、と。※だがジェット燃料はあったではないか。

◎木村兵太郎の私家版伝記をご所持の方、ご連絡ください。

チャンネル桜の勢いが停まらない

 書籍の新企画(複数)の打ち合わせと、スカパーの番組収録(一挙6本)のために上京しましたが、最小人数のスタッフで24時間放送を実現しているだけでも偉いのに、さらに全コンテンツのインターネット分売に乗り出し、さらにその次の意欲的な新機軸(その一つとして英語の対米宣伝番組、またもうひとつはFENとのコラボ──あそこはTV番組も持ってますからね)にまで踏み出そうとしているチャンネル桜の攻撃的な姿勢には感服の他ありません。

 それとはまた別に、どうも「地デジ」の前に、「ハードディスク内臓TV」が、日本の既製の放送文化を変えてしまうことは確実だと思うようになりました。
 インド放浪歴の長い知人から聞いたのですが、これは便利なもので、1週間分の番組表を画面に呼び出せる。その画面で録画したい番組を幾つでも指定すれば、深夜番組だろうが何だろうが勝手にHDが録画する。それをあとで暇なときに倍速再生する。そのさいに、CMや、不要なタレントのトーク部分をスキップできるので、得たい情報だけを、至短時間で視聴できるということです。
 彼の場合は、だいたい5時間分くらい録画したものを、1時間半で集中的に見終えることができるというお話。もともとテレビは視なかった人なんですけどね。これなら価値はあると語っていた。
 まあ、これではもう普通のCM産業は早晩、成り立たなくなるでしょう。今までの「ゴールデン」とか「プライム」の価値もなくなってしまう。既に、日本中の同世代の人間が同じ日の同じ時刻に同じ絵を視るという、90年代以前には在ったマス文化は変容しつつあります。電通もNHKも目下この対応に必死なんでしょう。アメリカ海兵隊と同じで、存在基盤が揺らいでいる。だから消えゆく運命のアメリカ海兵隊が日本政府から国司の離任前の土産集めのようにして3兆円+新基地をふんだくろうとするのと似たような必死さでNHKも「対外広告放送」なんてヤケクソな新利権拡張ロビー活動を展開中なんでしょう。
 だいたい特定アジア製のコンテンツに頼ってBS枠を埋め、自国民向けに反日番組を製作しているようなNHKに、日本の国益に即した対米宣伝なんてできるわけないでしょう。そういうのは内閣が「国営インターネット放送所」に命ずべき仕事であって、公共放送の仕事ではないのは明らかですね。

 以下また、摘録とコメントです。

▼コーリン・マカーディ『世界人口史大観』※未訳? およびマッケンロート『人口論』および大江志乃夫『徴兵制』
 仏/独/欧州ロシアの経年人口比較(単位=百万人)。
 BC200年:4/2/1.75、AD1年:5/3/2、200年:6.5/3.5/2.5、1200年:10.5/6/9、1500年:15/9/12、1650年:21/11/17、1750年:24/15/26、1800年:29/18/36、1850年:36/27/60、1900年:41/43/100、1950年:42/79/120

 独人口は1618~1648の三十年戦争で2100万人が1300万人に減ったとも。マッケンロートいわく荒らされた農村から都市に人口が逃げ移った結果、都市が過密から不健康化し、幼児死亡率が96%になったと。
 1700に独に馬鈴薯導入。
 大江いわく1794の仏の正規軍兵力77万人。
 1800時点でヨーロッパの七人に一人が仏人。
 グラスいわくナポレオン戦争後の仏ブルジョアジーは重商主義と人口主義を捨てた。マッケンロートいわく、なぜなら手工業段階でいちはやく自由化が来たため誰もがすぐに小領主を目指し、大企業家が出ず、農民も工員になろうと思わず、小領主とプチブルは多くの子供を望まない。ソーヴィいわく過剰人口を感じることのできる唯一の階級は小地主。

 1830から独仏に鉄道普及。1847にヨーロッパで普及済みの馬鈴薯の病害から大飢饉。アイルランド、ドイツ、ポーランド、ロシアで計数百万人が餓死した。アイルランドだけで100万人死。1895の独人口の35%が農業。
 マッケンロートいわくロシアは農業部門の爆発的人口増圧をもってWWⅠに突入した。また、独のWWII前の人口増は出生のせいでなく、死亡率低下のせい。※トルストイ時代の「おおきなカブ」がイモに変わった結果。
 大江いわく独は1913に戦時540万人動員を可能にし、1916はじめには900万人を動員した。後者は人口の七分の一に達する。
 独の1940の兵役適格は1500万人。
 仏は1911に対独人口比三分の二、1927には二分の一。→マジノ線に頼る。1916-6の仏動員は650万で全人口の六分の一。1940の仏の兵役適格者は500万人。三倍の開き。
 大江いわく英仏独のWWII動員はWWⅠより少ない。機械化した軍のため、より多くの労働力が控置されねばならなかった。
 またいわく過去の米国の動員ピークは1945-5で1212万人。これはWWⅠピークの2.8倍。
 またいわく廃藩置県は御親兵1万の武力を背景として断行された。
 大江いわく「少数精鋭職業軍隊は侵攻作戦用軍隊であっても、防衛作戦用軍隊としては不適当である」(p.179)。

 シベリア/アジアのロシア/モンゴル/台湾除いたシナ/内蒙+満州/日本/朝鮮の経年人口比較(単位=百万人)。
 AD1年:0.1/0.3/0.3/53/2/0.3/0.2、1000年:0.1/0.5/0.5/66/4/4.5/2.5、1500年:0.2/1.25/0.6/110/5/17/4、1600年:0.2/1.5/?/160/?/22/5、1700年:0.3/1.75/?/160/?/29/6.25、1800年:1/2/0.6/330/6/28/7.5、1850年:2.5/3.25/?/435/7/32/9、1900年:6/7.5/0.7/475/20/45/12、1950年:27/16/0.8/590/50/84/30

 英諸島の経年人口変化。BC200:0.5、AD1:0.8、1400:3.5、1500:5、1600:6.25、1650:7.5、1700:9.25、1750:10、1800:16、1850:28、1900:42、1950:54百万人。

 「ポピュレーション」と「ストック」はF・ベーコンが初めて使った。
 英の重商主義のヒントは、オランダが過密人口で繁栄しており、逆に移民制限したスペインは没落したこと。
 資源の多寡と失業人口問題とは関係がない。1931~32の失業率は欧よりも米の方が高かった。

 シェークスピアいわく“The world must be peopled”(からさわぎ)。

▼吉田静一『フランス重商主義論』
 アダム・スミスはコルベルティズムを、貿易独占会社を肯定するレギュレイティヴな政策であるがゆえに嫌った。

 英重商主義との違いは、あくまで王室(ルイ14世)財政の黒字が目的であり、ブルジョアの自由な発展は抑止したこと。
 中世ギルドの掟を全国の毛織物産業に課そうとしたものに他ならず、労働者に特に苛酷であった。

 重農主義者のヴォルテールいわく、コルベールの最大の失敗は、小麦の輸出を奨励しようとしなかったことである。※Cf:オランダは乾酪輸出でかなり稼いでいる。

▼総合研究開発機構『世界人口の推移に関する調査研究』S57
 シナ/日本の経年人口比較(単位=百万人)。AD14年:73/2、350年:60/3、600年:54/6、800年:55/8、1000年:60/10、1200年:123/12、1340年:62(蒙古侵入直後は一時54に)/14、1500年:100/16、1600年:150/18、1650年:100/22、1700年:150/26、1750年:207/26、1800年:315/26

▼大淵寛『経済人口学』
 B.C.8000、つまり農業革命前夜の世界人口は500万~1000万であったろう。これが、狩猟採集による人口扶養の限度である。

 Overbeek1974いわく、マルクスの批判はマルサス人口論にも向けられたが、その口調の激しさに反し、人口論を体系的に論じてはいなかった。
 マルクスは社会主義社会における人口については何も論じていない。計画された高度な生産力が人口増加と歩調を保ち、国民に幸福をもたらすと信じていた。さらに1881-2-1付のカウツキーへの手紙で、共産主義は必要な人間の増殖をも規制できる唯一の社会だと述べている。※その手紙はエンゲルス?

 レーニンは人間の権利、母子の健康維持という観点から産児制限を支援した。
 スムレーヴィッチは社会主義社会での人口増加を賛美。スターリンは人口を決定的な要因とは考えなかった。

 WWIIでポーランド人は500万人も死んだ。
 1950's以降、東独のぞくすべての社会主義国で堕胎が合法化されている。

▼西村文夫『ゴルバチョフ』
 スターヴロポリ(当時はヴォロシーロフスク)に隣接するクラスノダール地方やチェチェン・イングーシュ自治共和国は産油地帯で、1942-6-1ポルタワ地区のドイツの南方集団軍参謀部で行なわれた会議でヒトラーは、パウルス将軍の言葉によれば「マイコープとグローズヌイの石油が手に入らなければ余はこの戦争を打ち切るに違いない」と述べた。

 ソ連科学アカデミー『大祖国戦争史』によれば、アルマヴィール、クラスノダール、マイコプ地区では油田の石油事業の疎開が行なわれた。755の油井、11のコンプレッサー装置と送油管の使用不能化工事もなされた。

 終戦後の数年間、ソ連では農村の方が都市より飢えており、農民は都市の親類から小包で食料を貰った。

▼『アフリカ難民問題』
 エチオピアは餓死者を出しつつ、ソ連に食料を輸出。また、食料を援助されている40カ国のうち36カ国は、モノカルチャーの農産品を対米輸出しているのである。

 WWII前の独立国は、エチオピア、リベリア、南アの三つ。アフリカの12カ国では、独立当時より一人あたり所得は低下している。
 過去30年間、世界の食料生産高は2倍に伸び、人口の伸びをやや上回ってきた。
 60'sのアフリカ人口増率は1~2%だったが、いまは3%になった。

 タンザニアは社会主義のおかげで文盲が減少した(p.51)。
 社会主義では公務員が増えるが、セネガルではその対人口比がなんと日本の三倍。ただ、カメルーンの官僚は優秀といわれる。

 アフリカのジャングルは実は全面積の9%に過ぎぬ。人にとって快適なのはサバンナ。 北アフリカは冬小麦地帯。秋に播き、冬に刈る。その南は雑穀帯。コンゴ河の流域は根菜。南アフリカはメイズ地帯で、これは15世紀に南米から移植した。マダガスカルはコメを作っている。

 アフリカ諸国では人口の6~9割は農民(p.64)。
 アフリカ人学生は農科に進みたがらず、文科に進みたがる。よって農学校もない。
 インドとアフリカの土地は似ているが、アフリカでは「牛耕」が普及しないので生産性はインドの半分にとどまる。サバンナには犂耕が有効なのだが……。旱魃にはイモが強い。

 ナイジェリア、ガボン、カメルーンが産油国である。

▼ルーデンドルフ『国家総力戦』S13、原1935初版
 クラウゼヴィッツは国民精神力の団結について触れていないからだめだ。
 総力戦には祖先神を信仰する国民宗教を確立しなければならない──神道のように(p.43)。
 『ファウスト』は軍人の読むものではない。

 マルヌの失敗を隠し通したのはまずかった。真相はいつか必ず知らすべきだ。
 ユダヤ教が国と父を同一視し、母性を排することは許せん(p.59)。
 対ルーマニア・ワラハイ攻撃、ウクライナ攻撃は、食糧難を救うため。
 WWⅠ前のドイツは燕麦(馬用、戦時は人用)とイモ(皮が豚用)と豚肉のみ自給できたが、小麦は毎年100~180万トン輸入せねばならなかった。飼料は五分の二しか自給できなかった。

 繊維はわずかに麻がある以外、羊毛も木綿も全量輸入。
 スウェーデン鋼を海送するのはWWⅠ中円滑で、まったく鉄は不足しなかった。
 鉛と錫はやっと自給。銅は五分の一。タングステン、クロム、アンチモニー、ニッケル、アルミ、マンガンは全量輸入。※アルミは誤訳か?

 工業家は、炭鉱夫や専門技能者を前線から呼び戻させた。貴族=将校による指導体制が揺らいだ。中産階級が台頭した。じつはドイツには団結がない。※だから中産基盤のナチが束ねる必要が生じた。

 著者は兵数の優位にあくまで固執する。
 仏は徴兵検査合格者の82%を入営させたのに、独は54%しかできなかった。※日本の二割台に比べりゃ驚異的。

 開戦時の独重砲兵の練度は完全に満足すべきものだった。
 著者は小銃手を前線からさげ、MGと迫で人力を補った。
 逃亡者は前線から逃げようとしているのだから禁錮では意味がない。仏軍法会議はそれ由、1917から死刑を課したが、1918になっても独軍法会議は禁錮のみだった。
 将校にのみ、国家的・王朝的な精神があった。
 たとい火力を極度に発揮しても、敵を殲滅することはできない。敵陣地への突撃まで攻撃を実行してはじめてその目的を達成し得る(p.147)。

 「十分の射界を有する安全な掩体内から、地上を近づいて来る敵を射撃すれば、この敵が掩体に拠れる兵を射撃するよりも命中が容易である事は言うまでもない。この点では大兵力の戦闘に於ても亦防禦は攻撃よりも強いのである」(p.152)。

 攻囲された要塞が飢餓のみで屈服することはあり得ようが、稀だろう。
 ベルギーのゲリラは独の前進地域で主に活動し、兵站攻撃はしなかった。

 ドイツ国民は、宣戦した上で大攻勢をとることに遂に賛成しなかった。よって、先に宣戦してはならない(p.171)。※つまり中産階級が強くなった国民を戦争に向かわせるためには、こちらから宣戦することは純作戦上の奇襲効果の面だけでなく、国内宣伝上も不利なのであると。いかに日本とは異なっていたか。

 スイスが防禦をする場合には、敵の撃破は他の国が引き受けることを期待するのである。
 総帥は任務達成の方法を示すべきでなく、ただ任務そのものを明確に示すべきだ(p.182)。
 総力戦を指導する人が総帥たるに恥じぬか否かは実戦によってはじめて判明する(p.209)。
 総帥は主決戦方面に親臨居せよ(pp.226-7)。※つまりヒトラーの場合、東方?

きい剤の情報ありがとうございます!

▼宮坂九郎『歴史資料全集 災害篇』S8-3
 磐梯山が噴火する3、4日前から猿が騒いだ。

 千島艦750トンは仏の地中海鍛鉄造船会社でM22-11起工、M23-11進水式。機関の担当者として仏人1名だけ同乗させていた。瀬戸内で英人船長のラペナ号2319トンと衝突し沈没。
 「東洋に漂泊する英人は概ね公義を知らざる無頼漢」(p.82)。
 下の関取究書によると長藩の砲撃に関して幕府が償金を出すことは約しているが通行権には何の言及もない。

 かつて米国の小学読本を翻訳したとき、米政府は版権侵害を申し越した。英国石鹸商標、ドイツ葡萄酒商標についても類似事件あり(p.90)。

 M29福知山町に洪水あり、犬猫ほとんど溺死。犬を寵愛した犬勝という者がいて、夏は蚊帳に入れ下女一名を付して扇がしめたるほどなりしに……(p.111)。

 八甲田遭難で発見死体の大半の靴の踵は破れていた。また、藁靴も履いていた(p.146)。
 村松伍長は温泉で救助を待っていて助かった(p.148)。
 山口少佐の父は少佐に手紙で自刃を勧めた。
 幽霊の噂に怯兵が恐れているが「何でう死を國に許せる武夫の未練にも女々しく恨み出づべき」(p.152)。

 松島艦の午前4時の爆沈。爆発の2、3分前、後部砲塔付近に臭気。後部舷側と艦底に破孔。上甲板にいた者がかろうじて脱出できた。厳島と橋立は総端艇を送り、「深海燈」を点じて救助活動。四十余名死亡。

 芝増上寺の怪火。「蒸気ポンプ」と「水管馬車」が出動した。山門前には消火栓があった。60間の水管5本を継ぎ合わせて消防。

 M42の天満の大火。砲兵工廠からポンプ車と消防隊が出た。上福島の二つの紡績工場では火勢が近づいているのに役員が門を内側から厳重に閉じ、工女を外に出さないようにしていたので、警官隊が強制解放した。

 第六潜航艇は60トンと最小サイズでしかも旧式。艦内空気は6時間分しかない。
 ハンドポンプで排水に勉めた痕跡があった。

 大2の所沢の飛行機墜落。着陸30秒前、高度300mで、左旋回の途中、左からの突風で針金が切れ、右翼が飛んだ。1分間で墜落。飛行場にいた石本大尉、滋野男、青木軍医らが自動車でかけつけた。木村中尉は眼球が飛出て口の中には機械の破片。左手の時計が正午12時で停まっていた。手にはハンドルの破片を堅く握っていた。徳田中尉は木村中尉の胸に頭をつけて死んでいた。木村中尉は交話機のパイプを発明した。
 葬儀の棺の上に長さ3尺の飛行機推進機を置き、その上に軍服、制帽、剣。
 遺品は遊就館に出陳された。ちなみに同館9号室が乃木将軍の遺留品室。

 駿河湾では三角波を「ヨタ波」と呼ぶ。大3-1-4沈没の汽船愛鷹丸57トンは130人以上を乗せて浸水沈没。船長はあるだけのブイを投げたあと、寝室に入り、船と運命を共にした。定員は26名だった。

 大3-1の桜島大爆発の6日前から井戸水が減退。また前日には大震動あり、島民は避難準備していた。東方の瀬戸方面は以前は鎮遠のような軍艦が通過できたのだが、ほとんど埋まってしまった。

 筑波の爆沈。3分間で着底してしまった。日曜日なので火薬庫は開閉しないはず。おそらく松島と同様、火薬の変質による自然発火だろうと。

 日本最初の弩級戦艦河内は呉で4分間で爆沈。青島戦の殊勲者である艦長・正木義太大佐と副長は生存者中にあり。行方不明500名。横須賀からも潜水夫と潜水器50づつを動員。

 関東大震災で丸の内ビルディングが倒壊したと誤報されたが、それは工事建築中の内外ビルデイングであった。横須賀と鎌倉は火災に加えて海嘯にやられた。品川駅は残った。政府は「非常徴発令」を発布した。地方長官が、非常徴発書で、救援に必要な物品を徴発できる。
 2日の戒厳令発布。警戒線を設け、食料品を携帯せざる者は絶対に入京せしめない。3日、例外なく入京せしめないことに。
 目黒火薬庫、小石川砲兵工廠火薬庫は爆発。浅草十二階の倒壊で120人死亡。

 七十号潜水艦が淡路暇屋沖で沈没。浮上後、急に舳が下に向いて直立、浸水。艦長池田大尉は艦上に出ていたために助かる。同じ甲板にいた上林少佐、阿由葉機関大尉は「ハッチ、ハッチ」と叫びながら水の侵入する司令塔から艦内へ入っていった。
 艇には水袋が二つある。舳、艫、司令塔に出入りのハッチがある。45名定員のところ、試運転なので八十余名も乗っていた。定員なら2昼夜は空気がもつ。
 潜水夫がワイヤーをかけ、引き上げ。
 死体は白蝋化しているので直に石炭酸をふりかけ、全身をガーゼで被い、二枚の毛布に包み、寝棺に納める。
 海兵ならば着衣の裏に名前が書いてある。ところが同乗職工は誰という判別がつけられない。
 外壁には白ペンキで算用数字で70と。

 駆逐艦蕨の沈没。850トン。
 沈んだ死体が浮き上がるのは24時間後。
 艦長五十嵐中佐以下119名の英霊。
 衝突した軍艦神通の艦長・水城圭次大佐44歳は軍法会議で罰金600円の求刑をうけ、弁護側は無罪を主張。判決前に西洋剃刀で首を切って自殺。長野県出身だった。未亡人はその後、白木屋百貨店に勤めたと。

 重爆・第102号機の墜落。立川から各務ヶ原へ向かおうと離陸し旋回して高度150mの雲中に入ったところで錐揉みとなる。発動機故障、あるいは操縦士が幻惑されたのか。作戦部長の小川少将、作戦課長の藤岡大佐などが乗っていた。立川の砂川上空で、機首下げ、ブリル状態のまま畑に突っ込む。7名即死。作戦本部付の深山少佐は瀕死で助かる。
 現場は肉片が散乱しているが、不思議に機体には鮮血の跡はみられない。バラリとオモチャがこはれたやうな形。
 鈴木参謀総長の乗った第7号機が発動機がなかなかかからなかった。
 BMW600馬力の双発。1台が故障しても30分飛べた例あり。※ドルニエワール?
 航空専門家の阿部菊一少佐の死が最も惜しまれた。
 小川少将、藤岡大佐、阿部少佐は発動機に頭部を撃たれて惨たらしい姿。操縦は長中尉。
 陸軍技手も死亡。もし技師に昇任の御沙汰あれば、「航空勤務者保護賜金」が倍額になる。

 神田の大火で小川町警察署は、留置中の重罪人は他の留置所へ移したが、軽罪人は一時解放した。

 大阪の民間火薬庫大爆発。鴻池邸に死骸が空から降ってきたほどの大惨事。榎南銃砲店の経営者の25歳の主人が出張から帰るとこの有様なので、失神した。陸軍御用であることをいいことに警察の指導に従わず、ずさんな火薬管理をしていた。杞憂ついに杞憂ならず。村田式実包の払い下げ廃弾を解装した火薬か。当時の火薬取締法は、普通火薬10貫、劇発火薬1貫しか貯蔵できなかったが、あきらかにオーバーしていた。
 各地で春になると陸軍招魂祭をする。そこでは煙火の需要が増している。安い原料はないか。陸軍払い下げの2号火薬は1基2円。しかし廃弾火薬はその半分。だから人気がある。
 粒形/全形、破淬、粉薬の3種が混ざっている。これを篩い分ける。粒形は袋に入れて篩い、光沢をつけて陸軍の2号火薬模造とする。破淬は煙火の雷鳴にする。粉薬は鶏冠石、塩酸カリ等を加味して色火にする。この篩い分け作業を裏庭でしていた。
 滝野川火薬製造所いわく、粉薬の原料は硝石、硫黄、木炭粉だが、これを水車混和機で混交するとき、1分間に6~8回転させる。15分するとネズミ色になるのでそこで取り出さねばならない。1秒でも時間経過すると摩擦発火するから15分で機械をとめ、いったん、工場外の障壁外に退避する。気象では砂塵を警戒する。いくら警戒しても爆発事故は起きると。
 日本の業者の問題は陸軍を退役した専門家を雇わずに危険事業を自分でやること。
 住吉の新設火薬庫はまずい。地雷火と鉱山に使うジナミットを貯蔵しているが、これは湿気で膨張し、冷気で収縮し、そのさいに爆発することがある。
 特に複数種類の火薬を同一場所に収容するのが危ない。各聯隊でもそれに気をつけている。
 陸軍はさらに安全な水中火薬庫を建設中である。

 丹那山トンネルの坑口から150尺奥の掘削現場で煉瓦巻き工事中に崩落。孔底を流れる溝に、木片5個をつないで流してきた。これは生存の合図か。
 8日目に捜索トンネルが達する。17名の坑夫が救助された。草鞋を食ってしのいでいた。飯田技手[ぎて]は、経験上、8日目に救助されると計算し、目隠しの準備をさせた。

▼リヒタース『化学戦と軍用動物』新美達郎・他 tr. S20-4
 ドイツ人らしい医学実験リポート。2000部訳刊。

 化兵剤は、ガス→揮発液→油脂・固形物と発達した。

 1928-5-20、ハンブルク市近郊でホスゲン流出。シュトルツェン博士工場の汽缶が爆発。9km離れた動物を殺した。

 特に「黄十字ガス」が動物にとって危険だ。
 黄十字に汚毒した樹木に雨が当り、その雫で馬の背がやられる。
 患蓄の馬はゆっくり牽いて現場から遠避け、馬具すべてを外し、毛布で保温せよ。

 馬か機械か、ではなく、「馬と機械」だ。
 独は初め、放射だったが、英人がガス投射器を発見。仏人が大砲によるホスゲン弾の射撃に成功。独は緑十字弾で対抗。

 迫や手榴弾ではガスの効果ほとんどなく、揮発性ホスゲンが用いられた。
 航空機からのガス散布はWWⅠで遂に用いられず。

▼兵器学教程? 第11巻「化学」S18-6
 一酸化炭素が0.1%以上あると、小鳥は5~10分で羽毛が逆立つ。やがて嘔吐し、麻痺。0.8%では1~2分で半数が死亡する。

 演習用に、擬液甲~戊あり。また褪色液甲乙あり。
 擬液は匂いを出し、草を枯らす。催涙性もある。数時間で消える。
 褪色液は数時間、地面を赤く染める。

 馬用には、馬防毒面と、馬防毒脚はんがある。ゴム引き麻布で蹄鉄も覆う。
 警務用の拳銃催涙弾がある。26年式用と14年式用とあるが、違いは弾尾の「装著環」と薬筒(ブランク)のみ。
 14年式からは、紙弾を発射して飛ばす。26年式は、ガスのみ。重量等のデータは無し。 乙催涙筒。点火具で点火したあと、投擲すると爆発。10m飛び散る。
 水上発煙筒。甲乙あり。浮嚢がついており、渡河時に使用。

 発射発煙筒。筒端から延びている細い棒状の支柱を、45度敵方へ傾けるようにして地面に突きさし、点火具で点火すれば、7秒後に18gの小粒薬が弾体を射出する。その着弾後、660gの発煙剤が煙幕を構成する。

▼斎藤恵彦『国際人道法』1988
 戦後、ハーグ法を確認し、補完し、総合化する作業が進んだ。
 不必要な苦痛をもたらす武器の禁止。
 背信行為の禁止。
 広範な、長期のかつ重大な損害を生ぜしめる、またはそのように予測できる戦争の方法または手段を使用することの禁止。
 ダム、堤防、原子力発電所は攻撃の対象とされないこと。

 1980に、過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の利用禁止または制限に関する条約。その付属議定書が三つ。破片利用兵器。地雷。Pillage[ピエージュ](劫略、掠奪)。
 ※ちなみに十字鍬はPioche、植杭作業はPilotage、穴掘りはPiochageだそうです。
 民兵は公然と武器を携行しなければいけないが、「固着の特殊標章の義務は廃止された」(p.35)。

 当該国の軍隊の類似の階級および任務の戦闘員に約束された、または支払われる額を明らかにこえる物質的補償を約束された「傭兵」は、「お金を唯一の目的として戦闘に従事する人間のかす」であって、「戦闘員たる資格も捕虜たる資格を享受する権利も有しない」(pp.36-7)。

 反乱軍は国内では国家反逆者とされるが、戦後はその反乱軍にも人道法が適用される。ただし、「責任ある指揮のもとにあること」(pp.38-9)。

 戦後ジュネーヴ法では、「戦闘手段」は武器、「戦闘方法」は、これらの武器の使用を意味している(p.43)。
 「背信行為」はハーグ法の「奇計」の言い直しで、休戦旗を掲げて敵をおびき出すこと、文民や非戦闘員を装うこと、国連や非紛争当事国の標章を使用すること、など。

 遭難航空機からパラ降下する者を、その降下中に射ってはいけない。降着したら、攻撃前に投降の機会を与えること。もちろん空挺部隊は保護されない(p.45)。
 町の中に軍事目標があるときに、その軍事目標と町とを全部あわせて単一の軍事目標とするが如き砲爆撃は、「無差別攻撃」であり、禁止(pp.46-7)。

 「第二次世界大戦中に、日本軍隊の一部がフィリピンで使用した一般市民による武装反乱」?(p.48)。
 住民の密集地域の内部あるいは近くに、軍事目標を置かないこと(p.48)。

 ダム、堤防および原子力発電所は、復仇の場合でも攻撃の対象にしてはならない(p.51)。※復仇の場合でも禁ずるのはリアルな法学として愚ではないか。

 すべての患者は、外科手術の一切を拒否することができる(p.59)。

 衛生要員は、秩序の維持、個別的暴力行為に対する自己および自己の責任のもとにある傷者の防衛のため軽度の兵器の携行は認められる。しかし戦闘員とはみなされない。敵の権力内に陥った場合は、帰路が開かれる。病院船のクルーは捕獲されないし、抑留もされない(pp.61-2)。
 交戦者は、病院船の中立性を確認するための広範な臨検の権利を有する(p.64)。

 抑留国は捕虜を労働に従事させることができる。ただし将校は労働を強制されず、下士官も監督者としての労働しか要求されない。

 捕虜への懲戒罰は、30日を越えてはならない。司法罰は、軍事裁判所だけが、これを課すことができる。死刑の言い渡し後、6ヵ月が経過する前にこれを執行してはならず、また利益保護国は前もって通告を受けなければならない(p.71)。

 難民を、ジュネーヴ条約を適用する意思も能力もない国へ移送してはならない。また、政治的または宗教上の立場のために迫害を受けるおそれのある国に被保護者を移送してはならない(p.81)。
 占領国は、18歳をこえている者については、これを労働に従事させることができる(p.85)。

 人道法に関しては相互主義は放棄される。国際共同体に対する諸国の片務的約束(p.102)。
 しかしそれでは取り扱いの平等を保障する実定法ではないという有力な正論あり(p.108)。

 赤十字の他、赤新月、赤のライオンおよび太陽が、武力紛争の犠牲者救済団体のマーク。
 国際委員会は第三の紛争当事者といわれた(p.115)。
 国境のない医師団は、アフガニスタン政府の同意なくその領域に入っていった(p.124)。

 ニュールンベルク法廷では、上官の命令は違反行為者の責任を阻却しないという判例がつくられたが、現在では、この規則は遠ざけられた形である(p.142)。

◎閑話囈語
 毎年春になるとキチガイが現れ、それが知っている人だったりするので哀しいこともあるのですが、若い野望に燃えた生徒・学生諸君が一身の将来に不安を抱くのも、このGW前後ではありますまいか。
 現在わたくしは、ある新人の航空ノンフィクション・ライターの誕生に立ち会っております。ああ、まだこんな可能性があるのだなあと、目を瞠かせてもらった上に、まだまだ日本も捨てたものじゃないと思い直せる。そして暮夜、こういう新人がどうしたらもっと増えてくれるだろうかと考えます。

 しかし結論はいつも同じです。早道はありません。地道に情報インフラを整備することにめいめいが一臂の労を提供する。やがて誰でもが有益な情報を検索し易くなる如く努める。その徒次に於いて、おそらくは真実が人を自由にする確率も高まるであろうと、漠然と期待することができるだけです。
 わたくしは自己の経験から、学生は休日は行楽せず図書館に通えと勧めてきました。これからも勧めるでしょう。しかしそう言っているだけでは「目がさめた人」は、微増するにとどまるに違いない。
 それでこたびは、なぜ若いうちに是非「濫読」をする必要があるのかを端的に体感してもらおうと思いつき、敢えてGWにあわせてアトランダムに「摘録」を連続UPしてみた次第です。堆積している古いルーズリーフの手書きメモなどを逐次に廃棄して部屋を整頓する作業の一環でもあります。

 板垣征四郎の巣鴨日記に、連合国側は英文タイプライターが普及しているのでその日の全証言がもう夕方にはバインダーになって検事側の手元に揃う。ところが日本文の方は何週間も待たないと弁護側が読める印刷物とはなってこない。この差がとても大きい、と嘆かれています。このハンデはまだ続いているのではありませんか。
 理想的であるネットの上の図書館は、いつかはできるのでしょうが、すぐには実現する見通しがありません。しかし、「要約」ではない「摘録」という方式を使えば、ネットの上の「参考図書室」くらいは構築可能だとは思えないでしょうか? そこで「篤志つうじ倶楽部」や「史実を世界に発信する会」にご賛同くださる同好の方々に呼びかけたい。各人でお手持ちの絶版資料の「摘録」を積み上げませんか。わたくしは皆さまの「摘録」にアクセスしたいと思います。
 わたくしは和文のブラインドタイプをしますから「摘録」の入力も特に苦行ではないんですけれども、この作業に一定時間を使いますと、新著の執稿のために費やすべき余暇は減ってしまいます。もうそろそろ版元から催促が来る頃です。次作では、古代から現代までの日支対立と国体について考究できればと思っています。こんどは皆さまの「摘録」を参考にできましたら幸いに存じます。摘録はその人が興味を持った部分しか出ぬわけで、その人ならではの関心が反映されるところが乙な具合でありましょう。
 ところで『東京あけぼの』の連載は、これは45歳の著者冥利に尽きる仕事でして、たったあれだけの字数ですが、毎月10日間くらい、あの連載のためだけに費やしております。作家も中年を過ぎると「古典を読み直さなければ」と思ってもその時間は無いでしょう。それが原稿料をいただきながら可能なのですから、この上もない仕合せだと感謝しております。

摘録とコメント。

▼江橋英次郎『航空兵魂』S19-2
 著者は陸軍人。
 海軍航空は大正2年に爆弾投下の試験をしたのが最も早い(p.63)。

 青島の爆撃では、はじめは弾頭を下に向けたまま落下させるために小さい気球をつけて投げつけたが、成績きわめて不良。よって鉄板の矢羽根を弾尾につけた(p.71)。

 大7-8~大11-8までの間、シベリアに陸軍偵察機×31、P×15が出動。
 WWⅠ中、イタリアの要請で操縦将校20名、職工100名からなる航空団を派遣(大7-10)したが、11-11休戦で参戦機会を逸す。
 しかたなくカシノコスタ飛行学校で10ヶ月伝習をうけて帰朝した。

 フォールが来朝したとき山縣は「何事も自立が肝心だ、しかし今は彼れ等に教はるのが早手廻しだ」といったらしい(p.80)。

▼くろがね会 ed.『海軍報道班作家前線記録 第二輯 闘魂』S18-2(3万部?)
 BANDA島とは、「黄金の実が生る樹」の意。パプアとは縮れ毛の意。

 オランダ領東インドにはV.K隊(破壊隊)あり、宣教師らもその一員。新旧両派あり、ニューギニア南部はカソリック、北西部はメソジスト。
 いまのニューギニアには、お祖父さんの頃には人も喰ったことがあるという伝説を持ったワレス族が、ずっと奥の大山脈地帯に住んでいるにすぎない。

 村上元三いわく「華僑は世界の蝿だ」(p.115)。
 海野十三いわく「マーチンB27(?)」は果敢だ。

▼尾川正二『極限のなかの人間』1983
 マラリアの恐怖は徹底して事前教育されていた。だから1匹に刺されても心配した。
 しかしアクリナミンはあまりにも苦いので飲まない兵隊もいた。

 土民は男は赤い腰巻、女は腰蓑。体臭が異様にはげしい(p.22)。※水木しげる氏によれば、それはマラリアのため体を水で拭けないからであると。

 マッチは防水を完全にしないと、湿気で頭部が崩壊する。兵器も、朝べたべたに油を引いておいても、夕方には錆が浮く。鉄製の将校小売に入れた新品軍服は折れ目から溶解する。
 シナでもそうだが戦場でいちばん落ち着けない場所は、娑婆とは逆で、風呂と便所(p.35)。
 30過ぎればもう老兵。
 警報ラッパは「ヒコウキガ トンデキタ」と聴こえる。
 ラバウルからの潜水艦が入港してコメが卸下されるが、ゴム二重袋が浸水して黴びていることがある。

 三個小隊編成の中隊は165名、四個小隊編成の中隊は261名。長含め。
 連隊長はジャングルの中で、食えるものは何でも手まめに拾えと訓示(p.67)。
 防寒具になるものは、150センチ平方の天幕だけなので、2000m級の山地の夜は参った。

 塩をとらないと、汗がまったくべとつかない。さらっと乾く。
 コメよりも塩が欲しくなる。また、「動物質への渇きが、全身をつき上げてくる」(p.75)。
 「動物質の欠如、疼くようなからだの渇き」(p.103)。
 若い土民はたいてい、ピジン・イングリッシュが通じた。
 乞食のこつは、とにかく現地人の言葉を使え。片言でも。
 ピジンは若い男だけに通じる。f音はpとなる。火は「パイヤ」。※幕末日本人と同じ。

 栄養失調の神経痛で、右手首が2カ月間、まったく動かないことあり。
 「出陣以来の垂れのついた戦闘帽」(p.83)。
 陸士出身者が「貴様」をよく使う。

 北支戦線では、1日に40km歩いた。これが60kmになると、「五体はきしみ、五臓は顛倒する」。装備の重さで腰の感覚がなくなる。ついには炎天下で寒気を覚える。
 敵と遭遇するとこの行軍を中止できるので、みな、喜んだ。
 ニューギニアではさすがに湿気の関係でこれほどの強行軍はありえない。
 腐敗して蛍光を発する木を背嚢に縛り付けて誘導の目印にする。

 擲弾筒のタマは1万発に1の割合で、腔発を起こすとされていた。だから実弾演習は遠隔操作で引き金をひっぱった(p.151)。
 K上等兵が実戦で擲弾筒を続けて6発くらい発射したとき、事故が起きた。Kの左手は吹き飛ばされ、頭部もめちゃくちゃ。筒は部分は花のように砕け散っていた。
 佐賀県で生まれ育った朝鮮籍の特別志願兵の最期のことばがアイゴー・オモニーであった。
 兵隊の1ヵ月分の俸給は10円(p.159)。
 野ねずみは罠でとり、もぐらは野焼きでとる。

 ジャングル内で砲弾は「ビシャン」という音をたてて炸裂する。
 人の頭に弾丸が当たるとポクッという鈍い音が聞こえ、力が抜けたように死ぬ。
 各人は防蚊頭巾と防蚊手套[てとう]を携行し、1個分隊用の蚊帳も用意。
 南方の蟻はものすごいもので、ライオンが蟻に負けたという寓話は、ありえた話。

 ブキツという国では男女とも一糸もまとわず。しかし余所者の裸は困るという。
 言霊信仰があり、トウモロコシを撒くときに決してトウモロコシと言ってはいけない。言うとそれをモグラに聞かれてしまうから。
 豪州軍に降伏するとき、銃の御紋章を帯剣ですりつぶした(p.224)。

 一度に食いきれない小魚は煮沸して乾かしていりこにする。
 豪州軍がそろえていた小冊子の中に“Japanese Eta”なるものまであった(p.240)。
 収容所からは空母『鳳翔』で帰国した。とちゅう、病没者が出ると、いちいち停船して、水葬にした。
 浦賀に上陸すると、青天白日旗をかかげたトラックが罵倒と揶揄をあびせながら驀進してきて老人を跳ね飛ばして過ぎていった。

▼航空文学会『陸鷲戦記』S17-10
 比島の既設飛行場。クラークフィールド、カバナツアン、バギオ、デルカルメン、イラガン、タルラック、ニコラスフィールド、リマイ(バターン半島)、カブカベン(バターン半島)、コレヒドール。

 またセブ、ネグロス、パナイ、ミンドロ島には、秘密急造滑走路があった。
 バッファローは爆弾90kg積む。

 メシ食ってるとき不時着情報入ると、整備兵は咽喉を通らぬ。
 機附きや整備兵による離陸時見送りは、支那事変後半で廃れ、南方戦で復活した。

▼アントン・オーホルン『大軍を率ゐて』大2-5
 乃木学習院院長が、子供用に訳せといい、吉田教授、安楽直治が分訳、さらに猿谷不美男が子供向きに抄訳。
 ナポレオン戦中のドイツ(ザクセン?)軍部隊の話。当時の記録を参照したフィクション也。

 この独部隊は仏軍の一員としてモスクワ攻めに参加。
 けっきょくドイツ兵数千人がロシアに仆れた。

▼小糸忠吾『日本と国際コミュニケーション』他
 UPのビッケル社長は、1917の赤色革命以来、ロイターおよびアバスが、ソ連の八百長報道に終始してきたと。W・ミルズは“戦争への道”で、WWⅠ中アメリカの新聞がいかに外国通信社電により惑わされたかを明らかに。リップマンとC・メルツは、1917~1920に新生ロシアのできごとがAPおよびNYTによっていかに誤って報道されたかを公表した。

 1851-11にドーバー=カレー海底電信。
 1865-3ロンドン=カルカッタ海底電信開通。
 1866-7、ATTによるアイルランド・バレンシア=カナダ・ニューファウンドランド。すでにATTは全国電信網は整備を終えていた。それまでは欧州のニュースは快速船でハリファックス港沖に届くまで2週間かかった。9月、並行海底電線も完成。
 1869にボンベイ=アデン。
 1871-6-13に印度=シンガポール=上海=香港の海底ケーブル。
 1871-6-26に上海=長崎が開通。
 1873にシンガポール=豪=サイゴン=上海。
 1873-2-17に東京=長崎。

 昔のロイター電は通信料金節約のためラテン語を使って英文字句を簡略化しており、一般人が傍受しても読めたものではなかった。

 1916-6に北海道の落石中継局からペトロパブロフスクに初の国際無線。ついで1916-11船橋中継局からハワイに向けて。そこからサンフランシスコに転電。1921、磐城局から直接、米本土に出力400kwで飛ばす。

 1917にロバート・ランシングは、傍受し暗号解読したZimmermen電報をAPに公表させた。
 1924頃、仏独から日本へニュースを送るには4~8時間かかった。

▼雑誌『選択』バックナンバー ※学生時代に都立日比谷図書館でメモったもの。
 大慶油型原潜6100~6900トンは、2500km級ミサイル×12を積み、1990までに12隻完成させ、常時8隻を、ベーリング海からアラビア海に展開し、ソ連を狙う。チベット、新疆、東北に建設中のマイクロウェイヴ通信網で指揮する計画。(1983-2月号)

 仏から持ち帰った再処理プルトニウムのなかにはPu240が12%含まれるのでさらに精製しないと核分裂爆弾にならない。再処理前の使用済み核燃料は数秒間被曝しただけで死ぬほどだが、再処理後は微力なアルファ線のみなので、Puを紙一枚の手袋で持ち上げてもOK。ただし手に傷がある人はダメ(1983-7)。

 Mig-25のエンジン取り外しに2時間かかった。これは前線整備は考えていない(1983-9)。

 ウスチノフ国防相は、パーシング2に対しては全面対米核報復をすればよいとする政治家。オガルコフは、対米第一撃武装解除が不能である以上、通常戦力を重視せよという純軍人(1984-7)。※つまりウスチノフは米ソ戦などありえん派で、オガルコフはやらねば派だった。

 昭和60年度から首相官邸に工事するキャプテンシステムは要するに各省庁のデータベースにすぐアクセスできるというだけのもの。ランドコーポレーションや英戦略研究所の日本版と言えたのは、満鉄調査部(1984-6)。

 国際通信の紳士協定では、通信の意識的なツー・ホップ(転電)は禁止。しかし英国は伝統的に転電を武器に国際通信シェアを拡大してきた。インテルサットの回線利用シェアも日本の3%に対し12%ある(1984-6)。

 トルコは「もしイランが、イラクはもちろんクウェート、ヨルダンなどに侵攻すれば、一戦も辞さず」と凄味をきかせている(1984-9)。
 南アの白人科学者が、南アが黒人だけに致命的なウィルスを研究してナミビアの刑務所でテストしていると国連機関に内部告発(1984-9)。※ディスインフォメーション?

 オガルコフはロシア語を話せない低学歴の兵隊は役に立たないと強調。ソ連ASATはECCM上、レーダーホーミングから赤外線式に代えたとたんに命中率悪化(1984-1)。

 ウォールステッター、ヒッチ、カーン、シュレジンジャーが、ゲーム理論に基づく「警告→エスカレート」主義を生んだ張本人。いずれもランドコーポレーションに拠点あり、マクナマラ時代に国防省の高官に任命された(1984-2)。

 ミニットマンのサイロをマルパクしたのがSS-13のサイロ。イリューシン86はB-747のコピー。イリューシン76はC-141のコピー(1984-4)。
 長野県では教育委員会ではなく校長会が教員人事権をもつ(1984-4)。

 フランスの現在の核戦力増強計画によれば、4000km以上級核ミサイルのRV数は90's初頭までにいまの三倍の500個となる。ちなみに米のINFは572基だ。
 西独に対する攻撃に仏がどう対応するかはわざと不明瞭にしている。不明確戦略という。フランス独自の核抑止力「フォルス・ド・フラップ」。米が大量報復戦略を柔軟反応戦略に変えたとき、ドゴールは米の傘を離脱し、核武装した(1985-7)。

 プルトニウムを使うW82(155ミリ砲用の中性子砲弾、長さ85センチ)は、1960's配備のW48の代替だが、1発300万ドルもするのを陸軍は1000発要求し、1986から欧州に配備の予定。203ミリ用の新弾頭はW79。
 1945に原子力の文民管理原則をトルーマンが定め、製造から引き渡しまでエネルギー省原子力委員会が専管し、軍はアクセスできない(1985-11)。

 1977-3にソ連は200浬漁業水域を設定し、日ソ漁業条約は廃棄され、オホーツクとベーリングのサケマスは全面禁漁だと通告された。同年、オホーツクから米東海岸を狙えるSS-N-8×18基積載のデルタI、II、III級原潜が、太平洋海域に初めて姿を現す。
 1986-2に底刺し網が全面禁止に。また樺太東水域での着底トロール禁止。1985は196隻のトロールと110面の底刺しが展開していた。
 1982頃はペトロにデルタ×10隻いたが、作戦待機海域は中部太平洋だった。
 85-4、サハリン東の穏やかな海で深度350mのそこびきをしていて「網が深みに落ちた。船が回らない」と僚船に伝えて沈没した第71日東丸124tは、おそらく原潜により引きずり込まれた。太さ5cmのワイヤーロープが、全長2kmの中央部で切断されていた。同海域は86年に「着底トロール禁止区域」となる。
 アメリカは1981-11に『オハイオ』をワシントン州バンゴール基地に置いた翌年、北洋米海域でのズワイガニ漁を禁止している。米国防総省は、有事にはソ連SSNがバンゴール周辺に機雷をしかけるだろう、と予測している(1986-5)。

 1986-2のパリにおける独仏定期協議で、ミッテラン大統領は、仏の抑止用戦略兵器をドイツ領土で行使してもよい、と宣言。その場合、西ドイツとは事前協議するが、決定権は仏にある、と(1986-4)。

▼『明治記念帖 乾・坤』大3-3?
 秋田の小坂鉱山の銅山精錬所の写真。藤田組。
 ちゃんと煉瓦煙突をナマコ丘の上に建て、下の工場から煙路でつなげている。

 日立鉱山の写真では、阿呆煙突がモクモクと……。その左には大煙突が建築着工されている。大煙突基部へは∧形に下から煙路を這わせてつなげている。
 ムカデ煙突はそのずっと左にY字形に見える。※よって『日本の高塔』のキャプションは間違っていました。スイマセン。

『孫子』強調の意味は「対米雌伏」、そして……

 新聞をとっていませんもので、後になって知ったのですが、訪米した中共の大物が、冊子の『孫子』を米国大統領に贈呈したのだそうですね。いったいそれは英語版だったのでしょうか。だとしたら誰のどのような訳でしょうか。

 そういう興味はともかく、この冊子のプレゼントによってシナ指導部が米国要路に伝えたかったメッセージは単純です。「シナはアメリカに対し、核であれ非核であれ、こんご、正規の戦争を挑むことはありません」と匂わせたのです。

 ──だいたい「算」が無いのに真っ向勝負を挑むわけがないでしょう、ウチはいま「国を全くする」だけでもたいへんなんですよ、もしやるなら、「戦わずして人の兵を屈する」ようにするでしょうよ、強いこと言ってるのは内実が弱いからなんですよ、ウチの核ミサイルなんか飾りですよ──だからアメリカの皆さんよ、米支戦争があるぞあるぞとマジになってヒートアップするのはやめてくださいネ……と宥めたかったわけです。

 それから、シナ指導部は自国軍の若手指揮官連に対しても『孫子』を配って読ませているらしい。
 これは何を意味するかと申しますと、「お前ら、己れを知れ」です。やはり国内に対してもクーリングダウンを誘導している。
 いままで愛国宣伝で シナis(or, will be)ナンバワン! ……と煽りすぎました。「よーし、アメリカと戦争して勝ってやる」なんて勘違いする馬鹿も増えてきた。これでは行く末ヤバイ。
 だから、「シナ軍はアメリカ軍には勝てない。それを自覚しろ。だが腰抜けの日本なら、戦わずして屈してやることはできる。リアリズムを学習しようや」と教育しているのです。

 ダブルオーセブンのこの前の朝鮮版で、たしかラストに『Sun-Tzu』が出てきましたね。もっと前の別な版では悪党の屋敷のワーテルローのジオラマの上でラスボスが死んで、主人公は「お前のウォータールーに会ったな(ナポレオンのように幸運が尽きて終わったな、という意味の英人の慣用表現)」をかましていました。シナ軍人の依拠する古典が孫子だということは冷戦期以降のアングロサクソン指導部にとっては新しい情報じゃありません。その陳腐と思われている冊子を敢えて持ち出して中共は何を訴えたかったか。そこには軽い意味はないと思いますよ。


 ところで、東京裁判で一度も証人として口を利かなかったという木村兵太郎の私家版の伝記のようなものはどこかに存在するのでしょうか。ご存知の方はいらっしゃいますか。

 それから前の毒ガスの話の追記ですけれども、大正七年あたりでは日本陸軍は毒瓦斯のことを「特種兵器」と呼んでいたと思います。
 後に、「特種演習」といえば、それは主に化学戦の訓練を意味しました。
 満ソ国境を想定したトーチカ攻撃演習も「特種演習」といったそうなのですが、おそらく、兵頭私見では、これも対ソ開戦では先手必勝で瓦斯を使うつもりだったからではないでしょうか?

 ところが日本も批准していた国際条約の精神で、毒ガスは先には使わないということになっていた(敵が使ってきたら、やり返してもよかった。それで各国とも、ガスのストックだけはしていた)。

 それで旧軍が降伏するときに、ポツダム宣言が「戦犯を裁く」と言っていたのが気にかかって、所持だけで戦犯容疑をかけられて収容所送りにされるのも厭だと思い、化学兵器だけはソ連や国府に引渡さずに勝手に埋設処分したという可能性は十分に考えられるのではないですか。ましてシナでは「あか筒」を使いまくって恨みを買ってもいたわけです。

 昭和20年8月の関東軍が毒ガスを使わなかったのは当然で、負けると分かっている戦争でガスなんか使ったら、ただちに戦犯裁判にかけられて指揮官は刑死必至、国体も危くされるからです。参本作戦課は、日本からソ連に満を持して奇襲開戦を仕掛けるときだけ、致死性の毒ガスを使う気でいました。それが国際条約違反であることは重々承知でしたが、小軍が大軍に勝つためにはパリ不戦条約違反を含め、なんでもやるのだというのが、明治いらいエリート参謀の学んだドイツ流の戦争観だったんです。満鉄をあくまで日本陸軍の私物にしておく(そのためには満州事変すら起こす)必要がありましたのも、そうでなくては全満の鉄道網を対シベリア・沿海州の奇襲開戦に、うまく役立てられなかったからでした。

 ここでわたくしが今更のように知りたいことが幾つかあるのです。ひとつは、旧軍がシナで「きい」剤を実戦使用した記録があるのか? わたくしは見たことがないのですが、どの部隊がいつどこで使ったというのか?
 「きい」剤を使ったらそれだけでB級戦犯で死刑は免れなかったと思うのですが、その記録はあるのでしょうか。あれば中共が大々的に宣伝してると思うのですがね。
 だいたい満州ならともかくどうしてシナに「きい」剤その他の致死性ガスなどを運んでおく必要があったのでしょう。それは関特演がらみでしょうか? 解明できる方、期待しております。
 (余談ですが関特演が「特種演習」と表記されたことが当時本当にあったのだとすれば、やはり対ソ奇襲開戦では参本はガスを使うつもりであったのが、つい字面に反映されたのではないでしょうか。)

 大いに知りたいことのもうひとつは、ソ連やシナが「昭和20年に降伏した日本軍から致死性のガス弾のストックをこれだけ引渡された」という記録、または、日本軍としてこれだけ引き渡しました、という記録が一つでもあるのだろうか、ということです。『正論』6月号を見て、それはなかったんだと驚いている次第です。てことはガス弾処理問題に関しては外務省は案外マトモ? でもそれなら外務省はなぜ自己弁護をしない? 誰も彼も、胡散臭すぎる印象があります。

 張作霖軍も毒ガスを装備していたことなどの記録につきましては、過去に兵頭の著書の中で幾度か紹介した記憶があります。ご興味ある方は絶版本をひっくり返してみてください。著者もどこに書いたかすっかり忘れております。
 それから国共内戦で国府は日本軍から押収した「あか」や「きい」を使っているでしょうか? たぶん、無いですよね?

 あ、それと「しろ」剤の疑問は一発で解けました。googleは凄いや。

摘録とコメント

▼清沢洌[きよし]『日本外交史 上・下』S17年、東洋経済新報社pub.
 1921海軍制限国際会議を提唱したボラーは、ウィルソンの国際連盟案に最も強く反対した男。

 尾崎行雄はかつては、日清開戦の急先鋒であり、また大正3年には国務大臣として大隈内閣の二箇師団増設に賛した。
 日英同盟に未練あったのは、首相ロイド・ジョージ、外相カーゾン、海相リー、バルフォア、オーストラリア、ニュージーランド、及びインド。カナダが米の意を受け反対(p.402)。

 米英2洋分担の提案者はリー。
 会議前のワシントンでヒューズと幣原大使が頻々と会見するので、カーゾンは英国を除外することの苦情を林大使に云った。

 日本全権。加藤海相。徳川貴族院議長。幣原駐米大使。埴原外務次官(はじめ随員、のち全権昇格)。海軍専門委員として加藤寛治。※政治家がいない。
 米はヒューズ国務長官、ルート上院議員、ロッヂ上院議員、アンダーウッド上院議員。
 英&帝国はバルフォア樞相、リー海相、ピアース豪国防相、サルモンド新西蘭大審院判事、ボルデン前加首相、サストリ印度行政参事会員。随員ハンケーは陸軍出身で内閣書記官長になり諸事録を作った。

 ヒューズ提案におどろいたのは、ふつう会議は儀礼的式辞に始まるのが常だったため。「この計画」の秘密は最後まで保たれて毫も外部に漏れなかった。※秘密保持のできるシビリアンであって、はじめて政府としてプロ軍人を黙らせることができる。

 加藤の太平洋防備提案に米海軍は反対せしも、ヒューズはそれを抑えた。

 この会議に終始賛成の清沢いわく、「即ち米国は日本と戦争する場合に、少なくともハワイを基地とせざるを得ず、そこから行動して米国に戦勝の見込みはない」。だからシンガポールを借りるしかない。

 同盟存続を主張する濠州及びニュージーランドも、日本との接近提携を図らんとするものであるよりも、寧ろこれによって日本の行動を控制せんとする内意をふくむものである。

 1919-4-7、パリ講和会議で米大統領に随行したベンソン提督提出の「アメリカ海軍政策」の中で、イギリスの狙いは、海底電線、無線電信、商業航空、海運、燃料上の便宜、燃料資源の6つを支配することだと。

 12-1、加藤がバルフォアに太平洋問題を持ち出す。
 12-12、ヒューズは日本が5:5:3認めるなら、またハワイを含めず、日本の島を要塞規制対象に含めるならOKと。
 12-15、陸奥問題決着。また、太平洋合意を発表。
 その発表について文句。
 その文句に対し、「琉球以外に海軍根拠地候補地なし」と。※根拠地は要塞より格下。
 結局、アリューシャンと引き換えに、小笠原、奄美の非基地化を約束したのが第19条。
 ※この会議のあと、米国は日本の仮想敵ナンバーワンになった。

▼東方通信社調査部 ed.『華府会議大観』大11
 Sir Aucland Geddes は駐米の英大使。 Elihu Root は前国務卿。M.Jusserand は仏の駐米大使。 駐米大使の全権参加はどの国も常例。

 ロッヂは比率相談の前に4国協案を発表し、その大前提にヤップの解決を必須と宣言。
 4国条約第1条のinsuler possession (or, dominions)が日本本土を含むかについてのヒューズの疑義は、12-20午後の記者会見で表せられた。
 その1時間後、ハーヂングが記者会見し、日本本土含まないと打ち消す。
 その夜相談し、21日ヒューズは、日本本土含むと再確認。

 「日本本土含む」に本国で反対したのは、ボラー、リードの2上院議員(p.122)。

▼斉藤直幹『国防経済研究』第1号、1936
 華府会議では3000tの水中防禦、馬力upなどの改装がみとめられたため、日本は以来、1億2600万円もそれに投じ、すこしも軍縮になっていない。

▼長沼毅『深海生物学への招待』1996
 チューブワームは1977に発見された。口も消化器もない。

 海で一番深くまで達する光は青色。日本語の赤いはあかるい、黒いはくらいに源がある。
 深海生物が赤いのは、青色を吸収して黒く見え、背景の闇に隠れられるから。

 海洋の平均深度は3800m、陸地の平均高度は840m。陸地をぜんぶ平らにすると、地球は水深3000mの海球になる。

 海の表面の数十mまで、海水がよく混じるので温度変化が少ない。そこから下は600mまで水温が急低下し、それ以深で一定。
 200~600mの途中で水温躍層がある。それ以下は4℃~0℃しかない。

 人が息苦しさを感じるのは酸素が足りないのではなく二酸化炭素の増えたせいなので、水酸化リチウムで二酸化炭素を吸収する。
 二酸化炭素の濃度が10%になれば意識はなくなり、25%以上では数時間で死ぬ。

 チタン合金は真空中で電子線ビームで熔接するしかない。

 深海魚の浮き袋には空気ではなくワックスが入っているので潰れない。豆腐やこんにゃくも水圧で潰れることはない。
 低温で育つ生物の細胞膜には不飽和脂肪酸が多く、それで柔軟性を保つ。
 500気圧以上ではネズミの細胞骨格のタンパク質が構造を保てない。

 紫外線は水中数十mで無影響になる。
 深海生物は紫外線には無力で、照射されるとイチコロ。
 374℃以上では、いくら高圧にしても、純水は液体としては存在し得ない。

 メキシコ湾沖には海底から原油が漏れ出している。石油があれば硫化水素ができ、そこにチューブワームが集まってもいいはずだ。
 サンタバーバーラ沖も海底から原油が染み出していて、船で近づくとすでに石油臭く、その臭いが風向きによっては町まで漂う。しかしチューブワームは発見できていない。

 海水にもっと鉄分が増えれば、光合成が増すという仮説がある。
 金属硫化物パイライトは fool's gold と言われ、金色。

 窒素80%の大気を水深40mで吸うと「窒素酔い」となり思考力が低下し多幸感がもたらされる。50m以深では、ヘリウムと酸素の人工空気でなくてはならない。それでも潜水病の危険はある。
 飽和潜水によれば500mまで生身の人間が潜れる。あらかじめ加圧室で予定深度の人工空気に体を慣らし、エレベータで現場へ降り、数日間の海中作業ののち、また減圧室でゆっくり元の気圧に戻す。

 ダイビングスーツは宝探しの欲望が進化させた。現在では500m耐圧のものがある。
 1951にマリアナ海溝に世界最深の10863m地点が発見された。それ以前のレコードは軍艦「満州」が測深した9818mだった。

 火山学者は海洋学者よりも怖いもの知らず(p.223)。
 アルビン号の場合、人の乗った耐圧部分だけを分離して緊急浮上させることもできる。
▼西沢利夫『航空機・宇宙産業』S62年
 民需主体社はエアバスとボーイングのみ。
 Propfan もハミルトンスタンダードの提案(p.44)。

 航空機用エンジンは、コンピュータより数倍もトン当たり価格が高い。
 リチウムは密度最低金属でアルミの1/3のみ。
 ベトナム特需ピークは1968年だった。

 DC-3が成功しすぎたため、ダグラスのジェット化は遅れをとった。
 グラマンもF-8Fにこだわりすぎ、同じ末路に……。
 グラマンだけが東海岸に本拠を置く。

 RRが倒産した時、技術者はGEに流れた(p.276)。

▼シャープ&ウェストモランド『ベトナム戦争に関する報告』S44
 北ベトナム内へのナパーム攻撃は、ローリングサンダー6までは禁止。

 捕虜いわく、B-52が最大の脅威だった。
 1964にRPG初使用。1966、それが著増。
 120ミリ迫は1966初使用。
 河戦でのトレンチフット(浸水足)対策として、2日交替制をとれ。

 1967-2にレンジ8000mの140ミリのソ連製ロケットが投入された。
 1967-7に、射程11000mの122ミリのソ連製ロケットも現出。
  ※これらが日本の共産主義者の手に渡らなかった理由は何か。

 1967-2-22、ナムにおいて初のパラ降下。
 ベトナム軍は日本製70ミリ榴弾砲まで使っていた(p.327)。

▼G・B・マレソン『印度に於ける英仏争覇史』大沢良蔵 tr.S18年
 “History of the French in India” 

 セポイのアイディアはフランス人。
 フランス人はいかにドジか(p.433)。
 ナポレオンが1814に帝位を失ったのは、自尊心という感情に支配されたため。

▼『水木しげるのラバウル戦記』1997、初1994
 南方に向かう一個大隊が600人くらい。
 パラオからラバウルに向かう輸送船が、あのバルチック艦隊発見の信濃丸のなれのはてだった。ペンキを節約しているので、もうおしまいだと思うほどみすぼらしかった。7ノットで進んだ。
 ビルマからラバウルまで使役で連れてこられた老印度兵もいた。

 ココボの慰安所は日曜か祭日の営業で、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていた。軍隊も日曜日は休み。
 土人は子供でもタバコを吸う。20歳の水木はタバコを吸わなかった。

 20機以上の「ロッキード」(P-38)と3機の零戦の空中戦の下で洗濯をしていたら近くに空戦で発射された機関砲弾が落ちてきた。
 マラリア対策にアクリナミンという黄色い薬を渡される。

 土人は夜、木魚のようなものでポクポクと連絡している。
 ニューギニアでもアフリカでも現地人に嫌われたことはないがアラブ人はだめだ。写真をとると激怒する(p.49)。
 バナナは実は30種類以上あることが分かった。

 ラバウルのバルチン山に登ると、下で作業しているさまから話し声まで聞こえるので高地の価値が分かった。
 大発ほど便利で無駄のないものは初めて見た。
 ココボから前線に行く直前に金属製の「認識票」を貰う。

 大隊長は27歳の大尉だった。
 大発には40人の兵隊、すなわち1個小隊が乗った(p.69)。隊長は特別に連隊本部からきた中尉。

 全部に大砲を搭載し、前面のランプを上げずに大発は夜出港した(夜しか動けない)。大発はタンタンタンというエンジン音がある。
 豪州兵の死体から靴をとってきたら、古兵たちに元にかえしておけといわれた。

 陸軍ではめしだけは初年兵にも平等(p.81)。
 波の音は海岸よりも山に登るとよけいによく聞こえた。
 半年いると、美味い椰子の実の識別ができるようになる。

 サイパンがやられたときのラバウル空襲は見ていてすごかった。また魚雷艇が山の上の宿舎を銃撃してくる。
 豪州で訓練された自動小銃をもった土人をナンバーテンボーイと呼んだ。
 靴下4本に詰めたコメはすでにかなり重い。缶詰は牛缶ばかり4個、小銃弾150発、鉄帽。

 文字の書けない船大工の兵隊がいた。
 分隊も土人を雇う。ソルジャーボーイという。しかし敵のスパイであることもあった。歩幅で宿舎の大きさを測っていた。
 洗濯物は岩に貼り付けておくと30分で乾く。

 海軍基地では給養がよく、陸軍のようにくたびれていなかった。
 行軍中に小銃を1発射っても必ず銃腔掃除をしていた。
 土人は蚊避けのために屋内で火をおこして寝ていた。

 1本だと暗闇の中でまったく目立たず、しかしそれを投げて一箇所にまとめると派手な炎となるたいまつを土人は持っていた。
 土人も珊瑚の上を裸足で走ることはできない。

 マラリアに水浴は禁物で、うっかり手拭で体を拭いただけで40度の熱が出て、暗い穴の中で1週間も寝ることになる。

▼マキアヴェルリ『ローマ史論 I、II』大岩誠 tr.S24~25
 ※歩兵を徒士組、騎兵を馬武者組と訳す。

 人間は必要に迫られてこそ善を行なう。
 共和国に戦いをしかける目的は二つしかない。その国の支配者になることと、自国が支配されることを防ぐため。

 人間の世界では何ひとつ永久不変のものはないのだし、物はみな静止したままではいられない。
 スイス人は古代人を偲ばせる唯一の国民(p.82)。
 ローマ軍が鳥卜に逆らって戦勝した話(pp.87-8)。

 ベネチアのように非常時には少数市民に対策専断権を与える制度を持て。「こういう権力を認めない共和国では、国家が厳重に法律的形式を尊んで亡国の悲運に陥るか、国家福祉を求めて法律に背くかの二つに一つの外にみちはない」(p.153)。

 乱民は導けるが、乱主をさとすスベはない。
 多くの史家は、ローマの覇権は武勇よりむしろ幸運によった、と。※→英帝国についてのシーレーのレトリック。

 昔の方が「今よりもはげしく男の子を欲しがったので、今日より遥かに人民の人数も多かった」(II、p.32)。
 キリスト教会は過去の歴史記録を抹消した(p.45)。
 フランス人のいわゆる大軍即決。コルテ・エ・グロッセ?

 ガリア人は移住のための皆殺し戦争をした(p.54)。
 モーゼもそれをやったのだ(p.56)。
  ※皆殺しだからゲルマン慣習法では侵略者に正義があるとして文句が出ない。そして奴隷が発生しない。しかし英国内では皆殺しが起きず、その結果、既存王権の尊重と、反慣習法たるエクィティが意識される。

 大地から離せば不死身ではなくなる、との古神話は、国外におびきだして敗戦させた故事の比喩(p.73)。
 「敵地の真只中にいる軍兵どもは、どうしても戦わねばならぬといふ気持も強くなる。……この強制こそ勇気を鼓舞する原動力なのである」(p.74)。※同じことを三巻96頁でも。
 日頃武装を整えている国民なら国内で、ひごろ丸腰の国民は遠くで戦え(p.77)。
 策略の必要は、クセノフォンの労作から学んだ。

 密集隊形で大砲や城壁にむかわなければならない。イタリア式散開はダメだ。※こういう有力意見も過去にはあったわけである。

 解説。「支配するには仲違いをさせろ」はローマ人の言。
 ポリュビオスは批判的に、リーウィウスは賞讃的にローマ史を書いた。
 本書は君主論より後に書かれた。

▼軍事史学会『軍事史研究』vol.1-2号、S11 ※1960から『国防史学』?
 ▽原田二郎「易城」
 「金木水火生境家土」「地に金木水火の地、西高向東を金性と為す」

 ▽有馬成甫「地聴に就て」vol.1-5号
 シナの甕。三方向に口がある。その口に薄皮を張り、井中に土におしあてて、敵の攻兵が坑道を掘っているのを探知する。

▼『国防史研究』No.3、1962・ 佐藤堅司「宮本武蔵の兵法観…」
 北条氏長は1609生まれ、武蔵は1584生まれなので、交流があってたもおかしくない。
 無構=無形だ。

▼『軍事史研究』No.8、S39 ※「国防史~」からまたまた改名。
 升本清「幕末の築城」
 幕末日本に導入されたオランダ築城書は……。
 カルテン「海上砲術全書」1832
 ベウセル「砲術書」1834
 エンゲルベルト「海岸要塞」1839
 ケルクワイク「築城術」1846
 メルクス「築城法」
 サファール「築城原理」(仏書の蘭訳)
 パスチュール「工築ハンドブーク」「工兵学」

 五稜郭はアーチ技術が未導入だったため露天砲台となり、艦砲に心理的に抗堪できなかった。復座斜板の着眼もなし。旋回砲架、ひとつもなし。

▼雑誌『海軍』某号
 subの備砲はWWⅠ中、商船破壊のために必要になったが、商船の自衛火砲に対抗するため、大口径化したと。

▼A・M・Kotonev『支那軍事史』1940訳
 ※ロシア人が孫子に言及している早いもの。

 シナ兵は死ぬ時に誰の名も呼ばない。
 管子は孔丘の150年前の人。E・H・パーカーが訳している。
 墨子はいかなる進撃にも反対したが、専守防衛の実際を考究した。

 ジャイルズ訳の『孫子』がロンドンで出たのは1910か?
 管子は哲学者だったが孫子は職業軍人だった(p.25)。
 ジャイルズで読んだ著者は、古代兵の士気について誤解している(p.29)。

 1661に明の鄭「国姓爺」成功は、軍を率いて台湾に渡航し、オランダ人の要塞ゼランディアを包囲して降伏させた。
 シナ兵は旗や紋章を失っても何とも思わない(p.64)。

 太平党は、側面を騎兵に守らせた密集歩兵。
 袁世凱軍は、モーゼル、マンリッヘル、少数のリー・メトフォードライフルおよび各カービンを装備。

 孫逸仙「支那で自由を叫んでも少しの注意も払われないだろうがもし財産を作ることを提案するなら民衆はこぞって歓迎しよう」(p.129)。

摘録とコメント(※)。

▼杉村陽太郎『果して強国は醒めたりや』大11
 バルフォアはときどき居眠りした。
 プロ外交官のジュスラン大使とゲデス大使はまるで精彩を欠いた。

 英が報道官ロード・リッデルに毎日数回記者会見させたのに比し、米はプレス宣伝を自制した。
 ルートは法律家の権化にみえた。

 WWⅠで圧倒的な独subは英水上艦を少しも傷つけることができなかった(p.194)。
 ユトランド体験者ビーティ提督と、若手チャットフィールド提督が英に随行。
 米海軍人の随行員は、不得要領のクーンツと、30代のルーズベルト海軍次官。しかし智恵袋はプラット。

 日本は大佐級をつれていった。山梨中将、野村大佐、上田、末次、清河、永野、堀、他。
 ヤップ問題は12-12に解決。

▼参謀本部編纂課 ed.『征西戦記稿』M20-5
 編者のまえがきは日づけがM18-10となっている。
 ※西南戦争での乃木少佐の動きを最も多くのディテールとともに伝える資料。

 この本の前に『軍団記事』という官本もあった。2冊とも、人名の書法は……。
  姓官を書し、名を初出に註す。
  同姓同官の人は逐次その名を註して以てその粉淆を防ぐ。
  戦役中、進級したる者も亦その進級の始めにおいて再びこれを註す。
 題は、研究途上なので「稿本ト証スル所以ナリ 賢者之ヲ諒セヨ」。
 ルビなし。

 初め賊兵の薩境を出て熊本に来らんとするの報あるや谷少将は小倉営所なる第十四聯隊長乃木少佐(希典)に令して小倉の兵を以て盡く熊本に集合せしむ。

 後装銃とはすべてスナイドル銃。
 馬関に後装銃が舟で着いたとき将卒はみな歓喜踊躍し、覚えず声を発す(p.3)。
 このとき1個中隊は4個小隊からなり、計4個中隊あり。

 有名な軍旗喪失劇のオリジナルと思われる語り(p.8)。※すべてはこの孫引きか。
 このとき、将校で死んだのは河原林だけだった。

 中巻。保田窪のくだり。
 20日朝6時から官軍が攻撃。夕方までに全壘を占領し、さらに追撃。山縣と大山も親臨。
 そこで夜営準備していたところへ貴島清の隊が抜刀逆襲。
 しかし21日3:00AMまでに壘を回復。
 この日は全戦線で動かした兵数は陸軍開闢いらいだった。
 健軍と保田窪は、ひと続きの戦場であった。

 山縣は4月1日に村田少佐を大阪に赴かせた。弾薬欠乏が心配のため。

▼大山誠一『<聖徳太子>の誕生』1999
 長屋王木簡を調査しているうちに、聖徳太子伝説を誰がなぜ捏造させたかという当時の政治の構図が見えてきた。

 王族の一人に「厩戸王」がいたことは確か。蘇我系で、宮殿と氏寺を構えられるほど裕福だった。が、記録ではそこまでしか分からぬ。それは聖徳太子ではない。
 いまの美術史の飛鳥時代は聖徳太子の遺品を中心にしてあるが、いかがなものか。
 法隆寺に太子の遺品があるのは不自然だ。

 「太子=恵思の生まれかわり」説は鎌倉時代に問題となった(p.24)。
 憲法十七条は儒教を基本に、仏教も説いている。『礼記』『詩経』『論語』『孟子』『孝経』『文選』の古典が引用されている。
 十七条をシナ人が読んでも違和感はないという水準。604年にただの太子がそんなものを書けるわけがない。とうじは一般の官人すら日常的に文字を使っていなかった。

 674年に唐の高宗が、君主称号を「皇帝」から「天皇」に変えた。老子と唐の皇室が同じ季姓であるため、道教の宇宙最高神「天皇」を採用したのだ。
 これが天武朝(672~686)に日本に伝わり、689の飛鳥浄御原令で正式となり、天武天皇に最初の天皇号が捧げられた。
 だから薬師像の銘文は、天武・持統朝以後に考えられたもので、607年のものとしては偽物だ。

 シナでは天皇号は定着しなかった。やはり道教では支配学として儒教より弱いのだ。
 律令国家となる以前の日本には大王が生存中に後継者を指名するという制度がなかった。つまり皇太子(制)がなかったから、後継をめぐる内乱があった。
 大化の改新以前に日本国内で年号が使用された証拠はない(p.51)。

 推古=トヨミケカシキヤヒメ、のようなものは和風諡号といい、死後に贈られる。和風諡号は、記紀の編纂のために新たにつくられたと考えられる。
 古事記は712に成立した。日本書紀は720に成立した。編纂事業は天武朝に始まっている。

 三経義疏は聖徳太子没後120年以上たってから突如、太子御製として登場した。
 三経義疏はシナ製であろう。藤枝晃が戦後にはじめて指摘した。それを持ち込んだのは遣唐使帰朝組の道慈や玄昉だろう。
 聖徳太子が活躍した推古天皇の時代(593~628)に、蘇我氏を中心とする豪族政治から、大王(のちの天皇)集権国家に転換。
 ※隋から社会技術を学ばねばならなかった。

 皇太子制はシナ由来で、日本最初の立太子は697の軽皇子。これを日本書紀では、神武天皇の時代から皇太子がいたことにした(pp.72-3)。
 戦前に津田左右吉いわく、十七条憲法の精神は君・臣・民の三階級となっているが、推古朝は天皇以外の氏族が優勢で、そんなヒエラルキーはまだなかったはずだ。
 またいわく、大化の改新以前に、国家の民である「公民」は存在せぬと。

 なぜ古事記は推古天皇で終わり、代わって日本書紀の編纂が始まるか。
 古事記の最後に「厩戸王」がみえる。実名は「厩戸」だった。それ以外は後から付加された。すなわち、上宮之厩戸豊聡耳命・うえのみやのうまやどのとよとみみのみこと。
 豊は神主や王族名によく使われる美称。また長沼賢海いわく、法華経に「その耳聡利きが故に、悉く能く分別して知らん」とあるのも参考だと。

 古事記の仁徳以降では、天皇に即位する皇子は「命」と呼ばれ、「王」を称する皇子の中から天皇は出ない(p.84)。
 645以後、中大兄と鎌足は、唐の制度を学習しつつ、唐の高句麗攻撃への対応も考えねばならなかった。
 660に唐は半島南東の新羅と結託して、半島南西の百済を滅ぼした。中大兄は出兵を決心し、663に白村江で大敗。このとき唐人の捕虜を得た。またこのとき留学生は多く帰国した。
 以後、新羅とのチャンネルが維持されたが、唐とは30~40年間、チャンネルが閉じた。しかし残留留学生の単身帰国は可能であった。

 668に中大兄王は天智天皇に即位。同時に近江令を完成。しかし669に鎌足没。
 672に天智の後継をめぐる内乱で天武が勝つが、天武は唐と結託したわけではない。反シナの国是が貫かれた。
 集権国制の完成事業は、さらに持統朝、文武朝とひきつがれ、鎌足の子の藤原不比等が701に大宝律令を完成した。

 702に遣唐船が復活。ただし厳密には則天武后の「周」。しかしシナでは女帝を認めないので、この周朝は無かったことになっている。いずれにせよ唐の最盛期で華やかなときだった。
 対唐戦争以前の『周礼』の知識でつくった「藤原京」は、復活遣唐使がリアルで見てきた首都・長安城とはくらべものにならず劣って見えた。→そこで平城京。

 持統朝のころの太政大臣は、有力な皇族がつくことになっており、もしもの場合は即位も可能で、皇太子に近かった(p.91)。

 古事記の世界とは……。高天原に降臨した神の子孫の神武天皇は、東征し、ついで大和で即位した。そのごヤマトタケルが国内各地を平定した。神功皇后は新羅と百済を従えた。仁徳は聖帝王だった。雄略は天真爛漫に活躍した。それだけ。没哲学。

 シナ皇帝は天命を受け、天子として絶対権力を行使する。日本の律令制の天皇は神として君臨するが、国家の運営は不比等ら高級官僚に任せる。それが古事記。
 だがこれではシナに比べて見劣りがしてしまうと、太政官・不比等は考えた。

 シナでは皇帝が儒教、仏教、道教、文化、芸能の中心に君臨する。その代表格が則天武后。
 吉井巌いわく、古事記最大の英雄のヤマトタケルは、めずらしい王族将軍として602に「撃新羅将軍」に任命され、途中の筑紫で仆れている久米王(来目皇子)がモデルではないか。
 ヤマトタケルには常に賄いの従者として七拳脛[ななつかはぎ]がいた。

 論語は「礼楽征伐は天子より出づ」とするが、日本書紀では礼楽と征伐を、聖徳太子とヤマトタケルに分け持たせた。古事記のヤマトタケルは粗暴者だが、日本書紀のヤマトタケルは粗暴ではない。

 日本書紀は、太子を「一[ひとたび]に十人[とたり]の訴を聞きたまひて、失[あやま]ちたまはずして能く弁へたまふ」と紹介する。
 これは、トヨ・トミミから「十の耳」を連想したのだと明治に久米邦武は解釈した。
 ※侍従武官も勤めたある旧海軍人の講義にいわく。あるフランス人の本でシーザーとナポレオンを比較していると。それによるとシーザーは筆も上手で、自分で作文をしながら秘書を七人も置いて、同時に用を言い付けたと。兵頭いわく、厩戸がキリスト、天馬がアレクサンドロスなら、カエサルもありか。

 文武帝のころ、まだ幼少の天皇の例はない。
 文武の遺児の首[おびと]皇子が成人するまでの間、祖母の「あべのひめみこ」がなかつぎで即位すればよい。それが元明天皇。
 彼女以前に即位した女帝はすべて皇后(天皇の正妻。浄御原令いぜんは大后)だったが、元明天皇は、即位せずに亡くなった草壁皇子の妃で、異例。

 そこで不比等は「不改常典」なるものを捏造した。
 元明天皇は、不比等ではなく長屋王の意向に合わせて、娘の氷高内親王に715譲位。元正天皇。
 不比等は長屋王を右大臣にしないために、死ぬまで右大臣にとどまって、左大臣には上ろうとしなかった。
 元明太上天皇は721崩御。元正帝は724に首皇子に譲位。724聖武即位。729長屋王自尽。
 718に帰国した律師・道慈は、日本で最初の本格学識を身につけた僧侶。それ以前の僧は著述を遺していない。遺すに耐える水準では未だなかったのだ。
 この道慈が聖徳太子に仏教家のキャラクターを与えた。
 道慈がもたらした金光明最勝王経の文章が日本書紀にしばしば利用されている。

 もともと仏典をシナ語にするときに、神仙思想の単語を借りた。そのシナ訳の仏典から逆に、神仙、陰陽などの道教テキストも再構築されている。
 天皇を神として宗教的世界に祭り上げ、その天皇の信任を得て、優秀な官僚トップが政治権力を振るうという図式を日本国に定着させたのは藤原不比等(pp.130-1)。
 不比等は、首を皇位につけたいがために、皇太子という地位の重さを日本書紀で強調した。
 皇太子は偉いものなのだとの実例として、中大兄王だけが、日本書紀の中に、皇太子としての事蹟を紹介された。

 十七条では、官人たちに礼が無いこと、男女間の乱れもあることがいさめられている。そんな時代だった。
 第三条の「詔を承りては必ず謹め」は、君臣間上下の強調。論語の「君は君たり、臣は臣たり」のパラフレーズ。ただしシナと違って、君も臣を使うには礼を以てせねばならぬ、などとは、この日本では強調しない。

 金光明経は天武朝が新羅から輸入した。仏法に帰依すれば四天王が国を護ってくれるという信仰。道慈があとおしした。
 捨身飼虎の説話はその中に含まれている。放生会の由来の長者子流水の説話も。

 仏教の三毒である、むさぼり、いかり、おろかさのいましめは、十七条の5、10、14条に配分された。
 道慈は儒家を厳しく嫌った。
 儒教では、礼のための和である。ところが十七条では和だけが大事とされる。
 もともと修行僧は集団生活だから和は強調された。
 弥勒信仰も道慈が日本に紹介した。
 玄奘は『続高僧伝』に「行蔵[ぎようぞう]時に適[かな]ひ」と讃えられる。
 「年すこぶる稔らず」の「年」は穀物のこと。

 八角堂は故人をしのぶ廟堂的性格だ。廟堂があれば、聖徳太子は実在したことになるので、建設した。

 著者は『新潮45』2000-5月号でもこのテーマで分かり易い説明をしている。以下、その摘録。
 久米邦武いわく、日本書紀、法隆寺金堂の薬師像・釈迦像の光背の銘文、かつて法隆寺に伝えられた天寿国繍帳、三経義疏。これしか歴史学では聖徳太子の史料とはなし得ない。
 書紀によれば、厩戸王(574~621)という人がいたのは確か。この人は斑鳩に、宮と寺(法隆寺)を建立した。

 皇太子という地位は689の飛鳥浄御原令で制度化された。それ以前の推古天皇(聖徳太子の叔母)の時代にはおかしい。
 憲法17条が偽物であることは江戸後期に狩谷という学者が言っている。津田左右吉は、17条の文章は奈良時代の『書紀』『続日本紀』と類似していると指摘。書紀は720年に完成したが、そのころに17条も作文されたのだろうと。

 久米も津田も戦前に大学を逐われた。
 もし聖徳太子がそんなすごい人ならその死は国家的事件である。が、彼の死に際してつくられたという釈迦像や天寿国繍帳についての記事が書紀には皆無。三経義疏についても書紀に記事なし。これはおかしい。
 おそらく法隆寺系の史料は書紀のあとから作られたのである。その逆であるとすれば書紀は必ず法隆寺史料を参照したはずだから。

 では書紀はどうして聖徳太子を創作しなければならなかったか。
 大化の改新で中央集権国家になったは良いが、663の白村江で唐と新羅に大敗。以後、唐からは敵国待遇となり、遣唐使も派せなくなった。
 しかたないので日本は新羅経由でシナ情報を探りつつ、律令国家の確立を急ぐ。
 それは701の大宝律令で一応完成した。

 それと同時に、律令国家を権威付ける史書が編まれる。
 古事記。712にできた。シナ思想が排除され、日本的な天真爛漫な英雄が活躍。

 が、702に国際関係が好転し、久々に遣唐使が出された。古事記の世界ではシナの権威に対等たり得ない。そこで儒教の礼を踏まえ、仏教と道教も保護するシナ皇帝と対等の天皇をアッピールする必要があった。こうして書紀が編まれた。

 藤原不比等は儒教派。長屋王は祖父の天武天皇と同じく道教派。そこに718唐帰りの僧・道慈が加わり、書紀を編纂。
 儒・仏の権威者がうんと昔からいたことにしたかった。それには子孫が絶滅している厩戸王に仮託するのが都合が良かった。

 その後、宮中角逐から法隆寺に帰依すればよいと説得された光明皇后が遺品蒐集に乗り出し、ここで義疏や繍帳が捏造された。736以降のこと。
 唐や新羅から舶載されたもののうち、最新文物は聖武天皇が貰い、古そうなものは法隆寺に送って太子遺愛の品とされたろう。

 神功皇后は斉明天皇(白村江に出兵したときの女帝)がモデル。竹内宿禰は中臣鎌足がモデルだろう。しかし古事記のキャラは素朴すぎた。
 書紀が創った太子だけがシナと並ぶことができる。日本はシナに遅れていないと信ずることができる。だから日本人に崇められた。
※ゲルマン人も素朴だが民主主義について誇ることができる。古事記の世界はそこが弱かった。

▼Jane's Infantry Weapons 1985-86
 PPIとよばれる新型のAP弾頭技術。7.62×51mmでレンジ300mの場合、10ミリのアーマープレートを貫通できる。同射程の.50弾頭なら25ミリである。

 最新のBody armor は5メートルから発射された7.62ミリAP弾をストップできる。

 この時点での世界の小銃擲弾の性能。径55ミリでレンジ650m、ただしロケットアシストのものあり。また径75ミリで375mのものあり。径35ミリで水アブソーバー使って肩射ちで600mレンジのものあり。
 ところがM-16用の140ミリRAWはHE弾頭を2000mも飛ばすことができる。

 この時点でのゲリラ用ロケット砲。ユーゴ製の128ミリロケットランチャーは、弾重が23kg、中味は2.3kgのRDX/TNTで、ランチャーが22kg、射程が8600mある。

本日届いた『正論』6月号の毒ガス砲弾の記事について

 以下は、たったさっき、慌てて簡単に調べましたもので、ぜんぜん確実ではないと、まず最初にお断りします。

 水間正憲さんが、「代用弾の表現は化学弾が含まれていると思われる」と書いておられます。
 愚生の認識では、「代用弾」は平時演習で発射する、砂などを詰めて重量だけは実弾と同じとした砲弾、でした。
 ちなみに、砲尾への装填動作だけを演練させる模型のタマは「演習弾」と呼びました。

 (たとえば掲載写真の表中に「九四式三七粍砲徹甲弾代用弾」と見えますが、外径37mmのアーマーピアシング弾の中にガスを入れても効果はあったでしょうか?)

 また「四一式山砲榴弾甲、四一式山砲榴弾乙は、……化学弾のきい一号甲と乙と思われる。それは通常イペリットである」と水間さんは書かれています。
 が、愚生の認識では、この場合の甲と乙は、砲弾の頭部にネジ止めする信管の、旧式と新式の違いではありますまいか?

 四一式山砲弾薬などで「榴弾甲弾薬筒」と「榴弾乙弾薬筒」がありました。この場合の甲は砲弾のてっぺんにラウンドな信管がついており、空力が悪そうなもので、乙は尖った信管がついており、空力が良さそうなものです。どちらにも同じ量の通常炸薬が充填されていたことは変わりありません。

 陸軍ではイペリットのことを「きい」と称しました。
 「黄一号」がガス状のイペリット。「黄二号」が液滴状のルイサイト。「茶一号」が青酸ガスだったとする資料もあります。

 陸軍の92式以降の製造のガス砲弾には「黄一号」と「黄二号」が半々で混ぜられていたとする資料もあります。制式は昭和9年以降でしょうか。

 陸軍の「あか」または「赤一号」は、ジフェニール青化砒素で、クシャミと催涙性。唾液を飲めば嘔吐もします。非致死性で、シナ戦線では昭和12年から19年まで普通に用いられたものです。野戦では主として94式軽迫から発射するのが合理的でした。

 「みどり」または「緑一号」は、塩化アセトフェノンで催涙性。

 「ちゃ」は青酸で窒息性。これは対ソ戦の切り札の一つだったもので、対戦車手榴弾の「ちび弾」に詰めたのもこれでした。硫黄島でしたか、他の南方島嶼でしたか記憶が定かではないのですが、敗戦時に「ちび」のストックが米軍に引渡された記録が防研にあったのを見ました。シナと満州ではそういう記録はあるでしょうか?

 「あお」はホスゲンで、これを陸軍では「甲剤」と呼んだこともあります。大正時代からあったものです。
 「しろ」もありました。この成分は何だったのか、手持ちのメモ類で判明しません。スイマセン。追々、調べてみます。
 「あかしろ」は刺激性ということですが、たぶんあおとしろの混ぜ物なんでしょう。
 「あおしろ」は、あお90:しろ10で混ぜたものだそうです。

 旧陸軍では、照明弾、焼夷弾、信號弾、発煙筒等を「特種弾」と表記することもあったようです(S13-5『歩兵弾薬参考書』)。

 また旧軍のシナ事変以降の発煙弾には黄燐を填実したものが主流だったと思われます。この黄燐が有毒で、皮膚に触れたら二硫化炭素で洗滌しなければならないことも『歩兵弾薬参考書』で注意されていました。

 陸軍の発煙筒の「甲」は揮発性の四塩化炭素を薬剤として使用していたようです。

 なお海軍ではイペリットのことを「特薬」と称し、平塚海軍火薬廠ではごまかして「徳薬」と表記したこともありました。より正確には「3号特薬甲」が海軍のイペリットで、「3号特薬乙」が海軍のルイサイトす。
 こうした海軍特薬、化兵爆弾等の種類については、拙著『日本海軍の爆弾』の第5章などを御覧ください。書籍としては絶版ですが、現在、武道通信のPDFダウンロード(有料)を申し込めば、で誰でも閲読できます。
 旧陸軍の投下爆弾の特殊爆弾についても、『日本海軍の爆弾』の巻末附録でざっと紹介してあります。

 今回紹介された資料が、もし網羅的で脱漏も無いのだとしますれば、それは却って、「毒ガス弾は敗戦時に正式にソ連に引渡されていなかったかもしれない」ことを推測させる証拠となってしまうかもしれません。

 今回水間さんが紹介してくださった資料で興味深かったのは、陸軍が「トンプソン銃実包」を広東方面で鹵獲してしっかり保管していたことですね。

摘録とコメント。

▼平野光男『明治・東京時計塔記』S43-6改訂増補壱千部限定版
 湯島天神の境内に昔、陽時計があった。

 大正12年の震災まで、懐中時計の必要はなかった。いたるところに時計台あり、また商店を覗けば柱時計があった。

 定時に鐘の鳴る時計塔はルネサンスのミラノに初登場し、不定時法から定時法への切り替えを促した。
 日本では明治に定時法となり、いっせいに時計塔がつくられることになる。
 憲法発布のM22までが「文明開化」時代。

 明治期のメカは重量式。それが大正期にメンテの楽な電動式となる。
 時計納入ではFavre-Brandt商会の実績がダントツ。館主はスイス人だがスイス時計を輸入したのではなく、英国製が多い。

 東京市の嚆矢は竹橋陣営時計塔で、M4竣工。S20-4末の空襲まで残っていた。
 震災直後まで放置期間があり、当時の内部はくもの巣だらけ、湿気がこもり、蝙蝠が飛び、埃の堆積した床を鼠が走っていた。
 機構は「八日巻」で、週に一度、カギを捲かなければならない。

 伊藤為吉はCapellettiに建築学を学び、さらに米留学ののち、服部時計店の時計塔を耐震式に設計した。

 M4の新制度による初の郵便役所=日本橋の駅逓。初代の頭の前島密の回想。隣が小公園でそこで軍談の席があって、講談が酣になると張扇の音で会話が妨げられる。また軍鶏鍋屋も繁盛していてその煮える匂いがしてきたと。

 市ヶ谷の士官学校は尾張藩の下屋敷だったので、ここに士官学校工事直前まで薩軍が屯ろしていた。S12秋に機関は座間に移転し、建物は陸軍予科士官学校に使われた。

 ももんじ屋は、三都ともに化政以降に盛んに。江戸に最も多し。鍋とし、葱を加えていた。
 小林伝次郎は天保年間に俗曲を奏でるオルゴール入り枕時計を製作。しかしS18に小林商店は時計屋を廃業するしかなくなった。統制経済のため。

 M18頃の鬼瓦の櫛の歯のような突起は、「カラス」といい、鋳鉄製で、烏除け。明治十年代の東京の烏はおびただしく、M11に市中市外の鴉と鳶の巣を取り払えというお達しが出ていると。

 上野公園は東大医学部の移転地としてつぶされるところだったがオランダ人教授が公園を減らすなと勧告して、旧加賀藩邸になった。
 この医学部時計塔は正確だったので、明治末まで付近住民は袖時計の必要がなかった。
 参本は永田町1丁目1番地の高台にあった。陸軍省と陸軍大臣官舎が隣接。建物はすべてS20-5-25の空襲で焼けた。ただし機構はS16に市ヶ谷に移されていた。

 角海老楼は新吉原の老舗ではない。明治中期に勃興。宮沢平吉という長野県人が幕末に新吉原の並店安尾張に奉公し、分看板をもらって「角尾張」を経営。たまたま売物に出た妓楼海老屋を買い取り、角海老と改名す。その時計塔は「たけくらべ」に出てくる。
 塔はM44-4の火事で消失。明暦三年の新吉原開設いらい、26回目の丸焼けだと。

 遊郭は大12震災でガラリと姿が変わり、さらに終戦で性格すら変わってしまった。

 明治政府は吉原の他に本郷根津に遊郭を許可していたが、それが区画整理で一斉に洲崎へ移転させられたのがM21のこと。
 その一軒の八幡楼に時計塔があった。花魁の部屋は贅沢な三間続き。この敷地内に天然ガスが噴出し、事業化されたという。洲崎橋を渡ったあたり。

 M7頃、「髭をはやして官員ならば、猫や鼠はみな官員」と囃された。武士の二腰が禁止されたので、その代用として長い鬚で庶民を威嚇したのだ。

 S20-5-25空襲では慶大の図書館も内部が焼けた。S24に改修工事。
 しかし、Calamus Gladio Fortior =ペンは剣よりも強し、と記された女神と武士のステンドグラスは失われた。 1912-1国際紛争平和的処理条約公布。4月、慶大図書館時計塔竣工。

 避雷針は日本ではM7から。街路樹の植樹もM7から。

▼エム、カー、クリスチー『戦車工学』S18、原1937露語
 劣悪な土地での車輪の損失は20~40%に達す。履帯は舗装道上では車輪よりロス大きいが、路外ではタイヤの半分~三分の一。
 変速機は自動的なものでなければならない。
 「94式中戦車」の諸元が紹介されている(p.7)。
 各国の装甲板の材質や製法を詳述(p.10)。※これだけシステマチックに技術情報集めて公開していたからT-34もできる。日本との違い。

 当時の装甲鈑の重さは全体の14~28%
 鋲接車体にタマがあたると、内部の鋲頭が飛び散り、乗員を傷つける。
 乗用車エンジンは平均負荷40%、トラックは60%なのに、戦車エンジンは連続的にその最高出力の80~90%で使われる。そこで、軽油、重油の無気噴射式高速ディーゼルを持つ必要がある。
 最近、100atmの高圧蒸気機関が現れた(p.13)。
 発生炉ガスの発動機はまだ。

 今の戦車砲は、20ミリで1000m/s、37ミリで800m/s、75ミリで600m/sである。
 鈑厚20ミリで100m以遠からの20ミリ徹甲弾を防ぐ。
 ガス防護には、戦車内部を高圧に保て(p.25)。
 ビッカース12トン戦車は装甲板にアスベスト等熱不導体を裏張りし、冬夏の寒暑を防いでいた。※今はセラミックが代用材か。
 大型戦車で中程度の不斉地を2、3時間連続走行すると酔う。
 単独の戦車は不斉地では最大速度が3割低下し、夜間はさらに4割低下する。縦隊では、単車時の5割のスピードに落ちる。
 路面が堅い時、転輪の中間には履板重量がかかるばかり。転輪直下の接地圧は5倍以上になる。

 ATGの2発間隔は12セコ。これ以内で戦車は旋回せねばならぬ。
 重戦車は径50cm以内の樹からなる森林なら跋渉できる。厚さ80センチの石壁も破壊する。鉄条網は戦車には無意味だが、隠れた針金傷害は起動輪や誘導輪に捲きついて、履帯をはずすか、落伍させる。

 変速段を増せば、燃費はよくなる。8h連続運転したいところだ。戦車の発見はその車高による(p.38)。
 悪天時、戦車のエンジン音は1200m先から聴こえる。

 接地圧比較。トラック2.5~7.0kg/平方m、タクシー1.5~2.5、装軌牽引車0.4~0.6、重戦車0.8~1.6、軽戦車0.4~0.5、かんじき類0.05~0.2、スキー0.03~0.05、ヒトの足0.4~0.5、人が乗った馬1.2~1.5也。

 装軌車両の接地圧は装輪の約十分の一。人の足に略等しい(p.53)。※三分の一の場合もありそうだ。
 戦車に最も害ある揺れはピッチング。照準が大きく狂うから。垂直動揺は害が少ない(p.339)。
 戦車履帯の接地角および離昇角はなるだけ小さい事(p.366)。

▼早乙女勝元 ed.『写真版 東京大空襲の記録』S62-7
 白骨遺体が位牌を手にしていた場合がある。漆塗りなので火にも水にも強い。その戒名が新聞に発表されると数日しないで関係者が名乗り出てきた。戦後20年あたりまで。

 東京初空襲のとき、警視庁しらべでは、250キロ爆弾×6、小型エレクトロン焼夷弾452発が落とされ、61棟が焼失、死者39人。日本全国だと死者50人だった。
 ただし当時はこの被害発表はない。

 内務省はS18-6から全国民を収容できる防空壕と公共退避壕の設置強制を始めた。
 ただし下町のゼロメートル地帯では水溜りとなるだけであった。
 マリアナから東京まで2300km、B-29は7トン搭載時の航続5000km超。北海道までは往復ができない。

 1945-1-1の新年切り替わりと同時の夜間爆撃を浅草に。明け方には江東区。
 1-27、3-4には第一目標の軍需工場の天候が悪いので市街地無差別爆撃。
 警戒警報は3分間の連続吹鳴サイレン。
 3-10を境に都民は消火より脱出を優先するようになった。

 6月は、伊豆七島が頻繁に銃爆撃された。

 東京の被害統計はハッキリしない。警視庁は、1944-11~1945-8-15までに9万5996名が空襲で死んだとする。が、戦後3年目の東京都の調べでは、9万2778名とある。さらに『東京都戦災史』では9万4225名とある。

 ところが墨田区の東京都慰霊堂には一般都民の白骨10万5400体が並べられた。
 あらゆる資料を総合して、東京では死者は11万5000人以上出ただろう(p.175)。
 ちなみに対米開戦時の東京人口は735万人。

 日本全土の対米戦での銃後死者は60万人だろう。60万の半分は「広島・長崎」。残る30万人は、「東京」「沖縄」、それ以外、と、10万づつ三等分されるだろう(p.178)。
 1945の日本人の男子平均寿命は23.9歳となる。

 防空法では、消火しないで逃げ出すと1年以下の懲役や罰金と決められた。
 3-10空襲では先発隊は高度1500~3000mでアプローチした。

 1937-4-26にゲルニカ空襲で2000名死。
 重慶爆撃のピークはS16-8だった。

 ワシントンの国立公文書館には入り口に Study the Past と彫刻してある。

▼目加田誠 ed.『詩経・楚辞』S44
 4馬を並べて曳かせる戦車では中の2頭は先に立ち、外の2頭は遅れる。「国風・淑于田」。

 馬が装甲していること。車に2丈の酋矛と2丈4尺の夷矛を立てること。それには朱の飾りがついている。

 弋[いぐるみ]。「女日鶏鳴」、「大雅」。

 「駟●【馬ヘンに鐵のツクリ】」、猟犬も車に載せたらしい(p.93)。大型兵車は元戎といい、小型のは小戎。盾には竜か鳥の絵。馬に介させる(馬ヨロイ)。「三角の矛は、いかけの鐓[いしづき]。

 弋[ほこ]に殳[つえ]。「候人」。
 小雅・出車、他に「敵を生け捕りうちとって」と出る。※奴隷獲得戦争。
 大雅・韓奕に「鏤[ちりば]めたる馬の面がね」と出る。

▼赤塚忠 tr.『書経・易経』S47
 尭舜は三皇五帝よりも古くから語られていた。尭や五帝は太陽がモデル。
 舜は刑をゆるめ、過失犯は罰金で済ませた。
 「誓」の源義は、征伐の正当性主張。

 甲骨文に「歩伐」と出る。歩は100歩か?

▼本田済 tr.『漢書・後漢書・三国志列伝選』
 季陵・蘇武伝。匈奴あいてに大量の首斬り。

 天子の兵は征あって戦なし(p.62)。
 支配者だけが対象だ。

 東方朔伝。孫子呉子22万字を暗誦した。
 馮異伝。左伝や孫子に通じていた。
 馬援伝。当時の牧夫の服装は羊のけごろもに皮の袴。

摘録とコメント(※)

▼マーチン・カイダン『アメリカの宇宙基地──ケープ・カナベラル物語』S35-1、朝日新聞社 tr. 原題“Spaceport U.S.A.”1959

 かつてP-38乗りで各種ジェット操縦資格もある著者は空軍ミサイル実験場の司令官顧問をしていたこともあるが、お役所仕事には辟易していた。すでに零戦についての著書もある。
 初の月ロケット打ち上げを見て著者は泣いた。これが本書のきっかけ。
 ロケット打ち上げの緊張で嘔吐する技師も見た。

 アトラスの第二段のサスティナーは、目標都市にうまく突入できる速度、角度、高度が得られたときには、モーターを1秒以内で止めなければならない。あとは慣性飛行。

 アトラスの内部燃焼は2800℃以下だから、外壁は人が手をおいてもいいくらい冷たい。その外壁をPRI燃料が通過するので冷却されている。

 新型爆撃機はまず50機つくってそのうち40機は一度も飛ばさずに地上で実験して壊す。ICBMもまったく同じ手順で開発される。
 アトラスは1基200万ドル。

 戦時では、秒読みに15分、長くても20分以上かけてはいられない(p.28)。※ソ連から30分でICBMが来るので。シナから日本までなら10分か。

 液体酸素を注入するとき、鋼鉄の燃料管が収縮するので、とてつもないノイズが響き渡る(p.31)。※これではSLBMには使い辛い。
 しかも圧を逃がすために頂上バルブは開放しておかないといけない。そこから気化された冷たい酸素が漂うため、遠くから打ち上げ場を見ると、かげろうのように風景が揺れて見える。また、地表には靄がたちこめる。

 発射台下の鋼鉄をブラストの熱から護るために滝のように冷却液が流される。
 ブロックハウスの中では技師が「ゴー・ベビー・ゴー」と叫ぶ。

 V1発射場だけでも英米の爆撃機は、日本本土にB29が投下したより多くのトン数の爆弾を降らせた(p.45)。
 V2の貢献もそこにある。それは2万機のジェット機と同じ予算を喰ったが、同時に英米の爆弾も吸引してくれた。

 米国は液体燃料ロケットの研究をWWII中には始めなかった。大量生産の暇がないことが明らかだったから。
 ドイツは単発長距離制空戦闘機は不可能だと見ていた。米はそれをP-47とP-51でやってみせた。
 広島、長崎への原爆投下を、捕虜のドイツ科学者たちは信じようとしなかった。
 クラウゼヴィッツはかつて警告した。「戦争の究極の目標は敵の心を変えるにある。敵に戦いをやめる決心をさせることにある」(p.47)。

 WWⅠ中、スペリー社は米海軍から頼まれて、無人複葉飛行爆弾をつくった。射程640kmで450kg爆装。ロングアイランドで実験成功。しかし1918講和までには間に合わなかった。
 1916~18に陸軍も無人爆撃機研究に5万ドル使った。デイトンでレールから発射され、90マイル飛んで、無線指令で目標に命中した。やはり実戦には間に合わず。

 パールハーバー時点で米軍には1発のロケット弾も無かった。が、1945-8時点では63kgのホーリーモーゼ12.5センチ空対地ロケットを数万発発射していた。
 小型ロケット発射艦。これは40サンチ砲×27門に匹敵する火力を浴びせる。1944-6-6のノルマンディでは4万発のロケット弾を撃ち込んだ。
 対潜水艦用は9センチの「缶切り」。
 タイニーティムは重さ582kg、長さ3m以上。弾頭は230kg、径30センチ。

 1943に48機のB-17がGB-1滑空爆弾×116発でケルンを夜間攻撃。フラック圏外数キロからスタンドオフする試みだったが、ほとんど外れてしまった。指令誘導ではなくプログラム自律誘導。

 M-65アゾン誘導爆弾。450kgで、尾部の炎を頼りに爆撃手が落下方向を誘導できた。これでルーマニア/ユーゴ国境の水門破壊、ブレンネル峠下の鉄橋破壊に成功。
 ビルマではB-24×40から鉄道を狙い、橋梁30を破壊。効率から言って、10トンの爆弾投下に匹敵したと。※防研史料を漁った管見では旧軍が米軍の誘導爆弾に気付いていた兆候は無い。
 VB-3ラゾンは改良型。
 その次がROCでやはり450kgだがTVカメラが先端部についていて、それをモニターしながら誘導する。完成前に終戦。
 フェリックスという赤外線追尾爆弾あり。軽爆撃機が4発をラバウルで試験投下。3発が商船に命中したと。

 WWII中に海軍は「パット」レーダー追尾滑空爆弾を完成。1945に2機が日本の駆逐艦に射程32kmで発射し、撃沈した(p.52)。

 フロリダの飛行区域に英領バハマがある。その島に有毒林があった。高さ1.2mで、触れた皮膚を猛烈に爛らせる。しかも再発性。カルシウム注射で予防できるが寒気がして不快。この林を燃やすと毒ガスが出て、皮膚に痛みを与える。吸い込むと命が危ないと。

 ガダルカナルの蚊は種類が非常に多い。しかしカナベラルはそれを上回るひどさ。
 バンパーの実験では、第一段のV-2は落下途中でTNTにより爆破した。上空4500mにて。

 マタドールの初実験は1951-6-20のこと。
 発射前60秒からエンジン全開。
 スナークは高度15000まで上昇する過程で燃料の大部分を使い切っており、軽くなるのでスピードがマッハ0.9になる。

 破壊指令の暗号はソ連が悪用できないように考えられている。
 ロケットモーターの燃焼は自由電子を発生させ、それがミサイル直後空間の電波通信を妨害する。
 WWII中、ランカスターがドイツのアパート団地に11トン爆弾を1発落とした。600人が死んだ(p.174)。

 ソーやアトラスは液燃だから上昇はゆっくりだが、ポラリスは固燃なのでかなり速く飛び上がる。
 ボマークで散骨した婦人科学者あり。
 実射テストは海に着弾させるわけだが、1回ごとに場所をずらす。そうしないと前の残骸と混同してしまう。

 テレメトリーは暗号であり、しかも周波数が常に変えられる。
 テスト発射の日取りや時刻は公表しない。知られると敵による電波収集作業が楽になってしまうから。

 X-15有人超音速機にナバホの推進ロケットを抱かせるという案あり。※これはまるっきりスペースシャトルだ。

▼野一色利衛 tr.『戦争と政治──独逸の世界観教育と指導』S17-9
 墓地の門に「永久平和」と書かれたものがある。さらにそれを模したオランダの酒場の看板があって、カントはそれを見て自著のタイトルとした、とライプニッツが指摘。
 モルトケ、「永久平和は……一つの夢に過ぎず、而も美しからざる夢」である。

 独逸はWWⅠでベルギー人をひっとらえて労働力不足の本国に送った。
 ロイド・ジョージ、ポアンカレー、クレマンソーは中欧諸国の指導者に優っていた。が、ビスマルクやナポレオン程ではない。
 1933リンネバッハの「戦争に於ける勝敗決定の要因」全文(pp.116~)。
 武力戦は勝敗を決しなかった。思想戦と経済戦だ、とゾルダン。

 イエナ、セダンも戦争の勝敗を決定していない。セダンは国家を破壊していない。

 戦争を終結せしめた決定的勝利の列挙。
 フリードリヒはケッセルスドルフ。これは「ラスト・ストロー」という感じ。
 ナポレオンはアウステルリッツ、フリードランド、ワグラム。双方疲れての平和。
 反ナポレオン側は、ベル・アリンス。これはナポレオンの戦闘力と同時に、ナポレオン体制とその国家を破壊した。
 モルトケはケーニヒグレーツ。

 経済封鎖の先例。スペイン王位継承戦。米革命戦争。ナポレオン戦争。南北戦争。
 Politikというドイツ語は「政治学」「政策」の意もあり(p.185)。

 ビスマルク「戦争の目的は国家に依り追求される政策に相応せる諸条件の下に於て平和を戦ひ取ることである」

 シラー:全民族の性格はその法律の最も忠実なる模写であり、従って又、法律の価値と無価値に対する最も確実な裁判官である。

▼森英『熱帯の荒鷲』S17-9
 著者は陸軍航空本部嘱託の従軍画家。

 整備兵は16歳。
 爆撃機の「小便する器械」は後の方へしまってある。
 爆弾投下は下の丸窓からよくみえる。
 ボマーはなるべく前の方が酔わない。

 15cmくらいの茶色の小瓶に葡萄酒、これを元気酒といい、氷らぬようにポケットに入れておく。
 ドラム缶風呂は丸太を踏んで入る。よく缶ごとひっくりかえる。

 脳天が陽に当たってもいい。しかし後頭部は必ず日蔭にしないといかん、と安南(ベトナム)人は言う。
 女は歯を黒く染めている。

 シナ人は貰い物を前にすると大人こどもの区別なく争い合うが、ビルマ人はそんなことはない。

▼山口・戸井田『石橋物語』
 ローマはB.C.300にアッピア水道をつくる。シナでは605年に河北に趙州橋という石橋を架けたのが早い。漢~唐代に石橋拡散。盧溝橋は1192完成の235m14連の石造アーチ橋。金朝が造らせた。

 日本では沖縄にまず伝わる。1452に福建人が那覇から首里まで7つのアーチ橋を架けた。この技術は僅かに鹿児島に伝わった。
 九州では宮崎と佐賀には石橋は少ない。大分では1817に架けられている。

 長崎の太鼓橋はアーチ工法で、円周率は秘伝であった。
 維新前に華僑が架けたものも多い。
 大金が必要で個人では建設できないものだが城主は石橋の必要など認めなかったので日本には普及せず。

 アーチ橋は洪水浮力=下からの力に弱い。そこで石と石を鉄札で結合。
 橋脚先端に水制を設けないと水によって基礎が洗掘される。

 万世橋は、中仙道への関門であった筋違門を壊した石材でつくった。
 明治初年の東京の石橋のうち現存しているのは常盤橋だけ。