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『新解 函館戦争』初版のさらなる正誤表

○42ページ 写真キャプション
 1974年完成の
  ↓
 1874年完成の

 ※オマケ豆知識ですが、43ページの「たまほこ」は、「道」の枕詞です。


○51ページ 22行目
 箱館府軍には甚だ戦意に乏しく
  ↓
 箱館府軍には甚だ戦意とぼしく


○83ページ 下から15行目
 福山城です、
  ↓
 福山城です。


○99ページ 7~9行目
 ※ここでトリカブトは複数人数の殺人用には向いていないと書きましたが、2012年4月7日、函館市郊外の釜谷町という漁村で、山の中(近くに釜谷富士というおむず山などがある)に生えはじめのトリカブトをニリンソウと間違えておひたしにして3人が食べ、食後に症状が出て1人死亡、1人が意識不明の重体、1人が無事(たぶんホンモノのニリンソウだったので)という事故が起きています。


○123ページ 2行目
 口先三寸
  ↓
 舌先三寸


○142ページ 下から16行目
 許さず、
  ↓
 許されず、


○287ページ 下から10行目
 想像しす。
  ↓
 想像します。


○326ページ 1行目
 浜から上海まで
   ↓
 横浜から上海まで

 ※今回の『新解 函館戦争――幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する』をより一層理解するため、ぜひ本サイトの「資料庫」をごらんください。追補のカラー写真資料集となっております。また、『表現者』連載の「近代以前の軍人たち」に過去に登場させた「黒田清隆」「山田顕義」「荒井郁之助」の回なども、併せてご参照くださることを希望いたします。

『新解 函館戦争』のテキスト抜けについて

 さっそく1行抜けている箇所を発見しました。おわびして訂正します。
 206ページ、明治2年4月6日 のところです。

 第一パラグラフ。正しくは、

 「 函館の市街から見て、箱館山の裏側、すなわち西側海岸一帯が「寒川[さぶかわ]」です(「三本川」と表記した史料もあり)。外国人墓地などのあった箱館山の北側海岸一帯が「山背泊」です。」

 とあるべきところ、

 「 函館の市街から見て、箱館山の裏側、すなわち西側海岸一帯が」の第1行分が、スッポリと抜け落ちてしまっています。
 ご恐縮さまですが、この1行を 書き込んでおいてください。

 この本は2刷とかは出ないだろうと思われます。この場を借りて逐次に訂正のお知らせをして参ります。

『新解 函館戦争――幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する』がリリースされた模様。

 いままで出版社から何の連絡も受けていなかったので黙っていましたが――なにしろこの企画は2011年秋には出るはずだったところ、3月の大震災と直後の業界混乱で最初の出版社がとうとうダメになり……その後も出版市況は不透明でしたから、小生はひたすら気長に待つことにしていたのです……。
 21日に見本が「ゆうメール」で拙宅に届き、「これは間違いなく完成したようだな」と思えましたので、つつしんで本日、公表します。

 5月21日以降、順次書店でみられるそうです。
 版元は、「元就(gensyu)出版社」さん(都内豊島区南池袋)。
 横組み活字ビッシリで332頁もある。ありきたりな維新戦争本とは違いますよ。

 挿絵写真はすべて現地撮影。従来の資料では本州の人にはさっぱりわけがわからぬところを、特に微に入り細を穿つ解説で納得していただけます。

 明治1年~明治2年の 戊辰函館戦争について、「その時なにがあったか?」を知りたい方は、この本を1冊、手許に置いておかれるだけで宜しくなるでしょう。

 この本は、沖縄・尖閣防衛がイシューとなっている今日こそ、意義深い「攻防の参考書」であると、兵頭は自信をもって宣伝します。シナ軍は米軍式の上陸はしてきません。戊辰戦争のような戦法を多用するはずなのです。その参考事例は、日本の近過去にすべてありました!

 全体にどのくらい力が入っている企画かをご理解いただくため、以下に、本書の「はじめに」の文章を転載しておきましょう。


 幕末戊辰戦争の終盤、明治1年から2年にかけて8ヶ月間続いた「箱館戦争」は、今日、その細部を知れば知るほど、日本が過去にかかわった近代戦や、これからかかわるかもしれない未来戦について、深く考えさせられるヒントに満ちていることを発見いたします。

 この「蝦夷キャンペーン」は、今の東北6県にほぼ等しい広さをもつ大きな島(北海道)への奇襲上陸侵攻作戦として始まりました。そしてすぐ、それを強襲奪回しようとする「逆上陸作戦」に連接しました。
 どちらも、立場を換えたら、島嶼の防禦作戦でしょう。
 国内戦であったがゆえに、作戦の統帥と「政治」は、濃密に一体にもなっていました。
 攻防互いに「戦略眼」の限度一杯を競った「北海道作戦」の経験を、明治1~2年に積んでいたればこそ、明治7年に日本政府は、また自信を抱きつつ、台湾征討を決行することが、できたのでしょう。
 それが、後の半島経営、さらに大陸経営、ひいては「5大国」の一角としての世界経営への展望を日本国民にもたらしたことは、疑いありません。

 明治38年、ロシア帝国の巨大な海軍資産を戦争で一掃してしまった日本は、ポーツマス媾和条約によって樺太の南半分を領有し得たことにより、もはや本土防衛のため、わざわざ朝鮮半島や満州に、師団を前方展開しておく必要はなくなりました。
 ロシア陸軍が北海道と九州へ同時に攻めかかってきた場合に、日本本土は防禦不能の事態を迎えるであろう――と、それ以前には、懸念されていたのでした。
 だからこそ、〈朝鮮北部に現役師団を配備しよう。それによって、朝鮮半島のみならず、樺太を対日侵攻の渡し板として利用させることをも側面から阻害しよう〉という、二方睨みの大戦略が、至上命題として信奉されていたのです。
 けれども、一方の北海道への渡し板たる樺太の南半分は、いまや海軍力で優る日本が正式に領有したのです。ロシア軍の通過回廊としては、ほぼ利用を不可能にしてしまったのですから、あとは、かりに朝鮮半島を南端までガラ空きに放置したとしたところで、もうロシア軍による南北同時の奇襲侵攻など、物理的にあり得ぬ仕儀となった次第です。
 この地球上で、ロシア帝国を除きますれば、日本列島を陸兵によって制圧・占領しようと願望しそうな外国は、過去の長い歴史に徴して、シナと朝鮮くらいでした。そのいずれも当時は甚だ弱体であった上に、彼の予想侵攻正面は必ずわが南西(九州・沖縄)の一方面だけに限られますから、我[われ]としてもしそれを受けた暁に、日本列島の北東を「後方」とする本土防衛プランを立てることは、易々たるものがあったのです。

 斯くして、わが国の所与環境は、基本からの変化をみせたのでした。
 このさい日本政府は、それまで一途に追い求めてきた安全保障の手段体系が、爾後のわが国策の目的に整合するか否かを、根本に帰って考え直すのが、当然であったと申せましょう。
 おそらく、まずすべきことは、衡平を失していた、農家への偏重的酷税を、停止することでしたろう。そして、艦隊編制や現役兵員数を再定義し、冗長戦力の整理によって浮揚する民力を、北海道や東北地方の産業開発へ誘導すること――だったでしょう。それで内需主導の「富国強兵」が実現できたはずです。
 そのうえに、燃料問題を海軍機関科将校たちに丸投げせずに、兵科将校たちからして「エネルギー資源外交」の着眼をもつことができていたならば、油井の確認もなく、自給農業も成立しないシベリアの領有などを夢見ることの愚かさを、指導層内に於いてチェックすることが可能であったでしょう。
 せいぜい北樺太に傀儡政権を樹立させて石油資源だけ押さえておいたら、そのあとから「ソ連」というランドパワーが立ち顕われようとも泰然自若、満州領有など百害あって一利も無いと、怜悧に判定され得たことと思います。
 ざんねんですが、日露戦争を境として、巨大な既得権益を擁する官僚組織に変貌してしまった帝国陸海軍には、いまさらそのような国家ビジョンの組み建て直しを計ろうなどという若々しい意志力は、燃え残っていませんでした。
 彼らは、国政の無為によって貧窮化させた国内農家の声を代弁してユーラシア大陸に対しての領土拡張欲を露骨に肯定するのです。加えて、もともと日本本土を占領する意図など有さぬ米国をいたずらに敵視する海軍軍備も、追求しました。
 実動と挑発は対抗措置を呼び、いつしか明治維新の理想を忘れた傍迷惑外交が行き着いた先が、1941年末の、米国に対する先制奇襲開戦でした。

 1945年9月の時点でも、ソ連軍やシナ軍には、日本列島へ敵前上陸して占領する能力などなかったことを、わたしたちは、思い出すべきです。
 ソ連軍が1945年にわが北方領土を占領できたのは、南樺太へのソ連の侵略が始まって自衛戦闘が生起した直後、千島列島最北端の占守島への上陸作戦がまだ始まっていない時点で、東京の大本営が、全千島の日本軍の自衛戦闘までも自粛させる方針を定めたためでした。もし樺太での自衛戦闘が続いていたならば、また1941年から米国がソ連に対して船舶・舟艇・機関車・貨車を含む厖大な装備と燃料の援助をしていなかったならば、ソ連軍には千島列島攻略に着手する余力もなかったのです。
 これがシナ軍となりますと、過去に日本軍の守備する島嶼に敵前上陸して占領した事例がひとつもありませんし、以後の中共軍もまた、台湾本島はおろか、台湾海峡にある小島すら、60年間以上も奪取ができずにいることは、周知の史実です。

 つまり、1940年11月の大統領選挙で、絶対に米軍を海外派兵しないことを誓ったフランクリン・ローズヴェルト大統領に3期目の任期を与えることにした、孤立主義的な米国有権者たちは、もし、1941年12月に日本海軍によるハワイ攻撃によって強く怒りをかきたてられることがなくば、同じ大統領に、一夜にして1000万人もの将兵の動員や世界大戦への全面参戦を許すことなどはあり得ず、したがって日本列島も、空襲や海上封鎖までは受けたとしても、沖縄や九州をめぐる激しい陸戦は生起しないで、1944年以降のある時点で、日米停戦に移行したという可能性が、確かにあったのです。
 それほど、米軍の潜在能力だけが、当時の世界では、突出していました。
 そしてその事情は、じつは今日でもほとんど変わっていません。
 相変わらず、シナ軍にもロシア軍にも、日本列島に対する「敵前上陸」の能力はありません。米軍だけが、それを持っているのです。
 もし今、シナ軍が南西諸島のどこかに上陸してくるとすれば、それは、自衛隊や海上保安庁がその島に所在しておらずに、わざわざ日本人の側から隙をつくって外患を誘致したような場合に限られるでしょう。

 ところで現代の米国海軍は、2010年代以降の対外作戦では、3000トンくらいのコンパクトな軍艦が、敵国沿岸のすぐ近くを、陸戦隊を乗せて高速で動き回って、随時に小規模な上陸作戦を遂行できるようにすることを、大きな目標課題としています。
 そして米国の海兵隊も、何万人もが一斉に敵が守備する海岸へ殺到するという華々しい作戦の夢(最後にそれが実施されたのは、朝鮮戦争中の1950年9月の仁川上陸でした)はとうとう抛棄し、英国の「ロイヤル・マリン」のように、小部隊によるコマンドー型の特殊作戦に、これからは編制も装備も機能も切り替えて行くしかないと意識しているようです。
 いわゆる海賊や麻薬密輸組織も、根城はあくまで陸上にあります。この陣容修正により、中共軍相手の本格戦争にも、海上封鎖にも、テロや違法工作の取り締まりにも、軍隊がシームレスに対応できるようになるのでしょう。
 南西諸島へのシナ軍の重圧を受けつつある今日のわが国の国防力も、「海兵隊」型の軍備への改編が、いままさに動き出そうとしています。
 政府は2010年12月に、「平成23年度以降に係る防衛計画の大綱」と「中期防衛力整備計画(平成23年度~平成27年度)」を打ち出し、南西諸島の守備を全うするため、陸上自衛隊に機動的な水陸両用戦機能をもたせる方針を固めました。

 米国海兵隊の縮小ペース如何では、または、日本政府の対支弱腰姿勢のなりゆき如何では、無防備な日本列島のどこかに某国軍や某々国軍がとつぜん上陸し、それを自衛隊が他国には少しも頼らずに排除せねばならなくなるという事態も起こるかもしれません。
 偶然にも、そのような場合に参考にできるような戦史ならば、わざわざ異国の書物の上に探し求める必要はないのです。わが国の箱館戦争の中に、まさしく豊富に見出されるでしょう。

◎「読書余論」 2012年5月25日配信 の内容予告

▼石井鉄之介『我等の航空母艦』原S18-3、S18-9repr.
 ガソリンを多量に扱う航空母艦内では、タバコは吸えない。

▼永村 清『航空母艦』S17-1
 対日焼夷弾空襲は、軍縮期間中に米海軍でも考えていた。

▼中[なか] 正夫『航空の驚異』S16-12

▼北村小松『海軍爆撃隊』S15-3
 謎の多い青島航空戦についての、もうひとつの証言がある。

▼竹内正虎『日本航空発達史』S15-4
 日本の気球戦についての戦前証言。

▼那珂良二『成層圏要塞』S19-3

▼斉藤・鳥海・丸山『B29“超空の要塞”の正體』朝日新聞社S20-1
 B-29について日本人が早々と知っていたわけは、アメリカがソ連の単独媾和を恐れて「ドイツなんかこわがるなよ。こっちにはコレがあるから」と説得するために試作中からスペックをどしどしマスコミ公開していたせいだったのだな、と、ほぼ想像がつく。

▼ウィリアム・ヘス著、寺井義守tr.『B17重爆撃機』S51、原1974

▼秋本実『伝承 零戦』1996
 雑誌『丸』の過去の厖大な数のゼロ戦関係記事から手際よくまとめて紹介してくれている、ありがた企画。

▼『第二次大戦と三菱財閥』S62、日経

▼防研史料『昭和20年 兵器関係綴』
 満鉄に鎗の穂先を量産させてソ連軍を迎え撃つつもりだったこと、など。

▼防研史料『国軍新兵器便覧』S20-5-23 東部第13部隊
 陸軍はマシーネンピストルを訳して機関短銃と称したのだが、他資料を見ると海軍陸戦隊もそれに倣ったか。サブマシンガンの訳たる短機関銃とは必ずしも称していないのだ。

▼防研史料『大9~12 試験記事 及 同要領 綴』
 国産自動拳銃のテストのことなど。

▼『三菱重工横浜製作所百年史』H4

▼『三菱神戸造船所七十五年史』S56
 鉄塔の話もあり貴重。

▼『産業機械工業発展過程』S40
 民間の宮田製作所(のちの自転車メーカー)でも村田銃を製作した。工廠の拡大前は。

▼有坂勝『横須賀海軍工廠外史(改訂版)』H3
 明治期の艦載の自動火器について統計値が知れる。

▼倉茂貞助『賭』1959-11
 元陸士卒の人が競輪を戦後に仕切ったのか?

▼大西伍一『子に詫びる』S18-3
 フォイトの蛋白質重視の栄養学説を否定。まあいまだに栄養学については百説百論あるのだが、「無知の知」をわきまえる科学的な読者なら、「すべてがもうわかっている」とか「すべてにあてはめることができるはず」とは思わないよね。「わかってないことも多い」「正誤が将来に反転することもあり得る」「生物には個体差もある」「人には環境差もある」と達観すれば、何か一つの食品にこだわって安心するのも、逆にそればかり排除して安心するのも、愚か也と悟れる。確率論的にリスクをできるだけ分散させる食生活が、後悔が少ないだろう。

▼(財)大日本体育会『全国壮丁皆泳必成訓練実施要綱』S18-5制定

▼木村 久邇典[くにのり]『責任一途 提督 阿部孝壮[こうそう]――海軍砲術学校長グアムに死す』S63-10 光人社
 特四式内火艇をサイパンに送ろうとした次第や、ソース顔の水兵だけ集めて米本土に挺進潜入させようとした海軍の山岡特別陸戦隊のことなど、トリビア満載すぎる。著者も、館山で陸戦隊教育を受けた元予備学生士官。表紙カバーの肖像画の不景気さで、売れ行きが大損してる労作だ。

 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)

 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。

 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。

 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
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