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『新解 函館戦争』の誤記の訂正について。

 明治元年12月22日のところで、
 「新暦の2月3日は、旧暦の12月22日にあたっています。」

 ……と書いちまいましたが、再確認したところ、新暦の1872年2月3日は、旧暦の1871年12月25日でしたので、訂正いたします。

 それと、この「2月3日」という『ストーンウォール』の明治政府への正式引き渡しの日付を記載している日本語の文献のメモを発掘しました。
 ……と思ったら、またどっかにいっちまった。
 行方不明!
 うろ覚えの記憶を頼りに再現すると、『日本海軍史』みたいな、特徴のまるでないタイトルで、しかも4巻とか7巻とかあるいはそれ以上あるシリーズ資料のうちの第4巻もしくは第7巻。
 そして著者は個人ではない。だからメモ帳には誰某著とはメモしてなかった。また、発行年もメモしてなかった。それは重要ではないと思えたんだろう。若い時の私には。

 明治初期の日付を新暦にしているとすれば、そんなに旧い印刷物ではないだろう。

 確か、メモ帳には、書籍タイトルと、vol.ナンバーと、それだけ控えてあった。それをとりあえず「読書余論」用にタイプして安心したように記憶するのだが、いま、PC上で検索してもヒットしない。耄碌したか……。

忘れぬうちに書いておこう

 いま某誌から頼まれた短い原稿を書いているところで、それは〈江藤淳なら昨今のネットウヨクたちをどう見ただろうか〉というような「お題」なのだが、いろいろと記憶をたぐっているうちに、途中で本題を逸れて、どうしてもこれを書いておかねばならぬと思いつめた。
 こんな話は『SAPIO』には載せられんから、ここに書くのだ。

 さきほど函館には氷雨が降り出し、通過したようだ。昨日までの天気予報に雨なんて一言もなかった。これでまたも私は、急かされるような気持になっている。
 あの平成11年7月21日もすごい天気だった。

 旧著『日本の高塔』を持っている人は、28ページの本文と、29ページの写真を見てくれ。写真の空は、平成11年7月21日の午前中の空模様なのである。(仄聞するところだと、この江ノ島灯台は今は跡形無いらしい。)
 まったく偶然に、私はその日、こんな写真を撮り集める目的で、鎌倉周辺をうろついていたのだ。かんかん照りの夏だった。

 16ページの下の写真もみてくれ。これは同日正午頃の磯子の空模様である。私は江ノ島からすぐ磯子へ移動した次第だ。もちろん私の移動手段は電車とバスと徒歩に限られた。磯子の舗装面からの照り返しがものすごかった。28ページで「墓標と見紛う大煙突」と書いているのは、この電源開発の200m煙突のことである。
 これを撮影して、私はバスと電車で帰宅した。アパートはまだ文京区内であったかもしれず、もう横浜に引っ越したあとだったかもしれぬ。

 その夕刻過ぎからだったか、京浜地方を大雷雨が通過した。その同日深夜であったか、もう正確な時刻も覚えてないが、私のアパートのFAX電話が鳴ったので出ると、文藝春秋社の飯窪さんから、「江藤先生がお亡くなりになった。それがどうも自殺らしい」と、抑えた声で伝えられた。

 それから私は今日まで、一つのことだけが気になってしょうがないのである。
 それを書く。

 先生の奥様のご不幸のあと、私は麹町のPHPビルの勉強会で先生にお目にかかって愕然とした。奥様に先立たれた直後の先生は呆然としてはおられたがご健康体と見えた。ところがPHPビルの会議室で私の右隣に座られた先生は、普通に会話されていながらも「生体」の気配が無いのだ。私の長野の実父が死ぬ前、こんな感じだったかしれぬ。
 とにかく私は先生は死ぬと直観した。(その勉強会に居られた福田氏、中西氏、森本氏らはどう感じられたか、私は興味がない。)
 そこで私は何をやったか。乃木希典論にことよせて、〈漱石の『坑夫』と『こゝろ』をいっしょに読めば、『こゝろ』の「先生」はけっきょく、死ねはしなかった、とわかる〉という小賢しく挑戦的な小文を大急ぎで書き上げ、月刊『発言者』の連載に突っ込んだのだ。私は先生の存命中は先生に恥をかかせぬよう文学への言及をなるだけ控えていた(院生時代も一切議論せず)。その自制を一擲し、江藤先生から生前に評点を頂戴したいと念じた。
 〈自分の弟子が今どんな文章を書いているかはモニターすべし〉というのが江藤先生のポリシーで、先生が『発言者』の拙文にまで目を通しておられることは疑いはなかった(そう断じた理由があるが、省く)。問題はその「Kはキテン」という奇襲攻撃気味の文章の載った号を、平成11年7月21日の江藤先生は鎌倉のご自宅で手にされたかどうかだ。定期購読者への郵送タイミングとしてはギリギリひっかかる。が、落掌経路が版元からの直送以外だったとすれば21日には間に合わず、読まれてはいないことになる。

 もし読んでおられたとしたなら、私は先生殺しの下手人かもしれない。
 この恐怖から私は毎年7月には頭を丸刈りにしてきた。だが今年からはやめる。
 この真相が判明しないことは私の救いである。
 しかしこうして書いておく必要だけはあるだろう。なにしろ人の記憶は、あれほど大きかった恐怖も年とともに薄れるようにして、次第次第にあやふやになってしまうらしく思えるからだ。

松岡四郎次郎の後身は三井函館支店長であったと判明

 『新解 函館戦争――幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する』は、金銭的にはたぶん「持ち出し」となる企画ですが、これを苦労して出したことにより、いろいろな方から新情報を教えて貰えるのが嬉しい限りです。

 M船長様からのご教示。
 昭和18年3月刊の、山崎有信・著『幕末秘録』(大道書店)の132ページに、「……館[たて]の新城に向つた。隊長は松岡四郎次郎(前三井函館支店長松岡譲氏)で、一大隊の兵を率ゐて馳せ向つた。」とある。

 この書籍は、榎本といっしょに五稜郭で降服した彰義隊八番隊長の寺沢正明の話を明治3年の寺沢の出牢以後に内山懐天が記事にまとめて「幕末裡面史」として『報知新聞』に掲載したものを、次に明治44年10月以前に山崎有信が増補訂正して、その後に『函館毎日新聞』に連載。そのテキストを、あらためて昭和18年に「幕末秘録」と解題して単行本化したものです。

 寺沢は榎本の開拓使にも雇われたようです。
 わたくし、古本も頂戴しましたので、後日、「読書余論」で摘録をご紹介しましょう。皆さん、お楽しみに。

 (ひょっとして山崎は、「一聯隊」を「レジメント」だと勘違いして「一大隊」に直すという、余計な改竄をしているのかな? これから精読して確かめます。)

 さて、「松岡譲」「三井」「函館」のキーワードで検索したところ、松岡譲は『函館市史』中に数回、登場していることも確かめられます。松岡四郎次郎は、いつのまにか、函館市の顔役の一人におさまっていたのです。それも旧姓を変えもせずに。

 松岡が明治2年に政府軍に投降しなかったことはまちがいないので、四稜郭放棄後に逃亡を続けて、ほとぼりをさましてから、大胆不敵にも、函館港に舞い戻った。三井の支店長ならば外国語もできる。出自が詮索されないはずはないのですが……。まさか地元の誰も「松岡譲=松岡四郎次郎」と気がつかなかったのか、それとも、みんなで黙っていたのか……?

 なんという謎とドラマに満ちた男なのでしょう。
 いずれにせよ、ここまで分かった以上は、これから、郷土史家による調査が急速に進むでしょう。

 なお、夏目漱石の娘と結婚した、作家の松岡譲(1969年まで生きた)とは、同名異人です。念の為。

 M船長さま、まことに有り難うぞんじました。

●「読書余論」 2012年7月25日配信号 の 内容予告

▼ペッカム著、松田tr.『アメリカ独立戦争――知られざる戦い』2002
 8年もの長期戦。資金は無く、凍死者や餓死者を大量に出し、それでも「モラール」の無形の力で大英帝国を投了させた。その感動が従軍フランス人から帝政フランス軍へ伝播し、ナポレオンの新軍隊を産む。日本での研究は、信じられぬほど空白だ。

▼アルフォンス・ドーデー著、桜田tr.『月曜物語』イワブンS34(S11-2版を直した)
 普仏戦争当時のディテール、たとえば個人財産は保護されるが国有財産は掠奪されるという暗黙ルールなどを知ることができるのが貴重。短編小説集としてはおよそ「自然主義」と反対の二流の愛国不自然文学。というかプロイセンに完敗したことで仏人の中に「現代のオレたち懐疑」が行き渡ったので、リアルタイムの若い作家にそれを求めても無理か。いっそう自然な感動を味わってみたい人は辻 昶[とおる]氏訳の児童向『風車小屋だより』に収められている「最後の授業」を薦める。訳者が気を利かすことによって凡作(設定に非常な無理がある)が傑作(設定などどうでもいいと思える)になる例として。

▼『常葉学園短期大学 紀要』1999所収・土屋和男「近代和風別荘における建築主の交友と社会――興津の井上邸と西園寺邸を中心として」

▼『丸』2000-4所収・志賀淑雄(監修)「アメリカ戦略爆撃調査団報告書 源田實大佐審問記録を読む」
 5月号の後編も。

▼横山政司『はじめての太鼓』1999
 能楽・邦楽には「たいこ」と「大鼓(おおつづみ)」とがあり字は近いが形態はまるで別。宮本武蔵を理解するには、どうしても能楽の拍子の基礎語法を調べておく必要があるのだ。

▼亀井忠雄・土屋恵一郎・山中玲子『能楽囃子方五十年』2003
 大鼓(おおつづみ)のベテラン奏者からの聞書き。

▼高桑いづみ『能の囃子と演出』2003
 室町時代の拍子呼称について、とても勉強になります。祭囃子の横笛はもともとリズム楽器であってメロディ楽器ではなかった、とか、言われてみりゃ大納得だ。

▼木村哲人『真空管の伝説』2001-5
 B-29は離陸前に無線の調子確認をするので、サイパン、テニアン、グァムのどこから飛来するか、関東で傍受していればすぐに分かったという。そして、曳航アンテナでワシントンと直接交信しながら単独機が帝都に接近してきたときには「三発目の原爆は東京か!」といろめきたった。ガ島の「集音マイク」の説明は本書の白眉か。

▼米海軍省戦史部『第二次大戦 米国海軍作戦年誌 1939-1945年』S31
 元海軍作戦参謀・富岡定俊が戦後に始めた出版協同社による訳刊企画。大本営海軍部で把握していなかった行方不明艦の運命と、特攻の戦果は、本書をみることで初めて判明した。

▼市川安司『新釈漢文大系 第37巻 近思録』明治書院S50
 『論語』や『孟子』は、古くて難解な五経[ごけい]を理解するための手ほどき書にすぎない。しかし宋代には四書すらすんなりと理解できない。そこで孟子よりもずっと優しい手ほどき書を、朱子が4名の宋儒のテキストからダイジェストしたのが「近思録」。そのなかの程明道の大発見。シナ人は古来、「対概念」で万象を言語化している。その対概念にシナ人の思考は支配されているのだ。また程伊川いわく。第一等を別人にゆずり、しばらくじぶんは第二等をなすと言う者は自棄であると。日本の闇斎学派は伊川の「敬」を実践しただけだとも分かる。

▼(財)史料調査会&富岡定俊『太平洋戦争の諸作戦』S31
 富岡はS21に史料調査会を文部省に認めさせて精力的に活動してきた。
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