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江藤淳は三島由紀夫を認めたのか (2012 暑中インタビュー)

 ※三度目のUpになります。念の為に、これはもう消去しません。わたくしのPCですと「資料庫」にはこれは載っていないのです。「モウズイカ」までは載っているのだが……。不思議ですよね。というわけで、この記事を目にした方は、フルテキストのコピーをとっておいてください。また消えるかもしれません。

U:『●A◆I★』の8月8日売り号に珍しい記事が載りましたね。

H:故・江藤淳の「保守」を解説することによって「ネトウヨ」を叩く――といったおもむきの原稿依頼でしたので苦労しました。なにしろわたしは瀬戸弘幸さんのブログを除けば「ネット右翼」系のウェブサイトは巡覧してないので、ネトウヨの何がそもそもよくないとされているのか、誰が誰をどのように批判しているのか、実態というか背景事情を知らぬわけです。加えて、江藤先生は公人や言論人を批評した人でした。庶民・大衆を批評する必要のない時代に地位を確立した人なのですからね……。それで最初に送った原稿が、担当編集者さんにはどうもご不満であったようでしたので、わたくしは、「また没となる原稿に蝉しぐれ」という駄句を標題にし、「放送形式」にそのテキストをUPする準備をしていました。ところが、けっきょく大筋は変えずに活字にしてくださることになり、まあ逆転決着です。こういう経緯は、初めての経験だったね。まぁこれもあまり言いたくないが、起承転結まで編集者が考えて、このラインの通りに原稿書いてくれって注文したがる、おそれを知らぬ編集者が近年増えてるんじゃないかって気がする。初めに予定コメント脚本ありきのNHKスペシャルみたいなのが、雑誌界で流行ってるんじゃねぇかとね。そんなのに応じちゃう軽々しいライターどもが増えたってことなんでしょう。オレの知らないうちにね。

U:兵頭さんは2ちゃんねるは見ないんですか。

H:まとめ系サイトってありますよね。あれはおもしろいのでTVニュース代わりに巡覧します。あそこには市場メカニズムがちゃんと働いている。左右のしょうもない罵言やコピペはカットされているのでしょう。ああいったまとめ系サイトに残っているようなおもしろ発言が「ネトウヨ」なんだとしたら、わたしは「ネトウヨ」を支持したいね。だって市場から歓迎されてるじゃないか。だからまとめサイトにわざわざ残され、人々によって現に楽しまれているんでしょう。それを悪いものだとは言えないよ。エドマンド・バーク流に考えればね、すべて存在するものには理由がありますよ。つまり、われわれ「活字右翼」の世を動かす力が足らぬから、ギャップ・フィラーの需要があって、供給があるんだと考えるべきだ。そこを反省するのが先。そんなネトウヨをどうこう言う前にオレが批判したいのは、ご承知と思うが、「バカ右翼」(これは宮崎哲弥さんの命名だがじつに適確な表現と思う)ライターの方ですよ。あと、気合だけ入っている、おかしな編集者ね。

U:ネトウヨは江藤淳を正しく評価していると思いますか。

H:オレも今回あらためて学んだことがあって、それは、「インターネットは、まるっきし、図書館の代わりにはなっていない」っていう現状についてですわ。ネットで「江藤淳」「保守」と検索しても、出てくるものは、薄っぺらい片言隻句ばかり。誰もその意味は理解はしてない様子がよく分かりました。あんな世界に1日10時間いりびたったところで、「江藤淳」も「保守」も分かりはしないです。わかったふうな誤解が広まるだけさ。やっぱり図書館ってのは偉大ですなぁ。オレは良い図書館のある神大を偶然に選んだのでラッキーだった。大図書館や専門図書館の集中する東京都内で10年以上も暮らせたことも幸運というしかない。ホント痛感しちょります。そのころに図書館で貯め込んだ知的資産で今、こうして喰ってるようなもんだからね。ちなみに東工大の図書館は残念な施設で、オレの役にはあまり立たなかった。その代わりに都立中央図書館や国会図書館などがあったから、困らなかったのです。

U:「保守」とは何なんですか?

H:それについては参考書は1冊しかないってことを今回、確認できました。エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』。江藤先生も、『保守とは何か』を書くときに、それを参照した痕跡が明瞭ですね。バークはこう言っている、と、ずばり書かれてもいる。ただ、複数ある和訳バージョンのうちどれを参照したかまでは、不明。それ以外には、江藤先生は、何か参考にしたという形跡はないですね。

U:「保守とは感覚」である、とかいうものでしたっけ?

H:バークは「感情」だと書いていた。それを江藤先生は、マルパクじゃ芸がないってんで「感覚」に直したのかもしらんね。……で、その意味、分かります?

U:分からないですね。

H:そうなんだよ。「ああそうですか」で引き下がっちゃダメなんだ。ここは分かりにくいはずなんだ。手短かに言うとですね、イギリスの貴族たちは、とっくの大昔から、王様の権力に対抗して「自由主義」政体を集団的武力でもぎとっていた。その自由をずっと継承してきていた。名誉革命よりも以前からですよ。だから彼らにとって「保守」とは、イコール「自由」であり、守りたいのはあたりまえなんですよ。自由が世襲財産みたいなもんなのよ。革命すら保守であった。名誉革命では貴族も王様も同じ法律で縛られることが確認された。法の下の平等です。これがなかったら自由なんてものも保障されませんからね。逆専制に流れるに決まってるんで。そんな基本のところが、ちっともわからないのが、儒教圏(シナ・朝鮮)の特権大好き連中と、日本の儒教馬鹿(教育勅語奉賛右翼)だ。しかし考えてみれば、英国の自由の伝統は、いかにも英国だけのユニークな地理や歴史の、たまものでしょ。したがって、とてもじゃないがユニバーサルな応用など、できない。英国の外にある他国になんかあてはめられない。フランス人相手に英国インテリのバークが、それをフランス人の好む理詰め式に説教することは不可能だったんです。だから「感情」としておいた。

U:そのイギリス式の保守がどうして日本に輸入できるのですか。

H:明治維新が自由主義革命だったからです。維新を保守することは、五箇条の御誓文の精神を保守することです。それは儒教的不平等を捨て、上下関係しか存在しない独裁親近の儒教圏とは訣別して、法の下の平等に担保された近代的な自由主義をめざすという大方針でした。この五箇条の御誓文の策定に参与したひとたちは「英語スクール」でしたろう。米国人宣教師経由で、英国伝来の自由主義思想が入っていたんです。ところが反動勢力(これには明治天皇ご本人が含まれていたことは『大日本国防史』で説明した)が後から儒教思想全開の「教育勅語」を押し込んだために、明治維新は暗い色調に塗られてしまった。それでも徳川時代よりはずっと自由ですが……。という次第で日本の保守といったってそれはバーク時代の英国人とは違ってまるで「所与」じゃなかったんだから、クリエイトしつつ同時に防衛するという、いばらの道さ。そんなの、楽に説明できるような話ではなかった。江藤先生の生前には、そこまで話は整理できなかったでしょう。というのは江藤先生は若いときに結核のうたがいをもたれたために、官僚となる人生コースをはやばやと諦めている。それをいいことに学生時代に漢学にそっぽを向き、仏文とか英文ばかりやっていたから、儒教そのものに不案内で、儒教の正体というものがおわかりにならなかったのです。そこにはいまひとつの〈突破できない言語空間〉があったかもしれんね。

U:だから三島由紀夫も〈江藤はいまごろ朱子学かよ〉みたいな嘲笑をしていたのですね。

H:漢学教養が無いとズバリ指摘されたことは、江藤先生にとって死ぬまでトラウマだったでしょう。だけど、三島じゃなくたってそんなこと指摘できることのはずなんだけどね。1960年前後は日本の漢学が若いインテリからソッポを向かれた率において、あるいはどん底の時期だったのかもしらん。そうだとしたら、納得できる。三島だけがそれを言えたという事情がね。三島はさいしょ、親の意向で官僚コースを進んだ人ですよ。戦前の官僚は漢文をキッチリ修めてないと採用後に上司から文書作業を任せてもらえませんから、家の伝統でその勉強を強制され、漢学のおさえるべきところはぜんぶおさえていたんでしょうな。で、シナ人も保守の悩みに擬似というか類似の悩みがあった。孔子の主張とは、春秋時代の周のしきたりが人間社会の理想であるから、今の人も全員で全力で墨守しなさい、ってことだった。しかし何百年も経過して、シナの経済は発展し、人口は増え、家族関係も変わり、国家のひろがりは昔と違い、農奴獲得戦争なんてゆるされなくなり、物質にも精神にも社会にも時代の進運がつきものですわな。流れは止められっこない。宋儒(代表は朱熹)も明儒(代表は王陽明)も、いまさら春秋時代に戻れるわけなんてあろうか、ってことはわかってました。経済がとんでもなく発展してたから、いきおい「利」を追求する役人が朝政を牛耳り、それに反発して儒者があらためて「義」を説いた。それは孔子時代にはなかった事態だから、孔子の説からは離れ、いま保守すべき「道」をあらたに定義し説明しなければならないという大ジレンマに彼らは直面して、彼らなりのロジックを洗練した。三島はとっくにその跡を辿ったことがあったから、いまさら朱子学とかちゃんちゃらおかしかったはずです。

U:三島さんが楯の会をつくったのが1968年で、市ヶ谷駐屯地突入が1970年でしたかね。

H:きっと貴男の生まれてない時代でしょう。わたしはちょうど1960年生まれですから、長野市立吉田小学校の図書室の壁の高いところに、日本の偉い小説家の肖像写真が横一列に並べられていた中に、三島が含まれていたのを覚えています。「あの写真の人が大騒動を起こしたのか」と、ひとりでひそかに興奮しました。もちろん行動の背景なんかわかりゃしません。

U:江藤淳は楯の会をみて、軍隊ごっこだ、と評したんですか。

H:たしかそうじゃないですか。「ごっこ」という悪口で呼んだ早いケースだったのじゃないでしょうか。まあ、今の軍事オタクが見たって、こりゃ「ごっこ」といわれてもしょうがないわな、と同意するレベルです。今ならば、「アニヲタかよ」みたいなね。これは日本の本当に不思議なところで、とうじなら、まだたくさん生きていた元気の良い旧軍人たちから、武器訓練や戦闘訓練の稽古をつけてもらおうという発想が、左右ともに無かったのですよ。

U:「男塾」がどこにも存在しなかったんですね。

H:そうなんだ。彼ら過激派は、銃も爆弾もけっして用意しませんでした。左なら火炎瓶、右なら日本刀、ただし軍刀術や銃剣術は知らなくて、学生クラブの道場竹刀剣道でね。それで何をしようっていうの? まあ、こんな不可思議きわまる1970年前後の特殊な国民心理構造を分析するのは、別な機会に譲りましょう。ひとつ若い人に注釈をしておかねばならないことは、1969年以前の大学生は、人数的にもまさしく「少数選抜エリート階級」で、このグループだけが将来も日本の運命を決めると思われてた。小林秀雄も江藤先生も、だからその階級だけを相手にしたんだと思うよ。そんな考えがあたりまえに通用した最後の時代に、つまりインテリだけの牙城であったはずの大学が、70年以降すっかり大衆化し、「遊び場化」あるいは「総〈学習院〉化」し、特に語学力が無慚に低下して行くという端境期に、三島は、王陽明に共感したらしい。西郷隆盛は陽明学を実践したんだ、と三島が信じたかどうかは知らないが、王陽明は、ノン・エリートの中にも聖人のタネはあるんだと考えてたので、ノン・エリートや残念な学力の人が大学に進む時代にはマッチしている。

U:江藤淳は、楯の会がもっとホンモノの軍隊っぽかったら、エールを送ったんでしょうか?

H:わからねぇ……。ただひとつ言えそうなことは、江藤先生は、三島の頭の中はよく分かっていると思っていたんだ。三島を評論できるのはじぶんだけだという自信があった。その上での悪口なんですよ。

U:漢学の教養に落差があるけれども、文業については理解をした上で、反対だったということですか?

H:そんな感じです。これは詳しく説明しないと誤解を招くね。東工大の研究室には大きなキャビネット・ロッカーがあって、江藤先生は、大事な手紙をぜんぶその中に保管してあったんですよ。カギがかかってるわけじゃないので、わたしも朝とか夕方や休日に見てやろうと思えばいつでも見放題な状態でしたが、院生当時のわたしは文学なんかにはほとんど興味がなかったので、文人が批評家に宛てた私信なんかコッソリ拝見したところでしょうがないやと思ってました。しかし江藤先生はそんなわたしに向かって、〈その中には三島由紀夫から来た手紙も保管されている〉と何度もおっしゃるんですな。今、思うに、それはどうやら江藤先生にとっては、大自慢の証拠物件であったようです。

U:三島の新作についてのなにかの書評文みたいなのが、三島にえらく気に入られたことがあったんですね。

H:それでしょうな。自分のアレを理解してくれたのはアンタだけだ、みたいなことを、三島はよほど感激したのか、わざわざ私信にしたためて江藤先生に郵送したことがあったようです。で、江藤先生はそれを受け取ったのが、文芸評論家としての、公然のご自慢であった。それで、批評家の役目としては三島の行動をけなすけれども、三島の頭の中は知っているよ、みたいな自信があった。

U:三島があんな行動に走ったのは、小説で勝負できなくなったからだろう、みたいなコメントを、江藤淳は残していませんか?

H:早くから残していますね。三島は文学作品が書けなくなったから死んだのだ、と、わたしのような芸術世界の門外漢に向かってまで、再三、仰った。ということは、それは1970年当時だけでなく、晩年までも江藤先生のご確信だったとみていい。

U:そういう江藤淳も、脳内出血でうまい作文ができなくなって自殺をしているのではありませんか。

H:う~ん。会話には何の不自由もなかったように傍目には見えたんですがね。得意の文章をつくるのには苦しまれるようなことが、あったのかもしれませんね。……すいません、話をまた戻しますよ。60年安保以降、日本の若いインテリたちが、あくまで言論だけで勝負するか、それとも、言論プラス、肉体的・物理的暴力で勝負を仕掛けるかという、分かれ道があったと思うのです。

U:江藤淳は言論だけで日本を変えられると考えてたのですね?

H:晩年はともかく、お若いころはそうだったでしょう。大学生が今より桁違いに少なくて、その少数のインテリだけ覚醒させればいいという時代だったから。その「言論」には、マスメディアだけでなくて、国会議事堂もあったでしょうね。「変える」とは、何を変えるんだということになるでしょう。それは、「1946憲法」なんですよ。あくまで。江藤先生の人生を賭けたゲームで、ぜったいにこいつを倒すんだと、肚をくくって射弾を集中していたボスキャラは、「1946憲法」なのです。みんな、ここが分かってませんよね。言語力が足りないと「1946憲法」を疑うことすらできないのです。これはおかしいという「勘」が働かないという状態。それが「閉ざされた言語空間」。これは一秒でも早く打破して葬り去らねば、日本の天皇制が破壊されてしまい、そこから日本全体も破壊されるんだと、そういう恐れをお持ちであったように思う。だから、早急に「改憲」か「廃憲」を実現してくれそうな国会の新星には常に期待を寄せられた。一時期の小沢一郎に嘱目したのだって、ただ一点、その可能性に賭けたかったのではないか、と、わたしは想像する次第です。

U:小沢に改憲とか廃憲とかは無理でしょう?

H:小沢氏をとりまいていた若い人の中に、誰か有望そうな人でもいたんでしょうかな。いたとして、それが誰だったのかは、私には見当もつきませんし、今となっては、あまり興味も湧かないことです。

U:最晩年の江藤淳は何に期待したんでしょう? 小沢にも、岩手に帰れ、とよびかけましたよね。

H:文筆や議会を通じて日本人を説得することに絶望しかけていたと思える節はあります。小説の新人賞だかの審査員もじぶんから降板してるしね。日本の文運そのものがおちぶれてしまったと、心のなかで歎いておられたのではないでしょうか。日本人の日本語能力が低下したとすれば、それは「1946憲法」の反日毒が日本人の総身に回ってきたからだ。これじゃあもう改憲なんてじぶんが生きているうちには無理らしいと諦めたから『南洲残影』を書いたんでしょう。西郷隆盛に同情・同感するってことは、三島の「軍隊ごっこ」や、陽明学者風の蹶起を、事後承認したのと同じことですね。このことはわたしは、リアルタイムではぜんぜん気付かなかったのです。とにかく私は三島の文章が肌に合わん。どこが面白いのか分かりませぬ。ゆえに、興味が持てないので……。いまだに三島の小説は一作も読み通せてないというザマです。さすがにエッセイはできるだけ読みましたけれどもね。感心したという記憶はありません。しかしそこを棚に上げまして、今は私には、そうだったんだろうな、と思えます。

U:『南洲残影』は、小説としてはなにがやりたいのか不明な作品でしたね。

H:すこしも面白くありません。念のために言えば、もちろん三島の足元にもおよばぬシロモノです。もし無名の新人があんなのを書きあげたとしたなら、どの出版社も真剣に相手なんかしてくれませんよ。資料は二次的なものをごく浅く参照しただけだ。独自の新見解が盛り込まれているというわけでもないし。ただ、三島の焦燥と絶望に、ついに自分は今は同情ができるようになりましたよ、と言いたくて、あんなものを発表したのではなかろうかと、わたしには思えるのです。しかし、あれで企画が通るんだから、文学の世界はユルユルだな。

U:日本人を説得して対米再戦でもしたかったんでしょうか。

H:「1946憲法」をとにかく一秒も早く投げ捨てないと、日本人は言語に於いて不自由になる。狂った言語がつくるバーチャルな牢獄の囚人になって、そのうちリアルな外敵から亡ぼされてしまうんだぞ――というのが江藤先生の危機感です。低能保守にもニューアカ(死語)にもこれはまず分からないところなんだ。まず自由な言語があって、国民の自由があるってことが。「1946憲法」で規定される言語空間は、不自由空間そのものなのですよ。そんな言語の不自由空間をブチ破って自由になるためには、よい「勘」を得るためのよほどの言語力、よい「感情・感覚」を得るための読書量が必要でしょう。ただし、インターネットでは図書館の代用にはならない。だから1日に10時間ネットサーフィンしたところで、「ネトウヨ」や大衆には、じぶんたちが不自由な言語を強制されているんだってことに自分で気付けないのです。それに気付けるだけの素養というか「勘」は、ネット閲覧を通じては得られないのです。

U:「閉ざされた言語空間」……。

H:それですよ。その言葉は覚えてほしい。みんな、鏡張りの座敷牢に入っている。ここに罠があって、それに今じぶんの全身がひっかかっているんだ、っていう自分の問題に、自分で、気付けないまま、歳をとっていく。これが、外国人と売国奴に強制された人工言語の牢屋の怖さ。ネトウヨ界からはあまり「改憲論」や「廃憲論」が出てこないのは、図書館利用の少なさに対応しています。検閲をかいくぐる智恵の限りが尽くされていた戦前の言論からずっと読んで来ないと、彼らの頭の中で、憲法がそんなにも重大なことなんだとは意識できないはずです。言語力がないから、戦後のマック偽憲法の反日毒に気付けず、そうして、マック偽憲法が漫然と放置されて続いていけばいくほど、天皇をいじくって日本の革命防波堤を除去してやろうという外国の策動が有効になり、日本人の言語はいよいよ不自由になるのです。これに三島が焦ったのはさすがというか当然だったし、その三島の焦慮に江藤先生が追い付くのは、いささか遅すぎましたよね。

U:江藤淳は漢文はできなかったが仏文や英文ができて、それで「1946憲法」の害悪を見破ることができたというのは、大したものではないんですか。

H:いわれてみればそうだね。それだけ日本語がおできになったということだね。常人のレベルを超えた日本語力をお持ちだから、認識ができたのだ。江藤先生は、漢文はダメでした。ダメというのは、暗号解読のようにして意味を取っていくことは、漢字と文学の知識を総動員して、できるのだけれども、スラスラと訓読、つまり日本語式に読み下して味わうといったそんなレベルではなかった。おそらく、子どものときから馴染んできたわけでも、青年時代に大好きではまっていたというわけでもない。しかしそれだと漱石評論なんか続けられんから、無理にも勉強をされていたという一現代人でしょう。とうとう作詩はおできにならなかったはずですよ。……もちろんわたしもできゃしませんよ。念のために言うけれども。……今でもいらっしゃるでしょう。とてもじゃないが漢詩を味わえるような漢文の教養もお持ちでないのに無闇に漢詩などを引用して自己演出にこころがける、「文士願望」がよほど強い人が。ああいうのは江藤先生の「悪真似」でしょう。人の悪真似してどうするんだっての。

U:そう考えると、図書館には及ばずながら、インターネットや大規模投稿サイトだって、「閉ざされた言語空間」の打破に確実に寄与するはずでしょう。じっさい、ネットの普及で反日左翼は明らかに退潮していますが。

H:ああ、仰るとおりです。ニューアカで商売ができなくなったのもネットのせいかもね。あれはネットが図書館の代わりになっちまう。ネットがあれば、ニューアカ先生は用済みだから。……ところで、三島と楯の会がやらかしたこととは違ってネット右翼は人の腕を斬ったり首を刎ねたりしてません。左翼のように爆弾も炸裂させていません。他者の悪口を言うとかで一部から嫌われているらしいが、江藤先生が生前、活字でどれだけ無責任に「口撃」されたか、みんな忘れてるのか。江藤先生は、ご自分について何か活字で悪口が書かれたものがあると、どんな低レベルのくだらないものでも、いちいち保存しておられたものです。ブログもソーシャルネットワークもなかった当時、誹謗・脅迫が入り混じるああいう「らくがき攻撃」に事実上反論することを封じられて、ずっと堪えて生きてたことが、どれほどのストレスであったか……。オレにはあんな真似はできねぇ。わたしは自分に関する書き込みなんか読みゃしませんよ。良い影響は受けないって学んだんでね。まあ、あの時代の左翼の江藤タタキと比べていまどきのネット右翼の書き込みなど、おとなしいかわいいものでしょう。

U:ネットの匿名性はどう考えるべきでしょうか。

H:日本人が「閉ざされた言語空間」を打破するのに、匿名リークのできる空間があることが、有益か無益かを考えたら、答えは出るよ。

U:ありがとうございました。

H:どういたしまして。

●「読書余論」 2012年8月25日配信号 の 内容予告

▼ホップネル大将著、陸軍航空部tr.『欧州大戦に於ける独空軍の活躍』大12-5、原1921「空におけるドイツの戦争」
 敗戦後のドイツ人がかなり細かい数値を初めて公表した文献。

▼防研史料 『海軍航空技術廠 廠報』S16-7-1~S16-12-30

▼防研史料『熱地 野戦 及 駐屯建築ノ参考 第二巻』by海軍施設部
 蘭領東印度での防暑ハウス建設の心得集である。今こそ、こういう智恵が必要じゃないですか? 良い図版がついているので、もっと内容を広く知られて欲しいと思うぞ。

▼防研史料 『施設機械一般』by海軍施設本部 S18-11
 おもしろ訳語集だ、これは。

▼一原有常『米國戦時行政論』S18-4
 WWIとかWWIIとかの国家の臨時の危機をのりきるためには、短命な新機関を乱立させて良いけれども、大統領には、省庁を強制的に統合してしまえるくらいの権限を議会が与えなければならない。独裁というもののリアリズムを知りたい人には好個の参考書ではないか。

▼竹村文祥『対空防衛 空襲』S16-9
 専らイペリットとルイサイトの空襲を想定していたことが知れる。おそるべし、戦間期。

▼C.M.バウラ『ライフ人間世界史 第1巻 古代ギリシャ』S41、原1965

▼山岡荘八『海底戦記』S17-11

▼『維新史料 論策 十四』
 刊年不明だが海大がS12に受け入れている。藤森恭助の「海防備論」などがダイジェストで紹介されている。

▼『近代日本思想史講座 IV』筑摩書房、S35
 自我と自由について適宜なまとめ。戦中・戦前には強調できなかった話。

▼後藤朝太郎『支那の田舎めぐり』大14-9

▼『東京外国語大学論集』1984所収・内記良一「初期アラブの兵法について」

▼松本万年ed.『熊本十日記』上・下、M10-2-10刻成
 敬神党騒擾と秋月の乱。

▼綿谷雪・山田忠史ed.『武芸流派大辞典』S44-5
 鎖鎌の流派について注目する。

▼東亜研究所ed.『異民族の支那統治研究 清朝の辺疆統治政策』S19-11

▼入江康平『近世武道文献目録』第一書房1989-2

▼小沼勝衛ed.『世界文化史体系 第19巻 清代のアジヤ』S13

▼長坂金雄ed.『物語東洋史 第9巻 明時代』S13

▼『昭和十六年度 海軍要覧』海軍有終会S16-8pub.

▼『昭和十九年度版 海軍要覧』S19-8
 5000部印刷された。興味深いのは、S17の「大本営海軍部発表」がまちがっていたとしてそれを修正している部分だ。もしこの要覧がS20にも発刊されていたとしたら、台湾沖航空戦の大本営発表は修正されたんだろうか?

▼高桑駒吉『東洋史講座 第三期』S3-2

▼柴田武男『源田實論』思金書房 S46-1

▼『支那文化史体系 第5巻』S15pub.所収・王孝通・著、関未代策tr.「支那商業史」
 「東洋史学」という名の「シナよいしょ学」が大正以降に流行ったのにはそれなりの理由も意義もあった。だが、あたかもシナ史が西洋史と分離されたものと日本人に錯覚させた弊害はなかったか。

▼帆足万里『東潜夫論』原1941-11、1993repr.
 帆足は真淵や宣長に反発しているようだが、そういう自分もイタい提案ばかりしているのである。小人才子の一例。

▼朝永三十郎『近世に於ける「我」の自覚史』原大5、S14repr.
 新カント派のわかりやすい解説。大正時代はこんな表面的な紹介が私立大学でやっとできる程度であった。

▼和田欣之助ed.『禅の公案と問答』S27

▼米国戦略爆撃調査団・著、大井篤&冨永謙吾tr.& ed.『証言記録 太平洋戦史』日本出版共同(株)S29-2-1初版

▼『証言記録 太平洋戦争 作戦の真相』サンケイ新聞出版局S50-10-15pub. 源田實や青木泰二郎(『赤城』艦長)の証言が収められている。

▼『証言記録 太平洋戦争 終戦への決断』サンケイ新聞出版局S50-8-15
 解説は大井篤と冨永謙吾。

▼サンケイ『証言記録 太平洋戦争 開戦の原因』※刊年不明だが1975+?

▼『関東学院大学 工学統合研究所報』1999-1所収・水沢淑子「住環境の魅力を考える――近代における葉山の別荘建築を通して」

▼森 浩一ed.『墓地』1975
 沖縄に亀甲墓と石積みアーチをもちこんだのは南シナ人だが、それは15世紀以降の渡来でしかない。

▼『造園雑誌』H4-3
 別邸の話。

▼関西大学『史泉』1994-3所収・太平正則「明石市の戦災被害――『米国戦略爆撃調査団報告書』」

▼大阪市立大学文学部紀要『人文研究 史学』1987所収・広川禎秀「降伏時の国民意識――米国戦略爆撃調査団報告および面接記録を中心に」

▼『日本建築学会計画系論文報告集』1992-6
 戦前の関東圏の別荘について。明治の政治家の別荘のロケーションにはいろいろと意味があったのだ。

▼『伊藤整全集 21』新潮社S48所収・「近代日本の文学史」
 S33に発表された文章なのでそれ以前の話となる。

▼近藤康信『新釈漢文大系 第13巻 伝習録』H14(初版S36-9)
 いちおう、陽明学と宮本武蔵は何の関係もないということを確かめておきます。

▼ハイデン=リンシュ著、石丸tr.『ヨーロッパのサロン』1998-2、原1992

▼『家族問題と家族法 1』酒井書店、S32
 開拓時代の米国家族はどんなものだったのか。

▼『現代日本思想体系 34』筑摩、1964
 川島武宜の1946中公初出の「日本社会の家族的構成」を収める。山本七平は、川島が「雰囲気」といったのを「空気」と呼び変えたんではないか。

▼台湾総督府民政部殖産課『台湾油田調査報告』M43-3

▼三河昂『ウェーク島の四ヶ年』アスカ出版部(杉並区)S20-11-30pub.
 これは『地獄のX島で~』を書いたときに参考にできなかった資料。内容はすばらしく、『地獄の~』の補完として強くお薦めする次第。サバイバルに興味のある人は必読です。

▼『水交社記事 vol.120』M33-11-3
▼『水交社記事 vol.121』M33-12-9
▼『水交社記事 vol.122』M33-12-30
▼『水交社記事 vol.36』M26-6
 ※水交社記事もぼつぼつ紹介していきます。順不同になります。今回はダムダム弾関係の事実確認を優先。さすが海軍は英国事情を詳しく伝えていたね。

▼ロバート・ギルピン『世界システムの政治経済学』1990
 「大蔵省世界システム研究会」による訳だが日本語がちっとも頭に入らぬ。

▼『吉田茂 その背景と遺産』1982

▼渡辺銕蔵『日本の力』S10-2

▼山崎有信『幕末秘録』大道書店S18-3-18刊
 元彰義隊の寺沢正明からの聞書きを元にしたもので、新聞連載はされたが単行本とはなっていなかった。後半の箱館戦争の部分は、直接体験の話以外はおよそムチャクチャで信用できぬが「これはもしかすると本当だったかも……」と思わせる記述もある。
 福岡県生まれの貧書生で苦学して役人になり、さいごは旭川で弁護士となり彰義隊研究の先鞭をつけた山崎有信。彼の既著には『日露戦役 忠死者 建碑 並 招魂社合祀手続』『野辺地戦争記聞』『天野八郎小伝』『幕末史譚 天野八郎伝』『五稜郭』『護れ傷痍の勇士』などがあるそうで、発行者は山崎本人らしい。
 武田斐三郎の息子で陸軍教授の英一による父の回顧談が附録されており貴重。

▼『偕行社記事 No.202』M32-2
▼『偕行社記事 No.124』M27-1
▼『偕行社記事 No.125』M27-1
▼『偕行社記事 No.128』M27-3
▼『偕行社記事 No.112』M26-7
▼『偕行社記事 No.119』M26-10
▼『偕行社記事 No.122』M26-12
▼『偕行社記事 No.123』M26-12
▼『偕行社記事 No.100』M26-1
▼『偕行社記事 No.105』M26-3
▼『偕行社記事 No.89』M25-7
▼『偕行社記事 No.90』M25-8
▼『偕行社記事 No.91』M25-8
▼『偕行社記事 No.98』M25-12
▼『偕行社記事 No.67』M24-8
▼『偕行社記事 No.72』M24-11
▼『偕行社記事 No.75』M24-12
▼『偕行社記事 No.78』M25-2
▼『偕行社記事 No.80』M25-3
▼『偕行社記事 No.81』M25-3
▼『偕行社記事 No.84』M25-5
▼『偕行社記事 No.87』M25-6
 ※今回から雑誌の偕行社記事(もちろん戦前版)を少しづつご紹介する。順不同でしかもいきなり途中の号からであるが、これはメモ帳の都合による。できるだけ年月はまとめたいがけっきょくバラバラになるであろう。最終的に全冊ご紹介する。間で飛ばされている号は、興味のある記事がなかった号でござる。

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 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)

 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。

 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。

 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
http://www.budotusin.net/yoron.html
 で、タイトルが確認できます。

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sugiyama@budotusin.net
 へどうぞ。