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文庫版の『日本人が知らない軍事学の常識』が発売されました。

 新刊のご案内です。
 草思社さんから『日本人が知らない軍事学の常識』の文庫版が出ました。もう書店に並んでいると思います。

 ハードカバーをお買い求めになっていらっしゃる皆様は、巻末の「付録」だけでも お立ち読みください。面白いと思います。

「読書余論」 2014年10月25日配信号 の 内容予告

▼防研史料 『二式飛行艇搭乗員規定』

▼バーネウィッツ著、上田建洋tr.『探鑛者必携』原1935、S17-6訳刊
 ※日本人の理性の弱点が今も補正されていないことを知るのに、こういう古本くらい適したものはない。この文献は、調達コストを度外視すればタングステンは米国内でも掘れたこと、錫はボリビアその他から持って来られたことを教えてくれる。たしかにFDRは、マレーと蘭印の錫やゴムが欧州における戦争勃発後もできるだけ長く、米国の工場へ安くふんだんに供給されてくれればありがたいと思っていた。だがそれは英国を兵器支援するためにヨリ安価な原料費で済むからであって、米国がそれなしでは戦争もできなくなるほど困り果てるからではなかった。それらの物資はコスト高をしのべば、いくらでも調達ができたものなのだ。ゴムは人造ゴムで代置可能だった。優良資源地域が日本に占領されたところで、米国自身の戦争推進には、影響はなかったのである。しかるに日本国内の開戦派は、シナ奥地に加えてマレーと蘭印を占領しさえすれば米国はゴムや錫やタングステン不足から戦争ができなくなるという都合のよすぎるフィクションの物語をこしらえ、宮中からプロ軍人から庶民にいたるまで、国民をことごとく騙すことができた。それは多くの日本人が、我にのみ好都合なもっともらしい勝利正当化予報に耳を傾けるという小児的理性から進歩できないでいたおかげである。本書は、もし戦前の新聞社に鉱山の専門家が一人でもいれば、そんな開戦誘導宣伝は嘘だと間接的に指摘できたはずであることを立証している。だがそういう人材は日本の新聞界にはおらず、石油や戦略メタルの最も肝腎な情報知識が専門業界人の間だけで共有されていたのである。1935年版に基づくこの本がもう1年早く訳刊できていたなら、日本の運命は変わっただろう。原文のボリュームと不割愛主義から言って、無理な注文なのだが……。

▼櫻井忠温『大将白川』S8-4
 朝鮮人に殺された白川義則(元陸相)の一代記。旧友や元副官らからふんだんに資料の提供を受けて、そのまとめをプロの作家にでも依頼すればいいものを、櫻井が無謀にも筆を執り、こんな散漫な、盛り上がらない伝記があるかというシロモノに仕上げた。遺族も残念だったろう。
 ただしディテールには興味深いものが多かった。兵頭のダイジェストを読んで損はありません。

 張作霖事件についての貴族院の石塚英蔵の質問。「ロシヤ人がやつたやうな小冊子が出てゐるが…若しロシヤ人の仕事であるならば、何を苦んであの交叉点を選びませう? かくの如きはロシヤ人と雖もやる筈がない」。

▼芥川哲士「武器輸出の系譜――泰平組合の誕生まで」S60-9『史学』通巻82所収

▼Hsi-Huey Liang著『The Sino-German Connection――Alexander von Falkenhausen between China and Germany 1900-1941』初版1977、再版1978
 著者はニューヨーク州のヴァッサー女子大の歴史学教授。著者の父 Lone Liang は、1928から1949まで国民党の外交官として駐独。
 アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン(1878~1966)の個人文書集であるファルケンハウゼン・ペーパーズを発掘して初めて駆使し、支那事変勃発前後のドイツ人たちの蒋介石とのかかわりをあきらかにした超労作。
 その第七章から第九章までと、巻末付録の書簡類を兵頭訳でダイジェスト。

 ボフォースの高射砲を輸入しなさいと勧めた一人は、軍事顧問団副官の Friedrich-Adolf Krummacher で、その理由として、ボフォース社はクルップ社から多数の特許を買っているからだと。これが1930のこと。※それらがまわりまわって日本の高性能高射砲や四式戦車や五式戦車の備砲になったわけ。第一次上海事件で鹵獲したのが参考にされて。

 1934-8におけるファルケンハウゼンの認識。ゼークトは、いまから1年以内に日本はソ連と開戦する気だ、と見ている。だから日本は、後背となるシナ国民党とは関係を改善しようとしているところだ。その兆候がすでにある。蒋介石も日本と手打ちするつもりになっているが、国民党の有力領袖たちは皆反日なので、蒋介石はまだその心積もりは秘密にしている。

 1936春に日本軍は河北省に浸透した。これによってファルケンハウゼンのプランは根底から崩れた。黄河を守れなくなった。そこでファルケンハウゼンは堤防を爆破させて、人工的な氾濫洪水を起こして日本軍が一帯を通過できぬようにした。

 1936-12-14にファルケンハウゼンは、次のような提案をした。いわく。
 エリート部隊に戦車旅団をつけてただちに西安へ進軍させるべきだ。戦車旅団は独人ボルクハルトが率いる。さらに、ドイツ式に訓練した83師と87師も。

 1936-5にシナとドイツの通商合意。1億支那ドル相当のドイツ製戦車、迫撃砲、加農砲と、タングステン、亜鉛などの地下資源を交換する。1936-7-25調印。
 1936-7-9に日本の『日日』新聞はすっぱぬいた。この協定には秘密条項があり、シナが第三国(日本)と戦争するとき、ドイツはシナの金属資源とひきかえに兵器を供給するし、また、外国製の兵器をシナが調達できるように助力もすることになったと。

 1937になっても、それ以降も、ドイツ人の顧問団の誰ひとり、シナ軍の秘密を日本側にリークした者は、いなかった。

 ゲッベルスとリッベントロップとカイテルは、親日だった。※なぜなら反英を追求するために日本海軍が必要だから。
 他方、ゲーリングとヒムラーは、反日だった。

 シナ人たちは、揚子江(南京~武漢)は防衛不能と思っているご様子だが、わたしはそうは思わない。
 トルコは、あんな古い大砲で、ダーダネルス海峡を英軍の猛攻から守りぬいたではないか。
 もしシナ人が緒戦から激しく抗戦をしなかったら、列強だって干渉してはくれないのだ。
 日本軍の前進を破砕したあとの、逆襲が不可欠である。これをしないと日本軍は退却しない。この逆襲に成功すれば、列強が介入してくれる。

 WWIの独軍は、ハンニバルのように不自由だったから負けた。もっと参本に集権していたらドイツは勝てたのだ。
 ビスマルクが言った。健全な反論者がいなければ、創れ、と。ただし、無私の愛国者たちに限る。
 警察とジャンダルメリー(警察予備隊)は、内務省の下に置くべし。

▼笠井雅直「明治前期兵器輸入と貿易商社――陸軍工廠との関連において」1987 名古屋大学経済学部『経済科学』34巻4号所収

▼中川清「兵器商社高田商会の軌跡とその周辺」1995-3『軍事史学』30巻4号所収

▼『偕行社記事』第5号(M21)
 「小口径連発銃」by 砲兵会議。※22年式小銃のディテールが議論されている。

▼山崎益吉『横井小楠の社会経済思想』S56-2
 ※S17に山崎正薫『横井小楠伝』(3冊本)と上田庄三郎『横井小楠』が前後して発売されているのには、何か理由があるはずだ。書かれたのはS16のはずで、対米開戦前。なにか、対米戦ムードに対するアンチ宣伝の意味があったのだろうか。

 ワシントンは全アメリカの大統領になったが、その権柄を、賢に譲って子に伝えず。※ワシントンには実子がいなかったことを、福澤諭吉を含むほとんどの日本人は知らなかったようである。

 小楠じしんは45歳で結婚した。武家の二男だったからである。多くの武家の2、3男は生涯独身であり、そのための不行跡も多かった。

 本多利明は、重商主義にいちばん必要なのは船舶で、船舶こそ国家第一の長器・宝貨だと断言した。※これはまさにイギリス人の考え方。利明の種本は英国系だと考えられる。この価値観ゆえに、キャプテンは艦船と運命をともにしろという不文律が、英国から発生しているのだ。

 シナに「済南」という地名があるが、これは「済水」という河の南岸だからである。「済」とは、ととのえるの意味で、もっと具体的には、黄河が氾濫をくりかえすときに、その水量を平均させる機能が、「済水」にはあった。だから農耕にはまことによかったのである。
 「臨済」という地名も、同様。
 この「済」のイメージから、「経済」という用語もできた。

 利明いう。国力は環境に支配されるから、首都は東蝦夷に移すべきである。江戸は中央都市、大坂は南都とする。

 神田孝平の『農商建国弁』にいう。商業を盛んにすれば、政府は商人から税を集めるだけで用が足り、農民は無税になる。さすれば農家は富み、生活が楽だから、いままで耕作しなかったところも耕作しようという者が増える。したがって食品価格は全国的に下がり、皆が益を受けるのだ。
 この逆に、農業から主に税金を集める路線だとどうなるか。誰も農民になろうと考えず、だれも山野を開墾しようとはおもわない。食品価格は高くなり、誰もが貧しい。世の中が進歩すれば、政府が必要とするカネもどんどん増える。しかし、農地というものは際限なくどんどん増えるものじゃない。必然的に国家は弱くなり、外国に敗北するのである。

 福澤は『唐人往来』で言う。青表紙の学者たちが、商売のかけひきを知りもしないくせに、ものしり顔で、何は無用だとか、何が損だとか、害だとか、かれこれ言うのは、商人からみたら、片腹痛いだけだろう。
 ※福澤は「無知の知」を有していた。

 M2の加藤弘之の『交易問答』いわく。天保の飢饉は、外国米の輸入によって難儀を救ったではないか。

 小楠の『富国論』。「富ますを以て先務とすべし」。
 『子爵由利公正伝』いわく。越前藩を改革して、物産をおこしたら、博奕と、托鉢の比丘尼が消えた。盗賊も消えた。若い者が新しい就職口を得たからだ。
 著者いわく。人間を堕落させることにおいて、活計を通利できないことほど大きな理由はほかになかろう。
 慶應あたりは世直し一揆が全国現象だったが、越前だけは1件しか無し。

 元田永孚は、『孟子』を読んだことで儒学を再び気に入るようになり、徂徠の『政談』や蕃山の『集義和書』を捨てた。その前には『韓非子』を読んだが得るところがなかった。

 徂徠は朱子学の体系を崩し、作為の道を示した。それを先王の道という。天道と地道は区別される(朱子学では同一視される)。聖人の道は、功利であったと示唆する。

 朱子学は、周濂渓に始まり、二程(程明道、程伊川)、朱熹によって完成された。天人合一を説き、天理自然の道を示し、作為の入り込む余地がない。

 周濂渓は、大極図説をこしらえた。これ自体は、唯物論的な宇宙生成論。
 そこで生成された万物は、理と気で説明される。理は物質の本性。気は、その物質に差異を生ぜしめるもの。理が先にあり、それを気が、後から変化させるのだとする。

 徂徠は、人間の規範を、自然法則から切り離した。天道と地道を断絶させた。道は、自然法則には左右されない。自動的に天然宇宙がつくって人に与えてくれたりはしない。それは、だから、積極的に人間が、意識して、考えて、創作(作為)するしかないものである。

 そのさい、われわれは何を頼りに考えたらいいか。徂徠は、それは尭と舜の道=先王の道だと言った。
 底意として、今の徳川体制は、先王の道をめざしているので、正しいし価値がある(天皇親政は朱子学的には肯定されようが間違いである)と言いたいわけ。

 小楠の朱子学批判。宋学には、利用厚生の術がない。尭舜三代の偉大な工夫に、行政目標が及んでいない。尭舜三代は、「敬」などの小理屈は知らなかったが、天をおそれる心があって、天帝の命を受けて「天工」したのだ。つまり、山川、草木、鳥獣、貨物を「格物」して、地を開き野を経営し「更生利用」させた。その「天工の実」のおかげで、人民が豊かに、国家が強くなった。
 これにひきかえ、宋儒の「治道」の論には、三代当時にはあった経綸が、ひとかけらもない。だからシナと日本は、今、西洋からこんなに差をつけられてしまったのだ。

 ブリッジメンの『万国地理書』は、林則除の序文付きで、漢訳『海国図志』となり、それを岩瀬忠震が和訳した。

 山路愛山は『日本教会史』で、日本人としてキリスト教に覚醒した筆頭は小楠だとしている。
 新政府の岩倉が、小楠を参与として京都に呼んだ。開国反対派は、小楠がキリスト教を朝廷にダイレクトに注入するだろうと信じた。それで暗殺した。

 五箇条の御誓文は、小楠の『国是三論』『国是七条』の影響下、由利が草起している。
 春嶽は、不平等条約を一方的に破ればいいと考えていたが、慶喜が、取り交わした条約について相手国についてとやかくいうべきではないと反対し、この点では小楠も慶喜に脱帽した。

 『攘夷三策』では「内外の処置に於て己が利栄を謀り姑息因循」する幕府要路の諸有司が今日の事態を招いたと。
 小楠は、開国を以て天地の公道と信じていたのだ。

 長井雅楽の『航海遠略策』。海内一和、軍艦を増やして士気を振起すれば、皇国が一国で、五大州を圧倒するのは簡単である。

 文久2年11月に海舟が小楠を訪ねた。小楠いわく。日本国内の侯伯が一致しなければいけない。開国か鎖国かは瑣末な問題で、その議論は捨てろ。国内で外人を斬っても攘夷にはならない。海軍を盛大にしなければ、日本国の国防はできないのである。ここに着眼する英雄がひとりもいないのが情ない。幕府は、人材をあつめる方法を知らない。人を集めるときは、とにかく、細かいことをとがめたらダメだ。「拵附の刀のさげ緒まで揃」っていなかったら不採用にする、という贅沢な選択をしていてはいけない。外見がみっともないボロ刀であっても、刃の部分が、それなりに切れるならまずOK。まずそいつを採用せよ。そのあとで、「鍔頭」その他を付け足して行けばいいのだ。一人の男がすべてを初めから全部備えていることなど、ないと知れ。

 古代、土を盛って木を植え、それを国境とした。「封」と書いた。シナ三代のとき、帝王が千里四方を公有し、のこりの土地は家臣に与えた。秦代~漢代には郡県制が整ったが、その後、儒教が逆襲し、封建制度こそ上古の治道であり、郡県制度は悪政だということにされた。
 日本はシナを真似して7世紀の大化改新で郡県制をとりいれんとしたが、12世紀後半には封建制が定着した。

▼Stanislaw Lem『MICROWORLDS――Writings on Science Fiction and Fantasy』1984
 レムの担当であった西独の出版人フランツ・ロッテンシュタイナーがセレクトしたオムニバス本。
 父のサミュエル・レムは墺洪帝国軍軍医(内科)だった。
 ロシア軍の捕虜になり、生まれ故郷のレンベルグ(今のLvov)に帰還したときは、ロシア革命の影響がここにも及んできた。
 家系はユダヤ系だったのだが、父はうまく偽書類を準備して、一家はゲットー行きをまぬがれる。
 ドイツ軍は非ユダヤのポーランド人の大学教授も、何人も殺した。彼らは深夜にアパートから連行され、どこかで銃殺された。
 ウクライナ警察はドイツ軍の占領補助部隊のようになっていた。

▼『海軍 第10巻 潜水艦 潜水母艦 敷設艦 砲艦』S56
 ※今回は前半部分。潜水艦の途中まで。

 なぜ日本の潜水艦のメッカは横須賀ではなく瀬戸内海になったか。それは、冬季の東京湾は、乾舷ゼロの潜水艦の訓練には、風波が高すぎたのである。瀬戸内海で訓練するために、すべて呉鎮守府に集めることにしたのだ。

 揚子江には、各国とも、1900頃から河用砲艦を常駐させた。外交装備なので無線が備わり、居住性を重視し、長期単独行動ができねばならなかった。浅吃水が絶対条件だが、三峡を遡行するには16ノットを出せないといけなかった。このため艦尾底はトンネル式またはリセス式としてスクリューが川底を擦らないようにしてあった。
 外交折衝に任ずる必要があるので、艦長も少佐とし、軍艦扱いとしたのである。

 ホーランドが出井謙治にくれた青写真を頼りに潜水艦を建造することを引き受けてくれたのは、松方幸次郎だった。松方はホーランドと直接交渉。製造主任として技師1人が来日したものの、その技術が十分でないので中途で解雇して、日本人の手だけで1年半かけて竣工させた。

 ドイツ戦利潜水艦は半年かけて7隻が回航された。敗戦時にドイツが残した潜水艦は140隻以上もあった。
 7隻は研究実験ののち、大10-6に、各国との協定にもとづいて、解体廃棄された。

 S4頃、日本海軍としては潜水艦に敵艦隊の「監視」および「追躡触接」を期待するようになった。この監視をぬかりなくするにはどうしても飛行機に頼るしかない。といっても基地から飛ばしては届かぬから、潜水艦から飛ばすことにしたのである。

 南方離島の航空基地防禦用として試作されたのが「第71号」潜水艦。排水量200トン。乗員13名。
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 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)

 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。

 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。

 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
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