update:2010/12/11
2010-12-1 函館基地と掃海艇『ゆげしま』見学

(兵頭 二十八 先生 より)
ごあいさつ
 小生、2002末から函館市内に暮らしているが、いままで、地元の海上自衛隊の基地を見学したことが一度もなかった。なぜかこの基地は、一般公開のイベントをしないようだった(夏の花火大会のときに敷地公開しているのだけれども、あまりの人ごみなので、ためらってしまっていた)。
 いつも外から掃海艇を眺めるだけだった(掃海隊の埠頭は民間や水産庁などと共用なので艦尾のすぐ近くまで近寄れる)。が、このたび、大湊基地の広報の方々や井上公司先生のおとりはからいによって、2隻所在する同型の掃海艇のうちの1隻、『ゆげしま』の中を見学する機会を得た。
 函館基地隊司令の畑中1佐、第45掃海隊司令の山本2佐、艇長の関1尉、そのほか皆々様のご好意に、深謝もうしあげます。

 さて掃海艇の一般公開が難しい理由は単純であった。いつも訓練で出払っているため、港でゆっくりしている日は稀だからなのである。
 第45掃海隊の受け持ち海域は青森県以北、北方領土の境界までだ。そこを、たった2ハイだけでやりくりせねばならないのだ。(かつては6隻体制であった。朝鮮戦争の浮流機雷が減るとともに、隻数も減らされてきた次第。)

 訓練は年に4回ある。ホンモノの機雷を爆破処理する訓練は、片道1週間かかる硫黄島(同島には港がないので父島で給養。もちろん掃海母艦も同行しないと、艇には造水機が備わってないので3日で干上がってしまう)で年1回。
 その他に、九州近海で、模擬機雷を使った訓練が年に3回あるという。これも、長旅だ。

 写真が少ないことについて、お詫びしなければならない。いつもはこういう見学は複数人でするから、一人だけ「群」から離れ、アルバム構成に必要なあれやこれやの写真を気儘に撮り溜めることもできる。ところが今回は、わたし一人だけの訪問だったから、説明に耳を傾けるのと、写真を撮るのとが、両立すべくもなかったのだ。
 しっかりと送迎されてしまうから、埠頭を怪しくうろついて、艇の全景を収めるチャンスもありゃしなかった。スイマセン。

記念写真

 『ゆげしま』の武装は、両肩をつけて人力でコントロールする20ミリ・ガトリング×1(小生の背後に隠れてしまっている)と、あとは「機雷処分具」という名の有線水中ロボットが投下する小型爆雷(この諸元は秘密のようであった)だけである。
 昔の掃海艇には、単銃身の20ミリ機銃が載っていた。繋維索を切断して浮上させた機雷を爆破処分するのには、その20ミリの1弾が当たれば十分である(岩国のヘリ隊による掃海の場合は、索を切って浮かせたあとで、ダイバーが吊り降ろされて水面におもむき、機雷に爆薬を貼り付けて処分せねばならないという。掃海ヘリには機関砲がついていないからだ)。
 ではなぜ、単銃身の20ミリでは不足であり、6銃身のガトリング(サイクルレートは450発/分)とする必要があるのだろう?
 長年、不思議に思っていたが、今回、答えを知ることができた。艇が揺れるからなのである。
 490トン程度のコンパクトな木造艦は、けっこうグラグラ揺れる。かつまた機関砲には自動スタビライザもついていない。ために、狙って放ったタマが、思ったより散らばるらしいのだ。それでサイクルレートを大きくする必要があるとのことだった。
 とうぜん、甲板がそんなに揺れるとすれば、対空射撃だって、単銃身では満足に当てられないわけだね。
弁天台場の名の由来
 海自の函館基地の所在地を説明するためには、明治2年の箱館湾海戦の案内からせにゃならぬ。
 ここは市営路面電車の終点「どつく前」の目と鼻の先で、厳島神社という。
 だが、本来は「弁(財)天」社だ。江戸時代前半から続いているのだが、明治政府がとつぜんに神仏分離の命令を出したために、神仏習合時代に弁天さまとは近縁であった厳島の末社に、その名称を変更せざるを得なかったようだ。こういう例は全国にあるだろう。もちろん、明治2年の箱館湾海戦時点では、まだ弁天神社だ。
 箱館港(箱館湾内で最も風波をうけないところ)に出入りした江戸時代の船乗りは、皆、この弁天さまを拝んで通ったはずである。
 たとえばこの鳥居は、天保6年に加賀の廻船業者が寄進したもの。神社の場所は、江戸時代以降、埋め立て工事が逐次的に進んで波打ち際から遠くなってしまったことや、あるいは大火事が何度もあったために、幾度か変わっているようだが、現在地には慶應2年からあるという。すなわち箱館戦争時もここにあった。
 この弁天神社があるがゆえに、この一帯の土地を弁天町あるいは弁天岬といい、その沖に武田斐三郎が築造した近代大要塞を「弁天台場」と呼んだのである(文久3年完成)。
弁天神社の92式7.7ミリ機銃 九二式七粍七機銃
 なぜか境内の古い大きな碇の脇に、旧海軍の92式7・7mm機銃の残骸が……。このあたり、WWII中は函館山要塞の陸軍(重砲兵聯隊)とは別に、海軍が視発機雷などを管制して守備していたようなので、その遺物なのかもしれない。
弥生坂を下から見上げる
 正面に見えるのは函館山で、写真手前側が箱館港の旧「沖ノ口番所」跡である。沖ノ口番所では、箱館港から出港する船舶から税金をとった。そこが、港の外縁という位置付けだったのだ。
咬菜園跡から弥生坂を俯瞰
 弥生坂を登ったところに「咬菜園跡」がある。安政4年に豪商が庭園をひらき、武田斐三郎が「粗食」を意味した「咬菜」の名をつけたのだったが、箱館戦争中にはちょくちょくここで酒食の会が催されているから、名称とは逆に、こじゃれた和風レストランなどが併設されて、「経費族」や大商人たちが贔屓にし、賑わっていたのだろう。
 拡大すれば、海上保安庁の巡視船が見えるだろう。その左側に「函館どつく」がある。「弁天台場」を更地にして、埋め立て地を拡張したものである。海上自衛隊は、画面のフレーム外、ずっと右側にある。
元町公園から基坂を俯瞰
 手前の背中向きの銅像は、ここに上陸したこともある提督ペリー。一帯には、15世紀に松前氏の祖先が「ウスケシ河野館[だて]」を築き、19世紀に幕府直轄となるや箱館奉行所とされた。そこが港の一等地であった証明として、坂道の向かい側は旧英国領事館である(世界中どこへ行っても英国大使館は良い土地を確保している)。
 明治2年に徳川脱籍軍の幹部・永井玄蕃が弁天台場へ籠る直前には、この辺に陣していたと思しい。このすぐ下の土地には、安政3年に「諸術調所」ができて武田斐三郎が教えていた。
 そして坂の突き当りが海上自衛隊の隊舎。昭和40年代に、古い「函館税関(箱館運上所)」の木造ビルを取り壊し、最低予算で味も素っ気もない鉄筋ビルが建った。
旧運上所の遺跡 旧運上所の遺構
 函館税関は近代日本最古の税関の一つで、港の正面、大町の顔として、木造ながら凝った建物であった。壊すのが惜しまれた石製の遺構は、記念に残されている。たとえばこの外柵柱。自衛隊のブロック塀の裏側に、こんなふうに「保存」されているわけだ。またこの駐車場のアスファルトの下には、明治時代の石畳がそのまま埋まっているともいう。
明治天皇上陸地 函館基地から旧地蔵町を望む
 海自の敷地内に、明治天皇が函館行幸のさいに上陸あそばされた斜路が、そっくり保存されている。
 箱館戦争で『回天』が擱座して浮き砲台となったのは、このあたりから左寄りであったはずだ。最後に荒井郁之助と部下たちは、陸側から銃撃されるために大町へは上陸できず、端艇で画面左奥の海岸へ逃れた。その先は千代ヶ岱であり、五稜郭であった。
 画面の右側海面が「内澗」である。
朝鮮戦争時代の浮流機雷
 ソ連軍がウラジオストックから、羅津など北鮮の東海岸にやたらに敷設した機雷の一部は、繋維索が切れて漂流し、裏日本を中心に大量に漂着することになった。その機雷に海岸で子供が手を触れて爆死したという事例もあった。稀には、九州をぐるりと回って関東沖まで流れついた機雷もあった。津軽海峡は2〜4ノットで常に太平洋への潮流があるから、青函連絡船も触雷をおそれて夜間は運休を余儀なくされたものだ。
 ところで、もう今日では「水圧」変化に感応する機雷センサーは使われていないのだという事実を、今回の見学で小生は承知した。ふつうの波の変化にも反応してしまうために、けっきょく実用的ではなかったんだそうである。なるほど、それならばヘリコプター掃海も、磁気と音響の再現に集中すれば可いわけだね。
機雷処分具と艇長関一尉 機雷処分具のビデオカメラ
機雷処分具のライト 機雷処分具の前半
機雷処分具の後半
 有線でビデオをモニターしながらリモコンし、ソナーで機雷を見分け、そこに小型爆雷を投下して処分までしてしまうという三菱重工製の水中ロボットである。正面中央下側の目玉がビデオカメラで、両側の2個は照明だ。黒い大きな窓はソナー。

 最新型のFRP製掃海艇(外側サイズは変わらないのだが、資源枯渇の見込まれるアメリカ松材をFRPに換えたことによって部材が薄くでき、内部空間が増え、それで排水量が増したという。じつは小生、2003年版『自衛隊装備年鑑』しかもっとらんため、それ以上は不詳)では機雷処分具は2個載せて行くという。『ゆげしま』が属する490トンの『うわじま』クラスでは1個である。
 掃海艇は、小回りが効かないとどうしようもないので、やたらにデカくはできない。
 機雷探知のためのソナーは、本艇の底にも大きいのが固定されている。本艇の吃水は2m台なのであるが、このソナーは水面下4m台までも突き出しているという。
 機雷探知用のこれらのソナーは、いま流行の低周波ソナーではない。低周波ソナーでは、小さなものの区別がつかないからだ。海底には金属のゴミもたくさん落ちているから、それでは困ってしまう。低周波ソナーは、あくまで浅海域での潜水艦探知用らしい。
 この他、海底地形を詳しく調べるため、水中を曳航できる深度可変式のサイド・スキャン・ソナーも、本艇は運用することができる。
 水中処分員の人にいわせると、水中ロボットがダイバーの仕事をなくしてしまうことは絶対にないそうだ。

 さて余談だ。510トンの『すがしま』級掃海艇にはバウスラスターが装備されている。騒音源や、帯磁スチール部品が増えてしまうという不利を忍んででもバウスラスターをつけた理由は、掃海作業ではピンポイントの精密操縦が必要になるからである。たとえば豪州海軍の掃海艇では、クルージング用には普通の1軸スクリューを使い、掃海作業中は、出し入れ式の首降りスクリューを3基、船底から突き出すことによって、艇のその場旋回すら可能にしているという。
 つまり小さい割にはハイテクと職人芸がてんこもりされているのが掃海艦艇なのだ。シナ海軍には、このような伝統資産や海軍文化は無い。つまりシナ軍の最大の弱点は、機雷戦なのである。彼らには、掃海はできない。ハイテクの沈底機雷少数と、ローテクの係維機雷多数を沿岸に撒かれたら、シナはおしまいなのだ。それは彼らの経済的チョークポイントであり、戦略的ボトルネックなのだ。このへんが「シナ通」の論筆家にはさっぱり分かっておらず、逆の言説すらよく目にする。機雷を撒かれたらお手上げなのはシナ軍の方である。

 ちなみに海自で機雷を撒けるのは潜水艦と、2隻の専用水上艦と、あとはP-3Cだけということになっている。が、じつは機雷を撒こうと思ったら、プラットフォームは何でも可い。国際条約により、機雷は撒いた国が、あとから処分しなければいけないので、撒いた場所の座標を精密に記録しておくためには、専用の艦が望ましいというだけなのだ。そんな手間はしかし、設定時間が過ぎれば自動的に無力化または自爆する機構を機雷にビルトインしておけば、不要である。
 こうしたピンポイント精密作業の大前提になるのは、精密な航法装置である。わたしは今回初めて知ったのだが、海自の掃海作業ではGPSの他に「デッカ」航法装置を使っているという。デッカで「5cm」の精度が得られるのだという。驚くべき話だ。デッカは長波なのに、本当だろうか?
 調べてみると、漁船や商船用に海保が運営していたデッカ・チェーンは日本では2001-3-1をもって廃止されているのだ。
 海自掃海隊のデッカは、そうした民間向けサービスとは別個のものらしい。なんでも、車両でアンテナを陸上運搬し、高さ数十mのアンテナを沿岸に立てて、その近くで掃海艇が掃海作業をするのだという。いや〜、しりませんでした。(もちろん2003年度版自衛隊装備年鑑には、ひとっこともそんな紹介は載っとりゃせんw)
曳航して係維索を切断するカッター
 ごく小さいもの。まさに職人芸だと実感させられる。これを使う前には索の長さ(=機雷の浅さ)を正確に見極めねばならない。敵は、目標とするわが艦によって、敷設する機雷の深度を変えてくるのだ。つまり、小型舟艇はやりすごし、大型艦船だけ狙うという手が、よく使われるためだ。
 他にもいろいろな設備を見せていただいたが、説明を拝聴しながら写真を撮ることができなかった。スマソ。
 ちなみに、ブリッヂ内には、衝突防止の見張りをちゃんとやっているかどうかをさらに見張る天井監視ビデオの設備(ふつうの護衛艦には取り付けられている)は、ないようにお見受けした。
ゆげしまの士官食堂
 余市の200トン・ミサイル艇は、激動する艇内での調理をかんぜんに諦めており、すべて港から運び込んだ缶メシのようなもので済ませると聞き及ぶが、490トン掃海艇は、蒸気熱を利用するキッチンを有する。
 そこで敢えて「体験喫食」を申し込んだ次第であった。
 この日は水曜日であったが、わざわざ昼のメニューを変更し、海軍カレーを出してくだすった。しかも、普段とは逆に超甘口で……。かたじけなし。
 若い艇長さんのお子さんは幼稚園だという。恥ずかしながら、オレ50歳っすけど、子供、幼稚園っすから。
巳己役海軍戦死碑
 明治2年の旧暦4月から5月にかけて、箱館湾で、当時としてはスペクタキュラーな本格海戦が展開された。この碑は弥生坂を「咬菜園」よりももっと上の、標高80mくらいまでも登った見晴らしのすぐれたところに明治6年12月以前に建てられたようで、官軍の『甲鉄』『朝陽』『春日』『飛龍丸』の全戦死者の姓名が刻まれていると思しい。
 轟沈させられた『朝陽』を除けば、『甲鉄』の死者が『春日』より多いのが目に付く。これは宮古湾海戦での犠牲者もカウントされているからか?
 一層、意外なのは、この碑を信ずるならば、『丁卯』や『陽春』や『豊安丸』その他は、戦死者ゼロだった可能性があることだ。
官軍海軍墓地の墓 官軍海軍関係の墓碑
鹿児島士族の墓 ある鹿児島藩士の墓
 巨大な巳己役海軍戦死碑の脇に3基の小さい墓石も立っている。いずれも鹿児島士族のようで、この墓地の性格が想像できる。
箱館府在住隊の戦死碑
 同じ官軍海軍墓地内に立つこの碑は、明治元年に徳川脱籍軍が鷲ノ木に上陸してきたのを最初に迎え撃って、小銃の性能の悪さと指揮官(清水谷公考・箱館府知事。ただし薩人の参謀がついていた)の無能から惨敗した、幕末入植者の士族の戦死者名が彫られていると思しい。彼らの多くは「八王子同心」の二・三男の子孫で、もともとは幕臣だった。その緒戦をいっしょに戦っている松前藩士や津軽藩士等の他藩の戦死者は顕彰されていないところも興味深い。
市役所横水天宮の大砲 朝陽からサルベージした大砲
 榎本海軍の『蟠龍』のラッキー・ヒットは『朝陽』を轟沈させた。戊辰戦争を通じ、最初で最後の「撃沈」でもあった。水深は小さかったので『朝陽』は後年にサルベージされ、積まれていた古い大砲などは、広範囲に記念品として分配されたようである(大湊基地には『朝陽』の外板にめりこんでいた散弾や釘が記念品として保存されている)。寺社などに寄贈された『朝陽』の大砲のほとんどはWWII中の金属供出の犠牲となって消滅したというが、1門だけ供出をまぬがれたらしいのがコレ。地元の「銀ぎつね」さんのブログ・ページで紹介されていたおかげで、こうしてわたしも写真に収めることができた。

(管理人 より)

函館は良いね。一度行ってみたい場所の一つである。

2010年の12月。現在[兵頭二十八の放送形式]停止中である。
複数の人間が再稼動、或いはまったく違うカタチでの起動に活動されている。
来年は、ネットでの更なる[兵頭二十八]を見れるよう、兵頭ファンとして祈るばかりである。
そして、2011年は更に更にパワーアップした[兵頭二十八]を見れるだろう。
やはりまだまだ兵頭二十八先生から我々は目が離せない。

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