interview with ─── vol.1


管理人:我らが兵頭流軍学開祖兵頭ニ十八先生とはいえ、生まれながらに「軍学者」の肩書きをもっていたわけではない。
小学生の頃もあったし、また編集者であったりした。
 ともかく、「軍学者」の前身である「劇画原作ライター」の頃、何を思い何を考えていたのか───把握してるファンは余程勘の良い人だけではないだろうか?
 それを少しでも解明できる───助けとなる───かもしれない某月、某日のインタビューの記録をここに残す。
 尚、神奈川在住の管理人が函館在住の兵頭先生に一体何処でインタビューをしたのか…など余計な詮索をしないよう希望する。勘の良い人にはわかる筈だ。

創作雑話

兵=兵頭先生
管=管理人


管:脚本書きの修業は簡単でしたか?

兵:最初は手探り、手当たり次第の勉強です。それで、ごく基礎的なところが抜けてしまったりする。たとえば、日本語のシナリオは「タテ書き」でなければいけないんです。常識なのですね。ところが「AK−93」は無謀にも、横書きのワープロ印刷で提出してしまった。受賞の決まった後から、○い○う・○か○先生から「ワシは横書きの日本文はいくら読んでもコマ割りやページ割りのイメージが浮かばんのじゃ。タテ書きにして提出し直せ」と、担当編集者を通じて命じられてしまいましたよ。

管:『○ル○1○』には、無数の原作者が存在するのですね?

兵:私が参入した時点で既に何十人も居られるのだということでした。『○ッ○コ○ッ○』に最初に掲載された作品の最後のページの下の方に、「原作(協力)」としてクレジットされている人こそが、シナリオを持ち込んだか、あるいは担当編集者から依頼されて書いた本人です。そのクレジットは、○イ○社で単行本になったときには、消える。つまり真の原作者には最初の原稿料が一度だけ○学○から支払われ、それでその著作権は買い取られてしまい、あとはどこからも印税等が支払われることはもうありません。

管:それじゃ、小池一夫さんが○い○うプロの脚本部をじきに飛び出して独立されてしまったわけですよね。

兵:これは「創業者利得」として許されているんですよ。このような分業システムを日本で最初に建設されたのが、○い○う先生なのですから。しかも、○学○が日本初の青年誌である『○ッ○コ○ッ○』を創刊するときに、三顧の礼で以て白土三平先生と二枚看板でお迎えしたのが、○い○う先生。それゆえ、○学○は、今でも、一番儲かる単行本を出す権利は、○イ○社に譲っている次第です。もう今後は考えられもしない「慣行」でしょうね。

管:で、兵頭先生がシナリオを書き始めるきっかけが、なぜその『○ル○1○』だったのですか?

兵:某『○車○ガ○ン』はオフセット印刷でして、それにはまず編集部において九州松下製のごく初歩的なDTP機で1ページづつのデータをつくり、それを20分くらいかけて8インチ・フロッピーに落として、それを神保町の、今は跡形もない「写研リスマチック出力センター」というところに持っていき、そこにある何千万円もする出力機で奇麗な文字やケイ線を印画紙上に出してもらわなければならなかった。この電算写植のシートをハサミで切り離し、裏にスプレーのりをぶっかけてトンボを合わせて台紙に貼り……という作業が編集室に帰ると待っているわけですが、印画紙出力にはエラい時間がかかった。1時間以上はザラでした。その間、何をしているか? 
 ちゃんと「写研」には待合室があって、マンガとかお茶が置いてあったのですね。そこで偶然に『○ッ○コ○ッ○』の原作募集が私の目にとまったというわけです。今はこの出力センターもすっかり場所が違ってしまっていると思いますけど、あの待合室で、私の運命はいささか変えられたようなのですよ。

管:シナリオが書けるんだった、小説もできるんじゃないですか?

兵:そう思っている人達が多いようなので強調しておきたいのですが、脚本と小説とは別世界です。たとえばテレビ用脚本でも劇画用脚本でも、ちょっと驚いた表情は決まり文句のように「ハッとして」という卜書きが入ります。「火サス」などの副音声サービスで、このト書きが全部ナレーションされているから、一度聴いてごらんなさい。それがそのエピソード中で何度目であっても、台本上では「ハッとして」でいい。というか、無闇に卜書きのパターンは改めぬ方が、作画家さんにも役者さんにも通じやすくて良いことなんです。歌舞伎の台本はもっとシンプルで、「ト、こなしあって、」のワンパターンで良いんです。じっさいにハッとしてみせるのは役者さんであり、あるいは作画家さんの描くキャラクターなんで。原作段階では必要最小限の指定があればよく、それに役者、監督、作画家が自由に微妙な味付けをするわけです。……ところが!
 これが小説だと、そうではないですよね。役者もしくは作画家さんに代わり、筆者がディテールを全部作って人物に生命を与えねばならなりません。それには、同じ描写フレーズを、一作中で二度使ったら絶対にダメなんです。実人生には同じ繰り返しは無いはずですから、たちまち作品がウソっぽくなる。それに気づかない読み手は、読み手が幼稚だ。もし小説で、人が驚く感じがすべて「ハッとして」などと表現されていたとしたら、どうですか?
 そんなの小説ではない。それで昔から小説家さんたちは、同じ表現を一作品で二度使わずに書けるように、長期間の苦しい修業を積まねばならないんです。近代フランスの小説家に至っては、1頁の中に同じ単語ができるだけ2回出ないように気をつけたともいう。私はそれは当然だろうと思いますよ。だから、小説は誰もが片手間仕事にできる修業じゃありません。
それにもかかわらず、往々にして、脚本家出身で急に思いついて小説を書いてみたといった方々が、十頁の中で同じ形容詞や副詞を十一回連発しているような稚拙な「亜小説」で自己満足されているのです。私にはそれは恥ずかしい。

管:自己基準が高いのですか。

兵:これは最低基準の問題です。「眼高手低」(批評眼のある文人が、自分の高い基準を満足させ得ぬ自分の創作物に逐一チェックを入れてしまい、筆の進みが最初から全く止まってしまっている状態)とは違いますよ。

管:『ヘクトパスカルズ』の最終回はどうされるつもりだったのですか?

兵:最後のシーンだけ、早くからイメージしていました。−−歩いてきた風間の足先に水溜まりがある。その中に空と雲が反映している。風間は、『子供の頃、水溜りに映った空を踏むと、空に落ちて行きそうで怖かった…』と独りごちながら、靴の爪先をその水面にそっと漬けてみる。どうなるんだろう?
 そこで「チョン」です。−−そこへ到着するまでの「幾山河」は、もちろんいきあたりで工夫するつもりだった。ざんねんながら「季刊」ペースですと、1話に60頁ぐらい頂戴しないければ、大人のドラマは存分に展開し難かったですね。こういう言い訳はプロには許されませんけど。

管:『ヘクトパスカルズ』の登場人物の名前は、兵頭先生が決めたのですか?

兵:主要登場人物については、若い担当編集者様がお好みでお決めになっています。私は、読者が一度見たら忘れられない特徴的な名前、たとえば女の名前を「橋立月見華」と三文字にする−−などいろいろ考えてご提案はしたのですが……。名前は大事なのですよ。ですが、劇画の原作者の権力は小さいものです。それでストレスだらけになります。あの梶原一騎さんですら、自作の全世界をコントロールできたわけではない。印税だって、著者分の最大50%までしか貰えなかったと聞きます。つまり作画家と折半というのが、原作者に与えられるMAXの待遇なのですよ。あんなに貢献してもですよ!
 確かに、作画家さんがもししりあがりさんだったら、『巨人の星』には永久にならぬわけで、作画家さん頼みだという構造は理解できるのですがね。梶原さんが編集者を蹴飛ばして前歯を折ったとか報道されたときには、私も「怖い人なんだなあ」と思っていましたが、いざ自分がその漫画産業の中で原作稼業を体験してからは、「そのくらいで許してやったとは、梶原氏は偉い」と、内心密かに思い直しましたよ。ちなみに前歯を折られた方は、剣道劇画をやたらに愛好する剣道の達人だそうで、ガタイもかなり良い御仁です。私は、含むところは更にありません。念のため。

管:シナリオでは女性登場人物は、姓ではなくて名で表記するのですか?

兵:それが決まり事なんですね。ちなみに、小説でも、読者の覚え易さだけを配慮するならば、男の登場人物は姓が大切で名はどうでもよく、女の場合は逆に、名が大事で姓はどうでもいいのですよ。この原則を常に忠実に実行されるので感心させられてしまう小説家が、山崎豊子先生です。主要な男性の姓は短く、印象的な変な姓だ。名の方は印象希薄な、やっつけです。そして女はちゃんとその逆にしておられるんだ。あと、劇画のシナリオで苦労するのは、外人の名前です。カタカナとしたときに文字数の多い姓名は、フキダシの中をうるさしてしまうので、マンガでは不都合のように思います。ですから私は、短い毛唐の姓を見聞きするたびに「これは、いつか使える」とメモをとり、HDにたくさんストックしていたものです。

管:国籍や人種による名前の違いも、考慮されるのでしょうね?

兵:もちろんです。私はバイトでプルーフ・リーディング(校正)をやっていたときに、中公の『C☆ノベルズ』とかいう子供じみた“if戦記”を何冊も回されましたけども、毛唐の命名の原則が分ってない作者が多かったですね。たとえばロシア人の姓には、男の姓と女の姓とがあるのです。これは古代ローマ人以来の伝統。「ア」音で終る姓だと、女の姓になってしまうのですよ。「クルニコフ」なら男だ。その娘は必ず「クルニコヴァ」です。代表的ポーランド姓では「〜スキー」が、「〜スカヤ」になる。例外もありますけど、そういう例外を大衆向けの小説に用いたらいかんでしょう。

管:名前がキャラを反映することは、フィクション創作では必要ですか?

兵:江戸時代に愛読された支那小説の難しい術語で、「名詮自称[みょうせんじしょう]」といいますが、絶対に必要です。読者はヒマではない。読者に手間暇をかけさせたらダメです。それには、名前がキャラを反映するのが基本的に正しいサーヴィスになるはずです。

管:ノンフィクションのご著作では、「です・ます」調と、「だ・である」調のどちらでも書かれていますが……?

兵:私はまだ四十代ですから、敢えて自分の文体を固定する必要はない。いろんな一人称も使い分けて、遊んでいるだけですよ。

管:『「戦争と経済」のカラクリがわかる本』では「僕」を初めて用いておられますね。前例がないので、すこし驚いたのですが。

兵:これは、直前の作である『沈没ニッポン』が発売直後の売れペースとして芳しくなかったため、同じフォーマットだと企画会議でハネられそうでしたから、急遽、トーンが違って見えるよう工作した苦肉の結果です。ちなみに、これは過去にどこかで書いたと思いますが、江戸時代の儒学者は「僕」という一人称を好んで使ったのです。そして「私」は絶対に使いませんでした。なぜかというと、漢文では「私」には悪い意味しかないんですね。ひらがなで「わたくし」とすれば問題はなくなりますが、「こいつは能無しなものだから、すこしでも原稿用紙のマス目を多く埋めようとして“わたくし”などと表記しているんだ」と思われるのが小癪ですから、いろいろと取り混ぜることにしているのです。ただそれだけ。

管:1995年の『日本の陸軍歩兵兵器』というエポックメイキングな金字塔の執筆動機を、少しお話しくださいませんか?
 劇画原作から、ふたたび「造兵史」研究に復帰されるきっかけとなった一冊であると思いますが、単に劇画では喰えないから、認められないから、という動機からでは、こんなものは書けないと思います。

兵:あれですか……。あれは、もう故人となられた畏友・宗像和広さんのお導きなのですよ。私が『戦マ』退社後もお付き合いをさせていただいていた宗像さんから、ある日、電話があった。そして、十四年式拳銃と九四式拳銃をどう評価するか−−という質疑応答になったんです。どうも、宗像さんはその頃に既にあの「泰平組合カタログ」を入手されていて、それを元に何かを書こうとされていたのではないかと思われます。

管:並木書房から1999年に刊行されている『日本陸軍兵器資料集』が、その宗像さんの最終決算報告書になったのですよね?

兵:ええ。私は、中学時代から自衛隊入隊前まではモデルガン一般には強い興味を持っていました。あの『X島』の表紙に起用したN君の影響でね。新聞配達のバイトをして最初に買い求めたのがハドソンのモーゼル大型で、死んだ親父に頼んでそのバレルにドリルで穴を……いや、そんな話はどうでもいいんですが、とにかく陸自で本物のライフルの「銃撃」がそんなに楽しくないということを知ってしまってから、この分野には冷めていたのです。それが、郡山に帰郷されてしまった宗像さんのため、「オレが国会図書館に数日通えば、こんなに新事実が分るんだぜ」というリサーチ能力を見せつけたいという稚気が勃然と湧き上がってしまった。そして、ちょっと調査してみた結果が、図らずも運良く、あの『日本の陸軍歩兵兵器』に結実致しました。ですから、私は依頼主である宗像さんを出し抜いたような形ともなったのですけれども、宗像さんはそれについてヘソを曲げるようなことはなかった。これを回顧するだに、有難い。あの1冊が出なければ、そして売れなければ、3冊目の『日本の防衛力再考』も無いでしょう。だから恩人ですね。合掌致すのみです。

管:つまり、兵頭二十八が単行本を年に何冊も書くようになったきっかけが、そもそも宗像さんなのでしたか。

兵:振り返れば、そう言えるのですよ。彼がいなかったら、私の「調査」はスタートしていません。ひょっとしたら、いまだに売れない劇画原作者のままでいたかもしれないんです。まだ浜松でインターネットもやらず、くすぶっている、ながい・みちのり氏のようにね。……オット、これは失言だ。

管:でも、ミリタリー系の出版業界に、E先生の口添え無しに独自に食い込んだのは、「財産」ですよね。

兵:一つの「足場」となりますからね。夜逃げされたり倒産されちゃったりすると、さすがに困っちゃいますけど、それまでに、少なくとも人脈は拡げられます。出版界は本当にフェイス・トゥ・フェイスの人脈図だけで動くしかないところなんで……。それと「運」ですね。東工大のE先生の研究室がいよいよ解散となるとき−−といっても私と先生の二人しか構成員は居ないんですが−−、先生が私に、2年間の「放任教育」の感想を求められた。どうも先生は、私を院生のうちに「論壇デビュー」させ得ずに慶應に移っていくことを自分で気に病んでおられるなぁと私は察したので、「私くらい幸運な人間はいないと思います」と、私は本心をお話し申し上げました。そして研究室内の最後の片付けを済ませて板橋区に引っ越す前日、ドア前に吊るされた連絡用の小さな黒板に「あとはご心配なく」とカッコ良い置き台詞を白墨で書きなぐって、去ったのです。その後もかなり「ご心配」はおかけした模様ですけどね。トホホ……。

管:もっと以前の話ですが、神奈川大学時代に『世界日報』という新聞に寄稿されていたというのは、どういう意味ですか?
 あれは「勝共連合」じゃないですか?

兵:ああそうでしょう。文鮮明でしょう。渋谷に編集部があるのですよ。今は知りませんけどね。昔は渋谷の大交差点から、でっかい看板が見えましたよ。当時、大新聞は、祭日を選んで「一斉休刊日」を設けていた。これは今もそうか。でも、『世界日報』は、そんな日にも出していた。街角のスタンドに置いてあるのですね。それを買ってから、注目するようになりました。とにかく「ライト」なのですよ。“R”の方。支那事変の敵前渡河演習で煙幕を使っている珍しくもない写真を、朝日かどこかで「毒ガスの写真を発掘!」とかでっちあげようとしたときに、「これは煙幕だろ」と旧軍の人が『世界日報』の上でズバリ指摘して収めたことがありました。旧軍と自衛隊にフレンドリーで、明白に「反ソ」でしたから、これは元自衛官として支持せんわけにはいかなかった。それである日投稿してみたら、すぐ載りましてね。載っただけじゃない。「面白いからもっと書いて下さい。同じ人ばかり立て続けではマズイから、ペンネームも使ってください」ときた。それで勢いづき、すごい日には、大枠のコラムと、投書欄と、テレビ批評欄とに、同時に3本の原稿が別々の名で掲載されたこともありますよ。それに全部、稿料を送ってくれた。「郵便為替」ってやつでね。この体験が私に『オレはいつか、フリーライターでも食えるのではないか』との予感を持たせたのです。それで、大学図書館の図書分類番号の000から999まで全部ランダムに読んでみる、という、自分に課していた「ライター修業」にも、一層の気合いを入れ直したもんですよ。

管:影響力はあったんでしょうか?
 誰か、注目してくれましたか?

兵:あえて断言しますが、岡崎久彦さんは確実に読んでいたと思う。「中国の台所にある包丁の数を数えたら、人類は何回殺されることになるのか」という、私が『世界日報』への投稿で初めて使った核戦略に関するレトリックを、岡崎さんはどこかでお使いになったことがあったと記憶します。「反ソ」の新聞だから、元駐モスクワ大使の人とかが常連で寄稿していて、おそらくそっちの興味から目を通されていたのかなと想像致しております。

管:その「稼ぎ」の場を、どうして2年くらいで離れられてしまったんですか?

兵:阿呆なんですよ。こんなに紙面を面白くしてやったこの私を、あの編集部は、連中の宗教にひきずりこもうとしたのです。既に「権力とは何か」を人類史的に一から考察していた私が、新興宗教の教義体系に共感するわけがないでしょう。「いいかげんにしろ!」でしたよ。きっかけはですね、「政府は対外援助なんかやめろ」という原稿を送ったことでした。これにどうしたわけか編集部が大反発して、「そんな考えではいけません。あなたは宗教に入りなさい」と求めてきたんですね。もちろん原稿は没ですよ。それで思い出すのは、神大の2年生のときと思うが、日本外交協会主催の外交フォーラムとかいうところで学生の論文コンテストの1次に通った。これもカネが目当てでね。ただし、外務省庁舎内で開かれる、1次に通った学生同士の2次の討議会で評価をされないと、ケチな賞品だけで、カネまでは貰えないのです。オレの配置された討議グループは、草柳大蔵さんが司会兼審査員でね。そこでオレはまた「政府は対外援助なんかやめて、その予算はぜ〜んぶ自衛隊の増強に回し、ソ連を早く打倒すべきだ」と主張した。総スカンでしたよ。周りは全部東大3〜4年生でね。
 「増達」とかいう若僧がいたのを覚えているが、確か、そのご外務省にお入りになり、今は岩手から自由党の代議士様じゃねえのかな?
 まあ兎も角、これはカネは取り損ねたなと、チャイナスクールもろ出しな現役官僚の講演を聴いてるうち、悟れたので、私は2時間後の結果発表も待たずにサッサと横浜の下宿に引き揚げてきてしまいました。そしたらあとでその外交協会様が、「あなたは××日……」という勿体つけた書き出しで、賞品があるから霞が関まで取りに来いという手紙を下宿へ寄越しやがった。こんな手紙を書いてる暇に、宅配便で送りゃ済むことだろう。その賞品とやらは、いまだに手にしておりません。草柳さんにはその後、『日本海軍の爆弾』をお贈りしたら、「こんなふうにして事実は少しづつ解明されていくのですね」という礼状を頂戴しましたけども、残念ながら2002年7月に逝去されましたな。

管:まだお尋ねしたいこともありますが、今日はこのへんで、まとめてみようと思います。 本当にありがとうございました。

おしまい


戻る