日露戦争講演

up date 2004/4/2


爆弾のはなし


『孫子』は、敵を知ると同時に己れを知れと説いております。

 有坂成章は、日本の町工場の技術水準というものが分っておりましたから、それに合わせて信管と砲弾を設計し発注いたしまして、日露戦争を勝利に導きました。


 それから、村田経芳は、日本の工業では西洋のようなバネはつくれないだろうと予測を致しまして火縄銃のバネを使って村田銃を完成致します。この予測は恐ろしく当りまして、後に陸軍も海軍もドイツの飛行機用のサイクルレートが高い機関銃をコピー生産しようとするのですが、国産バネの品質がネックとなって失敗しております。


 しかし堀越二郎さんを筆頭といたします日本の航空関係者には、自分が生きている時代の日本工業の実力が見通せていなかった節がある。高性能の機械を一つつくるのと一万個つくるのとは別な世界の話なのです。そこを考えずに身の程知らずに闇雲にアメリカやドイツの真似をして負けてしまっているところが、調べれば調べるほど、まことに情けないのであります。


 ところが、そんな昭和の航空界にも、日本の工業水準がいかなるものか、それを基として組み立てられる最も合理的な作戦とは何か、ちゃんと考えた人間もいました。

 もとより一人だけというのではございませんが、ここでは一人だけ、大西瀧次郎中将を、挙げておこうと思います。

 大西さんは肖像写真がいかにも押しの強そうな熱血派。しかも普通にしていても憎体なところが見てとれますから、これに「特攻長官」などというあだ名が奉られてしまいますと、もういけません。どこから見てもカミガカリの精神主義者だったという評判が固定してしまいます。

 確かに彼は海軍の砲熕、つまり大砲ですね、これと、水雷、つまり魚雷ですが、こうした既成のセクションからは、甚だしく恨まれる立場にあった。時に感情的に対立したこともあるだろうと思われます。

 というのは、砲熕と水雷は海軍の中でも非常に古い艦政本部のナワバリですが、大西は航空本部の若手の幹部としていちばん元気の良い年代を過ごしている。

 あるいは戦史通の人にも少し誤解があるかと存じますが、海軍の飛行機が投下する魚雷、これは、航空本部が百パーセント仕切っていた訳ではございませんでした。


 もちろん、航空本部というものができましてからは、その中に航空魚雷のセクションもあるのですが、もともと魚雷は軍艦のものでしたから、その航空魚雷の開発も実態としては古い艦政本部の人脈頼みなのですね。それで事の勢いと致しまして、純粋な航空本部の人脈に属する若い大西などは、魚雷よりも航空爆弾で敵艦隊をやっつけられることを証明しようとするわけです。


 ちなみにこの日本海軍の魚雷、たしかに複雑な機械ではありましたが、精密な機械ではありませんでした。やはり一本一本が手作りで調整されております。家内制手工業でありまして、精密工業とは関係がないのです。

 ですから、有名な酸素魚雷も、進駐軍は実物を持ち帰って分解したらもう用は済んでしまった。「動力が珍しい」という評価です。V2号を造ったフォン・ブラウンのようにアメリカ本国に連行されて働かされた日本の技術者なんてのもいません。アメリカは1945年にホーミング魚雷を実用化していますが、これに比べまして酸素魚雷はべつだん精密兵器ではなかった。V2号のような技術的な価値はなかったのであります。


 潜水艦の艦長などはこの辺をよく弁えておりまして、大手柄を上げた日本の潜水艦長は、95式酸素魚雷ではなくて、89式空気魚雷を発射したものがほとんどです。酸素魚雷は職人芸的な調整が必要でしたが、それは狭い発射室内ではとてもできなかったからです。


 以上は余談ですが、ともかく航空本部の内部で爆弾派と魚雷派の対立の構図がありましたために、昭和17年になりましても、航空母艦の上で魚雷を運んできて取り付けられる台車と、爆弾を運んできてとりつけられる台車が、それぞれまったく別の規格の物が必要でした。

 それから、「97式」などの艦上攻撃機は、魚雷も爆弾も取り付けられますが、その取り付けるフック、これは機体にネジ止めされているのですが、これが爆弾と魚雷とで違うものに交換する必要があった。ネジ止めですから短時間では変えられない。しかも、何度もお話申し上げていますように、戦前の日本の工業は精密なんてことは考えていませんから、ネジの穴の位置が、機体ごとにズレていた。他の機体のフックを間違ってもってきたら、もう、合わないわけです。

 ですから、すでにウェーク島に対する艦載機による攻撃、この時点で、魚雷と爆弾の交換にやたらに時間がかかって危ないじゃないかという問題点が発見されたのですが、急には改めようがない。それで、引き続くセイロン攻撃で冷汗をかき、ミッドウェーでとうとう空母を4隻沈められてしまった。


 この遠因と致しまして、航空本部内の爆弾派でありました大西瀧次郎が艦政本部の系列である魚雷派と協調する気持ちが薄かったという構図は確かにあっただろうと思います。

 しかし、自分の担当でありました航空爆弾と爆撃機に関しましては、大西はこの上ない合理主義精神を発揮しているのです。この辺がまったく誤解されていますので、私は『日本海軍の爆弾』という本を著わしまして旧海軍の爆弾がどのように発達してきたかをできるだけ調べててみました。


 山口多聞少将はミッドウェーのエピソードで人気が高いのですが、この山口さんが支那事変のときには、中攻隊という、陸上から発進する爆撃機の指揮をとっております。

 ご承知のように、日本海軍の陸上攻撃機にしろ、陸軍の重爆撃機にしろ、もともとドイツの旅客機とかアメリカの輸送機などの民間双発機をモデルにしていますから、燃料タンクに銃弾が当ったときに火災が起きないようにする対策、なんてことは設計段階で少しも考えていなかった。

 広い主翼の中がガソリンタンクになっております。

 これを上の方から敵の戦闘機の機関銃弾で撃たれますと、羽根の上には小さな穴しか開きませんが、銃弾がすぐに横転します関係で羽根の下には拳大の穴があく。この大穴からガソリンが吹き出しますから中攻が基地に帰って来れないということになる。情報によればすでに支那軍の戦闘機にはフランス製の20ミリ機銃を積んでいるものがある。これで上から撃たれたら、ますますたまったものではありません。


 さて、後のミッドウェー海戦では、日本海軍のパイロットは百人ちょっとしか死んでいないのですが、この支那事変の中攻隊は、じつに数百人が死んでいるのであります。

 山口提督には、人的・物的な損耗には一向に構わずに強気一点で味方が全滅するまで攻撃を反復させられる、そういう精神の強さが確かにありました。日本の飛行機に防弾がないのは山口さんの責任じゃありませんし、味方が全滅するまで戦える気力があるというのも軍人として得難い長所なのでありますが、ではこういうキャラクターの指揮官に空母機動艦隊まるごとを預けて大丈夫かとなりますれば、海軍の内部でもだいぶ不安があったはずであります。


 で、この支那事変で海軍の96式陸上攻撃機が支那軍の20ミリ機銃を積んだ戦闘機に上から撃たれて未帰還機を連日のように出していた、ちょうどその頃であります。

 内地の航空本部では、次の陸上攻撃機をどうするかという会議がございました。

 ここで、後の「一式陸攻」と呼ばれる有名な双発機の要求仕様が決まるのでありますが、この会議の席に大西瀧次郎も臨んでおりまして、そこで盛んに意見を陳べております。

 いったい彼はそこで何と言っていたか。

 次の中型攻撃機は、主翼内にはガソリンタンクを置かないでくれ、と要求しております。

 これはずっと後にアメリカ陸軍のB-26双発爆撃機などが徹底して実施した方法なのですが、ガソリン・タンクを胴体内だけに置く。

 そうすれば空中でタンクに銃弾が当ったときに、それが火災に進展する危険を最も低く抑えることができるのです。

 後ろからみたタンク部分の投影面積が小さくなりますので防弾板も張れますし、底を二重にしてガソリンが外に吹き出さないようにすることも胴体ならば容易だからです。


 つまり、中国の上空で山口多聞の中攻隊のクルーが何百人も死んでいる。それを何とかしなければいけないと、具体的で合理的な改善策を示したのは大西なのです。それも、B-26にはるか先駆けたものだった。

 ところがこの大西の提案を、飛行機専門家の側が、まるで真面目にはとりあおうとしないのですね。要するに、コピーのモデルであったドイツのユンカース旅客機やアメリカのロッキード輸送機などにはそういう前例がないからです。

 大西も粘り強く要求しています。しかし、結局、飛行機の専門家が黙らせてしまった。そういう会議の模様が、防衛庁の戦史部図書館に記録として残っております。けっきょく1式陸攻は、96式陸攻よりも燃え易い、ほとんど自殺的な軍用機になったのは皆さんもご存じのところです。


 こういう合理的な主張をこの時期にただ一人している大西が、あとあと「特攻キチガイ」と呼ばれるようになりましたのは、私には不審でありました。

 たとえば、こういう批評があります。どうして飛行機をそのまま船に衝突させる必要があっただろうか、アメリカ軍が編み出した、飛行機が低空で爆弾を落して、それを海面で跳躍させながら敵の船にぶつけるという戦法を、日本軍も採用すればよかったではないか、と。


 これなどは、戦前戦中の日本の工業技術の水準が、まるで分っておられない。己を知らずに他を見て歴史を論ずるやじうまの批判なのであります。近現代史におきましては、この種のやじうまの批判が多すぎる。


 大西は航空本部に在任中に、大小数十種類の新型爆弾の開発計画を立てまして、その実用化の推進役でした。

 昭和12、3年のころにその計画を一斉にスタートさせたわけですが、昭和16、7年までに間にあった爆弾もあれば、昭和19年まで何十回実験を重ねても遂にモノにならなかった爆弾もある。

 間に合わなかったのは、日本の工業水準が、用兵側の理想に追い付いていなかったからです。

 その追い付かなさ加減を具体的に一番よく知っていたのが、大西なのです。日本で彼以上に航空爆弾について知っている者はいませんでした。


その大西が、米軍がソロモンで見せた「スキップ・ボミング」という戦法、これを日本海軍もやれないか、検討しなかった筈はありません。

 現に、この反跳爆撃のための爆弾の開発はスタートしております。

 しかし、数回の実験をした段階で、大西には先の見通しが得られたのです。

 まず、米軍の跳躍爆弾は、じつはふつうの爆弾に特殊な信管を附けただけのものなのですが、この方法は、日本では無理であった。

 というのは、米軍の爆弾はニッケルを含む圧延鋼でできていまして、敵の船に爆弾が横腹から衝突しましても、殻が割れてしまうということがない。信管が作動するまで、もちこたえられるのであります。

 ところが、日本海軍の爆弾は、素材の関係から、横向きに衝突した場合には、殻が割れてしまう可能性が高かった。大量の炸薬と申しますものは、起爆のときに、一瞬の間ですが、圧力を閉じ込めていないと、完全に爆発し得ないのです。殻の一部が割れた状態で信管が作動致しましても、炸薬の一部は爆発反応をせずに終ってしまいます。この危険が、日本の爆弾には常にあった。陸軍の爆弾は海軍の爆弾よりもなお素材が悪いものでしたので、対艦攻撃には使ってはならないものでありました。

 しかも、米軍の爆弾は全体が450kgですのに中味の炸薬が250kgもある。これに対して日本の500キロ爆弾の炸薬は220kg。米軍の爆弾より重いのに威力がないのです。これも、殻の素材の悪さを厚さで補っていたためなのでありますが、それに加えまして、秒数の長い時限信管を、まるっきり新規に開発しなければならなかった。


これだけパッと考えましても、大西瀧次郎には、反跳爆弾は資材と人材と時間のすべてが不足しているこの戦争中には遂にモノになるまいと判断できたのであります。

 加えまして、飛行機の性能の差、飛行機の数の差、パイロットの腕の差がありすぎた。 本当に敵を知り己を知る戦術家でありましたならば、スキップ・ボミングを大々的に実施させましても、言うに足る戦果はなく、その生還率も極めて低いと見通せたのであります。

 事実として特別攻撃作戦は、威力の劣る爆弾、性能の劣る航空機、技量未熟なパイロットの組み合せでありましたけれども、一人一殺以上の戦果を上げております。

 しかしこれは何となくそうなったのではない。昔から合理主義者で人命尊重主義者として知られていた大西が考え抜いた末に出した結論であったからこそ、航空機による大々的な特別攻撃作戦は、海軍部内で説得力を持ち得たのではないでしょうか。


 どうもお時間が来たようですから、この辺でお話を終わろうかと存じます。

 (管理人 より)
思えば、兵頭本・兵頭記事集めに加えて、印税がビタ一文も支払われていないというウソかホントかわからない噂のある兵頭講演ビデオまで買った時、「私はこのまま真っ当なコレクターらしく、面白可笑しく人生を棒に振るんだろうか」と思ったものでした。その時の私の感慨を貴方にも味わっていただければ幸いである。

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