update 2005/9/18


2005年9月10日の奥尻島の状況

(兵頭 二十八 先生 より)
 『北の発言』の連載記事の取材で奥尻島に飛んだ。メインの記事にはならぬ雑多な見聞を、この場を借りてお伝えしよう。
写真
(画像をクリックするとジャンプします)
キャプション


 わが浪宅から函館空港までは歩いて行ける。そして空港内でも歩いて飛行機に乗る。エアー北海道の………機種名が気になる人は、各自に調べてください(爆)。灯油の匂いがしたから、レシプロではないだろう。




 松前半島を横断してアーーーーーーッという間に奥尻島へ。画像左端が、島の南端である「青苗地区」なのだが……。



 同じ場所。津波は画像の右からやってきた。平成5年7月のことだ。多額の義捐金と補助金で人々は島内の別な土地に新家屋を建てることができた、中には見栄を張って分不相応な家作にし過ぎ、げんざいヤクザの取り立てを受けている戸主もあるとか聞く。


 
 着陸態勢に入ると、旧滑走路(?)が見える。奥尻空港は地震前はランウェイの長さ800mだったのが、いま1500mに更新工事中で、完成のあかつきにはジェット機が降りるのだという。そんな需要あんの? それともやはり満州を核爆撃する三沢空軍の予備滑走路となるのか?


 
 空港ターミナル。中には何もない。観光案内パネルすらも。この飛行機は霧が出ると止まる。風では止まらない。一方、連絡船は、霧では止まらないが、風=時化で止まる。冬場1週間の欠航で島内から牛乳が消える。ちなみに卵は230円より安いことはなく、ガソリンは本島よりリッター30円は高目。事実上の無医村でもあるから単身赴任の空曹も多い。島内には近年、信号機が1つできた。これは西表島よりもずっと遅いのだ。



 
 地震津波は夜だった。画像左側の赤白の灯台は鉄筋コンクリートなのに根元からポッキリと折れて横倒しになった(灯火は消えなかったという)。今上陛下ならびに皇后陛下はほとんど翌日、すごい早さで被災地御幸をご決心になった。ただし聖上は船酔いされるご体質(というか移動中は景色ではなく壁ばかり眺めて行かねばならぬ窮屈なご身分)ゆえ、当初は自衛隊機にご搭乗あそばされ、それでも途中でダメで引き返し再び船舶に御動座あそばされ、その間、奉迎の自衛官たちはずっと炎天下の堵列(かきねのようにならぶ)を続けた。しかしご還御の折、畏くも皇后陛下は堵列隊員の顔を一人一人視認して歩まれたという。
 写真の人工丘陵は、全滅・全戸移転となった青苗地区にあり、御詠を刻む。
 遠景のスカイラインに空自の第29警戒隊のバッヂ・レーダーと、そこから2kmほど離れた電波傍受施設(いわゆるNSAの日本支処の一つ。運用は空自で隊員は警戒隊と同じ隊舎に寝泊りする)のアンテナが望める。近年逐次に拡張されているという。この面の日米関係は政権と関係なく親密のようだ。



 高台の灯台すらぶっ倒される大津波にも関わらず、青苗岬突端の波打ち際に聳えるこの「威仁[たけひと]親王徳洋記念碑」(高さ18m)は、ビクともせずに残った。これが建てられたのは昭和6年。その50年前、この岬に英海軍の機帆軍艦『アイアン・デューク』号が濃霧のため座礁。同艦には、英国に倣って日本も若い皇族を全員陸海軍将校にするべきなのだとの元勲らの意向の実現第一号として、有栖川宮親王がミドルティーンの若さで見習いとして御乗り組みになっておられ、座礁艦の乗員救援のため現地島民を指揮された。その記念碑である。ちなみに、都立中央図書館がある有栖川公園の銅像は、実兄の熾仁[たるひと]殿下。年齢は27歳も離れていた。


 
 夏場のハイシーズンにやってくる島外のイカレた奴らがこの徳洋記念碑のある汀に卒塔婆モドキやら捨て地蔵のガラクタを寄せ集めて心霊スポットに仕立てようとしていた。冬には跡形もなく日本海の波が流し去るであろうが……。



 営外者の官舎のある宮津と奥尻町を結ぶ、島の北の横断道路。その道路の途中地点から、空自レーダー・サイトのある神威山(標高584.5m)を望む。持参のバカチョンはレンズのキレが悪く、矯正視力1.0ではっきり見えた隊舎やらアンテナやらもほとんど識別もできませんね(笑)

 管理人注:現在、三次元レーダーの古いタイプを新しいタイプに交換する工事をしているとの事で、レドームは1基見えるそうです。

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 島北端の賽の河原という不気味すぎる海浜キャンプ場からも、神威山のレドームが見える。え、分かり辛いって?(爆)


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 島北部の球島山山頂から、南方の神威山を見る。やはり空自基地がよく望める。え、分かり辛いですか?(核爆)

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 奥尻といったらコレといわれる「鍋ツル岩」。地震で剥落した箇所があって、そこをコンクリートでパテのように補修していた。いいのかな〜それで……。
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 空港拡張用の工事車両群の背景に、やはりレーダーと傍受アンテナがよく見えたのである。え、さっぱり分からない?(略)


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 さて、それでは帰ろうか。あっ、また同じ飛行機のようだ。座席は、右側が2列、左側が1列なので、往復ともに同じ側の席を確保するとナイスな遊覧飛行になる。体重+荷物が特に重くない限り、位置は概ねリクエスト可。

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 一番前の窓から振り返るように神威山にカメラを向けてみる。このフレームにバッチリおさまっているのだが、使い捨てカメラの限界で、設備等は識別不能。検閲ではありません。しかしこの真横のプロペラ、もし吹っ飛んできたらこっちはひとたまりもないだろうな。

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 エアー北海道では函館空港から(おそらくこの機体を使って)遊覧飛行も随時やってくれる。しかし今回気付いたのだが、雲の低くない日に奥尻島へ往復飛行すれば、それが遊覧飛行を兼ねることとなるのだ。終始、低空飛行だからである。画像、眼下に見えし五稜郭。旧タワーの横に、高さ2倍の新タワーが建設中。


(管理人 より)
 福岡市在住の私にとってはニライカナイよりも遠い島、奥尻島にこの度 兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生は赴かれた。
 私は兵頭ファンなので、あの気が狂ったように五月蝿い選挙演説風に言うならば「北の発言」、「北の発言」をよろしくお願いしますという事だ。
 後、2005年9月、ようやっと兵頭[別宮共著]本新刊”技術戦としての第二次大戦 日本vs中ソ米英篇/PHP研究所”が出版された事もとても嬉しい。

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