●”■×”(数字)  『北緯九十度のハッティ』


Part 3:老首席の気がかり


 江南にある中国最高実力者の避寒地。
 暖房の効いた平屋造りの邸宅、全景。
 庭には大きな池があり、中央には西太后の庭園に似た、軍船を模した人工島も。
 屋内。
 大きな椅子に深々と腰掛けたナイトガウン姿の老首席が、秘書嬢に支えられるようにして、人民服の首相および軍服の海軍軍令部長[※海軍では参謀長のことを軍令部長または作戦部長と呼ぶのが習わし。]を接見している。脇の脚付トレイには、薬草、サルの頭蓋骨、爬虫類の黒焼等の入った薬瓶が、コップ、水差しと共に並んでいる。

老首席「(秘書に薬を飲ませて貰いながら)首相、ロシアの海洋放射能汚染に反対する大漁船デモは組織したか?」

首相「ははっ。日本海を航行するすべての西側船舶の目につくところに展開を終えましてございます」

老首席「それで良い。南で鐘を叩き、北で寝首を掻くという方略のためにはな。…それで、原潜ポリニアはムルマンスクを離れたのだな、海軍軍令部長?」

海軍軍令部長「はいっ。表向きは極地科学調査隊の救出と流氷の観測を任務として、母港のザパトゥナーヤ・リッツァ基地[※註:バレンツ海に面する]から出港したようです。出港直前に、ロシア海軍内の内応者から連絡が入りましたが、すべて予定通りであります」

老首席「そうか。クリントンめ、投獄中のハネ上がり学生二〜三名を国外追放処分としたのが効いたようだの。アメリカ人科学者を救出に向かうのは、是非ともポリニア号でなくてはならんのだ…」

首相「御意に…。今回は、民主・共和両党のチャイナロビーを総動員して御座いますれば…」

老首席「うむ首相、だが楽観するでないぞ。お前たちの工作にもかかわらず、わしはポリニア号が北極海にいる間に放射能まみれの鉄屑になる確率は、一割も無かろうと見ておる。…だがたといすべてが不成功に終っても、ペトロにいる間にポリニアの汚染の危険性を太平洋諸国に喧伝し、インドの国際的評価を失墜させることはできよう」

首相「ははっ…。しかし老首席、何もここまでする価値ありや…という気も致します。ポリニアは所詮七〇年代の設計であり、いまや原潜国産能力のあるわれわれにインドが追い付くのは遠い先の話と思いますが」

老首席「(耄碌して耳が聞こえなくなったかのように)ナニ…?」

海軍軍令部長「そうですとも。それに確かに原潜の核燃料は高濃縮ウランですが、ポリニア号の場合すでに90%が使用済みですし、ロシア海軍の工作艦がインド軍港内で燃料棒の抜き取りを行なってから引き渡される。つまりインドは“核抜き”のナトリウム炉を受け取るに過ぎませんっ」

老首席「(両目をカッと開いて)バカ者ども!だからこのトシになっても、若輩に政務を任せることができずに困るのだ…(と、激しく手をついた拍子にサルの頭蓋骨が宙に舞い、薬瓶が倒れてイモリの黒焼などが飛び出す)」

首相・海軍軍令部長「(思わず後ずさり)ウヒッ…!?」

老首相「お前たち、そもそも“ハッティ”という艦名を、どう思うておるか」

首相・海軍軍令部長「…!?」

老首席「かつて、進んだ文明で西アジアに覇を唱えたヒッタイトという民族があった…。国亡びて後、その末裔はユーラシア中に散る…。一部は黄河・楊子江の上流を共に扼する場所にたどりつき、秦帝国の樹立に貢献、遂に中国を支配したが、やがて漢民族の数に圧倒され、亡びる…」

老首席(続けて)「…日本では漢代に大陸から逃れ渡った亡命者に“秦”という名字を与え、“ハタ”と読ませたという。それは決して偶然ではあるまい。古代エジプト人達はヒッタイト族を“ハッティ”と呼んで恐れていたと、ヒエログリフ[象形文字]にも記されておるからな…」

首相「『ハッティ』…!インドがポリニア号を取得後に命名する予定の艦籍名…!」

海軍軍令部長「…そんな由来が秘められていたのか!」

老首席「(やれやれ、という顔で)…よいか、ヒッタイト族の末裔を自負するインドの一部地方土侯、政府高級官僚らは、この実験原潜を元に、国家の総力を上げてインド洋の実効支配に乗り出してくるであろう。そうなれば、古代中国が黄河・楊子江の流源を押さえられたと同じ状況が現出するのだ」

 首相・海軍軍令部長、すっかり青ざめる。

 場面変り、もとの知事別邸、前庭。
 机上には、北極の地図、書類、写真多数。

●”■×”「氷棚上に孤立している科学者たちの素性に疑わしい点は無いか、念のためもう一度調査してくれ」

女核技術者「これまで独自に調べた限りでは皆ごく普通の研究者たちみたいだけど、もし何か洗い出せたら乗艦直前に連絡するわ」

●”■×”「では振込の確認次第、仕事にとりかかることにする」

女核技術者「有難う、●”■×”(数字)。…漢民族は放置すれば限りなく人口を溢れさせ、西でも東でも土着文化を呑み尽くし、やがてヒマラヤ山系の両翼からインドを包囲するのは必至。そうなる前に、私達はペルシャ湾まで海軍力を及ぼさなくてはならないのよ!」

●”■×”「河の上流を押さえた者の勝ち…か」

女核技術者「ええ。中東原油を断たれた中国は、十二億の人口を抱えたまま工業大国となることなど絶対不可能!」

●”■×”「…他方、原潜艦隊により安価な中東石油を確保した人口七億のインドは、海陸両方に睨みの効く超大国となり、ASEAN、日・韓の死命をも制する…」

女核技術者「そうよ。人類は農耕を知ったが故に楽園を追放された…。以来この地球はゼロ・サム社会[*]だわ。原子力とても人口増には追い付かない。結局世界人口がマイナス成長にならない限り、国家は国民のために有限の資源を奪い合うのが仕事なのよ」[※註:ゼロ・サム=各プレーヤーの得失和が必ずゼロになるゲームのこと]

 夜。
 町ではHOLI祭が続いている。

解説文『クリシュナ女神を奉る無礼講のHOLI祭では、インドの庶民レベルではまだ平等の権利の無い妻たちが、男たちを竹の棒で追い回し、メッタ打ちにすることも許されている…。』

 月明りの知事別邸、全景。
 明りのついている寝室。
 そのキングサイズのベッドの中では、全裸の女核技術者が●”■×”の上になっている。

女核技術者「ねえ、あなたに、私の中を流れているハッティの熱い血が感じられて?●”■×”(数字)。インド土侯の家系に脈打っているハッティの血こそは、漢民族に対抗して再びユーラシアに文明の曙をもたらす正統の血なのだわ!」

 寝室の窓の外。
 女核技術者のあえぎ声が響いている。

Part 4

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