ver.2003.0129

要聴取情報・其の二

 過去の実戦で、長距離砲弾またはSSMの1発の着弾で、平均して何人の軍人や民間人が死んでいるか? あらゆる時と場所、建物毎に、できるだけ多くの「実例報告」も、出典明記の上、求む。

No.10
ジャワ攻略戦とガダルカナル玉砕戦 共栄書房のp307から引用

十月二十四日(土)雨 山形戦死F
朝、五時十五分射撃開始。敵砲火益々盛ン。本日ハ総攻撃ノ日、是非共成功セシメ度。一同元気旺盛頑張ル。夕刻ヨリ雨トナリ、砲撃止マズ。十七時攻撃開始、二十一時飛行場占領ノ通報アリ。喜ビタルモ後誤報ト判明ス。雨は夜半迄降ル。本夜ノ攻撃成功セズ。山形菊衛戦死。鈴木三郎負傷(戦闘支障ナシ)。

引用終わり


1942年10月24日のアメリカ軍の砲撃により
日本軍兵士1人戦死。1人負傷。しかし、10日後の11月3日に鈴木一等兵戦死。 
アメリカ軍の砲撃により日本軍兵士に2人戦死。


御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/28(Tue)

No.9
ジャワ攻略戦とガダルカナル玉砕戦 木村竹治 庭野静三 共栄書房の第U部 飢餓の戦場、ガダルカナルの死闘 p308から引用


十月三十日(金)晴一時雨
四時三十分頃敵巡洋艦三、駆逐艦三現ハレ、二時間半ニ亘り射撃ス。陸砲兵ノ死角ヲ海上ヨリ射撃スルヲ以テ困ルナリ。マルデ機関銃ノ如シ。陣地ノ近所ニ四発落下破裂ス。一同無事、夕刻ヨリ雨降リ壕中溢レル。

引用終わり。


当時第二師団野砲兵第二連隊第一大隊第三中隊の庭野静三陸軍大尉の日記に拠ると
1942年10月30日4時30分頃に巡洋艦3、駆逐艦3による2時間半の艦砲射撃を受けた
日本軍砲兵陣地の近くに4発落下したが、陣地に居た日本軍は無事。


ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記 河合武郎のp233から引用

十五榴の殺傷効力半径は五十メートルです。

引用終わり。


日本軍の15センチ榴弾砲の殺傷効力半径は50メートル。


御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/28(Tue)



No.8
ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記 河合武郎 光人社のp190から引用

四月二十三日、敵の第一波は、まず砲兵の集中射に始まった。午前十時ごろだったと思う。敵の息もつかせぬ砲撃が開始された。 略


米軍の射撃思想は一発必中ではない。弾幕をもって、大網を打つように撃ってくる。同じ山にいても、直距離も余り離れていない河合中隊には、弾着の地響きが、自分が被弾しているようにはっきりと伝わってくる。長い長い恐怖の時間だった。砲撃はやっと止んだ。そこに伝令が壕に飛び込んで来た。大隊本部が大変だという。とっさに、私は壕を飛びだした。まるで軍艦のブリッジのように、整然とこしらえてあった大隊本部は、足の踏み場もない泥と、喧噪の真っ只中にあった。直撃は受けていないが落盤である。上を見上げると不気味にえぐられたその下に、こんもり盛り上がった土の山があった。その山にむかって無数の人が取り組んでいた。手に手に道具を持って、それもない人は自分の鉄帽を脱いで、一生懸命に泥を払いのけている。泥の下には五、六人の人が埋まっているという。

引用終わり


昭和二十年四月二十三日フィリピン・ルソン戦時
アメリカ軍の砲撃により山岳地帯に作った日本軍陣地が
崩れ日本軍側に5・6人の死亡者がでたと


御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/26(Sun)


No.7
ノモンハンの夏 半藤一利 文春文庫のp266から引用

須見部隊第七中隊の大高豊治上等兵の日記に、その後のことが印象深く記されている。

「七月十六日 晴
穴ぐら生活も大分慣れて来た。飛行機の爆音によって、敵機か友軍機か判読もつく様になった。朝から砲撃の大試合が始まった。一尺五寸位の大きな破片がとんで来る。聞き馴れるとなんでもない。穴ぐら生活も今日で二日目。水には一番苦しむ。(略)食う物とても、ささやかなものだ。(略)

「七月十七日 晴
穴ぐら生活第三日目、砲の音はどんどん聞えてくる。付近に二、三発当たった。物凄いスリルだ、恐怖にかられる音だ。小林、宮岸に逢えた。平田は負傷したそうだ。二十日の総攻撃まであと三日、元気で嬉しい。前方五百位の所に敵が来襲して来たので眠らずに警戒す」

引用終わり


大高豊治上等兵が篭ったタコツボ?に7月16日、砲弾の破片が飛んで来たが無事

7月17日に付近に2、3発当たったが無事。


御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/26(Sun)

No.6
グアム島玉砕戦記 佐藤和正 光人社NF文庫 p255-p256から引用

ようやく迫撃砲の射程外に出てほっとした軍医は、立ち止まって部下に休息を命じた。そのとき、十メートルほど横の椰子林に艦砲が落下した。椰子の木は裂けて吹っ飛び、強烈な爆風が軍医を地面に叩きつけた。
「みんな、だいじょうぶか!」
倒れ伏した部下を見回して軍医は叫んだ。両脇に伏せていた二人の兵が頼りない声をあげた。
「やられました、軍医殿・・・・・・」
「よし、見せろ」
いそいで傷口を見ると、太股に小さな破片が当たっていた。二人とも盲管だった。いまは破片を摘出している暇はない。
「軽傷だ、命に別状はない。どうだ、歩けるか?」
「痛いですが、何とか歩けます」
「よし、我慢して歩け、そのうち直る」
艦砲が落下する場所に、おちおち休んでいるわけにもゆかず、一行はもう少し先まで進むことにした。

引用終わり


吉田軍医中尉と十三人の負傷した衛生兵が、グアム島中部の折田・オルドットから北部の高原・サンタロサへ移動中にアメリカ軍の艦砲射撃を受け日本軍兵士に2人負傷


同 p302-p303から引用

(グアム島中部)品川へ出ると、そこに一軒の島民の家があったので中へ入ってみると、及川という海軍の兵と、佐藤という青森出身の陸兵がいて、三人でボソボソ話しながら休憩してたんです。そこへ艦砲が至近距離に落下しちゃった。ドーンと音がしたかと思ったら、うなりをあげて破片が飛んできて、目の前に座っていた佐藤さんの首をスッポリ切り落として柱にバサッと突き刺さった。ワッ!という声が上がっただけで、佐藤さんの頭がゴロッと足元に転がっちゃった。ギロリと目を剥いた無念の形相のまま、頭が床の上で天井を睨んでいるんです。ゾッとしましたねえ。私はあわてて及川と二人でそこを飛び出して一目散に折田へ撤退したんです。

引用終わり


谷島昌一技手は、零戦の計器テストを専門とする整備技術者
証言によると、アメリカ軍の艦砲が至近距離で落下し
日本軍兵士に1人即死 とのことです。


大本営参謀の情報戦記 堀 栄三 文春文庫のp125から引用

巡洋艦と駆逐艦では大砲の大きさが違うが、平均して一発は八十キロと仮定する。 略

一発の有効破壊半径は百メートルある

引用終わり

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/25(Sat)
 

No.5
(株)国際出版「Gun」昭和51年4月号の記事によりますと、第二次世界大戦中のドイツによるV-1(Fi103)による初攻撃(1944年6月13日)では、ロンドン、ベスナル・グリーン地区に着弾したV-1により6名が死亡。1944年6月30日にはV-1がイギリス空軍省ビルに着弾し、198名が死亡。

また、朝日ソノラマ「報復兵器V2」(野木恵一)によると、一発のV-1による最大の被害は1944年末にアントワープ市内の映画館に命中したときのもので、観覧中のイギリス兵269名死亡、192名負傷。1944年9月8日のV-2による初攻撃ではロンドン西部チズウィックに着弾し、3名が死亡、18名が重軽傷。

引用開始〜
(V-1による)最初の一週間の攻撃による死者は22人重傷者は68人で、平均すると一発当たり死者2.7人、重傷者8.5人となる。この数字はそれまでのFi103による被害、一発当たり死者2.7人、重傷者9.1人とほぼ一致している。
〜引用終了。


御投稿者:読書公社 様
投稿日:2003/01/22(Wed) 21:31


No.4
確か、1991年の湾岸戦争時にイラク軍が空爆の報復として発射したスカッドミサイルがサウジアラビアの米軍基地に?着弾してアメリカ軍兵士に約20人前後が死亡した云々
って昔NHK教育で放映されたドキュメント番組のナレーション
を覚えていますが、録画してなかったのでどこが製作したのか正確に指摘できないのが歯がゆい。


御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue) 04:15


No.3
(管理人注:No.2を指して)

↓下のレイテ戦の砲撃戦が書かれている部隊は
第一師団の重砲の部隊です。場所はリモン峠の後方
のカナンガ=ロノイ間の街道付近の叢林から撃ったようです。


闘魂ビルマ戦記 サムライ重機分隊員の死闘 石井貞彦 光人社NF文庫のp368-p370から引用

突如として、はるか東北方でドドーンと砲の連続発射音がした。つづいて、ヒューンと中空高く弾道音がこちらに向かって、まるで弾丸が見えるような感じで飛んできた。私たちは、あわてて西側の路側にとびこんだ。道はかなり高くかさあげしてあった。その急斜面にメザシのように私たちはならんで伏せた。顔をあげて弾道音の方向をうかがうと、星明かりに黒く浮きでて見える、富士山のような山容をもつポパ山の三合目あたりの上空をこえ、私たちの方に飛んでくる。
十センチ加農砲の遠距離砲撃である。
やがて、それらの弾丸は、斜め上方から急角度で私たちの方へ落下してきた。ガガーンと初弾群が炸裂したのは、後方、さきほどまで待機していた谷間付近であった。つづいて四門、四門と八発の砲声が起こるとともに、弾丸が二段になって飛んでくるや、すこし距離をちぢめて炸裂した。弾着はだんだんと近づいてきて、ついには破片が周囲に落下しはじめ、不運にも最後の集弾が、私たちのいる位置から路面にかけて落下してきた。そのなかの一弾が、うつぶせになって両足をすこしひろげていた私の股間ちかくに落下した。激しい炸裂音が全身をつらぬいたような衝撃で、腰がファッと爆風でもちあげられたとたん、サクッと男の急所に激痛がはしった----やられた!しかも男の急所ときては、いよいよオレも終わりだな。おもえば昭和十七年二月、ビルマ進攻作戦いらい十八年、十九年はアラカン戦線、そしてこの二十年と三年間を激戦の渦中をくぐり、編成いらいの戦友はつぎつぎと姿を消し、中隊にはもう数えるほどしか残っていない。略

片キンとは情けなや
砲撃が終わるやいなや、戦友たちは起き上がってバタバタと路上を走って行く。その足音を聞きながらも、私は起き上がれなかった。傷口はしびれ、痛みも出血も感じないが、力がすっかりぬけていた。と、路上の向こう側で、「片岡、やられた」という声を一瞬聞いていたのだ。片岡(政市)一等兵は指揮班に最近きた補充兵だ。見てやろうと私は、痛みをこらえて道にはい上がり、黒い影にちかづいた。「片岡、しっかりせい!」と声をかけたが、もう言葉もない虫の息だった。右大腿部に砲弾が直撃して片足がふっとんでいた。私一人では手当てのしようもない。 略

その月の光で谷のなかを歩いてくる兵のなかに、大隊本部の菊地伍長をみとめて呼びとめた。彼は崖をはいのぼってくると、私のたのみで、路上の片岡を見に上がっていった。まもなく、「ダメだった」といいながら、私のところへやってくると   

引用終わり。


昭和二十年四月十九日頃
ビルマ西部の第二十八軍干城兵団第二梯団の歩兵百十二連隊の第一(細川)大隊の一兵士の証言

英軍の10センチ加農砲による砲撃八発?で日本軍兵士1人戦死、1人負傷


御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue)



No.2
われソロモンに死すとも ガタルカナル戦記 光人社1992 の中の鈴木正光氏の遺書となった日記 p282-p283から引用

(1942年)十一月四日。

海岸道、とくに前方に進出なしありし砲兵は、後退をかさねつつあり。前にあれば、後退しつつあるわが歩兵の第一線にたいして、援護射撃をなしえざるなり。 略

ついに一日、前進砲列救援のため観測所を下りしより、いまだに観測所に登らず。中間点-待機所間の往復なり。 略

昨三日、第一中間点においてまた通信手一名戦死せしむ。
その通信手、玄蕃を中にはさみて、右に通信手、左に余と三名寝ありしに、付近に砲弾集中落達。玄蕃の頭部に破片命中せしなり。もし玄蕃あらざりせば、余に命中するところなりしならんも、運なりというか、命なりというか、心に黙しつつ葬る。


ガダルカナル島戦時、
アメリカ軍の砲弾が集中して日本軍側に一人死亡した。 と


レイテ戦記 下 大岡昇平 中公文庫のp45-p46から引用

突然日本軍の105ミリカノン砲一門が反撃した。これは地形上の便宜からこの陣地に配置されていた野砲第二大隊(早尾猛大尉)の10センチ榴弾砲か第四大隊の15センチ榴弾砲一門かである。十一月十七日クラシアンの米砲兵陣地に日本軍唯一の有効な遠距離砲撃を加えた砲であった。この頃は早尾大隊長はじめ幹部将校はことごとく戦死していたが、残った砲二門(他の一門は恐らく10センチ榴弾砲)はちょうど米軍の二個大隊の間隙に巧みに隠されていたのであった。
砲撃は600ヤード東南の米砲兵観測所に指向され、戦死一、負傷十五の損害を与えた。米小火器班の重迫撃砲と二七一野砲大隊の射撃が集中し、対戦車自走砲一個小隊がこの砲を破壊するために前進した。日本軍の砲はまもなく射撃を止めたが、30分後第二大隊が進撃を始めると、再び300ヤードの距離から三発発射した。戦死三、負傷十五。G中隊と対戦車自走砲が側面から攻撃して四人の砲手を殺し、陣地の破壊に成功した。斥候はさらに一門の105ミリ砲を発見したが、夕闇が迫ったし、砲は二五フィート(米公刊戦史)の距離から発射を続けるので、攻略を諦めた。二七一野砲大隊は夜通しこの砲兵陣地とカナンガ=ロノイ間の街道を砲撃した。この砲撃が遂に日本軍の最後の10センチ砲を破壊した。
これは諫山少尉と第五中隊の三木泰蔵少尉、清水幹部候補生らほか兵十五の抵抗であった。第五中隊は中隊長今村孝雄中尉戦死、砲弾を射ち尽していたので、まだ砲弾50発を持っていた第六中隊の位置に移動して、戦い続けたのであった。しかし結局十九日夜の砲撃で大半は戦死、三木少尉と原田准尉は敵陣に斬り込んで戦死した。これは砲撃によって重傷を負い、捕虜となったある上等兵の証言である。 略

この陣地の十榴がクラシアンの敵砲兵陣地に数発の有効弾を送ったにすぎなかった。しかしその最後の戦闘は見事というほかはない。

引用終わり。


1944年12月19日レイテ戦時

日本軍砲兵が撃った砲弾でアメリカ砲兵観測所に戦死1人、負傷15人の損害を与えたとアメリカ軍の重迫と野砲が反撃したので日本軍砲兵は射撃を止めたがアメリカ軍の第二大隊が前進すると日本軍砲兵が砲弾三発発射して、アメリカ兵に戦死3人、負傷15人与えたと。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue) 01:08

No.1
陸軍めしたき゛どぶ長゛奮戦記 光人社1992のp64-p65から引用

ノモンハン事件時の砲撃戦で富岡観測手の証言に拠ると

七月下旬のある日、大隊観測所ふきんにさかんに敵砲弾が落下し、その一弾がついに観測所の真ん中に命中した。そして、その炸裂で召集の観測手一名が即死し、三中隊現役の茶山上等兵も負傷した。私たちも爆風で一瞬、息がつまるような気がしたが、このとき、私たちの一年先輩で召集の野呂上等兵は、私たちのところへ飛んでくるなり、「茶山の首が飛んだ!」と大声でさけんだ。見ると野呂上等兵も爆風に吹かれて真っ黒な顔をしている。ところが首が飛んだと思われた茶山上等兵は、頭ではなく鉄帽がペチャンコになって吹き飛んだもので、彼は負傷しただけですんだのである。 略

即死した召集の観測手には、三中隊の中島軍曹が末期の水を飲ませたが、背骨が折れているとみえ体がぐにゃぐにゃで、あらためて砲弾の恐ろしさを知った。砲弾をうけはじめてから時間はいくらもたっていない。ほんの数十秒の間の出来事である。

と 引用終わり


ノモンハン事件時

ソ連軍の砲弾一発で、日本軍兵士に即死が一名。 一名負傷との事です。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 05:36


管理人:「掲示板に書きこんだのに抜けている」というのがあれば御指摘下さい。よろしくお願いします。御投稿頂いた方々に改めて感謝!
戻る