interview with ─── vol.2


管理人:師弟関係…重い言葉である。一人ぼっちでは生きていけないもの。
さて、一人で生まれてきたような我らが兵頭流軍学開祖 兵頭ニ十八先生にも「師」と仰ぐ、「E」で始まるあの御仁がいる事は周知の事実だ。
しかし、その期間何が起こりまた何が始まったのか───についてファンは殆ど知らないのではないだろうか。私は知らなかった。
そんなわけで今回のインタビューである。
前回と同じく、「貴様一体何処でこんなインタビューが出来たんだ?」という余計な詮索はしないでいてくれるよう希求する。勘の良い人にはわかる筈だから。


E先生の手紙

兵=兵頭先生
管=管理人

(1時間目)

管:今日は、兵頭先生の「論壇デビュー前史」の中でも未解明部分が濃い、故・E教授とのご関係とか、そのへんについて何か、お話しを願えませんか?
 「創作雑話」の番外編ということで。第2回目でいきなり番外というのもナンですが……。

兵:文筆業界の人間関係、師弟関係、派閥関係等は、雑誌の編集者ならカケダシの記者さんでもみんな知悉していることで、私としても何も皆さんになんら隠しだてしているわけではなかったのです。けれども、大学院卒後のE先生と私の間にはしばらく黙約のようなものがあったと思っています。私は、自分の戯作者または評論家としての地位を確立するまでは、E先生との関係を誰にも吹聴しない。そしてE先生も、裏ではいろいろ私に書かせるキッカケを作為してくださるけれども、表では一言も私が弟子だなどとは公言しなかった。私の方は、若い奴によくある、ケチな意地からでしたけどね(笑)。
 例の『東大オタク学講座』の中で、私は初めて公けにE先生のことを語りました。これは計算して語ったんです。それをE先生も間接的に、おそらくは慶應の学生経由でお聴き取りになった。その後、たしか『文学界』の桶谷先生との対談の中かどこかで、さりげなく、E先生は私の名前を「弟子」として初めて言及されたと記憶します。ちなみに、最後に先生が私について公的に触れられたのは、慶應大「最終講義」の中で、東工大の「教務補佐」−−これは学内で院生が就任できるオフィシャルなアルバイト職名なんですが−−として研究室の掃除を仰せ付けられる者として登場すると思います。台詞が無い「通行人A」みたいですけど。

管:そもそも、大学院ご進学前のご関係はどのような感じだったのでしょうか。

兵:ここに、ずっと筐底に保管していた手紙の束があるので、ひとつひとつをご紹介しながら、説明致しましょう。こんな機会にでもないと、記録に残しておくことができないかもしれないから。
 これが、私が持っている、E先生からの手紙のすべてです。少ないですよね。悲しいです。
 以下すべて、差出人アドレスは、E先生の印判によって押印されていますが、省略しましょう。それから、E先生の手では、撥音「っ」は表記が「つ」とほとんど紛う大きさに書かれているのですが、ここでは便宜上「っ」に表記統一しておいてください。
 まずこれが、私にとっては歴史的な、一枚目の御葉書です。横浜市白楽のアパート宛て。強い雨の日に配達されたために、万年筆の青インクがにじんでしまっております。
 官製はがき。千鳥/84[か?]/86.12.8.12−18/TOKYO/CHIDORIの消印。左隅にペンで「十二月八日」。裏の本文。


拝復、大変素晴しい感想文をお送りいただき、洵に有難う存じました。文字通り一読三嘆いたしました。コピーして「諸君!」編集部に読ませようと思いますので、何卆御諒承下さい。遅ればせ乍ら御礼迄に。一層の御研鑽を祈り上げます。 
敬具


管:アホな訊ね方でしょうけど、これを受け取ったときのお気持ちは?

兵:福田和也さんは、まだ無名の時分、E先生が評価していたよと一人の編集者から知らされて電話ボックスで泣いたと告白されておられますけれども、私の場合は、E先生の偉さをこの時期にもまだ何も弁えなかった大馬鹿者、大迂濶者でしたから、『これで運が向いてきたのだろうか』と単純に喜んだだけだったと思います。しかし実際に東工大に呼ばれてナマのE先生に面晤を賜りましたとき、その超一流の人物であることは、2年間の自衛隊体験で人に対する驚きの感受性というものを失っていた私にすら、ほとんど衝撃的なほど歴然としていましたから、私も目黒からの帰路に頭を冷やしに立ち寄った東横線沿いの喫茶店で、思わず泣きそうになったのを覚えています。

管:その「超一流」とは、どんな感じなのでしょうか?

兵:私が言おうとしてうまく言えないことを、私の脳ミソに代わって、「つまりそれは……(中略)……なのでしょうね」とか、少しの遅滞もなく、ドンピシャの日本語に表わしてしまわれるのです。圧倒された体験でした。あのような理解力の持主には、その後、一人もお目にかかったことはありません。

管:で、「当世書生気質」の兵頭先生の御文章は、いま、どこにあるのですか?

兵:こっぱずかしくて残しておけるようなものでないから、捨てたと思います。しかしその骨子は、修論や雑誌寄稿その他に、これまでほとんど反映しました。というか、この直感的な「感想文」を理論めかして塗粧するために、私は2年間、東工大で遊ばせていただいたようなものなんですよ。

管:国立大の大学院で、しかも理数系のところに、言うては悪いが二流の私立の神奈川大から、簡単に進学できるのですか?

兵:「イチゲン」さんですと、これは簡単ではないが、指導教官が事前に確定しているという特殊なケースの場合は、話が簡単になるのです。要するに、数学のテストで0点さえとらなかったら、なんとかなると聞かされました。そこから、我ながら信じられないような、数学の特訓が始まったのですよ。高校の微分からやり直し。……今じゃ微積ももちろん、統計学の数式なんて、ぜんぶ笠の台のメモリーから揮発してますけどね。典型的な受験勉強というやつを、いい歳こいて体験しました。
 これは、その頃に頂戴しました、官製はがきです。表側。消印が、鎌倉/62/4.4/18−24とあり、表側左にペンで「四月四日」。宛先は、横浜市白楽の私の当時のアパート。裏側。


拝復、お便り有難う存じました。
日々御精進の由、心強く思います。数学と統計学は必須の関門ですから是非とも突破していただかなければなりません。部屋を片付けると頭も整理されて数学がよくできるようになります。余分なものを捨てることです。
お元気で! 
匆々不一


管:なんで、部屋を片付けろ、とかの御説教が書かれているのでしょうか?

兵:じつは、黒電話のベルがうるさいので、靴かなにかが入っていた紙箱の中にふだんは突っ込んでおいたのです。あるときベルが鳴り、あわてて受話器をとりあげようとしたら、当時の電話は重いし滑る。ツルリと取り落として、断線させてしまったのです。直感したのですが、これはE先生からのお電話だったと思います。それで「部屋が乱雑なため、かくかくの出来事がありました」と、こちらから一筆したためたことがありまして、そのリスポンスなのです。

2時間目へ続く!

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