interview with ─── vol.2


E先生の手紙

兵=兵頭先生
管=管理人

(3時間目)

管:これは何の意味です?

兵:在米の日系人の、戦中〜戦後の写真集をお持ちであったので、複写のためにお借りしたのです。私が東工大を出る直前にね。でもこの時点では、私はもう『戦マ』の正社員。E先生は慶應大学に移っておられた。しかしどうです!
 本当に文字が生き生きとしているでしょう。おそらく、E先生の得意絶頂の頃じゃないかと思うのですよ。私は「割愛」が本決まりとなった頃に、研究室で「これで先生は復讐ができるのですね」と申し上げたら、E先生はニンマリされていた。噫々しかし、その宿願成就が、E先生の寿命を縮めた気がしてならぬ。あのまま東工大におられたなら、今でもご健在であっただけでなく、学部長以上の公的ポストも得られた筈と思われるのに……。「そんなに慶應がいいんですか?」とお尋ね申したいよ。けれども、たぶん、そんなにいいんでしょうな。あのクラスの方々には……。不思議な一致ですけど、どうしたわけか、東工大を「割愛」されて、他所の大学で花が開いた教授というのは、あまりいらっしゃらない気が致しますですよ。

管:次のは……素っ気ないですねえ!

兵:ああ。これですか。平成3年元旦の年賀状ですか。宛先が、今はない神保町の戦車マガジン気付。裏側にペンで本文。


御活躍を期待します


 これは素っ気ない。確かに。しかし、この時期のE先生は、慶應大学内の「政治」をいっしょうけんめいやっておられたのではないでしょうか。賀状が短節なのは、大活躍中である証拠なのですよ。そして私はといえば、とにかくミリタリーオタクの専門知識の吸収に努めていました。一度は何かの専門家になってからでなければ、全国版のオピニオン誌に堂々と評論なんか書けないと思っていたのです。それで、早く論壇にデビューさせたいという親心であったE教授には、「こいつはもうダメだ」と見限られていたかもしれません。

管:次のも、神保町の「戦車マガジン」編集部気付、となってますね。

兵:官製はがき。消印は、鎌倉/3/11.7/18−24と見えます。表左側にペンで「十一月六日」。裏の本文。


拝復、「戦車マガジン」別冊お贈りいただき洵に有難うございました。編集人に学兄のお名前が記されているので感慨無量でした。小生、腰痛治療のために二ヶ月程入院し、一週間前に退院したばかりです。しかし厄介な病気ではなかったので、他事ながら御休心下さい。ご活躍を祈り上げます。


管:この別冊とは?

兵:調べてみてください。初版の奥付から判明するでしょう。……平成4年の賀状はありません。

(※「兵頭二十八先生の御仕事」参照)

管:それで、次は平成5年元旦の年賀状ですね。

兵:はい。文京区白山のマンション宛です。裏側にペンで本文。


お元気で頑張って下さい


管:……って、素っ気ないですなぁ!

兵:いいんです。偉い人が、何者でもない者に下される葉書は、この程度で。

管:おや、次は長めの文章ですね。

兵:これですか。消印が、鎌倉/5/9.4/8−12で、官製はがき。表側にペンで「九月二日」。白山のマンション宛ですね。本文。


拝復、お便り有難う存じました。
様々な新分野で御活躍の御様子、大慶至極に存じます。マスコミ界も不況の折からなか/\大変たろうと思いますが、どうか学兄の独創的な持味を生かして頑張って下さい。「さいとうひろし」の名が一層挙がる日を心より期待しております。



管:これは、劇画原作への激励ではないのですか?

兵:そうだったかもしれません。しかし、批評ではないのですよ。これは、完全な無関心なのです。私には、分ります。ちなみに「マスコミ界」とあるのは、平成5年4月に私は「S」という麹町にあった日テレ系の番組制作会社の正社員になって、そうしたことはE先生には逐一ご報告をしていたからです。「S」には8月までいました。そして9月には今度は恵比寿の「M」という会社に転職し、そこでは税理士向けの土地ビジネス関係の特別な月刊誌の編集に携わります。そしてちょうどその頃、「○ル○1○」の私の原作が作品化され始めているのですよ。で、私はサラリーマンがつまらなく感じられてならぬようになったのと、劇画原作に見込みが持ててきたのとで、平成6年2月からいよいよ本物のフリーターになってしまうのです。これは、ながい・みちのりさんという活模範が身近にいらしたので、私も決心することができたのです。

管:でも、原作では喰えなくて、またミリタリーに戻ってきた……。


4時間目へ続く!

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