interview with ─── vol.3


管:普通の人はミリオタに遠慮するんですか?

兵:あの業界は本当に嫉妬の巷でしてね。発展途上なのです。「文人相軽」と言って、文学とか評論とか学問の世界でも、センセイ同士はあまりお互いを高く持ち上げようとはしない……というかライバルの業績を偉いと思わなかったり、偉いと思ってもことさら無視したポーズをとることが多いのですが、それともレヴェルが違ってい る。私は元『戦マ』の三貴雅智さんをたまたま存じあげておりますが、あれだけ該博な洋書の知識をお持ちでありながらも、なかなか自分のお名前を堂々と冠した単行本は、出せないようですね。それはどうしてかと勝手に他人ながらに憶測を申せば、同業のオタクや読者からの、それこそオタッキーなジェラスに基づく事後バッシングが怖ろしいということもあるんじゃないでしょうか?
 どんな大家だって長いこといろいろ書いていけば、間違いも書くでしょ。私が校正のバイトをしなければならなかった貧乏時代、いや、今も貧乏なんだが、秦郁彦さんの航空戦に関する相当の旧著を文庫にしたのが回ってきて、それをじっくり読んでいったら、なんとあの秦御大ですら、ごく初歩的な誤記はなきにもあらずだと分って、私はびっくりしたことがある。あらかじめ、「このゲラには、疑問出しはしなくていい」とボスにクギをさされていたので、何も書き込みはしませんでしたけどね。秦さんも後から気づいても直さない方なんだと思いますが、同時に、活字になっていることの多少の間違いくらいで鬼の首でも取ったように騒ぐ者は、現代史の学会にはいやしないでしょう。
 「真」の上に「より真」が、少しづつ積み重ねられていく、そういうレフェリーの事務的手続きが成熟している世界だからです。ミリオタの世界はまだとうていその域ではなく、雑兵が侍大将に「一番槍」をつけようとして、熱中している感じかな。

管:つまり、兵頭本の悪口をネットで書いているようなミリオタも、活字の世界で自分から一歩前に出て何か新説体系を世に問おうとする度胸は無いってことですか?

兵:度胸というより、かれらを需要するマーケットがないですね。一つ確かなことは、私の本に間違いがあることを読んですぐ分る人は、日本にはきっと何十人もいらっしゃるでしょう。そして、自分が自分の研究を世に問い続けている人であったなら、それについて特別なご発言などなさりますまい。なぜかというと、真に有意義な男の仕事とは何かをご存じだから。人の間違いを指摘しても、自分の研究は進歩しないでしょ。それは編集者とか校正さんがやれば良い仕事でしょ。誰も気がつかないことに迫ろうとする仕事だけが、著述家を最先端に位置させるのですよ。読者も、そのジャンプの過程を追体験したいと思って、その著作を求めるのでしょう。

管:どっちでもいいような害のない間違いについては、ほっときやがれ、ということなんででしょうか?

兵:間違いはどこかで誰かにより指摘されるべきです。『地獄のX島』で私は鎖鎌の話を長々と致しましたね。読者ハガキによると、多くの人があの部分が余計だと思ったらしいけど、あそこはとても重要なメッセージなのです。現物、もしくは書き残された確かな「証拠」が図書館に保管されなければ、鎖鎌のようなフェイクに、一国の国民が、400年もひっかかり続けてしまうという話をしたのですから。是非そこに、もっと注意をしてくれなくては。
 まあ考えてみて下さい。私の書いたことに単純な間違いがあれば、じき絶版になるタイトルが残念ながら多いとは謂いじょう、私の活字は図書館にこれからずっと残るのですから、今すぐにではないにしても、いつかは誰かがきっと、間違った箇所に気づくでしょう。だから、広く深く研究をなすっている方は、他人の「いつかは露れる単純間違い」については、その本を読んだ瞬間に気づくのですけれども、特に何か指摘する必要は感じない。それはいずれ自動的にハッキリするものですし、正直、最先端の研究家には誰もそんなヒマはないんですよ。むしろ「筆者すら気づいていない正しいこと」を、その人の著作の中から一つでも発見しようとして、鵜の目鷹の目なんです。
 ご承知のように、ある単行本を、改版をして再発行できるような機会は、必ずしもすべての著者には与えられません。いちど図書館に収めてしまった初版本を、後から修正することも、当の著者には不可能ですよね。しかし、図書館に「証拠」を保存しておけば、鎖鎌のように400年も経たずして、いずれは真偽が明らかになる。だから日本をすぐにも破滅させてしまいかねないような大間違いでもない限り、活字媒体を図書館に残した著者は、後からそれを遡及して修正できなくとも安心なのです。これは、批判を受け付けないということではありませんよ。本を出すということが、すなわち、批判してくださいということなんです。言ってみれば、私の本の校正は、出版前ではなく、出版後に、オタク達に任せてあるのです。バイト料0円で申し訳ないですけど(笑)。ただ、批判も永久的継続的なものでないと世の中の進歩にならないから、理想を言えば、それは一過性のネットではなく、できるだけ図書館に収められる活字媒体の上でしてもらいたいところなのですがね。そういう批判の積み重ねによってこそ、過去の活字は正しく生きます。その信頼感なくして、本なんかだしませんよ。

管:批判者の本音は、兵頭先生のような有名な人に、「あなたの指摘はすごく正しくて、あなたは私よりも細かいことをよく知っている、偉い」と、公式に褒めてもらいたいんじゃないでしょうか?

兵:そんな酔狂な人がいるとは私には思えませんけど……。人に褒められたいと強く願う人なら、まず第三者の目で己れというものをチェックするわけです。とすれば、同じ批判でも何か「うまい」、アトラクティヴな文体を演出しようとするはずで、そういう心掛けのある人であれば、きっとマーケットの方で見逃さないでしょう。つまり、とっくにプロのライターとして自分の名前の単行本を大いに売っていらっしゃるはずです。もしも、社交性の破綻した、文体人格に自己研鑽の努力も工夫も厭がるオタクの鬱憤の捌け口にインターネットがなっているとしたら、インターネット以外のネットを別建てで何か考えなくちゃいけませんでしょうな。私などは早めに業界のコアからは足を洗いましたから、これで幸運かもしれません。

管:現実に活字のマーケットで、一人看板で商売ができているミリオタは、あんまし多くないですよね。

兵:今では関与の度合も薄いのであまり悪口もいいたくないが、つまり「大奥」のような雰囲気が、あの業界の全般にあるのです。陸・海・空ぜんぶそう。何かを発表しようとすると、先に身体が硬直してしまうというか、お互いに縛りあっているのだから不毛なものです。新しい体系的な「意味づけ」の試みがどんどん公表され、建設的な批判に曝されなければ、全体の研究がいつまでも進歩しないでしょう、それでは。
 早く成熟してくれないとね。その点、「戦前船舶研究会」の遠藤翁などは、偉大なものですよ。あのお歳でね。

続く

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