update 2005/3/20

平成16年度 近畿地方部隊見学

兵頭流軍学 開祖 兵頭 二十八 先生 より
 防衛庁オピニオンリーダーおよび防衛政策懇談会のメンバーによる平成16年度近畿地方部隊見学(05年3月15日〜16日)の、写真によるご報告である。今回は空自・小牧基地と海自・舞鶴基地を回った。
 

 
写真
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キャプション
小牧 レポート
小牧1

 青色塗装のC-130は、イラク行き用に改造中のもの。黒枠の中のレンズは、地対空ミサイルのロケットモーターが発する赤外線を探知して警報するIRセンサー。これが計4個ついていた。

小牧2

 同じく。空自のC-130部隊はすべて小牧所属。イラク以外にも新潟やらインド洋やら予定外の使用が増えて絶対的な数不足に陥っていた。中東にはピンチヒッターでU-4を飛ばしている。そこで今回の視察もCH-47での移動となった。

小牧3
 機尾にも2方向に向けてミサイルセンサーが付けられていた。中央の小さな2球は尾灯か。
小牧4

 民航がセントレアに行ってしまったので閑散とした小牧基地(=旧名古屋空港)。この結果、困ったことになった。ひとつはタラップなどの大型機用地上施設も撤収されたため、政府専用機が小牧を利用できなくなってしまった。もうひとつは、三菱工場の戦闘機の音が目立つようになってしまった。当地の住民は過去の墜落例から戦闘機にだけは不寛容らしい。ちなみに日本がC-17を買ってもしょうがない理由が、この地上ファシリティの不備という。千歳と百里くらいでしか運用ができぬのでは困るわけだ。


小牧5

 イラク名物の砂嵐にC-130が耐えることは実証された。では次期輸送機C-Xのような大口径のターボファンの場合は砂嵐によるトラブルは考えられないのか? ターボプロップで問題なければ、ターボファンでも問題ないとのことであった。また次期輸送機が双発になることについても輸送関係の○○隊長さんにこっそり訊いて見た。隊長さんはC-Xの双発には反対で、できれば四発にしてくれというご意見だったんだそうである。なんとなれば、空自の輸送は、ランニングコストや運航回転率だけ考えればよい民航と違い戦時想定である。エンジンに被弾する場合がある。そのとき、2発の半分を失うのと、4発の1/4を失うのとでは大違いであると。また昔C-1ベースの改造機でUSBとかいって、主翼上面のそれも前縁にエンジン排気口をもってくるという特殊なエンジン配置でコアンダ効果とやらにより揚力を倍増せんとするSTOL実験機があった。斯くすれば下から見た赤外線も減るし騒音も減るから良いことづくめなんじゃないの──と思っていたが、いつの間にか計画は消滅した。その「ダメな理由」も今回聞かせてもらえた。離着陸時の、エンジンの噴流によって強制的に揚力を増した低速飛行状態のとき、もしそのエンジンが事故または被弾によって止まったら…? たちまち翼上面で空気剥離が生じ、とてもリカバーはできないのである。


小牧6
 主翼下、燃料ポッドの上に「チャフ・オンリー」と書かれたカバーがある。イラクで使用するときはこのカバーは外す。
小牧7
 主翼下の胴体の横には「チャフ・オンリー」と「フレア・オンリー」と書かれたカバーが並んでいる。これらカバーを外せば、射出装置が剥き出しとなる。
小牧8
 機首下に増設された風除けに注目。ここにも敵ミサイル欺瞞手段の放出口がある。チャフかフレアかは聞き忘れた。スマン…。
小牧9
 コクピット内に、敵の地対空ミサイルの接近を警報する計器が二つ、増設されていた。どれがその計器であるかは書かないことにする。
小牧10
小牧11

 パイロットの後方、機関士席の頭上に仮眠ベッドが…。まさに空とぶ長距離トラック。たとえばC-1だと内地から硫黄島まで飛んで気象が悪くなっても引き返すことは不可能だが、C-130ならば余裕で他の飛行場に向かえるのだ。

小牧12
 C-130の荷室にはトイレも設けられていた。もちろん空中から垂らし飛ばすことはなく、タンクに回収する。加藤健二郎さんは実際に座って調子を確かめていた。
舞鶴 レポート
舞鶴1

 舞鶴の海自用のヘリ飛行場にCH-47が降りた。左端に写っているのはいつも防衛庁の視察でご一緒する應蘭芳さん……といわれても若い人は分かるまいが、TV実写版『マグマ大使』をリアルで視ていた世代ならば興味があろう(ググれ)。なお画面の奥には、シナからの輸入石炭を燃やす火力発電所を建設するために架けた橋が見える。若狭湾は原発銀座で特別警戒地区になっているはずだが、まだ電力が足りないらしい。


舞鶴2

 管制塔から『のと』が見えた。本来なら地方隊を置くべき新潟が軍港でないために、舞鶴地方隊が西は島根沖、東は秋田沖までもカバーしなければならない。いかに日本は大東亜戦争後も太平洋側を「正面」視していたかが分かる。不思議な謎だ。


舞鶴3

 総監部の廊下は軍艦式に配管が剥き出し。じつはこの建物は大正14年に江田島から移転した機関学校のもので、ネイバル・ホリデイで計画中止となった軍艦の材料が転用されている。舞鶴は曇りの日が多いゆえ米軍艦上機の空襲もほとんど受けず、こうしてそのまま残っているわけ。天井がやたら高いのは、海軍士官の浩然の気を涵養するためという。我々はこうした説明を、水兵で入隊し、砲術ひとすじタタキアゲで三佐になった方から受けた。昔ならば「兵隊元帥」と呼ばれた特務少佐ではなかったか。

舞鶴4

 「母は来ました今日も来た」──舞鶴は終戦後に大陸からの引揚げ船を迎えた港で、ここはそれを記念した博物館。入港船は岸壁や桟橋につけさせずに、沖泊させてランチで上陸させた。すなわち日本人を装った朝鮮人などを勝手に上陸させぬ用心だ。検疫で伝染病を疑われた人は隔離施設に収容された。将来の半島有事でもこの心掛けが必要だろう。博物館で再認識したのは米軍がジャップの引揚げのためにリバティ船を100隻も貸してくれたんだということ。典型的なサイズは7200トン、148×19m、ここに3300人くらい乗せて運航できた。もともと2週間で1隻造ったというから恐れ入る。これと日本の戦標船を比べればあまりに格差があり、彼我の統制の質の違いを思わざるを得ない。


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