没シナリオ大全集 Part 11
<日本核武装>の風景
原作/兵頭 二十八
○暗い部屋(じつは北京の行政ビルの一室)・1953年5月下旬
ナレーション「1953年・中国共産党本部──」
毛沢東と周恩来が腰掛けを並べてニュース映画を見ている。他にも数人の高官たち。
スクリーンに投影されている動画は、アメリカの沙漠で280ミリ「原子砲」がテスト発射され、沙漠にキノコ雲が立ち上っているのを、米軍兵士たちが見物しているものである。
周恩来「(画面をながめつつ、となりの座席の毛沢東に)同志、もう勝ち目はありません。アメリカがこんなものを量産する以上、われわれの人海戦術は無意味だ」
毛沢東「わかっている。スターリンも死んだ。イギリスが昨年に核武装をなしとげたのが祟[たた]った。西欧征服が不可能になったのでな」
○5番ドアのレクチャールーム
佐藤「アメリカの同盟国であったイギリスが敢えて核武装した理由は?」
講師「ソ連が核爆弾を米本土まで投射する爆撃機やミサイルを開発するのは時間の問題でした。そうなったら、アメリカはソ連の核報復をおそれてヨーロッパを見殺しにする可能性があったのです」
佐藤「イギリスは第二次大戦でひどく疲弊したのに、よくそんな予算が出ましたね」
講師「おかねの問題ではなくて、自由の問題だととらえられたのでしょう。1950年代のイギリス国民の生活は『喰うものも喰わず』という表現がピッタリの苦しいものでした」
○北京の行政ビルの一室・続き
周恩来「しかし、まだアジアは……! ソ連は囚人を動員して間宮海峡にトンネルを掘らせたそうです。日本に暴力革命が起きればアメリカは南朝鮮を放棄するはずだ」
毛沢東「(たしなめるように)その前に台湾だよ。朝鮮ではアメリカと休戦しよう。そして同盟国ソ連が原爆を量産するのをまって、台湾を征服するのだ」
○5番ドアのレクチャールーム
佐藤「毛沢東の動機がわからない。民生を犠牲にして、核武装なんかする理由は何ですか?」
講師「権力欲ですよ。中国人にとって、他者とのつきあいとは、その人を支配するか、さもなくばその人から支配されるか、二つに一つしか考えられないのです。台湾を放置すれば、その台湾からいつか支配されてしまうと考えるのです」
佐藤「近代的な「対等の自由」を認められないってこと?」
講師「おっしゃる通りです。ただし自分が相手を支配するまでは、それを口に出さない「ずるさ」もわきまえている。強い立場に立つまでは、周囲をうまく利用しようとします」
佐藤「じゃあ、ソ連に「指導」されていた時から、核武装を考えていたんだろうか」
講師「たぶんはね」
【解説ページ】●「ドゥームズデイ・ボム(地球終末水爆)」はありえるのか?
ビキニ環礁で行なわれた「ベーカー」という原爆実験で、爆心近くに置かれた小型空母『インディペンデンス』は、ひどく破壊されたうえに、高濃度の放射能にも汚染されました。が、そのまま放置をしていたところ、3年間後には、残留放射能は1週間に0・3レンチェンという安全レベルに戻ったそうです(米原子力委員会編『THE EFFECTS OF ATOMIC WEAPON』1951年3月邦訳版)。
当時、科学者は、地球全体を放射能で汚染することができるのかどうかも試算しました。結論は、20キロトンの長崎型原爆を、地表の約200平方マイル毎に1発づつ、百万発ほど同時に炸裂させれば可能──ということでした。「同時に」とされたわけは、放射能は時間の経過とともに減衰したり希釈されてしまうからです。
その後、米ソとも、冷戦のピーク時の1980年代にそれぞれ数万発の核弾頭を保有しましたが、1990年代以降、弾頭総数は急減しつつあります。
○クレムリン・全景
ナレーション「モスクワ・1958年──」
○クレムリン内の会議室の出口
憤懣やるかたないという表情の中国の外交使節団が廊下へ退場していくところ。
○会議室内
大きなテーブルにフルシチョフその他のソ連要人が着席して中国人の退室を見送っている。
秘書官によって大きなドアが閉められる。
ソ連要人a「(うんざりした表情で)中国人は戦争キチガイか? 台湾などのために、どうしてわがソ連がアメリカと核戦争を始めなくてはならないのか」
ソ連要人b「スターリン時代にあれほど武器弾薬を援助してやった恩も忘れおって。図にのるな!」
フルシチョフ「(テロップ「スターリンの権力を引き継いだソ連共産党No.1 ニキータ・フルシチョフ」)同志諸君、警戒すべきだ。彼らはソ連の指導に従わないぞ。とりあえず核技術の供与はもう止めることだ」
ソ連要人a「ご安心を。目下、中国共産党内にわれわれのエージェントを多数、育てておりますから。彼らが毛沢東や周恩来を追放します」
○中国国内の某都市郊外の荒れ地・初冬の早朝の日の出どき
目隠しをされ、後ろ手に縛られた縄付きの中国人5名がひざまづかされている。いずれもインテリ風で、背広の者、白衣の者など。いずれも「反革命反党分子」と書かれた紙切れを衣服に貼り付けられている。
その後ろから人民解放軍将校が近づいて、拳銃で至近距離から後頭部を射って、次々に処刑。
周囲は軍警と、地方の党幹部らがとりまいている。民間の見物人はいない。
処刑された者たちが、前方の地面の大きな穴に転がし落とされる。
するとその穴の中には、すでに同様に処刑された数十体もが折り重なっている。
将校「(軍用無線機の受話器をとりあげ)同志幹部、モスクワの手先の第一次処刑を終えました。次のご指示を待ちます」
○中国某所・冬
毛沢東が党員多数を前にして演説している。
毛「偉大な中国は、人民の着る物すらないとしても、必ず原爆を独力で製造して保有しなければならない!」
大拍手。
○5番ドアのレクチャールーム
佐藤「アメリカ政府は共産主義の中国の核武装計画を気づいていなかったんですか」
講師「もちろん気づいていましたよ」
○12月のホワイトハウス・全景
ナレーション「ワシントン市ホワイトハウス・1963年──」
○大統領執務室内
ケネディ大統領とスタッフ数名がいる。
ケネディ「(テロップ「ケネディ新大統領」)偵察写真によれば、中国はもうすぐ原爆を造りそうだな」
スタッフ1「はい。早ければ今年、遅くとも来年には……。ソ連は、わがハリマン国務次官に、米ソが共同で中国を先制核攻撃しようと誘いました。どうしますか?」
ケネディ「うーむ……(悩む)」
スタッフ2「放置すればいい! 中国のミサイル開発はこれからです。ニューヨークに届く長距離ミサイルの完成はずっと先で、その前にモスクワに届く中距離ミサイルができる。きっとソ連が単独で中国と戦争を始めますよ」
ケネディ「そうだな。様子を見よう。だが、これを聞いたら、空軍参謀長のルメイ将軍は怒りそうだ」
スタッフ1「ルメイは日本を核武装させればいいじゃないかという考えですね」
スタッフ2「彼はただの全面核戦争マニアだ。ソ連が長距離核ミサイルを大量配備する前に、アメリカ空軍が先制核攻撃すれば勝てると公言している」
ケネディ「それは勝てよう。しかしソ連の武器はミサイルだけではない。地上軍で西欧に突進し、大都市を戦術核爆弾で破壊してしまう。そんな世界戦争を起こしたら、アメリカの道義的指導力がなくなるだろうよ」
●解説ページ アメリカの原潜の寄港を断った池田内閣
ソ連の核爆撃機が高高度で東京上空に達する前に撃ち落とすため、日本は1961年に「ナイキ・ハーキュリーズ」という射程の長い地対空ミサイルを、アメリカから導入しようとしました。ところが、この防空ミサイルには、空中核爆発を起こさせる小型の核弾頭の装着も可能であるというので、日本国内でソ連のために世論工作をしている勢力が、大反対運動を起こしました。けっきょく「ナイキ・ハーキュリーズ」の導入はできなくりました。
じつは1957年8月に、ソ連がアメリカ本土に届く長距離核ミサイルを完成したときから、アメリカは日本がソ連や中国から攻撃されたときは、日本を見捨ててしまうのではないかとの心配が生じていました。やがて1964年までには中国も核武装をするだろうと予測されて、この心配はますます強まったのです。
そこでアメリカ政府は1961年以降、横須賀港や佐世保港に、ポラリスという核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を頻繁に寄港させることで、核戦争のときにもアメリカは日本を守り抜くという意志を示そうと考えます。ところが、ナイキの論争のような騒ぎが、より大規模に繰り返されることを嫌った池田勇人総理大臣は、1963年、このアメリカの申し出を正式に断ってしまいました。
○5番ドアのレクチャールーム
佐藤「いったいそれまでの間、日本政府はどんな対策をとろうとしていたんだろうか?」
講師「できることは限られていました。ごく一部の人たちだけが、問題を的確に把握し、日本人の将来の安全のための政策を推進しようとしました」
佐藤「茨城県の東海村に原子力発電所をつくるのだけでも、大変だったでしょう」
講師「そもそも、被占領下からの戦後再出発でしたのでね」
○巣鴨プリズン・昭和22年の前半・夕方・全景
ナレーション「1947年・巣鴨戦犯拘置所──」
○獄舎内の湯気もうもうの浴室
洗い場は、ほどほど広いが、バスタブは5人くらいしか一度には入れない狭さである。 風呂は蒸気パイプで水を熱する方式なので、そのパイプが天井から浴槽につながっている。
入り口には、若いアメリカ兵のMPがヘルメットをかぶり警棒を右手にし、椅子に座って監視をしている。左手には人数分の安全カミソリを握っている。
八字髭や顎鬚を生やした、将軍級らしい60歳代のA級戦犯容疑者が4人、湯船につかっている。
戦犯1「(あごまでつかりながら)う〜、この歳になると旅順の古傷がうずいてならぬ。ワシはなんも悪いことしとらんのになぜA級容疑なんじゃ……」
戦犯2「マッカーサーはいつ釈放してくれるかのう。悪さはみんな部下がやりおったんだから」
洗い場では全裸の岸信介(51)がヒゲをあたっており、隣にもう一人。元警察官僚にして、読売新聞社のオーナーであった正力松太郎(62)が体を洗い終えたところ。
正力がツイと仁王立ちに立ち上がり、岸がそちらに顔を向ける。
正力は柔道十段の筋肉隆々、首から下はとても62歳には見えない。迫力ではまったく軍人たちに負けていない。
正力、いきなり手桶を湯船の奥にガバーッと乱暴に突っ込み、洗い湯をザバザバと自分の裸体にかけ始める。途中でこぼれる大量の湯しぶきが湯船の老人たちの頭の上から容赦なくふりそそぐ。
湯船の中の老人戦犯4人「うわっ、なんて乱暴な!」「よさぬかっ、正力!」「喧嘩ならやめとけ、柔道十段だというから」
正力『(湯をかけつづけながら)こんな卑怯未練な大将・大臣たちが日本を破滅させたのか……! 恥を知るといい!』
岸『(テロップ「元商工大臣・岸信介」)(正力の様子をみつめながら)正力松太郎……元警察官僚の気骨か。あの歳で帝国陸軍人たちを逆に威圧している……』
○都内の高級料亭の玄関・夜・昭和30年
ナレーション「それから7年後・1955年──」
○その料亭内の一間
白黒テレビで力道山v.s.外人選手のプロレス中継をやっているが、和服の女将の手がのびて、そのスイッチを消す。
ともに高級スーツに身をつつんだ、岸信介と正力松太郎が、胡坐で対座している。卓上には贅沢な日本料理と酒。
女将は両手をつき退室。
岸「(テロップ「日本民主党幹事長・岸信介」)正力さん、あなたは昭和9年にラジオ放送とプロ野球を結合させて成功されたが、戦後さっそくTV放送とプロレスの組み合わせにご注目とはさすがですよ」
正力「(タバコをふかしながら)ハハハ……岸くん。だてに巣鴨で『リーダーズダイジェスト』を講読しとりゃせんぞ。新しいメディアと時代にそくしたコンテンツは何かを考えとったのじゃ」
岸「そのメディア王の肩書きを捨て、ビキニ実験後の今年の総選挙で“原子力産業革命”をかかげて新人代議士となられた。感服の他ありませんよ(酌をする)」
正力「(真顔になりタバコの火を消し)モスクワの手先は日本転覆工作を継続中だ。北京もきっと核武装するだろう。そのとき日本の危機がくる。こんなとき出馬要請に応ずるのは元警察官僚の義務じゃろが」
岸「次の内閣がどこになるにしろ、新設される原子力委員会の委員長には正力さんが最適任です」
正力「噂だが、初代科学技術庁長官も兼任するかもな。まず原発から日本の核武装がスタートするんだ。キミも賛成だろ?」
岸「当然です。左派新聞と学界はソ連にあやつられ「平和利用三原則」(*)など反対プロパガンダを打ってくる。反日圧力にめげずに世論を導ける人はあなたしかいない」
(*)欄外註:1952年に吉田茂の自由党が発表した科学技術庁設立案は、核兵器開発を視野に入れたものだった。そして1954年に改進党の中曽根康弘代議士の働きで初の原子力予算案が可決されると、国防に無関心な学者たちの集団は、日本人学者は原子兵器に関わる一切の研究をすべきでなく、米国の原子兵器政策にも非協力を貫かねばならず、一切の研究に「公開・民主・自主」のチェックを入れろ、と唱えた。政府はこの要求を1955年12月制定の原子力基本法の中に、研究・開発・利用の原則として反映した。
正力「わしは軍人も怖くなかったし共産独裁も許さん。だがね、東京裁判で近代国民の気概を否定された大衆を、また新たな外敵に立ち向かわせるのは、難事業だよ」
岸「同感ですな。まず日米安保条約、次にマッカーサー憲法を改正せぬことには……(と、盃を上げる)」
正力「やがてモスクワは米英仏という三つの核武装国と向かい合う。ところが北京の敵は米国だけだ。そのとき日本が核兵器も含めて自前で武装できなかったら、次世代の政治家は北京の思想的奴隷になる。若い者は中国人の手練手管を知らなさすぎる」
岸「(頷く)道は遠いかもしれませんが、わたしも一身を日本に捧げます。同志もいます」
正力「そうだな(盃をかざす)」
○科学技術庁の建物正面
役人たちが同庁の墨痕あたらしい看板を玄関脇にかけている。
ナレーション「1956年1月、原子力委員会が設置され、日本民主党の鳩山一郎総理大臣は、正力松太郎をその初代委員長に任命した。正力は同年5月、やはり新設された科学技術庁の初代長官にもなる。また1957年からの岸内閣でも1年弱、この両職に再任された。東海村1号炉に導入が決定されたコールダーホール型炉は、兵器用プルトニウムの生産も可能な「黒鉛減速・ガス冷却式」だった。正力は日本の核武装を見届けることなく1969年10月に永眠した。」
○5番ドアのレクチャールーム
佐藤「しかしけっきょく日本は核武装するどころか、NPT(*)に調印したのではありませんか」
(*)欄外註:「核兵器の不拡散に関する条約」。アメリカの強いよびかけで日本も1970年2月に調印した。国会での批准は1976年6月。ただし至高の国益がかかったときには、脱退して核武装することができる。なお、これ以前に核武装している調印国は、まだ核武装していない国の核武装を支援してはならないと定められたにもかかわらず、中国はパキスタンの核武装を実現させ、それで何の罰もうけていない。
講師「戦後のアメリカ政府から見て、日本人も中国人も信用しにくい国民に見えました。そんな中で、先に核武装している中国は、アメリカの対ソ抑止政策に関しては、日本よりも頼りになると判断されるのです」
佐藤「つまり岸首相(*)に続く、ガッツのあるリーダーは出なかったのか……」
(*)欄外註:岸信介は1957年から1960年まで内閣総理大臣をつとめた。
【解説ページ】●アメリカの核の傘は対中国に関しては1971年になくなった
1969年1月にアメリカに新しいニクソン政権が誕生すると、北京は積極的な外交工作をしかけました。まず1970年4月に人工衛星をうちあげて、中国が核弾頭でアメリカ本土も攻撃できる能力に手が届いたことを誇示しました。つづいて1971年には、東京を核攻撃できる「東風3」という中距離弾道ミサイルを実戦配備しました。
そうしておいて中国は、東京近郊の基地からアメリカ空軍の核攻撃機(F-4ファントム)部隊を撤去するよう、非公式の国務省関係ルートで大統領に求めたのです。ニクソン政権はこれをうけ、1971年春に、それらの部隊を米国本土と沖縄に移駐させました。
もしも、横田基地など東京近郊の飛行場にアメリカ軍の核攻撃部隊が展開したままであれば、どうなるでしょうか。中国が「東風3」を東京にうちこむことは、自動的にアメリカ軍の核部隊に対する攻撃ともなってしまうでしょう。つまり、中国はアメリカとの核戦争の危険をおかさずには、日本を核攻撃することはできませんでした。それでは事実上、中国は、日本政府を核兵器で脅かすことができないわけです。
しかし1971年以降は、中国政府は日本をいくらでも核兵器で脅かすことができるようになりました。
アメリカ国防相は、このような国務省の対中国宥和姿勢には反対でした。そこで1972年からは、空母『ミッドウェー』を日本に寄港させようと運動をしています。