●”■×”(数字)  『北緯九十度のハッティ』


Part 2:女神の無礼講


 ヒマラヤ連山を遠くに望み、水量豊かなガンジス支流が蛇行するインド北部の平野の午後の風景。
 川沿いの町では、毎年2月に各地でクリシュナ女神を奉るヒンズー教徒の奇祭“HOLI”がたけなわで、護摩の炎の周りで大勢の男女が色水や色粉を互いにかけあっている。
 その町を見下ろすかのごとくに丘の上にそびえる、タージマハル風の白亜の知事別邸。
 その豪邸の前庭のテラス。
丸いテーブルの上には冷えたシャンペンが用意され、詰襟を着た下僕[※註:彼はターバンは着用せず。ここはシーク教徒の土地ではないので。] がグラスにそそぐ。
 そのグラスを持った手は細い女の手。
 女の全身。
 民族衣装を纏った、地方豪族・高官然とした三十がらみのペルシャ系美人(あまり黒くない)の女核技術者である。

女核技術者「(下界の騒ぎを見下ろしながら)清浄を重んずるヒンズー教徒が、互いの身体に色水や粉末をかけあう…。これ以上の無礼講はないでしょうね(と、目の前の客人に乾杯のしぐさ)」

●”■×”「(すでにシャンペンの注がれたグラスを持っており)この州の豪族の娘で、インド核エネルギー開発の統括者でもあるあんたが、そんな観光ガイドをするために俺を呼んだのか?」

 女核技術者、高慢なしぐさで、下僕に場をはずすよう指示。
 下僕、一礼して知事別邸内へ消える。

女核技術者「(グラスをテーブルに置いて)失礼したわ、●”■×”13。…でも仕事を依頼されるとき、あなたはすべての背景を知っておこうとする…そうでしたわね?」

●”■×”「…聞こうか」

女核技術者「一九八八年、インドは当時のソ連邦から、攻撃型原潜を五年契約で訓練用に借り受けたわ…」

●”■×”「チャーリー・I級だな…」

女核技術者「ええ。そしてその期限が切れる今年、旧ソ連が八〇年代に実験艦として建造した原潜『ポリニア』を、新たにインド海軍が『ハッティ』という名で購入する交渉も進んでいた…」

●”■×”「(葉巻に火をつけながら)…」

女核技術者「ところが、連邦崩壊の騒ぎで交渉がストップしていた間に、北京がこの“出物”の競りに参入してきたのよ」

●”■×”「(煙を吹き出しながら)中国が…?」

女核技術者「原潜ポリニアに搭載されているナトリウム冷却炉は、軽水冷却リアクターに比べ冷却材の伝熱量が大きく、加圧の必要もないので軽量小型で高出力を実現できる。ただ…」

●”■×”「…ナトリウムの腐食性と激甚な化学反応性のため、外洋での故障対処が至難。故に、戦列艦に実装された例は少ない…」

女核技術者「さすがね、●”■×”(数字)。貴方を選んだ私の目に狂いは無かったわ。…そう、実験艦ポリニアは、ロシアにとっては維持費のかかる古いお荷物でも、高性能潜水艦で米ソに追い付きたいインドや中国には、またとない技術サンプルなの」

●”■×”「…続けてくれ」

女核技術者「結局ロシアは売り値を競り上げるのが狙いだったらしく、“ハッティ”は予定どおり来月インドに回航されることになったわ。インド領海に入るまで売却契約のことは公表されないけど、当然中国軍部だけはこの航海の意味を知っていて、腹の虫の収まらない一部の幹部が“ハッティ”の破壊を画策しているらしいのよ!」

●”■×”「らしい?…漠然とした可能性か?」

女核技術者「いいえ、可能性[ルビ=ポッシビリティ]ではなく蓋然性[プラバビリティ]だわ。中国と半公然の対印同盟を組んでいるパキスタンに置いている我が国のスパイ網がもたらした、信用度の高い情報なの」

●”■×”「では、どこで狙ってくる?」

 女核技術者、黙って極中心の小さい海図を取り出し机上に拡げる。
 海図には“CONFIDENTIAL”(秘)のスタンプが押されている。
 ポリニア号の回航航路を示す太い線は、ムルマンスクを出港して北極点下を通りベーリング海峡に向かうが、その途中でシベリア沿岸の浅い海域に不自然に立ち寄る如くになっているのが目立つ。
 ペトロパブロフスク寄港後は、日本海経由で一路インドへと至っている。
 線には一日毎の位置を示す区切りが、日付と共に刻まれている。

女核技術者「これは先日ロシア政府から手渡されたハッティ回航計画のコピーよ。ペトロパブロフスク[※カムチャッカ半島にあるロシア原潜基地]以南には水上艦の護衛がつくわ。しかしそれまでは単艦航海。ロシアが“自分の庭”だと思って油断している厳冬の北氷洋こそは、テロリストの格好のつけ入り所じゃなくて?」

●”■×”「確かに周辺諸国の監視の目も無い北極海ならば、破壊工作を仕組むには理想的だ。しかし、出港後は原則として一度も浮上しない原潜に、誰がどうやってアクセスし、破壊する?…破壊成功イコール沈没、水死であるからには、いくらカネを積んでも運航サボタージュ以上の工作の協力者は得られまい」

女核技術者「ロシアの潜水艦隊司令も同じことを言ったわ。でもここを見て、●”■×”(数字)(と、海図の迂回立ち寄り箇所を指し)、ハッティは北極海で一回だけ浮上するのよ」

●”■×”「…そこは?」

女核技術者「二ヵ月前から氷上で北極圏の放射能測定をしているロシア科学アカデミーの観測隊が、今年は天候不順と装備不良のためここで遭難しかかっているの。その観測隊の中にアメリカ人研究者が一人混じっているので、アメリカ政府の圧力で、非軍事航海のポリニア号に救助命令が出されたのよ」

●”■×”「ひっかかるな。一般の原潜が任務中にみだりに浮上できないのはわかるとしても、航空機ではだめなのか」

女核技術者「飛行機は悪天候で近付けないし、他の原潜艦長には、氷の厚くなる厳冬の北極海で、浅海面を行動できる技量がないそうよ」

●”■×”「テロの可能性はロシア側に話したのか?護衛強化の要請は?」

女核技術者「それもだめだったわ…」

 挿入回想。
 サンクトペテルブルグでの海軍建物の一室。

ロシア海軍潜水艦隊司令『(机を拳で叩きながら)ペトロで艤装を改変するまではポリニア号は我がロシア海軍所属の軍艦である。それまでは、インド軍の警備兵を同乗させるなど言語同断。わが軍の威信にかけてお断りする!」

 もとの庭。

女核技術者「…結局オブザーバーとしてインド海軍武官一名の同乗を認めさせるのが精一杯だったわ」

●”■×”「俺にその肩書で乗組めと…?」

女核技術者「取り越し苦労ならいいんだけど、浮上地点が事前に判明しているのがどうしても気にかかる。浮上前後の一番危険の増す時に、あなたにハッティの内部にいてもらえば安心できるのよ」

●”■×”「(海図を見て考えている様子)…」

女核技術者「(落胆して)…やっぱり、こんなお願いを聞いて貰うのは無理よね。潜水艦が“事故”に巻き込まれて沈没した場合、脱出して生還できる見込みはほとんどないし…。まして気温マイナス三十度の北極圏じゃ…」

●”■×”「艦内での“対テロ”の仕事は、ペトロ入港まででいいんだな?」

女核技術者「おおっ、そ、それじゃ私達の“ハッティ”を、守護してくださるのねっ!?」

 インドの夕方の太陽がヒマラヤの山並みを照らす。
 下界のHOLI祭典は佳境にさしかかっている。

場面一転、北氷洋をダウントリム(艦首下げ)の姿勢で潜航していくポリニア号の水中全姿。

ネーム『原潜ポリニア号(=ハッティ)』

声1「深度百二十で塩水濃度遷移層に入りました」

声2「よし、水平!針路0(真北)に変針、炉心出力十%絞れ」

 発令所内。

副長「ここまでは順調な滑り出しですね、艦長」

艦長「ああ。今年の氷は厚そうだが、ソノブイ[※註:対潜哨戒機から投下する米国製ソナー・ブイで、東芝製スクリューで微速航行中の日本の潜水艦をも難なく探知するほど高性能だが、北氷洋では氷が邪魔で使えない。]を気にしなくてすむんだから文句は言えん」

副長「おっと艦長、今度の航海はあくまで平和目的。表向きは、極地科学調査隊の救出と、流氷調査のためにペトロパブロフスクまで行くのであって、決して外国にこの艦を売るためなどではないのですから、お忘れなく」

艦長「いや副長、すまんすまん。しかしそんな策を弄せんでも、中国の連中がこんな艦一隻のために北極海くんだりまでテロリストを送り込む理由も手段もあるワケがないのだがな!(チラッと隅の●”■×”を見る)」

副長「(●”■×”を見つつ)まったくですとも。こうして氷の下を進んでいる限りは、警備の強化などまるで無用。杞憂というものです」

 無表情な●”■×”の顔のアップ。
 水平潜航中のポリニア号全姿。

Part 3

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