フォール・ライン

没シナリオ大全集 Part 8


○重役室

専務「ハードディスクの中味が漏れない限りスキャンダルにはならん。しかしあの部内見積と提出見積の差額が知れたら、間違いなく融資取消しだ」

○喫茶店ビル前

電話の声「…会社が倒産したら、俺も社長も絶体にお前を許さん。一家心中にまで追い込むからな、…聞いてるか、八神!」

八神「事の重大さはわかってます。必ず近々にハードディスクを破壊して参ります!」

 八神、電話を一方的に切り、東の空を見上げる。

八神『パキスタンか…』

○インダス河中流
 人家まばらな荒れ地を流れるインダス河。
 その濁流の上を、溯行する船外機付きのゴムボートがある。
 そこに、木橋ら三人の大学生と、テレビ番組制作会社のディレクター・星野(30)、および臨時雇いの高地荷担ぎ人・アマト(33)が大荷物と共に乗っている。
 星野はインテリメガネをかけた優男風だが、体格は良い。

三ツ石「インダスの源頭に登れるなんて…!帰国したら山岳部の天狗どもに威張り返してやろうぜ、木橋!」

木橋「星野さん、番組製作会社のディレクターなのに、ビデオカメラをお持ちじゃないんですか?」

星野「あ、うん。沢登りでは装備は極力軽くした方がいいと、入門書に書いてあったからね」

三ツ石「そのとおりですよ。渓流溯行は日本で発達した登山技術ですから、入門書も信頼していいものです」

星野「頼りにしてるよ。私とシェルパは体力には問題ないが、三つ道具(ザイル,カラビナ,ハーケン)が扱えない素人だからね」

三ツ石「(岸根に小声で)しかし木橋よ、麓で雇ったあのアマトとかいうハイポーター(高地荷担ぎ人)、俺にはどうみても日本人に見えるが…」

木橋「ヒマラヤのシェルパ族出身なんだろ。彼らの中には日本人そっくりな者もいるそうだ…」

三ツ石「シェルパ族ならシェルパ族と名乗るだろうに、何度聞いてもそうは言わないんだ」

 寡黙にたたずみ、前方を眺めているアマト。
 ゴムボートの行く手に、カラコルムの大山脈、雲の上に幾重にもそびえている。

○出会い(=沢と沢の合流点)
 河巾が十数メートルに狭まり、両側に山脈が迫っている、相当の上流。
 ゴムボート、谷の二股出会い地点に来る。

木橋「星野さん、オーバーレイ地図によると、あの出会い(沢と沢の合流点)を右股に登るようですね」

三ツ石「(のぞきこんで)すごいな、ランドサット写真かよ」

 星野、ザックから携帯電話のようなGPSを取りだし、液晶で緯度経度を確認する。

星野「そうだ。そこからボートを捨てて歩きになる」

三ツ石「へーっ、今度はGPS(*)かァ…」
[※註:米軍ナビゲーション衛星からの電波を利用する地測装置]

木橋『…この装備、一体この人は…?いや、テレビの人だからな…』

 ゴムボート、右股の沢を少し溯った水深の浅いところで接岸、全員岸に降りる。
 アマトが黙々と荷物を下ろし、ゴムボートと一部の食料を、帰路のため岩屋のようなところに安置する。
 時間経過、一向、そこから徒歩遡行に移る。
 アマトは背負い子に山のような荷を乗せ、ピッケル杖を突きながら最後尾を力強く歩む。

木橋「長いアプローチになりそうですね」

星野「まあね。だがあのシェルパのスタミナなら大丈夫だろう。さすが自分から売り込んできただけある(と、最後尾のアマトを振り返る)」

岸根「でも、なぜヘリが使えないんですか?」

星野「現地はインドとの領土係争地に接しているのでね。地元の航空会社もヘリは飛ばしてくれんのだよ」

三ツ石「尾根道に出るのもだめなんですか?」

木橋「おい三ツ石よ、何度も説明されたろ。これは入山許可のないロケハンなんだ」

 星野、ニッコリうなづいている。
 眼光鋭いアマト、黙って歩きながらこの会話に耳を澄ませている。

○ゴルジュ(両岸が切り立った岩壁になっている狭い谷)
 一行は長大で険しいゴルジュにさしかかっている。
 地形的に、上に巻くことはできない。
 水量は雪解け水を集めて深い淵となっており、しかも轟々たる急流である。
 そこをへつり(壁つたいに進むこと)で前進していく一行。
 先頭は木橋、続いて星野、続いて大荷を負うたアマト、最後にザイル回収のため三ツ石。
 ジャンピング(埋め込みボルトの孔を穿つノミ)を持つ木橋の左手のアップ。
 そのジャンピングの頭部にハンマーが何度も打ち下ろされる。
 次にその孔にボルトが打ち込まれ、中で楔が開いて抜け無くなる。
 そのボルトについているリングにカラビナと鐙をぶらさげる。

木橋「さあ、鐙がかかった。星野さん、これを使って通過して下さい」

星野「すまんな。予期した通りの悪場だ(と、鐙をつかって越える)」

木橋「三ツ石、アマトさんを頼む」

三ツ石「ああ。…さあ、アマトさん、落ちないように気をつけて」

アマト「ありがとう。君も鐙の回収に気をつけて。この先もへつり(*)がありそうだから(と、危なげなく通過)」
[※註:崖にしがみつくように谷を遡行すること。]

三ツ石『に、日本語…!』

木橋「(へつりつつ、下を見て)上の雪解け水を集めてますね。深いし、急な淵だ」

星野「ああ。転落したら水中の流石でひとたまりもないだろうな。…F1(*)を越えるまでは君達の技術が頼みだよ」
[※註:沢登りのコース上、第一番目に出会う滝。]

木橋「F1通過後は楽になるわけですね」

星野「ああ。君達は用済みだ」

木橋「冗談きついなあ、ハハハ」

 危険な“へつり”遡行を続けて行く一行を下流からロングで。

○ナメ沢(岩盤の上を浅く水が流れているような地形)
 一行はゴルジュを突破し、軽快なナメ沢遡行に移っている。
 沢はゆるいカーブを描いているので、先までは見通せない。
 楽な地形なので、一団となって水中を歩いて行く。

星野「さっきのゴルジュを抜けたら、一転して楽なナメ沢になったな」

木橋「でも水温が低いから体力を消耗します。気は抜けませんよ星野さん」

三ツ石「アマトさん、疲れませんか?」

 ポツポツ…と雨粒が当たる。

アマト「私のことより、鉄砲水に注意なさい」

星野「(足元の水流が少し増したのに気付き)…!?」

 ゴゴゴ…という音が上流から聞こえてくる。

木橋「鉄砲水だ!すぐに来るぞ」

 と見ると、アマトはいち早く谷のカーブ内側の崖の高棚で岩頭にザイルをまわして確保の準備を整えている。

アマト「こっちに走りなさい!」

 三ツ石、木橋、星野の三人、アマトの投げたザイルにしがみつく。
 星野はやや遅れるが、間一髪、木橋らの手で岩棚の上に引き揚げられる。
 上流から大石を含む凄まじい濁流がやって来、岩棚の下を通過していく。
 雨がしとしと降りになっている。

アマト「明朝までここでビバークするのが安全だろう(と、簡易テントの設営を始める)」

星野「それにしても沢のコースというのは恐ろしいものだね。君達がいなかったらとっくに遭難していた…」

木橋「ええ。よくハイカーが道に迷って沢を下ろうとしますが、沢はゴルジュや滝の連続なので、たいてい途中で進退極まってしまうんです」

三ツ石「僕も無名の沢でそうした遭難者が餓死しているのを発見したことがありますよ」

星野「(独白)山の素人が谷筋を下山しようとするのは自殺行為か…」

 アマト、会話の聞こえる範囲で黙々と作業をしている。

○翌朝・同地点・晴れ
 鉄砲水は引いたが、下のナメ沢はすっかりゴーロ(巨石がゴロゴロしている地形)に変わっている。
 アマトはテントを畳んでパッキングしている。
 他の三人は、サブザックを背負い、出発準備完了。

星野「(アマトを見て)燃料と食料に我々の私物まで担がせた上、天幕設営までさせるのは悪いような気もするな」

木橋「あれが彼らの伝統ですよ。初期のヒマラヤだって、頂上直下までシェルパのガイドがラッセルして道をつけた。登山家はその後を空身でついていったんです」

星野「そりゃ初耳だ」

木橋「しかしシェルパ族はそれを決して口外しない。苦労を買って名誉を売るのがヒマラヤ・ガイドの伝統だからです」

三ツ石「もっとも最近じゃ、昔風の律儀なシェルパはいなくなったそうですけどね」

星野「ふうん…。ただのハイポーターを名乗る彼が、古き良きシェルパの伝統を守っているとはね…」

 パッキングを終了したアマト。
 一行、進み出す。

三ツ石「(大岩ゴロゴロの沢を見て)昨日のナメ沢が一夜にしてゴーロだ。すごい鉄砲水だったな」

木橋「ああ。(地図を見て)午前中に最大難所のF1まで辿り着こう」

○F1直下・時間経過

声「うひゃーっ、百五十mが二段の大滝だ」

 四人、F1を見上げている。
 下の大きな滝壷は深そう。
 滝の両側斜面はオーバーハング気味の手がかりもほとんどない岸壁。
 滝の水量は大したことはなく、淵の水流も遅い。

三ツ石「F1は、実は二段滝だったのか(と、遡行記録図に滝のマークを二つ描く)」

星野「どうだ木橋君、落差三百mの最後の難所、遡行できそうか?」

木橋「巻くことはできないでしょう。…直登の手がかりは…やはり中央にしかないですね」

 手並みを拝見、といった態のアマト。

○滝壷・時間経過
 ザバッと水中から、滝直下の岩の上に這い上がる木橋。
 木橋の手にはザイルの端が握られている。

木橋「よーし、エアマットを浮袋代りにして一人づつ泳いで来い!」

 全員順番に滝壷を泳いで木橋のいる岩までたどりつく。
 岩の上には滝水の飛沫がかかっている。

木橋「これからシャワークライムだ。まず俺がザイルを持って登り、滝口で確保する」

三ツ石「星野さん、いいですね」

星野「うむ、もうやるしかないだろう」

 トップを登り始める木橋。
 途中何度も手が滑ったり、浮石を踏み転がしたりしながら高度を上げていく。
 遂に一段目の滝口・兼・二段目の滝壷に立つ。
 ハーケンを打ち、カラビナをかける。
 狭い足場で飛沫を浴びながら確保姿勢を取る木橋。

木橋「星野さーん、上がってきて」

星野「おう!」

 腕まくりした星野、ザイルを掴むと、ロープ登りのように垂直壁を登って行く。

三ツ石「(見上げて)すげー体力だな。こりゃ驚いた」

 アマト、星野の袖まくりした左腕に注目する。
 左腕の肘の内側だけに、広範な皮膚の黒ずみがある。
 星野、木橋の位置までに到達。

星野「いやー、こんな手がかりの滑りやすいところを良く登れたね、木橋君」

木橋「いや、途中何度か危なかったですよ」

星野「帰りは大丈夫か?」

木橋「ここにハーケンを残していきますから、帰りはそう苦労はしません」

星野「そうか…」

 今度は三ツ石とアマトが前後して登って行く。

三ツ石「アマトさん、大丈夫ですか(振り返る)」

 アマトはザイルに頼らずに登ってくる。
 しかも、指は第一間接から九十度曲がって、鍵爪のように岩の段差をとらえて、リズミカルに高度を稼いでいる。

三ツ石『指の第一間接が鈎のように曲がって…しかも、指一本であの全重量が支えられるのか…!』

 と、三ツ石の上方で、滝の中にしぶきが上がる。

三ツ石「(振り仰ぐ)何…!?」

 突然ザイルが切れる。

三ツ石「うわーっ!(落下を始める)」

星野「三ツ石っ!(ザイルを引くと、すぐ手元から切れている)…!?」

 転落する三ツ石のハーネスについたカラビナの穴を、ピッケルの石突きが貫く。
 ピッケルは草付きの表土にしっかりと刺さっている。
 これで三ツ石の落下、ガクンと止まる。
 片手でピッケルを刺して落下を止めたのは、アマトだ。

アマト「三点確保を常に忘れないことだ」

三ツ石「アマトさん…!」

○一段滝の滝口
 全員揃う。

木橋「不思議だ…新品のザイルなのに…」

星野「滝に運ばれた小石がザイルを切ったのかもな。まあ何にしても無事でよかったよ」

三ツ石「全く、アマトさんて、すごい人だよ」

 アマト、黙って星野を見る。
 星野、黙ってアマトを見返す。

三ツ石「よし、今度は俺がトップをいく(と、よじり始める)」

木橋「いいだろう。ここは“バックアンドフット”で楽勝だ」

 二段目の滝は、滝口がまで細いチムニー(人が入れる縦の割れ目)状。
 三ツ石、割れ目の中で背と足をつっぱり、飛沫を浴びながら高度を稼いでいく。
 チムニーの終点、滝口中央にはチョックストーン(露頭岩)がある。
 三ツ石、チョックストーンによじのぼり、ハーケンを打ち込んで垂らしたザイルの一端を固定。

三ツ石「星野さーん!」

星野「OK!(と、ザイルを頼りに登って行く)」

 上では、チョックストーンを踏ん張りながら、三ツ石がザイルを手繰る。
 やがて星野も二段目の滝を登り切る。
 星野、上流を見る。
 上流は雪渓の平坦な沢が続いている。

三ツ石「あとは平坦な沢のようですよ」

星野「そのようだな…」

 星野、スタスタと上の方へ。

三ツ石「よーし、今度は木橋!」

 下で木橋、手を振って応答。
 三ツ石、ザイルを手繰る。
 木橋、順調に登って、あと半分の地点に至る。

アマト『…!』

 突如、三ツ石の乗ったチョックストーンがグラつき始める。

三ツ石「しまった、こいつは浮き石か!…星野さん、手を!」

 振り向くが星野の姿はない。

木橋「どうした、三ツ石ーっ!」

 まさに滝壷に落ちようとするチョックストーン。

三ツ石「落石!木橋、ザイルを切ってくれーっ!(と、ザイルを離し、水流の中に倒れ込むと、チョックストーンが転落する)」

 ザイルの端末が固定された岩塊が、木橋の頭上から落下してくる。
 そのザイルのもう一端は、木橋のハーネスに結ばれている。

木橋「うわっ、間に合わん…(手探りするが間にあいそうにない)!」

 岩が木橋の背を飛び越えて落ちていく。
 そのザイルが延びきって、まさに木橋を引き落とさんとする。
 と、何者かの手が、ナイフでザイルを切断する。
 すぐ下を見る木橋。
 アマトだ。
 
 木橋「アマトさん…いつの間に…?」

星野「(どこからともなく現われ、下を覗き)大丈夫かァーッ!」

三ツ石『星野さん…今までどこにいたんだ…?』

○平坦な沢
 最後の前進を続ける四人。
 と、前方に雪が谷の水流でトンネル状に残った巨大なアーチが見えてくる。
 高さ数メートル、長さ数十メートルのアーチの下を通る他はない。
 もう水量は少ないので、足元に不安はない。

三ツ石「もう難所は無いと思ったら、こりゃあ…」

星野「こうした雪のアーチはわずかな音でも崩落するそうだね」

木橋「ええ。一人づつ行きましょう」

 と、進み行こうとするところをアマト、制して、

アマト「いや、ここは私から…」

三ツ石,木橋「アマトさん…」

 アマト、さし足でアーチの下をいく。
 星野、目が光る。
 内部は雪融け水が滴り落ち、確かに崩落の危険がある。
 アマトの耳に、ピシッという鋭い音が聞こえる。

アマト「…!!」

 突如、アーチ全体が崩落し、アマトの姿は雪煙の中に見えなくなる。

三ツ石,木橋「アマトさん!!」

 星野、ニヤリとしている。
 雪煙が静まり、アマトの姿はどこにもない。

三ツ石「アマトさん…(茫然としている)」

星野「かわいそうだが、捜索はムダだな。…シェルパは遭難場所での埋葬が伝統という。このままにして、日暮れ前に目的地に急ごう(と、雪を踏み分けて更に上へ向かう)」

木橋「星野さん…」

三ツ石「ううっ…アマトさん…!」

続き

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