サラダ・サージェリー
没シナリオ大全集 part 1
第三話:悪妻
○数田の借家・全景・早朝
新宿高層ビル群を遠くに望む、東京都中野区にある一戸建ての借家。
建物と敷地はいかにも手狭で、庭といっては、わずかに塀で囲われた猫の額のようなものしかない。
その狭い庭には、数田の妻が丹精している多種多様な鉢植が所狭しと並んでいる。
両隣りの個人宅との間は、高いブロック塀で仕切られている。
○数田の借家の中・急な階段
いかにも手狭を示す急な階段を、ワイシャツの裾を出し、ネクタイを首に巻き付けた銀行員・数田(44)が、電気剃刀でヒゲを剃りつつ、寝足りなそうな充血眼で降りてくる。
壁の時計は午前5時40分。
○同・ダイニングキッチン
ドアを開け、DKを覗いた数田、変な顔をする。
食卓の上に、何もない。
数田「(階段の上に向かって) オイ…!」
やや間があって、数田の妻・沢子(41)が、寝室から寝起き顔を出す。
沢子「…なんですか?」
数田「(怒って) 今朝は日本橋本店で会議だから、早メシを頼むと言っておいたろう!」
沢子「私、体調が悪いのよ。食べ物なら戸棚にシリアルが残ってるわよ」
数田「(内心腹を立て) そんな塩気の無いものじゃ元気出ないよ…」
沢子「だって夜中の2時に帰ってきてそんなこと頼む方が悪いんでしょう」
数田「わかった、わかった。駅でソバでもすすった方がマシだ! (と、銀行員風のカバンをとって出掛けようとする)」
沢子「(階段を降りてきて) 待って、お隣りの前芝さんちの雨樋が、まだ壊れたままなのよ…」
数田「(タタキに座り、靴のホコリを自分で布で拭きながら) それがどうした?」
沢子「苦情いってきてよ! 雨が降るとこっちの鉢植にすごい水がかかって、ひどいんだから」
数田「そんな文句は、毎日花いじりをしてるおまえが言ったらいい。いい加減にしてくれ」
沢子「なによ! 私にはこんな小さな借家の、猫の額みたいな庭に鉢植を並べるくらいしかさせてくれないんじゃないのよ!」
数田「あたりまえだ。八州銀行の支店次長が、女房に植木屋のマネなんかされてたまるか! 体面ってものを考えろ!」
沢子「体面ですって? それじゃ、一郎が予備校にも行かずにパソコンゲームなんか作ってるのは? みんなあなたの放任のせいだわ!!」
一郎「(二階から顔を出し) 朝からギャアギャアうるせえなあ…。隣りに聞こえてるのが分かんないの、オタクたち?」
沢子「…」
数田「…(状差しに差しっぱなしになっている新聞を掴み取り、ドアを開けて出ていく)」
○停留所・やや時間経過
停留所名『狢町7丁目』、路線名『中野駅行き』と書かれたバス停から、客を乗せたバスが発車する。
○そのバスの中
最前席に座った数田、新聞を拡げて、フーッと大きな溜息を漏らし、肩の力を抜く。
一面の見出しには、『不良債権で金融界 軒並み赤字決算か』という活字も見える。
数田『(ふと顔を上げて)…家を出てホッとするなんてなぁ…』
○ロング
駅の方向に走り去るバスの後ろ姿。
○日本橋銀行街・午前8時半
日銀を中心に広がる、銀行群。
地銀や信金の本支店が軒を連ねる一角に、『八州銀行・日本橋本店』も見える。
○同本店全景
○同本店ビル内・会議室前の廊下
開け放たれた大きなドアの前に『次長定例会議 9時15分ヨリ』と記された案内掲示が。
会議にはまだ時間があるので、関東各支店の次長(=副支店長、いずれも数田と同年輩)たちが、廊下のあちこちで立ち話をしている。
その一グループの中に、事務封筒の束を脇に挟んだ数田もいる。
次長#1「(通りしなに声をかけ) よう、数田。西新宿支店じゃ、着々と債権を回収してるようだな」
数田「いやなに。たまたまバブル期に古美術品で投機をやった融資先が多かっただけさ」
次長#1「それが強運だ。個人的趣味が担保の評価に役立ったわけだから」
次長#2「噂では西新宿支店長は本店営業部長に栄転し、君も支店長に昇格というぞ」
数田「(滅相もないという手振りで) 人事のことばかりはねえ…特にわれわれ大量採用組は、いつ関連企業に追い出されてもおかしくない」
次長#2「数田は大丈夫さ。あの会長のバツイチ娘も中国磁器が趣味で、覚えがめでたいそうだからな」
次長#1「へえ、あのモデルみたいなブランド女がか。(数田をつつき) それじゃ、今の女房さえいなきゃ…なんて考えるだろう?」
数田「(ニヤニヤと) よしてくれ、バンカーは信用が命だぞ」
そこへ、人影が通りかかる。
人影(会長)「オッ、数田君か」
数田「…?」
見ると、秘書(♂)を従えた会長(67)が立っている。
次長#2「か、会長…![噂をすれば…]」
三人「(うやうやしく) お早うございます」
会長「うむ。数田君、ちょっと…(と、手招く)」
○廊下のコーナー
秘書は廊下の壁際に離れて控えている。
観葉植物の陰で、会長、数田に額を寄せる。
会長「…会議前の準備もあろうが、これは是非君の耳に入れておきたい」
数田「(恭しく) なんでございましょう」
会長「今度、2つの支店で支店長の空きができそうだ」
数田「(畏まって) はっ、左様で…」
会長「このポストを争う、次長歴3年以上の者は、君を含めて7〜8人だ」
数田「…!(一瞬、廊下の向こうにいる同期たちに目をやる)」
数田『…すると、まだ俺に内定はしていないというのか!?』
会長「(ますます耳に口を近付けて) 君は娘とも趣味が合い、私も贔屓にしたいところだが…重役会議で強く推せない理由がある…」
数田「わ、わたくしに一体、どのような落度が…? ご教示を、会長」
会長「(苦々しそうに) 分らんか、君の奥さんだ」
数田「(ショックを受け) 沢子が…私の昇進の障害に!?」
会長「同期の次長たちはみな家族ぐるみで地域に溶け込み、社交を通じて支店の営業
に貢献してるのだよ。それなのに君の奥さんは、ありゃ何だね?」
数田、脂汗をにじませながら、田舎じみた格好で庭いじりをしている妻・沢子の日
常の姿を想起する。
数田「(すっかり恐縮し) 汗顔の至りです。地域密着銀行の行員として自覚が足りませず、面目ございません」
会長「(あらぬ方角を見ながら) これは内々に教えておく。次の異動で支店長になれなかったら、『鹿沼観光開発』の取締役になってもらう」
数田「(顔面蒼白となり) か、鹿沼観光…? あの栃木の赤字ゴルフ場を抱える融資先に…!」
会長「当行には大量採用した下がつかえとるでな。じゃ、会議、しっかり(と、肩をポンと叩いて秘書とともに歩み去る)」
○都内の道路・同日午後1時・小雨
日本橋から新宿に向かって走る八州銀行の社用車。
○同・車内
後席には呆然自失の数田。
ドライバー「(ルームミラーを見ながら) 西新宿支店に直行でよろしいですね、次長?」
数田、ドライバーには答えず、雨水がしたたる窓ガラスをぼんやり見ながら、20年以上前の沢子との婚約当時を思い出している。
○数田の回想シーン
妻の実家である、田舎の大農家の大庭園で沢子を口説く、若き日の数田。
背景には、1960年代型の数田の乗用車(スバル360のようなものか)が停めてある。
沢子は顔を赤くして背中を向けてはにかんでいる。
数田『…沢子は今でこそああだが、もともと地方の大農家の長女でひとみしりする性格なんだ。…同期たちの細君のような社交活動など…とてもダメだ…!』
数田の回想、終り。
○元の車内
数田『(両手で頭髪を掴み、瞑目して) 栃木の片田舎の会社重役が、俺のキャリアの終点か…。あいつと所帯を持った結果が…』
ドライバー「(怒鳴って) 数田次長!」
数田「(気づいて) ン? すまん、ちょっと考えごとを…」
ドライバー「(自動車電話に左手を置きながら) いま支店に御子息からお電話があり、至急ご帰宅を、とのことです。最寄り駅でよろしいですか?」
数田「えっ、一郎から、すぐ帰れ? どういうことだ?」
ドライバー「奥様ですよ! 園芸用の脚立から転落して、お怪我をなさったそうです」
○数田の借家の庭・雨上がり
猫の額のように狭い、ブロック塀で囲われた前庭に、立体棚がならべられ、いずれも見事に丹精された鉢植がズラリと並んでいる。
近くに脚立もある。
軒の庇からは雨上がりの滴がしたたっている。
声(数田)「…立体棚の一番上の鉢を動かそうとしたって? 一体、雨の中を、なんでそんな…?」
○二階寝室
ガラス窓越しに、隣りの家の壊れた雨樋が見える。
寝室の一方の壁には、数田の蒐集品である元〜北宋時代の磁器が、陳列されている。
一郎「隣りの前芝さん家の雨樋だよ。ほら、あそこが壊れてて、水がザアザアかかるんじゃないか」
数田「(鞄を提げたままの姿で)チッ…で、本当に病院で診てもらわなくてもいいのか、沢子?」
ベッドで寝ている沢子、目を合わさずに、無言でうなづく。
一郎「だめだよ、外から傷が見えなくても、検査してもらわなくちゃ!」
数田「本人が大事ないというなら、いいだろう (と、出ていく)」
一郎「どこ行くのさ?」
数田「(階段を降りながら) 分ってるだろう。銀行は表のシャッターが閉まってからが本当の仕事なんだぞ」
○庭
雨に濡れた立体棚と脚立。
○数田の借家・数日後・夜明け
雀が鳴いている。
ネーム『翌々日−−。』
○庭
立体棚の鉢のいくつかに、雑草の芽が生えかけている(沢子があの日以来性格が変わり、植木の手入れを全くしなくなったことが、以下、徐々に示唆される)。
○数田の書斎 兼 応接間
学習机に向かい、徹夜の持ち帰り残業をしている数田。
壁のケースには、数田の趣味である元〜北宋時代の中国磁器の蒐集品が、小振りの物ばかり十点ほど並んでいる。
書棚には、やはり数田の個人的趣味を示す、古美術関係の本や雑誌が並んでいる。
学習机の置き時計は、午前6時10分を指している。
数田「(ペンを置き)…フーッ、また徹夜になっちまったか。が、これで報告書は一丁上がりだ」
○玄関
数田「いまさら目が冴えて眠れん。久々にゆっくり新聞でも…」
状差しに新聞がない。
数田「オッ…?」
数田、下を見ると、いつもの通勤靴がピカピカに磨き上げられて揃えて置かれている。
数田「靴がピカピカじゃないか。一郎がこんなことするわけはないし、まさか…?」
○ダイニングキッチン
沢子が朝食の用意を万端整えている。
そこに数田、顔を出す。
数田「お…おまえ、早いな…」
キッチンテーブルの上には新聞も置かれている。
沢子「(平然と) あら、私、実家ではすごい早起きだったのよ」
数田「(テーブルの上を見て) ウッ…!」
テーブルの上には、蒸し魚とキャベツのオレンジ漬けを主菜にした和朝食の準備ができている。
数田『蒸し魚とキャベツのオレンジ漬け…!? 以前こんな朝メシをつくってみせろと冗談で言ったことがあるが…気にしていたのか、沢子…』
数田、沢子の顔を改めてまじまじと見つめる。
性格の変わった沢子は、ふだんの何倍も美人に見える。
○数日後・数田の借家の前の道・夕方
数田がいつもより早い帰宅で、玄関前に向かって歩いている。
数田『やれやれ、土曜出勤で夕方の帰宅か…こんな生活が停年まで続くんだろうな…』
数田、借家の庭の前を通る。
数田、ふと庭をのぞきこむ。
庭に脚立はない。
また、立体棚の鉢植は、枯れたり、ペンペン草が生えたりしている。
数田「(庭の様子を見ていぶかしみ)…」
と、隣家から、大工仕事の音が聞こえてくる。
声(隣家の戸主の前芝老人)「やあ、お隣りの旦那さん、お帰りなさい!」
数田が見上げると、一見江戸っ子の頑固親父風に見える隣家の前芝(66)が、かつて本職の大工であったことを示す印半纏を着て、いかにも慣れた格好で、屋根にはしごをかけて上り、いましも雨樋を修理し終えようとしているところである。
数田「(振り仰ぎ) あっ、これはお隣りの…只今戻りまして…」
前芝「(道具箱を肩に、梯子から降りてきて、いかつい顔に愛想笑いをたたえて) 旦那さん、うちの雨樋、ずっと壊れたまんまで、どうもすんません。元大工[でえく]なのに、これが『紺屋の白袴』ってやつで…(と、頭を掻きながら御辞儀)」
数田「(テレ笑いを浮かべながら) いえ、そんな…かえって恐縮します」
前芝「それにしても今朝は見直した。失礼ながらお宅のお内儀さん、近所付き合いはなさらねえ方だと思っていやしたが、マア、あんなにカラリとしたご気性たァ…」
数田「(驚き) えっ、それじゃ家内が、そちらへ雨樋のことを…?」
前芝「ま、あっしはこんな面相だが恐いのは顔だけだ。今後ともお気安う願い上げますよ (と、屋内へ引っ込む)」
数田『あの引込み思案の沢子が…自分で隣家へ苦情を言いに…? 頭を打って、すっかり性格が変わったのか?』
○西新宿支店・翌日
いつもの出勤風景。
○同支店・屋内
『次長室』と表示のある部屋のドアを、出勤してきたばかりの数田が開けようとする。
と、廊下の向こうから支店長(48)が歩いてくるのが見える。
数田「これは支店長、お早うございます」
支店長「(近付いてきて) おはよう数田君。最近何か良い事でもあるのかね? なんだか若返ったような感じすら受けるが」
数田「(頭を掻き、照れる)…いや…これといって特に…」
『“性格美人”になった女房に惚れ直してまして…なんて言えるわけないだろう!』
支店長「(ニコニコしながら数田の肩を叩き) 君の奥さんのことも耳にしているよ」
数田「(カーッと赤くなり) こ、これは赤面の至りです…しかし一体どうして支店長はそれを…?」
支店長「オイオイ、何を勘違いして赤くなってる。最近、地域ボランティアの幹事役をいくつも引き受けているという良い噂だ。君の次の異動は…いよいよ確実だね(去る)」
数田『(立ちすくんだまま) …!?」
○同日夜9時半・数田の借家前
月光が数田の借家の庭を照らしている。
鉢植は放置されたままで、植木道具の類はどもれ使われておらず錆び付いている。
会社から戻った数田、玄関前に至り、ホケットから鍵を出す。
○同屋内・ダイニングキッチン
数田が入室すると、電気が消えている。
数田『どうしたんだ…まだ夜の9時半じゃないか?』
数田、壁のスイッチを入れ、室内、明るくなる。
と、背後から、マグカップを持った一郎が入ってくる。
一郎「ママは先に寝ちゃったよ」
数田「(振り向き) おう一郎か、それならいい。明日は祭日だし」
一郎「(自分のカップにコーヒーを注ぎながら) あの事故以来、すごく疲れやすくなったみたいだけど」
数田『(ギクッとして) うっかりしていた…確かに沢子の最近の疲れ易さは普通ではない…!』
一郎「やっぱ、異常だと思うよ (と、自室に通じる階段を上っていく)」
数田「そ、そうか…」
○翌朝・数田の借家の前庭
休日服装の数田が、錆びついて放置されている沢子の植木道具を使い、庭の草とりをしている。
数田『(手を止め、集積した雑草をぼんやり眺めて) 本人は何でもないと拒むが…あんなに好きだった庭の手入れにも興味をなくしたなんて…やはり無理にでも検査を受けさせるべきか…?』
声(佐良土)「数田さん…ですね?」
数田「(振り向き)…?」
佐良土「こんな朝方に失礼しますが、武州仁術会の林理事から紹介状をいただいて参りました、佐良土と申します (と、紹介状を差し出す)」
数田「(紹介状を見て) はあ、林先生には総合病院への融資など、なにかとお世話になっていますが…休日にご用というのは?」
○町の小さな公園内・やや時間経過
佐良土と数田、前のシーンと同じ服装で、歩きながらの話を続けている。
佐良土「…それで、この男の当座預金が最後に動かされたのは何時で、相手先はどこかをお教え願いたいのです!」
数田「佐良土先生、手前ども銀行が、お客様の取引につき第三者に開示できるわけがないじゃありませんか」
佐良土「では、私の事情を説明させてください、数田さん!」
数田、佐良土の顔をじっと見返す。
佐良土の額の生え際には、ごく小さな穿孔手術痕が認められる。
○佐良土の回想
湯口の肖像。
ネーム『…私の師、そして私が追っている天才医師・湯口は、若くして米国に帰化し、脳外科学を修めた一世でした。』
○サイゴン市内の病院・1960年代
頭部を包帯でぐるぐる巻きにした負傷米兵が、病院前に降りたUH-1ヘリコプターから担架で搬出されてくるところ。
ネーム『ベトナム戦争中、彼はサイゴンの兵站病院で頭部受傷患者を何百例となく開頭し、国内だったら20年はかかった臨床経験を3年で得て帰国します。』
○フィラデルフィア市の某総合病院
湯口が、救急隊のストレッチャーで担ぎ込まれてきたばかりの犯罪者風の頭部負傷患者を緊急手術しようとしているところ。
ネーム『私が医大の教授と反りが合わずに渡米し、やっとフィラデルフィアの病院で救急医の職を得たとき、湯口はそこで頭部銃創のエキスパートとしてメスをふるっていました。』
○同病院手術室内
主執刀者の湯口と、頭部手術台を挟んでその向かいに立つ若き日の佐良土。
ネーム『湯口は、犯罪や事故絡みの頭部外傷急患を、私を助手として治療しました。私は彼から、脳神経外科術のすべてを学びました。』
○同病院診察室内
黒ずくめの男が、スーツケースから札束を取り出して湯口に渡している。
それを衝立の陰から、カルテを抱えた佐良土が偶然目撃して驚いている。
ネーム『しかし私は、湯口がその天才を悪用していることを知ってしまいました。彼は、刑務所不足と凶悪犯罪の増加に悩む州司法局のために、違法なロボトミー手術(*)を請け負っていたのです。』
[※註:ロボトミー=前頭葉を神経的に他の脳から切り離す、不可逆的な手術。兇暴な性格はかげをひそめる一方、患者は生涯、無気力な人間となる。]
○同病院医師待機室・深夜
机上、手前に湯気の立った呑みかけのコーヒー。
机上の奥、白衣の佐良土が突っ伏して昏睡している。
佐良土の背後からは、手に睡眠薬の袋を持った湯口が立ったまま見下ろしている。
ネーム『私がそのことをFBIに通報したことに感付いた湯口は、ある晩、私のコー
ヒーに薬を入れて、昏睡させ、そして…』
○手術室
手術台の上で目を醒まし、上半身を起こした佐良土。
自分の右側の額の生え際の辺りを手で触れて、驚きの表情。
そこにはごく小さな手術痕がある。
ネーム『…翌日私が目を醒ました時、私の額には、なんと湯口による術式不明の手術痕があり、湯口はすでに国外へ逃亡していたのです…!』
佐良土の回想、終り。
○元の狢町の公園
佐良土「湯口は復讐のつもりで、私の脳にどんな細工をしたのか…あるいは? 真相は、術者である湯口にしか分りません。だから私は、こうして彼の行方を追っているのですよ」
数田「そうでしたか…南米に支店の多い当行が、黒い資産の移動に利用されないとは限らない…しかし利用者がどんな方であれ銀行としては…(と、腕組みして考え込む様子)」
佐良土「数田さん、私は金額を教えろとは言っていない。最後に送金のあった支店の名前だけでいいのです」
数田「…わかりました。違法ではありますが、特にお調べしてお教え申しましょう」
佐良土「ありがとう、数田次長」
数田「しかし無条件ではありませんぞ。あなたも違法行為をしていただこう。それが“担保”ですな」
佐良土「銀行マンらしい用心深さだが、一体それは…?」
数田「あなたの医師免許は日本国内では有効ではないでしょう。そこを曲げて、極秘の診断をお願いする」
佐良土「この私に、秘密診療を…?」
○佐良土の借家の庭・時間経過
ペンペン草の生えた鉢越しに、庭に面した窓が見える。
そのガラス窓の向こうで、カードを使って、椅子に座った沢子に視野検査をしている佐良土の姿が見える。
佐良土「…(ガラスの向こうで聞こえない)」
沢子「…(ガラスの向こうで聞こえない)」
○佐良土の借家・屋内
佐良土の後ろでは、数田が心配そうに様子を見守っている。
佐良土、今度は望遠鏡のアイピースのような形をした筒状の小型ルーペをポケットから取り出し、左手でペンライトをつける。
佐良土「(沢子の目をペンライトで片方づつ照らしながら小型ルーペで覗きこむようにして) 今度は眼底を見ますから…」
沢子「先生、本当に私、何ともございませんのよ」
佐良土『(反対側の目を覗きながら) 眼底所見では脳内圧亢進の兆候はない…』
佐良土、ルーペとペンライトをポケットに仕舞い込み、数田に頷く。
数田「沢子、もうさがっていいよ。手間をとらせたね」
沢子「それじゃ、いま、お茶菓子をお持ちしますわね (と、次室に消える)」
数田「(佐良土に歩みより、声を潜めて) どうなんです?」
佐良土「…脳底部の薄い骨にヒビが入って、脳実質の奥深いところに細菌性の小さな膿みができた可能性があります」
数田「ええっ、脳底…? でも家内は頭のてっぺんを打ったのでは?」
佐良土「脳は、衝撃の加わった反対側に障害を生ずることがあるのですよ」
数田「それじゃ、しかるべき病院で手術してもらわねば! ええと、林理事のプライ
ベートな電話番号は…(と、手帳の住所録を繰る)」
佐良土「(数田を制し) 慌てずに。どこの病院でも、出血等のない脳底骨折は、外科的治療はせず、保存的に経過をみるものなのです」
数田「(ホッとして) なんだ、それなら放置しておいて、構わんのですな?」
佐良土「いいえ。事故以来、性格が変化しているというのが本当なら、放置すると徐々に最悪の転帰に向かう可能性もあるでしょう」
数田「(佐良土の腕を掴み)“最悪の転帰”…? それは、死ぬということじゃない
か、おい!?」
佐良土「数田さん、最新医学も万能じゃない。脳の深部にメスを到達させようとかきまわせば、それだけで運動や精神に不可逆的障害を生じてしまうんですよ」
数田「(ガックリと) それじゃ女房は…沢子は、もう誰も助けてやれないのか…?」
佐良土「私の知っている米国の外科チームなら一縷の望みを託せる。四肢の麻痺が少し出るかもしれないが…うまくいけば、性格は頭を打つ前の状態に戻りますよ」
数田『(愕然とし) 手足が不自由になり…性格は元通りに…!?』
佐良土「ただし、特診料などで数千万はかかるでしょう。無論、するもしないもあなたの自由で、秘密は絶対に守りますよ。では…(と、踵を返す)」
○玄関先
歩み去る佐良土の後ろ姿を、数田、呆然と見送る。
○月夜・同日深夜
○数田の寝室
静かに寝入っている沢子。
○数田の書斎・同時刻
寝間着姿で、応接テーブル上でウイスキーをあおっている数田。
置時計は夜の2時すぎ。
数田『…大金を投じて沢子を治しても、元の性格に戻るだけ…支店長への昇格はなくなり…田舎の関連会社に出向させられ…残りの人生を悪妻と暮らす…』
数田、長椅子にひっくりかえる。
壁のケースの中の、元〜北宋の古磁器が目にとびこむ。
数田『(ぼんやりと自分の磁器コレクションを眺めながら) ああ…一千万円でも、北宋の古磁器が幾つ買えるか…?』
数田、むっくりと起き上がり、さらにウイスキーを注ぐ。
数田『もし…このまま家内が安らかに死んでくれれば、会長のあの出戻り娘と再婚して、栄達という目も…?』
○数田の回想・某美術館内
モデル体型の会長の娘(30)が、広い展示室内で偶然、数田をみとがめたところ。
会長の娘(30)「(嬉しそうに)…たしか先日、祖父のパーティで…。そう、西新宿支店にお努めの方が、偶然私と同じ趣味だったなんて…!」
そう言いながら会長の娘、巨大なダイヤの指輪が中指と人さし指だけにはめられた左手で、これ見よがしに口元を隠す。
しかし数田の目は、彼女の、太股も露わな長い足に釘付けである。
数田の回想、終り。
○元の数田の書斎
数田『あのモデルみたいな長い脚が、オ、オレのモノになるのか…?(と、一気にグラスを空にする)」
数田、長椅子から立ち上がって、本棚からのアルバムに手をかける。
数田、古色蒼然たるアルバムをパラパラとめくる。
沢子とのこれまでの写真が、次々に現れる。
数田『だが…あんなに内気だった沢子がオレにだけは大声をだすようになったのは…やはりオレしか甘えられる相手がいないから…』
数田、アルバムを長椅子の上に放り投げ、壁際の陳列ケースに歩み寄る。
数田「いや、いまは支店長昇進のことだけを考えるのだ!」
数田、小さな一脚付きの杯をそっと取り出す。
その脚の形はどことなく会長の娘の足を思い起こさせる形状。
○数田の回想・某美術館内
さきほどの回想の続きである。
会長の娘「えっ、汝官窯(*)の青磁竜文杯を?」
[※註:中国古磁器のコレクションでは、どの窯で焼かれたかが重要である。]
数田「ええ、しかもファイブフィンガー(*)ですよ。外国の蒐集家だって、幾つも持っていません」
[※註:中国磁器では、しばしば描かれた竜の爪の数が問題になる。]【なお、汝官窯産の古磁器は日本には3つしかなく、国外にも、ここで登場させるようなモノは実在していませんので、念のため。】
会長の娘「(ニコニコと) お羨ましい限りだわ…!」
数田の回想、終り。
○元の数田の書斎
数田、汝官窯の青磁竜文杯を机の上に運び、紙箱に収め、軽く紐で縛る。
数田『秘蔵の青磁だが…明日、会長経由で娘に手渡そう。今のオレにできる、これが
唯一の“裏口工作”だから…』
置き時計は、午前2時半。
○翌日9時・八州銀行の西新宿支店
支店正面全景。
街路の時計が9時を指している。
商店主風その他いろいろな客が出入りしている。
○同支店・支店長室
“支店長室”とかかれた表札。
ファイルを抱えた数田がドアをノックする。
声(支店長)「入りたまえ」
○同室内
支店長(48)が応接セットに座っている。
数田「(ドアを開けるなり) 支店長、『弘峰堂美術(株)』からの融資引き上げ手順、まとめてまいりました」
支店長「ご苦労。午後に来行される会長に、明るい報告ができるといいのだが…」
数田「大丈夫です。これが昨晩までにまとめました、債権の取り立て見通しです
(と、ワープロで打った資料を応接テーブル上にドサリと置く)」
支店長「(その資料に目を走らせながら) いや助かった、君に古美術の知識があって。この差押え物件の評価が正しければ、わが支店の成績は今期もダントツだぞ!」
数田「はっ、恐縮です」
支店長、数田の資料を喜々として読んでいる。
数田『(畏まりながら、顔をしかめて) 支店の債権回収成績を上げるため、何の落度もない美術商を一軒倒産させてしまうなんて…いくら仕事とはいえ、最低だ…』
支店長「(資料から顔をあげて) いや、完璧! これなら会長の顔もほころぶだろう。礼を言わせてもらうよ、数田君!」
その時、数田のポケベルが鳴る。
数田「すみません、支店長。自宅から何か急用のようです…(と、ポケベルを押えながら立上りかける)」
支店長「(ニコニコと) いいよ、午前の打ち合せはこれで済みだ。次長室で電話してきたまえ」
○数田の借家の玄関先
息子の一郎が電話を睨んで立っている。
ベルが鳴る。
一郎、受話器を取る。
○西新宿支店・次長室
“次長”と書かれた名札の置かれた机の脇で、数田が立ったまま電話をかけている。
数田「…一郎、ママがどうかしたのか? …なに、様子がおかしい…!?」
○数田の借家の玄関先
一郎「(声を落として)…言葉のろれつが回らなくなってきたんだよ。パパが何もしないなら、僕が救急車を呼ぶからね!」
○次長室
数田「…いや、私自身でとりあえず仁術会病院へ運ぶ!」
○数田の借家の玄関先
一郎「だいたい脚立から落ちたときに病院に行かなかったのもね…」
○次長室
電話の声(一郎)「…パパがあの朝文句を言ったんで、夕飯にはパパの好きな懐石料理の仕込みをしようとしたためなんだからね…!」
数田「(ショックを受け)…とにかく、そこで待っていろ!(と、電話を切る)」
数田、椅子に座り、引出しを開ける。
メモ用紙が出てくる。
メモ用紙には『××−×××× ○○ホテル △△号室 佐良土 錬』と走り書きされている。
そのメモ用紙を握り締め、別の手で壁にかかった行用車のキーを掴んだ数田、椅子から立ち上がってドアに向かう。
と、机上の紙箱が、裾に触れて床に落下する。
陶器の割れる音。
数田、振り向く。
箱から、午後に会長に手渡す筈であった高価な青磁が割れてはみ出している。
特に脚部はひどく粉砕してしまっている。
数田、構わずにドアを閉めて出ていく。
青磁の残骸のアップ。
○次長室前の廊下
急いで駐車場へ行こうとする数田の向こうから、ニコニコとした支店長が歩いてくる。
支店長「数田君、ご家族からの電話は何だった? 昼めしは一緒にてんぷらでも、どうだい?」
数田「支店長、都合により本日は早退させていただきます (と、通り過ぎる)」
支店長「(数田の背中に) オイ、寝言を言わんでくれよ。一時半に会長がお見えになるんだぞ!」
数田「(振り向かずに) 私はよろこんで鹿沼観光開発へ参ります」
支店長「…!?」
○時間経過・数田の借家の玄関
庭に見える植木鉢には雑草がすっかりはびこっている。
数田が一郎とともに沢子の手をひいて自家用車の後席に押し込もうとしている。
車はすでにアイドリングしている。
沢子「…まあ、どこへいらっしゃるんです? 私、こんな普段着で…それに明日は数田さんが新車で東京タワーに連れていって下さるのよ…(と、既に意識障害の兆候)」
数田「(自分に言い聞かせるように) なんにも心配するな! さあ乗りなさい (と、後席のドアを閉める)」
一郎「(小声で) 佐良土先生から電話があったよ。地元病院の検査が済んだら、すぐにアメリカの専門病院に転院できるって。それから“資料”は確かに受け取ったって…」
数田「(運転席のドアに手をかけ) そうか…。一郎、お前は自分で自分の将来は決められるな?」
一郎「こう見えても、もう400万も稼いでるんだぜ、自作ソフトで」
数田「フフフ…それじゃ将来はお前に養ってもらうかな…(と、運転席に収まる)」
スタートする数田の車。
○成田空港ロビー
大きなバッグを足元に置いた佐良土、携帯電話をかけている。
佐良土「…St. クッシング記念病院? すまんがドクター・パレかコルサコフを呼んでくれ。私はドクター・レン・サラド…」
○郊外の道
ゴミゴミした商店街を走り抜ける数田の車。
数田「(ハンドルを握った姿勢で、問わず語りに) …鹿沼市では安く一戸建てが買えるぞ。次長の退職金ではたかがしれてるが…お前が一日では見回れないほどの庭は必ずつけてやるからな!」
ルームミラーに映った沢子「(うわごとに) …今度は新宿の高層ビルを見てみたいわ…霞が関ビルよりも高いんですって…?」
数田「(独白) 好きな園芸さえできるようになれば、お前はもう悪妻になったりはしないんだ。きっと…!」
車の進路の先に、『狢町総合病院』の大看板のある建物が見えてくる。
(第三話・完)